ブルータスの反・禁煙特集での養老インタビューについて、さらにコメント。
養老氏は、「喫煙は文化で、趣味嗜好の世界であるから、禁止するのはおかしい」というような議論を展開する。
もしも、養老氏が、疫学の証拠能力を理解して、喫煙のリスクを受け入れたら、ひょっとすると、議論は変わってくるかもしれない。また、彼がなぜか、喫煙の依存性についてはいっさい考慮せず、「趣味嗜好」としてのみ語ろうとしていることも気になる。
けれど、ここでは、あえて養老氏が採用しているこれらの前提条件を受け入れたうえで、彼の議論について考えてみる。
養老発言を引用した上で、コメント。
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「当たり前のことですが、適当で、アバウトなものを含んだ世界こそが豊かな世界なんです。生き物だっていろいろいる状態がいちばんいいんで、それを生物多様性という。健康幻想は危ない。なぜなら不健康なやつはぶっつぶせという話にどうしてせなるから。アメリが世界中でやっていることです」
生物多様性に対するものは、文化多様性、あるいは、ひとつの社会の中で行動の多様性が認められていること、というようなことだろうか。多様性を許容する懐の深い社会の方が、より豊かであるというのは理解できる。このこと自体は、合意。
健康幻想というのも、たしかに、しばしば首を傾げるようなものに出会う。
ただ、ついこの前までの、「男は吸って当たり前」「大人なら吸うだろ」みたいな世の中は逆に多様性がなかったのではないか。もしも、今これから、喫煙者と非喫煙者との間の利害を整理して、共存できるようになった時にはじめて、多様性を許容する懐の深い社会と言えるのではないか。
~~~~~~~~~~~~
「たしかにタバコを吸う人のマナーにも責める点はある。タバコは、根本は嗜好品ですから文化です。でも、あまりに普及したために、問題も出てきた。文化は自動販売機で売るべきものではないはずです」
文化は自動販売機で売るべきものではないって……なぜなのだろうか。
養老氏の中で、文化的なもの非文化的なものの線引きが、かなり恣意的なものであるように思える。「自動販売機で売る文化」というのも、間違いなくあるはずなのだ。
「あまりに普及したために問題も出てきた」というのはたしかにそうで、キセルや葉巻で吸っていた昔、たとえば歩きタバコなどしようにもできなかった。紙巻きタバコの普及は「いつでもどこでも、のべつまくなし」に喫煙するスタイルを作り出した。
~~~~~~~~~~~~
「組織的な禁煙運動のようなものは、大人の社会にあるべきものではないと思う。子供じゃないんだから。自分で何をするかぐらいの自由は、出来る限り許されているのがまともな社会ですよ」
そうあってほしいものだと思う。つくづく。
自分で何をするかぐらいは、本当に許される社会であってほしい。
でも、どうやら、われわれの社会って、こと喫煙に関しては、養老氏が言う「大人の社会」ではなくむしろ「子供の社会」のようだ。
自分で何をするかくらい許されるためには、自分で何をするか判断し、責任を持って行動できることが要求されると思うのだが、喫煙に関してはそれができない人が多いのではないか。
歩きタバコは多くの人にとって不快だし、危険なものだが、まったく気にせずに常習し続けている人がどれだけ多いか。
不特定多数の人間が集う場所では、喫煙を控えるくらいの心遣いを喫煙者がみせてくれれば、たしかに「自分で判断し、責任を持って行動している」と思えるのだが、たとえば禁煙ではないレストランや喫茶店が、喫煙者の一方的な配慮によって無煙になることはありえるのだろうか。
ちなみに、受動喫煙の有害性が分かっていないのだとしても、たばこの煙は非喫煙者には不愉快なことが多い。単純に刺激臭であるし、目や喉がいたくなったり、頭が痛くなったり、直接的な身体反応を伴うこともある。ぜんそくの人などにとってはさらに深刻だ。
理想的には、そういうことを理解した喫煙者が、文化的・友好的・自主的に、分煙してくれることなのだが、それがうまくいったためしをぼくは実体験として、経験したことがない。また、耳にしたこともない。
やはり、「子供」なんじゃないか。我々の社会は。
~~~~~~~~~~~~
「そもそも、タバコは趣味嗜好の問題であって、肩に力を入れて議論するようなものではないんです。万事適当がいいんですよ。ましめになって酒の害がどう、タバコの害がどうなんて言う必要がない。その常識がなかったら話になりません。歩きタバコはいけない、程度でいいんですよ」
歩きタバコはいけない、程度……。
これってどういう意味??
いけないからやめようよ、と養老氏はふだんから喫煙者同士で声をかけてくださっているということなのだろうか。なんかよくわからない。常識がなかったら話にならない、というけれど、ことシガレットにかんしては、その常識が喫煙者によってもバラバラだし、また、喫煙者と非喫煙者では、さらに大きく食い違っているのではないか。これは、かつてのシガーやキセルのように、文化に昇華するまもなく普及してしまったからかもしれないと感じているのだが、それはそれ……。
養老氏が言うように、喫煙者がみんな「常識」を共有して、肩に力を入れず、「歩きタバコはいかんよ」「タバコの煙が苦手な人がいるから、配慮しようね」と、喫煙者同士が声を掛け合ったとする。
それで、実際にそうなれば万々歳だ。平和だし、文化的だ。
でも、今はそうなっていないわけだし、将来もそうならなかったら、どうすればいいのだろうか。
切実に「苦手」な人は、泣き寝入りするしかないんだろうか。
それって、新幹線に禁煙車両がなかった頃、裁判を起こした人たちが、「長時間、タバコをすえない喫煙者がかわいそう」だから、禁煙車は一両たりともつくれないと主張した(全面禁煙するのではなく、一両ですら)旧国鉄の発言が当たり前だった社会と変わらない気がする。
決して豊かな社会でも、文化的な社会でもないと感じる。
☆ ☆ ☆
以上、喫煙・間接喫煙が肺ガンを引き起こすなどの疫学研究の成果がいっさいないと仮定し、さらに、依存性の問題も無視した上で(養老氏の議論の前提を受け入れた上で)、それでも残る「おかしなところ」や引っかかったところをコメントした。
読んでくださった方、どう思われますか?
なお、前のエントリはこちら。
リンク: リヴァイアさん、日々のわざ: 養老先生……それはちょっと…….
養老氏は、「喫煙は文化で、趣味嗜好の世界であるから、禁止するのはおかしい」というような議論を展開する。
もしも、養老氏が、疫学の証拠能力を理解して、喫煙のリスクを受け入れたら、ひょっとすると、議論は変わってくるかもしれない。また、彼がなぜか、喫煙の依存性についてはいっさい考慮せず、「趣味嗜好」としてのみ語ろうとしていることも気になる。
けれど、ここでは、あえて養老氏が採用しているこれらの前提条件を受け入れたうえで、彼の議論について考えてみる。
養老発言を引用した上で、コメント。
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「当たり前のことですが、適当で、アバウトなものを含んだ世界こそが豊かな世界なんです。生き物だっていろいろいる状態がいちばんいいんで、それを生物多様性という。健康幻想は危ない。なぜなら不健康なやつはぶっつぶせという話にどうしてせなるから。アメリが世界中でやっていることです」
生物多様性に対するものは、文化多様性、あるいは、ひとつの社会の中で行動の多様性が認められていること、というようなことだろうか。多様性を許容する懐の深い社会の方が、より豊かであるというのは理解できる。このこと自体は、合意。
健康幻想というのも、たしかに、しばしば首を傾げるようなものに出会う。
ただ、ついこの前までの、「男は吸って当たり前」「大人なら吸うだろ」みたいな世の中は逆に多様性がなかったのではないか。もしも、今これから、喫煙者と非喫煙者との間の利害を整理して、共存できるようになった時にはじめて、多様性を許容する懐の深い社会と言えるのではないか。
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「たしかにタバコを吸う人のマナーにも責める点はある。タバコは、根本は嗜好品ですから文化です。でも、あまりに普及したために、問題も出てきた。文化は自動販売機で売るべきものではないはずです」
文化は自動販売機で売るべきものではないって……なぜなのだろうか。
養老氏の中で、文化的なもの非文化的なものの線引きが、かなり恣意的なものであるように思える。「自動販売機で売る文化」というのも、間違いなくあるはずなのだ。
「あまりに普及したために問題も出てきた」というのはたしかにそうで、キセルや葉巻で吸っていた昔、たとえば歩きタバコなどしようにもできなかった。紙巻きタバコの普及は「いつでもどこでも、のべつまくなし」に喫煙するスタイルを作り出した。
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「組織的な禁煙運動のようなものは、大人の社会にあるべきものではないと思う。子供じゃないんだから。自分で何をするかぐらいの自由は、出来る限り許されているのがまともな社会ですよ」
そうあってほしいものだと思う。つくづく。
自分で何をするかぐらいは、本当に許される社会であってほしい。
でも、どうやら、われわれの社会って、こと喫煙に関しては、養老氏が言う「大人の社会」ではなくむしろ「子供の社会」のようだ。
自分で何をするかくらい許されるためには、自分で何をするか判断し、責任を持って行動できることが要求されると思うのだが、喫煙に関してはそれができない人が多いのではないか。
歩きタバコは多くの人にとって不快だし、危険なものだが、まったく気にせずに常習し続けている人がどれだけ多いか。
不特定多数の人間が集う場所では、喫煙を控えるくらいの心遣いを喫煙者がみせてくれれば、たしかに「自分で判断し、責任を持って行動している」と思えるのだが、たとえば禁煙ではないレストランや喫茶店が、喫煙者の一方的な配慮によって無煙になることはありえるのだろうか。
ちなみに、受動喫煙の有害性が分かっていないのだとしても、たばこの煙は非喫煙者には不愉快なことが多い。単純に刺激臭であるし、目や喉がいたくなったり、頭が痛くなったり、直接的な身体反応を伴うこともある。ぜんそくの人などにとってはさらに深刻だ。
理想的には、そういうことを理解した喫煙者が、文化的・友好的・自主的に、分煙してくれることなのだが、それがうまくいったためしをぼくは実体験として、経験したことがない。また、耳にしたこともない。
やはり、「子供」なんじゃないか。我々の社会は。
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「そもそも、タバコは趣味嗜好の問題であって、肩に力を入れて議論するようなものではないんです。万事適当がいいんですよ。ましめになって酒の害がどう、タバコの害がどうなんて言う必要がない。その常識がなかったら話になりません。歩きタバコはいけない、程度でいいんですよ」
歩きタバコはいけない、程度……。
これってどういう意味??
いけないからやめようよ、と養老氏はふだんから喫煙者同士で声をかけてくださっているということなのだろうか。なんかよくわからない。常識がなかったら話にならない、というけれど、ことシガレットにかんしては、その常識が喫煙者によってもバラバラだし、また、喫煙者と非喫煙者では、さらに大きく食い違っているのではないか。これは、かつてのシガーやキセルのように、文化に昇華するまもなく普及してしまったからかもしれないと感じているのだが、それはそれ……。
養老氏が言うように、喫煙者がみんな「常識」を共有して、肩に力を入れず、「歩きタバコはいかんよ」「タバコの煙が苦手な人がいるから、配慮しようね」と、喫煙者同士が声を掛け合ったとする。
それで、実際にそうなれば万々歳だ。平和だし、文化的だ。
でも、今はそうなっていないわけだし、将来もそうならなかったら、どうすればいいのだろうか。
切実に「苦手」な人は、泣き寝入りするしかないんだろうか。
それって、新幹線に禁煙車両がなかった頃、裁判を起こした人たちが、「長時間、タバコをすえない喫煙者がかわいそう」だから、禁煙車は一両たりともつくれないと主張した(全面禁煙するのではなく、一両ですら)旧国鉄の発言が当たり前だった社会と変わらない気がする。
決して豊かな社会でも、文化的な社会でもないと感じる。
☆ ☆ ☆
以上、喫煙・間接喫煙が肺ガンを引き起こすなどの疫学研究の成果がいっさいないと仮定し、さらに、依存性の問題も無視した上で(養老氏の議論の前提を受け入れた上で)、それでも残る「おかしなところ」や引っかかったところをコメントした。
読んでくださった方、どう思われますか?
なお、前のエントリはこちら。
リンク: リヴァイアさん、日々のわざ: 養老先生……それはちょっと…….
とのこと。
しのぶんはその記事について、「マスター・ヨーローもただのタバコ臭いおとっつあんだった、東大名誉教授だけど、『形を読む』も『バカの壁』も真のフォースじゃなかったのね」と流します。
ちょうどこないだ「バカの壁」読んで、「この本なんで売れたんだっけ?」っていってたとこだし。
以前、力こぶをいれてそういう文章を書いたことがあるけれど、PDFにしてダウンロードできようにしてみようかなあ。