ジャンクの阪神の車体です。 ファニックス時代のキットで昭和もの。 貫通路が開いてないとかあります。 片側の妻板が見つかったのが歪んでるので修正して開けます。 もう一枚は取り外して加工、さていつになるやら。 今月も終わり、寅年もあとわずか。
小学校2年生の時に買ったはんだごてです。 加熱しなかったのでテスターで確認したらヒーターが断線してました。 予備の鏝があったので「捨てないでおくものを入れてく箱。」にいれてました。 昭和時代からそのままでしたが修理します。 鏝先が消耗してたのでそのままになってましたが、ヒーターと小手先を探して修理します。
この半田ごては工具店や模型店でなくスーパーマーケットで購入しました。 「組合マーケット」と呼んでましたが灘神戸生活協同組合(当時)の甲子園口の店(現存せず)で買いました。 当時のスーパーマーケットは食品や日用品でなく工具や板や釘も置いてました。 昔は自分で棚を作ったり修理する人が多かったのです。 半田ごても電化製品の簡単な修理ができる人がいたのでしょう。
今は自分から何もせずに「わからない」と当たり前のように、開き直っていう人が多いのですが、自分でやってみる人が少なくなったのも時代の流れでしょう。 物を大切にすることはいいことと思いますが、維持できる能力も必要なのです。
55-10改正が国鉄初めての減量改正、14系の座席で運転された「阿蘇」「くにさき」「雲仙」「西海」が廃止され、ねん出された車両は北海道仕様に改造されたりジョイフルトレインに改造されました。 表題の「京阪神快速のグリーン車」は55-10改正に合わせて夏頃から廃止が始まりました。 甲子園に住んでた頃サロ111や112にはクーラーがついてませんでしたが阪神電車の特急・急行用(赤胴車)はほとんどの車両にクーラーがついてました。 後に冷房化されましたが、二学期がはじまって和歌山市からの列車(客車)で右手から阪和線をみれば阪和色の快速列車に湘南色のモハのユニットがつながれてました。 改正に合わせて車両が動いていたのでしょう。
新快速設定時は山陽新幹線開業時で余剰になった153系を活用しましたが、大鉄局は緩行線しか自由にダイヤを設定できなかったので早く走るべく4M2Tの編成を組みましたが、それに合わせて103系も導入しました。 新快速はグリーン車の連結を考えてなかったことからゆくゆくは快速列車もグリーン車の廃止を考えてたのかもしれません。
さてそのグリーン車の需要は役所そして防犯の需要があったようです。 かなり昔は2等車がほとんどの列車に連結されてました。 治安が整うとともに需要がへってきたようです。
古い国鉄時代を思い出した記事でした。 久しぶりにサロ111-900を走らせます。
隔週発行になり、木曜日発売分です。
星一つが客車三段寝台、二つが電車寝台、三つが客車二段寝台、四つが四人個室寝台、で区分されてました。 思うのが戦前から戦後がが一等寝台が個室またはプルマン、二等寝台が個室またはツーリスト(自分は国電ロネと呼んでます)と優等寝台が区分されてました。 設備面で細分化され不合理だったとも思います。
欧州では3人個室を1人ないし2人で使う場合は一等寝台、三人で使う場合は2等寝台の扱いでWLABmと表記され日本語ではロハネですが使用人数で区分されてました。
「ある事件」を機会に漫画には離れてましたが西願良平氏は好きでした。 電車の中吊りで見たので業平橋にいきました。 以前買った「鎌倉物語」でメルクリンが紹介されその解放システムが紹介されてたことと、藤沢や鎌倉のリサイクルショップでカツミの金属道床線路がいつも並んでたことが鎌倉が「鉄道模型が盛んな街」と親しみをもってたからです。 また急行「銀河」が大船に停車するのは西園寺公望の名残と聞いたことがあります。
いつもの顔です。
心に来ますね、
メルクリンの模型が展示されてました。 M式の線路はともかくパワーパックはもっと古いタイプ(金属製)を展示してほしかったのですが、説明は充分です。 一色先生は横浜の高島屋でお買物されたそうです。
三丁目の街です。 昭和40年代になっても関東も関西も同じ雰囲気の街でした。 木造の家、汲み取り式のトイレでした。 甲子園に長く住みましたが、戸建ての家はほとんどがそうでした。 そして排水を川に流すものですから、夏場の海の近くは臭かったですね。
間違いで一平に妹がやってきた話がありました。 両親は困ったものでしたが一平はまんざわでもなかったようです。 昔は街に子供がたくさんいました。
鈴木オートの主人は自動車の販売や整備を生業にしてましたが兵役で仕事を得たのでしょうか、祖父を思い出しました。 テーラー森の主人は婚約して出征し復員して婚約者を探し続けたのですが、悲しい結末でした。「もはや戦後ではない」とい終われますが、まだ戦争は終わってなかったのです。
「鎌倉物語」阿弥陀様と先生です。
鎌倉の主です、鬼も住んでいたと聞きました。 お酒が好きなんです。 見てたら帰りに綾瀬のなじみの店に行こうと思いましたが、用事があるので今回は我慢です。 結局1時間以上見てしまいました。
生きてるうちに実現できるかねと思いますが自宅から羽田まではそんなに不便ではないルートです。 「港」は空も海に近いとこが多いようで漁村の羽田、そしてフィミチーノ(ローマ)も漁村でした。 今朝から盛り上がってました。
悪い性分で気になったので手直し、高圧側を端子盤で接続します。 電源スイッチとヒューズからの配線を引き込みました。
さて通電を確認しても反応しない、テスターは買ったばかりなので異常なし。 ヒューズを確認したら切れてました。 古いパワーパックの再利用品なので10年以上の運転会で溶断して外してサーキットブレーカーに交換したのでそのままだったのでしょう。 原因は例の機関車で端バリが歪んでて線路に接触したのが原因です。 EF200ではありませんが「変電所キラー」と呼ばれてました。 確かその機関車もEF200と同じメーカーだったとか(本物)。 先輩も同じ形式の機関車をお持ちですが「その機関車を嫌うから持ってこれない。」と気を使ってくれてますがそんなことはありません。 急行「津軽」の機関車だしそのメーカーの機関車は自分も持ってます。 今は亡きメーカーですが趣のある商品をだしてました。
近所の苦情を気にしながら出勤前の工作です。 8時からの作業が常識ですが日の出とともに工作です。 1800×600mmのボードができました。
古い棚板(集成材)を補強してボードを作ります。 実はこのやり方は閉店しましたが近所にあったレンタルレイアウトで教えてもらいました。
身近に大型免許を持ってる人がいるのであまり言いたくないのですが、子供のころから「はたらくくるま」が好きで乗用車よりもトラックや消防車が好きでした。 廃業しましたが、アメリカンラフランスのトレーラーのはしご車が好きで、子供の頃そのミニカーが欲しかったのですがどこの製品か覚えもなく思い出すのがタワーリングインフェルノの1シーンのみになります。
トミックスからクム1000が発売されます。 モアのが欲しかったのですが、ちょっとお高くトラックだけ買ったのですが、これで遊ぶことができます。
95年ごろ八丁畷で撮影です。 新幹線に貨物列車を走らせるのならともかく車両限界の小さい在来線で走らせるのはどうかと思ってましたが短命でした。 火災事故を考慮し最後部に連結されてます。