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Peace Waveの平和な日々~行く雲、流れる水のように~

気が向いたら、ボチボチ更新しようかと・・。(笑)

とんど

2009年01月17日 | 歴史・民俗

先日、奥さんが会社の方で”とんど”があったと言ってぜんざいもらって来た。

ぜんざいとおしるこの違いも厳密にはいろいろあるだろうが、またの機会にゆずる。

 

「とんど・・?

 

はじめて聞く言葉だった。要するに自分が「どんど(焼き)」として認知していたものが、広島では”とんど”と言うのだそうだ。

調べてみると左義長(三毬杖・さぎちょう)」といい、小正月に行われる火祭りのコトで、1月14日の夜、または15日の朝に、刈り取り跡の残る田などに長い竹を三、四本組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾り、書初めで書いた物を持ち寄って焼く行事。

”どんど”とは火が盛んに燃える様を表しており、地方により呼び方が異なり、どんど、どんど焼き、とんど(歳徳)焼き、どんと焼きなどと言われる。歳徳神(としとくじん、とんどさん)を祭る慣わしがあった地域ではそう呼ばれ、出雲方面の風習が発祥であろうと考えられているそうだ。

 

民俗学的な見地からは、門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされる。

歳神は神道の神で、毎年正月に各家にやってくる来方神である。
地方によってはお歳徳(とんど)さん、正月様、恵方神、大年神(大歳神)、年殿
(としどん)、年爺さん、若年さんなどとも呼ばれるそう。

では、歳神とはどんな神さまかというと、「とし」の語源は穀物、とくに稲やその実りを意味したという。漢字の「稔」という字に「とし」という読みがあてられているコトでもそれはわかる。日本では稲は、普通一年に一度実るところから、稲の実りを意味した「とし」が、一年の単位を示すことばへと転じていったのだそうだ。

すなわち、歳神とは、稲の神、稲の実りをもたらす神というコトになる。

 

初詣のコトを書いた時に、歳神=蛇?

 

・・てなコトを書いたが、この話、もうちょっと引っ張れそうなので、またいずれ・・。

 

その”とんど”の火で焼いた餅を食べると、その年の病を除くと言われている。

今年もケガや病気などせず、健康で元気に過ごしたいものだ。

皆さんも寒いので、風邪などひかぬよう、くれぐれも体には気をつけてね!


初詣

2009年01月04日 | 歴史・民俗

お正月に初詣に行かれる方は結構多いのではないだろうか?

今や、初詣は国民的な行事として定着した感がある。

 

では、その歴史はいつからだったのだろうか?・・という番組が昨日やっていたが、どうも明治に入ってからのコトらしい。

 

もともとはその年の歳神(としがみ)という幸福をもたらす神様を祀る・・というコトで、家に歳神を招き入れ、どこにも行かずに家で過ごす・・というのが古来よりのお正月の過ごし方だったようだ。

年末に大掃除をして家をきれいにするのは歳神を招き入れる為で、お迎えする為の目印として置いたのが門松。

注連(しめ)飾り鏡餅は歳神が宿るものとして飾られたそうだ。鏡開きで鏡餅を分けて食べるのは、そこに宿る歳神の魂を分ける”御魂分け”で、歳神の魂、すなわち”歳魂”をもらうという意味があったという。

それが転じて、今日、我々が知る”お年玉”になったのだそうだ。

 

ちなみに鏡餅は豊穣の神として古来より信仰の対象だった”蛇”がとぐろをまいた姿を模したものだという説があるそうだ。とぐろをまいた蛇が奉納されてる神社もあるそうで、神社にある注連縄は蛇をかたどったものだという。

・・とすると、鏡餅に宿る歳神=蛇?

 

・・まあ、そのように家で過ごすのがお正月の過ごし方だったのだが、その年の恵方に参る”恵方参り”から初詣になったらしい。

そして、その背後には、明治になって開通した鉄道と、その鉄道で参拝客を集めようという寺社による企業努力があったからだという。

今でも鉄道を開通させようと思ったら、ほとんどの土地や山が寺社の持ち物になっているので、そことの相談なくしては、公共の交通機関を通すコトなど到底不可能だという。鉄道を開通させるにあたって、自分の寺社のある山までその線路を引っ張って来させるコトなどお手のものなのである。

実際、鉄道が開通してからの15年間で成田山の参拝客は10倍に増えたという。

 

考えてみれば、そうした交通手段がなかった時代には、みんな徒歩で寺社がある山まで行って、また山頂まで登ってたのだから、大変なコトである。

今でこそ、大晦日には初詣の参拝客のために電車も終日運行してるというのは当たり前になっているが、もしいつも通りに終電が終わってしまったとしたら、参拝客の数はグっと減るのではないか・・?

 

初詣=バレンタインデー説

 

・・という表現をその番組ではしていたが、チョコを売る為の企業戦略として定着したバレンタインデーと初詣は大差ないのではないか・・?

チョコも信仰も、日本人にかかれば同レベルなのかもね・・。

 


クリスマス

2008年12月25日 | 歴史・民俗

今日はクリスマス。イエス・キリストが生まれたとされる聖誕節である。

「ウチは仏教だから、そんなの関係ねぇ」

・・という人もいるかもしれないが、我々が日常使っている暦、西暦紀元前B・Cと表記され、”Before Christ”すなわち”キリスト以前”と、その誕生を境にしているのはご存知の通り。ちなみに西暦のA・Dはラテン語の”Anno Domini””主の年”の意味である。キリスト紀元ともいう。

”Christmas””Christ+mas””キリストのミサ”が語源であるが、キリストの生まれた日については諸説あり、さだかではない。ただ、12月25日ではないのは確かなようだ。

 

クリスマスというと”聖夜”という言葉もよくつかわれるが、教会で賛美歌・・というイメージが誰しもあるのではないだろうか?カトリックの幼稚園に通い、チャペルのあるミッション系の高校に通っていた自分は、礼拝堂の中で十字架にかかるイエス像を見ると、なんともいえない厳かな空気というものを感じたものだ。

イエスが我々人類の罪を背負って十字架にかかり、我々の罪をあがなってくださった、だからそのイエスの十字架の死を信じる事によって救われる・・というのがクリスチャンの基本的な信仰観といえよう。

 

しかしである。

 

では、イエスは我々の罪をあがなって、十字架にかかって死ぬために、神がこの地上に遣わされたというのだろうか?

 

ユダヤ民族とはユダヤ教を信じる人々をさす。モーセが神と交わした「十戒」を中心とする契約である。彼らには、その神と交わした約束ゆえに、神から選ばれたという選民思想がある。

当時、ローマの属領で暮らすユダヤ人たちは政治的な指導者、軍事的な解放者としてのメシヤを待ち望んできた。彼らを神との約束の地に連れて行ってくれる主である。

 

あたかも「いつか白馬の王子様があらわれて、私をここから連れ出してくれるわ」・・と玉の輿に乗る日を夢て、せっせと花嫁修業に精を出す乙女のように、一生懸命、戒律を守ってきたのである。

 

しかし、実際に来られた主は、彼らがせっせと守ってきた安息日を破って癒しのわざを行うなど、当時の彼らの常識では考えられない”常軌を逸した男”であった。

彼らはイエスを十字架につけるべく、総督に引き渡す。しかし、ピラトはつきだされたイエスの罪を見出せない。ユダヤ人たちはバラバという囚人を許し、イエスを十字架につけよ!と暴動になりそうな勢いだ。

『ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」』(マタイ27:24~25)

 

・・この聖句のゆえに、ローマ・カトリックの総本山、バチカンはナチスによるホロコーストアウシュビッツといったユダヤ人の虐殺を黙認し、その見過ごした事はまずかったと認めつつも、いまだに謝罪はしていない。

それは、ユダヤ人が来られた主を十字架につけたのだから「自業自得」だという 考え根底にあるからだ。欧米のキリスト教社会における、ユダヤ人に対するすべての差別意識の根源はここにある。

「汝の敵を愛せよ」と説いたイエスを信じるクリスチャンのはずなのだが、悲しい話だ・・。

 

もし、イエスを来られた主として、メシヤとして、当時のユダヤ人たちが受け入れていたとしたらどうだっただろう?

2000年前のイエスの十字架の死以後、キリスト教は世界中にその版図を広げた。しかし、もしユダヤ人たちがイエスをメシヤとして受け入れ、イエスが十字架にかかって死んでいなかったとしたら、今、我々はもっと違った世界に住んでいるのではないか?もちろん、希望的な意味で、そう思うのである。

 

現代に生きる我々も、同じ過ちをくりかえさないようにしたいものだ。

 

 

 

 


河童起源譚

2008年11月07日 | 歴史・民俗

国際日本文化研究センターの小松和彦によれば、河童の起源説話には3つの系統があって、1つは河童は人形が変じたものだという説、1つは祇園の御子(子ども)であるという説、もう1つが中国から渡来してきた妖怪だという説で、九州を中心に伝えられているという。

 

これはガラッパ南九州地方でいう河童のこと。

 

これはひょうすべ佐賀県、宮崎県を中心にした九州地方での河童の呼び名であり、ヒョウスヘヒョウズンボヒョウスボともいう。

 

中でも小松和彦が注目するのは、日本全国に広く分布している人形起源譚だという。

その話は竹田の番匠飛騨の工(たくみ)左甚五郎といった神格化された大工の棟梁たちが、どこそこの寺社、池や堤をつくるという時に、人手が足りないので、藁人形や鉋くずの人形をつくって働かせ、終わった後、それを川に捨てていたというが、その捨てられた人形が河童になった・・というものだ。

安倍清明で有名な陰陽師が使う式神のようなものだろう。

 

近世初期、京都四条河原の操り人形師・小林新助が、関八州の頭・矢野弾左衛門と興行権をめぐって争った時に、小林新助が手控えた記録『小林新助芝居公事ひかえという史料には、「」の起源説話があり、1つは阿部(安倍)清明が人形をつくって、用済みになって一条戻橋の河原に捨てたところ、人間に変化して人間と契って産んだ子が「」だと書かれているそうだ。

もう1つの説は、飛騨の工、竹田の番匠が内裏御造営のとき、人形をつくって働かせたが、その時、官女がこの人形と契って子を産んだ。御造営が終わって河原にこの人形を捨てたが、これが「」なのだという。

この「」の起源説話、そのままj河童起源譚に重なる。

河童の属性である川辺に棲んでるとか、童子の髪型、いわゆる「おかっぱ頭」をしているとか、手足が簡単に抜ける・・といったものは、河童=人形であること、そしてその背後に「川の民」、「」といったの存在を考えなくてはならない・・という。

 

非農業民である「」は、米の生産高である石高=国力であった当時の国の支配の枠組みとは外れた、特殊な「職」を生業として生き、住んでいる空間によって「」、「谷の者」、「坂の者」などと呼ばれた。その中に芸能や土木建築といったものもあり、実際にそういった技術を支えてきた。

そして、そうした「異類・異形の者」であるがゆえに、当時の権力者や里人とは区別され、やがて差別の対象になっていく。

しかし、そうした「異類・異形の者」と契ることでその力を取り入れ、「俗」なる世間とは画する「聖」なる空間に住む彼らはまた、そうした伝承を自らのアイデンティティとして、誇りにしていたのではあるまいか・・?

 

それがまた、現在まで続く河童伝説となって、今も我々の中に生きているのだと・・。

ちなみにこれは大百怪第1巻より岸涯(がんぎ)小僧。これも河童の一種。

 

 

これは一目(いちもく)入道。佐渡島の加茂湖の主で、目が1つしかない河童。

しかし、こうして見ると、ホント全国にいろんな河童伝説があるんだなあ・・。

 

 


ハロウィン

2008年10月30日 | 歴史・民俗

この時期になると、かぼちゃのちょうちんが店先を飾り、仮装パーティーが催されたり、ハロウィンというものがわりと日本人にも親しみのあるものとして定着してきつつあるように思う。

しかし、それもここ何年?か十数年くらいのコトで、自分が子どもの頃はまったくと言っていいほど、その単語すら聞いたコトがないくらいだったように思う。

 

調べてみると、ハロウィンとは、万聖節(11月1日)の前夜祭にあたる行事のことで、万聖節=“All Saints' Day(Hallowmas)”のイヴの日なので“All Hallow Eve”から“Halloween”になったと言われている。 

万聖節は、日本で言うならお盆のようなもので、過去に亡くなった人が、この日にはよみがえると考えられているそうだ。


もともとは2000年以上昔のケルト人の宗教的行事がキリスト教に取り入れられたものらしく、古代ケルト民族の宗教ドゥルイド教の儀式に、現代のハロウィンに通じる儀式があり、日照時間が短くなるこの時期は暗闇の勢力が増し、死者の霊があの世からやってくるという。

この世に戻ってくる魂は悪い霊で、生きている人にいたずらをしたり、悪運をもたらしたりすると考えられていて、その霊を静めるために人々は供物を差し出し、差し出さなかった家には悪いことが起こると信じられていた。

 また、やってくる死者を遠ざけるために、子供達に変装させて歩かせた。

 ハロウィンと聞いて思い出す仮装は、家のまわりを徘徊する悪霊たちが、その姿を見て驚いて逃げていくようにするためだったというワケだ。

仮装した子供達が近所の人を脅かせ、お菓子をもらう時の掛け声、

「Trick or treat!」(何かくれないといたずらするぞ!)

・・も、これが由来。

 

いつの間にやら、悪霊を追い払うための仮装をしていた子供たち自身が、悪さする悪霊そのものになっていたというコトらしい・・。

 

ちなみにあのかぼちゃのちょうちん、「ジャック・オ・ランタン」といい、その由来にはいろいろな話があるらしいが、一番有名なものとして「けちんぼジャック」と呼ばれる男が悪魔を騙したという話があるそうだ。
ジャックは死んだ後、地獄の門にたどり着くが、悪魔との取引のため地獄に落ちることもできず、明かりをともしたカブを持たされて、暗い道を永遠に歩き続けることになったというコトで、“jack o’ lantern”(ちょうちんのジャック)と呼ばれるようになったそうだ。

つまり、昔のアイルランドでは、カブや他の植物でちょうちんを作っていたが、アメリカに渡ってカブよりもちょうちん作りに適したかぼちゃと出会って今に至る・・というコトらしい。「所かわれば品かわる」いい例である。

 

日本人は昔から、仏教や儒教といった外来思想を取り入れながら、うまく自分たちののものにしてきた。今やクリスマスに加え、ハロウィンまでもその宗教的な意味もわからないまま、生活に取り入れつつある。山にも海にも、かまどや便所にまで神様がいる八百万の神々とともに暮らす日本人だからこそ可能な、フレキシブルな得意技といえよう。

 

一方、キリスト教のような唯一絶対の神様を信じる文化に住む人々は、逆に言うと自分たちの信じる神様以外は信じない・・という排他性をもつ。

それがまた、この度の戦争のような悲劇をおこしたりもする。

 

しかし、このハロウィンのように、その土地に元からあるものをうまく取り入れながら、自分たちのものにしてきたような例もあるのだ。

 

もともと、いかなる宗教が説く「愛」にも「慈悲」にも「仁」にも、等しく他者を認め合う宥和的な包容力を持ち合わせているはずなのだから・・。

宗教や思想の違いだけで争うような愚はおかさないようにしてもらいたいものだ・・。


新説!?日本ミステリー

2008年10月20日 | 歴史・民俗

最近、お気に入りの番組がこの「新説!?日本ミステリー」

当初、特番で「みのもんたの~」とつく番組だったのだが、今はありがたい(笑)コトに編集され、CGの白虎(声:ゴルゴ松本)と青龍(声:松方弘樹)がナビゲーターをつとめ、新説を唱える白虎と、通説の青龍が「信じるのか?」「信じないのか?」とゲストにジャッジを求めるという構成になっている。

 

今回のネタは長篠の戦いはなかった!?というもの。

1575年、武田の騎馬隊を織田信長の鉄砲隊が破った、戦術的にも画期となった戦いで、ドラマなどでもよくとりあげられている。

通説では、武田軍1万5千に対し、織田・徳川軍は3万8千、戦死者は1万。3000挺の鉄砲で100発撃ったとして、8時間で実に30万発!

 

しかし、その戦場だった現在の愛知県新城市からは、たった12発の弾丸しか発見されていない。しかも、徳川が主力で、織田は加勢したのみで戦死者も1000人という。

また武田家の軍記、『甲陽軍鑑』にも騎馬隊の記述はなく、馬に乗っていたのは主だった武将の他、7~8人程度で、その馬自体も日本古来の木曽馬という小さな種類で体高130cm程度、走る速さも小学生が走るほどだというから、とても「疾きこと風のごとし・・」という風林火山のあのイメージはない。

もともとこの戦いの通説のもととなった『信長公記』は、秀吉が家臣に書かせたもので、ライバル・家康の功績をなきものにしようと捏造したというのだ!

 

もしそうだとしたら、今まで学校で習ったコトって、一体なんだったの?・・というコトになるが、ありえない話ではない。

歴史はいつも記述するものの意図によって往々にして歪められてきた。

マルクスの唯物史観しかり、皇国史観しかり・・。日本最古の史書、『古事記』や『日本書紀』といった記紀神話でさえ、藤原一族の権力を確固たるものにするために編纂されたものといわれている。

「蘇我の一族ムシ殺(645)し」と、昔憶えた大化の改新も、天皇を利用し、権力を我がものにしようとした悪の権化・蘇我入鹿とそれを倒した正義の中大兄皇子中臣鎌足・・というイメージが我々世代にはあると思うが、その図式自体がまったくの逆・・という可能性が高いのだ。

ちなみに中臣鎌足の子、藤原不比等が記紀神話の編纂に携わったといわれている。この不比等はかなりの謀略家だったらしく、いずれこの話もしてみたい・・。

 

真実と思っていたものが偽りだったり・・ホントにこの世は「事実は小説より奇なり」だ。