認知症の早期診断 介護並びに回復と予防のシステム

アルツハイマー型認知症は、廃用症候群に属する老化・廃用型の生活習慣病なので、発病を予防でき、早期治療により治せるのです

アルツハイマー型認知症の発病原因と生き方 その2(A-79)

2013-03-11 | 発病の引き金となる生活習慣

私達がこれまでに「アルツハイマー型認知症」の早期発見と回復及び予防の為の「地域予防活動」を展開してきた市町村(高齢化率が30%を超える市町村)において畜積したデータによると、「アルツハイマー型認知症」を発病している人達(精神科医が取り上げている「大ボケ」だけではなくて、「小ボケ」、「中ボケ」及び「大ボケ」の全てのレベルを含みます)の年代ごとの割合は、定年退職などで「第二の人生」が始まったばかりの60歳代に12%もの高い割合を示していて、70歳代に30%、80歳代に50%、90歳代に75%、加齢の極まりの100歳代に97%というように、年をとるにつれて、「どんどん増加していく」のが特徴なのです。(ここを「クリック」してください)。

 こうした「データ」から、「アルツハイマー型認知症」を発病する要因は、一部の学者が主張しているような食べ物でも金属の摂取でもなくて、「加齢による脳の老化」という問題が基本的な条件(発病の「第一の要件」)として考えられるのです。「アルツハイマー型認知症」を発病している対象者は、「高齢」のお年寄りばかりなのです。だからと言って、皆さんがお気づきのように、(高齢になると誰もが「アルツハイマー型認知症」を発病する訳でもない)ことも事実です。

ということは、「アルツハイマー型認知症」の発病要因については、「加齢による脳の老化」という要因以外の要因があるはずということにもなりますね。その「第二の要因」とは何か。「アルツハイマー型認知症」を発病する原因(要因)には、実は、第二の人生における日々の脳の使い方としての「生活習慣」(「生き方」)が密接に関係しているのです。その「生活習慣」(生き方)を選択する上での、「評価の尺度」(価値観)が今日の「テーマ」です。

○ 「アルツハイマー型認知症」を発病している人たちの対象となる年齢

 

私達が「二段階方式」の手技を活用して集積してきた「前頭葉」の機能レベルに関するデータを含む多数の脳機能データと「アルツハイマー型認知症の症状」に関するデータの解析結果は、以下のことを示しています。

☆ 「アルツハイマー型認知症」を発病しているその対象者は、50歳代の人は殆どいなくて、「高齢者」と呼ばれる60歳代以上の年齢のお年寄りに限られている(50歳代の人は皆無とは言いませんが、極めて稀なのです);

☆ 年をとるほど「アルツハイマー型認知症」を発病する人の割合が増えていき、身体も限界の100歳代では、殆どの人が(97%の人が)「アルツハイマー型認知症」を発病している;

☆ 「アルツハイマー型認知症」を発病しているお年寄りの同年代ごとの割合が、北海道、東北、関東、東海、中部、北陸、近畿、中国、四国、九州のどの地域をとってみても、どこも殆ど同じで、地域差が認められない。

 

 ○  「生き方」が誰も皆「同じ規格」なのが単一民族である日本人の特徴

「前頭葉」(前頭前野のことを言うものとする。以下、同じ)は、自分の置かれている状況を判断して、実行すべき「テーマ」の内容を計画し、その実行結果をシミュレーションした上で、どのような内容の行為をどのように実行するのかを選択し、最終的な実行内容を決定する「評価の物差し」としての働きを持っています。そして、「左脳」が主役となる「仕事」という「テーマ」を殆どの人が失って生きていく「第二の人生」で、どのような「生き方」をするのか、言い換えると、どの「脳」をどのように使う生活をするのかが問われることになるのです。

そのメカニズムのことを知っていようといまいと、そのことを認識していようといまいと、どのような脳の使い方(「生活習慣」)を選択し構築するのか、そのことが「アルツハイマー型認知症」の発病を左右することになるのです。正しい選択をすれば、その人の「前頭葉」は衰えていきつつも正常な老化のカーブを描くので、「アルツハイマー型認知症」の発病とは無縁で、第二の人生を完走できるのです。間違った選択をすれば、その人の「前頭葉」は加速度的な機能の低下のカーブをたどっていき、その先には「アルツハイマー型認知症」の発病が待っていることになるのです。

 ところで、「アルツハイマー型認知症」を発病するお年寄りの年代ごとの割合に「地域差」が認められないという「データ」のことを先ほど紹介しました。そのことは、言い換えると、何が重要かを判断し選択する「評価の尺度」(価値観)にも、「地域差がない」ことを意味してもいるのです。現在は「高齢者」の仲間入りをされている皆さんもご記憶のように、高度経済成長を謳歌していた1970年代には、90%を超える国民が「中流である」との意識を持つに至り、「一億総中流」という言葉がマスコミをにぎわしたものなのです。

アメリカとかシンガポールとかの多民族国家とは異なり、異民族による侵略を一度も受けることもなく他国からの移民を受け入れることもしてこなかった「単一民族」国家の典型である我が国の国民は、出身地(国)も容姿や容貌も、肌の色も、背丈の大きさも、生活様式も、教育水準や生活水準も、居住している住居の大きさも、日常生活の足として使う車のデザイン(ガラパゴスデザインと揶揄される)もそのカラーの好みも、(13000万人もの人口があるのにかかわらず)、多様性に乏しいというよりはもっと「均一」なのです。その行き着くところの「生き方」(価値観)までもが、全ての面で同じ規格、単一様式なのです。アメリカやシンガポールといった多民族国家のそれらと比較してみると、その対極にあることが分かるのです。

 ○ 生き方(「生活習慣」)の基礎となる「価値観」

その「生き方」を選択する上での基礎となる「価値観」が、「左脳が主役となる仕事」をすることに対する評価の仕方と「右脳が主役となる趣味や遊びや人付き合い」を楽しむことに対する評価の仕方に典型的に現われているのです。「仕事をすること」に対する評価と「趣味や遊びや人付き合いを楽しむこと」に対する評価、言い換えれば、どのような「生き方」(脳の使い方としての「生活習慣」)を重視するのかということに関しても、私たち日本人の考え方には、日本全国殆ど同じで地域差がないのです。

価値観、生き方、日常生活での脳の使い方(「生活習慣」)が、皆ほとんど同じで、あの金太郎飴のように「均一」なのです。第一の人生はさておいても、「第二の人生」においてもそうなのです。「高齢者」であることは発病の「第一要件」なのですが、世界に例を見ない「超高齢化社会」であることだけで「アルツハイマー型認知症」大国になっている訳ではないのです。「発病の引き金となる第二の要因は、実は、この価値観に潜んでいるということなのです」。そのことをもう少し具体的に説明していきましょう

 

○  「第一の人生」を支えてきた「左脳」(仕事)中心主義の価値観

「左脳」は仕事や勉強をするために不可欠の脳、「右脳」は趣味や遊びや人づきあいを楽しむために不可欠の脳、「運動」の脳は身体を動かすための脳だと言いました。最近の若者の考え方は、相当変化してきているのではないかと思いますが、戦後の復興期からほんの最近に起きたリーマンショックの時期までは、第一の人生を送るとき、脳の使い方が「左脳偏重」の人達が多かったのです。つまり、「仕事偏重の生き方や考え方」をする人達が多かったのです。「社会の主流」だったのです。所謂「右肩上がり」の経済成長の中で、「幼少期、少年期、青年期、壮年期を生きてきた」人達が皆(これから高齢者の仲間入りをしていく私たち第二世代並びに既に第二の人生を送っていて、「アルツハイマー型認知症」を多発している第一世代)、そうした価値観のもとに「第一の人生」を送ったのです。 

「企業戦士」とか「滅私奉公」とかの言葉がマスコミでもてはやされ、「仕事」に命をかけ、家庭を忘れて仕事に全ての時間を費し没頭する、会社に生涯を捧げることをよしとする考え方、そうした風潮(或いは、「価値観」)が、私達(第一世代や第二世代)日本人の社会的な「評価の物差し」となっていたのです。それが、敗戦後の日本の復興を支えてきた人達が作り上げた「社会規範」だったと言ってもいいでしょう。その社会規範の中で企業戦士として働き続けてきた夫達(夫が出世することを強く望み、企業戦士となることを是認し、働く夫を精神的にも支えてきた妻達)が、夫の定年退職その他を契機にして、第一の人生で築きあげた「評価の物差し」のままで、「第二の人生」に入っていったのです(そして、今まさに「第二の人生」に入っていこうとしている第二世代は、「第一世代」が第二の人生でどうなっているのかに、もっと注目すべきなのです)。

 

こうした生き方(価値観)は、働いた先が、企業であれ、学校であれ、病院であれ、地方自治体や国であれ、農業や林業や漁業や商業や工業に従事したのであれ、現在「第二の人生」を送っている高齢者に共通して言えることだったのです。こうした価値観は、「第一の人生」では、むしろ必要で不可欠とされた(される)のですが、「第二の人生」ではそれが逆効果となって現れてくるのです。「人生60年」と言われて、脳がもたなくなる時は身体ももたなくなっていた「一昔前の時代」には、「第一の人生」での価値観をそのまま「第二の人生」に持ち込んでいっても、何の問題もおきなかったのです。

ところが誰でもが80歳や90歳まで生きる「超高齢化社会」の「今の時代」は、「第一の人生」での社会規範であったこの価値観のままに「第二の人生」を送っていると、せっかくの「第二の人生」だというのに早々と「アルツハイマー型認知症」を発病することになるのです(上述した、年代別の発病率を見てください)。「アルツハイマー型認知症」というタイプの認知症の特徴は、「身体がもつのに脳がもたない」という問題があるのです。「小ボケ」から「中ボケ」を経由して「大ボケ」へと脳の働きがどんどん衰えていく一方で、身体のほうはその間しっかりともつのが、「アルツハイマー型認知症」の「特徴」なのです。つまり、「介護」されるだけの日々が何年も続くことになるのです。「長期間に渡る介護」が必要になるということに関連して、「家族介護」による家庭崩壊の問題や「介護保険」の財政破綻の危機といった重大な社会問題を抱えることになるのです。

○ 「第二の人生」をどう生きるか(日々をどのようにして過ごすか)

 「仕事一筋」(或いは、「仕事第一」)の生き方、「左脳偏重」の生活習慣を疑うこともなく、社会的な規範として抵抗もなく受け入れて第一の人生を送ってきた人達は、「第二の人生」に入っていくと、「仕事以外のこと」には価値を見出し難いのです。第一の人生での体験が少ないことも一因なのですが、「趣味とか遊びとか運動とか」に価値がおけなくて、そうしたことに(彼らの価値観からの言葉で置き換えると、そのような「些事」に)熱中することが出来ないのです。そうした「些事」が、自分が生きていく上でのメーンの「テーマ」となる日常などには価値が置けないと感じるのです。だからといって、「仕事」をする世界に逆戻りする訳にはいかないでしょう。

 

そうした考え(価値観)を引きずるお年寄りは、やっと出会った(見つかった)趣味や遊びなのに、その「楽しみ方」を知らないのです。「趣味や遊び」なのに、そのやり方がまるで「仕事そのもの」なのです。「第二の人生」での趣味や遊びのやり方に、第一の人生で仕事を遂行するとき使っていた「ルール」を適用しようとしてしまうのです。そのうえ、「周りの目」とか、「周りが自分のことをどう考えているか」ばかりを気にするのです。自分らしい生き方に自信が持てないで、何事につけ、自分らしさを前面に出せないで生きていくのです。『いつまで第一の人生のルールに縛られ続けるの』と声をかけてあげたくなるのです。

☆ 水彩画の集いに参加してみたら、周りの人達が色遣いのセンスも、線の描き方も、筆使いも、自分より上手なのです。

☆ 能面を打つ集いに参加してみたら、周りの人達がみんな自分よりセンスが良く、ノミの使い方が上手に見えて仕方がないのです。

☆ ゲートボールの集いに参加してみたら、周りの人達がみんな自分よりもスティックの使い方が上手なのです。

☆ 自分の家の庭に好きな山野草を植えて楽しむようになって、近所のガーデニングの会に参加したら、メンバーの家の庭が広いので家に呼ぶのが嫌なのです。

 

○ 「生き方」の基準にコペルニクス的な転換が必要(「左脳」中心の考え方からの転換)

「第二の人生」を送る日常生活の面で、「脳を活性化させる」ために最も重要且つ必要となる指標とは、「自分なりに楽しむ」或いは、「自分なりの楽しみ方をして楽しむ」ということなのです。「どんなテーマであれ、何時であれ、誰とであれ」、「周りと自分とを比較して、自分の達成度を測る」それが、私たち日本人の特徴です。第一の人生で、常に生活水準の向上を目指して、努力していく時期には、それはそれとして必要なことだと思うのです。But、「第二の人生」では、そういった「価値観」は、肝心のあなたの脳に通用しないのです。あなたの脳がもたないのです。「百害あって、一利なし」なのです。

このブログの言わんとすることが理解できて、心に思い当たることがある人は、明日と言わず今日から改めていただきたいのです。440を超える市町村での活動を通して、「アルツハイマー型認知症」を発病した余りにも数多くのお年寄りたちの姿を目撃してきた私たちの目には、このままの生き方で第二の人生を送る場合のあなたの将来像がはっきりと見えてしまうのです。

「第二の人生」では生き方の基本として、周りの目を気にして自分と周りとを比較するのではなくて、「自分なりの特徴が出せているか」、「自分らしさが出ているか」、「自分なりに楽しめているか」を評価の物差しにすべきなのです。周りとの比較で評価すると、水彩画の教室に参加することも、能面を打つ会に参加することも、ゲートボールをする集いに参加することも、自分の技量が周りの人に比較して劣っているので、評価できないのです。参加していても面白くなくて、参加の回数が次第に減っていき、最後はやめてしまうことになるのです。「一億総中流」の意識や「常に周りと自分を比較する」指標は、「第二の人生」では、「無用の長物」というよりは、「捨て去るべきもの」なのです。

「脳の活性化」を何よりも重視すべき第二の人生での「趣味や遊びや人付き合い」は、生活を組み立てるための第一の人生での「仕事」とは、根本的に「位置づけ」が異なるべきものなのです。以前のブログで詳しく説明したように、「前頭葉」の三本柱である意欲、注意の集中力及び注意の分配力の機能は、内在する「正常老化の性質」により、そもそも加齢とともに働き具合が衰えてきているのです。その働き具合を正常なレベルに保ち続けるためには、その「三本柱」の機能が活性化される「テーマ」を日々の「生活習慣」に組み入れることが不可欠なのです。そのためには、「前頭葉」の評価の物差しとなる基準自体にもコペルニクス的な転換が求められることになるのです。

  せっかく、趣味や遊びのテーマを生活習慣に組み入れたのに、参加するたびに意欲を落とすことになったり、参加していても注意の集中力や注意の分配力が十分に発揮されない結果になっていたのでは、それこそ「逆効果」なのです。じゃあ、どうすればいいのか。考え方(評価の指標)を変えればいいのです。趣味や遊びは、仕事ではないのだから、「周りとの比較による目標を十分達成できたがどうか」を評価の指標(仕事の評価指標)にするのではなくて、「自分なりの目標を達成する過程を、自分なりに十分楽しめたかどうか」を評価の指標(趣味や遊びの評価指標)にすべきなのです。

(コーヒー・ブレイク)第一の人生における 「仕事」という「テーマ」の場合には、周りから期待された客観的な達成値(達成しなければならない目標値)というものがありますね。自分なりに達成出来たと思っていても、客観的な達成値が小さければ、期待外れの評価を受けることになります。その結果、本人の達成感(或いは、満足感)は小さなものとなり、その「テーマ」を再度遂行しようとする場合に、「意欲」が湧いてこなくなります。

ところが、「第二の人生」における「趣味」や「遊び」や「交友」や「運動」を「テーマ」にする場合には、「自分が自分なりに設定する自分なりの主観的な期待値」を達成すべき目標値とすることができる訳です。従って、その達成内容(或いは、達成値)が周りの人達が期待するものと比較して劣っているものであっても、自分としての達成感(或いは、満足感)を得ることができることになります。そして、(周りの評価が何であれ)、自分なりの(大きな)満足感が得られれば得られる程、その「テーマ」を再度遂行しようとする意欲が湧いてくることになるのです。「周り」がどうなのかということではなくて、この「自分なり」という指標を設定することが、「脳の活性化」という視点から、極めて重要で不可欠の指標となるのです。

 「評価の指標」を上述したものに変えたとき、周りとの比較ではたとえ下手でも、自分なりに楽しめたと感じられるときには、(時間がたつのも忘れて)熱中できている自分の姿をそこに発見することができるはずなのです。時間が経つのも忘れて熱中できているときには、「前頭葉」の三本柱がフル回転しているのです。つまり、「脳全体が活性化している」のです。そうした時間を過ごすことができる「生活習慣」を構築することができたとき、そこには、「アルツハイマー型認知症」とは無縁での、「第二の人生」の完走が待っていることになるのです。

 

 他方で、「第一の人生」を生き抜く中で培った上述した「左脳中心の価値観」を変えることが出来ない人達は、「第二の人生」が始まり、日々を過ごしていく上での「生き甲斐」や「喜び」や「目標」を与えてくれていた「仕事」がなくなったとき、「仕事以外のテーマ」をどのように持ち、どのように毎日を過ごしだらいいのかが分からないのです。朝は遅くに起きてきて、新聞を読んだら、テレビのチャンネルをひねるだけ。お昼を食べた後には、昼寝して、夕方になったら「水戸黄門」を見る。それで、一日が終わり。まるで、「毎日が判を押したような生活」を送ることになるのです。(これではボケてしまうよ)と家族に急き立てられて、やっと見つけた「趣味の会」に参加しようにも、周りは誰も顔を知らない人達ばかり。声をかけることも出来ず、一緒に楽しむことも出来ず、たった一回の参加でもう終わり。

生きがいや喜びを与えてくれるものも目標となるものもなく、「有り余る時間をもてあます日々を過ごす」ことになるのです。せっかくの第二の人生なのに、生き甲斐なく、趣味なく、交遊なく、運動もせず、目標となるものもない、ナイナイ尽くしの「単調な毎日」を過ごすようになるのです。ナイナイ尽くしの「単調な生活」が日々継続する「生活習慣」のもとで、「前頭葉」を含む脳全体の機能が加速度的な低下を進行させていき、その先には「アルツハイマー型認知症」の発病という「第二の人生」が待っていることになるのです。(ここを「クリック」してください)。

 

北海道から九州まで、440を超える市町村での「地域予防活動」を指導する体験の中で、そうしたお年寄りの姿をたくさん、私たちは見てきているのです。これは、脅しではなくて、私たちが見てきた実態なのです。そうした第一の人生での「左脳」中心(「仕事」中心)の生き方を「第二の人生」に持ち込んだままの「生活習慣」を継続しているその結果として、極めて多数のお年寄りたちが「アルツハイマー型認知症」を発病しているのです。回復が困難で介護の対象でしかない末期段階の「重度認知症」(大ボケ)のお年寄りの数が、我が国では300万人を超えているという現実を抱えることになってきているのです。

But;皆さん、この程度の数字で驚かないでください。学者、研究者、医師といった「アルツハイマー型認知症」の専門家と言われる人達の誰もが、末期の段階で回復させることがもはや困難な「重度認知症」(大ボケ)だけしか見つけられずにいる為に(重大な誤りがある「DSM-4」を金科玉条として信奉していることが原因)、アルツハイマー型認知症の早期診断による回復予防」という「テーマ」がどの専門家からも提起されることがないままできているのです。その結果、「大ボケ」の予備軍である「小ボケ」と「中ボケ」とを合わせた人数が、『大ボケ』の人数の(2~3倍にもなっている)現実にさえ気づいていないのです。我が国は、経済大国であるだけでなくて、「アルツハイマー型認知症」大国でもあるのです。

今日も、極めて多数に上る人数の「正常なお年寄り」の中から「小ボケ」が生まれていて、極めて多数に上る人数の「小ボケ」が「中ボケ」の段階に進んでいて、極めて多数に上る人数の「中ボケ」が「大ボケ」の段階に進んでいるのです。「アルツハイマー型認知症」というタイプの認知症は、蛇口を閉めることができる、廃用症候群に属する「生活習慣病」に過ぎないのに、今日も蛇口は開きっぱなしのままなのです。

つい先日も、某テレビ局の朝の番組で、「家族介護」を柱に据えた「地域包括支援介護」の考え方が紹介されていました。その道の識者とされる参加者達の発言や関心は、現在の制度下では開きっぱなしになっている蛇口を閉めること、「アルツハイマー型認知症」の「予防」(或いは、「地域予防」)という「テーマ」は、頭のどの隅にも無い内容のものばかりでした。『施設が不足しているとか、施設の人的及び物的な内容が不十分だとか、施設で働く人たちの賃金が低いとか』、運営のコストが増大する内容ばかりがメインのテーマに取り上げられていましたが、それらを解決するには、「消費税」を上げ続ける必要があるのです。なぜなら、この先『認知症の人達』の数はさらに拡大増加していくと予想されているからです。「少子高齢化」の問題と1000兆円を超える「累積債務」の問題、更には「貿易赤字」の常態化の問題という「三重苦」を背負っている我が国での実現可能な解決策になるはずがないのに。

 注)本著作物(このブログA-79に記載され表現された内容)に係る著作権は、(有)エイジングライフ研究所に帰属しています。

 エイジングライフ研究所のHPここを「クリック」してください)

 脳機能からみた認知症の初期の見わけ方(IEでないとうまく表示されません)

 

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