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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

夏の雑感

2010年08月23日 | Weblog
「現代人が必要としているのは、恐れることなく、そして清廉に、自己の使命を告げ知らせる正直な厳粛さなのではないか、愛情をもって自己の使命をかかえ守る厳粛さ、性急に最高のものを捉えようとして人々を不安におとしいれることなく、使命をば、見る目に若々しく、そして美わしく、そして気高く保ち、万人の心惹くものでありながら、しかも困難であって高貴な人々をのみ観劇せしめるものたらしめる、正直な厳粛さではないか?高貴な心の持ち主は困難なことにしか感激を覚えないものなのだ」(キェルケゴール『おそれとおののき』)

いま、8/23、朝の8時。蓮沼さんの「wannapunch!」を聴きながら、論文をまとめる心の準備をしている最中だったのだけれど、なんだか150年以上前のデンマークの若者の言葉が、いまに響いても全然いいような気がして、引用してみました。いいでしょ?

「wannapunch!」は、なにかするときのバックミュージックとしてはいまのところ最強で、なんども繰り返し再生しながら、『おそれとおののき』についての論文を書いてます。

今年は、このアルバムに出会えたよい年だ、と思ったり、その他にもいろいろと目の覚める上演や作品に出会ったりしていて、さすがテン年代だぜ!という気持ちがパンパン。なんてときに、また新しい希望に遭遇した。昨日、王子小劇場での上演、ロロ、「ボーイ・ミーツ・ガール」。

いま、一晩が過ぎ、こうやって自宅でワープロに向き合っているなんてときにも、思い出すと背筋がぞくぞくする。

ぞくぞく
ぞくぞく
ぞくぞく
ぞくぞく

もちろん、いい意味で、わくわくが未来形だとすれば、結果として残った興奮の炭火が熱を放つように、

ぞくぞく
ぞくぞく

(熱い気持ちが「ぞくぞく」だと寒い表現になってしまうのか、だから言い当ててない気がワープロで文字化するとあるんだけれど、事実、腕のあたりにさむいぼでて、背中が震えているのですよ)

こういうとあれなんだけど、なんだか「自分の作品だ」なんてことさえ思ってしまった。正直「いなほがゆれるやっさやっさ」と盆踊り曲が流れた瞬間は、心底驚き、あっけにとられましたが(この曲は、ぼくの故郷千葉県東金市で毎年夏に行われる「やっさ祭り」の曲で、朝から晩までこの曲を無限にループさせながら踊りつづけるのですが、そんな曲がなんで突然!と自分の心のHDDを覗き込まれてえぐられるような、偶然の瞬間でした。どうも主人公役の男の子が同郷なのらしい)。いま自分が思っていること(キェルケゴール、ニーチェ、ドゥルーズ、、、生成変化、、、あるいはジーン・ケリー)、あればいいなあと感じてきたこと、ものについてのアプローチ、ユーモアの感覚、そしてなによりも「愛」をテーマにしちゃうっていうその感じ(いま、つとめて大雑把に書いてます、さらっと書けない、書いたことにしたくない)。『おそれとおののき』は、愛というか信仰がテーマなんだけど、でも、信仰(ある宗派に限定したなにか)と思わないで愛と言い換えちゃった方がいいように思うのだけれど、そうした信仰がテーマで、これって、不可能事を不可能事として徹底的にみとめた(あきらめた)上で、みとめることを徹底することでそれを同時にあきらめない、ということなんですね、信仰って。そういう徹底してあきらめることであきらめないひとをキェルケゴールは「信仰の騎士」と呼ぶんだけど、この信仰の騎士をドゥルーズ/ガタリは生成変化する人間と呼ぶんですよ。

そして、このことは、魔法(魔法論)と関係あります。ドゥルーズ/ガタリは「われわれ魔法使い」と自称してますから(昨日の晩、ある日のアフタートークでゲストだったという藤原ちからさんと終演後話をしてたら、ぼくの魔法論ことを話題にしてくれたらしい。進み方がスローですいません、でも、その話題とこの公演はどんぴしゃです、確かに)。

50回恋をして、さらに100回の恋をする主人公桃田くんは、そんな哲学的考察で頭がいっぱいのぼくには、信仰の騎士にしか見えなくて、あるいは嬉々として永遠回帰し続ける超人みたいなもので、これまではかたっくるしくか、過度に叙情的にしかそんなものは舞台化されなかったかもしれないのだが、「ボーイ・ミーツ・ガール」は、余計なものは高速運転で吹き飛ばして、純粋な本質的なところだけがっつり取り出して、観客を楽しませてくれ、泣かせてくれるのだった。すげー。アイロニーはゼロ。それでいいじゃん、全然いい。グッド・バイ逡巡(さようなら「何言ったって裏返っていく彼や彼女」)。ただただ、情熱が作動すること、それが重要なのだ。いや、それが難しいのだ。そこにとてつもない困難があるのだ。

「信仰は人間のうちにある最高の情熱である。おそらくどの世代にも、信仰にさえ到達しない人がたくさんいることだろう。しかし、その先まで達したなどという人は一人もいはしない。はたして現代にも信仰を発見しない人がたくさんいるかどうか、そんなことをわたしは決定しようとは思わない、わたしはただあえてわたし自身を引き合いに出すばかりである。そのわたしは、信仰への道は遼遠だ、と隠さず申し述べておく。」「しかし信仰に達した者は(格別に才能に恵まれた人であろうと、愚鈍な人であろうと、それは事態になんのかかわりもない)、信仰でとどまることをしないのである、それどころか、立ち止まれなどとといわれたら、彼は憤慨するにちがいない。それはちょうど恋をしている男に向かって、おまえは恋にとどまっている、といったら、彼が怒るだろうと同じことである。なぜかというに、ぼくは恋に生きているのだから、けっして立ち止まってはいないのだ、と彼は答えるにちがいないからだ。けれども、彼はその先まで進むわけでもない、何か別のものに達するわけでもない、なぜかというに、もし彼が別のものを発見すれば、彼はまた別の話をするはずだからだ。」(同上)


ところで、
いま発売されている『美術手帖』に快快と遠藤一郎のこと書きました。「ここがあるだけでその外部はない」というタイトルです。ぼくとしては『RH02』に書いた「彼らは「日本・現代・美術」ではない」の続編にあたる文章です。ようやく続編書けたという気持ちがあり、またここからはじまるいろいろがある気がして、ぞくぞくしてます。本屋で図書館で立ち読みよろしくです。