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何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

龍禅寺-(2) (取手)

2023年12月01日 | 寺社巡り-茨城

【茨城・取手市】三仏堂の創建は、延長二年(924)と伝えるが、建築様式から室町時代後期の16世紀前半の建築とみられている。 現在の三仏堂は、室町時代末期の永禄十二年(1569)に再建された。
明治二十一年(1888)に内務省から保存金百円の交付を受け、堂宇の修理を行い現在に至る。 三仏堂には釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像そして弥勒菩薩坐像を祀る。

■本堂から玉砂利が敷かれた紅葉が鮮やかな境内を進み、南端に建つ三仏堂の正面に。 三仏堂は約360年前の江戸初期の再建で、質素で古色蒼然とした佇まいだ。 三仏堂は禅宗様の建物だが他に例を見ない稀有な造りで、内陣三方を囲むように背面と両側面に裳腰を設けている。 桁行三間の正面は全て桟唐戸で、真ん中の桟唐戸の前には切目縁がなく階段を設けている。 梁間四間の正面側一間は外陣になっていで、この部分には裳腰がない。

△紅葉が残る境内の南端に本堂(右奥)と同じ南面で建つ禅宗様の三仏堂

△寄棟造茅葺の三仏堂(重文)....創建は延長二年(924)と伝えるが、建築様式から室町時代後期の16世紀前半の建築とみられる....江戸時代永禄十二年(1569)の再建

△桁行三間梁間四間で左右の側面と背面に裳階を設けている

△来迎壁を設けた禅宗様須弥壇に安置されている三仏尊像....右から釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の各坐像(案内板の写真から拝借)

△正面三間はいずれも桟唐戸....柱の頂部に粽、正面と側面一間の外陣部のみに切目縁があるが、中央間の入り口部分に縁がない

△正面と背面の組物は出組で、柱間の中備は詰組

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で正面と背面の中備は詰組

△三仏堂の左側面....正面側一間の裳腰のない張り出しは外陣....両側面の組物は正面と同じ出組だが、中備は板蟇股

△三仏堂の右側面....板葺で縦羽目板壁の裳腰は一軒繁垂木で組物は梁の木鼻が突き出た平三ツ斗、裳腰の柱の頂部に粽がある

△三仏堂の背面(左側)の凹形の裳腰....背面と両側面の三方に裳腰を設けた独特な平面構成で、稀有な造り

△四隅の柱に台輪と頭貫の木鼻

■三仏堂前の境内に墓所を背にして、「法華一萬部供養塔」と刻まれた供養塔、二基の兜巾型石柱そして小さな大師堂が建つ。 供養塔は頂上に蓮華座に鎮座する阿弥陀如来らしき石仏を乗せ、石柱一基には「新四國大師道」と刻まれている。 大師堂は切妻屋根の妻面を唐破風とした造りで、虹梁に「第四十七番」の札が掛かっているので、ここが新四国相馬霊場八十八カ所の47番札所のようだ。

△大師堂前から眺めた三仏堂、右奥に鐘楼....三仏堂手前の左側に大師堂、地蔵石仏そして二基の石柱がある

△新四国相馬霊場八十八カ所第47番

△蓮華座に鎮座する阿弥陀如来像らしき石仏を乗せた「法華一萬部供養塔」と刻まれた供養塔/二基の兜巾型石柱....小さい方は「新四國大師道」の刻字だが、大きい方は判読不能....多分、「新四国相馬霊場八十八カ所47番」と思う

△切妻造屋根で妻面を唐破風とした大師堂47番....向拝柱に獅子と象の木鼻、下に兎毛通とみられる鳳凰の彫刻が置かれている

△虹梁上の中央に虎の彫刻を配す....破風の妻飾は彩色された波の文様

△三仏堂の前から眺めた鐘楼

△切妻造銅板葺の鐘楼....妻飾は混成複合式で内法貫と頭貫の間に蟇股、頭貫と虹梁の間に組物そして虹梁の上に笈形を配す

△鐘楼は照り屋根で、軒廻りは二軒繁垂木      鐘楼に下がる梵鐘

■三仏堂を拝観していたら、急に雲間から西日が顔を出し山内を照り出した。 三仏堂と本堂の間に紅葉した木があり、強い西日でいっそう濃い紅に染まった。 背面が西日に照らされている三仏堂の様は、まさに古寺の雰囲気を強く醸し出している。

△雲間から急に現れた西日が境内に降り注いでいる

△強い西日を浴びた紅葉は鮮やかさを一層増している

△燦燦と日差しを浴びる三仏堂

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龍禅寺-(1) (取手)

2023年11月25日 | 寺社巡り-茨城

【茨城・取手市】創建年は明確でないが、平安時代の延長二年(924)に(伝)誉大阿闍梨が三仏堂を道場として開いたのが始まりと伝える。 承平七年(937)に龍禅寺で武運長久の祈願を行った武将平将門が、仁王門や鐘楼を寄進し堂宇を建て直したと伝える。 なお、取手市教育委員会の資料には天慶二年(939)の創建とある。
将門の死後に荒廃したが、鎌倉時代の建久三年(1192)に源頼朝が武将千葉常胤(千葉氏第3代当主でのち御家人)に命じて中興した。 江戸時代に入ると幕府から庇護され、慶安二年(1649)、第三代将軍徳川家光から寺領19石3斗の朱印地を賜る。
宗旨は天台宗、本尊は阿弥陀如来像で脇侍は十一面観音と地蔵菩薩。 龍禅寺は新四国相馬霊場八十八カ所第79番札所、三仏堂は新四国相馬霊場八十八カ所第47番札所。

■関東鉄道常総線稲戸井駅から住宅地を進んで龍禅寺に向かう。 入り口に「天台宗」・「龍禅寺」と記された門柱が建ち、墓所に沿って参道が山門まで延びている。 袖塀を備えた簡素な銅板葺きの山門をくぐると、正面に客殿、右手に庫裡、左手の少し奥に本堂が南面で建つ。
本堂前に保存樹木の「キンモクセイ」と「モチノキ」の老木があり、特に枝を大きく広げた「キンモクセイ」は巨木で、日本一である可能性があるようだ。 山内に花の香り漂わせる季節に再訪したいものだ。

△「天台宗」「龍禅寺」と刻まれた門柱が立つ入り口から眺めた境内

△門前に立つ平成二十六年(2014)造立の大きな「龍禅寺参道」の石碑

△切妻造銅板葺で袖塀を備えた山門....建立年不明

△山門は組物などがない簡素な四脚門....親柱間に扉がない/銅板葺屋根は少し上向きに反った起りのようだが、破風は下向き反った照り屋根

△境内に聳える保存樹木の「キンモクセイ」と「モチノキ」の奥に建つ本堂....巨木の「キンモクセイ」は6分岐で幹回り5m72cm、主幹2m3cm

△2本の保存樹木の間から眺めた本堂

△「モチノキ」越しに眺めた本堂は南面で建つ

■本堂は小棟の寄棟造りで、小棟から向拝にかけてゆるやかな曲線を描いた流れるようなフォルムだ。 正面脇間と側面は殆ど引き違い戸のカラス戸で、唯一、両脇間一間が花頭風の窓になっていて仏堂を感じさせるが、ガラス窓なので少々味気ない。
本堂前に墓所を背にして、地蔵菩薩像と札所碑を従えた小さな大師堂がある。 向拝柱に「第七十九番」の札が掛かっているのでここが新四国相馬霊場八十八カ所79番の札所なのだろう。

△寄棟造銅板葺の本堂....建立年不詳、本尊阿弥陀如来像と脇侍の十一面観音像と地蔵菩薩像を祀る

△正面五間で、中央間は上部に連子入り格狭間を配した両折両開きの桟唐戸....内側の腰高ガラス戸にも格狭間を入れている

△脇間三間の二間は腰高ガラス戸の引き戸、一間は花頭風の窓....頭貫の上は漆喰塗の小壁

△軒廻りは一軒疎垂木、組物は柱上に舟肘木

△向拝は二軒繁垂木、水引虹梁に雲と波のような文様を入れた板蟇股

△水引虹梁に獅子と象の木鼻

△正面の大棟から向拝にかけての屋根のフォルムが美しい....側面八間の内の六間は漆喰塗の小壁と格子を入れたガラス戸の引き戸....周囲に切目縁を巡らす

△本堂前に建つ大師堂七十九番と鎮座する数体の地蔵石仏

△墓所を背にし参詣者を迎えるように鎮座する六地蔵尊像....円光を背負い、赤い前垂れをしている

△大師堂七十九番と霊場石柱そして地蔵尊像が並ぶ

△右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵尊石仏/兜巾型石柱の刻字は「新四國第七....」と読めるので、新四国相馬霊場八十八カ所79番碑とみられる

△入母屋造鋼板葺で妻入の簡素な大師堂....妻飾は豕首/虹梁や木鼻や裏甲などに木製の千社札が釘付けされている

△寄棟造桟瓦藁の客殿

△切妻造桟瓦葺で裳腰を設けた庫裡

△左奥に寄棟造桟瓦葺きの建物が連なる








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来迎院-(2) (龍ケ崎)

2023年05月07日 | 寺社巡り-茨城

【茨城・龍ケ崎市】江戸時代に入り寛永八年(1631)に玄幸により再興された。 その後、寛永二年(1625)創建の天台宗上野寛永寺の庇護をうけ、寛政三年(1791)、寛永寺から二百両を拝領して本堂や庫裏など堂宇が再建された。 正式名は箱根山宝塔寺来迎院と号する。

■本堂前の参道脇に「南無千手観世音菩薩」「南無延命地蔵菩薩」など数本の赤い幟がたなびき、石造りの観音菩薩や地蔵菩薩など数躯の仏像が鎮座している。 注目したのは、前に四方仏形の飾手水鉢を置いた「身代わり洗い観音菩薩立像」と、参拝者の願いを聞こうとして右の大きな手の平を耳に当てた「願かけ地蔵尊坐像」だ。
本堂に向かって左手にインドの故事とみられる線刻が施された大きな台座があり、上に地蔵尊像と地蔵尊を見守るように2頭の龍像が鎮座している。

△南東に面して建つ入母屋造本瓦風銅板葺の本堂....堂前参道に「南無千手観世音菩薩」「南無観世音菩薩」「南無延命地蔵菩薩」の幟がはためく

△正面は三間で、中央間は上に欄間を設けた腰高格子戸、両脇間は腰高格子窓

△水引虹梁の中央上に2つの斗を頂き、脚間に菊紋を配した蟇股/向拝の面取り柱に2頭の獅子の木鼻は掛鼻のようだ

△軒廻りは一軒繁垂木、組物は平三ツ斗、中備なし....正面と側面に擬宝珠高欄付き切目縁

△石燈籠越しに眺めた本堂の正面/向拝の軒から下がる鎖樋と蓮の花を模した天水桶

△本堂前に鎮座する地蔵尊像と宝冠を頂く2体の観世音菩薩/左手に未開蓮を持ち、化仏(阿弥陀如来坐像)を配した宝冠を頂く聖観世音菩薩立像

△像前に四方仏形の飾手水鉢を置いて鎮座する「身代わり洗い観音菩薩立像」/数珠を持ち蓮華座に鎮座する「願かけ地蔵尊坐像」

△本堂に向かって左手前に鎮座する地蔵尊像と2頭の龍像/地蔵尊像の大きな台座にインド風の線刻がある....インドの故事に由来するものか?

△地蔵尊像の後方に大きな石燈籠が立ち、丹塗の涅槃堂が建つ

△合掌する地蔵尊像と地蔵像を見守る2頭の龍像

■台座の後方に大きな石燈籠があり、自然石の特徴を残した加工にて造られている。 石燈籠の右隣に一間四方の涅槃堂が建つが、屋根を支える柱に転びがあってかなり珍しい。 境内の北東側の山裾に弁財天と稲荷大明神を祀る石祠があり、古そうな四方仏形の飾手水鉢を介して赤い帽子を被った子育地蔵尊と9躯の舟光背型水子地蔵尊が立ち並んでいる。 墓所を背にした簡素な仏堂に「南無阿弥陀仏」の襷をした尊名不詳の3躯の仏像、そして不動明王立像が鎮座。
また、その右手に変形の二重式宝篋印塔2基が立ち、1基には「来迎院寺子屋発祥の碑」とあり、案内板によると「寛政六年(1794)、15世住持秀瑞大和尚が子供たちに読み書きやソロバンを教え始めたのが始まり」で、碑の下に貴重な教材が納められているとあり……教材をあれこれ想像しながら来迎院を後にした。

△自然石の特徴を残した加工にて造立された石燈籠/切妻造銅板葺の涅槃堂....一間四方で転びのある柱で屋根を支えている

△境内の山手側に建つ入母屋造柿葺(と思う)の鐘楼

△二軒繁垂木で大棟端に鳥衾を乗せ菊紋を配した鬼板、拝に蕪懸魚、妻飾は狐格子....格天井から梵鐘が下がる

△山裾の境内の隅に鎮座する左から弁財天、稲荷大明神、子育地蔵、水子地蔵

△右は稲荷大明神、左は弁財天の石祠      四方仏形の飾手水鉢

△切妻造銅板葺の御堂に鎮座する赤い帽子をかぶった3体の坐像....いずれも南無阿弥陀佛と書された数本のタスキを掛けしている/不動明王立像

△「来迎院寺子屋発祥の碑」(右の仏塔)....案内板に「寛政六年(1794)、15世住持秀瑞大和尚が子供たちに読み書きやソロバンを教え始めたのが始まり」とあり碑の下に貴重な教材が納められている

△2基の二重式篋印塔....左は一部後補、右も後補で幾つかの異なる石塔の一部を寄せ集め組合せ積み上げたものと思う/簡素な造りの雪見燈籠風の石燈籠

△本堂前左手は庫裏だが、多宝塔が建つ古刹を感じさせる境内では違和感を感じる

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来迎院-(1) (龍ケ崎)

2023年05月01日 | 寺社巡り-茨城

【茨城・龍ケ崎市】室町時代後期の永正十四年(1517)、常陸国河内郡小野村(稲敷市小野)の逢善寺の末寺として同郡馴馬村に建てられた草庵が始まりとされる。
弘治二年(1556)に比叡山延暦寺の僧覚仙が伽藍を建立して中興し、大旦那となった常陸江戸崎城の城主土岐治英により多宝塔の造営など境内が整えられた。 その後も土岐氏から庇護されたとみられるが、安土桃山時代天正十八(1590)の豊臣秀吉による小田原の役(小田原征伐)の際、土岐氏は小田原北条氏に従ったため、没落した。 宗旨は天台宗で、本尊は阿弥陀如来立像。

■関東鉄道龍ヶ崎駅から薄雲が広がる青空を見上げながら歩くこと約20分、開放的な門前に着くと、境内に聳え立つ多宝塔が目に飛び込む。 参道脇に鎮座して参詣者を迎える六地蔵尊像など風化の激しい石仏群に合掌して多宝塔に。 石仏群の向かいの参道脇に屹立する多宝塔は、荘厳さが漂いどっしりとした重量感がある。 室町後期の創建だが、古色蒼然たる佇まいで当時のままの姿のように感じられる。 約470年前からこの地で静かに世の変遷を見続けてきたのだと思うと感慨深い。

△門前から眺めた境内....境内参道の両側が墓所で、参道脇に石仏群と多宝塔が鎮座し、少し奥の参道に仁王門が建つ

△参道脇に佇む石仏群越しに眺めた多宝塔と仁王門

△参道脇に鎮座する古そうな舟光背型石仏群....風化や磨滅が進んでいるため一部の尊名しか分からず、また、造立年代も不詳

△参道脇に鎮座する舟光背型石仏群と赤い帽子と前垂れをした古そうな丸彫りの六地蔵尊像/仁王門手前の参道脇に鎮座する新しい六地蔵尊像越しに眺めた仁王門

△境内参道脇に建つ多宝塔....関東以北では現存する最古の多宝塔

△室町後期建立の杮葺の多宝塔(重文)....室町時代弘治二年(1556)に改修が行われた....塔高は約13メートル

△裳腰の下層中央間は桟唐戸、両脇間は板壁で欅材一枚の板....周囲に切目縁を巡らす

△下層の組物は出組、中備は中央間のみ束のない間斗束、軒支輪がある....下層内部は後方寄りに来迎柱を立て、須弥壇を設けている

△軒廻りは上層・下層いずれも二軒繁垂木

△上層の円形塔身に円形の切目縁を巡らし、腰組は出組

△上層の組物は四手目が尾垂木の四手先で、深い軒出を支えている

△宝形造り屋根に鉄製の相輪をおき、頂部の三花輪(3段の花輪)から四方に宝鎖、上下層の軒四隅に金属性の風(宝)鐸が下がる/上下層の連結部に白色漆喰の亀腹(饅頭形)がある

■多宝塔の背後に、入滅のお姿の寝釈迦仏が多宝塔を向いて横たえている。 安らかなお顔の涅槃像に参拝してから山門に向かう。 境内参道の途中に建つ朱塗りの山門は、側面に腰壁があるだけの吹き放しの四脚門。 狭い戸口の両側に阿形吽形の金剛力士像が鎮座して参詣者を迎えている。 真ん中に通行止めが置かれているので、山門の脇を通って本堂に向かう。

△多宝塔の後方で多宝塔に向かって鎮座する涅槃像

△入滅の姿を描いた寝釈迦撫仏像....「帰命頂礼釈迦如来」

△涅槃に入った安らかなお顔の釈迦尊....全ての欲求から解放され、完全に悟りの世界に旅立った姿

△境内参道の途中に建つ山門

△切妻造銅板葺の山門(仁王門)

△軒廻りは二軒繁垂木....控柱間の虹梁の中央上に出三ツ斗、親柱間の虹梁の中央上に植物の彫刻を配した蟇股を置く

△親柱は丸柱、控柱は面取り角柱....側面腰部は板張り/梁の上に左右に装飾文様を配した大瓶束が棟木を支えている....拝に猪ノ目懸魚

△左の吽形像は密迹金剛力士           右の阿形像は那羅延金剛力士
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楽法寺-(4) (桜川)

2022年11月07日 | 寺社巡り-茨城

【茨城・桜川市】室町初期の建武年間(1334~1338)、初代将軍・足利尊氏の崇敬を受けて316貫文が寄進されて再興したとされる。 江戸時代の慶長十八年(1613)、第十世宥円が駿府城で徳川家康に謁見し、台命(家康の命令)により各宗派の学僧と対論し、法論に勝ったことで家康より賞詞を受け、更に寺領として朱印百五十石を賜った。
寛永二年(1625)、宥円が徳川家康報恩のために建立した東照大権現の祠堂があったが、享保十二年(1727)、山王大権現を合祀して東照山王権現社として再建された。 慶安元年(1648)には三代将軍徳川家光から150石の扶持が寄進され、真言宗新義門流関東談林として十万石の格式が与えられた。 江戸中期に豪商の紀伊国屋文左衛門が参詣し、商売繁盛と海上安全を祈願した。

●奥の院から境内東側に鎮座する東照山王権現社に向かう。 石段右手に御供所が建ち、中には瞑想する僧侶坐像が鎮座して参詣者を迎えている。 観音堂の右隣りに階段左右に九重石塔を構えた窓の無い保管庫が建ち、正面の鉄扉の前に鎮座する宝冠を頂いた延命観世音菩薩立像が宝物を護っている。

△絵馬堂の前から眺めた堂宇境内....右は観音堂(本堂)、左は御供所、奥に多宝塔、鬼子母神堂、奥の院(客殿)などが建ち並ぶ

△切妻造桟瓦葺で吹き放しの裳腰や入口に庇を設けた御供所....安政年間(1854~1860)の建立で、江戸時代の楼閣として特色のある建物

△大棟端に鳥衾を乗せた鬼板、拝は蕪懸魚、妻飾は二重虹梁蟇股(と思う)/供所内に鎮座する歴代住持の一人(と思う)の坐像

△入母屋造桟瓦葺の絵馬堂....昭和九年(1934)、第29世聖衡による建立.... 堂内天井に大小の絵馬数十枚が飾ってある

△観音堂の右隣に建つ切妻造鋼板葺の保管庫....「秘仏・延命観世音菩薩」を安置・保管....扉の前に石造延命観世音立像が置かれ、左右に九重石塔を構え,ている

△保管庫の鉄扉の前に鎮座する天衣を纏った延命観世音菩薩立像(聖観音菩薩像)

△延命観世音菩薩立像は化仏を入れた宝冠を頂き、左手に未開連を持つ/経蔵の階段の左右に佇む九重石塔....初層軸部に四角に輪郭を巻いて中に花(牡丹)が浮彫りされている

●千鳥破風を乗せた軒反りの強い屋根の東照山王権現社が目を引く。 約300年前に再建された一間四方の荘厳な社で、規模は小さいが華やかな細部意匠を有していて見応えがある。 組物も手が込んでいる。 二手目と三手目が尾垂木の三手先で、詰組の両側に鮮やかに彩色された鳥の彫刻を配している。 何よりも興味深かったのが正面の入口の扉で、狭い一間の中に三つ葉葵の紋を配した2つの桟唐戸がある。 一間に2つの扉があるお社を初めて見たが、多分珍しいと思う。

△入母屋造銅板葺の東照山王権現社殿....享保十二年(1727)の再建で、東照大権現と山王大権現を祀る

△元々境内には寛永二年(1625)建立の東照大権現祠が鎮座....享保十二年の再建時に山王権現を合祀した

△軒反りの強い入母屋造屋根に屋根付き鬼板を乗せた千鳥破風を設け、向拝に軒唐破風を設けている

△小振りながらも極彩色に彩られた一間四方造りの東照山王権現社殿

△軒廻りは二軒繁垂木で、垂木先端に金具を打つ、組物は二手目と三手目が尾垂木の三手先、組物間に三手先の詰組(拝と妻飾は失念)

△装飾金具を打った長押上の組物間に三つ葉葵と右三つ巴の紋をいれ、台輪上の組物間に彩色された鳥の彫刻を配す....側縁奥に卍を入れた板張りの脇障子

△東照大権現と山王権現を祀ったため、正面入口に2つの扉が設けられ、扉は三つ葉葵紋を配した桟唐戸/組高欄付き回縁を設け、回縁を支える腰組は三手先....向拝柱の上下部に装飾金具が施されている

△裏参道から眺めた仁王門と手水舎

△堂宇境内の石垣は高さ13メートル、横幅約70メートル、参道に沿う石垣を含めると約200メートルに及ぶらしい....石垣の上から裏参道に覆いかぶさるシイノキの巨木

△南側駐車場から眺めた仁王門と高さ13メートルの石垣の上に建つ御供所




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楽法寺-(3) (桜川)

2022年11月01日 | 寺社巡り-茨城

【茨城・桜川市】平安時代初期、嵯峨天皇の御代の弘仁十二年(821)の夏に大旱魃に見舞われた時、天皇自ら写経・奉納により雨乞いをしたところ霊験があり、国中が大雨に潤って五穀が実ったことから、勅命により楽法寺の山号を「雨引山」と定め勅額を下した。
鎌倉時代の建長六年(1254)、第六代将軍・宗尊親王が300貫文を寄進し、観音堂・多宝塔(当時は三重塔)・仁王門・鐘楼堂・上動堂・地蔵堂・御供所・客殿の七堂伽藍が再建された。

●多宝塔の左手の石段を上っていくと、大きな木々を背にして聖見堂が建つ。 楽法寺のHPでは、聖見堂の本尊は足利将軍尊氏寄進の大日如来と記されているが、堂前に辨才天女尊像が鎮座し、案内板の「大辨才天女尊の霊験」には「聖見堂には主尊として大辨才天女を奉祀」とあり、混乱した。
振り返えって境内を眺めると、多宝塔に隠れるように南方に筑波山が見える。 石段を下って弁天池の前に鎮座する丹塗りの鬼子母神堂に....床下を含め身舎の側面と背面に鮮やかな彩色彫刻が施されていて華やかだ。

△多宝塔の西側・弁天池の上方に建つ聖見堂....室町様式の建造物

△宝形造銅板葺の聖見堂....平成七年(1995)の建立で、楽法寺のHPでは「本尊は建武年中に足利将軍尊氏寄進の大日如来」とあるが、堂前の案内板には主尊大辨才天女尊と記されている

△室町様式の建造物で、軒廻りは一軒繁垂木....三間四方で中央間は格子戸、脇間は白壁の小脇羽目、内法長押上は白壁の小壁

△堂前の小さな池の脇に鎮座する大辨才天女尊の霊像/正面中央間に「聖見堂」の扁額

△聖見堂から眺めた多宝塔の白色漆喰の亀腹

△南側の遠方に見えるのは筑波山(らしい)

△放生地とみられる池越しに眺めた多宝塔    池の中に佇む琴柱燈籠

△池の傍に鎮座する鬼子母神堂越しに眺めた多宝塔

△流造鉄板葺の鬼子母神堂....建武二年(1335)、京都進攻にあたって開運祈願した足利尊氏が御所権現として祀られている

△丹塗りの鬼子母神堂の各部に彩色彫刻が配されている....向拝虹梁上や身舎の妻飾、貫上、小脇羽目、側壁,脇障子、床下等

△拝に三つ花懸魚、妻飾りは鳳凰彫刻に隠れていて分からず....側面いっぱいに獅子、床下に彫刻され持ち送りがあり亀の彫刻/向拝の虹梁上に向き合う2頭の龍の彫刻....観音開きの黒塗りの扉に足利尊氏の家紋「足利二つ引き」を配す(大棟の鬼板にも)

△鬼子母神堂の背面に相撲力士の彩色彫刻が施されている....後方の池(弁天池?)で子供たちがアヒルに餌をやっている

●鬼子母神堂にほぼ向かい合うように、徳川吉宗公寄進の薬師如来を安置している六角堂が建つ。 堂内を覗くと、中央に置かれた厨子に如来立像が鎮座....しかし、薬壺を持っていない。 よく見ると、厨子の後方に円光の一部が見えるので、厨子後方に本尊が鎮座し、厨子内の立像はお前立では....と勝手に想像してみた。
境内の西側には、高床式の渡り廊下で繋がった客殿の奥の院、本坊そして日華殿が建ち並んでいる....が、こちらの堂宇を拝観する参詣者は少ないようだ。

△六注造銅板葺で鉄筋コンクリート製の六角堂....絵馬堂の右隣りに建ち、周囲に木造の擬宝珠高欄付き縁を巡らす

△本尊の薬師如来像は、享保八年(1723)徳川八代将軍吉宗公が養女竹姫の眼病平癒祈願のため仏師円哲に彫刻させたもの....厨子後方に円光が見えるので薬師如来像は厨子の後方に鎮座しているとみられる

△六角堂に鎮座する不動明王像....室町時代の永享十年(1438)、将軍足利義教公が関東鎮護の本尊として謹刻させて納めたもの/厨子の中に鎮座する薬壺を持たない如来立像はお前立の薬師如来か?

△境内の西側に建ち並ぶ堂宇は奥の院(右)と本坊(左)....奥の院の西側の旧書院跡地に日華殿が建つ

△入母屋造本瓦葺で鉄筋コンクリート製の本坊....平成二十三年(2011)竣工

△奥の院の東側に連なる寄棟造桟瓦葺で白壁の建物は、文政三年(1820)に笠間城主が城内にあった書院を移築寄進したものか?

△奥の院(客殿)と前庭に鎮座する千手観世音菩薩像....奥の院の創建は鎌倉時代の建長六年(1254)

△寄棟造桟瓦葺の奥の院(客殿)....寛政四年(1792)、幕府旗本鈴木氏による再建(現存)....入り口の柱に「雨引山客殿」の木札がさがる

△奥の院の左脇間に庇を設け白壁に3つの花頭窓を設けた建物は勝手口か?

△奥の院と日華殿と本坊を繋ぐ高床式で吹き放しの渡り廊下

△日華殿境内との仕切り門のように、渡り廊下と兼ねて建つ唐破風屋根の門/奥の院の前庭の参道脇を流れる小川


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楽法寺-(2) (桜川)

2022年10月26日 | 寺社巡り-茨城

【茨城・桜川市】奈良時代の天平二年(730)、第45代聖武天皇と光明皇后が法華経を書写・奉納して安産を祈念したところ効験があったので、安産祈願の根本道場と定めて勅願寺とし、三重塔を建立した。 その後、弘法大師空海によって真言宗の道場となった。 楽法寺は坂東三十三カ所観音霊場第24番札所及び東国花の寺百ヶ寺茨城6番札所で、雨引観音とも称される。

●仁王門の後方の裏参道と交わる処に手水舎が建つ。 そこから更に石垣上の堂宇境内への石段があり、上り口に太い竿の重厚な石燈籠が立つ。 石段を上りつめると直ぐ前に本堂の観音堂が建ち、賽銭箱が置かれている向拝の垂木に3つの鰐口と2つの鈴が吊り下げられている。
観音堂の外観を見ると、鮮やかに彩色され彫刻があちこちに配されている。 堂内の彫刻を含め全て江戸中期の仏師・人無関堂円哲が刻んだものとのことで、特に全ての垂木の先端に施された龍頭そして中備の蟇股の脚間に配された彫刻が目を引いた。

.△仁王門の後方に建つ手水舎....右手奥は裏参道

△切妻造銅板葺の手水舎....手水鉢は宝暦十二年(1762)の造立

△手水舎の手水鉢の水口は3つ爪の龍像/仁王門から石垣の上の堂塔境内への石段....上り口の両脇に立つ重厚な石燈籠は享保十八年(1733)の造立

石段から眺めた観音堂(本堂)

△入母屋造行基瓦葺の観音堂(本堂)....天和二年(1682)第十七世文昭による再建(現存)....創建や当初の本堂については不詳で、本尊・延命観音を安置

△常香炉越しに眺めた観音堂....五間四方で正面二軒が中央間、両脇間は格子窓と彫刻

△垂木から吊り下がる3つの鰐口と2つの鈴....水引虹梁を支える持送りは花の装飾彫刻、水引虹梁の上の彫刻は失念

△中央間に両折両開の桟唐戸、二間の脇間には蔀戸(と思う)と装飾彫刻....向拝桁端に猪ノ目懸魚

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は三手目が彩色龍頭を施した尾垂木の三手先、中備は脚間に故事に因んだ彩色彫刻を配した蟇股....軒天井と蛇腹支輪がある

△大棟端に獅子口、拝に蕪懸魚、妻飾は混成複合式....破風に金色の飾り金具を配している

△彩色された牡丹彫刻を施した手挟、彩色された木鼻は獅子(と思う)/全ての尾垂木の先端に彩色された龍頭を施している

△観音堂左右...左側には仏陀、右側には閻魔大王が彫られている(極楽と地獄を描いたレリーフ風)....観音堂の中にも彫刻が配され、堂内外の彫刻はいずれも江戸中期の仏師・人無関堂円哲の手によるもの

△側面には彫刻と舞良戸風の引き戸を設けている

●観音堂の左隣に宝形造りの御堂、その左隣に多宝塔が燦燦と陽を浴びで建ち並んでいる。 宝形造りの御堂は、境内図に描かれているものの何故か堂名の表記がない。 祈祷を受ける方々がさかんに出入りしていたので控えの建物と思うのだが....なお、Googleの地図には「阿弥陀堂」と記されている。
多宝塔は堂々たる佇まいで優雅さを感じさせる。 現在の多宝塔は江戸後期の再建だが、元々ここには鎌倉時代建立の三重塔が建っていたとのこと。 三重塔を再建する予定だったものが何故多宝塔に変わったのか調べたが....。

△観音堂から眺めた高さ22メートルの多宝塔

△観音堂と多宝塔との間に建つ宝形造りの御堂(子授観音を祀っているようだが)....境内図に描かれているが堂名の表記がない

△祈祷を受けると思われる人たちが出入りしていたので控えのための建物か....Google地図では阿弥陀堂と記されている

△多宝塔前に鎮座する聖徳明福知観世音菩薩像....昭和四十七年(1968)の造立

△印起を記した石碑には、50余年に亘って警防&消防に尽力された方の造建で「明治百年の佳き日」と刻まれている

△燦燦と陽を浴びる南面で建つ堂宇....観音堂(本堂)、客殿(と思う)、擬宝珠高欄付き回縁を設けた多宝塔

△銅板瓦葺の多宝塔....創建時は三重塔だったが、江戸時代嘉永六年(1853)に24世元盛が多宝塔として再建....塔内に四天柱・来迎壁があり、弥壇に金剛界五仏・大師像等を安置

△軒廻りは上層が二軒扇垂木、下層(裳腰)は二軒繁垂木....下層屋根上に白漆喰の亀腹

△上層の組物は三手目が尾垂木の三手先....回縁を支える腰組は出組

△下層の組物は上層と同じで、三手目が尾垂木の三手先....軒に小組格天井を張り、支輪位置に支輪ではなく彫刻が施されている

△下層中央間の貫上の中備は蟇股風彫刻....中央間は格狭間を入れた桟唐戸、脇間は連子子幅が広い腰高連子窓

△多宝塔は鎌倉時代の建長六年(1254)に将軍宗尊親王により建立された三重塔に始まる/その後大破し、第14世堯長による再建が始まったが住職の逝去や災などで二重の塔までしか完成せず、第15世堯宗が江戸時代の天和三年(1683)に落慶させた






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楽法寺-(1) (桜川)

2022年10月20日 | 寺社巡り-茨城

【茨城・桜川市】寺伝によると、聖徳太子の父の用明天皇(記紀で第31代)の御代の用明天皇二年(587)、中国(梁)から帰化した法輪独守居士によって雨引山に開創されたとされる古刹。 以後、推古天皇(第33代)、聖武天皇(第45代)、嵯峨天皇(第52代)の三天皇の尊崇を受けた。 推古天皇は、本尊仏の観世音菩薩に自身の病気平癒を祈願して治癒したことから、楽法寺を勅願寺と定めた。
宗旨は真言宗(豊山派)で、本尊は観音菩薩((寺伝)延命観世音菩薩)。 厄除延命安産子育の霊験あらたかな秘仏の観世音菩薩は一木造りで、平安時代弘仁期(810~824)作とされる。

●旧城門だった黒塗りの黒門をくぐり、「磴道」と呼ばれる145段の大石段を上って行くと、右手に華麗な袴腰の鐘楼堂が現れる。 三手先の組物や腰組、下見板張の羽目など趣のある鐘楼だ。 仁王門手前の石段の左手の木立の中に地蔵堂がひっそりと建つが、荘厳な仁王門に目を奪われて素通りする参詣者が多いようだ。 後で知ったのだが、大石段は「厄除けの階段」と呼ばれていて、一段一段「南無観世音菩薩」を唱えながら上りつめた時に厄が落ちるのだそうだ…が失念した。

△山道に面して表参道の入り口に建つ黒門

△門前に立つ「雨引山楽法寺」と彫られた寺号標石/門前の山道脇に佇む石燈籠

△切妻造本瓦葺の黒門....安土桃山時代の建立で、平安末期にここから南6kmの位置に築城された旧真壁城の大手門(関ヶ原の戦(1600)以前の真壁城の城門)を移築(伝)

△拝の蕪懸魚、梁上の蟇股、木鼻などに胡粉を塗っている

△石段側から眺めた薬医門の黒門/薬医門から仁王門まで続く石段は「磴道」といい145段ある....文政四年(1821)から1年2か月の歳月を費やして造営....「厄除けの石段」といわれる

△磴道から眺めた右手の袴腰を設けた鐘楼堂

△入母屋造桟瓦葺の袴腰鐘楼堂....鎌倉時代建長六年(1254)の創建で、江戸時代の天和二年(1682)の再建....現在の鐘楼は文政十三年(1830)第24世元盛による再建

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手先、軒天井があり支輪の位置に波のような彫刻を施している

△基壇上に建つ鐘楼堂の袴腰は下見板張の羽目板/袴腰上の回縁は組高欄を設けた切目縁、腰組は出組(と思う)

△鐘楼堂越しに眺めた仁王門....仁王門は磴道を上りつめた所に建つ

△磴道を上りつめる少し手間から眺めた堂宇....左手の石柱が建ち並ぶ敷地に地蔵堂が鎮座

●地蔵堂の中央間と脇障子とに、故事に因むとみられる透かし彫りの彫刻が施されていて興味を引いた。 左側の脇障子には鹿を従えた寿老人とみられる老人、右側には寿老人と同体とされる福禄寿らしき老人が彫られている。
大石段を上りつめると朱塗りの仁王門が建つ。 両側に仏敵の侵入を防ぐ仁王像が鋭い眼光で鎮座し、力強い筋肉美を見せつけがら参詣者を迎えている。 仁王門は組物や斗きょうなど全てに彩色が施され、また周囲の頭貫の上には鮮やかに彩色された鳥や花などの彫刻が配されていて壮麗だ。

△宝形造桟瓦葺の地蔵堂....鎌倉時代の建長六年(1254)、鎌倉幕府第6代将軍宗尊親王による創建....現在の御堂は文政十三年(1830)の再々建....本尊地蔵菩薩(子安地蔵)は江戸時代正徳五年(1715)、仏師無関堂円哲の作

△三間四方で、正面三間の中央間は小さな覗き窓を設けた腰高格子戸、脇間は板張りの小脇羽目....中央間の梁の上に浮彫りの彫刻がある

△中央間の唐草文様を入れた梁上の浮彫彫刻は故事に由来するものと思う

△軒廻りは一軒繁垂木、丸桁を支える組物は虹梁鼻がある平三斗....正面中央に1つ、側面に2つの詰組を配す

△側縁の奥にある脇障子....左側の透かし彫りの彫刻は長寿と自然との調和のシンボルである鹿を従えている中国神仙の寿老人(と思う)/右側は堂内を覗く姿の福禄寿(と思う)....福禄寿は寿老人と同体とされる

△側面に引き戸式の板扉....正面と側面に切目縁

△磴道を上りつめた参道に建つ上層に高欄を巡らした楼門形式の仁王門

△入母屋造本瓦葺の仁王門....創建は鎌倉時代建長六年(1254)宗尊親王による創建で、江戸初期の寛永五年(1628)に14世堯長による再建

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は三手目を尾垂木とした三手先....蛇腹支輪と軒天井がある

△上層は中央間に格狭間を入れた桟唐戸と左右に連子窓....下層の頭貫の上の彩色された鳥類の彫刻装飾は宝永元年(1704)作

△上層に「雨引山」の扁額....中央通路に天井画、極彩色に装飾された梁、そして柱に白象の木鼻/上層の組高欄付き回縁は切目縁で、支える腰組は三手先....礎盤の上に立つ柱は全て丸柱で、柱脚部に粽を施している

△仁王門の左右に鎮座する金剛力士像(仁王像)....鎌倉時代の仏師康慶の作、平成三十年度から修理が行われた/像内から見つかった修理銘札から、約500年前の永正年間(1510年代頃)に修理が行われた

.△中央通路の鏡天井に画かれた「竜と天女の絵」(徳善書の署名あり)

△仁王門の脇には城壁を思わせる乱積の巨大な石垣がそびえ、上に堂宇が建つ....石垣は高さ13m、横幅約70m
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佐竹寺-(2) (常陸太田)

2022年04月26日 | 寺社巡り-茨城

【茨城・常陸太田市】戦国時代の天文十二年(1543)、兵火により全山を焼失するが、同十五年(1546)に佐竹氏18代佐竹義昭が居城である佐竹城(太田城)の裏鬼門除けとして現在地に再建した。 安土桃山時代の天正十八年(1590)には六支院と3ヶ坊を要する大寺として隆盛を極めたが、関ヶ原の合戦で反徳川方となった佐竹氏は江戸初期の慶長七年(1602)に出羽に移封されたため、佐竹寺も次第に衰退した。
江戸時代には水戸藩から寺領の寄進など庇護され、坂東三十三観音霊場22番札所だったことと、江戸中期に選定された領内(水戸藩)三十三観音霊場第11番札所だったことなどから広く信仰を集めた。 明治維新の神仏判然令により吹き荒れた廃仏毀釈運動により荒廃し、昭和二十四年(1949)まで無住寺だったが再興された。

●どこまでが「撮影禁止」なのかを確かめたかったが、早朝の訪問だったせいか仁王門傍に建つ寺務所兼納経所はまだ開いていなかった。 開放的な境内なので「10メートル以上離れた所からの撮影なら許されるだろう」と勝手に決めて、拝観しながら撮影を行った。 本堂の周りに板柵が巡らされているが、「撮影禁止」の標識とあいまって、人が近づくのを拒んでいるように思えたのは考え過ぎか。
約480年前の室町時代に建立された「観音堂」と呼ばれる桃山建築様式の本堂は、苔生した小棟造りの茅葺屋根で古色蒼然たる佇まいだ。 しかし、特に屋根の傷みがかなり進んでいて、中央が波打つように歪み、軒先の線が乱れ、隅降棟の茅の一部が剥がれている。 身舎四方に杮葺の裳腰を設けて吹き放しの板縁とし、正面の裳腰に一間の唐破風の向拝があり、しみじみとした味わいを感じさせる。

△銀杏の巨木から散り落ちた黄色い葉の絨毯から眺めた本堂(観音堂という)

△境内のほぼ中央に枝を広げて聳え立つ銀杏の古木....周囲に散り落ちた黄色い葉が鮮やかな絨毯のようだ

△寄棟造茅葺で杮葺の裳腰を設けた本堂(重文)....室町時代の天文十五年(1546)、佐竹義昭による再建

△豪壮な構えだが荘厳な佇まいの本堂(観音堂).....桃山時代建築物の先駆といえる遺構を残している

△苔生した屋根は傷みが進んでいるようで、中央が波打つように歪んで軒先の線が乱れ、右側の隅降棟の上部の茅が一部剥がれている

△桁行五間梁間五間で、身舎四方に杮葺の裳腰を設けて吹き放しの板縁、正面の裳腰中央に一間の杮葺唐破風の向拝

●本堂に近づいて驚いた。 正面の至る所に貼られた千社札だ。 最初は何かの模様か意匠かなと思ったが、よく見ると、身舎の壁、柱、貫、窓そして向拝天井、虹梁など所狭しと張られているのだ。 また、趣のある桟唐戸に「撮影禁止」の標識が貼られているが、どちらも趣のある古建築の風情を大きく損ねていて残念だった。 いままで多くの国宝や国指定重要文化財の建造物を拝観してきたが、多くは堂内の撮影禁止はあっても外観はOKなので、本堂の「撮影禁止」には失望した。 確か、鎌倉の某寺では本堂どころか境内さえ撮影禁止だったと記憶してはいるが....。
帰宅後、ネットで「佐竹寺」について調べたら、理由は分からないが2018年~2019年の間に「撮影禁止」となったようだ。 茅葺屋根の本堂は今年(令和四年)改修が行われるそうだが、萎びた風情を色濃く残す改修前の本堂の姿が見られてラッキーだった。

△境内参道から望遠で撮影した裳腰に設けられた裳腰の唐破風....身舎正面の中央間三間は桟唐戸、両側に花頭窓....中央の桟唐戸は連子と格子入り、その両脇は連子入り(所狭しと千社札が貼られている)

△軒廻りは一軒疎垂木、組物は出組で中備は台輪の上に蓑束....四方の杮葺裳腰は吹き放しの造り

△境内の紅葉が本堂の荘厳さを引き立てている

.△放生地越しに眺めた苔生した茅葺小棟屋根の本堂

△本堂は傷みが激しいため、今年(令和四年)に改修が行われるようだ

△仁王門の傍に建つ切妻造桟瓦葺の寺務所兼納経所....帰路に就く間際に人影が見えた

△社務所の左側の源氏塀(と思う)の奥に建つ切妻造桟瓦葺の庫裡

△庫裡前から眺めた源氏塀、寺務所(納経所)そして仁王門

△門前の駐車場から眺めた庫裡....切妻造銅板葺で起り屋根の棟門を設けた源氏塀に囲まれている
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佐竹寺-(1) (常陸太田)

2022年04月20日 | 寺社巡り-茨城

【茨城・常陸太田市】平安時代の寛和元年(985)、花山天皇(第65代)の勅願で、天皇が護持していた聖徳太子作の十一面観音像を与えられた元密上人が開山したとされる。 創建当時は観音寺と呼ばれ、現在地より西北西に約700メートル離れた鶴ヶ池の北に位置する洞崎の観音山に建てられた。
元密上人は、花山天皇の板東巡礼に随行した一行八人の中の一人。平安時代の保延六年(1140)、観賢上人に帰依した初代佐竹昌義(鎌倉幕府第2代将軍源頼家の子源義光の孫)が佐竹寺を代々の祈願所と定め、寺領300貫を寄進するなど庇護した。 宗旨は真言宗(豊山派)で、本尊は十一面観音菩薩像。 坂東三十三観音霊場二十二番札所。

●11月後半の早朝、JR常陸太田駅からタクシーで佐竹寺に向かうと、7~8分ほどで県道61号線に沿って建つ佐竹寺の門前に着く。 朝陽を燦燦と浴びている仁王門が建ち、仁王門を通して本堂向拝が小さく見える。 門前に上部に佐竹氏の家紋を入れ「坂東廿二番霊場 佐竹寺」と彫られた寺号標石が立ち、傍に明治~昭和期に造立された4基の馬頭観音石仏が鎮座している。
仁王門は古びた感じのする丹塗の身舎に新しい桟瓦葺屋根を乗せたようで、少々違和感がある。 門の左右に仏法を護る現代風の像容の仁王像が鎮座している。 後日、ネットで調べたら、平成期に修復されたとのことだが、修復前の像容とは大きく違っていて驚いた。 仁王門の上層に山号「妙福山」の扁額と佐竹氏の家紋「日の丸扇」が掲げられている。

△左側を走る県道61号線に沿って、鬼門の北東を向いて建つ仁王門と奥に本堂

△仁王門前に立つ佐竹氏の家紋を入れた大正四年(1915)造立の寺号標石と傍に鎮座する馬頭観音石仏が鎮座/寺号標石の上部に佐竹氏の家紋「日の丸扇」を入れ、「坂東廿二番霊場 佐竹寺」の刻

寺号標石の傍に鎮座する自然石を用いた大小4基の馬頭観音石仏

△左側の2基の馬頭観音石仏....後方は造立年不詳、手前は昭和十八年(1943)の造立/右側の2基の馬頭観音石仏....後方は明治三十六年(1903)の造立で「馬力神」の陰刻、手前は大正十一年(1922)の造立

△入母屋造桟瓦葺の仁王門(楼門)....江戸時代宝永五年(1708)の創建で、昭和十五年(1940)に再建された

△軒廻りは一軒疎垂木、組物は柱上の台輪に舟肘木が乗る、中備なし....下層左右の金剛柵の中に阿形吽形の仁王像が鎮座

△仁王像は宝永五年(1708)の造立だが、平成二十八年(2016)に修復されたようだ....修復前後の像容はかなり違う気がする

△修復前の仁王像(NETから拝借)....修復後とは頭部や体型など像容がかなり違うようだが….

△上層中央に「妙福山」の扁額と佐竹氏の家紋「日の丸扇」(金色の地)の扇が掲げられている/柱頂部に禅宗様式の粽が施されている

△大棟端に佐竹氏の家紋を入れた獅子口、拝は破損しているが蕪懸魚(と思う)、妻飾は目の粗い狐格子/上層周囲に擬宝珠高欄付き切目縁

△仁王門の背面に置かれた獅子口....「昭和壱拾五年 仁王門再建時の鬼瓦」とあるが、佐竹氏の家紋を入れた獅子口

●家紋を入れた暖簾が下がる仁王門をくぐって本堂に進むと、境内のほぼ中央に銀杏の古木が聳え、その周りに散り落ちた黄色い葉がまるで絨毯を敷いたようだ。
本堂に近づいて驚いた。 何と、堂前の柵と身舎の桟唐戸に「撮影禁止」の標識が貼られているのだ。 本堂を拝観する前に、まずは、本堂前の境内に鎮座する巡拝塔などを先に拝観した。

△佐竹氏の家紋を入れた暖簾が下がる仁王門を通して眺めた境内....本堂と手前に手水舎

△寄棟造茅葺の本堂を囲む板柵と身舎の桟唐戸に「撮影禁止」の標識が掲げられている

△境内参道脇に建つて簡素な手水舎....境内に石碑、石仏、稲荷神社などが鎮座している

△切妻造銅板葺の水屋(手水舎)....新型コロナが終息するまで水屋の使用中止とある/手水鉢は文政三年(1820)の造立

△本堂脇に鎮座する境内社の稲荷神社....切妻造桟瓦葺の覆屋の中に社殿がある

△紅葉のある参道に神明鳥居を構えた稲荷神社....左側に県道61号線が走っている/扉の連子窓から覗いた流造杮葺の稲荷神社社殿....多くの神使の狐に護られている

△境内に鎮座する浮彫りの布袋尊像....七福神の中で唯一中国で実在した僧侶また後世布袋尊は弥勒菩薩の化身といわれるようになった

△境内に鎮座する巡拝塔の六十六部供養塔....刻字の摩滅が激しいが「大乗妙典」「六十六部」など、そして宝暦の年号が確認できる

△いずれの巡拝塔も摩滅が激しく造立年が分からない/宝暦の造立とみられる巡拝塔
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小山寺-(3) (桜川)

2022年02月25日 | 寺社巡り-茨城

【茨城・桜川市】山形県寒河江市慈恩寺の大日如来坐像の胎内から発見された経文の奥書に「常陸国笠間郡小山寺、大檀那長門守藤原朝臣時朝」と記されていたことから、当時の笠間城の城主藤原時朝が弘長三年(1263)に木造大日如来坐像を小山寺に寄進したことが分かった(時朝寄進の大日如来像が小山寺から慈恩寺に移された)。 安土桃山時代、江戸時代の領主から二十石の御朱印を受け、明治維新まで寺勢が続いた。 地元では「富谷観音」の愛称で親しまれている。

●境内の西側に建つ三重塔に向かう。 本堂の左隣に水子地藏尊像が鎮座し、傍に「傳教大師報恩塔」と「出征軍馬〇〇」(供養塔と思う)、そして兜巾型石柱に「忠霊塔」と刻まれた3基の石碑が立つ。
「大杉」の傍に建つ鐘楼に。 鐘楼は基壇の上ではなく、地面に置いた切石の礎石の上に柱を立てて建てられた建築で珍しい。 また、格天井や妻飾などを設けていてなかなか味わいがある。
水子地藏尊像の西隣に百番札所を設けた赤い屋根の民家のような百観音堂が建ち、その左手に樹林に包まれるように古刹を感じさせる三重塔が建つ。 三重塔は室町時代の建立で趣があり、和様形式を基調として細部に禅宗様を加えた建築。 相輪が短く逓減率が小さい少し寸胴形だが、飾り気がないバランスのとれた塔で、古色蒼然たるたたずまいだ。

△本堂と百観音堂の間に鎮座する水子地蔵尊立像と縁結地蔵

△水子地藏尊の左側に立つ2基の石碑は「傳教大師報恩塔」(右)と「出征軍馬....」(供養塔と思)/水子地藏尊の右隣に立つ兜巾型石碑の「忠霊塔」....第二次大戦戦没冨谷区英霊と刻まれている

△切妻造桟瓦葺の鐘楼....享保十七年間(1732)の建立....四方転びの柱の上に枠肘木を置き切妻屋根をのせた形式

△鐘楼の傍に立つ石燈籠....太い角柱の竿と笠軒下に設けた二軒垂木が特徴/基壇の上ではなく、地面に直接切石の礎石を置き、礎石上に円柱を立てて建てられた鐘楼

△天井を設けているので塞がれた妻面があり装飾が施されている/鐘楼の真ん中の桁に下がる梵鐘....鐘楼の天井は格天井になっていて、格間には中央に卍を入れた法輪(と思う)が描かれている

△大棟端に鳥衾を乗せた小さな鬼板、拝には猪目懸魚、妻飾は虹梁蟇股式....垂木や組物や蟇股などが丹塗りされている

△本堂境内の西端に樹林を背にして聳える三重塔....右が百観音堂、左は鐘楼

△三重塔は和様形式を基調とし、禅宗(唐)様を加えた中世の建築....塔高は約21メートル

△寄棟造鉄板葺の百観音堂...正面に庇を設けて百番札所としている

△小山寺の三重塔は関東以北で建てられた最古の三重塔(国内の三重塔の中で31番目に古いとされる)

△杮葺の三重塔(重文)....室町時代寛正六年(1465)の創建で、塔内の須弥壇に釈迦三尊を安置している

△初層に親柱に逆蓮頭を乗せた切目縁を巡らす

△初層の中央間は板唐戸、脇間は菱格子窓....中央間の組物間に牡丹唐草彫刻を配した鎌倉室町風の本蟇股

△初層の組物は三手目が尾垂木の三手先、中備は中央間が脚間に透かし彫りの牡丹彫刻を配した本蟇股、脇間は蓑束

△軒廻りは各層いずれも二軒繁垂木で軒(蛇腹)支輪と軒天井がある

△二層と三層の組物はいずれも三手目が尾垂木の三手先、中備は中央間と脇間いずれも撥束....周囲に組高欄付き縁を巡らす

△歴史を感じさせる優美で荘厳な三重塔....一部の水煙が欠けた相輪の宝珠の刻銘に建築年号と造営者(大旦那賀谷朝経・大工棟梁 宗阿弥家吉等)が記されている
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小山寺-(2) (桜川)

2022年02月19日 | 寺社巡り-茨城

【茨城・桜川市】平安時代初期、天台宗の僧・慈覚大師円仁が東北遊化の際、自刻の不動明王と運慶作とされる多聞天とを脇侍として七堂伽藍を整えたと伝えられる。
平安末期の久寿二年(1155)から鎌倉時代の暦仁元年(1238)にかけてこの地方を支配していた下野国の小山下野守朝政が帰依して庇護し、その折、寺号を「長福禅寺」から「小山寺」に改められた。

●急峻な石階を上りつめると、樹林に囲まれた山寺の風情が漂う長閑な佇まいの本堂の境内が広がる。 直ぐ右手に「大杉」の巨木、左手に鐘楼が建つ。
まずは陽を燦燦と浴びている丹塗の本堂に行き、秘仏の本尊十一面観世音菩薩像を参拝。 向拝の水引虹梁の上に、鏝絵のような白色に彩色された精緻で大きな3つ爪の龍の彫刻があり、鋭い眼光でいまにも飛び掛かってきそうな勢いを感じさせる。 本堂は丹塗りの和風建築だが、軒天井や内法長押そして扉・窓に墨色、垂木端に胡粉を施していて優美な表情を見せている。 しかし、墨色の内法長押の上に掲げられている大きな額絵馬が少々うるさく、優美さを半減させている。
本堂東側の崖の裾に枯渇した弁天池があり、石を積んだ中島に弁天様を祀る祠が鎮座している。 その右手の少し山を上った処に、朱塗りの大黒天堂と尊名不明な石祠が立派な二段基壇の上に建つ。

△石階の上部から見上げた石燈籠と鐘楼....太い角型竿の石燈籠(造立年分からず)は笠の軒下に垂木を設けている/石階の上部から見上げた御神木の「大杉」と呼ばれる巨木と奥に鮮やかな朱塗りの本堂....杉の巨木は樹齢約700年で市指定記念樹

△石燈籠と市指定記念樹「大杉」の間から眺めた丹塗りの本堂

△寄棟造鉄板葺(下地は茅葺)の本堂....江戸時代 元禄九年(1696)の再建....本尊の十一面観世音菩薩坐像は行基作、脇侍不動尊は慈覚大師(円仁)作、多聞天は運慶作と伝えられる

△五間四方で真壁造りの和風建築....周囲に擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす

△向拝には鏝絵のような白に彩色された彫刻が施されている....身舎の丸柱に対し向拝柱は角柱

△向拝唐破風屋根の箱棟端に鬼瓦、兎毛通は花彫刻(と思う)

△水引虹梁の上前面に精緻な龍の彫刻....木鼻は正面が獅子鼻で横が獏鼻(と思う)

△向拝の大きな手挟が牡丹の彫刻、桁隠(降懸魚)も草花の彫刻/正面中央間は卍を入れた格狭間のある両折両開の桟唐戸....山号「施無畏山」の扁額

△正面と側面の墨色の内法長押の上に大きな額絵馬が掲げられている

△正面の脇間二間は墨色の蔀戸と墨色の組子を配した連子窓

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は三手目が尾垂木の三手先、中備は脚間に白く彩色された彫刻を施した本蟇股....内法長押と軒天井は墨色

△本堂は五間四方の仏堂で、和様を主に一部唐様を加えた建築....総体に丹・墨・胡紛による塗装を施している

△本堂前にある簡素な切妻造桟瓦葺の手水舎....2本の柱を控柱で支えている....手水鉢は元治二年(1865)の造立

△本堂の東側にある渇水した弁天池と中島に鎮座する祠

△弁財天を祀る流造銅板葺の祠

△境内の東側に建つ大黒天堂から眺めた本堂

△境内東側の傾斜地に鎮座する切妻造桟瓦葺の大黒天堂

△軒廻りは一軒疎垂木、拝は変形の蕪懸魚(と思う)、妻飾は粗い狐格子....小脇羽目と側面は横板の羽目

△大黒天堂の中央間は腰高格子戸、脇間は小脇羽目/大黒天堂の右隣りの基壇上に鎮座する石祠
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小山寺-(1) (桜川)

2022年02月13日 | 寺社巡り-茨城

【茨城・桜川市】奈良時代の天平七年(735)、仏教を保護し、東大寺の他諸国に国分寺及び国分尼寺を建立した聖武天皇(第45代)の勅願により、百済系の渡来人で奈良の僧・行基が富谷山(施無畏山)に開創し、自刻の一文六尺の鉈彫十一面観世音菩薩像を本尊としたと伝えられる。 創建時は「施無畏山宝樹院長福禅寺」と号した。
その後、釈迦院、文殊院、不動院など三十六院が整備され、多くの僧坊や諸堂宇が建ち並び、三重塔と本堂を中心に一山形式をとり富谷山全体が聖地霊山にされたと伝えられ、大和朝廷より主田千百余町歩を賜り勅願寺となった。 宗旨は天台宗で、本尊は十一面観世音菩薩像。

●JR水戸線岩瀬駅からタクシーで「小山寺」に向かい、左右の門柱に「小山寺」・「富谷観音」と記された門前に着く。 ここは裏参道のようで、標高200メールの中腹に位置する。
境内参道を少し進むと、左手に聳える杉の巨木の根元に宝生如来とみられる石仏、その後方に建つ覆屋に水神様がそれぞれ鎮座している。 水神様から本堂境内がある高台を見上げると、樹林の間に三重塔が見える。
更に参道を進むと、丹塗りの仁王門があり、季節外れの紅葉が彩を添えている。 偉容を見せて聳え立つ仁王門は室町時代の再建で、風雅な佇まいだ。 筋骨隆々というより浮き出た肋骨が目立つ栄養不足のような仁王像に迎えられる。
仁王門をくぐると本堂境内への急峻な石階がある。 石階下の左手に、不動明王の化身とされる利剣に巻き付いた倶利伽羅竜王石像、右手に半跏姿の地蔵尊石仏が鎮座している。

△「小山寺」「富谷観音」と表記された門柱が立つ入口....仁王門の正面に表参道の長い石段がある

△参道脇の傾斜地にある水神様を祀る古井戸....切妻造桟瓦葺の覆屋に鎮座する水神様の社

△湧水の傍に鎮座する水神様を祀る流造りの社....「太古水又は体護水といわれ,古来より當山の飲水として又仏事等に使われた」とある/杉の巨木の根元に鎮座する舟光背形石仏....享保十六年(1731)造立で、上部に刻まれた梵字と像容から未開蓮を持つ宝生如来か虚空蔵菩薩のようだ

△水神様から見上げた三重塔

△崖下に造営された懸け造り風の参道/参道奥に建つ丹塗りの仁王門....その先の奥に客殿(庫裡)が建つ

△紅葉が仁王門に彩を添えている....箱棟の端に武田菱の紋を入れた鬼板、拝に猪目懸魚、妻飾は虹梁蟇股(と思う)

△入母屋造葺型銅板葺の仁王門(重文)....室町時代寛正六年(1465)の創建で、江戸時代享保十六年(1731)の再建

△仁王門の正面に急峻な下りの石階がありこちらが表参道....標高約100mの所から石段が始まり、標高差100mに渡って続いている

△仁王門境内立つ七重石塔越しに眺めた仁王門....上層に毘沙門天像と不動明王像を安置

△下層の左右に鎮座する細身の阿形吽形の仁王像....筋骨隆々というより胸に肋骨が浮き出ている

△仁王門は正面三間側面二間で、軒廻りは二軒繁垂木

△上層周囲に擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす

△組物は三手目が尾垂木の三手先で、中備は脚間に「左三つ巴」の紋を配した蟇股....「施無畏山」の扁額が掲げられている

△軒支輪と軒天井がある....腰組は三手先で、組物間には牡丹彫刻を施した間斗束を配す

△通路は格天井で、天井絵は東洋的色調の花葉....中央の横梁の上に脚間に菊の彫刻を施した蟇股

△仁王門の左後方の崖下に手水鉢と石像が鎮座....石像は像容から利剣に巻き付いた倶利伽羅不動とみられ、不動明王の化身として崇められている(小山寺の守護神)....手水鉢の水は体護水又は延命水とも云われる

△仁王門から本堂境内への石段の下に鎮座する舟光背型地蔵石仏/蓮台に右膝を立てた半跏の姿で鎮座する地蔵尊坐像....右手に柄の曲がった錫杖、左手に宝珠を持つ

△石段の途中から眺めた仁王門の背面....上層の脇間に連子窓がある

△石階の途中から眺めた入母屋造桟瓦葺の客殿(庫裡)....妻飾は白壁の素式

△本堂境内への急峻な石階の上部から眺めた仁王門....大棟に3つの「武田菱」紋を配している
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