Peace Waveの平和な日々~行く雲、流れる水のように~

気が向いたら、ボチボチ更新しようかと・・。(笑)

明智光秀の謎

2010年03月19日 | 歴史・民俗

明智光秀といえば、本能寺の変で主君である織田信長を討った謀反人として、歴史にその名をとどめている。

しかしながら、内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたといわれ、現在も光秀の遺徳を偲ぶ地域が数多くあるという。

 

諸学に通じ、和歌や茶の湯を好んだ文化人でもあり、戦国の世にありながら、大変な愛妻家としても知られている。

妻の煕子(ひろこ)が嫁入り前に疱瘡にかかり、あばた顔になったのを気に病んだ父親が妹を嫁にやろうとしたところ、「煕子こそ我が終生の妻」と断り、生涯、側室をとらなかったという。

(ただし、煕子は継室で、光秀にとっては2人目の妻・・とゆーコトになるが・・

そうした生き様からキリシタンであったとも言われており、実際、光秀に近い周囲の者にはキリシタンが多い。

組下大名(寄騎)の高山右近は有名なキリシタン大名であるし、細川忠興のもとへ嫁いだ娘のこそ、かの細川ガラシャである・・という具合だ。

 

『信長公記』には、その出自に朝廷と深い関わりがあったと記されているそうだが、出生や前半生など、織田家の家臣として歴史の表舞台に現れるまでは各地を放浪していたとも言われ、謎が多い。 

歴史家や研究者の近年の研究によって、さまざまな文献や記録に散見される光秀の足跡を追ってみると、”ある事実”が浮かび上がってくるという。

 

岐阜県可児市にある明智城は出生の地とされるが、なだらかな丘陵を越えるとすぐ三河で、歴史学者の佐宗邦皇によると、徳川家との関係が深かったという。

『名将言行録』に、三河の牧野右近太夫の百石取りの家臣であったとのエピソードがあり、徳川家康と主従関係にあったのではないか?・・という説もあるそうだ。

実際、『武功雑記』には、光秀が三河で渡り奉公をしていたとの記述もあるという。

http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide03.html

永禄3(1560)年桶狭間の戦い今川義元が信長によって敗れ、人質であった家康は岡崎城へと戻り、その後、光秀の足跡も三河から消えるが、静岡大学教授大和田哲男『永禄六年諸役人附』の奉公衆、足軽衆の中に「明智」の姓があるコトから、室町幕府の13代将軍・足利義輝に仕えていたとしている。

義輝は永禄8(1565)年松永久秀に殺されてしまい、室町幕府最後の15代将軍となった弟の足利義昭は落ち延び、越前の朝倉氏に身を寄ていたが、永禄11(1568)年、信長を頼って再び上洛した時に、光秀は朝倉の家臣として信長と面会したという。

光秀の仲介により、信長と義昭の同盟がなったのである。

 

『明智軍記』によれば、諸国放浪の後、朝倉義景に仕え、永禄8年頃には既に信長に招かれていたとあるそうだ。 

つまり、そこからが我々がよく知る、歴史の表舞台に出てきた信長の家臣として仕える光秀・・とゆーコトになる。

 

戦国乱世のコト、斎藤道三豊臣秀吉など、その出自がどこの馬の骨ともつかない、怪しげな前身の者は多いが、光秀は朝廷ともつながりもあり、各地を放浪しながらも様々な主君に仕え、出生の地は三河にほど近く、家康の家臣だったのではないか?・・と言われるほど徳川家と深い、何らかのつながりがあったというのだ!

 

本能寺の変の際、家康は堺にいたが、有名な”伊賀越え”で領地の岡崎城へ逃げ延びており、「大神君は先立ちて信長の変を聞召し・・」と、事前に光秀の謀反を知っていたとの記録も『朝野旧聞褒藁』(ちょうやきゅうぶんほうこう)にあるという。

家康は信長の命により、正室・筑山殿と長男・信康とを殺されており、信長に妻子を殺された恨みがあり、なおかつ天下に野心がある・・となれば、十分に動機はある。

 

まあ、もちろん、信長暗殺の真の黒幕・・とゆーコトでは、他にもさまざまな説があるが、この光秀・家康共謀説の面白いのは、この後の話・・。

 

光秀は本能寺の変の11日後、天正10(1582)年6月13日京都・小栗栖村山崎の戦いで落ち武者狩りの百姓に竹槍で突かれ、命を落としたとされる。

いわゆる”光秀の三日天下”である。

 

しかし、信長方の記録には、光秀が死んだとの記述は残っていないという。

主君を殺した首謀者が死んだとなれば、当然、その記録が残っているはずなのだが、それにもかかわらず・・である。

 

実は、光秀は生きていた!?

 

・・という説があるのだが、つづきは、また・・。