4月 20日

2010-04-20 20:55:02 | Weblog

          ( 桜草 )

 

花びらにかくるゝ蕾桜草                倉田紘文

 

咲きみちて庭盛り上る桜草              山口青邨

 

三ツ編みの左右揃わず桜草             菱川弘子

 

桜草ときをり風をとらへゐる              山田美代子

  きらん草・金瘡小草

 きらん草古代紫展げけり 後藤比奈夫

  
 独り言  
またまた、鑑賞の話
 私が初めて結社に入った頃の青年部の勉強会は
 鑑賞が中心で500字詰め原稿用紙10枚が課題でした。
 いい句だなぁ~なんて思うもののいざ5000字の鑑賞文など
 書けるはずもなく、四苦八苦したうえでも毎回4~5枚が限度
 でした。今になってみれば「なぜ鑑賞文」なのかの意味が分かる
 ような気がします。
 つきつめて鑑賞することに依って、自句への客観の眼力も養われ
 また俳句作品の詩情のありかたなども学びます。
 5000字を凝縮して17文字に収める。これが勉強会の逆転の
 発想で、例えば今。自句に自解文をつけるとしたら、5000字は
 大袈裟でもある程度の物語が書けなければ。なかなか読者の心に
 伝わらないと思うこの頃です

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4月 19日

2010-04-19 01:00:04 | Weblog

           ( 紫華鬘・藪華鬘 )

 

卑弥呼美貌なりしや紫華鬘摘む           岡部六弥太

 

川波に紫華鬘咲き隠る                 石原八束


風塵に紫華鬘幾菩薩                  木村蕪城

  むかし色の底に見えつつ花紅葉 上島鬼貫


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4月 18日

2010-04-18 00:48:20 | Weblog

            ( 利休梅 )

 

利休梅五十はつねの齢ならず                石田波郷

 

利休梅その下蔭の好もしき                  後藤夜半

 

利休梅死の齢まだ見えて来ず                 矢島渚男

    羅生門蔓


   独り言 

利休梅といい羅生門蔓といい、真に佳い名前です
色と形とその名前で詩情がありますね

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4月 17日

2010-04-17 01:06:59 | Weblog

          ( 筍・笋・竹の子・たかんな・たかうな )

 

ころころのお散歩コース赤塚植物園の竹林に今年も竹の子が顔を出し始め
ました。最近、新しい近道を知ってから徒歩8分となり、もし天変地異があれば
そのときにはここに逃げ込もうと算段しています。今なら旬の恵みが沢山。
秋なら果樹園。何とかなりそうな気がします

 

竹の子の黒装束は折られたり            阿波野青畝

 

竹の子のさみどり揃ふ山の宿            木村敏男

 

筍の荷がゆく朝の札所前               飯田龍太

 

たかんなや吉良累代の墓所             加古宗也

  竹の秋しづかなものに余呉の湖  細見綾子

    独り言 

朝起きてビックリ、見渡す屋根が雪で真白・・・花後の雪 なんて季語ができるかも
東京に生を受けて59年、この時期にこんな風景は一度も見た事が無い

さて今日はこんな話
いつものことながら俳句を詠むルーティーンに俳書や句集を読む
ことがある。読んでるうちに浮ぶことが多いのでいつからか
はじめたのだが、ふとかなり前に先輩からこんな話を聞いた
ことを思い出す。
俳句の詩の部分は作者それぞれの感性(生き様)の表現で
あり、形としての俳句は百余りしかない。どんな俳句もそれに
あてはまる。その中でも印象的に残っているのは「て」止めの
俳句について聞いたことだ。
そもそも「て、に、にて、らん、もなし」の止めは連句の第三句目
発句(第一句目)脇(第二句目)に添って一巻の変化展開の
始まりの場所、連句書によれば前句を受けながらも発句、脇の
境地から大きく転じることとある。

俳句はすべて発句として独立していなければ成立しない。
「て」止めがいけないのではなく、効果として「て」以降の
沈黙の中に読者への理解を求めてしまう。
つまり第三者を引き込んでいて独立していない
 ○○の ○○○○ ○○て
 ○○に ○○○○ ○○て
では、「て」止めを使うにはどうしたらいいのでしょう。
それは「や」切れ字を使うことで良いそうだ・・・
 ○○や ○○○○ ○○て
この「て」は「や」以前の○○が解決するということです。
文章にすると分かりずらいが、是非実作でお試しを・・・

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4月 16日

2010-04-16 01:19:09 | Weblog

           ( 錨草・碇草・いかりさう )

 

葉と花と別れて細し碇草                阿部みどり女

 

錨草炭篭の辺に花了る                金子星零子

 

碇草生れかはりて星になれ               鷹羽狩行

 

うつむくは負けの姿よ錨草                檜 紀代

  群雀(中国原産・マメ科)

    独り言 

昔書いた比喩の話をもう一度
物事を説明するとき、相手のよく知っている物事を借りてきて、それになぞらえて
 表現すること。その方法により、直喩・隠喩・換喩・提喩・諷喩などがある。

 直喩   「たとえば」「ごとし」「ようだ」
 
 暗喩   言葉の上では,たとえの形式をとらない比喩。「雪の肌」
 (隠喩)     「ばらのほほえみ」の類。メタファー。
 
 換喩   言い表そうとする事物を、それと関係の深いもので表現する修辞法。
      「金バッジ」で国会議員を表すなど。
 
 堤喩   「太閤」で「豊太閤」(豊臣秀吉)、「山(やま)」で「比叡山」を
      「小町」で「美人」、「花」で「桜」の意を表す 
 
 諷諭   たとえによって本義をそれとなく表現したり推察させたりする修辞法。
      「朱に交われば赤くなる」で「人は交わる友によって感化される」
      の意を表す類。


 比喩句の難しさは,最近特に感じている。
 初学のころは、何でも「如し」「如く」だった。
 誰でも感じて数多く詠まれているものに「如く」と言っても「そんなことは知ってる」
 になる。例えば木蓮などは「子供の掌」「手」「指先」、三日月などは「刃物」
 これを直喩で詠っているうちはいいのだが。
 
 掲示の比喩法の内、換喩,諷喩は俳句にはむかない。換喩は独り善がりの解釈が
 あり、諷喩は種明かし俳句となる。
 辞典などでは、暗喩と隠喩は同意語になっているが、少し違いがある。
 暗喩は掲示の通りの意味あいがあり、隠喩には例の「雪の肌」から一歩踏み込んだ
 表現と解釈がる。これを言葉で説明するのは難しい。
 



 

 

 

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4月 15日

2010-04-15 00:39:45 | Weblog

        ( 枳殻の花・からたちのはな )

 

子に見せてやりしもの今日枳殻の花           細見綾子

 

時刻表にはさむ枳殻のこぼれ花              横山房子

 

枳殻の花散る朝の乳母車                                    新田祐久

 

病院の枳殻の垣の花咲きぬ                                  横山白虹

   狐のぼたん


 

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4月 14日

2010-04-14 01:00:03 | Weblog

         ( 山吹草 )

 

杣小屋へ山吹草の雪崩咲               辻田克巳

 

窯出しの壺のかがやき山吹草             小俣幸子

 

空濠の崩るるままに山吹草               中村姫路

 

山吹草夕日うするる隠れ里                桑山ヨシミ

 浄智寺 布袋像

  ちょっとこい指差し笑ふ布袋像

    独り言 

まず、仕事中に「独り言」を書くことをお許しください・・・と誰に?
この独り言を書くときには、メッセージを届けたい気持ちが昂ぶったときが多い
時には一個人へ時には連衆へ、届かなくてもそれは仕方ない事。
「たかが俳句されど俳句」ころころはこの「たかが俳句」という言葉をも大切に思います
俳句は作品だけが評価されるもの、だから「最近あの人は上手になったね」なんて言葉は
何気なく誉め言葉として使っているでしょう。けれど その使い方は少し違う。
今日の俳句はいいね」「今日の俳句は駄目だったね」厳しいようだけれど、それが俳句仲間
連衆への愛情のある呼びかけだと思います。上手くなったねは上から目線です。
俳句の出来によって人が評価になることは絶対にさけるように、少なくても指導的立場の人は
そう思っていてほしい。初心者の句に少しでも光るものがあれば取り上げて、教えて欲しい
指導者の選は切り捨てであってはいけないと思っています。
(結社においては主宰の切捨ては、投句=質問、切捨て=答え、だから致し方ないのです)




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4月 13日

2010-04-13 00:01:51 | Weblog

        ( 石楠花 )

 

石楠花にひびきて深き渓の水              深見けん二

 

石楠花の巌そそり峙つ雲あをく              小原菁々子

 

石楠花を隠さう雲の急にして                                 阿波野青畝

 

石楠花にかくれ二の滝三の滝                               宮下翠舟



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4月 12日

2010-04-12 00:05:20 | Weblog

             ( 紫花菜・花大根・諸葛采 )

 

遠ざかる人まだ見えて花大根            高田正子

 

潮騒の聖堂低し花大根                水原春郎

 

足許に点るむらさき諸葛采              草間時彦

 

諸葛采奥処へ灯数知れず              谷智恵子

   独り言 

先日このブログにご紹介した、林徹著 「細見綾子秀句」俳句の仲間にも句会などの折り
おすすめしてきましたが、何人かの方がお求めになったようで、ご紹介の甲斐がありました。
鑑賞が一句と並び、時として一句を凌ぐほどの作品に思われました。
勿論,鑑賞は誰でもができ、鑑賞者の体験の中で感じればそれでいいのですが、今一歩の
深みに届くほどの鑑賞文はあまり出会いません。
無難な・・というのでしょうか、誰でもがそう思うことを詠むのが俳句ですが、誰でもがそう思う
鑑賞文では作品になりません。 良い子を良い子と誉めるだけの事です。
林徹さんの文章は、ころころのような浅学の者にでも分かりやすい言葉と、文法の解釈、季語、
切れ字の必要性,重要性、必然性などがよく理解できます。これから、もしどこかで鑑賞文など
を書くような場面があればどなたにも手引書になるような気がします。
機会があれば是非読んでみることをおすすめします。


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4月 11日

2010-04-11 17:43:51 | Weblog

          ( 通草の花・あけび・山女の花 )

 

うすうすとかはたれ色の花通草             文挟夫佐恵

 

荒垣に日のこもりゐる花通草              大槻千佐

 

袖垣に蔦のかけ橋花通草                杉本美代

    春風の中や仏のうす衣

    独り言 

昨日は句会でした。前日急なサプライズのメールを名古屋の友人から届く
東京へ出る用事があり、3時まではあくので句会ならば参加したいとのこと。
句会の連衆には内緒。サプライズゲストとして集合場所の植物園入り口に
お連れした。連衆も旧知の仲。サプライズを大いに喜んで頂きました。

    遠き囀り近き囀り友来る   

 

 

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