何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

烏山歴史風貌景区-(3) (中国)

2015年05月26日 | 史跡探訪-中国編

【中国・福建省・福州市】黎公崖の石刻から西に進むと石林景区が広がり、榕樹が鬱蒼と繁る樹林の中に急な遊歩道が設けられている。 光を遮る巨大な榕樹はかなりの古木のようで、幹からたくさんの根が伸びて密林のように入り組む様は少々不気味だ。
まずは西の端の岩の上に立つ先薯亭に行き、亭から石林景区を一望してから史跡を巡った。 【先薯亭・天門石と鯨魚石・兄弟同根榕・般若台・清〇(三水に令)台・臥牛榕】

石林景区..鬱蒼と繁る榕樹の樹林の中に遊歩道が設けられている

石林景区の西端の巨石の上に立つ先薯亭
  
先薯亭..八角形で二重屋根の亭..青色が緑の中に映える/先薯亭の下の岩に「飲嵐」の石刻

先薯亭の真下にある天門石と鯨魚石
 
天門石と鯨魚石                       天門石..岩の隙間を通るといいことがあるとか

兄弟同根榕..2本の榕樹の根が繋がっているからの命名のようだ
 
兄弟同根榕..石刻岩の下にある根が繋がっている/般若台と兄弟同根榕

般若台..巨大な岩石の上の石刻
  
古に刻まれた般若台の石刻群           般若台近くの石刻

清〇(三水に令)台

臥牛榕
 
臥牛榕                 石林景区内の遊歩道
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

烏山歴史風貌景区-(2) (中国)

2015年05月25日 | 史跡探訪-中国編

【中国・福建省・福州市】烏山の南麓に点在する史跡を巡った後、石段を上って中央の山頂に....「烏石山摩崖題刻及造象」の碑が立つ。
山頂には文字が刻まれた巨大な岩の石刻群があり、八角形の道山亭が立つ。
道山亭の東側の下に大きな市街が眺望できる烏山亭が....西側に進むと横長の大きな黎公亭があり、その周りに石刻や摩崖題刻がある。 【石刻群、道山亭、天章台、黎公亭、黎公崖石刻、霹靂岩、烏山亭】
 
「烏石山摩崖題刻及造象」碑    巨石に刻まれた石刻群

「道山亭」の石刻
 
「道山亭」の石刻           石刻群..巨石に小さな字がびっしり刻まれている
  
道山亭..宋代建立/道山亭..三十六奇跡の一つ/天章台(三十六奇跡の一つ、宋代熙宁建立)と道山亭

「天章台」の石刻

黎公亭..明代嘉靖年間建立
 
入母屋造りで横長の大きな黎公亭..市民の憩いの場となっている

霹靂岩越しに眺めた黎公亭

霹靂岩..三十六奇跡の一つ

左上の霹靂岩に「霹靂岩」の刻(北宋代熙宁年間の刻)..こちらが正面のようだ

黎公崖の石刻への参道
 
黎公崖の石刻

烏山亭
 
烏山亭から福州市中心街が一望できる
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

烏山歴史風貌景区-(1) (中国)

2015年05月24日 | 史跡探訪-中国編

【中国・福建省・福州市】烏山歴史風貌景区は于山の西側の数百メートル先に位置し、于山風景区ほどではないが今まで何度か散策している公園。 
「烏山」の名称は、漢代に何氏九仙がこの山に登って弓を引いてカラスを射止めたという伝説に由来。 「烏石山」とも呼ばれる。 北宋代、この地の知事だった程師孟が、山の風景を道教で言う蓬莱(渤海の中にある仙人の住む山の名)のようだとして「道山」に改名。
街中にある烏山と于山と屏山は「榕城三山」と呼ばれる。 烏山歴史風貌景区の地図を片手に、烏山路の南路口から史跡巡りを開始した。 【三聖佛石像・冰壺・木鴈亭・懸崖・天香台・黎公崖(〇(僕のイ偏が口偏)頭石)・天台橋・石壁古榕・冲天台】

巨石に彫られた三聖佛石像

唐代に彫られた磨崖仏・三聖佛石像(唐代)
 
三聖佛石造(阿弥陀佛、観音菩薩、大勢至菩薩坐像)/石の中に彫られた仏像

冰壺(明代の刻)..「一片冰心在玉壺」の意
 
木鴈亭                  懸崖(左)と天香台
 
懸崖                                    下から見上げた懸崖

黎公崖(〇(僕のイ偏が口偏)頭石)..巨大な岩の石刻
 
黎公崖..明代嘉靖三十七年刻                    黎公崖(〇(僕のイ偏が口偏)頭石)

天台橋(雀舌橋とも称す)..三十六奇跡の一つ
 
巨岩と巨岩に架かる石の橋..天台橋/奥から眺めた天台橋

天台橋(右)の近くにある石壁古榕(中)と冲天台(左)
 
石壁古榕..巨石を根で完全に覆って生き続ける古い榕樹   冲天台
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天満宮 (尾道)

2015年05月23日 | 寺社巡り-広島

【広島・尾道市】西願寺近くに鎮座する神社で、調べたが創建時期や由緒等は不詳。

西願寺を訪問する際、道端に立つ大きな石燈籠を見つけたので、帰路、じっくりと拝観....しっかりと造られた台座の上に立つ見事な石燈籠で、竿に「神憭」の刻がある。
予定していなかったが、近くに神社があると思ってウロウロしていたら、道脇に石柱が立つ路の奥に塀で囲まれた小高い丘の上に鎮座する社殿を見つけた。 寛延三年と刻まれた鳥居をくぐると、左右に道端で見たのと同じような石燈籠が佇んでいる。
少し急傾斜の石段を登り切ると、直ぐ正面に、石造基壇の上に鎮座する質素な社殿、その後方に本殿が建ち、いずれも大棟に外削ぎの千木と3本の堅魚木が乗っている。
境内に3つの祠が鎮座しているが、その一つは宝珠が乗る宝形造りの仏殿のようで、中に2体の地蔵尊像が鎮座していて少し驚いた。
  
道端に立つ大きな石燈籠..竿に「神憭」の刻/参道の奥に立つ鳥居と丘の上に鎮座する社殿

神門前から眺めた石垣の塀に囲まれた境内
  
寛延三年(1753)と刻まれた神門(明神鳥居)/鳥居の直ぐ右脇に聳えるご神木と石燈籠/鳥居の直ぐ左脇に立つ石燈籠

鳥居の右手の手水鉢などの石造物

石段から見上げた拝殿

石造基壇の上に鎮座する入母屋造銅板葺の拝殿..大棟に外削ぎの千木と3本の堅魚木が乗る

拝殿後方に鎮座する弊殿と本殿

流造銅板葺の本殿..大棟に外削ぎの千木と3本の堅魚木が乗る(祭神が男神を示す)
 
境内に鎮座する3つの祠..中央の祠には牛像、右の祠には狐の像が安置されている/宝珠が乗る宝形造り屋根の祠..確か地蔵尊像(2体)が鎮座
 
境内に佇む石燈籠                          百度塚
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉備津彦神社 (尾道)

2015年05月22日 | 寺社巡り-広島

【広島・尾道市】宝土寺の西側に鎮座する神社で創建は不詳だが、南北朝時代の至徳年間(1384~1387)、宝土寺住職と栗原八幡宮祠官・平田小太郎が祭祀を奉仕したことに始まると伝わる。 尾道では「一宮神社」と呼ばれている。 祭神は大吉備津彦命で第七代孝霊天皇の第四皇子。

宝土寺拝観後、境内の西側に立つ鳥居に向かう。 鳥居をくぐって境内に....と思ったが、その先に墓地に沿って隣の光明寺に続く路地があるので、神社境内と路地のいずれも宝土寺の寺地内にあるようだ。
地図に記されている「一宮神社」と思って訪問したが、境内への石段傍に「吉備津彦神社」の標石....ところが「一宮神社社務所」とあり混乱した。
獅子の狛犬に迎えられて境内に....一番奥に仏堂のような社殿が鎮座するが、境内には緑がまったくないので殺風景....神々しさが感じられなかった。

鳥居(春日鳥居か?)の先は光明寺への参道と神社境内に分かれる

参道脇に切妻造銅板葺の手水舎..何故か水鉢に蓋が

石段から先の境内に緑がまったくなく殺風景..奥の白壁の建物は社務所(「一宮神社社務所」の標札が)
  
門柱に天保十二年銘(江戸時代,1841年)/門柱傍に鎮座する阿形吽形の勇ましい表情の獅子の狛犬

入母屋造本瓦葺の社殿(拝殿)..賽銭箱が置かれていないのは珍しいかな
 
境内に鎮座する立派な大棟で流造りの境内社/春日鳥居がある流造りの境内社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山脇神社 (尾道)

2015年05月21日 | 寺社巡り-広島

【広島・尾道市】棟札の「享保十三年」の墨跡から八代将軍・徳川吉宗治世下の享保十三年(1728)の建立とされる。 祭神は大山津美之神だが、神仏習合の影響で山王大権現として親しまれている。
昔この一帯で山火事が発生した時、多くの猿が騒いて民衆に危急を知らせ、集落とお社を護ったという伝説がある。 祭神大山津美之神(山の神=山王)の神使は猿とされることから、霊獣等の狛犬でなく猿の石像が本殿を護る。

久保小学校の横の道を進むと、坂の途中に小さな数段の石段と踊り場に手水舎が見えてくる。 踊り場から見上げると直ぐのところに氏子札が掲げられた拝殿の側面が迫る....拝殿の正面に回るが極めて狭い境内なので、正面から拝殿全体を撮影できない。
拝殿後方に小さな本殿が鎮座し、その前で、桃の上に座って祭神を護るひょうきん顔の猿の石像が....。 猿像には注連縄が張られているが、右側の像の姿はまるで逃げ出した猿が捕えられてお縄になったような姿に見え、少し可哀そうな気が....考え過ぎか。
 
境内の入口..石段の途中に手水舎、次の石段の直ぐ上に拝殿が建つ/簡素な手水舎

入母屋造本瓦葺の社殿..拝殿棟端に鯱,軒四隅に猿像が乗っている
 
境内は狭く拝殿の直ぐ前に石造りの春日鳥居が立つ

拝殿の少し離れた後方に建つ本殿..流造り屋根の棟に外削ぎの千木と3本の堅魚木が乗る
 
祭神が猿を神使いとすることから猿の石像が鎮座..江戸時代弘化年間(1844~1848年)作
 
本殿前に鎮座する石造物..猿の石像の左は宝珠と受花が欠損した五輪塔のようだ/風化が激しい石碑
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

住吉神社 (尾道)

2015年05月19日 | 寺社巡り-広島

【広島・尾道市】飛鳥時代創建の浄土寺の境内に鎮座していたが、江戸時代の寛保元年(1741)、尾道の町奉行・平山角左衛門が住吉浜を築造した際に社殿を新造して遷宮された。
江戸時代、尾道は北前船の寄港地として繁栄し、住吉神社は港の守護神として航海の安全や商売繁盛の神様として信仰をあつめている。 祭神は墨江三前大神(筒男命、中筒男命、上筒男命三柱の神)。

街中で海岸の直ぐ傍に鎮座する鳥居がない神社....爽やかな海風を感じながら境内に....。
狭い境内の中央に透垣に囲まれた小さいな社殿が建ち、正面の質素な拝殿は大きな唐破風の妻入り向拝で趣がある。 瀬戸内に浮かぶ手を伸ばすと届きそうな向島を眺めながら、「力石」や「注連柱」など歴史ある遺物を拝観した。
 
正面から見た住吉神社

切妻造銅板葺の拝殿..妻入り向拝は大きな唐破風
 
拝殿向拝は質素な造り         社殿の扁額..厳谷修書の「住吉大神、金刀比羅宮、恵美須大神」

透垣に囲まれた社殿の全景..こじんまりした社殿だが均衡のとれた美しい造りだ
 
入母屋造銅板葺の本殿..向千鳥破風がある/本殿の棟に千木がなく3本の堅魚木が乗るのみ

大きな宝珠を乗せた大きな石燈籠越しに眺めた瀬戸内に浮かぶ向島
  
龍口がある手水舎        石燈籠/境内社..棟に外削ぎの千木と3本の堅魚木が乗る

「力石」..「嘉永四年」の銘(江戸時代、1851年)..北前船の寄港地で、浜の仲仕連中が力自慢をした

日本最古の注連柱..「文政三年」の銘(江戸時代、1820年)..尾道が注連柱の発祥の地とか
 
境内社の平山霊神社(外削り千木と5本の堅魚木)..尾道港湾整備に功績があった尾道寺社奉行・平山角左エ門尚住を祀る/平山霊神社後方に「平山市尹紀功之碑」が立つ
 
境内社拝石                             円光を背に錫杖を持つ地蔵菩薩像(と思う)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八坂神社 (尾道)

2015年05月18日 | 寺社巡り-広島

【広島・尾道市】由緒や創建は不詳だが、もともとは常称寺の境内にあったものが明治の神仏分離令により現在地に移された。 南面の亀山八幡宮(久保八幡神社)に相対するように北面で建ち、厳島神社を合祀している。 境内に「かんざし燈籠」なる珍しい形の石燈籠がある。

繁華街の真ん中に建つ神社だが、境内が月極めの駐車場になっているとかで車が並び、厳かな景観が台無しだ。 拝殿の周囲も雑然としていて、神々しい雰囲気は少しも感じられず残念だった。
ひとつだけ救いだったのは、鳥居右手のご神木の傍にひっそりと佇んでいる「かんざし燈籠」で、こんなに脚の長い石燈籠を見るのは初めてで印象に残った。
 
明神鳥居..額束に唐破風の屋根があり「八阪神社,厳嶋神社」の額、右手に「かんざし燈」が立つ

社殿は北面して建つ..入母屋造本瓦葺の拝殿、棟端に鯱が乗る

霊獣の狛犬越しに眺めた拝殿
  
「かんざし燈籠」..江戸時代末の造立で幽霊を沈めた悲しい伝説がある

唐破風の向拝..鈴から下がる鎖が切れたまま、注連縄は粗雑な造りのようだ

弊殿と本殿..本殿棟の内削ぎの千木と2本の堅魚木から祭神は女神か
  
社殿に向かって左手に鎮座する境内社/社殿に向かって右手に鎮座する長官稲荷大明神
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宝命寺(小城観音) (国東)

2015年05月16日 | 寺社巡り-大分

【大分・国東市】奈良時代の養老元年(717)、国東六郷満山の開祖・仁聞菩薩によち開山された、六郷満山末山本寺。 平安時代末期の仁安年間(1166~1169)や鎌倉時代の安貞年間(1227~1229)と弘安年間(1278~1288)の記録には「小城寺」として両子寺や神宮寺と肩を並べる勢いで各種行事を行っていた。
その後、寺号を宝命寺に改称....戦国時代の天正八年(1580)、六郷満山の寺々を襲った大友の兵乱で伽藍を焼失、その後再建されたが、まもなく起こった関ヶ原戦で徳川方の将黒田如水(中津城主)の国東半島侵攻の戦火の犠牲となり、慶長五年(1600)に焼失した。
江戸時代の正保二年(1645)に杵築城主となった松平英親が荒廃した神社仏閣の保護を開始し、慶安元年(1648)、中興開山に奔走した慈眼院盛賢大和尚により再建された。
昭和五十七年(1982)の失火で観音堂と仏像を焼失したが、子安観音だけが難を逃れ「不焼の子安観音」として祀られ、御堂は昭和五十九年、二千数百人の浄財により再建された。 天台宗で本尊は六観世音菩薩像。 <六郷満山霊場第18番札所 (六郷満山末山本寺)>

国東半島案内マップには宝命寺はなく「小城観音」と記されているが、寺院を訪問して小城山宝命寺の奥の院である観音堂が有名で「小城観音」と呼ばれていることを知った。
本堂と境内を拝観後、標高254mの小城山の8合目あたりに建つ観音堂に向かうべく30段ほどの参道の石段を上る....石段上の鳥居の脇に仁王像が鎮座し、こちらを睨みつけながらまるで「たいへんだが、頑張れよ!」と励ましてくれているような魅力ある顔に心が和んだ。
鳥居をくぐって参道を暫く進んだところで、唖然たる面持ちになった。 途中から自然石を累々と積み重ねた険しい急坂の石段が樹林の奥まで続いているのだ。 ふと熊野磨崖仏の石段を思い出したが、小城観音の自然石を乱積みした石段は数百メートルにも及び、あえぎながら登ってやっと観音堂に辿り着いた。 樹林の中にひっそりと建つ観音堂....宝形造りの屋根の流れが美しいお堂だが、何か物足りなさが....。
境内には幾つかの石造物が佇むが、中でも約650年前に造られた国東塔は古を感じさせる姿だ。 また、観音堂近くの参道の途中の覆屋の中に大きな一石五輪塔が鎮座....「古代一宇一石」とあり、印象に残った。

参道から眺めた全景
 
切妻造桟瓦葺の山門(薬医門)..袖塀を設けている

山門から眺めた本堂
 
入母屋造桟瓦葺の本堂..観音堂と同じ昭和五十九年(1984)再建か/質素な造りの向拝

前庭の池と石橋(あまり手入れがなされていないようだ)

本堂左手の庫裡だか無住のようだが..

境内の片隅に佇む2基の庚申塔..右は珍しい笠付型
  
阿弥陀如来の忿怒形といわれる水牛に乗る6面6臂6足の大威徳明王像/供養塔か/石殿(右側には合掌する仏像が鎮座)
 
山中に鎮座する小城観音への参道..石段の上に石造りの台輪鳥居と仁王像と石燈籠が立つ

六所権現社の鳥居に「大権現」の額..鳥居の柱には「天保」の刻(1830~1844年)
  
凛々しい顔の吽阿形仁王像..江戸時代延享元年(1744)造立/鳥居近くに佇む風化が激しい宝篋印塔
 
自然石を累々と積み重ねた険しい参道が数百メートル続く/観音堂近くの参道に立つ石燈籠(新しいようだ)..まだまだ自然石の石段が続く

..「古代一宇一石」とある大きな一石五輪塔..珍しいのではないかな
  
境内への石段下の覆屋の中の石塔の上に鎮座する観音石仏/参道脇の石殿

観音堂(小城観音)..昭和五十九年(1984)再建 (江戸時代天明八年(1788)建立のお堂は昭和五十七年に焼失)
 
露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の観音堂/仁聞菩薩彫刻の6観世音菩薩像を安置
 
境内の崖の岩龕に鎮座する2体の石仏(菩薩像)/右の石仏の台座に「北辰妙見」とあるので妙見菩薩か

鎌倉時代末~南北朝時代作の 国東塔(総高約4m)..歴史を感じさせる姿だ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

報恩寺 (国東)

2015年05月14日 | 寺社巡り-大分

【大分・国東市】奈良時代の養老二年(718)、国東六郷満山の開祖・仁聞菩薩による開山された、末山末寺八ヵ寺の一つ。 室町時代の記録「六郷山定額院目」に境外仏堂六ヶ所があったことや、江戸時代天明年間(1781~1789)の「寺院名簿」には仲哀天皇&皇后の陵や仏像や堂宇について記されており、山岳信仰の布教拠点として寺勢があった。
戦国時代末期、六郷満山の寺々を襲った大友の兵火で伽藍を焼失、寺は再建されず放置された。 江戸寺体の元和年間(1615~1624)、権律師可春という僧が堂宇を建て再建した。 天保九年(1838)に失火で本堂が焼失したが、直ぐに再建された。 2度の火災に遭ったものの本尊は奇跡的に難を逃れた。 天台宗で本尊は平安時代後期作の阿弥陀如来像(三尊像)。 <六郷満山霊場第17番札所 (六郷満山末山末寺)>

道路から報恩寺を見ながら清流に架かった橋を渡って進む....参道の途中から境内に入れるが、少し先の山門に回った。 山門は風格のある鐘楼門で、門前にある石を刳り貫いて造った石祠のような中に鎮座する地蔵菩薩立像に迎えられた。
鐘楼門をくぐって境内に....正面には寄棟造りの本堂が建つが、まるで古民家のような雰囲気の佇まいだ。 本堂左手には観音堂、その奥の庭に笠に相輪を乗せた石造りの珍しい六角塔が立つ。
六面に諸仏が彫られた異色の仏塔だが、気になったのが、正面の最上部に鎮座する丸彫りに近い弘法大師像....天台宗のお寺だから天台宗の開祖・最澄(伝教大師)像ではないのかな....と思ったのは自分だけか。
 
風格がある入母屋造桟瓦葺の鐘楼門..袖塀、擬宝珠高欄の回縁、棟端に鯱が乗る

見えないが門の階上に梵鐘があると思う..梵鐘は江戸期元禄時代の鋳造

山門を通して眺めた本堂
 
境内の中から眺めた鐘楼門と手水舎/切妻造桟瓦葺の手水舎..大きな霊獣の龍口が

寄棟造桟瓦葺の本堂..安政年間(1856~1860)再建..瓦屋根の下は茅葺とか
 
まるで古民家のような造りの本堂..本尊の阿弥陀如来三尊像を祀る

本堂右手が入母屋造桟瓦葺の庫裡だが小さい造りだ

本堂左手に建つ観音堂(江戸末期慶応年間建立)..その左に大きな石造六角仏塔が立つ
 
入母屋造桟瓦葺の観音堂..身舎に裳腰を設けた妻入り..十一面観音菩薩像を祀る/観音堂向拝に下がる鰐口..堂内に保管のものは室町時代応永五年(1398)作

石造六角仏塔と三所権現社への参道入り口に立つ台輪鳥居

大きな石造六角仏塔(近世の安土桃山時代か江戸時代の作)
  
石造六角仏塔は83体の諸仏が彫られ、正面最上部の大きな像は弘法大師らしい(天台宗だが)/天台宗の寺院だが上部の大きな仏像は弘法大師とか

寺の鎮守の三所権現社への参道入り口に立つ台輪鳥居(権現鳥居)..「大権現」の額が掲げられている
 
鳥居の先には三所権現社に続く苔生した石段/鳥居近くに佇む石造物

境内雑木林に無造作に置かれたような五輪塔などの石造物群

苔生した五輪塔群
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丸小野寺 (国東)

2015年05月13日 | 寺社巡り-大分

【大分・国東市】奈良時代の養老二年(718)、国東六郷満山の開祖・仁聞菩薩による開山だが、往昔は現在よりやや下流の字岡の東に伽藍があり、中山東光寺と号していた。
天正年間(1573~1592)の大友の兵乱で焼失し廃寺となったが、約100年後の江戸時代寛文年間(1661~1673)、大楽院豪全という僧が中興し、寺名を丸小野寺に改称して再建した。 本堂から離れた樹林の中に本尊薬師如来像を安置した講堂が建つ。 天台宗で本尊は不動明王立像(不動三尊)。 <国東六郷満山霊場第十六番札所(六郷満山中山末寺)>

道路から川向うの丘陵上の樹林の中に堂宇の屋根が見える。 流れに架かった橋を渡った先に自然石を敷いた坂の参道があり、苔生した石畳が山門まで続いている。
石畳を登りつめたところに古色をとどめた山門がひっそりと建ち、山門のすぐ左手に苔生した宝塔のような1基の国東塔が立つ。 塔の一部が欠損しているので壊れていたものを組み合わせたものと思うが、その姿は秀作で歴史を感じさせる。
狭い境内に建つ本堂は古民家のような佇まい....境内を拝観しながら撮影していると、住職の奥様が出てこられ、本堂のガラス戸を開けて「中へどうぞ」と入れて下さった。 ご住職は不在中だったが、奥様から寺の縁起を伺いながらご本尊の不動明王立像の他、如来や菩薩などの仏像を拝まさせて頂いた。
本堂から数百メートル離れた山中の樹林の中に講堂があるらしいが....諦めた。
  
自然石を敷いた苔生した石畳の参道と石垣

参道から眺めた境内..山門の左手に苔むした国東塔が佇む
  
古色をとどめた切妻造桟瓦葺の山門(四脚門)..棟両端に鯱を乗せている/笠が苔生した国東塔(無銘だが優秀作)..国東塔の特徴の反花が欠損

山門の格天井に描かれた絵字(新しいようだ)

山門から眺めた古民家のような本堂

寄棟造桟瓦葺の本堂..江戸時代文久二年(1862)再建
 
正面に鰐口が下がる/本堂には本尊不動明王立像(不動三尊像)の他、釈迦如来像、観世音菩薩像などを安置

境内の隅に佇む石造物(石祠内の石仏、板碑など)
  
石祠に鎮座する観音菩薩立像..文化十三年銘(江戸時代1816年作)/石祠に鎮座する地蔵菩薩坐像..天保三年銘(江戸時代1832年作)/板碑..風化が激しく銘は不明

境内に置かれた手水鉢
  
山門傍の小さな手水鉢/石燈籠..雪見燈籠のようだが../無縁仏群の傍に佇む板碑(種子があるので板碑と思う)

無縁仏の石仏及び墓石群

本堂前の境内

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

護聖寺 (国東)

2015年05月12日 | 寺社巡り-大分

【大分・国東市】奈良時代の養老二年(718)、国東六郷満山の開祖・仁聞菩薩により開創された、中山本寺十ヵ所の一つ。 かつては天台宗で、寺号は国司が支配する地域にあることから久末山護国寺とされ、六郷満山の僧が修行する般若経の講瑞所だった。
武家政権の鎌倉時代から六郷満山を支配・保護していた宇佐八幡の支配力が後退し、武士が地頭として寺院を横暴な振る舞いで支配したことから廃寺が続出、護国寺も廃寺となった。
室町時代応永十一年(1404)、曹洞宗の傑僧明厳禅師が荒廃していた護国寺を中興、護聖寺と命名して法燈を輝かせた。 その後、法燈は代々の住持により守り続けられたが次第に衰微し再度廃寺に。
江戸時代の寛文十三年(1673)、石堂禅師が堂宇を建立し本尊観世音菩薩を安置して再興したことから中興の祖と言われる。 曹洞宗(禅宗)で本尊は聖観世音菩薩像。 <国東六郷満山霊場第十五番札所 (六郷満山中山本寺)>

参道を進み正面から眺めると、まるで城壁の上に堂宇が建っているかのようだ。
頑丈に造られた古い石段を上ると、山門、鐘楼そして手水舎の柱間からスカスカの光景....緑が殆どない少し殺風景な境内が広がる。 山門をくぐると正面に唐破風向拝の本堂が鎮座するが、全く飾り気がなく、何だか無住寺のような印象を受ける。
本堂の左手の奥は草木が伐採されて茶色の土が剥き出しになった荒れ地があり、その中に板碑、宝篋印塔そして一石五輪塔などの石造物が点在している。 これらは鎌倉時代から室町時代の歴史を語る貴重な遺構であり、保存・保管にひと工夫が欲しいと強く願いながら寺を後にした。

門前の遠景..石垣上の白壁と石段は城のような構えだ

石段から眺めた境内
  
聖観世音菩薩立像..左手に未開蓮を持つ/山門         切妻造桟瓦葺の手水舎

切妻造本瓦葺の山門..四脚門で扉がない

山門と鐘楼の間から眺めた本堂

本堂と庫裡は渡り廊下で結ばれている

入母屋造桟瓦葺の本堂..身舎に裳腰を設けた妻入り

境内の桜の木
  
唐破風で質素な向拝      境内に置かれた大きな蹲(手水鉢)/切妻造本瓦葺の鐘楼

鐘楼の傍に佇む歌碑

境内の石燈籠越しに眺めた山門と鐘楼

本堂に向かって左手に立つ宝形造銅板葺のお堂

境内に散在する石造物(板碑、五輪塔、宝篋印塔など)
 
鎌倉時代作の2基の板碑(種子からいずれも阿弥陀三尊)..右は正応四年(1291)建立で大分県最古、左は喜暦四年(1329)建立
  
鎌倉時代~室町時代作の一石五輪塔/室町時代作の宝篋印塔..塔柱正面の塔身に地蔵尊坐像が彫られている/石を積み重ねた仏塔もある

境内の上の樹林近くに佇む宝篋印塔などの石像物群
 
多分、かつてあった守護神の権現の台輪鳥居(権現鳥居)と思う..笠木と島木が中央で分断/台輪鳥居近辺に佇む石殿(左)、右の石塔には江戸時代1789年の「天明九年」銘
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瑠璃光寺 (国東)

2015年05月10日 | 寺社巡り-大分

【大分・国東市】奈良時代の養老二年(718)、国東六郷満山の開祖・仁聞菩薩により開創された、末山末寺八ヵ所の一つ。 鎌倉時代の康元二年(1257)に火災により堂宇が焼失したが、仏像は難を逃れた。
南北朝時代の動乱期、京都での戦いに敗れた足利尊氏が西走して国東半島に上陸し、神社仏閣に戦勝を祈念したが、瑠璃光寺を崇敬した尊氏は建武三年(1336)、足利氏の祈願所として寺録五十四石を賜って中興....以降、隆盛を極め末寺14ヵ所を擁した時期があった。
境内には室町時代から寺の歴史をみてきた樹齢600年のサルスベリの巨木がある。 天台宗で本尊は薬師如来像。 <国東六郷満山霊場第十四番札所 (六郷満山末山末寺)>

田園風景を眺めながら丘陵を上って行くと、道路脇の土手に石仏が整然と並ぶ....境内を囲むように鎮座する石仏はみな石臼内に納められていて何か不思議な感じがする。
ホウキを持った小坊主さんの出迎えを受けた後、右手に立つ国東塔を眺めながら苔生した石段を上って境内に。 石段を登り切ると直ぐ正面に大きな宝形造りの本堂が建つ。
前庭には樹齢600年で日本一とされる大きなサルスベリがあり、その周辺と境内の隅には苔生した多くの石造物が佇んでいて風情を感じさせる。 その中でも、草が生えた苔生した入母屋造り屋根で、四方向に仏像が彫られた石殿に興味が引かれ、印象に残った。
境内にはたくさんの石造物が鎮座するが、裏の山麓で五輪塔に見守られながらキノコ(シイタケか)を栽培していたのには驚いた。

寺前の駐車場から眺めた瑠璃光寺..境内を囲むように石臼内に鎮座する石仏が整然と並ぶ
 
寺前の道を挟んだ反対に立つ切妻造桟瓦葺の地蔵堂..手前に子育て地蔵が佇む

古刹を感じさせる門前..ホウキを持った小坊主さんが迎えてくれる
 
苔むした石段の両側に大きな国東塔と五輪塔が佇む

露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の本堂..露盤に卍字の紋章
 
正面は全面ガラス張りで、軒下に小さな喚鐘が下がる
 
本堂の左手に建つ切妻造桟瓦葺の庫裡..身舎に裳腰を設けている/本殿前に建つ宝形造桟瓦葺の鐘楼..屋根軒の四隅に珍獣が鎮座、「幸せの鐘」とある

宝形作銅板葺の観音堂(明光院)

前庭の石造物と樹齢600年とされるサルスベリ(日本一の名木とされる)
 
瑠璃光寺石殿(鎌倉時代作とされる)/高さ1.4mで屋根(笠)下の方形軸部の表裏2面に各2体、両側面に1体の仏像が彫られている
  
石祠内で牛に乗る大威徳明王像か..3面しか見えないが大威徳明王像は6面6臂6足/不動明王石像/2基の五輪塔

境内の片隅に佇む石造物群
 
境内参道脇に鎮座する石造物群                 五輪塔

地蔵尊石像や僧の石像
 
栽培所への参道脇に立つ五輪塔/境内の奥で五輪塔に守られて栽培しているのはシイタケか
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

両子寺-(2) (国東)

2015年05月09日 | 寺社巡り-大分

【大分・国東市】再興後、杵築藩主の深い帰依を受けて杵築藩の最高祈願所となり、また、長安寺に代わって六郷山惣録所として全山を統括する寺院となった。
江戸時代に「子授け」の寺としての信仰が始まり、そのあらたかな霊験は遠国まで知られ、子供が欲しい夫婦の奥の院の主尊・千手観音像への誓願が絶えない。 願成就を遂げた夫婦は子を連れて参詣し、延命息災を願う。

不動明王像参拝後、奥の院へ向かう。 両子川源流の渓谷に沿って登るように続く道を進む....渓流にさし渡した巨大な石の橋「鬼橋」を渡ると、奥の院への参道石段下で素朴な仁王像が迎えてくれる。
脇に五輪塔が並ぶ苔生した石段を上って行くと奥の院への鳥居が立ち、鳥居周辺には小型の国東塔など多くの石造物が無造作に佇んでいるようだ。 その中でひときわ群を抜く大型の国東塔があるが、塔身から笠にいたって安定感があり、気品に満ち溢れている。
鳥居をくぐって石段を上ると、途中の崖上に初めて見る磨崖板碑と崖上国東塔があるが、多分、岩壁に刻まれた磨崖板碑は珍しいものと思う。
山中の参道を進むと、樹林の奥に鮮やかな色の五色幕と朱色の擬宝珠高欄が見えてくる。 近ずくと、天然の岩窟下にまるで洞窟から飛び出るように奥の院本殿が建つ....回廊床下の崖の斜面に柱を立てて支えた縣造りで、その重厚なたたずまいと建築美に感動する。
奥の院本殿から戻る途中の石段の脇に「松平公内室の墓(国東塔)」の標識が....足下が悪い樹林を少し入ると狭い岩棚に数基の石造物がひっそりと佇む。 苔生した2基の国東塔の内の小さい方が第二代杵築藩主・松平重栄の正室・宝周院の墓だが、後でこの正室は側室の悪だくみによって離縁された悲劇の人と言われていることを知った。

奥の院への参道の途中に鎮座する稲荷堂(左)と三面出世大黒天
 
稲荷堂..赤い「正一位両子稲荷大明神」の幟がなびく、功徳は家内安全と商売繁盛/三面出世大黒天..功徳は福徳と出世
 
境内の渓流に架かる鬼橋..約2mの巨大な一枚石で元禄元年(1688)に怪力僧千徳坊が渡したようだ

奥の院への石段下に立つ丸彫りの仁王像(室町時代作とされる)..右上の高台に大講堂が建つ
  
吽形の仁王像..天衣が欠損している/阿形の仁王像      苔生した石段参道脇に並ぶ五輪塔

露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の大講堂(平成三年(1991)再建)
 
大講堂の本尊は阿弥陀三尊造で中央の木造阿弥陀如来坐像は鎌倉末期作/大講堂前に佇む国東塔

奥の院への石造りの大鳥居..「両所大権現」の篇額が掛る
 
鳥居の左手に佇む国東塔(鎌倉時代造立)/鳥居周辺に佇む石造物..宝篋印塔、笠塔婆、石仏等

奥の院の参道途中にある磨崖板碑と崖上国東塔(両子寺国東塔第2号)
  
珍しい磨崖板碑..追善生善供養のため造られた日本最大の磨崖板碑(種子は阿弥陀三尊)/崖上国東塔は南北朝時代造立(総高207cm)
 
参道から眺めた入母屋造銅板葺の奥の院の本殿..江戸時代弘化三年(1848)、杵築藩9代目藩主松平親良が寄進

奥の院本殿..屋根の半分は洞窟の中にあり、崖の斜面に柱を立てて支える懸造り

五色幕で覆われた奥の院本殿には千手観音菩薩、両子大権現、宇佐八幡、仁聞菩薩を祀る
 
奥の院の岩屋洞窟..洞窟内に千手観音石像を祀り、不老長寿の霊水が湧出

奥の院の石段の途中にある墓(石造物群)..杵築藩主松平公の奥方の墓が立つ
 
左の小さい国東塔が松平候公内室の墓(延宝五年八月十五日銘..江戸時代で1677年)/右の大きい国東塔は無銘だが,藩主の墓と伝わる
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

両子寺-(1) (国東)

2015年05月08日 | 寺社巡り-大分

【大分・国東市】奈良時代の養老二年(718)、国東六郷満山の開祖・仁聞菩薩により国東半島の最高峰・両子山(標高721m)の中腹に開創された。 平安時代から鎌倉時代にかけて六郷満山の中山本寺、山岳修行の根本道場として栄えた古刹。
王朝政治が壊滅して迎えた鎌倉時代から武士の私領化に荒らされ、寺領を奪われ衰えていった。 江戸時代初期、住持となった傑僧・順慶は兵乱に冒されて荒廃した六郷満山の寺々を嘆き悲しみ、両子寺や近郷の諸寺を再興した。 その後、勢力が衰え統制力を失っていた六郷満山を率いてきた長安寺に代わって台頭した。 天台宗別格本山で本尊は千手観世音菩薩像。 <国東六郷満山霊場第十三番札所 (六郷満山中山本寺)>

本堂の直ぐ下の駐車場に車を止めた後、足早に参道を下り、参道を横切る渓流に架かる無明橋に....あたりは静寂に包まれている。 朱塗りの欄干の無明橋から杉林の懐に抱かれるように続く参道を眺める....まさに山寺の聖域への入口と印象づけられる風情だ。
無明橋を渡って進むと、堂々たる石造りの仁王像が歓迎の一睨を与えてくれる。 この巨大な仁王像の力感溢れる均整美は、国東六郷随一と言われるもので、「おう~、よく来たな!」と言わんばかりの形相には迫力がある。
仁王像の足下から石段が始まり、両側に杉が聳える苔生した石段の途中に注連縄が張られた古びた山門がひっりと佇んでいる。 六郷満山最古の建造物とされる飾りっ気のない山門....幾度か修理が加えられたと思うが、約千年の風雪に耐えて佇む姿は感慨深い。
石段を登りつめて本堂境内に上がると右手に護摩堂本殿が建つが、宝形造りの屋根の流れが実に美しく、うっとりと見惚れた。 護摩堂の左側回縁のはね上げた蔀戸をくぐって堂内に....内陣の奥深くに二童子を脇侍とした本尊・不動明王立像が鎮座している。 内陣奥が薄暗いので厳しい形相のお顔がよく見えないが、像の陰影から逞しさが感じられる。
 
参道を横切る渓流に架かる石造りの太鼓橋「無明橋」..朱塗りの欄干は珍しい

無明橋越しに眺めた石造りの仁王像

両側に杉が聳える参道に巨大な仁王像が鎮座

国東六郷随一の秀作と言われる両子寺参道の仁王像
 
石造り仁王像..江戸時代後期の文化十一年(1814)作/両子寺の仁王像は大型で容相もいかめしく天衣や裳の表現が優れている
 
左側の吽形の仁王像..総高245cm、像高230cm

吽形仁王の上半身像..盛り上がる筋肉の表現が見事
 
右側の阿形の仁王像..総高245cm、像高230cm

阿形仁王の上半身像
 
仁王像の傍に佇む石燈籠..江戸時代明和五年(1768)の銘/仁王像の足下から少し苔生した石段が始まる

石段参道沿いにある大きな自然石に刻まれた歌人財前国雄の歌碑

石段のちょうど半ばあたりに建つ山門「総合門」

切妻造銅板葺の「総合門」(四脚門)は六郷満山最古の建造物とされる
 
堂宇境内への入口に立つ十三重塔..石垣の上に鐘楼と護摩堂の屋根が..

参道石段から眺めた鐘楼と書院(客殿)の屋根
 
堂宇境内入口から眺めた護摩堂と鐘楼と常香炉..護摩堂は明治二十五年(1892)再建

露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の護摩堂..本尊不動明王(鎌倉期作)を祀る
  
国東塔               不動明王像(不動三尊像)   宝篋印塔

境内の奥から五重塔越しに眺めた護摩堂

護摩堂..扇垂木と二軒〇(木偏に垂)、側面に跳ね上げた蔀戸と花頭窓が..
 
護摩堂の擬宝珠高欄付き回縁から眺めた鐘楼

護摩堂脇に鎮座する石造物群

書院・客殿..入母屋造銅板葺で、二重構造の屋根と大きな唐破風の入口
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする