黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

どうなるのか?この国の形(2)

2011-10-19 04:51:36 | 仕事
 「フクシマ」が起こって明確になったことは、この国の未来は明らかに「原発」への対応を軸に展開するだろうということであった。その意味では「グズ菅」と揶揄されてきた菅前首相が、最終的にはいくらか曖昧になったが「脱原発依存」の方向へ舵を切ったのは、菅前首相なりの将来を見据えた国家像ができていたからだと思われる。まさか、どこかのノーベル文学賞候補者のようにパフォーマンスだけで「脱原発」を叫んだのではないだろうと思ったが、野田政権のいよいよはっきりしてきた「原発」への対応は、管政権の時代より大幅に後退しているとしか思えず、ここに至って野田政権の誕生を経団連(米倉会長)が歓迎したことの真意が見えてきたように思う。野田政権になって「脱原発」から「減原発」という訳の分からない原発政策を進めようとするその裏には、どうもフクシマ以前のような「原発容認・推進」があるように思えてならないからである。その証拠に、あの九州電力の「やらせ」問題に対する「第三者委員会」の方向所を無視した(コケにした)「最終報告書」は、野田政権が内心は電力会社が望むような原発容認・推進の立場に立っているということを見越してのものだったのではないか、と思えるからである。さすが、フクシマに対して官房長官として必死の対応をした(必ずしも「正直」だったとは思わないが)枝野経産大臣は不快感を露わにしたが、あの人を喰ったような九電社長の記者会見を見ていると、完全に政治(政治家・政権)を見下しているようで、最早この国が「政治主導」はもとより「官僚支配」でさえなく、経済界支配の下にあることをはっきりと示しているように見え、空恐ろしくなった。
 かつて「夏の電力不足」が叫ばれていたとき、経済界はこのまま「電力不足」(実際はデマゴギーだったが)が続けば、日本の企業は海外に活路を見いだし、日本の経済は空洞化が進む、などと「脅し」めいた言い方をしていたが、図らずももうすぐ首都のバンコクまで迫ろうとしているタイの大洪水が、もうすでに日本企業の海外進出は既定の事実であり(バンコク北部の工業地帯の大部分の企業ー400社以上ーが日系企業であるというのは、想像を超えていた)、電力不足とか何とかという「言い訳」は、ただ単に原発の再稼働・新設を促すための「口実」に過ぎなかったのだということを明らかにした。
 一方野田首相は、昨日(18日)も福島県に出掛けて放射能汚染の除去作業を見たり、避難所に行って避難民たちに「除洗して自宅に帰れるようにしますから」などと言っていたようだが、彼が朴訥さを装いながら「できるだけ早く除洗を」と言うと、その言葉の真意が原発の再稼働・新設を促すためのパフォーマンスのように思えるのは、僕だけだろうか。野田首相の記者会見などの答えを見ていると、どうも「改革」はお嫌いなようで、原発に関しても「できるだけ早く点検済みの原発は再稼働し、建設中の原発もその進捗状況によって認めたい」と言っているようで、何ともとぼけたドジョウ首相だな、と思わざるを得ない。あの丸顔の「人の良さそうな顔」の裏側に隠されている「保守」思想=「改革」否定の思想が、僕たちに何をもたらすのか。
 ただはっきりしているのは、野田政権はこの国の形がどうしようとしているのか、全く不明だということである。前にも書いたが、村上龍の『愛と幻想のファシズム』は、「英雄待望」のポピュリズムが私たちの生活を破壊し、暗黒の未来をもたらすことを明らかにした近未来小説だったが、野田政権もダメ、加えて東の東京都西の大阪で「ネオ・ファシズム」とも言うべき政治が進行しているという現実を考えると、今こそ僕らはどんな社会が望ましいのか、しっかりと将来像を構築しなければならないのではないか、ニヒリズムに身を委ねている暇はないのではないか、と思わざるを得ない。
 怒りが静まらない。