なんの脈絡もなく、昔書いたエッセイ。
言及されるのはこちら。
| ソングライン 価格:¥ 2,730(税込) 発売日:1994-07 |
なにしろ、ソングラインという概念の「美しさ」に魅せられて、チャトウィンみたいに謎解きの旅をしたくて、その真似ごとをしてみていた頃のお話。
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ソングラインのこと(2004年「本の話」に掲載)
オーストラリアのアボリジニが古くから歌いつないできた「ソングライン」について知ったのは、たぶんに漏れずチャトウィンの名著『ソングライン』のおかげで、かれこれ十年くらい前になる。
遠い過去、オーストラリア大陸をアボリジニ祖先たちが放浪した道筋を織り込んだ歌というだけで、すでに心惹かれるものがあるのだけれど、加えて、今もそれが砂漠の中の泉と泉をつなぐ実用的な地図としても機能しているという説明に愕然とした。歴史+地図、つまり、時間と空間をつなぐ不思議な歌。そんな美しいイメージが頭の中に定着して、いつか自分の耳で聞きたいと願った。
野生生物の写真を撮って紀行文を書く仕事を多くこなしていた時期だった。その関係で、オーストラリアには何度も行ったことがあり、つてをたどってあるアボリジニの共同体に居候する約束をとりつけた。興味の中心は、海辺に位置するその共同体で行われているジュゴン漁だったのだけれど、漁はしょっちゅう行われるわけでもないから、ぼくはありあまる時間を「ソングライン探索」に費やした。
ぼくの質問に誰もが口を濁す。ああ、そういうのがあるね。うん、そういうもんだ、と「歌」の存在については肯定するものの、じゃあ、歌ってよと言っても、ニヤリと笑って、立ち去ってしまう、といったふう。
窮状を救ってくれたのが齢八十歳のケイティばあさんで、ぼくは日なが部屋でうつらうつらしている彼女を訪ねては「昔の歌」をせがんだ。しわがれた声で部族語で歌い、その後で英語に訳してくれるのは、やはり、祖先がどうやってここにやってきたのかを盛り込んだ、ソングラインの歌だった。くらくらするほど暑い午後の風通しの悪い部屋の中で、ぼくはたしかにアボリジニの歌の精髄に触れた(気がした)。
でも、まだまだだ。ケイティばあさんの記憶の中のソングラインではなく、「今ここ」のソングラインを知りたい。聴きたい。
チャンスが訪れたのは、それから数年後。オーストラリア最大の砂漠であるグレートサンディ砂漠の入り口までランドクルーザーで繰り出した。近くの町で知り合った、アボリジニの家族と一緒だ。祖先の地である砂漠に行きたかった彼らと、アボリジニと一緒に砂漠に行きたかったぼくの利害関係が完全に一致したということ。
砂漠とはいっても地面が完全に砂地というわけではなく、スピニフェクス呼ばれる「イタタ草」(葉の先端が尖っていて触ると痛い)や数々の灌木に覆われている。
アボリジニの家族は、食用になる植物をあちこちから採取してきて、おまけに灌木の皮を剥いで中から白いムチムチの幼虫をひっぱりだしてはパクパク食べていた。彼らにとって祖先に直接つながる「ブッシュ・フード」であって、今となっては極上の珍味と感じられるらしい。ぼくも幼虫は無理にしても、ブッシュバナナあたりは結構イケルのを発見して、ひたすら食べた。
問題はソングライン。
小高い丘に立てば、ぼくの目には見えないにしても、あちこちに泉と泉を結ぶ歌のネットワークが張り巡らせているはずだ。それを「その場」において聞きたい。ソングラインの歌が土地と結びつき、時間をも超える秘密を、まさに「今ここ」で実感したいとぼくは願った。
例によって、曖昧な微笑みが帰ってくる。
ひょっとして、この人たち、もうソングラインを忘れちゃった世代のかもと思うと、ふと口の中でむにょむにょと口ずさんだりして、実に思わせぶりだ。
そして、「ソングラインは、ソングラインだ」みたいな堂々巡りの発言をして煙に巻く。
「この大陸はぜんぶソングラインに覆われてます。それは神秘です。大陸すべてが歌なのですよ」と言ったのは、白人のコーディネーター。「いいですか、耳を澄ませば歌が聞こえてきます。それがソングラインです。ソングラインによって、アボリジニは大地と、そして精霊たちとつながるのです。それがアボリジニの精神世界【スピリチュアル・ワールド】なのです」
彼は複数のアボリジニ妻との間に十人以上の子供を設けた、アボリジニ文化にどっふりな男だから、基本的には彼の発言に重きを置いていたのだけれど、それにしてもこの能天気な言いぐさはないと思った。
その夜は、砂丘の上にマットを敷いて、空を見上げて眠った。滴り落ちてきそうな銀河を感じながら聴く風の音は、砂漠の砂が擦れ合って立てる音楽のようでもあって、眠たい頭の中で幾重にもつながる砂丘の彼方へと導くソングラインの歌に変換れさた。ああ、なるほどと、コーディネーターの言葉に一応は納得。風の音は、耳を凝らせばソングラインそのものなのだ。
でも、それだけのこと。
ぼくには神秘家の素養はないので、別にそれでミステリアスなアボリジニの精神世界に届いたなんて全然思わないし、大地の精霊につながったとも思わない。朝の光の中では、むしろ、そう感じかけた自分が気恥ずかしくもあった。結局、ソングラインをめぐる旅は、チャトウィンに遠く及ばず(当たり前?)、ぼくの頭の中では、核心の部分がすっきり理解できないままだ。その概念の美しさに相変わらず魅了されていることも相変わらずで、時間と空間を吹き抜ける風というのは確かにあるのだ、ということだけは確信を持って言える。
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追記@2008
これはたぶん、「はじまりのうたを探す旅」を書いた時に版元のPR誌に書いたものだったか。
よく覚えていない。
ちなみに、この時、ぼくを砂漠につれていってくれた男は、ジョンといって「郵便屋」(ポスティ)だった。
ケイティばあさんは、アウトステーション(人里離れたところにあるアボリジニの集落)から都市に引き上げてきており、まだ健在だった。
さすがに今は……だけれど。
なぜか胸が苦しいほど、懐かしい。
そういえば、この小説の中でこっそり「引用」したBeckも終わったなあ。
最後の何回かは、予定調和のアマアマなかんじになったけれど、それでオーケイってかんじでした。
そして、音楽漫画の正統は、DMCへ……かな(笑)。