背中痛は、鎮痛剤の一助もあり、小康状態。
とは言え、異物は、左ハラの内部に住まっている。
医者は「カラダを動かさな過ぎるのも避けて」などと、難しい注文をしたが信じてはいない。
何より、動かせばそれだけで飛び上がるような痛みを感じるだけの中で、信じようもないのが現実。
***
43歳の細野さんファン様へ
お便り、ありがとうございます。
おっしゃる通り、苦境と裏返しに、それをも自らのエキスとしようとする自分も、欺瞞に満ちた。。。
所詮はニンゲンなる、本能が壊れた奇妙な生き物。
YMO、というか、イエローマジックオーケストラとの出会い。
少ない手持ちで、レコードを買うお金を、カセットテープに投入したこと。
FMラジオと雑誌、そして、クロスオーバーイレブンが、貴重な音との接点。
どれもに「うんうん」とうなづきながら、自分との相似形たる当時の音楽リスナー像が見事に浮かび上ってきます。
唯一違う点。
ボクが棲息していたエリアは、電波状況が悪くて、チューニングにとても苦労しました。
日によっても違って不安定でした。
ただ、おっしゃる通り、夜が深まるほどに、余計な電波が無くなるせいか?
クロスオーバーイレブンが始まる頃には、純度の高いホワイトノイズに変わる。
密閉型の高いヘッドフォンを装着し、あの「サー」っという音のベストポイントを探して、1ミリ単位で調整していた深夜を思い出します。
同じだな。。。とリアルに思ったのは、歌詞への無関心。
音楽との蜜月を過ごした中高生の頃、音楽=歌詞抜きの世界でした。
歌詞はむしろ邪魔な存在で、浮遊しようとする障害物でもありました。
中学生で、疲れやだるさを認識し出したころ。。。
音楽は、自分にとって、唯一「 甘えられる 寄る辺 」なる存在となりました。
そこに、この世には無い自由があり、制約なく空を飛べる世界を発見しました。
イーノの発見も、その点での深い共鳴ゆえのものでした。
「ロック嫌い」や「ロックそのものを理解出来ない」感覚も、そこに根差しています。
メッセージ、攻撃性、外部からの強要。
当時、自分にとってロックとはそういう存在でした。
ある地点から、歌詞への着目、そしてロック的なものへ向かって行きますが、それはおいおい。。。
(。。。とは言え、語れぬまま死を向かえるかもしれませんが、今はそのエネルギーがありません)
***
文学少年だった兄への反感・拒絶もありましたが、
コトバよりも絵・写真・イメージのほうが偉大なる確信が、自分の根幹に巣食っています。
カメラをやりたい。
それは、相当前から温めていた構想。
しかし、お金が無い。
その一方で、想い出・過去はひたすら瞬間瞬間消えていく。
そのジレンマが、大学以降に爆発に至りました。
優れる・優れない。。。そういう価値では無い、生きていた瞬間瞬間を定着させる。
記録と記憶を写真に宅しています。
***
スケベ根性ですが、まだ痛みが無い日に近所をブラブラした際の写真を、休みにリサイズしたものの、整理付かぬまま、お便りに「好い気になって」オクラ出しします。
新しい帽子が気に入って、それが起点で散歩に至った道です。
曲は、歌詞への着目が産まれたのちに出会ったものですが、今、再度、今夜の記録として聴きたいと思います。
この曲は、下町で生まれ育った自分に、どうせ死ぬなら下町で死んで行きたいという想いを認識させるものです。
オマケ:1996年の写真。
左から、まみちゃん・正ちゃん・コチャコさん。
■矢野顕子・佐野元春&坂本龍一 「自転車でおいで」■
とは言え、異物は、左ハラの内部に住まっている。
医者は「カラダを動かさな過ぎるのも避けて」などと、難しい注文をしたが信じてはいない。
何より、動かせばそれだけで飛び上がるような痛みを感じるだけの中で、信じようもないのが現実。
***
43歳の細野さんファン様へ
お便り、ありがとうございます。
おっしゃる通り、苦境と裏返しに、それをも自らのエキスとしようとする自分も、欺瞞に満ちた。。。
所詮はニンゲンなる、本能が壊れた奇妙な生き物。
YMO、というか、イエローマジックオーケストラとの出会い。
少ない手持ちで、レコードを買うお金を、カセットテープに投入したこと。
FMラジオと雑誌、そして、クロスオーバーイレブンが、貴重な音との接点。
どれもに「うんうん」とうなづきながら、自分との相似形たる当時の音楽リスナー像が見事に浮かび上ってきます。
唯一違う点。
ボクが棲息していたエリアは、電波状況が悪くて、チューニングにとても苦労しました。
日によっても違って不安定でした。
ただ、おっしゃる通り、夜が深まるほどに、余計な電波が無くなるせいか?
クロスオーバーイレブンが始まる頃には、純度の高いホワイトノイズに変わる。
密閉型の高いヘッドフォンを装着し、あの「サー」っという音のベストポイントを探して、1ミリ単位で調整していた深夜を思い出します。
同じだな。。。とリアルに思ったのは、歌詞への無関心。
音楽との蜜月を過ごした中高生の頃、音楽=歌詞抜きの世界でした。
歌詞はむしろ邪魔な存在で、浮遊しようとする障害物でもありました。
中学生で、疲れやだるさを認識し出したころ。。。
音楽は、自分にとって、唯一「 甘えられる 寄る辺 」なる存在となりました。
そこに、この世には無い自由があり、制約なく空を飛べる世界を発見しました。
イーノの発見も、その点での深い共鳴ゆえのものでした。
「ロック嫌い」や「ロックそのものを理解出来ない」感覚も、そこに根差しています。
メッセージ、攻撃性、外部からの強要。
当時、自分にとってロックとはそういう存在でした。
ある地点から、歌詞への着目、そしてロック的なものへ向かって行きますが、それはおいおい。。。
(。。。とは言え、語れぬまま死を向かえるかもしれませんが、今はそのエネルギーがありません)
***
文学少年だった兄への反感・拒絶もありましたが、
コトバよりも絵・写真・イメージのほうが偉大なる確信が、自分の根幹に巣食っています。
カメラをやりたい。
それは、相当前から温めていた構想。
しかし、お金が無い。
その一方で、想い出・過去はひたすら瞬間瞬間消えていく。
そのジレンマが、大学以降に爆発に至りました。
優れる・優れない。。。そういう価値では無い、生きていた瞬間瞬間を定着させる。
記録と記憶を写真に宅しています。
***
スケベ根性ですが、まだ痛みが無い日に近所をブラブラした際の写真を、休みにリサイズしたものの、整理付かぬまま、お便りに「好い気になって」オクラ出しします。
新しい帽子が気に入って、それが起点で散歩に至った道です。
曲は、歌詞への着目が産まれたのちに出会ったものですが、今、再度、今夜の記録として聴きたいと思います。
この曲は、下町で生まれ育った自分に、どうせ死ぬなら下町で死んで行きたいという想いを認識させるものです。
オマケ:1996年の写真。
左から、まみちゃん・正ちゃん・コチャコさん。
■矢野顕子・佐野元春&坂本龍一 「自転車でおいで」■