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光秀=天海?説

2010年03月23日 | 都市伝説・ミステリー

琵琶湖のほとりにある明智光秀の居城、坂本城から北西に4km行った所に比叡山がある。

その比叡山の飯室不動堂に、光秀が寄進したと言われる石灯籠がある。

 

その石灯籠には「奉寄進 願主 光秀」の文字とともに「慶長二十年 二月十七日」と書かれている。

慶長20(1615)年といえば、大阪夏の陣豊臣家が滅びた年。

光秀が死んだといわれる山崎の合戦から33年も後になる!

 

我々がよく知る教科書にも載ってる光秀の肖像画は、光秀の息子が建てた本徳寺という大阪府岸和田市にあるお寺に所蔵されている。

 

その肖像画の上には「般舟三昧放下去」とあるが、「般舟三昧経」(はんじゅざんまいきょう)に基づく修行方法を常行三昧、または仏立三昧といい、心を一つの事に集中し、正しい智恵を得るための修行のコト。

「般舟」はサンスクリット語の音写で、訳すと「仏立」となる。

「仏立」の言葉のごとく、仏様が目の前に現れるという修行で、「放下」(ほうげ)とは、投げ捨てる、放り出す、捨て切るのイミ。

すなわち、「般舟三昧、放下し去る・・」とは仏門に入り、すべての執着を捨て、僧侶となって去っていった・・というコトなのだという。

 

前回、光秀が家康の家臣だったのではないかと言われるほど、徳川家とのつながりが深いとゆーのを見た。(カテゴリー/歴史・民俗:「明智光秀の謎」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/84e9f19b8c5c7b55555f6b0388cd034b

実は、光秀は天海僧正ではないか?・・との説がある!

 

南光坊天海は徳川幕府のブレーンとして家康秀忠家光と徳川家3代将軍に仕え、家光の名付け親でもあった。

家光の「光」と2代将軍・秀忠の「秀」で「光秀」となる。

 

108歳まで生きたとされるが、その前半生は不明で、突如、歴史の表舞台に現れ、徳川家の側近として朝廷との交渉や宗教政策に深く関わった。 

都市計画にも関わり、陰陽道風水に基づく江戸鎮護を構想、霊的な結界で江戸を守るため、鬼門である北東の方角に、家康を神格化した東照大権現を祀る日光東照宮を建てたのも天海である。

約260年もの間続いた徳川幕府の礎を築いた、いわば、”スピリチュアル・アドバイザー”とでも言うべき存在なのである。

 

その日光東照宮の陽明門にある鼓楼鐘楼には桔梗紋の彫り細工が多くあるが、桔梗紋は明智家の家紋である。

 

また陽明門には、随身像という桔梗紋の袴をつけた像まであるのだ!

さらに天海が日光全体が見渡せる最も見晴らしのいい場所に明智平と名付け、その理由を聞かれた時に、「明智の名前を残すのさ・・」と答えたというエピソードもあるという。

 

日光東照宮には、他にも「かごめかごめ」の歌や、徳川埋蔵金に関する話もあるが、それはまたの機会に・・。

 

天海は死後、朝廷より慈眼大師の号を追贈され、日光の輪王寺にある天海の墓は慈眼堂という。

 

ちなみに「慈眼寺」の名をもつ寺は全国に多数あるが、京都の慈眼寺には漆黒の光秀像があるという。

 

また家康が天正20(1592)年に再建した秩父神社は、日光東照宮の雛形になったとも言われているそうだが、徳川家の葵の御紋がある社殿の下に、桔梗紋のついた着物を着た像があり、これは光秀ではないか?・・とゆー説も・・。

 

春日局が初対面のはずの天海に「お久しゅうございます」と挨拶したというエピソードもあり、光秀の家老の娘で、光秀とは主従関係にあり、顔見知りであったゆえにそうした挨拶になったのでは?・・と言われているそうだ。

なかなか興味深い説である。

 

天海の没年は諸説あるが、最大で135歳!

天海と光秀が同一人物だと享年は116歳(!)になり、当時の寿命を考えると少々無理があるのではないか?・・とも思うが、他にも2代で天海を演じたなどの説もある。

少なくとも、光秀が山崎の合戦で死んだとされる通説は、あらためて検証されるべきかもしれない・・。

 

もちろん、後世の編纂物によるものであるが、光秀の辞世の句とされるものに、こんな歌がある。

 

「心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ 名をも惜まじ」

 

うーん・・どっかで聞いた気がするね・・。 

 

信じるか信じないかは、あなた次第です・・。

 

 


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