何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

談山神社の総社本殿

2024年09月26日 | 最古・唯一などの遺構

【奈良・桜井市】日本最古の総社本殿。
末社の総社本殿は平安時代延長四年(926)の創建で、第四十代の天武天皇の治世に創建された談山神社の境内に建ち、国の重要文化財に指定されている。 現在の総社本殿は江戸時代寛文八年(1668)造り替えの談山神社本殿を、寛保二年(1742)に移築したもので、天神地祇・八百万神を祀っている。
総社(惣社)とは、いくつかの神社の祭神を一カ所にまとめて合祀した神社のことで、平安時代、朝廷から行政官として諸国に派遣された国司が、任地国の神社を巡拝する手間を省くため、国府の近くに勧請したのが起源とされる。
壇上積の基壇の上に菱垣で囲まれて鎮座する総社本殿は朱塗りの三間社春日造りで、古色蒼然たる佇まいだが風雅で威厳に満ちている。 妻入り切妻造りで左右の屋根は反りがある照屋根。 身舎の長押、丸桁、頭貫、組物、本蟇股などに、また、4本面取り角柱が立つ向拝の水引虹梁、向拝桁、本蟇股、手挟などに彩色彫刻が施されている。 いずれも経年により殆どの彩色が剥落していて萎びた感があるが、それが壮麗な装飾の想像を掻き立てる。

△総社本殿(左)と総社拝殿....いずれも国指定重要文化財で、総社本殿は日本最古の総社とされる

△三間社春日造銅板葺の総社本殿....平安時代延長四年(926)の創建で、天神地衹・八百万神を祀る

△壇上積の基壇上に朱塗りの菱垣で囲まれて鎮座する朱塗りの総社本殿....周囲に擬宝珠高欄付き切目縁、側面の縁に格子脇障子

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は木鼻付平三斗で中備は正面のみで本蟇股....水引虹梁と向拝桁に彫刻が施されている

△向拝柱は4の面取り角柱で、柱の真ん中で色が異なっているので木組み工法で補修されているようだ....柱上の組物の間に脚間に彫刻を配した本蟇股を置く

△水引虹梁の木鼻は獅子のようだが平安時代には木鼻はまだ無かったはずだから後補と思う

△正面の扉の種類は三間いずれも御簾が下がっていて不明....長押と丸桁の間の頭貫や梁や組物に彩色彫刻を施している

△向拝の登り高欄/向かって右側面....三間の正面側一間は板扉、脇障子を挟んだ前後は板壁のようだ

△一段高い所に鎮座する比叡神社境内から眺めた総社本殿

△総社本殿(右)の前に建つ総社拝殿....長い入母屋造銅板葺屋根の中央に十字に入母屋屋根を組んだ造りで、十字に組んだ入母屋の両妻に唐破風がある

△総社本殿脇から眺めた総社拝殿....桁行七間で、梁間二間は羽目板

△総社拝殿(国重文)は寛文八年(1668)建立の美麗な建造物



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西来寺-(2) (横須賀)

2024年09月16日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・横須賀市】北条氏の弾圧から逃れるため時の住持六世頓乗は本尊を裏山の岩窟に隠し、長浦の長願寺に逃れて5年間身を隠した。 この間、光明寺の僧が寺号を宝立寺に改めて住持したことを悲観した頓乗は、天正十六年(1588)、京都伏見に草堂を建てて住んだ。
北条氏滅亡の後の天正十八年(1590)、元の西来寺に帰住し、江戸時代慶長七年(1602)の東西本願寺分派の際、東本願寺に帰属して現在に至る。 近年二度の火災に遭い、古い文献を焼失した。

★山門からさらに石段を上がると砂利敷の境内が大きく開け、本堂と鐘楼が建つ。 本堂の裏山に頂上に向かって墓碑が立ち並ぶ墓所が見える。 堂々たる構えの本堂だが、正面はほぼ全面が現代風のガラス入り腰高格子戸と格子窓で光が反射し外の様子が映り込んでいて、歴史あるお寺にしては風情を損なっていて残念だ。 とはいえ、向拝や組物に目を見張るものがある。 向拝柱は几帳面の面取角柱で、下部四方に獅子を浮き出させた装飾の根巻金具を施している。 また、初めて見る身舎の組物も気になった。 柱上に組物があるが、よく見ると柱が丸桁を直接支える構造なので、組物はどうみても飾りだろう。

△石段を上りつめると開けた砂利敷の境内に本堂と鐘楼が建つ....本堂の裏山に墓所があり、山頂に向かって墓碑が立ち並ぶ

△入母屋造本瓦葺の本堂

△正面は十間に見えるが七間(と思う)で、中央間はガラス入りの4枚引き違い腰高格子戸、両脇間は狭い一間が片開き桟唐戸、二間は腰高引き違い戸と格子窓(いずれもガラス入り)

△向拝水引虹梁の獏の木鼻....木鼻は頭貫(虹梁)が柱を貫いた側のみで正面に無し/木鼻は短い鼻、牙が生えている、,毛がカールしている特徴から獏と思う....目はまるで玉眼を嵌め込んだような感じがする

△長押の上は全て白壁の小壁....柱が直接丸桁を支える構造のように見えるが柱頂部に組物がある

△柱が直接丸桁を支える構造なので組物は装飾性が高い....柱の左右から肘木を乗せた小斗を出し、正面に梁から突き出た木鼻を配す

△礎盤に立つ向拝柱は几帳面の面取角柱で、足元四方に獅子像を浮き出させた装飾を配した根巻金具が施されている

★向拝前の天水桶の直ぐ傍に石組井戸があるが、こんなところにと感じるくらい珍しい。 本堂の軒廻りは繁垂木なのだが、なんと正面は二軒なのだが側面は一軒だ。 入母屋屋根の拝は三ツ花懸魚の変形のような意匠、また、妻飾は混成複合式で興味を引く。
本堂境内の南西側に平成二年再建の宝形造りの鐘楼が建つが、吊り下がっている梵鐘は約330年前の元禄九年の鋳造で市内に残る最古のものだという。 鐘楼の墓所寄りに、基部の壁一面に墓碑の石仏を埋め込んだ玉垣の中に、阿弥陀の誓願を表す「諸上善人俱会一處」と彫られた合葬墓が石仏に囲まれてたつ....合掌。

△向拝軒先に箱状樋が下がり、左三つ巴の紋が浮き彫りされた天水桶が置かれている/本堂前にある石組井戸....坪庭に石燈籠が佇む

△側面は十間に見えるが七間(と思う)で、軒廻りは正面が二軒繁垂木なのに対し側面は一軒繁垂木....正面と側面前三間に擬宝珠高欄付廻縁を設けている

△本堂の大棟端に獅子口、拝は三ツ花懸魚の変形のよう、妻飾は混成複合式

△鐘楼越しに眺めた本堂

△基壇上に建つ露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の鐘楼....現鐘楼は平成二年(1990)の再建

△鐘楼に下がる梵鐘は元禄九年(1696)の鋳造で、市内に残る最古のもの

△本堂に向かって右側に鉄筋コンクリートと造りの白壁の庫裡が建つ....昭和五十四年(1979)の竣工で、まるで白亜の館のようだ

△庫裡の屋根は入母屋造りと思う....周囲に裳腰を設け、切妻屋根の玄関など少々複雑な造りのようだ

△昭和八年(1933)建立の墓碑(合葬墓)....阿弥陀経にある「諸上善人俱会一處」が彫られている/墓碑の足元だけでなく玉垣の基部の壁一面に石仏が埋め込まれている....まさに阿弥陀の浄土に往生して上善人と倶に一処に会同してる様子だ

△本堂境内から桜を通して見下ろした山門

△本堂境内から見下ろした山門






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西来寺-(1) (横須賀)

2024年09月11日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・横須賀市】平安時代の弘仁年間(810〜824)、比叡山天台の学僧・定相律師により天台宗の寺として創建され、一乗寺と号した。 寛元四年(1246)、親鸞聖人関東遊行の際、国府津(相川足柄江津)真楽寺において住持乗頓が親鸞聖人の法莚に詣でて浄土真宗に帰依し、寺号を西来寺と改めた。 これにより乗頓が西来寺の開基となる。
戦国時代、一向一揆を恐れた相模国守護小田原城主北条氏直公は領内に一向宗である真宗寺院のあることを許さず、光明寺(浄土宗材木座)の末寺として改宗を厳達された。 宗旨は浄土真宗(大谷派)で、本尊は室町時代後期の作と推定される阿弥陀如来立像。

★境内入口に寺号と宗旨を記した門柱が立ち、切石敷の境内参道の先の石段の上に山門が建つ。 境内に入ると、右手に”亀の池”があり、池の奥に小さな石橋が架かっている。 低い山の傾斜地に造営された境内は三段になっていて、一番低い所に”亀の池”、中段に山門そして高い位置に本堂や庫裡などが建つ。 山門の石段下に、垂乳根が下がる銀杏の老木が聳え、阿弥陀仏の「四十八願道」の石柱が立つ。

△宗旨と山号・寺号が表記された門柱から眺めた境内....手前右手に”亀の池”があり、銀杏の古木だ聳え、石段上に山門が建つ....右上は庫裡

△下段にある”亀の池”....”鶴の池”もあるようだが、庫裡奥の庭園で非公開か?

△”亀の池”の奥に小さな石橋が掛かっている

△境内は三段に造営されていて、中段に山門、上段に本堂、鐘楼、庫裡などの堂宇が建つ

△石垣の上に建つ山門は大正九年(1920)建立で古くはないが趣がある

△”亀の池”の辺に佇む二基の紀念碑....手前は明治十六年(1883)の造立で、いずれも海軍将兵の功績を称えている/奥は明治廿四年(1891)の造立

★山門の建立は大正九年(1920)で古くはないが、凝った造りの袖塀を備えた品のある四脚門だ。 袖塀は白壁に幅広に連子子を配した連子窓を設けた透塀で、趣がある。 親柱と控柱の根元に飾り金具を施し、前後の控柱の頭貫に獅子の木鼻を配していて格式を感じさせる。
板扉に珍しい彫刻が掛けられた山門をくぐると、狭いエリアの地面が緑の苔で覆われ、七分咲きの早咲きの桜のピンクがきれいだ。 山門脇に多くの舟形石仏が鎮座して参詣者を迎えているが、いずれも墓碑で、ほとんどが江戸初期から中期に造立されたものだ…合掌。

△石段上に建つ切妻造桟瓦葺で袖塀を備えた山門....石段下に昭和六十三年(1988)造立の「四十八願道」(阿弥陀仏の誓願)と刻まれた石柱がある

△両側の瓦葺袖塀は、白壁に幅広に連子子を配した連子窓を設けた透塀

△山門は冠木門に屋根を乗せたような造りの四脚門….軒廻りは二軒繁垂木、前後の控柱の頭貫に木鼻を配している

△大棟端に獅子口が乗り、拝は蕪懸魚       親柱と控柱の根元に飾り金具を施している

△控柱上部の頭貫に各2頭の獅子の木鼻がある....梁に笈形をのせて棟木を支えている

△格式を感じさせる佇まいの山門

△珍しい彫刻が掛けられた山門の板扉を通して眺めた石垣の上に建つ本堂....石段右手石垣の中の楕円形の石は後補か?

△山門脇に鎮座数する江戸初期から中期に造立された舟光背形石仏群

△刻まれた年号は元和、正保、寛文、延宝、貞享、元禄などが確認できる

△山門エリアに佇む石燈籠

△早咲きの桜が咲く山門エリアから眺めた上段に建つ本堂と鐘楼

△石燈籠越しに眺めた上段の本堂






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旧永井家住宅 (町田)

2024年09月06日 | 史跡探訪-日本編

【東京・町田市】旧永井家住宅は江戸時代中期(17世紀末)頃、多摩丘陵(町田市小野路町)に建てられた典型的な農村家屋。 多摩ニュータウン建設に伴って町田市に寄贈され、昭和五十年(1975)に薬師池公園の現在地に移築・復元された。 建物は東京都下では最古に属する農家建築で、昭和五十三年(1978)に国指定重要文化財に。
平面は古式の広間型三間取で四方下屋造の構造、デイ(客間)は板敷だがヒロマとヘヤは竹の簀子敷で、天井は三間とも竹の簀子天井。 また、土壁と羽目板の側周りは出入口と2カ所に窓があるだけで開口部が少ない閉鎖的な造り。

★旧萩野家住宅から北側に少し離れたところに旧永井家住宅が東面で建つ。 出入口の左と南側一面の壁だけが板張りで、他は土壁だ。 正面の犬走りに6本の柱が建ち軒先を支えているが、みると、身舎から梁が延び、柱の上で繋いで丸太の丸桁を支えている。 梁はまるで寺社の海老虹梁のようで面白い造りだ。 老朽化した支柱や身舎の柱は「木組み」の工法で見事に補修されている。 正面の庭先に取り外された大棟押さえの芝棟が置かれているが、芝棟を近くで見るのは初めだ、

△東京都下で最古に属する農家の建物で、多摩丘陵に建っていたものを昭和五十年(1975)にここに移築復元された

△寄棟造茅葺の旧永井家主屋(国指定重要文化財)....建築年代は江戸初期~中期(1601~1700年)頃(推)で、桁行15m、梁間8.8m

△平面は広間型三間取りで下手を土間とし、床上にはヒロマ、ヘヤ、デイを配す....側廻りは土壁と板張りで、窓などの開放部が少ない造り

△正面には外壁面を保護するため、犬走りに柱を立てて軒先を支えている

△ダイドコロの左側面(西側)の板張りの突出部は物置部分/正面の軒先は身舎と軒支え柱を繋ぐ海老虹梁を設けて丸桁の丸太を支えている(仏堂の向拝のようだ)

△取り外されて地面に置かれた大棟押さえの芝棟

△正面に2つの窓が設けられ、左の窓は袖壁付きの格子窓

△老朽化した柱が「木組み」の工法にて修復されている

△右側面(東側)は土壁で窓がない

△土壁の下部に石を埋め込んでいる/背面(北側)の土壁にはヒロマの窓が一つだけある

★ダイドコロに入ると広い土間の壁際に唐箕、竈、大八車、座り流し、臼などが展示されている。 土間の梁組の上は、竹の簀子を張った天井になっている。 ダイドコロに面したヒロマの床は竹簀子で、ダイドコロ側の中央部分に腰板を設けて仕切っている。 また、ヒロマも竹の簀子天井だ。 ヒロマ奥の二間の黒ずんだ壁側には、養蚕に使われていた道具類が展示されている。 二間は板床のデイと窓がない竹簀子床のヘヤで、いずれも天井の一部に竹簀子を張っている。 古式の広間型三間取り、 竹簀子床と竹簀子天井、身舎外壁と軒を支える支柱と梁など実に趣があり、興味深い古民家だ。

△正面に土間のダイドコロへの入口がある....土間(ダイドコロ)側面の突出部(物置)まで屋根を葺き下ろしている

△入口から見たダイドコロ(土間)

△ダイドコロに展示されている唐箕、かまど、大八車、座り流し、臼など

△二台の大八車

△ダイドコロの梁組....天井は竹簀子張り

△ダイドコロとヒロマとの境に腰板を設けている....平面は広間型三間取りで、床上にヒロマ、デイ、ヘヤが配されている

△竹簀子が敷かれたヒロマ(広間)....床に組み込んで設けられた囲炉裏/自在鉤に掛かる鍋

△竹簀子敷のヒロマに展示されている養蚕に使われている道具類

△ヒロマの梁組....天井は竹簀子張り

△デイ(出居)の窓から眺めたヒロマ

△窓から眺めた板敷のデイ....戸棚や長持ち(と思う)が展示されている

△デイの梁組....天井は竹簀子張り

△背面(北面)の窓から眺めたヒロマ....内側からみるヒロマ東側の格子窓(しし窓)

△背面(北面)の窓から眺めたヒロマとダイドコロ....仕切りの黒塗りの腰板がある

△窓が無い竹簀子敷きのヘヤ(部屋)

△公園外の福王寺(野津田)薬師堂への参道から眺めた旧永井家住宅
















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旧萩野家住宅-(2) (町田)

2024年09月01日 | 史跡探訪-日本編

【東京・町田市】妻入りの建物は2つの土間(正面・背面)と4つの間から成り、内部の間取りは町屋に似た造り。 正面の広い前ダイドコロと称する土間(側面からも出入りできる)は天井が低く、炊事や作業の場を兼ねた様子がない。
また前ダイドコロは、チョーゴザシキ(調合座敷)と呼ばれる診察室に繋がっているので、患者の待合室として使用されたとされる。 入母屋造り茅葺屋根の外観は普通の農家建築に見えるが、江戸時代末期の農村の医師の建物として貴重な遺構。

★建物後方に主屋から突き出た杉皮葺屋根のベンジョとフロバ、そして後ダイドコロの出入口がある。 西側と北側の一部の軒下は正面の東側と南側、北側の一部の船枻造りとは異なり、竹の垂木むき出しの造り。 後ダイドコロは土間と鉤形板間になっていて、土間にヘッツイ(竈)、板間に囲炉裏がある。板間の西側の出っ張った所がナガシで、座り流しと水瓶とが置かれている。

△建物後方(西側)に突き出た杉皮葺屋根の便所

△便所の北側に杉皮葺屋根の風呂場がある

△杉皮葺屋根の風呂場....手前左の突き出た部分は後ダイドコロの流し場

△北側と西側の軒下は竹の垂木がむき出し

△後ダイドコロ(土間)の突き出た部分には座り流しと水瓶が置かれている/後ダイドコロの流し場には明障子窓を設けている....一般の農家建築では無双窓が多いが…

△流し場に置かれた座り流しと水瓶

△後ダイドコロは土間と板間からなる...土間から見た流し場(右)と腰高明障子戸のフロバ(左)....板間に囲炉裏がある

△後ダイドコロの鉤形の板間

△後ダイドコロのヘッツイ(竈)/ヘッツイから見たナカザシキとチューゴザシキ、奥に前ダイドコロ

△板間に囲炉裏を設け、隅に戸棚が置かれている/囲炉裏の魚の形をした止め木(小猿鈎)

★後ダイドコロからナカザシキを覗くと、9畳敷のナカザシキの西側に一間、北側に二間の大きな戸棚がある。 外に出て建物の北側に....北側は全面が土壁で窓が無い。 正面である東側に回るとチョーゴザシキに格子窓が建て付けられている。
建物の北側の庭に、招き屋根の板倉が建つ。 高床式の板倉は5部屋に分かれていて、前面には揚げ板が張られ、建て柱の上に「ねずみ返し」の板が設けられている。

△後ダイドコロから見た西側面に大きな棚がある9畳敷きのナカザシキ....奥の左チョーゴザシキで右は前ダイドコロ

△ナカザシキの北側面に設けられた二間の大きな戸棚

△住宅の東側のチョーゴザシキに建て付けられた格子窓

△住宅の北側は全面が土壁で窓が無い

△住宅の後方に建つ招き屋根で木皮葺きの高床式板倉....江戸時代末期の建築(推)で、旧萩野家のものではない

△板倉は5つの小部屋からなり、米や雑穀を籾のまま保存する建物....前面は揚げ板、建て柱の上の板は「ねずみ返し」がある

△北側の庭から眺めた住宅....屋根の苔が生えている

△緑に囲まれていて、まるで「日本昔ばなし」にでてきそうな古民家だ















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