黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

権力の恐ろしさ(2)

2011-10-06 09:28:39 | 文学
 先にも最近の野田政権が露骨な形で僕らの前に開示した「権力」のことについて書いたが、今度出る『辻井喬論―修羅を生きる』(仮題)を書いている途中、ずっと思っていたのは、「主権在民」とは言いながら、実際は「主権官僚」ないしは「主権政治家」と言うべき実態を日々知らされると、僕らにできることは一体何なのか、ということであった。特に、現代のポピュリズム(大衆主義・長いものには巻かれろという生き方)に乗った石原慎太郎東京都知事や橋下徹大阪府知事の言動が象徴するような「政治」の在り方――東日本大震災やフクシマに関する石原都知事の言動(それは、今ベストセラーになっているという『新・堕落論―我欲と天罰』<新潮新書>によく現れている)や橋下大阪府知事の「日の丸・君が代」条例の制定や大阪府民を馬鹿にしたような知事を辞任しての大阪比朝鮮への出馬表明など――を目にすると、石川啄木がいわゆる日露戦争後(明治末)の「冬の時代」の中で発した「われわれ日本の青年は、いまだかつてかの強権にたいして何らの確執をもかもしたことがない」という言葉(後に大江健三郎がこの言葉を「強権に確執をかもす志」ということで、反権力を象徴させた)の意味を、改めて考えざるを得なかった。
 それは、対象として書きつつあった辻井喬が、西武百貨店(セゾングループ)の総帥堤清二として戦後の日本経済の一端(流通部門)を牽引してきながら、胸奥にかつて東大生だったときに共産党員として関わった革命運動時代の「志・思想」を秘めでいたからなのであろう、この困難な時代に大江健三郎と同じように「強権に確執をかもす志」の大切さを随所で書き、語っていたからでもあった。辻井喬の言説に接していると、どんなに絶望的な時代であっても、斜に構えたり「ニヒリズム」に陥ることは犯罪的でもあるのではないのか、という思いを抱かせられる。
 文学にも「力」があるんだな、と思わせる瞬間であるが、しかし現実に起こっていることは、先にも書いたフクシマにおいて猛毒放射能であるプルトニウムやストロンチウムが半年も経ってから発見されたという何とも「情報隠し・情報操作」が見え見えの報道――マスコミにも、政府発表に追随してきた「罪」があるのではないか、と思う――であり、「復興財源」の確保という名目で増税案を提出しながら、公務員宿舎や地方における(国の出先機関用の)合同庁舎の建設に何百億円も支出するという、何とも笑えないちぐはぐさに「おかしいのではないか」と思わない政治家とそれを裏で操る官僚たちの感覚、前にTBSテレビの「ニュース23」で「壊」をテーマとして取り上げていたことがあったが、まさに現代は社会の隅々で「壊」が進行しているのではないか、と思わざるを得ない。
 それもこれも「権力(構造)」だけが強固に国民の頭上に君臨して、「人間」がスポイルされても、それに気付かない社会になっているからではないか。実に由々しき事態になっているが、一介の文学の徒(批評家)に何ができるか、今こそ真剣に考えなければならないのではないか、と思っている。