こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

「記憶喪失都市、東京2010」

2010-09-04 00:48:18 | 想い出かたちんば
■関係性のわからない親族、遠くなる「昭和」という過去■

今週のTBSラジオ「爆笑問題カウボーイ」で田中くんと太田さんが話していたが・・・・。
まさに「そうだったのか!田中くんと太田さんもそう思っていたんだ。」という過去の幼少の頃のナゾが1つ解けた。

それは、僕ら40代より上の人。
要は今のような共同体が崩壊し・核家族で生まれ育った人には多分わからない感覚なのだが。

『身の回りに居る人が、一緒に暮らしたり、ときどき来たり、法事やら葬式やらで会ったり…それぞれの顔も《名前というより》愛称もわかっているのだが、誰がどんな関係性の中に居る《親族》なのか?さっぱりわからなかった』という事である。

***

とにかく、幼い頃は「閉ざされた世界/輪」の中になど居られず、いろんなおじさん・おばさん・おじいちゃん・おばあちゃん・・・・・まあ~広い老若男女の人たちが近くにとっかえひっかえしていた。

よく可愛がって遊んでくれた大好きだった優しいお姉さん。
お袋が外に遊びに行っている間にお世話になったお姉さん。
仕事の途中に立ち寄り「坊!(=私)いくつになった?」と言いながら、いつも仕事の話をしていて、帰り際におこづかいをくれたおじさん・・・・。

・・・・・かと思うと、数件斜め向かいのタバコ屋に住むおばあちゃんは、いつも、窓口に座って、タバコだけじゃなくて、駄菓子から生活雑貨まで売り、チョコンとその前にある赤いポストは師走になると中の年賀状を麻袋いっぱいに預かっていた。

ときに、お店のお留守番をまかされ、私もチョコンと窓口に座って、近所のおじさんやおばさんが来ては「えらいね~」などと言われながら、お話をしてタバコを売っていた。

おばあちゃん家の二階に行くと、かもいのところにいろんなおじいさんやおばあさんの色褪せた大きな肖像写真が飾ってあって、部屋には仏壇があった。

はっきりと教えられてわかっていたのは唯一、死んだおじいちゃんの写真だけだった。
波平さんそっくりのおじいちゃんだった。

自分は、よくおじいちゃんの生まれ変わりと言われたが、実感はわかなかった。

勇ましい地下鉄の車掌さんのような帽子をかぶり・正装をして黒ぶちメガネをした大きなおじいちゃんの写真があって、かっこ良かった写真をよく見上げて見ていた記憶があった。

***

後に今となっては、おじいちゃんが交通局に勤務していて、都電の仕事に着いていた事を知り、昭和41年1月に急死し、その後昭和41年7月に自分がこの世界に生まれ落ちたのを知る。

数軒となりがおせんべい屋さん・うどん屋さん・下駄屋さん。

当時、大きなタテ2メートル以上の下駄が店の看板で、この下駄屋のおばさんにも、いろいろ遊んでもらった。



しかし、それがまさかアラーキーのお袋さんとも知らず。

近所じゃ「下駄屋のノブちゃん(=アラーキー)ろくに仕事もせんと、エッチな写真ばっかり撮ってるらしいよ~」などと聞きながら、後に結婚する陽子さんと付き合っていた事など知らず。

また、僕のおじいちゃんとアラーキーのお父さんが盆栽仲間で、僕のおじいちゃんが死んだ葬式の写真を撮ってくれていたなども知らず・・・・。
(当時は、お葬式のさなかの写真というのは、みんなが集まる機会として写真に残したもんなんである。)

***

話は脱線してしまったけど、親族(身内)から近所の人まで含めて、誰と誰がどんな関係性があるのかも知らないまま、いろんな関係性の渦の中で生きていたのだ・・・・。

その全部はいまだにわからない事も多いが、その昭和の下町「三ノ輪」の記憶から40年・・・・・・・。

全てブルドーザーで共同体を壊して行ったかのようにして・・・・・・・・・・・・・はるか遠くの未知の都市に、僕は今、立っている。

***

2010年、僕は記憶喪失都市=東京に、生きている。
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