今回は、先週掲載したものと同じ、過去に放送されていたCSラジオ番組《竹内貴久雄の銘盤・廃盤事典》の第34回放送分のメモ書きです。LPレコードのコレクターズ・アイテムとして有名だったウエストミンスターの特集をした時のひとつです。もちろん10年以上前の放送で、例の、MCAビクター石川英子さんの「奇跡的なマスターテープ発見」というセンセーショナルな事件直後です。先週掲載したものと違って、今回分は、1曲ごとに私の感想が文章化されていました。当時の詳細は忘れてしまいましたが、残っている文書の書き方からすると、いずれ、1曲づつのコメント集にでもするつもりでメモしたものかも知れません。
以下は、当時のフロッピーデータの内容そのままです。
●タイトル
「ウェストミンスターのオーケストラ録音を聴く(1)」
〈ヘルマン・シェルヘンの世界〉
●前口上
このところ復刻盤CDが大量にリリースされて注目されているウェストミンスター・レ ーベルだが、復刻がウィーン系のアーティストの室内楽に偏りがちなのは、このレーベルの既に出来上がったイメージからして仕方のないことではあるだろう。しかし、このレーベルのオーケストラ録音にも個性的な魅力を持つものは多い。第34回は、ウェストミンスターで活躍した指揮者で最大のコレクターズ・アイテムとされるヘルマン・シェルヘンの残した演奏を聴き、その独特の表現の面白さと魅力に触れる。
ヘルマン・シェルヘンは1891年にベルリンで生まれ、1966にスイスで死んだ指揮者。ほとんど独学で音楽を学び、シェーンベルクと知り合い、「月に憑かれたピエロ」のドイツでの初演の指揮もしている。1921年にはベルリン音楽大学で現代音楽講座を担当するなど、今世紀前半からの現代音楽の発展に、大きな貢献をしている。
アンチ・ロマン派の人、いわゆる表現主義的なデフォルメの演奏スタイルの元祖的指揮者と言ってもよいだろう。
●オンエア内容
(1)リスト:「ハンガリア狂詩曲第3番」
ウェストミンスター・レコードは、1950年代、60年代のウィーンの香りを伝えるレーベ ルとして、すっかりイメージが定着してしまったが、この会社が、当時、世界経済の中で 、ひときわその強さを誇っていた「ドル」の力を背景に、ウィーンに乗込んだアメリカ資本の会社だったということを忘れてはならない。
この作品での、各パートの動きを刻明にとらえる近接マイクの集音で、分離の鮮明な録音のやり方は、やはりアメリカのオーディオ・マニアの趣味が色濃く出ている。シェルヘンの演奏は、それをさらに強調するように、遅めのテンポでしっかりと聴かせる。左右の分離の良い録音なので、木管パートのソロなどは、左のスピーカーから、こぼれ落ちそう。今の時代に聴くと、一種の〈妙ちきりんな世界〉と言えるかも知れない。
(2)デュカ:交響詩「魔法つかいの弟子」
これも、遅めのテンポで丹念に音楽を舐めて行く演奏。細部をデフォルメ(誇張)することで、遅いテンポ設定から来る〈間伸び〉を避けるといった演奏スタイルの、〈元祖〉の面目躍如といったところ。もちろんそれぞれに個性はあるが、シェルヘンの後の世代では、チェリビダッケ、インバル、最近ではワレリー・ゲルギエフなどが、この系列に入るかも知れない。マゼールも一時期そうだったが、彼は、そこを70年代に一端通り抜けて、 もう一度、もっと内面的な世界の延長としてのデフォルメ世界に戻ってきたように思う。
(3)ラヴェル:「ボレロ」
ここでは、ラヴェルの書込んだスコアの構造の見事さをそのまま生かすことで、一貫したリズムの流麗な流れを実現している。いわゆる余分な誇張などはほとんど行なっていないが、逆に、これほど率直な演奏も、この時代では、むしろめずらしい。シェルヘンの眼 力、というか見識の的確さを感じる。
(4)ムソルグスキー:交響詩「禿山の一夜」
シェルヘンの的確な見識の〈巾の広さ〉を改めて感じる演奏。この曲から、西欧的なくっきりしたリズム構造ではなく、ロシア的なズンドコ・リズムを、よく捉えている。この曲は西欧的な合理精神を身に付けたリムスキー=コルサコフによって改作された作品だが 、そうしたリムスキー=コルサコフ的な洗練を施しても、なおゴマ化しきれなかったムソルグスキー自身の音楽のドロドロしたムード(これは、最近では、この曲のリムスキー= コルサコフが手を加える以前の「原典版」による録音が聴けるようになって、より明らかになったが、)を引き摺り出した傑作な演奏だ。夜明けの後の木管パートのソロの旋律の節回しなども独特の味わいを聴かせる。
(5)バッハ:「管弦楽組曲第2番 ロ短調」から
時間の都合で、第1曲「序曲」を省略して第2曲から第7曲(終曲)までを聴く。
各パート相互の動きや関わり方がくっきりと聴こえてくる、彫りの深い立体的な演奏は、いかにもシェルヘンらしい。オーケストラが遅いテンポを守りきれなくなって、しばしばズレや乱れをひきおこしているが、そうしたことにはかまわず、こだわらずに演奏を進めている。シェルヘンには、案外ラフな面もあったようだ。力強い音楽の骨太の流れが、 堂々としている。
(6)ハイドン:交響曲第45番「告別」
この作品は、最後の楽章で少しずつ演奏者が減って行く。舞台から、ひとり去り、ふたり去り、といった演出が行なわれることも多いが、このレコードのように「アウフヴィーダゼーン(さようなら)」と声をかけながらという録音は、めずらしいし、おもしろい。 こんなところにも、シェルヘンの、常識に囚われない自由な発想がある。
●オンエア・リスト
いずれもヘルマン・シェルヘン指揮/ウィーン国立歌劇場管弦楽団
(1)リスト:「ハンガリア狂詩曲第3番」(8分27秒)
[米ウエストミンスター/WST-14101]
(2)デュカ:交響詩「魔法つかいの弟子」(13分30秒)
[米ウエストミンスター/WST-14032]
(3)ラヴェル:「ボレロ」(14分45秒)
[米ウエストミンスター/WST-14032]
(4)ムソルグスキー:交響詩「禿山の一夜」(10分38秒)
[ウエストミンスター/GT-1020]
(5)バッハ:「管弦楽組曲第2番 ロ短調」から(16分45秒)
~第1曲「序曲」を省略して第2曲から第7曲(終曲)まで
[ウエストミンスター/GT-1019]
(6)ハイドン:交響曲第45番「告別」(22分10秒)
[米ウエストミンスター/WST-14044]
面白いものがフロッピーデータで見つかりました。「カラヤン」について触れた7月 23日付のブログにもある、以前放送していたCS放送の番組で、私がおしゃべりする内容を 、あらかじめメモしておいたデータです。いきなり本番だと支離滅裂になるのを避けるため、あらかじめ話したいことを整理して書いておいて、聴き手の女性アナウンサーが、私が話しやすいように振ってくれるという仕掛けでした。毎月1回(再放送1回)というペースでの40回目のこの日が「最終回」でした。3年以上もやっていたのですね。改めて思い出 しました。でも、この日にしゃべった内容は、すっかり忘れていました。やっぱり、こう いう形でフロッピーデータが残っているのはありがたいですね。7月31日付のこのブログで、岩城宏之について書かなければならないと宣言しながら、まだ果たせていませんが、 この放送用のメモを見ていて、何を書きたいのかが、少し見えてきたように感じています 。「カラヤン」のときの放送台本を元に整えたものと異なり、今回分は、ほんとのメモ書きのままですが、とりあえずお読みくだされば幸いです。
なお、このフロッピーのデータの日付によれば、最終更新が1996年6月27日15時16分と して「シャープ書院」データから「新松」にコンバートされています。(申し訳ありません。このブログ、私自身のアーカイヴでもあるので、メモ書きさせていただきます。)
■CS放送ラジオ番組 放送台本
《竹内貴久雄の銘盤・廃盤事典》第40回「日本人演奏家の遺産(2)」
(前ふり)
きょうは、前回に引き続いて、私たち日本人の演奏家が、いわゆる西洋音楽の演奏を、 模倣の学習から踏み出して、私たち日本人独自の感性を堂々と世界に発信するようになっ ていった1960年代から70年代にかけての録音を聴く。
(聴き手、合いの手)
日本人演奏で、お聴かせしたいレコードは、他にもたくさんあるのだが、きょうは、若 杉弘と岩城宏之の二人の指揮者が、若き日に、日本のオーケストラと録音した演奏を聴く ことにした。前回もお話したが、こうした日本人演奏による西洋クラシック音楽のレコー ドは、当時買う人が少なかったこともあって、ほんとに中古市場で見付けるのがむずかし い。きょう聴くレコードは2枚とも、10年以上、中古レコード店の店頭で、見かけたこと がない。
(聴き手、合いの手)
さて、前回は潮田益子のヴァイオリンを好サポートする小沢征爾指揮、日本フィルハー モニーの演奏を最後に聴いたが、この小沢征爾が1935年生まれ。そして、きょう聴く岩城 宏之が3つ上の1932年生まれ。もうひとりの若杉弘が小沢と同じ1935年生まれ。私は、こ のほぼ同世代の3人が、日本人の独自の感性を堂々と世界に披露した最初の世代だと思っ ている。
先日、彼らが生まれた頃の1935年に録音された「山田耕作指揮/新交響楽団」によるベートーヴェンの「運命」を聴いたのだが、このベルリン・フィルも指揮したことのある我々の世代の大先輩にあたる山田のベートーヴェンは、「今、ここで自分たちはベートーヴェンというドイツの偉大な作曲家の作品を体験しているのだ」といった、演奏者たちの感動が伝わってくるような演奏。この後、様々な人たちが西洋音楽に取り組んできたわけだが(例えば、近衛秀磨、斎藤秀雄といった人など)、それは、西洋人の方法論をなぞりながら、彼らの音楽美学を会得して来た歴史だ。その中にしばしば顔を覗かせる日本的な情緒の流れが、居心地悪そうに、けれども、私たちにとっては、ほほえましいほどに愛らし く響いている。
いずれにしても、そうした長い「学習」の期間を経て、岩城、小沢、若杉たちの新しい世代が登場したのだ。
*
それでは、まず、若杉弘指揮、読売日本交響楽団の演奏で、ベートーヴェン作曲「交響曲第6番《田園》」を聴いてみよう。これは、録音が1970年8月16日17日に行われている 。これは、若杉の、初めての西洋古典音楽のレコーディングとされている。まだ、若杉が 35歳だった時のものだ。
(レコード演奏/37分53秒)
このしなやかで、息の長いフレージング、音楽がどこまでも、横へ横へとつながって行く感覚は、ドイツ系の演奏に慣れていた耳には、とても個性的で魅力的に聞こえた。これが、僕等のベートーヴェンだ、と拍手かっさいしたのを覚えている。
*
さて、きょうの2枚目は、岩城宏之指揮NHK交響楽団によるチャイコフスキー作曲「交響曲第6番《悲愴》」。岩城は1968年から69年にかけて、「ベートーヴェン交響曲全集」をNHK交響楽団と録音していて、これが、日本人初の「ベートーヴェン交響曲全集」 だったが、これはCD化されている。今から聴くチャイコフスキーの「悲愴」は、1967年 6月15日16日に録音が行われている。
(レコード演奏/45分55秒)
抒情的な旋律の歌い方が、とても優しく、柔らかく聞こえる。そして、思い切り熱っぽく迫る嵐のような怒涛の情熱。岩城宏之、35歳の年の録音だ。
*
(まとめ)
きょうは、若杉、岩城と、小沢と並んで、日本の指揮者の戦後世代をリードしてきた人たちの、若き日の録音を聴いたわけだが、これは、同時に、日本の西洋音楽受容の歴史が 、青春時代から、成熟期に入り始めた時代の記録でもある。彼らの若々しい演奏に共通し ていたのは、音楽のひた押しな畳みかけが、西洋的な積み上げ、昇り詰めていくものではなく、連続的に押し出していくような感覚への、全面的な信頼、自信の確かさだと思う。 そうした構造は、東洋的な感性の産物で、例えば、最近では、韓国出身の指揮者チョン・ ミュンフンも、そうした音楽語法を持っている。
例えて言えば、ゴシック建築、天を突き刺すように建つ西洋建築の美学と、桂離宮のような横への広がりとの違いとでも言うか? 五重搭でさえ、屋根が柔らかな弧を描いて、裾へ裾へと折重なっている。あれが、東洋の美学で、それは、西洋と東洋それぞれの、文 化そのものの違いなのだ。
クラシック音楽を演奏する上で、西洋をお手本にする時代は、いつの間にか通り過ぎて 、ドイツの伝統とは違う立場での新しい解釈が、フレッシュな魅力を持つようになり始め たのが1960年代。それから、更に30年ほど経って、今では、もっと若い世代が積極的に斬新な解釈を聴かせるようになった。だが、何時までも忘れて欲しくないのは、自分自身の感性のルーツだ。これは、詰め込まれた知識などによって押し出され、消えてしまうよう なものではないはずだが、ルーツを見失うような、頭でっかちの知識だけに頼るようなことも、やめてほしい。 これは、演奏を聴く私たちにも言える。音楽の鑑賞に、こうでなくてはならないという ものは、ひとつもないし、権威のある演奏などといった、偉そうなものもどこにもない。 それぞれの演奏家が、自分の感性、自分の解釈に自信を持って演奏している、そういった 力強さに、素直になりたいと思う。
(最終回のあいさつ)
きょうが最終回となってしまったこの番組、「名盤・廃盤事典」では、三年間、40回も の間、たくさんの廃盤LPによる演奏をお聴かせしてきました。それは、私にとって、文 章で書いて読んでいただくだけではなく、直接、それぞれの演奏を皆さんに聴いていただいて、「なるほど、ほんとにいい演奏だ」と感じたり、「なんだ、幻の名演と言われていたけど、この程度か」といったように、ひとりひとりの方に自分の耳で感じていただきたいと思って始めた番組でした。 その意味では、言葉でご紹介したものを、実際に聴いていただくという責任は、それな りに果たしてきたと思っています。これからも、機会あるごとに、なかなか知られる機会 の少ない、魅力的演奏を、なんらかの方法で、音楽ファンのために紹介し続けたいと思っ ています。
■オンエア・レコードリスト
○ベートーヴェン:「交響曲第6番 ヘ長調《田園》」作品68
若杉弘指揮/読売日本交響楽団
[日本ビクター/SJX-1025](37分53秒)
○チャイコフスキー:「交響曲第6番 ロ短調《悲愴》」作品74
岩城宏之指揮/NHK交響楽団
[日本コロムビア/OS-10017-JC](45分55秒)
*当ブログへの掲載にあたっての付記
上記の「悲愴」はコロムビアから復刻CDが発売された。
以下の私の文章の執筆そのものは、1993年4月18日です。もう15年も前のことです。その時点での私の知り得た知識で書かれたものですが、前回のブログにも書いたように、私のラトル観の本質は変わっていません。ラトルは私が関心を持っている指揮者のひとりですから、これまでにも様々な所に書いていますし、このブログに再録しているものもたくさんあります。ある意味では当然ながら、私はどこでも、いつも、同じことを言っています。
《ラトル指揮イギリス・ユース管弦楽団による『春の祭典』:ライナーノート》
●このCDについて
このCDには、20世紀の最も革新的作曲家の一人、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)の初期の出世作である〈3大バレエ曲〉の内、第2作の「ペトルーシュカ」を除く2曲、第1作の「火の鳥」と第3作の「春の祭典」が収録されている。どちらの作品も初演以来、半世紀以上の年月を経て、今や現代音楽の古典としての地位を不動の物とした傑作だけあって、録音された演奏の数は多いが、その中で当CDの持っている第一の特徴を挙げるとすれば、それは前半に収められた「春の祭典」だろう。
実は、この「春の祭典」は、最近次々に意欲的なレコーディングで次代を担う若手指揮者のホープとなったサイモン・ラトルの、記念すべきデビュー録音なのだ。1977年4月の録音だから、当時ラトルはまだ22歳だった。そしてオーケストラはその彼よりも年少の奏者をかかえたイギリスの青少年管弦楽団。正にラトルにとって青春の記念碑と言ってよい録音だ。
この「春の祭典」のLPレコード初出は78年1月新譜で、英エニグマ・レーベルで発売されている。このCD化でカップリングされた「火の鳥」の方は、ベテランのアンタル・ドラティ指揮だが、これは76年9月に録音され、77年4月新譜として同じく英エニグマから発売されている。
以下にそれぞれの演奏者の経歴、および演奏の特徴について記そう。
●サイモン・ラトルの経歴
サイモン・ラトルは、1955年1月19日にイギリスの港町リヴァプールに生まれた。15歳の時に、地元のチャリティー・コンサートでシューベルト、ヴォーン=ウィリアムズ、モーツァルトを指揮して話題になったと伝えられている。
ロンドン王立音楽アカデミーで学び、1974年に19歳でジョン・プレイヤー指揮者コンクールに優勝、ボーンマス交響楽団の副指揮者となった。ボーンマス響との関係は3年間続いたが、その間の1976年にはロイヤル・フェスティバル・ホールでニュー・フィルハーモニア管弦楽団を指揮してロンドンデビューを果している。
1978年12月にはバーミンガム市交響楽団の指揮台に初めて立ち、翌79年に同響の首席指揮者、更に1980年からは25歳の若さで芸術顧問にも就任し、今日に至っている。バーミンガム響との成果が広く知られるにつれて、他のいわゆるメジャー・オーケストからの様々な誘いが行われたが、ラトルはそれをすべて断り、バーミンガム響との関係をじっくりと育てることに精力を傾注してきた。最近のラトル/バーミンガム響のめざましい進展ぶりは、彼等のザルツブルク音楽祭への登場で世界の音楽ファンに広くアピールするところとなったのは記憶に新しい。これは、ラトルほどの世界的なスター指揮者の生き方としては、極めて稀なことだ。
既にトップレベルに育っているオーケストラのポストに乞われるままに就任するよりも、自らの手で自身の音楽を造り出す場を育てていく生き方を選択する――このあたりも、ラトルが新しいタイプの指揮者と言われる理由のひとつだ。
現在は英EMIの専属となって次々と発売される新譜で、聴き慣れた名曲に新しい視点を持込み、新鮮なアプローチを聴かせてくれているラトルとバーミンガム響。彼等の共同作業は、世界のクラシック音楽界のなかで、常に若々しく、意欲的で刺激的な音楽を提供してきた。その活動は、まだ当分の間、目が離せないだろう。
●サイモン・ラトルの演奏
ラトルは当CDの「春の祭典」から10年後の87年12月に、手兵バーミンガム響とで同曲を英EMIに再録音している。その国内盤の発売に際して筆者は音楽雑誌に寄稿し、ラトルの演奏の新鮮な魅力を〈同時代的呪縛から逃れ出たもの〉として紹介し、デビュー以後のラトルの録音歴に触れて、次のように書いた。
「(ラトルはこれらの)それぞれ〈時代の宿命〉を一身に背負っている音楽を、その重荷から解き放つ斬新な演奏を展開してきた。(ラトルの音楽は)〈グイグイと迫ってくる〉重々しいものではなく、〈すいすいと駆け抜けてゆく〉爽快感を目指してきたことに、彼の〈現代人〉としての本領がある。それは居心地のよいビート感とでもいうようなもので、旋律がその上をさらさらと流れてゆく様は、〈ムキになるのはダサイんだよ〉とオジさんたちに言っているかのような小気味よさだった。」
このCDに聴く「春の祭典」は正に、そうした青年ラトルの記念すべき出発点なのだ。ここには、この作品が持っている歴史的な価値に臆することなく、快適な音の連鎖で伸び伸びと表現する若さがあふれているが、いわゆる野性味のある力ずくの演奏ではない。若いオーケストラも自分たちと同年代の青年指揮者の要求に真剣に取り組み、持っている力を精一杯に全開させている。爽やかな緊張感のある演奏だ。オーケストラの技量が充分なものとは言い難いこともあって、特に第1部の後半では軽快さが停滞する手探りの所が時折見受けられるが、第2部に入ると、音のひだに分け入っていくような鋭敏な耳を感じさせる後年のラトルの冴えた感覚の萌芽が、既に現われていることに気付く。
10年後の再録音のような完成度の高さはないが、ラトルの演奏に現代の音楽の在り様を嗅ぎ取り、最近の彼の動向に関心を払っている音楽ファンならば、興味の尽きない演奏だろう。この演奏の目指している世界からは、今日の演奏芸術の閉塞的状況に爽やかな風を送り、開かれた未来に向けて歩み続けるラトルの、確信を持った第一歩の手応えが感じ取れるからだ。
(以下略)
何でも、ラトル指揮のストラヴィンスキー3大バレエの録音を一挙に発売することにした東芝EMIとしては、指揮者の知名度がないので、『レコード芸術』のカラーページ2ページ見開きで、評論家に大々的に取り上げてもらいたい、ということなのだという。今でもはっきりと覚えているが、私が「他に書く人がいるでしょう」と言うと、「いや、まだ誰も論じていないので、評価が定まっていなくて……こういう演奏家について書く人はなかなか居ないんです」と言われた。そう言う時代だったのだ。「僕は編集者で、音楽評論家じゃないよ」とも言ったのだが、それには「ウチの雑誌に書けば、それが、音楽評論家ですよ。気にすることはありません」と言われた。 そう言うわけで、編集者兼、多少の文章書きだった私が、「音楽評論家」と呼ばれるようになってしまった最初の文章が、これである。もう20年ほど昔の話だが、実は、これには後日談がある。
それから約10年後、今から10年ほど前のことだと思うが、そのころ執筆もしながら編集を進めていた洋泉社のムックへの執筆依頼で、音楽評論の渡辺和彦氏にお会いした時のこと、池袋の居酒屋で対面した彼の第一声が、「お、やっと会えた。日本で最初にラトルについて書いた男に……」だった。そのころ、ラトルは、ウィーン・フィル、ベルリン・フィルを相手の活躍が取りざたされていた。その後、したたかに、しかし楽しい酒を渡辺氏と飲んだのを、今でも覚えている。彼と初対面の夜が、こうして始まったのは、私にとって、とても幸福なことだったと、今でも思っている。
というわけで、今から20年ほど前、当時ほとんど存在を知られていなかったサイモン・ラトルを紹介した文章として、お読みいただきたい。私自身は、20年前にラトルに持っていたシンパシーを今でも持ち続けていることを確認したが、同時に、ラトルの真価は、後10年くらい経なければならないか、とも思った。明らかに現在のラトルは「低迷期」だ。この昔の文章が滑稽に見えるかも知れないが、これがラトルの出発点でもあったはずだ。
20年も前のものなので私としては、かなり生硬な文章が気恥ずかしいが、そのまま掲載することとした。雑誌ではタイトルは編集部が勝手に付けて掲載したが、私としては以下のようにしたかった。また、今、すぐに取り出せないので、当時の掲載誌と見比べていないが、もし掲載誌とで異同があれば、こちらがもちろんオリジナルである。
■新星ラトル! 我らの時代の「春の祭典」で日本に本格デビュー!
サイモン・ラトルによるストラヴィンスキー三大バレエ曲のCDが、一挙に発売される。私は、昨年『ペトルーシュカ/三楽章の交響曲』を外盤で入手して以来、その、みずみずしい軽快な音楽の運びから、ラトルの才能の可能性に大きな期待を抱いていた。そして、それに続く『火の鳥/他』、今回この稿を書くにあたって初めて聴いた『春の祭典』/ミューズを導くアポロ』と、次々にストラヴィンスキー演奏のスタイルを塗りかえてゆくラトルの“我々の時代”へのメッセージに、改めて、これまでのレコード史のなかで着実に変容してきたストラヴィンスキーが、ひとつの安定期に踏み込んだ、という感慨を持った。
では、この“現代”を体現する一九五五年生まれのサイモン・ラトルの到達点とは何なのか? 『春の祭典』のこれまでを振り返ってみよう。
『春祭』のレコーディングは、戦前から作曲者自身や初演者モントゥーのものがあったが、彼らは当時のオーケストラの演奏技術の限界と戦いながら、とにかく細部をよく鳴らそうとしていた。この傾向は、ステレオ初期の彼らの最後のレコーディングまで変わらない。「正統を伝える」という宿命を背負った彼らのていねいな演奏は、しかし、音楽がどこか萎縮していた。
一方、この曲の野獣性を表現したと称賛されたマルケヴィッチ~フィルハーモニア盤や、ドラティ~ミネアポリス盤などは、一気に押し切るような推進力や躍動感、あるいは荒々しさを強調したために、細部が犠牲にされてしまった。 モントゥーの遺産は、自作自演と同様に、デフォルメされたこの曲の演奏の氾濫の中で、奥深くに書き込まれたさまざまな音の存在に気付かせてくれたということに意味があるのだが、ていねいさと躍動感との間にあるこの矛盾を乗り越えることはできなかった。
よく言われるように、『春祭』の演奏は、ブレーズ~フランス国立放送管盤の登場を待たねばならなかった。実に、初演から五十年後のことだ。ブレーズは、音楽の生命感・躍動感を確保しながら、細部の音をしっかり聴かせることに成功した。だが、その生命感の底流にあるのは、この革命的音楽の革新的演奏を、今まさに行っているのだという“前衛”としての気負いではなかったろうか。事実、ブレーズの演奏が認知され、常識となった後、一九六九年に再録音したクリーブランド管盤では、『春祭』は古典としての“安定”を得、いちいち注釈される小うるささとでもいうような、単なる説明演奏になり、ブレーズの、演奏家としての音楽性の貧しさを露呈してしまった。
七二年になると、M・T・トーマス~ボストン響盤という、のりのよい演奏が登場し、この曲が、かつて、これほど軽快に「走った」ことがあっただろうか、と驚嘆されたものである。そして七四年、マゼール~ウィーン・フィル盤。ここでは、きわめて陰影のきめ細かな表情づけを行いながら、流麗で音楽性の豊かな演奏、よく響き、淀みのない音楽が実現されている。
そして、遂に“我らの時代”のラトルの登場である。T・トーマスが、存分に乗って楽しみ、マゼールがオケを乗せて走らせることに成功したとするならば、ラトルは、オケと共に楽しんで語り合うことに成功した、と言えるだろう。吹き鳴らし、弾き鳴らすことをこの曲で可能にしたラトルの『春祭』のすばらしさを、ことばで表現するのはむずかしい。
だが、例えば、落ち着いたテンポ感で一音ずつ確かめるように進行する「大地の目覚め」の中ほど、金管が伸びやかに鳴り木管が答える牧歌的な美しさと、ここで一呼吸置くすばらしさ! 徐々に音量を増しては行くが、リズムを刻む音の輪郭を一つ一つ大切にし、そこにからまってゆく音の咆哮を、定位感のある散りばめ方で、手短にはさみ込んでゆくコントロールの見事さ。このことで、全体に色彩感の豊かな流動感、疾走感が生まれてゆく……。実に走りのよい音楽だ。もちろん、それだけではない。「春のロンド」では、音の伸び縮みが自在で、気分を酔わせる表情の豊かさが特筆に価する。
総じて、刻む音と揺れる音の描き分けが見事で、それらの音を、ラトル自身が楽しんで聴き、対話をしている、とでもいった趣きだろうか。『春祭』は一九一三年の初演後、七十年余を経て、ようやく“同時代的呪縛”から逃れ出て“語り合える仲”になったのだ。
演奏という再現芸術が自立するのには、いつでもそれだけの年月が必要だということを、私は、ラトルの一連のストラヴィンスキーで、再認識した思いである。ちょうど、フルトヴェングラーの死の五年後にベルリンフィルを振って、マゼールがブラームスの第三交響曲でロマン派の耽溺を払拭した演奏をDGに録音したように、それは、常に、作曲者の時代と距離を置ける世代の登場まで待たねばならないということなのだ。サティのサイレンやピストルの音さえ混じえた前衛的実験作『パラード』の演奏が、ロザンタールの挑発的でギクシャクした演奏から、オーリアコンブの流麗な角のとれた演奏へと変化したことを、物足りないと一蹴せずに、積極的に評価するのも、このためなのだ。
作曲者直伝、あるいは同時代人の演奏の価値と、後の時代の後の感性による(おそらく、作曲者が納得いかない、あるいは、自作の新たな側面に驚嘆するような)演奏とが等価になるのは、このような時なのだ。ストラヴィンスキーの演奏も、サイモン・ラトルによって、新しい時代の幕が上がったと言えるだろう。
ところで、ラトルは、デビュー当時(一九七七年)、弱冠二十二歳で既に、英ASVに『春祭』をレコーディングしている。オケはイギリスのナショナル・ユース管弦楽団で、二十二歳の新進指揮者が青年オーケストラを振るという、記念碑的レコードである。 その後ラトルは、ヤナーチェク『シンフォニエッタ』、クルト・ワイル『七つの大罪』、シェーンベルク『ピエロ・リュネール』、ストラヴィンスキー『プルチネルラ』や、マーラー『十番』、シベリウス『五番』など、それぞれ“時代の宿命”を一身に背負っている音楽を、その重荷から解き放つ斬新な演奏を展開してきた。ラトルは、それらの曲に対する人々の期待(先入観)に頓着せず、純粋にそれぞれの音楽がもつ本質的な美を裸にして見せてきた。
ラトルの音楽は、リズム感も素晴らしく、メリハリのきいたダイナミックなものだが、それが「グイグイと迫ってくる」重々しいものではなく、「すいすいと駆け抜けてゆく」爽快感となっているところに、彼の“現代人”としての本領がある。それは居心地のよいビート感とでもいうようなもので、旋律がその上をさらさらと流れてゆく様は、「ムキになるのはダサイんだよ」と、オジさんたちに言っているかのような小気味よさだった。 『春祭』以外の曲目に触れる余裕がなくなってしまった。だが、基本的にはいずれも同じで、三枚ともストラヴィンスキー演奏の今後を語る上で、無視できないものだということだ。特に、『ペトルーシュカ』での打楽器としてのピアノを、これほどまでにオケの音の中に溶け込ませて効果的に用いた演奏の鮮やかさや、『ミューズを導くアポロ』の均整のとれた響きのよさなど、特筆に価する。
そして、一連のストラヴィンスキーに対する、非常にバランスのよいラトルのアプローチを聴くと、『プルチネルラ』以後のストラヴィンスキーの立場=「新古典主義」的なものが、半世紀を経て、演奏スタイルの分野で、革新的な形で花開き始めたのかもしれない、とさえ思えてくるのだ。
■リパッティの「ショパン/ワルツ集」録音年、ねつ造説
リパッティのショパン「ワルツ集(全14曲)」のスタジオ録音は、日本で初めてLPレコードが発売された時には、現在市場に出ているCDの表記と同様に、1950年ジュネーブでの録音、とされていた。日本コロムビアからの発売で、レコード番号はWL-5056。1953年(昭和28年)3月新譜で、この時期はまだ、東芝はレコードの発売を開始していない。
リパッティは1947年9月にロンドンのアビーロードスタジオで同曲を録音しているが、仕上りにリパッティが納得せず、日を改めて録音し直すとした。しかし、同スタジオでの再録音の機会がないまま、結局1950年、死の数ヵ月前の7月にジュネーブで録音したこのテイクがOKされたと書かれていた。この録音のためにEMIのプロデューサー、ウォルター・レッグは最新の録音機材をジュネーブに空輸し、リパッティは当時の新薬コーチゾンの助けを借り、医師の立ち合いのもとで演奏し、やっとの思いで録音されたという感動的なエピソードも、その時に広く喧伝された。まだ1枚1枚のレコードに、日付、場所などを細かく記載する習慣がレコード界になかったころのことである。こうしたエピソードによって、1950年7月ジュネーブ録音、と理解するように書かれていた。この解説内容はその後、発売会社が東芝に移行しても継承されていた。
ところが1970年代、レコード界は、録音データを可能な限り詳細に記載するようになっていた。リパッティのレコードも例外ではなく、東芝から一気に再発売LPが出ると、小品集でさえ1曲ごとにデータが記載されるようになった。以降、日本では20年近く、スタジオ録音の「ワルツ全14曲」は「1947年9月ロンドン録音」と記載され続け、それは1990年代に国内でリマスタリングされたCDが発売された時にも引き継がれた。
ただ、不思議なことに、1987年に英EMIのマスターから発売された国内初CD時だけ、英盤と同じ「50年7月ジュネーブ録音」との記載とともに、例の感動的エピソードを紹介するジェレミー・シープマンの英文解説が翻訳掲載されている。だが結局、その数年後、1990年代になってから、国内でリマスタリングされたCDが発売されて70年代LP期の「1947年ロンドン録音」との表記・解説に逆戻りしたため、90年代は、まったくの同一音源が、国内盤CD(東芝)の「47年ロンドン録音」表記と、輸入盤CD(英EMI)の「50年7月ジュネーブ録音」表記とで相違が生じたまま、しばらく放置されていた。だが、やがて輸入盤の表記と一致するように改められ、過去の「1947年ロンドン録音」という記載は、誤記だったということになってしまった。
しかし、私は、「1947年ロンドン録音」という表記こそが、期せずして表面化してしまった真実なのではないかと思っている。以下は全て私の推測である。
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初出レコード時からウソをついていたのはプロデューサーのレッグだったのだろう。彼は1947年ロンドン録音の原盤を、破棄せずに保存していた。そして完璧主義者のリパッティ自身には不満であっても、無理をした1950年ジュネーブ録音の演奏の出来よりは、はるかに良いと判断した。ところが、本人がOKしなかったテイクなので、未亡人の発売許可が得られる見通しがない。そこで、この希代の名プロデューサーは、リパッティの名演を全世界のファンに聴かせるため、あの世まで秘密を抱えてゆく覚悟で、1947年録音のテイクを1950年のテイクだと偽って発売した。それが、遠く離れた日本に、何故か正しい録音データのままのサブマスターが後年届いて、日本でだけ正しく表記されていた……というのが、私の想像である。
レコード会社の制作担当者は一般的に、データや文献に関して、出版社の編集者や校正者ほどには神経質ではない。これは私の経験でのことだが、しばしば、そう信じさせる出来事が起きている。だから、目の前の録音データを、特に疑わずにそのまま掲載するのが普通だし、いちいち他の文献などとの整合性など確認しない。初めてのCD用のマスターが届けば、今度はそこに添えられている「CDで甦ったリパッティ」という英文解説を翻訳掲載し、そこに添付されている録音データをそのまま掲載するのもまた、極めて自然なことだ。
だが、ミステリーはさらに続く。
では、1950年のジュネーブでの録音はどこへ消えたのか? これは、例の有名なライヴ盤「ブザンソン告別コンサート」に収録された「ワルツ集」のスイス盤LP(EMI系の正規盤)で、「ワルツ第2番」だけが、まず現われた。力尽きて最後まで弾けなかったライヴでのワルツ全曲演奏の、最後の曲目である「第2番」を加えて「ワルツ全14曲」として、スイスでは「ブザンソン告別コンサート」のLPが発売されたのだ。イギリスでもアメリカでも日本でも、「ブザンソン告別コンサート」の方ではワルツを13曲しか収録していないのに、である。
この「ワルツ第2番」は結局新発見の別テイクとして追認され、国内盤LPでも「50年ジュネーブ録音」と表記され、その他のいくつかの曲とともに「小品集」に収録された。(2008年現在のスタジオ録音の「ワルツ全14曲」を収めたCDでは、余白にこの「第2番」も加えて収められている。)
私はこの「ワルツ第2番」だけが、リパッティの遺言に背き世界中の音楽ファンを欺いてまで、世に出すには相応しくないとレッグが判断した「50年7月ジュネーブ録音」のショパンのワルツ演奏なのだと信じている。この「ワルツ第2番」は、「全曲録音」の中の同曲演奏とは、かなり異なったものだ。そして録音場所も、明らかに異なっている。単なる別テイクではない。レッグはジュネーブ録音の方を破棄したのだと思う。ジュネーブ録音は、現地の放送局のスタジオと人手を臨時に借りて行われたようだが、その時の関係者が持ち出していた音源なのではないかと思う。このほかの曲がいくつか1950年7月ジュネーブ録音として70年代に「新発見」され、EMIから発売されているが、それらにきわめて近い音質なのだ。
この「ワルツ第2番」は、軽やかで輝きに満ちた「1947年(?)の全曲録音」と違って、どこか生き急いでいる人の、とても悲しい演奏だが、新薬コーチゾンに拠ってもここまでしか弾けなかった事実を、おそらく未亡人は知らされていない。
正規のEMI録音以外のテスト録音などが、未亡人マドレーヌ・リパッティの特別の許可が下りたとして、数年前、突然ArchiphonというレーベルからCDで限定発売されたが、リパッティの録音は、未亡人の厳重な管理の元に、未亡人が承諾したものだけが世に出ているに過ぎない。限られた枚数しか世に出ないリパッティの肖像写真と同様に、彼女のイメージする「リパッティ」からの逸脱が許されていないのだ。リパッティは未亡人の中で固定化されていると言っていい。
その意味でリパッティは〈封印された音楽家〉なのだ。リパッティの全貌が明らかにされるのは、その封印が解けるまで待たなければならない。
【以下は、洋泉社ムックに掲載した当時(1996年頃)のCDデータ】
●ショパン:ワルツ集(全14曲)[東芝・EMIクラシックス/TOCE7584](録音:1947年ロンドン)
●ショパン:ワルツ第2番(小品集「来たれ、異教徒の救い主よ」に収録)[東芝・EMIクラシックス/TOCE8353](録音:1950年ジュネーブ)
●「DINU LIPATTI: Les Inedits」[ドイツArchiphon/ARC112~3]
なお、文中の1987年発売の東芝盤は、CD番号が「CC33-3519」で、盤面記載の規格番号に英EMIのオリジナルCD番号「CDC-747390-2」が書かれている。前年の1986年に英EMIから、世界初CD化された際の番号である。1990年代に番号が変わってプライスダウンされたが、解説書の内容、録音データとも、86年版を引きついでいる。
■小澤征爾と、日本人の西洋音楽演奏
潮田益子と小澤征爾/日本フィルハーモニーによるシベリウスとブルッフの「ヴァイオリン協奏曲」のレコードは、いわゆる通常の意味での国内制作盤ではない。世界のメジャーレーベルの手による日本国内でのレコーディングとして、おそらく最初のものだろうと思う。この盤は、英EMIからプロデューサーとしてピーター・アンドリーが来日し、ミキサーもカーソン・タイラーがおなじく来日して直接行っている。録音会場は、当時頻繁に録音用に使われていた東京・荻窪の杉並公会堂だ。当時既に小澤征爾は、「世界のセイジ・オザワ」として活躍しており、「幻想交響曲」(トロント響)、「運命」「未完成」、「シェエラザード」、「春の祭典」(いずれもシカゴ響)、「火の鳥」/「ペトルーシュカ」(ボストン響)、といった具合で、世界をマーケットにしたレコードを次々と送り出していた頃だ。EMIとも、パリ管を振ってのチャイコフスキーの「交響曲第四番」が前年に録音されている。
この二つの協奏曲録音は、小澤が「日本のオーケストラとの録音を行いたい」と強く希望して、試験的に行われたものだと言われている。オケは分裂前の「日本フィル」だ。ソロを弾いているのは小澤の桐朋学園時代からの後輩である潮田益子で、この二人は既にニューヨーク・フィルを舞台にして、バルトークの協奏曲での協演で成功を収めるなど、再三にわたりコンビを組んでいた。
潮田の朗々とした造形感の確かな熱っぽい音楽は、特にブルッフの協奏曲では、聴き手の前面に大きく迫って来るスケールの大きな演奏となっている。ソリストと、指揮者とオーケストラが一体となっての豊かで充実したこの演奏には、一種のこぶしを効かせるといった趣きさえあって、疑いもなく〈日本人の感性〉が息づいており、それを自分達のものとして、世界に向けて強くアピールしてゆく確信に満ちた、自在で自発性あふれる演奏に私は共感を覚えた。もう二〇年ほど前のことだ。
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数年前から小澤は、国際的な活動のかたわら、桐朋学園での恩師斎藤秀雄を記念して同窓生が毎年集うフェスティバル的なサイトウ・キネン・オーケストラを指揮して、長野県松本市でコンサートを行っている。最近ではこのオーケストラの活動そのものも録音活動も含めて国際的になってきた。この活動については様々な見方があるようだが、私は、小澤の行動の基本は、前記のEMI録音以来、一貫して大切にしているものが変っていないと思っている。
第二次大戦後、音楽は急速に国際化し、かつて録音を通じてさえ感じることが出来たそれぞれの国や都市が育んできた音楽の個性というものが失われつつある。今日、ほとんどのヨーロッパのオーケストラが、ローカルな持ち味を減退させ、インターナショナルな均質化された響きに傾きがちなのは、誰もが認めることだろう。
しかし、それでもなおかつ、それぞれの「らしさ」は、決してなくなってはいない。フランス人はドイツ人の真似はしないし、イギリス人はフランス人の真似をしない。メンバーが多少国際色を増しても、音楽監督を自分たちの中から出せなくても、変らない部分はある。それが歴史と伝統というものなのだ。
私たち日本人が、西洋の音楽を聴くようになって一〇〇年余の年月が経った。その間、演奏にあたって、私たちの先人は、おそらく大変な苦労をして学び、模倣してきたに違いない。それが、私たち日本人の感性を堂々と打ち出し、世界にその真価を問うようになったのは、一九六〇年代からのことだろう。指揮者で言えば、岩城宏之、若杉弘、小澤らの世代からだ。
それぞれが長い歴史を持ったヨーロッパ社会と異なり、私たちの歴史はまだ浅い。今私たちは、やっと、私たちなりの西洋音楽の世界を築きつつあるのだ。小澤/サイトウ・キネンの活動もそのひとつだ。
小澤/サイトウ・キネンには、ウィーン・フィルやスカラ座管が未だに持っているような〈感性の同一性〉があると言ったら言い過ぎだろうか? これは音楽にとって幸福なことだ。彼らの演奏を〈馴れ合い〉と批判するのは、クレメンス・クラウス/ウィーン・フィルや、フルトヴェングラー/ベルリン・フィルを同じ言葉で批判するのと、本質的には何ら変らない。日本人による西洋音楽は、演奏史の流れの中で、そうした段階にあるということだ。
サイトウ・キネンがTOKYOという奇妙な国際都市での演奏を拒否しているのは、その意味で正しいと思う。私にとって実はこれは、今年一九九四年、L特急に飛び乗り、新宿駅をあとに山間を走り続けて一路松本までたどり着いての実感だ。「ここはサントリー・ホールでも東京文化でもない!」。お祭りイベント特有のスノッブな雰囲気で差引かれても、大いに価値のある空間移動だった。
松本文化会館は、まぎれもなく日本の風土の中に建っていた。そしてコンサートの開始。オーケストラの中にはもちろん、この日のために帰国した潮田益子の姿があった。
【本ブログへの転載に際しての付記】
潮田との「協奏曲」のLPは、もちろん当時、EMIにより海外仕様でも発売されている。一昨年、東芝EMIから、CDで復刻発売された。
文中の「馴れ合い」は、この原稿執筆当時、「レコード芸術」誌上などで毎月のように原稿執筆をしていた音楽評論家氏の発言を踏まえたもの。この頃、小澤/サイトウキネンは、決して好意的に迎えられていたわけではなかった。また、「松本」以外での演奏をせず、もちろん、東京公演もなかったが、そのことも、何かと非難されていた。
■若杉弘と、一九七〇年代のレコード事情
読売日本交響楽団には、格別の思い出がある。このオーケストラが創設されて間もないころ、毎週日曜日の朝、日本テレビのコンサート番組に登場していたのだ。当時中学生だった私は、それほどふんだんにレコードが買えるわけでもコンサートに行けるわけでもなく、ラジオやテレビでの放送は貴重な音楽体験の場だった。放送用に無人の会場で収録した演奏なども放映する贅沢な番組で、当時、レコードの余りない珍しい曲もよく演奏された。
第一代常任指揮者はアメリカのウィリス・ペイジという人。この人には、ずいぶんとたくさんの曲を教わったが、決して〈元気のよい〉音楽ではなかったように思う。二代、三代と、外国からの招聘指揮者が続き、四人目の指揮者として若杉弘がテレビに登場したのは東京オリンピックの後だったと思う。細くしなやかな体つきが印象的だった。ある意味ではずっと低迷していたといってよい読響が、若く意欲的な演奏をするようになったのはこの頃からだったような気がする。
東京文化会館で「エロイカ」を聴いたときは感激して楽屋まで押しかけてしまった。今にして思えば赤面の至りだが、その日の演奏は極めて情熱的で、テンポも大きく揺れ動くものだった。そして、その節回しに日本的な感性としか形容し得ない独特の個性を湛えていた。私は初めて西欧のコピーでない〈ぼくらのベートーヴェン〉を聴いた思いがした。その日、図々しくも楽屋まで押しかけた高校生の私の質問に答えて、若杉氏は、一番指揮してみたいオーケストラとして、コンセルトヘボウの名を挙げた。「そうか、あの透明な音が本当は好きなのか」と思った私は、その後の氏の精妙さを究めていく急速な変貌を納得しつつ、毎週テレビにかじりついていた。
若杉/読響による「田園」は、それから数年後に発売された。発売日当日に銀座の山野楽器で買った大切なレコードだ。
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今でこそ、日本人演奏家の録音はめずらしくなくなったが、このレコードが発売された一九七〇年頃は、まだ日本人演奏盤は特別扱いで、かなり大きな店でないと扱っていなかったし、それらは決って〈邦人演奏家コーナー〉という奇妙な名で別の場所にまとめられていた。わざわざ日本人の演奏したベートーヴェンを大金を叩いて買うのは、かなりな変り者と思われていたのだ。当時のLPは二千円から二千五百円くらいで、今のCDと同じだが、物価が違っていた。ラーメン一杯が百円程度だったから、その頃一枚のレコードを買うのは現在では一万円札を惜しげもなく注ぎ込むに等しい覚悟が必要だった。
〈邦人演奏盤〉と言っても、六〇年代後半から七〇年頃まではまだ日本の作曲家のものが多かった中で、岩城宏之/NHK交響楽団のベートーヴェン交響曲全集は一きわ光る偉業だった。そして、小沢征爾がトロント響、シカゴ響などでのRCA録音を開始していた。数年前に発売されていた渡辺暁雄/日本フィルの「シベリウス交響曲全集」(旧録音)は、あっという間に姿を消していた。そのほかは、小・中学校の音楽鑑賞教材用のレコードや、予約制通信販売の出版社系のレコードに日本人演奏家が起用されていた程度で、一般市販のレコードでの日本人演奏は極めてまれだった。そうした時代だったのだ。
この時期の若杉/読響の、いわゆるスタンダード名曲の録音には、この他、ベルリオーズ「幻想」、モーツァルト「ジュピター」、ハイドン「驚愕」「軍隊」、チャイコフスキー「白鳥の湖」「くるみ割り人形」などがビクターや、研秀出版から発売されていた。そして稲垣悠子の超名演の伴奏を務めているメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」が学習研究社の十七センチ盤で、また、将来を期待されながら若くして亡くなった大橋国一の「モーツァルト、オペラアリア集」が世界文化社から発売されていた。
■フルトヴェングラーは「未完の大器」!
フルトヴェングラーの録音は、今でこそライブ盤が全盛だが、正規に発売された最初の〈フルトヴェングラーのライブ録音〉は、例の有名な「バイロイトの第九」だ。この「第九」は一九五一年七月二九日、戦後、復興なったバイロイト音楽祭初日の記念コンサートのライブだが、その特殊な状況下で指揮者の内部に湧き起こる感興が全員に乗移っていくような即興性にあふれた演奏だ。特に終楽章の高揚感は圧倒的で、コーダのプレスティッシモでの制御不能な壮絶ともいえるアチェレランドは、「知」の力を跳び越えて高みへ駆け上ろうとする人間の姿を垣間見る思いがして、正に感動的だ。
だが、その練習でのフルトヴェングラーの発言を、彼の秘書であったカルラ・ヘッカーが証言しているように、周到なペース配分でこの感動のドラマが演出されていることを見過ごしてはならない。例えば最初の合唱の高揚では、声を最大にまで出してはいけないと、フルトヴェングラーは押しとどめる。曰く「聴衆はまだこの先に高揚して行く余地が残っていることを感じ取らなければならない」。
フルトヴェングラーはナチ台頭の一九三〇年代にベルリン・フィルの指揮者となってから第二次大戦の終結まで、ナチの時代と共に歩み、その特殊な状況の中で無我夢中で指揮を続けた悲劇の音楽家だ。その彼が落着いて自己の芸術を本格的に検証し始めたのは、五〇年代に入り、LPレコードの登場で積極的に録音を行うようになってからのことだ。それはフルトヴェングラーの音楽が大きく変わりつつあることを予感させる演奏を生み始めたが、その途上で世を去ってしまった。
この「第九」は、そうした彼の変貌が始まる直前、ナチの時代からの〈開放〉の総決算のような時期の演奏だ。だからこそ、これほどに美しく感動的なのかもしれないし、それは「第九」の本質と関わることであり、この曲を語る上で、なくてはならない歴史的名盤となっている所以だ。
*
私が初めて買ったクラシック音楽のLPレコードは、フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルによるシューベルト「未完成」の十インチ盤だ。小学校の五年生だった。その前にはオーマンディ/フィラデルフィア管の「ペール・ギュント」第一組曲のドーナッツ盤(懐かしい言葉!)が一枚あるだけだった。「未完成」の次には、フルトヴェングラー/ベルリン・フィルの「悲愴」を買い、結局、どうしても「運命」が欲しくて、その頃発売されたばかりの「運命/未完成」のカップリング盤で、「未完成」がダブってしまうのを承知でまたフルトヴェングラー/ウィーン・フィルを買ったのを覚えている。そして「英雄」「田園」「第七」と買い続け、やっとのことで「第九/第一」の箱入り二枚組にたどり着いたときには、もう私は中学生になっていた。当時、子供がこづかいで買えるレコードの枚数とは、その程度のものだった。 フルトヴェングラーによるベートーヴェンの交響曲を買い進めていた間に買った、他のレコードはというと、フルトヴェングラーの「シューマン第四」、「シューベルト第七」の他には、ミュンシュの「幻想」、アンチェルの「新世界」、ストコフスキーの「白鳥の湖」などが記憶にある。トスカニーニ指揮の「運命/第四」も買った。
以上の記述で見透かされてしまうことだが、昭和三五年から二年間ほどの私の小学生時代の音楽体験は、ごく一部のレパートリー以外は、フルトヴェングラーを基準に形成されてきたということになる。ただ、ここで強調しておきたいのは、当時私が聴いていたのはいずれもが、いわゆる正規録音盤だということだ。もともとフルトヴェングラーの録音というものは、それほどたくさんは存在しなかったのだ。 この稿の前半で触れているように「第九」は、彼の初めてのライヴ盤で、指揮者の登場の足音から始まり、長い沈黙の後の第一楽章の静かな開始から、演奏が終わったあとに湧き起こる拍手の嵐に至るまで、その場に自分が居合わせたかのような感動に包まれたのを記憶している。私の〈フルトヴェングラー体験〉で最も貴重な瞬間として、今でも思い出すことができる。
この録音は、確かに多くの人々が認めているように、今世紀を代表する貴重な記録のひとつで、おおげさでなく私たち人類が〈録音〉という手段を手にしたことに心から感謝するいくつかのレコードのひとつだ。だが、だからといって、フルトヴェングラーはライヴでなければ真価を発揮しないなどとは言い切れない。
これは、どの演奏家にも言えることだが、録音で聴く演奏芸術というものは、会場でナマで聴く演奏とは別の価値を持っている。感性の鋭い聴き手は、そこからときほぐして、実演でのインスピレーションを受けた場合を自身の中で醸成してゆくといってもよい。別の言い方をすれば、録音された演奏芸術は〈体験を聴く〉ものとしては余りにも貧弱にすぎ、あくまでも〈解釈を聴く〉ものだと私は思っている。正規のセッションで録音されたものから、むしろ、その演奏家の真価が〈正当に〉伝わってくることも多い。
この三〇年ほどの間に、フルトヴェングラーが自身では承諾していないいわゆるライヴ録音の発売枚数は、異常なほどにふくれあがってしまった。私はそうしたものの存在を全否定するつもりはないが、まず初めに聴くのは、私自身がそうであったように、まず正規のスタジオ録音だろうと思う。それはフルトヴェングラーが、演奏会場で自身と音楽体験を共有できない聴衆に向けて、彼自身の言葉を借りれば「次善の策として」私たちに残した彼からのメッセージなのだ。
いずれにしても、録音機の飛躍的進歩により、一九五二年の「トリスタン」全曲録音以後、にわかに録音に理解を示し始めたと言われるフルトヴェングラーが、そのわずか二年半後に世を去ってしまったのは、実に残念なことだ。ナチの時代から解き放たれ、プレイバックに耳を傾け、自身の霊感に憑かれた指揮ぶりを客観的に検証するようになっていったこの不世出の天才指揮者の世界が、この後、どのようになっていただろうか? フルトヴェングラーはその意味で、偉大な未完の大器だったと思う。
私のように1960年代から70年代にレコードを通じてクラシック音楽に夢中になった世代にとって、「カラヤン」は特別に意味のある存在だった。「君はカラヤンが嫌いか? よし、それなら友達だ!」というくらいに、「カラヤンを受け入れるか否かが、一種の踏み絵になっていた、といってもいい。ご記憶のある方も多いだろうと思う。今にして思えば、その震源地は、やはり、宇野功芳氏だったろうと思う。かく言う私も、その大きな流れの中にいた時期は長かったように思う。
ただ、私自身は、1960年代にロリン・マゼールに目を開かれて以来、フルトヴェングラーの音楽に涙しながらもマゼールに音楽の未来を夢見るという、おそらく宇野氏の信奉者やフルトヴェングラー以外は聴かないといった方からはヒンシュクを買うに違いない聴き方をしてきている。そんな私にとっては、「カラヤンとは何か?」は、ずっとこだわり続けているテーマのひとつだった。
以下に掲載する文章は、私が1990年代の初め頃の約5年間、当時まだ実験放送に毛の生えたような状態だった「CS衛星ラジオ」で、月1回のペースでオンエアしていた『竹内貴久雄の銘盤・廃盤辞典』という2時間番組で行なった「カラヤン特集」の放送ナレーション用メモを、整理したものです。他のいくつかの特集は私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』(洋泉社)に収録しましたが、これは未収録です。そして、このメモを使って、1998年に洋泉社ムック『名指揮者120人のコレを聴け!』のために整理しなおして、末尾の部分を即興で書き加えた文章も、ここに掲載します。今回の当ブログへの掲載にあたって読みなおしてみましたが、やはり、まだ、私の中で解決していないことがいくつもあることを思い知りました。私よりも後の世代の仲間たちが、いともかんたんにカラヤンについて語っているのを読んで、少々複雑な気持ちでいます。ほとんどのことが整理ついてしまった、と自負している私ですが、「私にとってのカラヤン」は、数少ない未解決のままのテーマのひとつです。 先日来のカラヤン・リバイバルのような奇妙なCD店状況の中で、急に思い出したので掲載します。ご感想などありましたら、お寄せいただけると、私自身が何か考える機会になるかもしれませんので、よろしくお願いいたします。
ところで、蛇足ながら、昨年(?)発売されたカラヤンの「プロムナード・コンサート フィルハーモニア管弦楽団モノラル版」は、「ステレオ版とまったく違って若々しくエネルギッシュな演奏」などと讃えられていますが、そんなことはありません。微妙な違いこそあれ、私が以前自著に書いたように、モノラル版と「寸分違わず」を目指したステレオ版であり、それをほぼ実現しているところをこそ評価すべきです。どうも、最近の復刻CD解説は、「こっちの方がいい」と無理な論陣を張ったものが多くて、私のいう「作る側、売る側の都合に合わせた、便利な論評の書き方」が、若い才能のある評者たちにもじわじわと浸透してきているようで、悲しく思っています。
(CSラジオ「竹内貴久雄の銘盤・廃盤事典」放送台本より・1995年頃放送)
オーストリア生まれのカラヤンは、おそらく生涯を通してオーストリア人としての誇りを内に秘めていた人で、決して、いわゆる「ゲルマン」的な音楽家ではなかったと思う。そう考えると、ナチの時代のヨーロッパの不幸と自らとのかかわりに口をぬぐっていたカラヤンが、最晩年に、みずから希望して半ば強引に指揮台に立った「87年のウィーン・フィル・ニュー・イヤー・コンサート」の映像は、特別の意味を感じさせる。感慨深げに客席の遥か向う遠くを見るカラヤンの視線が、ことさらに印象的だ。
カラヤンは、その青春時代、ナチの時代の中で生き抜き、おそらくは、様々な策謀、裏切りをくぐり抜けて、自分の身を守って暗い時代を生き抜いてきたはずだ。内面の苦悩を密封して戦後の音楽界に君臨し続けた人物なのだと思う。
だからだろうか、カラヤンは、第1次、第2次の両大戦間の時代的不幸を背負った作品には格別の思いがあるようだ。ルーセル、バルトーク、ヒンデミット、オネゲルなどの作品の録音がそれだ。また、シベリウスの作品に対する、抒情の崩壊への視点も興味深い。
例えば、1960年にベルリン・フィルと録音したバルトークの「弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽」(EMI録音)を聴いてみよう。この緊張感には本物の凄みがある。 いったいカラヤンにとって、第二次世界大戦の終結後とは、どんな時代だったのだろうか?
1948年録音のウィーン・フィルとのベートーヴェン「交響曲第5番ハ短調《運命》」。この演奏には、音楽演奏における〈情熱〉の有効性に対する信頼がある。戦後、開放された音楽状況のなかでウィーンはまだ、政治的にも軍事的にも微妙な立場だったし、カラヤン自身もナチ時代の、ナチ協力者疑惑問題があったりして、ウィーンでの立場が複雑だった。(映画「第3の男」を見ると、当時のウィーンの様子が少し分かる。)
そうした状況の中で、思いのたけを全力で出し切っているカラヤンのひた押しな音楽が、グイグイと前進し続ける。特に第2楽章の始まり方の、精神の平穏を願うかのような深い息づかいや、第4楽章への輝かしい力の漲った突入など、思わず引き込まれてしまう演奏だ。
響きのバランス、リズムの切れの良さ、豊かな表情など、いずれも超一流。既に完全に完成された音楽として成立している演奏だ。ここまでの演奏が出来てしまったカラヤンにとって、この後、何が出来たのだろうかとさえ、思ってしまう。
1949年録音のモーツァルト「39番」(ウィーン・フィル)。ここでも、旺盛な表現意欲、伝えたいメッセージが有り余る程あって、はちきれそうな音楽のほとばしりが聴かれる。
ところが、カラヤンは、1951年以降、57年まで、ウィーン・フィルをまったく指揮しなくなる。これはカラヤンとウィーン市当局との関係が悪化したためだが、レコーディングを含めてのことだったので、カラヤンは、当時、EMIのディレクターだったウォルター・レッグが結成したばかりのロンドンの新しいオーケストラ、フィルハーモニア管弦楽団との活動が中心となる。
このオーケストラはウォルター・レッグが結成しただけあって、機能的にはトップレベルのオーケストラだった。カラヤンのフィルハーモニア管弦楽団時代は、カラヤンにとって、オーケストラの機能的な部分への関心が高まって行った時代だったのかも知れない。(機能主義者的側面、テクノクラートの誘惑は、その後のカラヤンを解くキー・ワードかも知れない。)
フィルハーモニア管弦楽団とはベートーヴェンの交響曲全集をはじめ、数々の録音がある。中でも、シベリウスの「交響曲第2番」は特に印象に残っている。また、ウィーン・フィルの本拠地、ウィーンのムジークフェライン・ザールで1958年に録音されたモーツァルトの「交響曲第38番《プラハ》」も、このオーケストラとの貴重な記録だ。
この「プラハ交響曲」は、とてもめずらしいことに、いつものEMIの録音場所であるロンドンのアビー・ロード・スタジオ、あるいはキングズウェイ・ホールではなく、ウィーン・フィルの本拠地、ムジークフェライン・ザールでの録音。これは、レッグとカラヤンが育てた自慢のオーケストラを引き連れての、1958年9月の、ウィーンでの録音というわけだ。ウィーン・フィルのニュー・イヤー・コンサートでもお馴染みの、あの、残響時間の異常に長いホールを使用して、フィルハーモニア管弦楽団が、カラヤン仕込みの、しなやかなモーツァルトを演奏している。これ以外の、カラヤン/フィルハーモニア管弦楽団との録音と、聴き比べてみると、同じオーケストラでも、ホールが異なると、かなり印象が変るということが分かる。
だが、このオーケストラとのロンドンでの活動の記念としては、「プロムナード・コンサート」と題された1枚のLPが最高の出来上がりだ。
このLPは1953年から55年にかけてモノラルで録音されたが、1960年にステレオで、曲目、曲順ともまったく同じで録音し直された。ヨハン・シュトラウスの「ポルカ《雷鳴と電光》」を聴いてみよう。ここでは、ウィーン情緒をかなぐり捨てて、ロンドンのプロムナード・コンサートのスタイルで最高度に磨きあげられたサウンドが聴かれる。
そして結局、これがフィルハーモニア管弦楽団との最後の録音となった。58年からはベルリン・フィルの音楽監督に就任し、ウィーン・フィルの指揮も再開された。いわゆる「帝王カラヤン」への道のスタートだ。
第2次世界大戦後15年を経て、特にロマン派音楽の演奏でのメッセージを失いはじめたカラヤンは、響きのヴィルトゥオーゾとして、突出した部分をそぎ落とし、口当りのなめらかな音楽へと、全世界の音楽ファンを引きずり込もうとし始める。
それは、情熱、熱血……、そうしたものを喪失した偽りの平和社会の中で、ロマン派の音楽が有効性を持ちつつ、生きながらえてゆくための方便として、戦中派のカラヤンが選びとった方法だったろう。
ところが、日本の若い聴き手の間で、60年代にアンチ・カラヤン現象が起こったのは興味深い。ニセモノの平和への反撥、メッセージのない音楽への反撥。60年安保から70年安保への時代は、日本はまだ、力強いメッセージの発信者を求めていた。だが、じわじわと〈カラヤン的〉なものは浸透していった。それが70年代以降の奇妙に微温的な社会状況に連なっていく。その意味でもカラヤンは時代を先取りしていた。
カラヤンの60年代、70年代、そして晩年については、また、別の機会に考えてみたい。
(洋泉社ムック『名指揮者120人のコレを聴け!』1998年刊より)
「ヘルベルト・フォン・カラヤン」 Herbert von Karajan (1908~1989)
●国籍:オーストリア
●略歴:1908年ザルツブルク生まれ。ウィーン音楽院で学ぶ。29年ウルム歌劇場の指揮者になり、29歳の35年にはアーヘン市音楽監督。37年ウィーン、38年ベルリンの歌劇場にも招かれて成功を収める。戦後、ロンドンのフィルハーモニア管とのEMIへの膨大な録音で名声を決定的なものにした。50年代後半にはベルリン・フィル音楽監督の地位を固めて、同フィルとの本格的録音を開始した。
●主要CDレーベル
EMI
DG
DECCA
●キーワード
根っからのオーストリア人魂
メッセージを失った音楽の延命装置
【本文】
オーストリア生まれのカラヤンは、おそらく生涯を通してオーストリア人としての誇りを内に秘めていた。決して、いわゆる「ゲルマン」的な音楽家ではなかったと思う。そう考えると、ナチの時代のヨーロッパの不幸と自らとのかかわりに口をぬぐっていたカラヤンが、最晩年に、みずから希望して半ば強引に指揮台に立った87年の「ウィーン・フィル・ニュー・イヤー・コンサート」の映像は、特別の意味を感じさせる。感慨深げに客席の遥か向こう遠くを見るカラヤンの視線が、ことさらに印象的だが、この時、カラヤンの心の中をよぎったものは、何だったのだろうか?
カラヤンは、その青春時代、ナチの時代の内面の苦悩や葛藤を密封して、戦後の音楽界に君臨し続けた人物なのだと思う。いったいカラヤンにとって、1945年の第二次大戦終結後の時代は、どんな意味を持っていたのだろうか?
48年録音のウィーン・フィルとのベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調《運命》。この演奏には、音楽演奏における「情熱」の有効性に対する信頼がある。戦後、開放された音楽状況のなかでウィーンはまだ、政治的にも軍事的にも微妙な立場だったし、カラヤン自身もナチ時代の、ナチ協力者疑惑問題があったりして、ウィーンでの立場が複雑だった。
そうした状況のなかで演奏するカラヤンのひた押しな音楽が、グイグイと前進し続ける。特に第2楽章の始まり方の、精神の平穏を願うかのような深い息づかいや、第4楽章への輝かしい力の漲った突入など、思わず引き込まれてしまう演奏だ。響きのバランス、リズムの切れの良さ、豊かな表情など、いずれも、既に完全に完成された音楽として成立している。
ところが、カラヤンは、1951年以降、57年まで、ウィーン・フィルをまったく指揮しなくなる。これはカラヤンとウィーン市当局との関係が悪化したためだが、レコーディングを含めてのことだったので、カラヤンは、当時、EMIのディレクターだったウォルター・レッグが結成したばかりのロンドンの新しいオーケストラ、フィルハーモニア管弦楽団との活動が中心となる。機能的にはトップレベルのオーケストラを得て、カラヤンはオーケストラの機能的な部分への関心が高まっていったようだ。
60年録音の『プロムナード・コンサート』と題されたアルバムもヨハン・シュトラウス《雷鳴と電光》からは、ウィーン情緒を捨てて最高度に磨きあげられたサウンドが聴かれる。そして結局、これがフィルハーモニア管弦楽団との最後の録音となった。55年にはベルリン・フィルの主席指揮者に就任し、ウィーン・フィルの指揮も57年の春から再開されていた。新生「帝王カラヤン」への道がスタートしていた。
60年にEMIに録音したベルリン・フィルとのバルトーク《弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽》。この緊張感には本物の凄みがある。戦後15年、やっとカラヤンの「戦時下」が外面的には清算され、ベルリン・フィルに君臨し始めた時期だったからこそ、これほどの演奏が成立したのだと思わせる録音だ。同じカラヤン/ベルリン・フィルでも69年のDG録音は、かなりマイルドな音楽に安定していて、EMI盤のような、良い意味でのささくれ立ったきびしさが後退している。
第2次世界大戦後15年を経て、特にロマン派音楽の演奏でのメッセージを失いはじめたカラヤンは、響きのヴィルトゥオーゾとして、突出した部分をそぎ落とし、口当りのなめらかな音楽へと、全世界の音楽ファンを引きずり込もうとし始める。それは、情熱、熱血……、そうした戦中派的なものを喪失した戦後の高度成長社会のなかで、ロマン派の音楽が有効性を持ちつつ、生きながらえてゆくための方便として、戦中派のカラヤンが選びとった方法だった。そして、それが、70年代以降の奇妙に微温的な社会状況に連なっていく。
その意味でもカラヤンは時代を先取りしていたと思う。『アダージョ・カラヤン』の企画者は、今日の「癒しの音楽」ブームに、カラヤンの表層を重ね合わせたに違いない。だが、それは、決して癒されることのなかった人の切実な願いとしてのカラヤン美学の本質を見失ってしまう行為だ。
カラヤンのラスト・レコーディング。最高の機能集団に自ら育てあげたベルリン・フィルを離れ、ウィーン・フィルと演奏するブルックナーの《第7》からは、オーストリアの大地が彼方にまで広がっていく。そして、孤独な巨匠カラヤンが、そこに佇んでいる。
【カラヤンを聴く3枚のCD】
●ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調/ウィーンpo.
[英EMI:CDM5-66391-2]1948年録音
●バルトーク:管弦楽のための協奏曲、弦、打楽器、チェレスタのための音楽/ベルリンpo.
[英EMI:CDM5-66391-2]1974年,1960年録音
●ブルックナー:交響曲第7番ホ長調/ウィーンpo.
[Po-グラモフォン:POCG50013]1989年録音
私は「オーマンディ」が嫌いではありませんし、ひところはずいぶん夢中で聴いていた指揮者のひとりでもあります。私が述べたオーマンディの印象は、「聴かないで書いた」ものではありませんし、その方の文中にある吉田秀和氏の1978年の来日演奏会評「すべての声部が平等に鳴りすぎ、とかく焦点のはっきりしない演奏になりがちだった。」という文章による先入観などで書かれたものでもありません。私は、その方の引用で吉田氏の指摘を知り、僭越ながら、「さすがは吉田秀和。ちゃんと聞こえているじゃないか」と、むしろ、私の説に同意見があることを知って、うれしく思った次第です。
私の「オーマンディ論」は1998年6月に書いたものですが、確か、その前年に邦訳が発売された「指揮者との対話集」に収められた最晩年のオーマンディの発言に驚いて、ぼんやりと感じていたオーマンディの音楽に対する疑問が氷解してしまったのを覚えています。その対話はかなりの長文ですが、「死の直前に語られたオーマンディの本音」として、とても貴重な記録だと思っています。 私は「20世紀アメリカ社会」を生き抜いた大指揮者の、自分の指揮者人生に対する「アイロニカル」な発言を、正面からとらえたつもりです。そしてそれは、様々な問題を孕んでいます。
執筆当時も、周囲の執筆仲間から、「あの書き方じゃオーマンディ・ファンが可哀そうだよ」と言われましたが、あれは、オーマンディを聴くな、といっているのではありません。あの問題に関しては、いずれ、別の角度からも考えてみたいと思っていますが、誤解を避ける意味からも、当時の私の文章を、そのまま、次にUPしますので、ご興味のある方はお読みください。私は、20世紀前半に世界中を席巻していた「演奏芸術における自意識の過剰」について、考えているのです。
【2011年2月9日の追記】
このブログ文の前半、「貴久雄」さんと「喜久雄」さんについて書いた部分を切り離して雑文カテゴリーのまま残しました。こちらは、演奏家論カテゴリーに移動させました。私の心おぼえのためです。ここで言及している「オーマンディ論」本体は、「指揮者120人のコレを聴け!」よりというカテゴリーの中にあります。この「問題」に関しては、後日談も、当ブログに掲載してあります。