
ふてぶてしい、気持ち良さそうな寝顔。
でも、ネコにしてはスキだらけ。
ほんとうは、彼は自分のことを人間だと思っていたんじゃないか?
人が食べているものは、甘い物だろうが欲しがった彼ゆえに、そうに違いない。
だから、警戒も無くこんな顔で寝ていられる。
もしくは、ポール・ギャリコの「ジェニィ」のように「ある朝起きたら僕はネコになっていた」ではないが、そうして、自分の前に現れたのかもしれない。
彼がコチャコからにゅるにゅる~と産まれるところから見ていながらも、そんな気までしてしまう。

ぽわーんと・ほんわかとした雰囲気をたたえた独特なネコ=まみやん。
こんな不思議な性格のネコには、初めて出会った。
この相棒が亡くなって、この12日で丸3年を向かえる。
これから、まみちゃんの墓前にあいさつに向かいます。
今年も、まみちゃんのために、自分のとっておきの大好きな曲をお蔵出し。
今日の天気や陽気がどうあれども、今年はこんな曲を贈ります。
ドリーム・アカデミーの叙情的な名曲「インディアン・サマー」を。
■Dream Academy 「Indian Summer」'87■
インディアン・サマーとは日本語で小春日和。
小春日和というセリフに思い出すのは、百恵ちゃんの「コスモス」。
U2にも、同タイトルの曲がありました。

ドリーム・アカデミーのこの曲は、2枚目のアルバム「リメンバランス・デイズ」に収録された1987年の作品。
1987年とは、私の人生が一回終わった(はずの)後の年。
日々の音楽シーンとは離れた場所で、狂気を如何に抑えるか?こんがらがってしまった脳の中の紐をどうほどくか?そうしながら、薬漬けに拠って様々な症状を押さえつつ、ドローンとしていた頃。
偶然、クロスオーバーイレブンでこの曲のクレジットがあり、エアチェックして大正解だった日。
音の向こう側に、優しい日差しの陽光と風に揺れる草原、そして海が見える。自由な呼吸感。
私の想い描くドリーム・アカデミーらしいおおらかさ。

翌年1988年には、TVーCM「ハートランドビール」のイメージソングに使われた曲「イン・ザ・ハート」。
ここにも、時代に縛られない永遠があった。



ずーっと想っていたことだったが、本当に英語の概念であるインディアン・サマー=日本語の小春日和なのか?という疑問。
少し調べて見ました。
■お世話になっている「GOO辞書」では・・・
「北アメリカで、晩秋から初冬にかけての穏やかで暖かい日和(ひより)。また、落ち着いた人生の晩年にたとえていう。」
■ロス在住の方のGOOブログでは・・・(アドレス http://blog.goo.ne.jp/laflyfisher)
「言葉の語源ははっきりとは誰も知りませんが、1778年頃よりアメリカンインディアンの間で使い始められ、現在のアメリカの人達には歓迎すべきよい日として、言い伝えられています。
アメリカの作家で詩人のシャルアンダッシーが、彼の詩集の中に「喜びと感謝をこめて」あの暖かいうっすらと薄い煙がたちこめたような夏の戻りを「インディアン・サマー」と呼び、多くのアメリカンポエムの中でとりあげられました。
1855年頃よりアメリカの人達の挨拶の中に流行するようになり、現在に至っています。」【ブログより引用】



ドリーム・アカデミーのこの曲に現れる、天に響くようなコーラスは、タイトルと一体になったイメージを描き出している。

彼らのシングル「イン・ザ・ハート」には、とてもステキな文章が添えられているので、是非、今日という日に紹介したい(文筆家不明)。
『綺麗な服も、アウトバーンのために作られた車も、100年前なら一生の暮らしを保証してくれるジュエリーも、僕たちの周辺にいつの間にか当たり前のようにあふれている。それが当然のふりをされると、どうしても必要な気がしてくる。
不必要なものを追い回していると、僕たちの中から大切な部分が欠落していく。
波が海岸にはじける悲鳴も、季節の変わり目を告げるベル・ボーイたちの鈴の響きも、青と紅の間に存在する虹色も。
いつの間にか、何も感じなくなっていく。君は都市の迷い子になってしまった。
同じ都市として、成長の早かったロンドンは、この落とし穴に気付いていた。
ニック・レアードークルウズ、ケイト・セント・ジョン、ギルバート・ゲイブリエルは、物質欲の方に吸い寄せられていく人々の列に向かって、ジェントルな演奏を奏でた。
クラシックをベースにしたこの三人組=ドリーム・アカデミーの創り出す調べは、都市のプラスティックの鎧(よろい)をすり抜けて、迷い子たちの心に直接届くことだろう。』







自分も、まみちゃんのように、自由に表情を変えながら、だらりんちょんと肩ひじ張らない姿で、世界を謳歌出来れば良いのに。
彼の写真をめくるたびに、同じ言語で話せなくても・'96年4月8日から'09年10月12日まで寄り添いながら、彼から学んだ生きる上でのニュアンスを思い出す。
「そんな顔しなさんな。」(くるり「アマデウス」)
まみちゃんは、そう言うだろう。
彼が亡くなった分、自分がその意を継いで、あんな風に生きられればと想う。