今年もまた「あの日」がめぐって来た。
17年目の神戸の街はふたたび「鎮魂」につつまれた。
もう17年も経つと言うのに・・・
未明の薄闇に揺れる鎮魂の炎を見ると、今も涙があふれそうになる。
午前5時46分。
大好きだった神戸の街が「消滅」した瞬間だった。
その朝、大阪市内の自宅マンションで惰眠を貪っていた私は
地鳴りのような激しい揺れに驚いて飛び起きたものの、しばらくは茫然としていた。
妻は悲鳴のような声とともに玄関のドアを開け放し、素早く浴槽に水をため始めたが
情けないかな、その行動の意味さえすぐにはわからなかった。
テレビは「大きな地震があった」と言うだけで詳細はまったく伝わって来ない。
当時、私は朝のラジオ番組を担当していたこともあって反射的にスイッチを入れた。
しばらくすると出社途中らしいアナウンサーの電話リポートがあった。
「あちこちで阪神高速が落下しています」
思わず耳を疑い、慄然としたことを覚えている。
それがすべての始まりだった。
時々刻々と拡大する被害の実態は想像をはるかに絶するものだった。
黒煙が立ち上る神戸の空撮映像をただ声もなく見つめていた。
戦争でもないのにこれほどの人間が死ぬという現実がどうしても受け入れられず
怒りとも哀しみともつかない「不条理」に打ちのめされていた。
担当していた番組はすべて吹き飛び、テレビもラジオも報道一色となった。
正直言って、番組などどうでもよかった。
一人の人間として、この未曽有の大災害にどう向き合うのか、何が出来るのか。
そればかりを考えていたような気がする。
鉄道を始めとする全てのライフラインが途絶していた。
取材クルーに頼み込んでロケ車で神戸に入ったのは一週間後だった。
その時の衝撃をどう言葉で表現したらいいのか・・・
不謹慎な言い方だが、人間がありたけの英知と技術で築き上げた文明など
大自然の脅威の前では「何ほどのものでもないな」という無常感だった。
怒りや悲しみを通り越して、頭が真っ白だったことを憶えている。
大好きだった三宮の変わり果てた姿に立ち尽くすばかりだった。
蝶ネクタイのマスターがいつもにこやかに迎えてくれた路地裏のバーも
小籠包が滅法うまかったセンター街の奥の中華屋も
女の子にドタキャンを食らって一人淋しく泊った海岸通りのホテルも
すべて瓦礫に埋もれて見えなかった。
焦土と化した長田の街。
燃え広がる火災をなす術もなく見守るしかなかった消防士たちの無念。
すさまじい炎の中に必死で愛する人の名前を呼び続けた家族たちの絶望と慟哭。
その地獄絵が今も目に焼き付いている。
長田の街を歩きながら激しい尿意を覚えたがトイレも焼けてしまっていた。
仕方なく瓦礫の山の隅で立ち小便をしたのだが
空を見上げ自分の小便の音を聞きながら、訳もなく涙があふれてどうしようもなかった。
一年後、私は「いつか神戸」というテレビのドキュメンタリー番組の制作に携わった。
震災で肉親を亡くし、家を失い、生活の場を奪われた多くの人々が神戸を離れていった。
そうした日本全国の「震災避難者」の実態を追った番組だった。
大好きな神戸を捨てざるを得なかった人たちの望郷の念は切ないほどだった。
そして、その人たちは「いつか神戸に・・」という思いを抱きながらも
夢は見果てぬ夢に終わり、それぞれの土地で17年目の「あの日」を迎えている。
震災は決して終わっていないのだと思う。