毎週、楽しみししていたドラマ「電車男」が、今晩、終わってしまった。
しかし、ドラマとしてというより、2人<エルメスと電車男>のシーンに、色んな過去がダブって「フラッシュバック」してしまった。
私は、何はどうあれ結果的に現在は「電車男」のネット住人と同じ、毒男=独身男 である。
但し、それはそれで、ああいうシーンもあったなということを、思い出すつもりもなかったのだが、様々な「瞬間」を思い出してしまったのである。
伊東美咲さんのエルメスの可愛さにノックアウトされながら、「好きって言ったらもっと好きになっちゃいました 」というセリフにグッときてしまった。
(bluegoldさんも同様の事を言っていた。同じくして、グッときた人も多いだろう・・)
これを聞いて、今は亡き、愛する中島らもさんの本の「大好きな」名文を思い出した。
らもさんでなければ言えない(もしくは、糸井重里さんくらいか?)痛く、痛い、重い、コトバだ。
あんな瞬間が自分のようなかたちんばにもあった。永遠のような停止した瞬間が。
もう戻ることない、一瞬の、瞬間が。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
・・・恋におちてしまうのは僕の責任ではないのだ。
そいつはいつも、何の予兆も無くいきなりやってくる。
チャイムを鳴らしてくれれば逃げる手もあるのだが、散歩に行こうとドアを開けると、いきなりそこにヌッと立っているのだ。
アッと思ったときはもう遅い。
・・・そうやって恋に落ちるたびに、僕はいつもボロボロになってしまう。
何日も家に帰らない。
熱でうなされたようになって、相手への想いではちきれんばかりの頭を抱え、ただただ夜の街をほっつき歩いているのだ。
そのへん、恋というのは病気に似ている。
・・・そんな風に、目に見えない力に引き裂かれるような想いで、痛い痛い夜々を過ごすのけれど、それに対する報いというものは何もない。
・・・「恋愛は日常に対して垂直に立っている」と言い換えても間違えでは無い。
極端に言えば、恋愛というのは一瞬のものでしかないのかもしれまい。
唇と唇が初めて触れ合う至高の一瞬、そこですべてが完結してしまい、
それ以外は日常という散文への地獄下りなのだ。
ただし、その一瞬は永遠をはらんでる。
その一瞬は、通常の時間軸に対して垂直に屹立していて、その無限の拡がりの中に
この世とは別の宇宙がまた一つ存在しているのだ。
・・・今夜、街のどこかで向かい合っている唇と唇の間の何センチかの中に、
永遠の時間と、無限の距離と、そして無数の激痛をともなう夜々がうずまっているだろう。
・・・金輪際ごめんだと思っているにもかかわらず(恋を)またやってしまう。
そのへん、恋は二日酔いに似ている。
しかし、言い訳では無いけれど、こういうことなのかもしれない。
もし、誰をも愛していないとしたら、結局僕は「居ない」のだ。
闇の中で、「想い」だけが僕の姿を照らしてくれているような気がする。
それ以外のときは僕は一個の闇であり、一個の不在でしかない。
そのへん、恋は灯台に似ているようだ。
(中島らも「恋は底ぢから」より)
しかし、ドラマとしてというより、2人<エルメスと電車男>のシーンに、色んな過去がダブって「フラッシュバック」してしまった。
私は、何はどうあれ結果的に現在は「電車男」のネット住人と同じ、毒男=独身男 である。
但し、それはそれで、ああいうシーンもあったなということを、思い出すつもりもなかったのだが、様々な「瞬間」を思い出してしまったのである。
伊東美咲さんのエルメスの可愛さにノックアウトされながら、「好きって言ったらもっと好きになっちゃいました 」というセリフにグッときてしまった。
(bluegoldさんも同様の事を言っていた。同じくして、グッときた人も多いだろう・・)
これを聞いて、今は亡き、愛する中島らもさんの本の「大好きな」名文を思い出した。
らもさんでなければ言えない(もしくは、糸井重里さんくらいか?)痛く、痛い、重い、コトバだ。
あんな瞬間が自分のようなかたちんばにもあった。永遠のような停止した瞬間が。
もう戻ることない、一瞬の、瞬間が。
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・・・恋におちてしまうのは僕の責任ではないのだ。
そいつはいつも、何の予兆も無くいきなりやってくる。
チャイムを鳴らしてくれれば逃げる手もあるのだが、散歩に行こうとドアを開けると、いきなりそこにヌッと立っているのだ。
アッと思ったときはもう遅い。
・・・そうやって恋に落ちるたびに、僕はいつもボロボロになってしまう。
何日も家に帰らない。
熱でうなされたようになって、相手への想いではちきれんばかりの頭を抱え、ただただ夜の街をほっつき歩いているのだ。
そのへん、恋というのは病気に似ている。
・・・そんな風に、目に見えない力に引き裂かれるような想いで、痛い痛い夜々を過ごすのけれど、それに対する報いというものは何もない。
・・・「恋愛は日常に対して垂直に立っている」と言い換えても間違えでは無い。
極端に言えば、恋愛というのは一瞬のものでしかないのかもしれまい。
唇と唇が初めて触れ合う至高の一瞬、そこですべてが完結してしまい、
それ以外は日常という散文への地獄下りなのだ。
ただし、その一瞬は永遠をはらんでる。
その一瞬は、通常の時間軸に対して垂直に屹立していて、その無限の拡がりの中に
この世とは別の宇宙がまた一つ存在しているのだ。
・・・今夜、街のどこかで向かい合っている唇と唇の間の何センチかの中に、
永遠の時間と、無限の距離と、そして無数の激痛をともなう夜々がうずまっているだろう。
・・・金輪際ごめんだと思っているにもかかわらず(恋を)またやってしまう。
そのへん、恋は二日酔いに似ている。
しかし、言い訳では無いけれど、こういうことなのかもしれない。
もし、誰をも愛していないとしたら、結局僕は「居ない」のだ。
闇の中で、「想い」だけが僕の姿を照らしてくれているような気がする。
それ以外のときは僕は一個の闇であり、一個の不在でしかない。
そのへん、恋は灯台に似ているようだ。
(中島らも「恋は底ぢから」より)
僕は思っています。
恋は極めて純粋な心の作業だからです。
しかし、いつか、覚醒された永遠の時は、折れて、
垢のまみれた「現実」に染まっていくのです。
結婚、などというものも、既にこういった「現実」の契約であり、そういう地獄下りには染まりたくない。
こういう意識が、結婚できなかった今までの要因かもしれません。
私が音楽が好きなのも、垂直に立ち上がる、永遠の時に回帰したいということの現れである。
音楽が、「垢にまみれた現実」に染まってはいけないのだ。
私が、安直な、しょせんは「現実」をなでかえすような音楽が嫌いなのは、また、安易なラヴソングが嫌いなのは、そういうことだ。
相手は、やっぱり伊藤美咲に似てたんですか。
'94年の28歳、大阪に居た頃の事ですが。
その恋が、というか結婚が、当時、駄目になったのが、冬の年末で、余りの痛手に精神がおかしくなり、死んでしまいたくなった。
あの日の痛手は、今は、遠い過去ですが、それでも、未だ自分の中でうずいてはいます。
この件があってから、でした。
お酒を毎日飲むようになったのもだし、音楽の「詞」=コトバの意味が分かるようになったのも、LoveSongの良し悪しが分かるようになったのも。
この件は、話が長くなるので、また別の機会で話します。
しかし、男というのは、さばさばしたオンナのヒトよりも、情が深い厄介な生き物ですね。
未だに当時、もらったいろいろの品物も捨てられずに、押入れにしまっていますのですから。。。(ココロの押入れにも。)
伊東美咲さんのようなキレイなおねいさんではなく、渡辺満里奈に似た童顔の子でしたが。