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Peace Waveの平和な日々~行く雲、流れる水のように~

気が向いたら、ボチボチ更新しようかと・・。(笑)

天を敬い、人を愛す

2011年08月13日 | 人生覚書き

 

   敬天愛人

 

西郷隆盛は、好んでこの言葉を揮毫したといわれ、『南洲遺訓』にも、「道は天地自然のものなれば、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以って終始すべし」・・とあるコトから、西郷の言葉とされている。

しかし、「敬天愛人」の直接の典拠となったのは、サミュエル・スマイルズ著、中村正直訳による『西国立志篇』(原題『Self Help』(自助論)だという。http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/keitennaijin.htm

 同書は1871(明治4)に刊行されているが、中村による「緒論」に、国会議員たる者、「必ず学明らかに、行い修まれるの人なり、敬天愛人の心ある者なり」・・という一節があるとか。

ちなみに自助論の序文にある”Heaven helps those who help themselves”「天は自ら助くる者を助く」・・と訳したのも彼である。

 

中村には、これより以前に、そのものズバリ、『敬天愛人説』という著作がある。

幕臣の家に生まれ、もともと儒学を修める一方、蘭学・英語を学び、1866(慶応2)、イギリスへの留学生を引率する監督として同行、西洋の最新の知識を学び、2年後に帰国、すぐにこれを執筆したという。

この『敬天愛人説』は、全文、「敬天愛人」の説明で、「何をか愛人という、曰く、天を敬するがゆえに人を愛す。わが同胞を愛するは、わが父を敬するによる。」・・とあり、この”わが父”とは、もちろん、キリスト教でいうトコロの”神”のコト。

 

新約聖書マタイによる福音書に、次の聖句がある。

 

「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。

これがいちばん大切な、第一のいましめである。

第二もこれと同様である。

『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。」(マタイ22:37~39)

 

まず、神を愛するコト。

そして、人を愛するコト。

―イエスが、すべての律法の中で、最も大事なものとしてあげたのが、この2つである。

天を敬い、人を愛す―まさしく、「敬天愛人」である。

キリスト教の真髄が、この四文字の言葉に込められているのである。

 

すなわち、「敬天愛人」思想とは、中国・儒教の経典を典拠とするものではなく、儒教的教養を土台に、西洋・キリスト教文化から抽出された観念を受容したトコロから生まれたものなのである。

 

これがもし、「人を愛する」だけでは、横的・相対的・平面的な関係性だけなので、何が中心なのか、わからなくなってしまう。 

文化人類学者のルーズ・ベネディクトは、日本文化について著した『菊と刀』で、キリスト教的な文化背景をもたない日本が、体裁を重んじる「恥の文化」であると評した。

赤信号、みんなで渡れば怖くない」・・という、ビートたけしの往年のギャグは、そのいい例であろう。

要は、恥だと感じなければ、何をやってもいいのである・・。

 

それよりも、一神教による唯一・絶対の”神と我”という関係性による、内面的な良心や罪悪感を重んじる「罪の文化」をもつキリスト教文化圏の方が、倫理基準が高い・・とゆーワケである。

 

しかし、これとて”神と我”という関係性が希薄、あるいは有名無実のものであれば、途端にその倫理観が崩壊してしまうのは、キリスト教文化圏である西洋諸国の現状を見れば、あきらか・・。

 

まず、第一に「神を愛する」「天を敬う」・・という縦的・絶対的・立体的な関係性があってこそ、「人を愛する」上でもブレるコトがない。

 

悪や暴力に迎合するコトが、「人を愛する」コトではない。 

多くの女性と関係をもつのは”博愛主義”・・などという、浮気肯定論者のふざけた論理がまかり通るコトもなくなる。

 

しかし、キリスト教的な文化背景をもたない日本人の心にも、「敬天愛人」の思想は、しっかりと根付いている。

 

イエスが最も大事な教えだといった聖句が、「敬天愛人」という四字熟語となって、今も日本人に使われ、愛され続けているコトこそ、何よりのその証左ではあるまいか・・?

 

日本の儒教・仏教・神道という東洋文化と、西洋のキリスト教文化の邂逅と融合・調和を、自分はこの「敬天愛人」・・という言葉に感じるのである。

 

 


伸びる人の3つの条件

2011年08月09日 | 人生覚書き

物事に熱中できる人

持続性のある人

常識に縛られない闊達さを持つ人

 

以前、村上和雄『スイッチ・オンの生き方』から、98%の眠ってる遺伝子を呼び起こすコツを紹介した。

(カテゴリー/人生覚書き:「スイッチ・オンの生き方」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/c7620221e78c59e7cd983416693329e3

簡単に言えば、明るく前向きに、志をもって、人のために生きる・・とゆー感じ。

 

「伸びる人」は、眠ってる遺伝子を呼び起こすコトがうまい人・・とゆーコトになるが、いかに”没頭”してやれるか?・・が重要と言えよう。

にもあるように、頭でゴチャゴチャ考えて、こねくり回すのは良くない。

 

「好きこそものの上手なれ」というが、どれだけ自分の仕事や、やるコトを愛せるか?

 

確かに、いきいきと笑顔で、目を輝かせて物事に取り組んでる人なら、必ず伸びるってもんだ・・。

 

「これを知る者は、これを好む者に如かず

 これを好む者は、これを楽しむ者に如かず」

                        (『論語』)

 

 


つもりちがい十カ条

2011年08月03日 | 人生覚書き

高いつもりで 低いのが 教養

低いつもりで 高いのが 気位

 

深いつもりで 浅いのが 知識

浅いつもりで 深いのが 欲望

 

厚いつもりで 薄いのが 人情

薄いつもりで 厚いのが 面皮

 

強いつもりで 弱いのが 根性

弱いつもりで 強いのが 自我

 

多いつもりで 少ないのが 分別

少ないつもりで 多いのが 無駄

 

 そのつもりでがんばりましょう・・。 


なせばなる!

2011年07月30日 | 人生覚書き

なせばなる

 なさねばならぬ 何事も

  ならぬは人の なさぬなりけり

                       上杉鷹山

 

中国最古の歴史書、『書経』太甲下篇にある弗爲胡成」(為さずんばなんぞ成らん)をもとに、この句を詠んだといわれる。

ケネディ大統領が、日本人記者から「最も尊敬する日本人は?」と聞かれ、答えたのが、この上杉鷹山だというエピソードがある。

もっとも、聞いた方が鷹山を知らなかったそうだが、上杉謙信以来の雄藩としてのプライドだけで、非常な財政難にあった米沢藩を再建した人物として、20年ほど前、不況の時期にとりあげられ、一時期、ブームにもなった。http://yamagata6.blog118.fc2.com/blog-entry-285.html

・・しかし、正直、今はその時より、さらに景気は悪化しているように思うが・・。

 

子どもの頃、自分の母親が言ってた言葉で、よく覚えているのが「五体満足で生まれたコトに感謝しなさい」・・とゆーのと、この言葉。

 

別に説教ぶって言ってたワケではなく、むしろ、冗談めかして、妙な節をつけて歌ってたような感じだったが、シンプルな中にも説得力のある”真理”であったからこそ、子ども心にも残ったのであろう。

 

なせばなる!

 

―しかし、本当に大事なのは、その後の部分だよなぁ・・と、この年になって、あらためて、この句”全体”のイミの重みを、しみじみと噛みしめる次第である・・。

 


行く雲、流れる水のように

2011年07月27日 | 人生覚書き

 

       行雲流水

 

「今、1番最初にあたまに浮かんだ四字熟語は?」

・・と咄嗟に聞かれたら、皆さんは何と答えるだろうか・・?

 

―その四字熟語が、その人の人生観やモットーを表している・・という簡単な心理?テストであるが、自分が最初に浮かんだのが、これ。

 

空を行く雲も、流れる水も、悠々と自在に場所を変え、とどまるコトがない。

一定の形をもたず、常に移り変わってよどみがない・・。

そうした、一切のものに執着せず、自然の成り行きにまかせた生き方や境地、または世の無常を表した言葉でもある。

 

修行僧を表す「雲水」という言葉も、この言葉が由来。

 

一つ処にとどまらず、各地を行脚しながら修行する雲水は、そのまま人の人生のようでもある。

 

すべては自分を成長させてくれる糧―そのくらいの大らかさをもって、常に自らの人生に起こるさまざまな出来事を受け入れられるなら、どれだけ楽だろーか・・?

 

とらわれるからこそ、とらわれたくない・・という思いが強くなる。

 

つまらないコトにとらわれ、悶々とするコトの多い、ちっぽけな自分であるからこそ、行雲流水の境地で生きたい・・という理想像を追い求めているのだろう。

 

悠々と空を行く、自由気ままな雲。

 

時に激しく、時に穏やかに、とどまるコトなく流れゆく水。

 

―その姿を見ていると、ちっぽけなコトで悩んでいる自分を、ちっぽけだと自覚できるトコロがまたいい。

 

まあ、あるがままのちっぽけな自分を、そのまま受け止めるのもまた、行雲流水の境地なのかな・・?

 

「気楽に行こうや・・

 

行く雲、流れる水のように・・。

 

 

 


諸行無常

2011年07月15日 | 人生覚書き

人は心に自分の道を考え計る。

しかし、その歩みを導く者は主である。 

               箴言16:9

 

聖書には、仏教の言葉かと見紛うような言葉が多くある。

特に旧約の『箴言』『伝道の書』などに多い。

この2つと『ヨブ記』『詩篇』の一部は、キリスト教では知恵文学と位置づけられている。

 

たとえば『伝道の書』は、冒頭にこんな一節がある。

「空の空、空の空、いっさいは空である。」(伝道の書1:2)

いっさいは空(くう)・・般若心経の一節、「色即是空」を彷彿とさせる。

 

この後、『伝道の書』は以下のように続く。

「日の下で人が労するすべての労苦は、その身に何の益があるか。

世は去り、世はきたる。

しかし地は永遠に変わらない。

日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。

風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。

川はみな、海に流れ入る。

しかし海は満ちることがない。

川はその出てきた所にまた帰って行く。」(伝道の書1:3~7)

・・これぞ、まさしく、諸行無常・・。

 

「わたしは大きな事業をした。わたしは自分のために家を建て、ぶどう畑を設け、園と庭をつくり、またすべて実のなる木をそこに植え、池をつくって、木のおい茂る林に、そこから水を注がせた。~中略~

そこで、わたしはわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである。」(伝道の書2:4~11)

・・・・。

これは新約のイエスの「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分の体のことで思いわずらうな。」(マタイ6:25)・・という説教にも対応する。

(カテゴリー/人生覚書き:「空とぶ小鳥は」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/ffbb69e6376959b64b6161b9ae64d00b

 

今一度、我々は自分の人生を俯瞰で見直す時なのかもしれない。

学生時代、この世の一大事とばかりに、あれほど騒いだ試験や受験も、今にして思えば屁でもない・・。

今、あたまを悩ませてる人生の大問題(・・と当人が思ってるコト)も、意外と過ぎてみれば、そんなものかもしれない。

 

「わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。

神のなされることは皆その時にかなって美しい。

神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。

それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。

わたしは知っている。

人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。

またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。

わたしは知っている。

すべて神がなされる事は永遠に変わることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。

神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。

今あるものは、すでにあったものである。

後にあるものも、すでにあったものである。

神は追いやられたものを尋ね求められる。」(伝道の書3:10~15)

 


たった1人の挑戦

2011年07月04日 | 人生覚書き

TV中継で見る日本代表たちが立つサッカー場のグラウンドは、冬でも色鮮やかな緑色の芝生が生い茂っている。

今となっては当たり前の光景だが、ほんの20年ほど前は、当たり前のコトではなかった。 

秋になると芝生が枯れてしまう日本のグラウンドでは、ボールがイレギュラーしたり、けが人が続出する・・という状態だったのである。

 

これは、決して表舞台に立つコトはない裏方が、1年中、緑の芝生のグラウンドを実現するために、たった1人で行動したお話・・。

  

日本一の競技場、国立競技場のグラウンド整備を任され、そのコトを誇りに思っていた鈴木憲美は、1981年、サッカークラブチーム世界一を決めるトヨタカップの前日、出場チームであるノッティンガム・フォレストブライアン・クラフ監督から、

「明日の試合会場はどこですか?」

・・と聞かれ、絶句。

 

当時、日本の競技場は、秋になると芝生が茶色く枯れてしまい、グラウンドのあちこちで芝生がハゲてしまっていた。

1年中、緑の芝生が茂るヨーロッパの競技場に比べると、国立競技場といえど、貧相な空き地そのもだったのである。

 

日本一のグラウンドを整備してきた!・・という鈴木のプライドは、一瞬で砕け散った。

 

その違いは夏芝冬芝・・という、2種類の芝生にあった。

夏に青々と茂る夏芝の上に、寒さに強い冬芝の種を蒔くと、夏芝が枯れる頃、青々とした冬芝が生えてくる・・というのが、ヨーロッパの1年中、緑の芝生の秘密であった。

しかし、日本の気候では冬芝は育たない!

・・というのが定説。

 

ところが、あらためて文献を調べてみると、誰も、その定説を実証した人はいなかった!

これは試してみる価値があると、早速、上司に「国立競技場通年緑化計画書」というプロジェクトの企画書を提出したものの、

「私の在任中に面倒なコトはしないでくれ」

・・と、お役所気質の”事なかれ主義”で、あっさり却下!

 

それでも鈴木はあきらめず、だったら、俺が1人でやってやる!・・と一念発起!

自宅の庭や競技場の片隅で、土や肥料など、様々と条件を変えながら、最も冬芝の種が育つのに適した環境を調べる実験を、ただ1人、黙々と続けた。

 

―それから、10年にもわたる地道な実験で突き止めたのが、水はけの問題だった。

湿度の高い日本では、過剰な水分が根腐れを招いてしまい、冬芝は育たないのだが、水はけのよい砂地なら、元気に育つコトがわかったのだ。

 

折しも世界陸上開催をにらんで、国立競技場は全面改修の時期!

このチャンスを逃すまいと、再び上司に直訴するも、また面倒なコトを持ち込んで・・と、今度も相手にされなかった。 

この時、鈴木の決意は固まった。

 

1990年4月からはじまった改修工事。

しかし、この期間、上司が現場に来るコトはない。

鈴木は用意周到に発注から手配まで、たった1人で計画し、国立競技場に250tもの砂を運びこませたのだ!

もちろん、上司の許可を得ていない、極秘の計画だった・・。

そして、グラウンド全体を30cm掘りおこし、砂を敷き詰めた。

 

失敗すれば、巨大な砂場、当然、競技ドコロではないが、責任をとる覚悟は出来ていた。

 

―それから、7ヵ月がすぎた11月。

 

グラウンドは目にも鮮やかな緑一色だった! 

ついに、1年を通して緑の芝生が生い茂るグラウンドを実現したのである。

 

それは1人の男の行動が、歴史を変えた瞬間だった。

たった1人の挑戦が、それまでの常識を覆したのである。

 

それから2年後、Jリーグが開幕! 

1年中、緑の芝生のグラウンドは、日本サッカー躍進の礎となった。

 

たった1人でも、動き出せば、何かを変えるコトが出来る・・とゆーコトを、このエピソードと共に、胸に刻んでおきたいものだ。

 

 


六然

2011年06月25日 | 人生覚書き

自処超然

藹然

有事斬然

無事澄然

得意澹然

失意泰然

 

中国明代の陽明学の碩学、崔後渠(さいこうきょ)による。

「自処超然」(じしょちょうぜん)は、「自ら処するコト超然」―すなわち、自分の身の処し方としては、物にとらわれないコト。

「処人藹然」(しょじんあいぜん)―「藹然」とは、なごやかな態度のコトで、人と接する時は、春風のようになごやかに、穏やかに、相手を楽しませるコト。

「有事斬然」(ゆうじざんぜん)―事有る時には、思い切った行動に出るコト。

「無事澄然」(ぶじちょうぜん)―事がない時には、水の如く澄んだ気持ちで。

「得意澹然」(とくいたんぜん)―「澹然」の「澹」は「淡」と同じイミで、得意の時こそ淡々と。

「失意泰然」(しついたいぜん)―失意の時はゆったり、泰然と構える・・。             

 

ちなみに勝海舟もこの『六然』を好んで使い、同志社大学の創始者・新島襄にもこの言葉を揮毫して贈っている。 

 

 この『六然』に感銘を受けたと思われる良寛も、自身の『六然観』を唱えている。

すなわち・・ 

 

超然として天に委せ  

悠然として道を楽しみ

厳然として自らを慎み 

(あい)然として人に接す

毅然として節を持し  

泰然として難に処す

 

 

「悠然として道を楽しみ」がいい。

 

常に心に、こうした”ゆとり”をもっていたいものだ。

 

「忙」しいは「心」を「亡」くすと書くが、日々に忙殺され、ギスギスした心でいては、「処人藹然」・・とは、いかないだろう・・。

 

 


結果は委ねる!

2011年06月20日 | 人生覚書き

 

 人の行うべきかぎりを行うのが人の道にして

    そのことの成ると成らざるとは

     人の力におよばざるところぞ

                                 本居宣長

 

「人事を尽くして天命を待つ」も、同じようなイミになろうか。

やるだけやったら、あとは結果を天に委ね、徒に心を煩わせるコトなく、どーんと大きく、ゆったり構えていたいものだ。

 

―まあ、”やり切った感”がないからこそ、後でいろいろ悔やんだりしてしまうのかもしれないが・・。


”覇気”

2011年05月30日 | 人生覚書き

 

       ”疑わない事”

      それが ”強さ”だ!!!

                        シルバーズ・レイリー

                    (『ONE PIECE』61巻より)