黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

久々の上京で知ったこと

2011-10-27 05:33:27 | 仕事
 昨日(26日)、ほぼ1ヶ月ぶりぐらいの上京(いかに現在の僕が「田舎者」であるかを告白するようなものだが)で、改めていくつかのことを考えさせられた。上京の目的は、僕の新しい本を出してくれる出版社(論創社)と『ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ―「核」を考える』の版元(勉誠出版)、それと『「1Q84」批判と現代作家論』を出してくれたアーツアンドクラフツの各担当者に会い、次回出版する本のことや現在の進行状況を確認するためであった。そして、それらが終わったあとに、何度も会う約束をしながらお互いのスケジュールが会わずに会えなかった昔河合塾でお世話になった人に会い、夕食を共にした。
 さて、久々の上京で知ったこと(気になったこと)の一つは、当たり前と言えば当たり前のことだが、喫茶店でコーヒーを飲んでいる人、あるいは夕食を取るために入った蕎麦屋で酒を飲み蕎麦をすする人、みな「放射能なんて関係ないよ』というような顔をしていたが、ふと聞こえてくる会話から、東京人もまたフクシマによる放射能について大変気にしているということがわかり、いかにフクシマが人々の心をむしばんでいるか、がよく分かったということである。ある編集者は、僕のこのブログをよく読んでくれているようで、前回書いた家庭菜園のことに関して突然「大丈夫ですか」といわれ、居合わせた他の編集者共々自分は毎回の食事時に放射能のことを考える、と話してくれた。不安でどうしようもない、という状態ではないが、僕が抱えている鬱屈と同じものを彼らが抱いていることを知って、フクシマがいかに深刻な問題を僕らに提示しているか、改めて考えさせられた。遅く帰宅してネットのニュースを見たら「ベトナムへの原発輸出は堅持」というのが目に飛び込んできた。どのような事情がベトナムにあるのか知らないが、フクシマ間を起こした国が他国へ平気でそのような危険な原発輸出する、経済人や官僚たちのモラルはどうなっているのか、と思わざるを得ない。それこそ「恥を知れ」といいたくなるが、蛙の面に小便という感じがして,虚しくなる。
 二つめ、山手線や総武線に乗っているときに気付いたのだが、ひたすら携帯電話(スマートフォン)を眺めている人が2とすれば、その半数ぐらいの人が文庫本や単行本を広げていて、数年前のような誰もが携帯の画面とにらめっこしてゲームに興じ、メールを打つ続けるという光景が少なくなった、という印象を持ったが、本当に電子本派と活字派に2極分解したのか、にわかには信じがたいとしても、世のスマートフォン協奏曲を尻目に、何かが変わりつつあるのかな、と思った。
 しかし、10時過ぎの電車に乗って、降車駅についたときには11時半を回っていたのだが、1車両に数人しか乗っていない車内を見渡し、出版業界(新聞業界)が惨憺たる状態になっている現実をいやというほど見せつけられた。10年前、いや5年ほど前なら終電車間際の電車の網棚の上には夕刊紙や漫画雑誌が必ず何部か(何冊か)乗っていたのだが、昨夜は皆無、車内はきれいなもので、掃除する張り合いもないのではないか、と思った。ことほど左様に「活字離れ」が進んでいくのかと思うと、先の山手線や総武線の光景と矛盾するが、ぞっとするものがあった。昨日会った編集者たちが、ともかく本が売れないと嘆いていたが、不況とはいえ、本を読まない人が増えた国が果たして発展するか、デジタル社会で大丈夫なのか、本気で心配になった。と同時に、そんな社会の状況にあっても、ともかく僕の本が出るということ、幸運を思わないわけにはいかなかった。

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