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Peace Waveの平和な日々~行く雲、流れる水のように~

気が向いたら、ボチボチ更新しようかと・・。(笑)

曖昧さへの耐性

2010年11月26日 | 人生覚書き

夫婦ゲンカなど、男女がケンカした時、殴り合いでは無論、女性は男性に勝てないだろうが、口ゲンカではまず、男性は女性に勝てない。

一般的に、男性は論理的なのに対し、女性は感情的で、論理が破綻してようが、感情をぶつけられては勝ち目がない・・とゆーのも1つにはあろう。

 

もう1つの理由としては、女性はケンカをすると長い・・つまり、「白黒つける」「決着つける」までやるとゆートコロだ。

男性は「まあ、もう、そんなもんでいーじゃない・・」と、決着がつかない状態でも終りに出来るのだが、女性はそうではない。

「勝つまでやる」相手には、絶対に勝てない・・。

 

これを心理学用語では、「曖昧さへの耐性」というそうだ。

文字通り、曖昧な状態に耐える力・・というイミで、境界線がないような状態、中途半端な状態に対する許容量とでも言おうか・・。

概して、女性は男性に比べて「曖昧さへの耐性」が低い・・とゆーワケだ。

 

たとえば、女性は不倫をすると、その中途半端な状態に耐えられず、ストレスで体調を崩したりするそうだが、男性は不倫をすると、どんどん元気になっていく・・とゆー傾向があるのだそうだ。

好きな人の「嫌いな部分」が許せないのは、圧倒的に女性に多い傾向であろう・・。



曖昧さへの耐性が低いと、境界線を引かないと落ち着かないので、不確定な要素があるコトを好まず、世界を「白黒」2つに分けて考えがちになる。

曖昧さへの耐性が高いと、境界線を引いて、無理に枠にはめ込んで、世界を「白黒」2つに分けなくても平気でいられる。

つまり、不確定な要素がある「グレー・ゾーン」も許容できる・・とゆーワケである。

 

まあ、確かに我が家でも、ウチの奥さんの話を聞いてると「~が嫌い」、「~が許せない」とゆーものが、やたら多い・・。

自分は、それとはまったく逆で、「まあ、そーゆーのも、ありなんじゃないの・・?」、「こーゆーとらえ方もあるでしょ・・?」とゆー感じで、のらりくらり・・。

奥さんからしてみれば、とらえドコロがない、”曖昧な世界の住人”と思われているコトだろう・・。

 

女性にしたら、「曖昧さへの耐性が低い」・・と言われれば、気分はよくないだろーが、これはどちらがいい、悪いではなく、一長一短であろう。

 

―とゆー”曖昧な”とらえ方が出来るかどうかも、曖昧さへの耐性が高いか否かであるのだが・・。

 

人はいろんなものに境界線を引いて生きている。

知識、物、現象、人・・カテゴライズするコトで、整理され、理解しやすくなる。

 

境界線といえば、先日、北朝鮮が韓国に砲撃、兵士2名、民間人にも2名の死者が出た。

38度線は国境ではなく、軍事境界線・・いまだ韓半島は、同じ民族同士がにらみ合い、休戦状態にあるコトを改めて知らされた形だが、北朝鮮の行為は決して許されるものではない。

 

そーゆー38度線が、我々にもある。

男性と女性でも、それだけとらえ方が違うのだから、1つ屋根の下に暮らす夫婦同士、にらみ合い、戦争状態にある・・とゆーコトもあろう。

 

しかし、男性は女性について、女性は男性について知らなかったコトを学ぶために、「家庭」という学校に入学するのだ。

お互いの違いを知り、その違いを認め合って、すべての履修単位がA+になってこそ、しあわせな家庭を築けるのである。

 

これは、なかなか難しいコトではあるが・・。

 

 

 

 

 




一隅を照らす

2010年11月13日 | 人生覚書き

 

               照干一隅(しょうういちぐう)

 

「照干一隅」とは「一隅を照らす」というイミ。

「一隅」とは、今、自分がいる場所や立場のコト、「照らす」とは、忘己利他―すなわち、己を忘れて他を利するの気持ちで、世のために自分に出来る限りの努力をするコト。

 

天台宗開祖最澄『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、

 

「国宝とは何物ぞ、宝とは道心(どうしん)なり

 道心の中に衣食(えじき)あり、衣食の中に道心なし

 径寸(けいすん)十枚 これ国宝に非ず

 一隅を照らす これ則ち国宝なり」

 

・・と著している。

「道心」とは自己を高め、正しい道を進む心のコトで、「径寸」とは金銀財宝のコト。

「一隅を照らす、これ則ち国宝なり」は、『史記』にある有名な国宝問答、「照千里、守一隅」の故事を踏まえた言葉だとか。

―なので、「照干一隅」は、本当は「照”千”一隅」の写し間違いらしい・・という話もあるそう・・。

 

千里を照らすのは、なかなか容易ではないが、だからといって、ふてくされたりせず、”一隅”―自分の位置を守る・・というコトは大切だ。

 

この「照干一隅」という言葉にはじめて出会った時、思い出した話があった。

―たしか、高校の寮?のクリスマス礼拝だったか・・?

自分はミッション系男子校の寮生で、1人ずつ手にろうそくを持ってチャペルに入り、チャプレンの説教を聴く機会があった。

バレーの熱血コーチでもあったそのチャプレンは、聖書の授業も講義し、サイトウという名だったため、皆から”サイチャプ”というあだ名で呼ばれていた。

 

思い出したのは、その時、話された「ろうそくのような人になりなさい」・・というものだった。

ろうそくは、自分の身を削ってまわりを明るく、あたたかく照らす・・そんな話だったと思う。

 

それは、か細い炎かもしれない。

しかし、我が身を燃やす、一生懸命な、健気な炎は、きっと人の心に届く・・。

 

一隅を照らす。

 

―そんな者でありたいと思う・・。

 



正直者はバカを見ない!

2010年11月08日 | 人生覚書き

 

  「生き残るのは・・・この世の「真実」だけだ・・・

    真実から出た『誠の行動』は・・・

      決して滅びはしない・・・」

             ジョルノ・ジョバーナ

           『ジョジョの奇妙な冒険 Part5 黄金の風』より


スイッチ・オンの生き方

2010年10月23日 | 人生覚書き

人間の遺伝子は、98%はその働きもわからないまま、眠ったままだという。

すなわち、スイッチがオフになっている状態なのだ。

(カテゴリー/サイエンス:「遺伝子の秘めた可能性」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/95a17087d6aad7a740be78f00cdfeb94

 

遺伝子工学の分野で世界をリードする研究者の1人で、筑波大学名誉教授村上和雄の著書、『スイッチ・オンの生き方』によると、遺伝子のオン・オフにかかわる環境因子としては①物理的要因(熱、圧力、訓練、運動など)、②食物と科学的要因(アルコール、喫煙、環境ホルモンなど)、③精神的要因(ショック、興奮、感動、愛情、喜び、恨み、信条、祈りなど)があるが、眠っているよい遺伝子を目覚めさせる、スイッチをオンにする生き方とは、

 

どんな時も明るく前向きに考える

思い切って今の環境を変えてみる

人との出会い、機会との遭遇を大切にする

感動する

感謝する

世のため人のためを考えて生きる

 

・・の以上6点。

前向きなものの見方・考え方が出来るか否かが大きく左右するという。

 

またアメリカの心理学者A・H・マズローは、人間の可能性を妨げる要因として、以下の6つを挙げている。

 

いたずらに安定を求める気持ち

つらいことを避けようとする態度

現状維持の気持ち

勇気の欠如

本能的欲求の抑制

成長への意欲の欠如

 

これらはそのまま、遺伝子の目覚めを妨げる要因といえよう。

「守り」ではなく、「攻め」の姿勢が遺伝子をオンにする・・というワケだ。

 

自分が「ここまで・・」と思っている限界は、実は自分のもつ全遺伝情報(ゲノム)のたった2%の働きでしかないのである。

 

 

 


面白き事もなき世を・・

2010年10月12日 | 人生覚書き

 

 

      おもしろきこともなき世を おもしろく

                          高杉晋作

 

長州藩士、高杉晋作の辞世の句と言われ、最期を看取った野村望東尼が、「すみなすものは心なりけり」と下の句を続けたという。


NHKの大河ドラマ、「龍馬伝」は、現在、第4部「RYOMA THE HOPE」が放送中、先週の放送で、龍馬の盟友である晋作が逝った。

 

身分に囚われない志願兵による奇兵隊を組織し、伊藤博文は「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや・・」 と高杉晋作を評した。

都々逸の「三千世界のカラスを殺し 主と朝寝がしてみたい」も晋作の作といわれるが、劇中でも、ざんぎり頭に着流しで、戦場を三味線を弾きながら行く・・という伊勢谷友介の死をも恐れぬ豪胆な風流人ぶりが印象的だった。

 

長州征伐を図る幕府との幕長戦争において、停泊する幕府艦隊を夜襲してこれを退け、上陸戦においても大活躍、敵砲台、火薬庫を破壊し、幕府軍を敗走させた。

これによって権威を失墜した幕府は、翌慶応3(1867)年11月大政奉還へと追い込まれていく。

 

晋作自身はその時を見ずして、労咳(肺結核)に倒れる。

 

―享年29歳。

 

もう晋作の歳も、龍馬の歳も、はるかに超えてしまったなぁ・・。

 

 

    おもしろきこともなき世を おもしろく

         すみなすものは 心なりけり

 

 

世の中、面白くない・・と思うのは、そう思う自分の心、主観の投影。

自分が変われば、世界は変わる・・。

 

この辞世の句だけでも、惚れてまう漢やなぁ・・。

 


吾唯足知

2010年09月10日 | 人生覚書き

水のない枯山水の石庭で有名な京都、龍安寺

その龍安寺にある茶室、蔵六庵の露地に「知足の蹲踞(つくばい)と呼ばれるものがある。

徳川光圀の寄進と言われているそうだが、一般に見るコトの出来るものは複製だという。

 

蹲踞は、茶室に入る前に、手や口を清めるための手水を張っておく石のコトで、上から右回りに「五・隹・疋・矢」の文字が見える。

一見、意味不明だが、水を溜めてある真ん中に位置する「口」の文字を足して読むと、それぞれ「吾・唯・足・知」となり、「吾唯足知」―「吾(われ)、唯(ただ)足るを知る」となる。

 

龍安寺の石庭の石は、全部で15個あるのだが、庭のどこから見ても、必ず1個は他の石に隠れて、一度に14個しか見るコトが出来ないよう設計されているという。

そのコトを不満に思わず、満足する心を持ちなさい・・という戒めだとも言われているそうだ。

 

「口」の字も足らないと言うより、1個あれば、仲良く分け合えばいい―この「知足の蹲踞」からは、なんだか、そんな思いも伺える。

 

人は、足りない部分に目は行くが、足りてるコトを思うコトは少ない。

病気になって、はじめて健康のありがたみを知るように、健康な時に、健康であるコトへの感謝の気持ちは、なかなか湧いてこないものだ。

 

日々、元気に生活できて、仕事もあり、贅沢は出来なくても、食うに困らず、雨風をしのぐ家もある。

傍らには愛する家族・・。

 

「吾、ただ足るを知る」

 

当たり前のコトは、当たり前ではない。

 

そう思える心は、とても大事だと思うのである・・。


クールな頭脳、熱いハート

2010年09月06日 | 人生覚書き

 

以前、小惑星探査機「はやぶさ」について記事にした。

(カテゴリー/サイエンス:小惑星探査機「はやぶさ」帰還参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/8c82f2ce2389f63b5e501127ffe5fdee

その感動的な帰還の裏で、実は、そのプロジェクト・チームが崩壊の危機にあったコトは、あまり知られていない。

 

「はやぶさ」は2005年12月8日通信途絶

つまり、この広大な宇宙空間の中で、どこにいるのか、生きているのか死んでいるのかもわからない状態になってしまった。

プロジェクト・チームのメンバーも、管制室に来てもやるコトがなく、皆の心が離れていき、プロジェクト自体の打ち切りも囁かれるようになっていった。

 

プロジェクトを率いたJAXA川口惇一郎教授は、「はやぶさ」の5年前、1998年に打ち上げた火星探査機「のぞみ」の飛行計画担当者で、その際、火星を目前にして、電源の故障によるプロジェクトの打ち切りを経験していた。 

「あの時、チームとして「のぞみ」を救える手段が、まだ残っていたのではないか? 

―何度も自問をくり返し、後で、何かしら方法があったと思えるものも実際にはあり、あきらめるのは簡単だが、絶対に後悔はしたくない!・・という、過去の失敗から学んだ教訓があった。

 

そして、既にプロジェクトから離れつつあったメンバーの心をつなぎとめる方法として、「はやぶさ」が見つかる可能性を、具体的にメンバーに示すコトが必要と考えた。 

 

行方不明の「はやぶさ」は姿勢制御が出来ず、バランスを失いながら、太陽の周りを回っていると考えられ、それならば、太陽電池パネルが太陽の方向を向き、電力を回復するコトがあるはず。

さらにその時、アンテナが地球に向く瞬間と重なれば、「はやぶさ」と通信できるチャンスが出来、それを逃さず地球から電波を送れば、必ず応答がある!

 

―そう考えた川口教授は、考えうる限りの「はやぶさ」の動きを計算し、たとえ一瞬でも通信が可能になる確率をはじき出した。

確率論的に、何ヶ月後に復旧する可能性は何%・・というトコロまでデータを出した結果、1年間、ひたすら待ち続ければ、可能性は60%まで高まるコトが判明!

「チャンスは6割!これを生かすも殺すも我々次第だ」と、メンバーを集めて訴えた。

 

そこから、チームの総力をあげた「はやぶさ」の捜索がはじまった。

同じ周波数でなければ通信は出来ないが、一たん、電源が落ちた「はやぶさ」は周波数の設定が狂ってしまう為、あらゆる周波数にむけて、1日中、同じ指令を送り続けた。

「はやぶさ、応答せよ!」

「はやぶさ、応答せよ!」

・・・。

 

それは、気の遠くなるような根気のいる作業であったが、宇宙には様々な電波が飛び交っている為、「はやぶさ」から戻ってくる電波をキャッチするコトは、さらに至難であった。

それを見落とさないよう、すべての電波をひたすらチェックする日々が続いた。

 

そんな必死の捜索が続けられる中、川口はある場所を訪れていた。

 

それは、東京の下町にある、飛行機で旅をする人たちが安全を祈願する飛不動

 

JAXAの管制室の、コンピューターのディスプレイが並ぶ中、「無事帰還」「研究成就」の文字が書かれた飛不動のお守りが飾られた。 

いつもクールで、理詰めの川口らしからぬ行動に、さらにチームの結束は強くなったという。

 

通信が途絶え、「はやぶさ」が行方不明になってから47日、突如、その時はやって来た。

 

2006年1月23日、通信復旧!

 

しかし、その後もトラブルの連続であった。

既に自力での姿勢制御が不可能だった為、太陽光の圧力を利用したり、行方不明になってる間に、当初、4年の計画が7年になり、イオンエンジンの寿命が来て、搭載している4つのエンジンすべてがストップしてしまった。

 

イオンエンジンは、プラスのイオンがマイナスの電子に引き寄せられ、その推進力を得るという仕組み。

プラスのイオンとマイナスの電子を作る2つの部分が働いて、はじめてエンジンとして機能する。

壊れたエンジンの中には、そのどちらかが機能するというものがあり、それを組み合わせて1つのエンジンとして使うというアイデアが出された。

 

いつの間にか、メンバー皆が考え、アイデアを出す、結束力のある、生きたチームが出来ていた。

 

帰還の途につくコトが出来た「はやぶさ」は、サンプルを採取したカプセルを無事、地上に届ける為、大気圏で燃え尽きてしまう運命にあった。 

そんな「はやぶさ」にプロジェクト・チームは最後の任務を与えていた。

 

 

それは、地球の姿を撮影するコト。

最後に、生まれ故郷を「はやぶさ」に見せてやりたい・・と、チームの皆で、直前に決めたコトだったという。

上の写真が最後の1枚。

 

プロジェクト・チーム崩壊の危機にも、緻密な論理でチームを引っ張り、飛不動に無事の帰還を祈願するという川口の熱い姿に、チームは1つになった。

 

クールな頭脳と熱いハート、どちらもなくてはリーダーたりえない。

 

そして、それを支えたのは、最後まで可能性を追求する「絶対にあきらめない心」であったコトは言うまでもない・・。

 

 

 

 

 

 


へこたれない

2010年09月03日 | 人生覚書き

 

風(ふう)ちゃんは四十五歳。

脳性麻痺で体感機能障害がある。

両手はまったく使えない。

字を書くのも足で。

二本の箸も足で持つ。

ご飯を手で口に運ぼうとすると、一口食べるのに一時間かかる。


諏訪中央病院の看護学校で、毎年、哲学の授業をしてもらっている。

生きるとは何かを語ってもらう。

授業は笑いがあふれる。

吉本のお笑いを聞いているようにおもしろい。

自分の障害を全部ギャグにしてしまう。

笑わせて、笑わせて、その向こう側に命の切なさを、風ちゃんは伝えてくれる。


「生きていくのが嫌になって、死にたいと思った時、

頚椎の損傷で手足四本まったく動かない他の障害者に言われた。

『おまえは自分で自分の命を絶てるからいいなあ』」


風ちゃんはそれまで、自分は世界で一番不幸だと思っていた。

「ハンディはいっぱいあるけど、自分はまだまだ恵まれている。

両手は使えない。

足も不自由だけど、それでも、少しは移動できる。

ちょっと誰かに応援しえもらえば、旅だってできる。

ストローを使えば、お酒だって飲める。

日本酒か焼酎か、選ぶことだってできるんだ。

その時、幸せって何かわかったような気がした」


「一生かけて障害者。

やりがいあるね。

この役こなすのはちょっとタイヘンだけれど、演じれば演じるほどに、奥が深くてのめりこんでしまう。

こんな役、なげだしたい。

とてもじゃないけれど、精神力がいる。

だけどせっかくの役だから、最後までやってみる」


「体は不自由だけど、私は自由だ。

体は不自由だけど、私は不幸ではない。

自由も、幸せも、ちょっと視点を変えれば見えてくる。

自由も、幸せも、よくばらなければ、つかまえることができる。

自由も、幸せも、へこたれなければ、手にいれることができる。

だれでもできる、きっと。」

   

            鎌田實(みのる)先生の心に響く言葉より

                  (『へこたれない』PHP研究所)


わが身の十字架

2010年08月25日 | 人生覚書き

「主よ、もうちょと切り落としていーですか・・その方が運びやすいんで・・」

 

・・とゆーほどのイミになろうか?

クリスチャン向け風刺漫画の1コマ。

 

「運命」「業」「カルマ」「因果」・その1つ1つは、厳密には、イミが違うものかもしれない。

―が、なんと呼ぼうが、そうしたものは確かにある。

目に見えない何らかの力が働き、時に我々の人生に大きな影響を及ぼす。

クリスチャンなら、それを「十字架」と呼ぶのだろうか。

 

それら、すべてが自分の「罪」・・とゆー概念だけでは割り切れない、不条理な、理不尽な環境や境遇におかれていると感じている人は、果たして、どれだけいるだろう?

職場や学校、家庭の人間関係など、自分が選択したワケではなくても、否応なく巻き込まれてしまう状況とゆーのは、誰しも経験したコトがあるのではなかろうか?

 

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(マタイ16:24)

 

・・有名な聖句であるが、誰だって苦しいのはイヤだ。

ツライのはイヤだ。

不条理で、理不尽なのはイヤだ。

 

―しかし、それでもなお、それを自分が背負うべき”十字架”だと、すべてを謙虚に受け入れられた時、人としての本当の成長があるのだろう。

 

「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(コリントⅠ10:13)

 

「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(伝道の書3:10)

 

 

 


兵法の極意

2010年08月17日 | 人生覚書き

「兵法は、人のたすけに遺すものではござららぬ。進退ここにきわまったとき、一生一度の用に立てるものでござる。

 なれば、さのみ、世間の目に能く見られずともよろしい。たとえ、仕なしはやわらかに、なるほど人の目に上手と見えようとも、心の奥底に、いささかなりとも正しからぬところがあれば、すべては無用のものとなり果てよう。

 仕なしは、たとえ見苦しく、初心のように見ゆるとも、火炎の内に飛び入り、磐石の下に敷かれても、くじけぬ心こそ、わが心とたのむ主でござる。」

                 

              上泉伊勢守信綱(池波正太郎『剣の天地』より)