Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

自家撞着、囲い込み、退屈と倦怠

2007年01月06日 | Weblog
元旦は、ほんとうに食べる(朝食:雑煮とおせち+一番搾り)と寝て、食べる(昼食:おせち)と寝て、食べる(夕食:お刺身と一番搾り)と寝た。その前には、近所の寺に119番目の除夜の鐘を打ったり(なんか来たひと全員打ってとか言って、全然「108」という煩悩の数守らない!Aは118番目の煩悩をストライクっ)、一瞬の沈黙と静寂を味わった。リセット。すると、なんかリセット以前のものでどうでもいいものが「どおっでもいー」ものにはっきり見えてくる。もうほんとに大事なものしか大事と思いたくなくなる。大晦日と元旦は、まだぼくにそんな気分を味あわせてくれるのな、と。(写真は、Aとぼくの友人、ワルシャワのアーニャから。涙が出そうなほど心がこもってた)

四日からまじめに英会話の学校に行く。ちょっとその前に新百合の駅ビルにある本屋でなんでか『snoozer』なる音楽雑誌を購入。こういうデコースをしちゃうのが正月明けというもの。いまどきの音楽状況をチェック。しらんものばっかだ。知らないぶりがすごいぞオレ、知っているのがボブ・ディランと曽我部恵一しかいない、という(笑)。

そんでそこで一番話題になっていた、arctic monkeyの『Whatever People Say I Am, That's What I'm Not』を買ってみた。なるほど、まず思うのがこれBlanky Jet Cityじゃん、ということ。次にスミスじゃん、と。しかし彼らみたいな美意識は希薄で、敢えて言えば、代官山や渋谷臭ではなく町田臭がする。味が単調、でもそこが重要なのだろう。ついつい過去の何々を連想して聞くことをしてしまい「おじさん臭」が漂ってくる自分を責めつつ、熟読玩味してみようかな、たいてい魅力的なものは体に入ってくるまでに時間が掛かったりするのだ。他には

The Raptureの『Echoes』
Bob Dylanの『Modern Times』

を買う。曽我部の『ラヴ・シティ』は新百合のHMVにはなく(絢香は100枚くらいあるのに!)、『snoozer』で昨年ベスト・ワンのKlaxonsもなかった(これじゃアマゾンひとりがちになるわけだよ)。でも、いまはすごいね、たいていのバンドはHPでPVが見られるようになっている。 これ。

まあなんか見てると自ずと思うのは、ダメ身体、コドモ身体は別に日本のダンスに特別当てはまるものじゃなくて、デフォルトなんだな、と。マイクロポップ(松井みどり)しかり。それは目下のツボとも言えるし袋小路(ドツボ)かもしれないとも思ってしまうのだけれど、このユルさダメさ汚さ(arctic monkyのCD盤の表面は100本くらいのタバコの吸い殻がプリントしてあったりする)が、果たして今後もある種のカウンターであるのかむしろ現状肯定の保守主義なのか、どちらでもありうるだろうけれど結局どちらともはっきりしないまま、なんとなく自家撞着、囲い込み、退屈と倦怠を継続させて行くのか、この辺りの決着がつくと少し今年明るくなると思うのですが。

ところで、もうちょっと怒りというものをぐつぐついわせていいと思うんですよ。摩擦音を響かせてもいいんじゃないかと思うんですよ。ぼくはその意味でチェルフィッチュ『エンジョイ』に一票なんですよね。怒りというのは、発散させるものだけでなくため込むものでもあって、『エンジョイ』にはそんな怒りの膨張のようなものを感じたのです。ポツドール(『恋の渦』)にも五反田団(『さようなら僕の小さな名声』)にも同様のイライラ感があって、その行方知れずの澱みのようなものから何かが発見されるといいなと思うんですよね。それが、それ以前のパラダイムをぱっと一掃してくれるんじゃないかな、と期待してしまう。いまはそんな怒りの体力を鍛える時期ではないか、と思うのです。