敬天愛人
西郷隆盛は、好んでこの言葉を揮毫したといわれ、『南洲遺訓』にも、「道は天地自然のものなれば、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以って終始すべし」・・とあるコトから、西郷の言葉とされている。
しかし、「敬天愛人」の直接の典拠となったのは、サミュエル・スマイルズ著、中村正直訳による『西国立志篇』(原題『Self Help』(自助論))だという。http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/keitennaijin.htm
同書は1871(明治4)年に刊行されているが、中村による「緒論」に、国会議員たる者、「必ず学明らかに、行い修まれるの人なり、敬天愛人の心ある者なり」・・という一節があるとか。
ちなみに自助論の序文にある”Heaven helps those who help themselves”を「天は自ら助くる者を助く」・・と訳したのも彼である。
中村には、これより以前に、そのものズバリ、『敬天愛人説』という著作がある。
幕臣の家に生まれ、もともと儒学を修める一方、蘭学・英語を学び、1866(慶応2)年、イギリスへの留学生を引率する監督として同行、西洋の最新の知識を学び、2年後に帰国、すぐにこれを執筆したという。
この『敬天愛人説』は、全文、「敬天愛人」の説明で、「何をか愛人という、曰く、天を敬するがゆえに人を愛す。わが同胞を愛するは、わが父を敬するによる。」・・とあり、この”わが父”とは、もちろん、キリスト教でいうトコロの”神”のコト。
新約聖書のマタイによる福音書に、次の聖句がある。
「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である。
『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。」(マタイ22:37~39)
まず、神を愛するコト。
そして、人を愛するコト。
―イエスが、すべての律法の中で、最も大事なものとしてあげたのが、この2つである。
天を敬い、人を愛す―まさしく、「敬天愛人」である。
キリスト教の真髄が、この四文字の言葉に込められているのである。
すなわち、「敬天愛人」思想とは、中国・儒教の経典を典拠とするものではなく、儒教的教養を土台に、西洋・キリスト教文化から抽出された観念を受容したトコロから生まれたものなのである。
これがもし、「人を愛する」だけでは、横的・相対的・平面的な関係性だけなので、何が中心なのか、わからなくなってしまう。
文化人類学者のルーズ・ベネディクトは、日本文化について著した『菊と刀』で、キリスト教的な文化背景をもたない日本が、体裁を重んじる「恥の文化」であると評した。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」・・という、ビートたけしの往年のギャグは、そのいい例であろう。
要は、恥だと感じなければ、何をやってもいいのである・・。
それよりも、一神教による唯一・絶対の”神と我”という関係性による、内面的な良心や罪悪感を重んじる「罪の文化」をもつキリスト教文化圏の方が、倫理基準が高い・・とゆーワケである。
しかし、これとて”神と我”という関係性が希薄、あるいは有名無実のものであれば、途端にその倫理観が崩壊してしまうのは、キリスト教文化圏である西洋諸国の現状を見れば、あきらか・・。
まず、第一に「神を愛する」「天を敬う」・・という縦的・絶対的・立体的な関係性があってこそ、「人を愛する」上でもブレるコトがない。
悪や暴力に迎合するコトが、「人を愛する」コトではない。
多くの女性と関係をもつのは”博愛主義”・・などという、浮気肯定論者のふざけた論理がまかり通るコトもなくなる。
しかし、キリスト教的な文化背景をもたない日本人の心にも、「敬天愛人」の思想は、しっかりと根付いている。
イエスが最も大事な教えだといった聖句が、「敬天愛人」という四字熟語となって、今も日本人に使われ、愛され続けているコトこそ、何よりのその証左ではあるまいか・・?
日本の儒教・仏教・神道という東洋文化と、西洋のキリスト教文化の邂逅と融合・調和を、自分はこの「敬天愛人」・・という言葉に感じるのである。