ざて、一昨日の「駅で若者をキレさせてしまった」エントリ、びっくりするくらい反応があった。
たぶんきのう一日で1万ヒットくらいいったんじゃないかな。
で、コメント欄もそこそこついたし、はてなブックマークやら、トラックバックを通じて、こういった話題について他の人たちがどんな印象、感想、感慨などなどを抱くのか、そのスペクトルがどんなあたりにどう散らばっているのかなんとなく見えた気がする。。
こちらとしても、へえっ、ほうっ、ぐさっ、などと感じつつ興味深く読んだので、以下、概観とコメント。
支持、あるいは同情の声は、わりと多し。もっとも、コメントをするとところまでいくのにそういうバイアスがかかると思われるので、割り引いて考えた方がいいかも。
馬鹿なやつ、危険だからやめとけ、という類のコメントもちらほら。すみません。その通りだと思います。特に、直接的に心配かけてしまった人々。
正義ぶっていてイヤだ、という系統のコメント。これも仕方ない、これは近年、正義対悪の枠組みになってしまっている喫煙言説の中に、ぼくの言動がすっぽり回収されてしまった格好。個人的には、むしろ、その枠組みを問題にしたいにしても、こういう「読み」は避けがたい。「ニコチアナ」ですら、正義と悪の二元論の物語として読まれる余地があることを知っているので、これは予想の範囲内。いわゆる、想定内ってやつ。
これよりは、一歩文意を理解してもらって、本当は喫煙をやめてほしい一心なのに、妙に喫煙者に理解のある態度をとっている部分にある種の不自然と偽善を感じるというふうな意見。これはとても鋭くて、ぼくがその場での喫煙をやめてほしいという強い気持が何よりも大きいのは事実。にもかかわらず、相手を悪者にしたくないというのは、それと同じくらい大事なことだと感じているので、常にそのあたりの葛藤はぼくの中にある。その葛藤を維持できなきゃおしまいよ、みたいなところがあって、譲れない。これは、ユーザ登録しないとコメントできない方のブログだったな。たしか。
それ以前の問題で、とにかくこういうのは偽善と感じた人も多い模様。
それにしても、なんで人はこんなに偽善が嫌いなんだろう。絶対的な善の方が、ぼくはもっと怖い。それに絶対的な悪は、もしあるとしたらすっごく怖い。だから、偽善やら偽悪やらの間でぼく(ら)は生きている。偽善ととられるのは、むしろ喜ばねばならないかもしれない。
もちろん、このロジックでは偽悪的に取られるもの悪くないのだけれど、ぼくは偽悪者よりも、偽善者と思われる方が、まだ誇りを保てる。
あ、そうだ、ぼくのエントリで偽善について考えた方、「ニコチアナ」なんて読んでみてください。たぶん、潜在的によい読書かもしれません。
ここで偽善と感じられたものが、どのような思考から生まれてきたのか分かって頂けるかも。ここ宣伝。「ニコチアナ」は、わりと図書館にはありますよ。
あるいはノンフィクションの「クジラを捕って、考えた」も。たぶん、はてぶなんかにコメントしている人ってぼくよりもずっと若い人が多いと思うのだけれど、同じ年頃にぼくが何をやっていたか書いてあります。その頃から葛藤を殺さずに、飼うことを心がけて参りました。こちらは文庫になっている。
あと、「話しかけるスキル」と書いたことに、ある種の傲慢を感じたというふうなコメントもあったっけ。「マナーをお願いするスキルなど、存在しない」という意見については、ぼくは明確に異論を持っている。人の行動に口をしたり、出されたりする局面は社会生活の中ではたくさんあって、それを円滑にする技術やら、工夫やらは確実にあるから。とはいえ、今回の件で、わかったのは、わりと自信を持っていたはずの「喫煙者に話しかける」が、やっぱり、うまくいかんことがあるんだなあ、ということ。
ちなみに敷衍しておくと、自信というのは、それなりに根拠があって、ぼくが話しかけたことから、ちゃんと喫煙をその場でやめて、「いやー、やめらんなくてさー」とか、「最近の嫌煙の人たちって……」「それにしても、たばこ税ってやつは……」みたいな会話に至るって、わりと普通にある。でも、そういうふうに「成功」するのが十回に一回くらいだったとして(残りもたいてい喫煙はやめてもらえる)、百回に一回くらい小突かれるとしたら、ことこの件については、分が悪すぎるというのも事実。そういう意味では、おっしゃる通り!ではあるのかも。
それにしても、多くの人が表明していた「こわくて言えない」って、どうなんだろう。
そんなに「言えない」ばかりで、閉塞感がないだろうか。ここでは(駅では)、こわいから言わないにしても、会社や家庭やPTAでは(笑)、ちゃんと言えているんだろうか。
ぼくが対話の可能性を信じているのは、たぶんもって生来の性格に加えて、対話した方がよい結果をもたらすという、大小の成功体験があって、それが信念のレベルまでに達しているからだ。
話しかけること、悪いことじゃないよ。「変な人」だと思われるリスクや、こと喫煙にかんしては今回みたいな「小突かれ」リスクまで、常にあるにしても、果実は大きい。喫煙がらみのことでは、ぼくは「よう勧めんわ」という見解になってしまったけれど、一般論として「話すこと」はブレイクスルーになる。
その上で……こんなんで死ぬな、という批判(?)、ごもっともです。
ぼくもこういうので死んだりするつもりは毛頭ありません。
文中にそのようなことを書いたのは、このサガを発展させると、そういう局面に直面しかねない、ということです。
自己満足?
はい、その通りです。
でも、それ、人生の最後の瞬間に自己満足できるなんて、最高かもしれないけど。
しかしながら、家人に叱られるので、ぜったいにそんな死に方しません。しませんとも!
さらに、かつて、声を掛けてキレられて、言い方が悪かったんじゃないか、言わなかった方がいいんじゃないか、と悩んだ方からのエールもいただく。
あ、なんか、自分だけじゃなかった、とこれはただ純粋にほっとする。
にもかかわらず、このエントリなどを読んだ「眼鏡君」が連絡をくれるつゆほどの可能性を、実は熱望している自分もいたりします。
最後の最後に。
なぜ、こんな話題が、一日に一万ヒット近く集めるんだろう。
ぼくも含めて、この件にコメントしたり、エントリを書いた人たちの気持ちを泡立てたのものはなに? なんかその部分の「なぜ?」の方が面白いって、気がしてきた。
単に喫煙対嫌煙、という枠組みのお話しだったら、こうなったかな(いや、もっとすごいことになったかも)。
どっちでしょうね。
たぶんきのう一日で1万ヒットくらいいったんじゃないかな。
で、コメント欄もそこそこついたし、はてなブックマークやら、トラックバックを通じて、こういった話題について他の人たちがどんな印象、感想、感慨などなどを抱くのか、そのスペクトルがどんなあたりにどう散らばっているのかなんとなく見えた気がする。。
こちらとしても、へえっ、ほうっ、ぐさっ、などと感じつつ興味深く読んだので、以下、概観とコメント。
支持、あるいは同情の声は、わりと多し。もっとも、コメントをするとところまでいくのにそういうバイアスがかかると思われるので、割り引いて考えた方がいいかも。
馬鹿なやつ、危険だからやめとけ、という類のコメントもちらほら。すみません。その通りだと思います。特に、直接的に心配かけてしまった人々。
正義ぶっていてイヤだ、という系統のコメント。これも仕方ない、これは近年、正義対悪の枠組みになってしまっている喫煙言説の中に、ぼくの言動がすっぽり回収されてしまった格好。個人的には、むしろ、その枠組みを問題にしたいにしても、こういう「読み」は避けがたい。「ニコチアナ」ですら、正義と悪の二元論の物語として読まれる余地があることを知っているので、これは予想の範囲内。いわゆる、想定内ってやつ。
これよりは、一歩文意を理解してもらって、本当は喫煙をやめてほしい一心なのに、妙に喫煙者に理解のある態度をとっている部分にある種の不自然と偽善を感じるというふうな意見。これはとても鋭くて、ぼくがその場での喫煙をやめてほしいという強い気持が何よりも大きいのは事実。にもかかわらず、相手を悪者にしたくないというのは、それと同じくらい大事なことだと感じているので、常にそのあたりの葛藤はぼくの中にある。その葛藤を維持できなきゃおしまいよ、みたいなところがあって、譲れない。これは、ユーザ登録しないとコメントできない方のブログだったな。たしか。
それ以前の問題で、とにかくこういうのは偽善と感じた人も多い模様。
それにしても、なんで人はこんなに偽善が嫌いなんだろう。絶対的な善の方が、ぼくはもっと怖い。それに絶対的な悪は、もしあるとしたらすっごく怖い。だから、偽善やら偽悪やらの間でぼく(ら)は生きている。偽善ととられるのは、むしろ喜ばねばならないかもしれない。
もちろん、このロジックでは偽悪的に取られるもの悪くないのだけれど、ぼくは偽悪者よりも、偽善者と思われる方が、まだ誇りを保てる。
あ、そうだ、ぼくのエントリで偽善について考えた方、「ニコチアナ」なんて読んでみてください。たぶん、潜在的によい読書かもしれません。
ここで偽善と感じられたものが、どのような思考から生まれてきたのか分かって頂けるかも。ここ宣伝。「ニコチアナ」は、わりと図書館にはありますよ。
あるいはノンフィクションの「クジラを捕って、考えた」も。たぶん、はてぶなんかにコメントしている人ってぼくよりもずっと若い人が多いと思うのだけれど、同じ年頃にぼくが何をやっていたか書いてあります。その頃から葛藤を殺さずに、飼うことを心がけて参りました。こちらは文庫になっている。
あと、「話しかけるスキル」と書いたことに、ある種の傲慢を感じたというふうなコメントもあったっけ。「マナーをお願いするスキルなど、存在しない」という意見については、ぼくは明確に異論を持っている。人の行動に口をしたり、出されたりする局面は社会生活の中ではたくさんあって、それを円滑にする技術やら、工夫やらは確実にあるから。とはいえ、今回の件で、わかったのは、わりと自信を持っていたはずの「喫煙者に話しかける」が、やっぱり、うまくいかんことがあるんだなあ、ということ。
ちなみに敷衍しておくと、自信というのは、それなりに根拠があって、ぼくが話しかけたことから、ちゃんと喫煙をその場でやめて、「いやー、やめらんなくてさー」とか、「最近の嫌煙の人たちって……」「それにしても、たばこ税ってやつは……」みたいな会話に至るって、わりと普通にある。でも、そういうふうに「成功」するのが十回に一回くらいだったとして(残りもたいてい喫煙はやめてもらえる)、百回に一回くらい小突かれるとしたら、ことこの件については、分が悪すぎるというのも事実。そういう意味では、おっしゃる通り!ではあるのかも。
それにしても、多くの人が表明していた「こわくて言えない」って、どうなんだろう。
そんなに「言えない」ばかりで、閉塞感がないだろうか。ここでは(駅では)、こわいから言わないにしても、会社や家庭やPTAでは(笑)、ちゃんと言えているんだろうか。
ぼくが対話の可能性を信じているのは、たぶんもって生来の性格に加えて、対話した方がよい結果をもたらすという、大小の成功体験があって、それが信念のレベルまでに達しているからだ。
話しかけること、悪いことじゃないよ。「変な人」だと思われるリスクや、こと喫煙にかんしては今回みたいな「小突かれ」リスクまで、常にあるにしても、果実は大きい。喫煙がらみのことでは、ぼくは「よう勧めんわ」という見解になってしまったけれど、一般論として「話すこと」はブレイクスルーになる。
その上で……こんなんで死ぬな、という批判(?)、ごもっともです。
ぼくもこういうので死んだりするつもりは毛頭ありません。
文中にそのようなことを書いたのは、このサガを発展させると、そういう局面に直面しかねない、ということです。
自己満足?
はい、その通りです。
でも、それ、人生の最後の瞬間に自己満足できるなんて、最高かもしれないけど。
しかしながら、家人に叱られるので、ぜったいにそんな死に方しません。しませんとも!
さらに、かつて、声を掛けてキレられて、言い方が悪かったんじゃないか、言わなかった方がいいんじゃないか、と悩んだ方からのエールもいただく。
あ、なんか、自分だけじゃなかった、とこれはただ純粋にほっとする。
にもかかわらず、このエントリなどを読んだ「眼鏡君」が連絡をくれるつゆほどの可能性を、実は熱望している自分もいたりします。
最後の最後に。
なぜ、こんな話題が、一日に一万ヒット近く集めるんだろう。
ぼくも含めて、この件にコメントしたり、エントリを書いた人たちの気持ちを泡立てたのものはなに? なんかその部分の「なぜ?」の方が面白いって、気がしてきた。
単に喫煙対嫌煙、という枠組みのお話しだったら、こうなったかな(いや、もっとすごいことになったかも)。
どっちでしょうね。
ちょいと考えてみました。
話題はいまの日本を象徴するものといえるもの、というのも確かですけど、カワバタさんの話題って割と専門的なものとか多いじゃないですか(たぶん)。
そういう話題って、読もうとおもえば読めなくもないですけど、知らない専門用語とかでてくると、だめですね。まぶたが重くなります。
少なくも僕はそんなにコンピューターとか最新機器にあまり詳しくないもので(笑)
でもこの話題に関しては、万人が認知していることであり、気にかけていることであると解釈してみれば、結構スッキリおさまる感じがします。つまり、そんな専門的な言葉もなく、かつ話題が庶民的、誰でも起こりうる事件だった、と考えてみました。
そしてこれは、個人的な感想に近いですけど、カワバタさんの発言が自分の心の中で渦巻いているモヤーっとした感じをうまく掴んで、文章にしてくれているというのも大きいです。 それって結構うれしかったりします。自分も含めて、自分の気持ちをうまく伝えられない、という人って結構いると思いますし。そういうストレスを発散できなかったりしたときに、そのときの心情をうまくカバーしてくれる本に出会ったときの感覚、読んでいるときの身体って、ふわーっとした心地良い快感を味わえるんですよね。それに割と近いものがありました。
では、なぜそういう日本人が増えてるのかっていうことになると、また話がややこしくなってくるので、もういいです。
で、おわかりかと思いますが、ぼくももやーっとしているのは同じなんですよ。
自分がなぜこの「系」にとらわれているのか、なんかよく分からない部分がある。
分かってても言語化できないところも。
それだけもやーとみんなが感じていることが周りに多いのではないでしょうか
そして、そんなトラブルがわが身に降りかかったとき
どれだけ周りに助けて貰えないかも
みなそれぞれに感じているからこその反響のような気がします
私は合気道で黒帯など頂いていますが
それでも怖くて一人では注意できません
でも、もし偶然にも川端さんのように「行動する人」を見かけたら
そしてその人に危険が及んだら
その人を助ける為に自分の出来ることをします
このままみんなで諦めてしまってはいけないような
ここが踏ん張り所のような気がしてならないので・・・・
みゅうさん、踏ん張りどころもなにも……、そんな世の中ひどくないですって。
というぼくは楽観的。
けれど、ぼくのことをとんでもないペシミストだと思う人もいて面白いのですが。
件数自体はさほど増加していない、とあったのを
という事は、私が感じていた危機感は
結構バイアスかかってたなぁ…と(>_<)
まだまだ、話せばわかります、よね?
今はやりの故白洲次郎さんは、正しいと思ったことを何のてらいもなく言える点が、特徴と言われています。この点が他の人がまねできないと・・・。川端さんの行動を見ていて、良いと思うこと正しいと思うことをすっとできるということでは近いのではないかと思います。
今思うのは、偽善という批判は、論理的な批判ができないけど何か言いたい時の、代替ではないかと思うのです。一方、「偽善」と言われるのがイヤなので行動を控える傾向のある私などは、「偽善」という一般的にあまり芳しくない表現をされるのがイヤなだけの単なる自己愛にとらわれ行動をしない理由付けを自分に対して行っているにすぎないのでは、という風に最近は考えるようになってきました。
たしかに、ぼくも偽善と言われるのはイヤで、とはいえ、偽善じゃないことなんて、ないような気もしておりまして、結局、いかに偽善を引き受けるかというのは、各人の大いなるテーマなんじゃないかと思うようになってきています。
zusammenさんは、充分、それを引き受けてらっしゃるのでは?だって、あんなこともこんなこともして、そういう本まで出しちゃってますから。
ちょっと、偽善、研究してみようかしらん。
そのうち発表するかもしれません。
楽観→悲観の方が容易いような気がするので
だったら行ける所まで楽観的(=前向き)に行った方が良いですもんね(^-^)