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日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

坂本龍馬・おりょうさんゆかりの寺田屋を訪ねて(2016.2)

2017-07-31 19:07:59 | 旅行
夏休みも残り1ヵ月。学校の日本史関係でいいますと、3年生の夏期講習の一つが先週予定を終了しました。教科書で未習の箇所をやったのですが、普段の授業より1.5倍くらいのスピードで猛然と・・・それでも出席した生徒の皆さんは優秀なので、しっかりついてきていました。このブログが炎上?した話も交えつつ(そういう話は喜んで聞きますね)、充実した講習になりました。この5日間の生徒の皆さんの取り組み姿勢はお見事!でした。まだ夏休みは長いので、自分でどんどん問題練習等を進めてくれるものと期待しています。

さて、夏休みですし、新しい記事を書こうと・・・もう1年半も前で恐縮ですが、まだ書いていない話題をアップしたいと思います。

おととしの冬2月の奈良大スクーリングの時に訪れた場所で、まだ書いていない所がありますので少しでも今日紹介します。

京都の方広寺や耳塚を訪れた記事は以前書きましたが、その同じ日のことです。
京都南部の伏見のあたりも行ってみたいと思い、そのあたりに宿をとって、あの寺田屋事件の寺田屋へ行きました。
以下、写真多め、説明少なめでいきます。


方広寺・耳塚への行き来のために、JR奈良線で東福寺で下車しました(確か 笑)。この時に撮影した、JR奈良線の車両。なんだか見覚えがある懐かしい感じ、と、前から思っていたのですが、これは昔の東京の山手線の車両だそうですね。こんな所を走っているとは・・・

まずホテルにチェックインしてから寺田屋に行くことにしました。宿は、深草にあるアーバンホテル京都にしてみました。龍谷大学が近くにありました。
その冬は、1月に卒論を提出した後、気管支炎?になって声が1週間くらい出なかったということがあり、咳もひどくて、2月になってもまだ本調子ではありませんでした。そのため、朝食付きでほどほどの料金でしたが、ちょっと部屋の乾燥がつらかったです。
午後にチェックインして、もう眠くてそのまま寝続けてしまいそうではありましたが、せっかくの旅ですから、気力を振り絞って、寺田屋を目指して出かけました。

深草から中書島まで13分、中書島駅から寺田屋まで歩いて6分ほど。

興味のある方は、このへんのリンクを参考にしてください。
京都観光NAVI  「寺田屋」
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=6000126

普通の京都の観光ガイドブックでは、意外とこの伏見のあたりは取り上げられていないんですよね。私もあまり注目していませんでした。

↓「幕末トラベラーズ」というHPのマップもなかなかよいですね。
http://japanserve.com/map-kyoto.html


寺田屋です。やっぱり坂本龍馬ファンというべきか、観光客がたくさん写真を撮っていました。駅前からの道は、祝日でも人はぱらぱらという感じで、観光地然としていませんでした(途中で昼間からカラオケで歌う声がバーから聞えて来たり)。でも寺田屋だけはにぎわっていました。


この建物自体、当時のものなのか、定かではないのですが・・・




刀痕の表示があったり


おりょうさんが急を知らせたという階段があったり


おりょうさんがその時に入っていたというお風呂が残っていたり
「裸のお龍さんで 有名なお風呂です」の表示。


坂本龍馬の残した歌
「世の人は われを何とも言はばいへ わがなすことは 我のみぞしる  龍馬」


15時40分で閉館なので、ぎりぎりに見学を終えました。入口が閉まった後の寺田屋

疲れたので今日はこのへんで。続きはまた。

春です。東大寺二月堂お水取り

2017-03-15 12:21:53 | 旅行
11日(土)に、学芸員資格課程の科目修得試験を奈良大まで受けに行き、ついでに、東大寺二月堂のお水取りを見て来ました。黒塚古墳も見たのですが、その話はまた今度。



その前に、先週の出来事から書きますと、本校でも卒業式がありました。
今年の卒業生徒は、私も一度は授業を持ったことのある生徒ばかりで、感慨深く卒業を祝いました。みんな、きりっとスーツを着こなして、晴れやかな笑顔で卒業していきました。定時制ですので、仕事をしながら学校に来て、勉強して、部活もがんばって・・・という生徒も多かったのです。そんな生活をしながらも、私の授業でも課題をやってきたり、試験で立派な点を取ったりという生徒もいて、本当によくがんばりました。これからの人生に幸多かれと願います。

さて、奈良日帰り旅についてです。
来年度はあまり奈良にまで行く機会は少ないだろうと思われ、たまっている東海道新幹線のEXカードのポイントを、失効(一部は6月)する前に使ってしまおうというもくろみもあり、奈良大まで試験を受けに行くことにし、ポイントを使って、グリーン車に乗りました。
1000ポイントたまると、グリーン車に普通の指定席料金で乗れるのです。新横浜から京都だと、グリーン車は4000円くらい高いようです。
席に着いたら、しばらくしてアテンダントさんのような方からおしぼりをいただきました。座席がゆったりしているとか、読書灯があるというのが印象的でした。次はいつ乗れるかな?
勉強不足で、新幹線の中でも勉強していたら、あっという間に京都でした。
定時制勤務だと早朝出発の旅はきついのです。前夜も、部活のためやや遅い電車で帰宅し、
急いでも1時くらいに就寝して、6時過ぎに家を出るために5時過ぎに起きるとなると、睡眠時間は4時間くらい。そのうえ、夜にお水取りを見て、終電の一本前で0時前に帰宅という行程でした。

以下、お水取りの話です。
東大寺二月堂のお水取りが終わると、奈良に春が訪れるといわれています。
この記事だけは、すぐに書かないと、もう春が来てしまうので、ちょっと急ぎました。
お水取りは、別名「修二会」(しゅにえ)といいます。

「この法会は、現在では3月1日より2週間にわたって行われているが、もとは旧暦の2月1日から行われていたので、二月に修する法会という意味をこめて「修二会」と呼ばれるようになった。また二月堂の名もこのことに由来している。」(東大寺ホームページより)
http://www.todaiji.or.jp/contents/function/02-03syunie1.html

詳しいことは、上記のリンクでご覧いただければと思います。
天平勝宝4年(752=大仏開眼供養の年)から、一度も途絶えることなく1260年以上行われてきたというのですからすごいです。
お水取りというと、あの二月堂の外廊下を大きな松明を持った人がダダダッと走り抜ける行事、というイメージが一般的にあると思います。それ以外にもいろいろなことが行われているわけですが、そもそも、「お水を取る」というのは何なのか?
取ったお水は、十一面観音様に捧げるのですが、そうすることになったわけは、以下のとおりです。

昔、実忠和尚が、修二会の行法中、「神名帳」に書かれた全国の一万七千余の神様の名を読み上げ、参集を求めた。神々はすぐに集まってこられたが、若狭国の遠敷明神だけが川で魚釣りをしていて遅刻された。
それを他の神が口々に咎めた。そこで遠敷明神は「これは申し訳ない。お詫びとして、ご本尊にお供えする霊水を若狭からお送りしよう」といい、二月堂下の大岩の前で祈られた。すると、大岩が動いて二つに割れ、黒と白の鵜が飛び立ち、続いて霊水が湧き出た。和尚はこれをお供えの水とされた。これが今も二月堂下にある若狭井戸である。

http://www.pref.nara.jp/koho/kenmindayori/tayori/t2012/tayori2403/nara_mukashi2403.htm
(奈良のむかしばなし)

若狭国は今の福井県で、お水取りの10日前に、福井県の小浜で、「お水送り」の行事が行われているとのことです。面白いですよね。福井県と奈良県で水脈が通じているという。
奈良大スクーリング―考古学の、だったでしょうか、東大寺を見学した時に、若狭井の前で説明も聞きました。この若狭井から、12日の深夜~13日にかけて、お水を取るのです。

お水取りは、20年以上前に、出張帰りに見たことがあります。それは、特別大きい松明が出る3月12日でした。
いわゆる「おたいまつ」は、12日だけでなく、3月1日から14日まで毎日あがります。12日以外はやっていないのかと誤解されることが多いらしいですが、12日以外で、平日が狙い目とのことです。今回行ったのは11日ですが、土曜日だったのでどのくらいの人出になることやらと思いながら行きました。やっぱりお客さんは多かったですね。

20年以上前の前回の時は、詳しい予備知識もなく、カメラも持たずに行きました。インターネットとか携帯電話とか便利な道具もありません。開始の2時間くらい前に現地に行き、結構ぎゅうぎゅうな状態で、一人でじっと待っていました。若いからこそできたんでしょうかね。


月がよい感じで上ってきた二月堂前の石段。続々と人が集まってきています。
これを含め、下の写真はビデオの画像から切り出したり、ビデオカメラで写真として撮影したものです。

今回は、ぎゅうぎゅうというほどではありませんでした。それでも、いい場所は先客がいて、約40分前くらい、に行った私は、ほどほどの場所で待つことになりました。20数年前と似たような位置でした。前に見た時は、おたいまつが始まると、お客さんを、少しずつ前の方の道に歩かせて流して、後ろの方のお客さんも順番に見られるように配慮されていたのですが、今回は、12日でないからなのかはよくわかりませんが、お客さんが前の方に流れていくという形ではなく、みんな、始まるまでに陣取った位置から動くことなく見て、帰りたくなった人は後ろの方から帰る、みたいな形でした。

今回はビデオカメラを選択して、撮影してみました。ビデオカメラは、結構、夜間の撮影に強いと思うんですよね。しかし、事前に、皆さんが、だいたいどういう構図で、どういうふうに写真を撮っているのかを調べなかったので、後で、ああすればよかったのか、と後悔したことがありました。特に、カメラを使って、シャッターをしばらく開けっ放しにして、たいまつが廊下を走っていく光を一直線に表現するというものを、やりたかったですね。近いうちに、挑戦したいと思います。

東の空にはきれいな月が上ってきていました。
19時を過ぎると、場内の人工的な照明が消され、やがて、ゴォーーンと、やわらかい鐘の音が遠くから響いてきます。とても趣のある雰囲気に支配され、観客も静かに息をひそめて、たいまつが現れるのを待ちます。これだけの人数の人たちが、一言も発せず、しばし、その時を待つ、という、その空気感がよかったですね。集まっている人たちも、基本的にお行儀がいい感じです。若い人も(が)多かったです。お年寄りの人は、長時間立って待っているのが大変だし、暗くて足元も危険なので、お元気でないと大変かもしれません。
平日で12日以外なら、お客さんももっと少なくていいかもしれません。


1本目のたいまつが左手にのぼってきたところ。



童子の方が、たいまつを掲げて突進しているところ。






どういう間合いで走ってきたり、松明を掲げたり、ぐるぐる振って火の粉を落としたりするのか、よくわからないのですが、予想外の動きなどに歓声が上がったりして、その歓声も、うるさいというほど大きくはなく、穏やかに湧き上がってくる感じで、よかったですね。
下で一生懸命、消火作業をしてくれている人たちがいたらしいのですが、本当に、建物や木が燃えちゃうんじゃないか、とハラハラするような場面がありました。1260年以上もやっているのですから、大丈夫なんでしょうけどね。

後で書き足すと思いますがとりあえず、出勤前にアップしてしまいます。

お彼岸に太陽を追いかける女・・・2015春彼岸奈良弾丸ツアーC

2016-10-19 22:21:14 | 旅行
「昔と言うばかりで、何時と時をさすことは出来ぬが、何か、春と秋との真中頃に、日祀(ひまつり)をする風習が行われていて、日の出から日の入りまで、日を迎え、日を送り、又日かげと共に歩み、日かげと共に憩う信仰があったことだけは、確かでもあり又事実でもあった。そうして其なごりが、今も消えきらずにいる。日迎え日送りと言うのは、多く彼岸の中日、朝は東へ、夕方は西へ向いて行く。今も播州に行われている風が、その一つである。而も其間に朝昼夕と三度まで、米を供えて日を拝むとある。(柳田先生、歳時習俗語彙)又おなじ語彙に、丹波中郡で社日参りというのは、此日早天に東方に当る宮や、寺又は、地蔵尊などに参って、日の出を迎え、其から順に南を廻って西の方へ行き、日の入りを送って後、還って来る。これを日の伴と謂っている。宮津辺では、日天様の御伴(おとも)と称して、以前は同様の行事があったが、其は、彼岸の中日にすることになっていた。紀伊の那智郡では唯おともと謂う……。こうある。
何の訣(わけ)とも知らず、社日や、彼岸には、女がこう言う行(ぎょう)の様なことをした。又現に、してもいるのである。」
(折口信夫「山越しの阿弥陀像の画因」青空文庫より)

これは、折口信夫の『死者の書』(中公文庫)に一緒に収められている文章です。

先日、学芸員資格課程の学内実習の時に訪れようとして断念した当麻寺、その予習のために、『死者の書』を読んでいたのですが、この文章も、以前どこかで見たし、どこかで写した覚えが・・・と思ったら、奈良大通信(学部)の民俗学のレポートでここを引用したようです。

以前から書いていますように、二上山に沈む夕日を見たい、と思って、この日帰り弾丸ツアーを行ったわけですが、私も、まるでこの、日のお伴をしていたようではないか、と改めて気がついたわけです。しかも、上の文章によると、こういうことをするのは、女性であるということです。

この、太陽信仰であるとか、太陽の出てくる・沈む方角について、個人的に関心があって、これまであまり具体的に書いてきませんでしたが、いろいろ考えているところです。時間があれば、少しずつと思っています。文献史学だけでなく、考古学も、神話学も、民俗学も、さまざまな分野を総合して考える必要があると思います。
折口信夫や柳田国男は民俗学であり、彼らの書いた文章の中にも、とても興味深いものがいろいろあります。その中の一つがこれです。

まあ、私の場合は、桜井駅を出発して、北上し、箸墓古墳あたりからまた南に戻ってきたので、厳密には、南北に移動していたわけで、太陽をずっと追いかけていたわけではないのですが。お彼岸に夕日が二上山に沈む、それを見るベストなポイントを探してあちらこちら自転車で駆け回っていたのです。

その日の行程は、桜井駅からレンタサイクルで出発し、金屋付近を通って、磯城瑞垣宮跡を訪れ、桜井市埋蔵文化財センターで、卒論の参考になるかなということで「魅惑の玉」という展示を見て、大神神社にお参りする前に、とあるお店で三輪そうめんを食べ・・・

→大神神社→狭井神社→大美和の杜展望台→茅原大墓古墳→ホケノ山古墳→箸墓古墳

そして、また逆のルートで戻り、途中であの神御前神社に遭遇し、桜井駅まで戻って、自転車を返し、再び大美和の杜に戻って、日没を見ようとしましたが、帰りが遅くなってしまうので、三輪駅から日没を見ることにした、というのが一日の流れでした。それから、若宮社とよばれる大直禰子(オオタタネコ)神社もちょっと訪れました。

これまでの関連記事

崇神天皇の宮・磯城瑞籬宮跡(2015春彼岸奈良弾丸ツアーA)

倭迹迹日百襲姫命(=ヒミコ?)を祀る 神御前神社(2015春彼岸奈良弾丸ツアーB)


春分の日 二上山に沈む夕日

これまで細切れにこれらの旅のことは書いてきましたので、まだ書いていない部分をまとめたいと思います。

茅原大墓古墳
三輪山の真西にあることから、何か重要なものが埋まっているのではないか、また、誰が埋葬されているのか、と、個人的には興味があるのですが、それほど世間的には注目されていないようです。しかし、一度見たいと思っていました。

桜井市ホームページによると、この古墳は、5世紀前半代、古墳時代中期の帆立貝式の前方後円墳で、全長は約85m。地元では倭佐保姫の御陵として永く保存されてきた、とのこと。国指定史跡です。「盾持人埴輪」という、武人の埴輪も出ています。

古墳は遠目に見たのですが、上に上がるということまでは時間もなかったのでしませんでした。このあたりを自転車で走っていたとき、広々とした田んぼ・畑の中で私ただ一人、という開けた空間ができて、こんな雲一つないいい天気で、こんなのどかな、すばらしい空間を独り占めできるなんて・・・と、自転車をこぎながら「うわあー、いいなあー。」と、誰も聞いていないので一人で声をあげていました。確かに田んぼ・畑・古墳以外何もない場所なのですが、東京でごみごみした場所で生活している私にはこのような開放的な空間は魅力的に感じました。しかし、こういう場所を観光の場所として選ぶ人もめったにいないのかな??とあまりのひとけのなさにそんなことを思いました。
人がぞろぞろといるよりも、このくらいのどかでひとけがない状態が維持されることも望みます。また、行ってみたいものです。
いいなあと感動したのにその場所を写真に撮っていないという、いまだ、シャッターチャンスとか被写体のとらえ方とかがうまくない私です。

ホケノ山古墳
奈良大のスクーリングの時に、雨のために古墳の上に上がることができなかったので、上からの景色を見たい!というリベンジで行きました。
そもそも名前が、カタカナで「ホケノ」とは何ぞや?と疑問なわけですが。
桜井市ホームページより、要約しますと、3世紀中頃に造られた日本でも最も古い部類に属する前方後円墳の一つ。全長90メートル、後円部径60メートル、高さ8.5メートルの纒向型の前方後円墳で、周濠が確認されている。大神神社は、この古墳を豊鋤入姫の墓に比定している、とのことです。こちらも国指定史跡です。


箸墓古墳の後円部方向、三輪山側にあります。この位置関係からしても、この箸墓古墳が卑弥呼の墓だとしたら、被葬者が「豊鋤入姫(トヨスキイリヒメ)」とされていることからも、卑弥呼の後継者・壱与(トヨ)と音が似ているし、もしかして、というふうにも思われます。
いずれにせよ、茅原大墓古墳も、ホケノ山古墳も、箸墓古墳も、女性が被葬者であるということは、とても興味深いことです。


ホケノ山古墳の上から見た、箸墓古墳方面。後円部が丸く見えます。


ホケノ山古墳の上から見た三輪山。
聞いていたとおり、360度開けていて、よい眺めでした。


古墳の斜面の一部は、畑になっていました。近所の子どもたちも、古墳の上に上がってきて、おばあさんと一緒に遊んでいました。のどかです・・・

箸墓古墳は、今回は、あまり見るつもりはなかったのですが、一応ため池の周辺を少し走って来ました。

再度、茅原大墓古墳の裏側を通過し、


民家の街並みの中を行くと、神御前神社が出現するわけです。

桜井駅で自転車を返して、三輪駅から再び大神神社に向かいました。大神神社の手前に、「若宮社」と額がかかっている大直禰子(オオタタネコ)神社があります。オオタタネコは、大神神社の神様、大物主の子供です。だから「若宮」社なのでしょう。

若宮社前の道は、大神神社の参道から一本外れているのですが、私がそこを歩いていたら、大神神社の参道側から、若宮社に向かって、勢いよく、深々と、頭を下げて立ち去るスーツを着た若者を見かけました。急いでいたようですが、それでもとても心がこもった敬礼でした。大神神社だけでなく、こちらの若宮社に対する人々の信仰心も篤いのかなと感じさせられました。若宮社は、外観がお寺のように見えます。大神神社も三輪明神と呼ばれていたし、神仏習合の時期もあったからですね。

夕日を浴びる大神神社の入り口。

そこから、再び大美和の杜展望台へ行き、日没を待つことにしました。お客さんは、数組。本格的なカメラを構えて、二上山に沈む夕日をとらえようとする人達もいました。私は、レンズの選択を誤って(一眼レフは持っていたのに展示品の勾玉を撮るためにマクロレンズしか持っていなかった)、スマホカメラで撮るしかありませんでした。

見ていると、太陽の強い光で、二上山がよく見えないくらいで、これは、スマホカメラで撮ってもどの程度のものが撮れるか・・・というのと、三輪駅発の電車は1時間に1本しかなく、日没まで大美和の杜にいると、東京への帰着が大幅に遅れてしまう・・・ということ、日没がちょうと三輪駅に電車が来る時間と一致しているので、三輪駅から見てみようか、という判断で、大美和の杜を下って駅に向かうことにしました。

見込み通り、電車が来る前に、高架の階段途中から見ると、ちょうど二上山の谷間に、沈んで行く夕日を見ることができました!我ながら勘がいい。と喜びました。

二上山に沈む夕日は1枚だけ紹介したのですが、もう少し、載せておきます。アングルがばらばらですみません。次はもうちょっと、開けた場所で見たいと思いました。千股池がよいらしいですが、崇神天皇の宮があった、この三輪のあたりのどこかで見たいですね。桧原神社もよいらしいですね。









二上山に沈んで行く様子を見たときの感想は、こちらのリンクから改めてどうぞ。

先日の16日日曜日、博物館学芸員資格課程の学内実習3回目があり、なんとか終わりました。前日の15日、コスモスの咲く藤原京を、レンタサイクル(大和八木発)で回ってきました。広大な宮跡に、コスモスがとてもきれいでした。まだもう少し見頃は続くと思います。

今日はこのへんで。本日は休暇でございました。

倭迹迹日百襲姫命(=ヒミコ?)を祀る 神御前神社(2015春彼岸奈良弾丸ツアーB)

2016-10-09 11:39:22 | 旅行
まず近況ですが、博物館学芸員資格課程の、自主見学レポートが、どうにか合格しました。
3日前くらいに届きました。とりあえずよかった。ただしこれから、今月中に、現在3回に分けて受けている実習のレポートを7つも書かなければなりません。三つくらい書きましたが・・・来週日曜が、最後の学内実習で、また奈良に行きます。

さて、先日耳塚の記事を書き終わって、次に何を書こうかと考えていると、去年3月のお彼岸の時に奈良・桜井市で見た、神御前神社のことを書け、と、心の声が・・・というか、しきりに心に浮かんでくるので、書くことにしました。もう1年半も前のことで、古い話で申し訳ないのですが。

この1年半前の3月のお彼岸の奈良日帰り旅については、何度か書いています。

春分の日 二上山に沈む夕日

崇神天皇の宮・磯城瑞籬宮跡(2015春彼岸奈良弾丸ツアーA)

遅ればせながら、この「弾丸ツアーB」として書くことにします。

この旅は、崇神天皇の宮跡(磯城瑞籬宮)あたりから、お彼岸には二上山の雄岳と雌岳の間に沈む夕日が見られるという話を目にしたことから、ぜひ見たい!と考えて実行に移したものです。詳しくは、上記のリンク記事をご参照ください。

他にもいろいろ目的はあったのですが、とにかく日帰りで、ちゃんと夕日が沈む所が住宅などに邪魔されずに見える所はどこだろう、と、日没までの間にチェックするために、レンタサイクルで桜井駅を出発して、主に山の辺の道を通りながら、北は箸墓古墳・ホケノ山古墳のあたりまで自転車で走り回りました。

そして、桜井駅にレンタサイクルを返すために南に向かっている途中の細い道で、いきなり「神御前神社」という文字が目に入り、思わず急ブレーキでストップしました。見ると、とてもこじんまりとしたスペースに、鳥居と、その向こうに、とてもよい感じに三輪山が!


たまたま、のどかな、趣のある集落の中を通り抜けたいと思って適当に通った道で、そんな名前の神社の存在は知りませんでした。しかし、なんだかすごい名前の神社だなと心を奪われ、自転車を停めて、その5×5平方メートルもあるかというような狭いスペースの神社に入って行くと、ここは、大神神社の摂社で、「御祭神」は倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)、つまり、あの箸墓古墳の被葬者で、三輪山の神様、大物主と結婚した女性です。卑弥呼では?ともいわれている人ですね。

何しろ、民家が建ち並ぶ中で、ぽっかりとその小さなスペースが開かれていて、三輪山がバックに本当にいい位置に見えるのがとても印象的で、これは絶対に三輪山を意識して、お祀りするためにここに造られた神社だ、ということが感じられました。神御前とは三輪山・大物主神の御前ということですね。

有名ではないけれども、いい神社、というか、いい場所にある、信仰の場所だなあと、とても心ひかれました。
祭神も倭迹迹日百襲姫命さんだけというのが興味深いです。

写真の「御由緒」を読んでいただければと思いますが、一応その中から抜き出しますと、

「鎮座地の茅原は崇神天皇が百官を率いて八百万神を祀った『神浅茅原(かむあさぢがはら)』の地とも言われ、三輪山を拝む好適地です。」

とあります。

この神御前神社について書かれたブログ等は調べるといくつもあります。同じような説明がされています。ここでは、少し、『日本書紀』のその崇神天皇の神浅茅原で八百万の神を祀った記事の部分を紹介します。現代語訳ですが。

「(崇神天皇)7年春2月15日、詔して『昔、わが皇祖が大業を開き、その後歴代の御徳は高く王風は盛んであった。ところが思いがけず、今わが世になってしばしば災害にあった。朝廷に善政はなく、神が咎を与えておられるのではないかと恐れる。占によって災いの起こるわけを究めよう』といわれた。
天皇はそこで神浅茅原にお出ましになって、八十万(やおよろず)の神々をお招きして占いをされた。このときに神明(かみ)は倭迹迹日百襲姫命に神憑りしていわれるのに、『天皇はどうして国の治まらない事を憂えるのか。もしよく吾を敬い祀れば、きっと自然に平らぐだろう』と。天皇は問うて『このようにおっしゃるのはどちらの神ですか』と。答えていわれる。『我は倭国(やまとのくに)の域(さかい)の内にいる神で、名を大物主神という』と」。
(宇治谷孟『日本書紀 上 全現代語訳』講談社学術文庫 p.123)

この続きには、お告げのままにお祀りしたが、効果がなく、再び神に尋ねると、大物主は、わが子・大田田根子(オオタタネコ)に祀らせなさい、と答えました。そして大田田根子を見つけ出して、大物主神を祀らせたところ、疫病も収まったということです。

以下は、今度は日本古典文学大系新装版『日本書紀 上』(坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋校注)から、該当箇所の注釈の一部を紹介します。

神浅茅原について、

「カムは、神聖の意。聖域とした所の意。アサヂハラは、まばらに茅の生えた原。これを地名とみて、桜井市笠の浅茅原、同市茅原などを当てる説がある。」

と注釈があります。

この神社の300mくらい北に、茅原大墓古墳があり、三輪山の麓、真東にあるので、位置的には箸墓古墳よりも三輪山との関わりが深くて、何か大きな秘密が隠されているのではないかと個人的に考えたりしている地域なのです。茅原大墓古墳についてはまた次の機会に話題にします。

このように『日本書紀』にも出てくる地名が今も残っている場所であり、三輪山がよい位置に見えるのですから、『日本書紀』のこの記事も全く嘘ではなく、このあたりなのだろうと思われます。

また、倭迹迹日百襲姫命についての注釈も一応紹介しておきますと、

「孝霊天皇皇女。崇神朝におけるその地位と巫女的性格から、これを、魏志倭人伝に見える女王の卑弥呼に比定し、崇神天皇を女王の男弟に比定する説もある。」

とあります。系図を見ると、倭迹迹日百襲姫命の甥っ子(開化天皇)の子供が崇神天皇なので、倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼だとして、崇神天皇は卑弥呼よりも年下であるということは言えそうなので、『魏志』倭人伝の「男弟」にあたると考えることもできるかもしれません。

この頃は、建物とか仏像とかよりも、現地で見ることのできる風景・・・特に神社の、ですね。その立地に興味があるので、本当に、その立地に心をひかれた、小さな神社でした。しかも祀ってある方が、とても興味深い方でした。
たまたま通りかかって出会うことができて、よかったな、と思いました。

何か書き漏らしている気もしますが、後で書き加えるとして、これで終わりにします。茅原大墓古墳などの話はすぐ次回に。

ここ数日、「卒論草稿 書き方」的なキーワードで検索してこのブログにいらっしゃる方などが多かったのですが、もう〆切の頃と思いますが、大丈夫だったでしょうか?
私も、この後、明日までの休日の間に、残りのレポートを書いたりして、有意義に時間を使いたいと思います。

鎮魂祭を行う三つの神社・・・石上神宮訪問記 番外

2015-12-05 02:29:06 | 旅行
学校は秋のイベントが終わり、先週土日は福島県会津地方に卒論関係の調査のため旅に出ていたのですが、明日はやっとどこにも出かけない日にして、今夜は夜更かしも可能なくつろぎタイムを確保しました。石上神宮の記事が意外に長引いてしまいましたが今回で終わりにしたいと思います。

もう少し書きたかったのは、石上神宮の他に、同様に鎮魂祭を行っている二つの神社についてです。
私は出雲地方、ひいては島根県が好きで、同じ島根でも石見地方には行ったことがなく、世界遺産になった石見銀山もあるし、いつか行ってみたい地域なのですが、その石見国一宮が、鎮魂祭を行っている物部神社です。祭神は宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)で、前回も書いたニギハヤヒ(饒速日命)はウマシマジのお父さんになります。

物部神社HPからそっくり引用で恐縮ですが、ニギハヤヒやウマシマジがどのような活躍をしたのかをおおよそこれで理解してください。

「御祭神(宇摩志麻遅命)の父神である饒速日命は十種神宝を奉じ、天磐舟に乗って大和国哮峯に天降り、御炊屋姫命を娶られ御祭神を生まれました。御祭神は父神の遺業を継いで国土開拓に尽くされました。

神武天皇御東遷のとき、忠誠を尽くされましたので天皇より神剣韴霊剣を賜りました。また、神武天皇御即位のとき、御祭神は五十串を樹て、韴霊剣・十種神宝を奉斎して天皇のために鎮魂宝寿を祈願されました。(鎮魂祭の起源)

その後、御祭神は天香具山命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、天香具山命は新潟県の弥彦神社に鎮座されました。御祭神はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮を据え、天神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃郡名の起源)とされました。

次いで、御祭神は鶴に乗り鶴降山に降りられ国見をして、八百山が大和の天香具山ににていることから、この八百山の麓に宮居を築かれました。(折居田の起源)」

そして、この中にも出てくる新潟県の弥彦神社が、もう一つの鎮魂祭を行っている神社です。

弥彦(彌彦)神社は、越後国一宮です。祭神は、物部神社の祭神・宇摩志麻遅命とともに物部の兵を率いて尾張・美濃・越国を平定したと上記にも書かれている、天香山命(アメノカゴヤマノミコト)です。

私の父親が新潟県の長岡市(旧与板町)の出身で、私が子供の頃、夏休みには毎年のように、父親の実家から近い、寺泊の海水浴場に泳ぎに行っていました。寺泊は、「海のアメ横」と呼ばれているらしいですね。子供の頃は知りませんでした。そんなに海産物が安く買えたのかなあ?

その寺泊の海で泳いでいると、海に向かって右手の方に、三角の山が大きく見えて、父親に、「あれが弥彦山だ」と教えてもらいました。
新潟は広大な平野がひろがっていて、米どころであります。父親の実家の周辺にも山はほとんど見えません。ですから、その中で弥彦山は、標高はそれほど高くないとしても、とてもよく目立ちました。

父親が弥彦山弥彦山と折々に口にするので、新潟の人にとっては、なじみ深い山なのだろうかと思っていました。一度だけ、海水浴の帰りに、弥彦山の山頂付近まで車を走らせ、車内から軽く、遊園地などの施設を眺めて帰って来たことがありました。弥彦山に神社があるなどとは当時全く知らず、その神社が越後の一宮であるということも、ごく最近知ったのです。

おととし、職場の同僚の先生が、新潟方面に旅行してきたおみやげとして、この弥彦のお菓子を買って来てくれました。私が日本史の教員だからということなのか、先生は、そのお菓子の菓子折に入っていた説明書きを私にくれました。その先生は、謎めいた雰囲気の先生で、実家は三重県の、伊勢神宮の神領のような所にあって、おうちの事情で、結局三重県に戻ってあちらで教員をすることになっておととし退職されました。やはりあちらでは伊勢神宮に対する信仰は生活に根ざしていて、毎月のおついたち参りのようなことは必ずやっているというお話でした。

その先生からいただいたお菓子の説明書きを引用させていただきます。

「昭和天皇・皇后両陛下(弥彦ご宿泊御料菓)」 

と書いてあります。昭和天皇さんが弥彦に宿泊されたことがあるんですねえ。改めて驚きです。
そして、そのお菓子は「玉兎」といい、その説明を、引用しようと思いましたが、画像をアップしますのでそれでお読みください。



また、弥彦観光協会Webサイトにもいろいろとこの玉兎にまつわる同様のお話が載っていますのでご覧ください。

http://www.e-yahiko.com/souvenir/usagi

画像の方に書いてあるように、兎が涙を流して神様の話を聞いていた、というくだりが、なんだか琴線にふれます。そして、同時に、出雲大社にあったオオクニヌシと兎の銅像を思い出します。兎がオオクニヌシの話を一生懸命に聞こうとしている像です。
シチュエーションは違いますが、神様と兎が話をしているという形は、因幡の白ウサギの話とこの玉兎の話は似ていると思いませんか?


こういう弥彦神社で、鎮魂祭が行われているのですね。

天津神国津神といった場合に、スサノオは天から降って来たから天津神?子供のオオクニヌシは国津神?ニギハヤヒは天から降って来たから天津神?しかし物部神社や出雲系の神様は地神ではないのか?などなど、私も勉強不足のせいもあるのですが、ややこんがらかっています。

混乱しつつも、ウマシマジやアメノカゴヤマといった神様が平定したという尾張、美濃、越国、播磨、丹波、石見、といった国名を見ると、出雲や海人族との関わりを感じるような気がします。製鉄との関わりをなんとなく感じます。今現在、その根拠を即刻示すことができないのですが、過去にいろいろ読んだものを総合すると、なんとなくそんな感じがするのです。

石上神宮から話が広がってしまいましたが、物部氏はどちらかといえば「負け組」であり、その物部氏にゆかりのある神社で鎮魂祭が行われているということ、新潟=越の国というと、オオクニヌシとヌナカワヒメの物語から連想されるように、出雲の勢力が越と結びついたのであり、その地域の弥彦山でも鎮魂祭が行われているということ。ただし、弥彦神社は物部の鎮魂法ではなく中臣の鎮魂法であると物部神社のHPに書いてありました(前回記事)。
私はその鎮魂祭が行われている日・時間にちょうど生まれたし、弥彦山は子供の頃から見慣れた山であることから、こうした鎮魂祭と縁があるような気が、します。

アメノカゴヤマノミコトはアマテラスの曾孫とのことで、国津神ではなく天津神なのかもしれませんが、それでいいのかな?とも思います。何しろ、日本海側は出雲をはじめ「敗者」の香り?が漂っている気がするからです。
どうしてこの三つの神社(と宮中)で鎮魂祭が行われるのかについては、もう少し自分でも追求してみたいと思います。

ある文献で、古代の人が、日本海を西の方から新潟方面に北上してくると、弥彦山が海上からよく見えた、ある種の目印のように見えただろうといった趣旨のことが書いてあるのを読んだことがあります。その印象は、実際に海水浴場で見ていたのでわかります。新潟平野の中ではかなり目立つ存在だと思います。海のそばになんでいきなりこんな高い山が突き出ているんだ?と感じます。

日本海側は、いろいろと謎めいた雰囲気を持っています。太平洋側に住む者にとっては、ちょっと遠いですけれども、探索・思索の旅に出てみたくなります。
私も、子供時代にはよく行きましたが、大人になってからじっくり訪れたことがないので、いつか、弥彦神社をはじめとして日本海側を旅してみたいと思っています。

先日の会津旅行では、空はどんよりとした雲に覆われていました。会津はどちらかというと日本海側の気候・文化に属していると感じます。日本海側では冬はなかなかスカッと晴れる日も少ないようで、憂うつな日々が続くのかもしれないですが、そんな気候に負けずに明るい気持ちで過ごせるといいですね。