私は刑罰の根拠として応報という考え方が納得できない。なぜ犯罪を犯したからといって、加害者に害悪や苦役を与えることが正当化されるのだろうか。刑法の古典学派の時代には絶対的応報刑論[用語1]という考えがあって、その考えで刑罰が正当化される理由は「犯罪は法の否定、刑罰は犯罪の否定。否定の否定だから刑罰は肯定。」といった論理で刑罰を正当化した。私はそんな「裏の裏は表」といった論理が刑罰を正当化する理由にはならないと思う。
むしろ、応報として害悪を与えるという考えは矛盾しているとすら思える。「犯罪は他人に害悪を与える行為なので否定する。」これは賛成できる。しかし、なぜ害悪を与える行為を否定しておきながら「犯罪者に害悪を与えることを肯定する」のか。この論理は矛盾ではないか。
罪を犯したものが何らかの責任をとらなくてはならないのは当然だが、その内容が害悪である理由は応報刑論だけでは説明できないと思う。
だから私は刑罰が正当化される根拠には刑罰を加えることで良い結果を生み出す積極的な理由がないといけないと思う。つまり、刑罰は無目的に加えるべきではなく、刑罰を加える積極的な価値がなくてはならない。積極的な価値とは例えば社会秩序や治安が保たれるとか犯人が更正して全うな人間になるといったことだ。
ただ、応報刑論[用語2]のよいところは罪の重さと刑罰の重さの均衡を説明するには適しているところだ。例えば、人を故意に死なせたのに罪の重さが罰金程度だったとしたら、ほとんどの人はおかしいと思うだろう。罪の重さと刑罰は均衡を保たねば正義が保てないと多くの人は考える。
もっとも、刑罰の本質を犯罪防止と考えるなら、重い罪を犯しても軽い刑罰で十分に抑止効果や犯人の矯正が実現できるならそれでよいとする考えも成り立ちうる。
よく考えると応報刑論も目的刑論[用語3]も犯罪と刑罰をすべて合理的に説明できるわけでなく事情に応じて刑罰根拠を判断していくしかない。
ただ、少なくとも私は絶対的応報刑論のように無目的で刑罰を与えることは反対である。
用語
[1]絶対的応報刑論:刑罰は純然と犯罪に対する報いとして与えられるというだけのもので、目的は一切ないという考え。そのため絶対的応報刑論では犯罪防止目的を考えない。
[2]応報刑論では犯罪は悪行為なので応報の内容は苦役であり、罪の重さと刑罰は均衡を保たなければならないとする。
[3]目的刑論:刑罰の根拠を犯罪の抑止効果や犯人の矯正といった目的とするという考え。