【名古屋・東区】明治四年(1871)、明治政府が中央集権化を図るため施行した廃藩置県により尾張藩は愛知県の一部となり、翌五年(1872)に寺格を無本寺から知恩院の末寺へと降格された。 明治五年~六年(1875)、御霊屋や門は藩祖義直の御霊屋以外が撤去されて他寺院に移築され、義直の御霊屋は「徳川家霊廟」として歴代藩主や正室などの位牌が祀られた。
堂塔伽藍は、第二次大戦の名古屋空襲をまぬがれて江戸時代の偉容を今に留めている。
●本堂前の境内の西側に不動堂と開山堂そして地蔵堂が並んで東面で建つ。 両堂の間の前に松の緑の小庭があり、高さ約4.5メートルの石燈籠が立つ。 平成十四年(2002)の造立で新しいが、頂部の宝珠から基壇まで龍や獅子や十二支などの彫刻で埋め尽くされており、特に竿に巻き付いた精緻な3本爪の龍は実に見事だ。
「南無大聖不動明王」の幟が立ち並ぶ奥に、白地に法輪をあしらった幕を張った不動堂が建つ。 不動堂に向かって左側に両手で宝珠を持つ地蔵尊坐像が鎮座する地蔵堂があり、「有求必感慶」と書された扁額が掲げられた地蔵堂が建つ、
△境内西側に東面で並んで建つ不動堂(左)と開山堂
△不動堂と開山堂の前の庭園に立つ高さ約4.5メートルの石燈籠....平成十四年(2002)の造立で、火袋に獅子や透かし彫りの鶴、中台に十二支、竿に龍の像が施されている/竿に巻き付いた精緻な龍の彫刻は3本爪
△笠の軒下に垂木を設け、頂部の宝珠に羽を広げた鷹が乗る/火袋に阿形の獅子像、正面に透かし彫りの鶴像(失念したが多分後方は透かし彫りの亀像と思う)....6面の中台に十二支の動物像が配されている
△「南無大聖不動明王」の幟が立ち並ぶ奥に,白地に法輪をあしらった幕を張った不動堂が建つ、
△入母屋造桟瓦葺で妻入りの不動堂(明王殿)....昭和四十四年(1969)の再建....本尊は江戸時代から尾張徳川家戦勝祈願の秘仏として伝える不動明王像
△大棟端に鳥衾を乗せ三つ葉葵紋を配した鬼瓦、拝は猪ノ目懸魚....唐破風に鳥衾を乗せ三つ葉葵紋を配した鬼瓦、兎毛通は猪ノ目風の懸魚、妻飾は笈形付き虹梁間斗束/向拝は格天井、正面三間はいずれも格子窓で長押の上は総て白壁の小壁....中央間に「不動尊」の扁額、格天井から鰐口が下がる
△不動堂の軒廻りは一軒疎垂木、組物は出組で柱間に詰組(と思う)....正面一間は吹き放ち
△不動堂の左隣に鎮座する露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺の地蔵堂
△軒廻りは一軒疎垂木....扁額は「有求必感慶」と思うが、求めれば必ず願いが叶う「有求必慶」と同じ?/堂内に鎮座する両手で宝珠を持つ地蔵菩薩坐像
●前庭の松の古木が、開山堂を隠すように堂前参道に枝を伸ばしている。 開山堂は約240年前の江戸中期再建の総欅造りで、質素な造りだが風格を感じさせる。
開山堂に向かって右側に、舟光背型馬頭観音の石仏がしっかりした造りの基壇の上に鎮座する。 馬頭観音坐像は頭上に馬頭をいただく3面6臂で、胸前で「根本馬口印」を結んでいる。 理由は分からないが馬頭観音石仏の前脇に鳩と犬の像が置かれていて、まるで眷属のようだ。
帰りの際、境内の南東にある御成門を外から拝観した。 御成門は約310年前に建てられた四脚平唐門で、桟唐戸の上部の格狭間に三つ葉葵紋を配していて尾張徳川家の威厳を保っているようだ。
△寄棟造桟瓦葺の開山堂....天明六年(1786)再建の総欅造り
△正面五間で中央間と両脇間はいずれも引き戸の舞良戸、内側に腰高格子戸
△正面と両側面に金属製擬宝珠高欄付き切目縁/軒廻りは一軒疎垂木、組物は柱頭に舟肘木を置いて丸桁を支える....長押の上は全て白壁の小壁
△開山堂の側面は五間で二間に連子窓、三間は白壁....正面と両側面に切目縁があるが、正面のみに金属製擬宝珠高欄を設けている
△開山堂右手の基壇に鎮座する馬頭観音坐像石仏....手前の石燈籠は昭和十三年(1938)の造立
△舟光背型馬頭観音像....頭上に馬頭をいただく3面6臂像....像前左右に鳩と犬の石像を配す
△馬頭観音石仏は胸前で馬の口を模した印相の「根本馬口印」を結ぶ
△像前左右に配された鳩と犬の像....馬頭観音との関わりは分からず
△馬頭観音の右手に立つ「殉国之碑」と刻まれた石碑
△切妻造本瓦葺の御成門....正徳四年(1714)の建立で、大棟両端に鯱を置き、両側面に唐破風がある四脚平唐門....元は第5代藩主徳川五郎太の廟門
△扉は上部の格狭間に三つ葉葵紋を配した桟唐戸....左右に菱格子を入れた袖塀がある
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