こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2013年10月11日 金曜日 「制約された条件からの視界」

2013-10-11 21:34:29 | 音楽帳

アッコちゃんというと、ワンフレーズなんたらと同じで・実にわかりやすいので「代表曲、ラーメンたべたい」といったプレゼンが多く目立つのは、ある意味仕方の無いこと。
個人的には、しんどくて聞けない、というのが本音。
一方、彼女の音楽が好きな方は、万華鏡の如く・多面的に視えているので、こんな馬鹿ちんばが言うまでも無いことは、周知の事実。

そんな前置きを置いた上で、
自分は1984年の作品「オーエス・オーエス」は、好きではなかった。
好きではない、なるは、アルバム全体のことを指す。

細野さんの曲「終わりの季節」のカバーを、鈴木さえ子ちゃんのラジオ「サウンド・キッチン」で初めて聴いた時には、自分が音に身をゆだねられた矢野顕子の才能に感服し、
その後、毎週聞いていた・ゲージツ家・クマさん(篠原勝之)の深夜ラジオの終わりのテーマ曲が「アッセンブリー」だったり。。。
と想い出深いのは、多々あるのだが。

教授との夫婦&子供という家族がある風景の姿。決して良いことばかりでは無いけれども、やっと落ち着く場所を見つけて、よっこいしょ、と腰を下ろした感が、大きく影響し過ぎていた。興味を失わせていた。
そう思っていた自分は、当時、さまよう・居場所無き・高校生であり、
80年代の「打って出る」音楽たちに、多くの生きる希望を貰っていた時期で、自分の視える視野には、状況的距離が大きすぎたのである。

輪廻転生を経たオトナになってから、大貫妙子さんがバッキング・ヴォーカルを担う「素顔」という曲に、一周廻って出会い、体内にインプットされた。
それ以降、『春ぼらけ』や『花曇り』の季節に陽気がなると「素顔」を聴きたくなる。

■矢野顕子 「素顔」1984■
この、ぼんやり感。
微細な1mmレベル誤差を、音楽に出来る天性。
当然、教授という才能との融合もあってのことだが。

こんな月日に「素顔」が聴きたくなったのは、狂ってしまった体内時計のせいかもしれないし、陽気の変動がキチガイになってしまったせいかもしれない。


コメント (1)
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