Peace Waveの平和な日々~行く雲、流れる水のように~

気が向いたら、ボチボチ更新しようかと・・。(笑)

庭から昇ったロケット雲

2010年12月20日 | 映画・ドラマ

原題は「THE ASTRONAUT FARMER」 

子どもの頃から宇宙飛行士になるのが夢だったビリー・ボブ・ソーントン演じる主人公のチャーリー・ファーマー

空軍パイロットを経てNASAの宇宙飛行士訓練プログラムに参加していたが、父の急死により、実家の農場を継がざるを得なくなる。

それでも夢をあきらめ切れず、家族に支えられ、自作のロケットでの宇宙行きを計画する・・というストーリーで、一瞬、実話か?・・と思わせる。

 

ロケットを作る彼を、妻、オーディと3人の子どもたちが支える姿が美しい。

特に15歳の息子、シェパードには、専門知識を教え込み、エンジニアに育てあげた挙句、おまえが必要だと学校から連れ出してしまう。

それでも、子どもたち全員、誰もがイヤイヤではなく、喜んで父の夢に協力しているトコロは教育の賜物だろう。

 

私財を投じ、借金だらけになり、友人にも見放される。

国からは違法だと通告され、FBIに監視される。

マスコミからはカルトだと騒がれ、おまけに打ち上げは失敗し、ケガで入院・・。

 

ついに家族を傷つけてきたコトに心が折れて、夢をあきらめかけたその時、妻の言葉に励まされ・・。

 

「夢をあきらめないコト」+「家族愛」・・といったテーマだが、単なる自分のエゴに付き合わせる父親ではなく、子どもたちに、たとえ、失敗したとしても夢をあきらめなかった姿を見せる・・という”家族みんなの夢”に昇華していく過程が心あたたまる映画。

 

2008年公開時は、まったくチェックしてなかったが、先日、深夜枠でTVでやってたのを見て、なかなかいい映画だな・・と思わされた。

 

”自分の夢”―独善になってないかな・・?

 

 


鬼と天皇

2010年12月17日 | 歴史・民俗

『古事記』崇神天皇の条にこうある。

この天皇の御世に、役病多に起こりて、人民死にてつきむとしき。ここに天皇愁ひ歎きたまひて神床(かむどこ)に坐しし夜、大物主大神、御夢に顕はれて曰りたまひしく、「こは我が御心ぞ。故、意宇多多泥古(おおたたねこ)をもちて、我が御前を祭らしめたまはば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ。」とのりたまひき。(cf.P99「古事記」岩波文庫)

―注釈によると、”神床”とは、「夢に神意を得ようとして忌み清めた床」のコトで、崇神天皇の時に疫病が流行り、たくさんの人が死んだため、神託を得ようとしたトコロ、大物主神が現れ、この災いは自分の意志であるので、大田田根子なる人物をもって祀らせれば、国は平安になる・・と言ったというのだ。

 

崇神天皇は「意宇多多泥古命をもちて神主として、御諸山(みもろやま)に意富美和(おほみわ)の大神の前を拝(いつ)き祭りたまひき。~(中略)~これによりて役の気悉に息みて、国家(あめのした)安らかに平らぎき。」とある。

”御諸山”は「奈良県磯城群三輪山」のコトで、大和最大の聖地。

”意富美和”(おほみわ)は三輪山にある「大神」(おおみわ)神社のコト。

疫病を流行らせ、祟った大物主神がいる三輪山を、天皇が丁重に祀らせるコトで疫病もやみ、世は平安になった・・とゆーワケだ。

(カテゴリー/歴史・民俗:「出雲神」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/e196fd51615f0558e832d1dbe6f097dc

 

大物主神は出雲の神様である。

出雲神は、記紀神話で「邪神」「邪鬼」と呼ばれたごとく、「神」であると同時に、祟る「鬼」である。 

 

「神」と「鬼」では、まるで対極の存在に思われるが、「鬼」が「オニ」と読まれるようになったのは平安時代以降で、本来、「モノ」と読んでいたそうだ。

これは万物に精霊が宿るというアニミズムから来る考え方で、八百万の神々を祀る日本人の信仰観の源流といえよう。

 

自然万物、すなわち「モノ(物)」に精霊=神が宿る。

自然は恵みをもたらす「神」であると同時に、人の力の及ばない災いをもたらす、恐れられる「鬼」でもあるのだ。

また「モノノケ(物怪)」といえば、妖怪や、霊的な存在や現象をイミするトコロから、「モノ」には自然万物(物質)と、森羅万象の現象(非物質)という両面のイミをもっているといえよう。

 

大和岩雄『鬼と天皇』の中で、天皇と鬼の関係について、

天皇に対する存在、「まつろわぬもの」としての蝦夷や酒呑童子のような鬼

鬼を討つ側の天皇権力としての鬼

天皇権力の側に居たものが権力から追放されてなる鬼

・・の3つをあげている。

は権力(中心)に対立する鬼で、周辺・辺境の存在、は権力としての見える鬼、は権力から追放され、周辺・辺境の存在となり、死後、見えない鬼=怨霊となって権力を祟る鬼で、天皇と鬼は表裏一体の関係であると述べている。

この大物主神はにあたるだろうか・・?

 

天皇制が現在まで続いてきた理由の1つとして指摘されるのが、天皇は単なる「聖」なる存在ではなく、周辺の「俗」なる力、祟る鬼の力を自ら取り込んでいたからではないか?・・というものだ。

祟る鬼である出雲神・大物主神を祀る天皇は、まさしく指摘どおりである。

 

また、「鬼」の一族の末裔として蔑視されてきた人々が、社会の最下層に位置しながら、一方で神仏に仕える神聖な役割を担ってきたのは、天皇という「神」に近い存在だからに他ならない。

鬼の末裔を自称する八瀬童子が牛飼いとして天皇に近侍し、多くの行事に参加していったのはそのよい例であろう。

 

網野善彦も、俗世間や権力から縁を切られた”無縁”の人々が、律令制度という支配システムの最下層に位置していたがゆえに、自由な活動が出来、天皇とつながっていたと指摘。

律令制度は、中央集権国家をつくるために、すべての民と土地を天皇のもとに集め、再分配するというシステムで、土地に定着した農耕民から税を徴収した。

それゆえ、土地に定着しない芸能民、勧進(物乞い)、遊女といった漂白の民や、鋳物師、木地屋、薬売りなどの商工民や職人、非農耕民が”無縁”の人々であり、社会の枠組みの中で最下層の人々と蔑視される一方で、天皇の名のもとに通行の自由、税や諸役の免除、さらには天皇や神社に、海の幸や山の幸を献上する供御人としての特権を有していた。

 

天皇自身が税もとられず、罪と罰から免れた律令制度というシステムの枠組みから外れた特別な存在であり、”無縁”の人々と通じる。 

 

律令の法体系やシステムにおいては、天皇も”無縁”の人々も、同じ「人ならざるもの」なのであり、忌み恐れられる存在なのである。

 

 

 

 

 

 

 


ペプシNEX×Gundam BE@BRICK

2010年12月15日 | 食玩など

ついに・・とゆーか、出るべくして出たとゆー感のあるペプシNEX×Gundam BE@BRICK

 

通常なら、「GUNDAM」となるトコロ、「Gundam」と表記してるトコがかわいい。

全16種類で、モビルスーツが11種とキャラクター5種。

 

定番はガンダムシャアザクだろーが、なにせベアブリック・フィギュア、ディフォルメされたボディにクマの耳がついてるので、まあ、ザクのカッコ悪いコト・・。

モビルスーツならドムアッガイが、まだそれっぽくハマってたかな・・?

 

なので、こちらの”赤い彗星”シャア・アズナブルをチョイス。

なかなか雰囲気出てる。

パッケージのデザインも1体ずつ違うという凝りようだ。

 

その他のキャラクターはアムロ・レイセイラ・マス

まあ、ここまでは分かるけど、残り2人はギレン・ザビランバ・ラル・・とゆー渋いラインナップ。

アムロのみノーマルスーツで、あとは軍服だ。

 

まあ、好みは分かれるトコロだろーが、ガンダム好きにはたまらないだろう。

 

即完売必至、好きな人はお急ぎを!

 

「君は、生き延びることが出来るか?!」by永井一郎


忠臣蔵

2010年12月14日 | 歴史・民俗

今日、12月14日は「忠臣蔵」でおなじみ、赤穂浪士討ち入りの日。

正確には元禄赤穂事件と言うそうで、「忠臣蔵」は、この事件を題材とした歌舞伎文楽(人形浄瑠璃)の演目、『仮名手本忠臣蔵』の通称。

 

元禄14(1701)年3月14日、江戸城内松の廊下にて赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、高家肝煎・吉良上野介義央に切りつけた刃傷沙汰―いわゆる、松の廊下事件に端を発する。

事件が勅使饗応の直前だったので、時の将軍、徳川綱吉は激怒、浅野内匠頭は即日切腹、赤穂藩はお取りつぶしとなる一方、被害者の吉良はおとがめなしとされた。

それを不服とする家老・大石内蔵助良雄をはじめとする赤穂藩の旧藩士47人―いわゆる“赤穂四十七士”による、本所・吉良邸への討ち入りが成されたのが、元禄15(1703)年12月14日・・なのである。

(旧暦の12月14日なので、実際は1月30日で、さらに正確には翌日未明のコトだそうだが・・

 

それまで仕えていた赤穂藩がお取りつぶしになったため、家臣は皆、”浪人”となったワケで、”赤穂浪士”というのはそのため。

 

映画、「最後の忠臣蔵」が今週末から公開されるが、毎年、年末のこの時期になると、「忠臣蔵」を題材にしたドラマや映画、CMなどが流れる。

それだけ忠義に生きた赤穂浪士たちの姿が、日本人の胸を打つ美談として語り継がれていて、今なお愛されているコトがわかる。

これぞ、武士道!・・とゆーワケである。

山岡鉄舟も江戸時代の武士道の例として「赤穂四十七士と山鹿素行」を挙げている。

 

山鹿素行は後の吉田松陰らにも影響を与えた儒学者にして軍学者、山鹿流兵法、および古学派の祖で、赤穂藩士の教育をし、大石もその門弟の1人といわれる。

討ち入りの際、陣太鼓を打ち鳴らし、「あれぞ、まさしく山鹿流」・・という場面があるが、実際は笛と鐘で、太鼓はなかったそうだ。

 

しかし、当時、既に儒学者・荻生徂徠「その事は義なりと雖も、その党に限る事なれば、畢竟は私の論なり」と、およそ公的な性格のない、私的な行為と批判している。

 

また「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」・・の一節で有名な佐賀鍋島藩『葉隠』では、「上方風のつけあがりたる武士道」といって批判している。

すなわち、仇の吉良は、60をすぎた老人、いつ死ぬかわからない。

死ねば仇討ちの機会は失われてしまうにもかかわらず、1年以上、待っているのは計画を立て、必ず成功させようという”打算”がはたらくからである。

その成否は問わず、まず、仇討ちの志を表現するコトこそ、何にもまして尊い。

 

また、討ち入りに成功して泉岳寺に引き上げ、主君の墓前に吉良の首級を供えた後、なぜ直ちに自決しなかったのか?

目的を遂げ、自決してこそ武士道を全うするのに、あそこで生き長らえたのは、心情において、いやしいものを感じる・・。

いずれにしても、動機が純粋でない・・というものである。

 

―要するに、真の忠義とは、行動において「死ぐるい」=無我夢中でなければならない・・と説いており、決して『葉隠』がいう武士道が、死を美化したり、推奨したりしているワケではないので、誤解なきよう・・。

 

もちろん、「忠臣蔵」は、実際の事件をもとに、かなり脚色・創作があるコトもたしかであろう。

現代でいえば、私怨にかられたテロリスト以外の何ものでもないかもしれない・・。

 

それでも、この物語を愛する日本人が、いかに情にもろく、心根の優しい民族であるか・・というコトを、あらためて感じさせられるのである。

 

日本人に生まれて、よかったなぁ・・。

 

 

 


K-1 WORLD GP 2010 FINAL

2010年12月13日 | 格闘技・武道

先日行われたK-1 WORLD GP 2010 FINALを制し、優勝したのは”史上最強の外敵”MMA出身のアリスター・オーフレイム 

”マッスル・モンスター”らしいラッシュでピーター・アーツを秒殺し、K-1参戦2年目にして栄冠を手にした。

 

 

しかし、間違いなく、ベスト・バウトはピーター・アーツがセーム・シュルトを破った準決勝であろう。

 

順当にいけば、アリスターと5度目の優勝を狙うシュルトの決勝戦・・というのが大方の予想であったろうが、40歳(!)のアーツが見せてくれた!

 

2年前、K-1史上初の3連覇を成し遂げたシュルトに「奴がチャンピオンだとK-1が盛り上がらない」・・と、立ちはだかったのが、やはり、アーツだった。

2mを超す恵まれた体躯にもかかわらず、カウンター狙いのシュルトの戦法は、「勝ちに行く」というより「負けない」ための戦い方。

地味ではあるが、確実―とはいえ、プロ向きの派手な試合とは言い難く、正直、盛り上がりに欠ける。

 

アーツは見事、これを撃破し、シュルトの4連覇を阻んだ。

 

 

開始直後からガンガン前に出て攻めるアーツ。

とにかく真っ向勝負で、懐に飛び込んで、顔面に渾身のパンチを叩き込む・・という”どストレート”な作戦だ。

 

シュルトも珍しく自分から前に出て、これを迎え撃つ。

シュルトにすれば、アーツは4連覇を阻まれた因縁の相手である。

普段は感情を表に出すコトのないシュルトだが、アーツのコトを語る時は、必ずリベンジする!・・と、感情をむき出しにするほどだという。

1ラウンドから激しくぶつかり合う両者。 

 

この長身から繰り出す前蹴りでアーツを突き放す。

 

それでも、かまわず前へ出るアーツ!

 

臆するコトなく踏み込み、顔面を狙う。

絶対にこいつだけは倒す!・・というアーツの気迫が伝わってくるかのような攻撃が続く。

 

2ラウンドには目の上をカットするも、その気合いは衰えるドコロか、ますます激しさを増す。

シュルトも徐々にアーツの気迫に押され、クリンチに逃げる場面が多くなり、ついには警告をとられる。

3ラウンドにはローキックのダメージが蓄積した脚が動かず、下がって防戦一方に。

 

この身長差では確実に不利な打ち合いだが、まったく臆するコトなく、自分よりでかい敵の懐に、果敢に、何度も飛び込むのだ。

 

そして顔面を殴る!

 

殴る!!

 

迷うコトなく殴るっ!!!

これぞ、”ミスターK-1”!!

 

解説の魔娑斗が、

「いやー、それにしても、ピーター・アーツって、スゴイ人ですね・・」

・・と、もらした言葉が印象深かった。

 

試合終了後の両者の対照的な姿が勝負を物語っていた。

アーツは大きく両手を挙げてガッツポーズ!

 

それに応える観客席のファン。

アーツの熱い闘志が、観客の心にも火を点けた。

間違いなく、今大会、もっとも会場がヒートアップした瞬間だった。

 

文句なし、2-0の判定で決勝進出を決めたピーター・アーツ。 

入場の花道を行くアーツの胸に去来した思いは何だったのか・・?

 

もし、優勝すれば、4度目の王者!

98年以来、12年ぶりの王座奪還となるはずだったが、既に決勝進出を決めた時点でアーツは満身創痍、決勝のリングに立つのがやっとの状態だった。 

残念ながら、4度目の戴冠とはならなかったが、夢を見せてくれた! 

 

自分も来年40になるが、同世代のアーツが、ここまでやれる!・・という素晴らしいファイトを見せてくれたコトで、非常に勇気をもらった試合だった。

 

自分もこの試合で心に刻まれた”「不惑」の魂”を忘れるコトなく、新しい年を迎えたいものだ・・。

 

 

 


処世訓

2010年12月11日 | 人生覚書き

 

      「短気は損気、急がば回れ」

                        

                     秋山久敬 (秋山好古・真之兄弟の父)

       

                     (NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」より) 


”思想界の先覚者”、宇都宮黙霖

2010年12月10日 | 歴史・民俗

大河ドラマ「龍馬伝」の影響で、今、日本はちょっとした龍馬ブーム幕末ブーム

幕府が力を失った幕末動乱の時代、維新回天へと導いた龍馬の活躍とその時代背景は、今の混沌とした日本の状況と重なるのか、政界においても、志士や龍馬を自任する政治家や、”~維新”といった言葉をよく耳にする。

”奇兵隊”内閣・・なんて言ってた首相もいたっけ・・?

 

そうした幕末の混乱期には「勤皇」「佐幕」か、あるいは「公武合体」か、対外政策においては「開国」「攘夷」か?―といった様々な思想が横行した。 

大政奉還は、幕府が朝廷に政権を返上するというもので、「勤皇」思想があって、はじめて可能であったし、この「勤皇」思想と、外国人を日本から追い払うという「攘夷」思想とが結びついたのが、いわゆる「尊皇攘夷」思想である。

 

この「勤皇」思想は国学や、水戸学と呼ばれる”黄門さま”でおなじみ、水戸光圀がはじめた『大日本史』の歴史編纂事業から発展、日本古来の伝統を追求する学問で、全国の藩校で教えられ、「愛民」「敬天愛人」などの思想は、吉田松陰西郷隆盛をはじめとする幕末の志士たちに多大な影響をもたらし、維新の原動力となった。(カテゴリー/歴史・民俗:「ビスケットの日」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/02abf7aca71c36adea2e14b017e5d16e

 

―さて、吉田松陰といえば、松下村塾を開き、高杉晋作久坂玄瑞らを指導した幕末の思想家として、知らぬ者がないほど有名であるが、その松陰の思想に少なからぬ影響を与え、”思想界の先覚者”と呼ばれる人物が、この広島県にいたのである!

 

それが、この宇都宮黙霖(うつのみやもくりん)である。

http://homepage1.nifty.com/hiro-sentoku/old/sekisen/sekisen_mokurin.htm

 

江戸末期の文政7(1824)年安芸国賀茂郡広村長浜(広島県呉市)に生まれ、明治維新の勤皇僧として、吉田松陰、月照らと交わって倒幕に奔走し、数奇な運命のもとに活躍した人物。

やはり僧で、勉学中だった父・峻嶺の結婚が認められないまま、私生児として生まれ、籍にも入れられず、養子に出されるなど、不倫の子、日陰者として不遇な幼少期をすごし、手のつけられない悪童として育った黙霖は、15歳の時に、叔父にあたる専徳寺の常諦『大学』の素読を授け、勉学の道を勧めた。


そこから心機一転、学問に志し、西条町の漢学者、野坂由節に師事、次いで蒲刈島弘願寺の円識(石泉和上の弟子・本願寺派勧学)について宗学を学び、さらに円識の奨めで、天下に師を求めて遊学し、芸州きっての儒学者といわれた広島の坂井虎山木原桑宅肥前平戸の光明寺拙厳勧学などを尋ねていったと伝えられている。

 

20歳の時、漢詩「菊花を詠ず」を作り、師に指導を願ったトコロ、「もう教えることはない」と言われ、代表作の一つとなった。

これは「菊花の詩」として、志士の間で愛好されたという。

 

このように若い頃から詩や和歌を好み、晩年は長浜へと帰り、石泉文庫にある『大蔵経』を読破して和訳し、約20年を費やして46万首(!)の和歌の形式に整えたほど。

その中の35万首が、現在も石泉文庫に遺されているそう。


 

22歳の時、旅の途中で病気のため、聴力を失うも、その後はすべて筆談を用いながら、九州、山陰、江戸など40余国をわたり、多くの漢学者、国学者と出会い、識見をひろめた。

この頃から国学研究によって勤皇論を唱え始め、その思想を確立、嘉永5(1853)年、江戸に上って老中・阿部伊勢之守正弘に論稿を送り、ひとり勤皇倒幕論を叫んで驚かせた。

そのため、安政元(1854)年、幕府や広島藩からの追及を受け、父親にも厳しい詮議が及ぶも、よく逃れて、また流浪の旅を続けた。

 

安政2年、萩に赴き、吉田松陰『幽囚録』を読んで感動し、獄中の松陰に書を送って文通を繰り返し、松陰に大きな影響を与え、思想的な転換をさせたといわれており、それが”思想界の先覚者”といわれる所以である。 

 

松陰が「時局観を先にし、攘夷の為に尊王論を統一し、人身を一に帰せしむべし」と考えたのに対し、黙霖は「国体論を第一にし、攘夷の有無に拘らず尊王を叫ぶべきである」と主張、松陰が幕府に対して、その誤りを諌める考えであったのに対し、黙霖は徹底的に倒幕を主張した。

黙霖との手紙のやりとりによる論争で叩きのめされた、当時29歳の松陰は、「茫然自失し、ああこれまた(自分の考えは)妄動なりしとて絶倒いたし候」「僕、ついに降参するなり」と述懐している。

 

安政の大獄の際に、頼三樹三郎梅田雲浜などと一緒に捕らわれたが、僧形のために釈放されたとか、広島藩に捕えられ、棺に入って脱出し、山口に逃れて毛利家の歓待を受けたとも・・。

 

再び広島藩から幕府に渡され、大阪にいた時、ようやく明治維新を迎えた。

明治27(1894)年日清戦争中に、時の総理大臣伊藤博文が来広した際、ぜひ一度、お会いしたい・・と、わざわざ呉まで尋ねて来て、黙霖のコトを「先生」と呼び、周囲の人々を驚かせたというエピソードも残っている。 

黙霖が影響を与えた松陰門下の晋作に小突かれながら育った伊藤にすれば、当然のコトであろうが・・。

 

明治30年、73歳で逝く。

 

耳が聞こえなくなった22歳の夏に得度して、本願寺の僧籍に入り、法名「覚了」となるが、後に「黙霖」の号を称するコトが多く、こちらが通称として世間では知られているそう。

 

―とはいえ、広島は呉の生んだ黙霖の名を知ったのは、恥ずかしながら、つい先日のコト・・。

 

こーゆー人もいたんだねぇ・・。

 

 


イマジン/ジョン・レノン

2010年12月08日 | アート

ジョン・レノンが、自宅アパートのダコタ・ハウスの前で凶弾に倒れたのが1980年12月8日今からちょうど、30年前のコト。

もし生きていれば、70歳になる。

 

ビートルズが解散した翌年に生まれた自分は、それほど深く聴きこんだ・・とゆー覚えはないが、時折流れるビートルズやジョン・レノンの曲の美しいメロディには、心が落ち着くような感覚を覚えたものである。

まして、影響を受けたミュージシャンは数知れないだろう。

 

そして、平和を愛するその心は、今も歌い継がれている・・。

 


エイリアン

2010年12月07日 | 食玩など

リドリー・スコット監督「エイリアン」が公開されたのが1979年。

SFホラーの古典と言われ、現代シュールリアリズムの鬼才、H・R・ギーガーによるエイリアンのデザインは、30年以上たった今でも、まったく古臭さを感じさせない。

 

・・とゆーより、この30年、このエイリアンを上回るインパクトをもつ、SF映画に登場するモンスターは存在しないのではなかろうか・・?

あと、プレデターくらい・・?

これもエイリアンの足もとにも及ばないが・・。

 

まあ、スターウォーズなんかでは、いろんなエイリアンがいっぱい出てくるけど、ひと山いくら的な、おもちゃ箱をひっくり返したよーな感じで、インパクトに関しては、これも言わずもがな・・である。

 

いまだにエイリアンの続編やスピンオフ・ムービーが作られ続けているのがその証拠。

SF映画におけるエイリアンとプレデターは、ホラー映画におけるジェイソンフレディみたいなもの。

奇しくも、どちらも両雄が対決する映画が作られている。

 

エイリアンが、それだけのインパクトを与えたのは、そのデザインもさるコトながら、やはり映画での見せ方、演出によるトコロが大きい。

シャアが駆る赤いザクがカッコいいのは、通常のザクの3倍のスピードで迫ってくる・・という見せ方、演出の賜物であろう。

 

リドリー・スコット監督といえば、「ロビン・フッド」が間もなく公開されるが、近年は「グラディエーター」(’00)や「キングダム・オブ・ヘブン」(’05)といった大作が多い。

「エイリアン」と共に出世作となった「ブレードランナー」(’82)は、今なお根強いファンが多い。

松田優作の遺作となった「ブラックレイン」(’89)や、「テルマ&ルイーズ」(’91)、「白い嵐」(’96)、「G.I.ジェーン」(’97)、「ブラックホーク・ダウン」(’01)など、そのビジュアルセンスと、主人公が過酷な状況に巻き込まれる・・という共通したシチュエーションの作風で、幅広い層の支持を得ている。

 

なんだか映画の話になってしまったが・・。

 

ちなみに、上の写真のエイリアンも、当時、コンビニで300円で売られていた食玩である。

これも大きさ15cmほどのモノだが、よく出来てるよなー・・。