黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

昨今の「フクシマ」のこと(1)

2011-10-03 05:43:43 | 近況
 予定通り9月30日に「辻井喬論―修羅を生きる」の草稿を書き上げ、その日の夜から昨日(10月2日)まで、草稿の見直し(加筆・訂正・削除・語句の統一など)を行ったが、できあがった原稿は全10章483枚、退職直後の4月から本格的に書き始めて、ちょうど6ヶ月、ほとんどの時間をこの本を書くことに費やしてきた。今までたくさんの本を「書き下ろし」という形で書いてきたが、今度の本ほど執筆に時間をかけた本はないのではないか。大学に行かなくても済むということもあって、毎日毎日、1日の内の大半をパソコンに向かっていた。もちろん、パソコンに向かう時間の全てがこの本のための原稿執筆というわけではなく、改めて読み直さなければならない辻井喬関係の本や7月までは「アスパラクラブ」に連載していた「黒古一夫が選ぶ現代文学の旗手たち」のための本を読んだり、この本以外の原稿を書いたり、ということはあった。しかし、自分の実感としてこれほど1冊の本を書くのに集中して時間を費やしたことはなかった。大学教師をしていたときと「集中度」が違うのではないか、という意見(家人の)もあるが、集中度云々はともかく、この6ヶ月は充実した日々であった。
 内容については、刊行日などの詳細が決まってからお知らせするつもりだが、如上のような原稿執筆の日々にあって、逆説的に聞こえるかも知れないが、刺激を与えてくれたのは「フクシマ」に関わる諸々の出来事であった。もちろん、版元との協議で「緊急出版」することになった『ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ―「核」を考える』(勉誠出版 17人が執筆・対談 10月中旬過ぎ刊行予定)の編集のこともあり、特に対談(インタビュー)をお願いした林京子さんと辻井喬さんのゲラ校正が上がってくるなどがあり、「辻井喬論」とは頭を切り換えて対処しなければならないということもあったのだが、なによりも僕を刺激し続けていたのは、放射能汚染がどこまで広がるのか、その程度はどうなのか、ということであった。特に、今では当たり前のように言われるようになった「内部被曝」について、とんでもないことが起こっているのではないか、という危惧から解放されることはなく、そのような「危機感」を常に意識しながら「辻井喬論」は書かれた、と言っても過言ではない。そうそう、「フクシマ」絡みで、産経新聞の東京本社と大阪本社(産経新聞は、2本社制を取っているということである)から取材を受けるという妙な体験も、この間にはあった。東京本社のは「ヒロシマ・ナガサキ」を中心にしたもので、大阪本社のは村上春樹の「反核スピーチ」とノーベル文学賞受賞の可能性、についてであった。僕の発言がどのような記事になったのかがまだ不明なので、僕の発言内容について公表するのは、後日記事が掲載されるまでを控えるが、このブログの読者はおおよそのことは推察できるのではないだろうか。
 それはともかく、「フクシマ」に関して、危惧していたことがつい最近明らかになった。それは、ストロンチウムとプルトニュウムという、これまで報道されてきたヨウ素やセシウムとは比べものにならない「猛毒」放射能が、原発から45キロ離れた地点でも検出された、と公表されたことである。核物質(ウラン)が核分裂を起こしたにもかかわらず、これまで原発敷地内で「微量」なストロンチウムやプルトニュウムを検出したという報道はあったが、敷地外でこれらの猛毒放射能が検出されたということは、いよいよフクシマが想像以上の大被害をもたらした事故であったということを明らかにするものである。
 にもかかわらず、どうも人々の反応が鈍いように僕には感じられる。何故なのだろうか。もっともっと「核」の恐ろしさについて、感じ、考えなければいけないのではないだろうか。