何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

浄妙寺 (有田)

2020年02月29日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・有田市】寺伝では、平安時代の大同元年(806)、平城天皇(第51代)の国母乙牟漏皇太后の勅願により創建され、開山は奈良唐招提寺第四世の唐僧如宝律師とされる。 創建時は七堂伽藍の大きな寺院で、平安後期の嘉応元年(1169)、箕島に城を構えた宮崎定範から70石の寺領を受けた。
戦国時代(安土桃山時代)の天正十三年(1585)、羽柴秀吉の紀州討伐に遭い、兵火により僧房や縁起文書などの殆んどが灰燼に帰したが、深い樹林の中の奥の院に在った薬師堂と多宝塔は難を逃れた。
その後永らく荒廃していたが、江戸時代初期の正保四年(1647)、紀州徳川家の初代藩主頼宣(南龍院殿)によって再興された。 頼宣公は、薬師堂・多宝塔に大修理を加え、和歌山吹上寺開山瑞禅師を中興開山として招き、禅刹として現在に至る。 宗旨は臨済宗(妙心寺派)で、本尊は木造薬師如来坐像。 薬師如来像の他に木造の脇侍と十二神将立像(6躯)を安置しているが、いずれも鎌倉時代の造立。 十二神将立像が6躯なのは、平成六年(1994)に6躯が盗難に遭ったため。

参道入り口に立つ「醫王山 浄妙寺」の寺号標石から、高い石垣の裾に沿って続く参道を上っていくと、左手に山の中腹にある境内への石段がある。 両側に手入れの行き届いた植栽がある石段を上りつめると、正面に山を背にして小棟造りの本堂の薬師堂が鎮座している。 薬師堂は鎌倉時代の建立で江戸時代に改築されたものだが、古色蒼然たる風情を色濃く残している佇まいだ。
境内の北側に、左半分が工事用テントで覆われた多宝塔が南面で建つ。 2018年11月の訪問だったが、お寺の方によると「今年の台風21号の猛烈な風雨で損傷した」とのこと。 調べたら、和歌山市では1940年以来観測史上1位の最大瞬間風速57.4メートルが観測されたようだ。
工事用足場とテントを避けるようにして多宝塔を撮影していたら、お寺の方が近づいてきて、薬師堂・多宝塔の写真と浄妙寺由来記が記されたパンフ「醫王山 浄妙寺」を呉れ、「足場の上から撮ってもいいよ」と言って上まで案内してくれたのには、非常に吃驚した。 国の重要文化財に指定されている風格漂う浄妙寺多宝塔....少し興奮しながら直ぐ間近で拝観でき、通常では絶対撮れないアングルでの撮影は感無量だった。 ちなみに、確認できた損傷は白色漆喰の亀腹で、表層の一部が剥離していた。
薬師堂の右手に方丈・唐破風の玄関・庫裡が連なって建つが、多宝塔拝観後に玄関に案内され、閉まっていた明障子戸を開けて正面の白壁に設けられた大きな丸窓を見せてくれた。 裏庭の木々が眺められる丸窓は近年の作で、嬉しそうに自慢されていた。 多宝塔を超間近で撮影するという貴重な体験をさせて頂いたお寺の方に御礼を言って、帰路に....合掌!
 
△参道入り口に立つ山号「醫王山」が刻まれた寺号標石....左の高い石垣の上は浄妙寺の境内/参道から境内への石段....両側に手入れが行き届いた植栽

△両側に石垣がある石段の上部

△石段を上がった境内正面に建つ本堂....薬師堂とも称し、鎌倉時代造立の本尊・木造薬師如来の他、脇侍と十二神将(6躯)を安置

△境内の左手に様を背にして多宝塔、弁天堂、大師堂が建つ

△寄棟造本瓦葺の本堂(重文)....鎌倉時代の創建で江戸時代に改築....本尊薬師如来立像、その他に脇侍や十二神将を安置

△一間向拝の礎盤に立つ面取方柱の上部に粽がある....柱上部に連三斗,水引虹梁の中備に脚間に虎(と思う)の彫刻を施した本蟇股

△正面三間の中央間に飾金具を配した両折両開の桟唐戸、内側に格子戸、脇間に花頭窓と羽目板....手挟は牡丹の彫刻

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備は脚間に彫刻を施した本蟇股、太い軒支輪がある....側面三面は板扉、花頭窓、羽目板

△切妻造銅板葺で丹塗りの弁天堂....右後方は本堂の薬師堂
 
△宝形造桟瓦葺の大師堂....左隣に赤い帽子を被り前垂れをした7体の地蔵尊石像が鎮座/大師堂に鎮座する石造りの弘法大師空海坐像

△本瓦葺の多宝塔(重文)....鎌倉時代中期の創建で、江戸時代に改修....2018年の台風21号で被害を受け、修復中
 
△塔高は相輪先端まで12.95メートルで、塔内の須弥壇に五智如来像を安置

△三間四方の周囲に擬宝珠高欄付き切目縁....中央間に板扉、脇間に盲連子窓と羽目板

△上層の軒廻りは二軒繁垂木で、組物は三手目と四手目が尾垂木の四手先....廻縁を支える腰組は平三斗

△下層の軒廻りは二軒繁垂木で、組物は出組で中備は脚間に彫刻を配した本蟇股、軒支輪がある

△足場が組まれた修復中の多宝塔....お寺の方のサポートで、足場に上って撮影させていただいた

△間近で見る下層の軒下....この角度で拝観するのは始めてだ!
 
△足場を通して眺めた上層と最上部の足場から見た相輪

△亀腹の漆喰が一部剥がれている

△上層の見事な組物....下から見えなかったが、円形の塔身に小さな装飾窓が施されている

△足場の上から眺めた手前から本堂(薬師堂)、方丈そして庫裡

△生垣に囲まれた芝生の境内に建つ方丈と鐘楼
△入母屋造本瓦葺の方丈....江戸時代初期の建築、正面に切目縁、全面ガラス戸だが古民家風の佇まい
 
△切妻造本瓦葺の鐘楼                          梵鐘

△方丈と庫裡の間にある唐破風本瓦葺の玄関.....右に連なって入母屋造本瓦葺の庫裡

△玄関を入った正面の白壁の丸窓

△お寺の方から頂いた薬師堂・多宝塔の写真と浄妙寺由来記が記されたパンフ「醫王山 浄妙寺」

△写真のような優雅な多宝塔を見たかったが、足場を上って間近で撮影できたので、よしとしたい!
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仙波東照宮 (川越) 

2020年02月25日 | 寺社巡り-埼玉

【埼玉・川越市】元和二年(1616)に駿府城で亡くなった徳川家康の遺骸は一旦久能山に葬られたが、家康公の遺言により元和三年(1617)、第2代将軍秀忠が遺骸を日光山に移葬した。 その途中、喜多院に四日間逗留し、喜多院第27世住持の天海僧正(慈眼大師)が導師となって法要を営んだことから、喜多院(中院)境内に東照宮が創建され、寛永十年(1633)に社殿が造営された。
その後、寛永十五年(1638)の川越大火で延焼したが、徳川家光に造営奉行を命ぜられた川越藩主で老中の堀田加賀守正盛により寛永十七年(1640)に再建され、現在に至る。 社殿や神器等は全て江戸幕府の直轄、また、当初から独立した社格をもたず、日光・久能山の東照宮とともに日本三大東照宮の一つといわれている。 主祭神は徳川家康公。

喜多院の南側に鎮座する徳川家ゆかりの仙波東照宮....多院表門前に至る道路の脇に「国指定重要文化財 仙波東照宮入口」と書された箱型の看板が立つ。 入口から境内の木立の奥に建つ鮮やかな朱塗の随身門を眺める。
武官姿の守護神(随身像)が不在の随身門を通して、真っ直ぐ延びる参道に立つ注連縄が張られた鳥居が見える。 参道を進むと石造りの平橋があるが、調べると、この地に壕があって、それに架かっていたようだ。
平橋を渡って少し行くと、石造りの明神鳥居が参道を跨いでいる。 この鳥居は江戸初期の造立で「石鳥居」と呼ばれ、国の重要文化財に指定されている。
石鳥居の先に社殿境内への石段があり、石段の上に三つ葉葵の紋を配した門がある。 門は金属製の扉で、しっかりと施錠されていて社殿境内に入れない。 調べたら、日曜や祝日そして祭事以外、つまり平日は立ち入ることができないとのこと。 門扉前から拝観できるのは、拝殿の他、狛犬や手水鉢そして歴代川越藩主が献燈した石燈籠群で、カメラを門扉の隙間から挿入して撮影した。 本瓦風銅葺で朱塗り拝殿....向拝の組物、三つ葉葵を配した梁、彫刻付き本蟇股、木鼻彫刻それぞれに鮮やかな彩色が施されている。 蛙のような姿をした狛犬そして龍の水口の手水鉢は、いずれも再建時に江戸城から移設されたそうだ。
ネットから本殿の写真を拝借して掲載したが、家康公像が祀られた風格漂う本殿....いつか是非とも拝観したいものだ。

△喜多院表門前に至る道路の脇に立つ「仙波東照宮入口」と書された目立つ箱型看板....奥に木立に囲まれて建つ随身門
 
△入口参道脇に佇む日光東照宮宮司さん造立の「楓樹」と刻まれた石碑/入口参道の奥に立つ表門の随身門....両側に桟瓦葺の袖塀が連なる

△切妻造銅板葺で鮮やかな朱塗の随身門(八脚門・重文)....以前は寛永十年(1633)に後水尾天皇(第108代)から下賜された勅額「東照大権現」が掲げられていた (現在は拝殿内に)
  
△妻面は柱上の平三斗で支えられた虹梁蟇股/二軒繁垂木、組物は出三斗で中備は中央間に裾広がりの間斗束....金剛柵の中に守護神の随身像は不在

△随身門をとして眺めた境内....参道奥に石鳥居が立つ

△参道途中の壕に架かる石造りの平橋....奥に参道を跨ぐ石造りの明神鳥居 (「石鳥居」と呼ばれる)

△「石鳥居」(重文)は寛永十五年(1638)、造営奉行の川越城主堀田正盛が奉納
 
△「石鳥居」から眺めた石橋と随身門/「石鳥居」傍に聳える天海榊(と思う)

△「石鳥居」から眺めた石階段....石段下の左右に石碑が立つ

△石階段の上に三つ葉葵の紋を配した鉄製の扉(正門か)....左右に玉垣が延び、正門を通して拝殿の屋根が見える

△入母屋造本瓦風銅板葺で朱塗りの拝殿(重文)....埼玉最古とされる狛犬は寛永十七年(1640)の再建時に江戸城から移築された

△正面三間で中央間に格狭間を配した両折両開の桟唐戸、両脇間は蔀戸....向拝の柱上に連三斗、梁の中央に彫刻を配した本蟇股、木鼻は獏(と思う)でいずれも彩色が施されている

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は出三斗で中備は脚間に彫刻を配した本蟇股

△拝殿左手の境内....石燈籠群は江戸幕府の重臣だった歴代川越城主により奉納されたもの

△拝殿右手の境内....手前の龍の水口の手水鉢は再建時に江戸城から移設された

△外削ぎの千木と2本の堅魚木が乗る切妻造本瓦風銅葺の本殿、本瓦風銅葺の平唐門の中門、屋根付き瑞垣(いずれも重文)....右上の軒は拝殿と繋がった幣殿 (写真はネットから拝借)
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中院-(2) (川越)

2020年02月21日 | 寺社巡り-埼玉

【埼玉・川越市】寛永九年(1632)に二十八世尊能によって中興され、翌十年(1633)、喜多院で徳川家康の大法要が営まれたことから、中院の境内に仙波東照宮が建立された。 嘉永十五年(1638)の川越大火で焼失したのを機に、翌十六年(1639)、200メートル南方の現在地(境内地内)に移転した。
昭和二十年(1845)に釈迦堂と薬師堂が焼失するも、前者は昭和五十八年(1983)、後者は平成二十四年(2012)に再建された。 南院は明治初期に廃院となり、現在、跡地に数十基の石塔婆や地蔵石仏が残っている。

境内南側ある釈迦堂への参道入口に向かう。 仕切り用の竹の垣に囲まれ、真ん中が切石敷の参道の奥に鐘楼門が見える。 参道を跨いで建つ鐘楼門は、上層・下層いずれも開放的で簡素な造りで、特に、下層は板扉を設けているものの殆ど柱だけの吹き放ちで趣がある。
鐘楼門をくぐると、直ぐ左手の覆屋に、赤い帽子と前垂れをして鎮座する六地蔵尊像が参詣者を迎えている。 参道を進むと、木立の中に、太い竿の石燈籠を構えた昭和後期再建の釈迦堂がひっそりと建つ。 釈迦堂の傍に「狭山茶発祥之地」と刻まれた大きな石碑がある。 調べたら、慈覚大師円仁和尚が開山時、京から茶の実を持参して薬用として境内で栽培したのが狭山茶の始まりらしい。
本堂境内と釈迦堂への参道の間に、生垣を挟んで歴代住持の墓所と「不染亭」がある。 入口に「星野山無量寿寺 仏地院 中院 歴代先徳之墓」と表示された歴代住持墓所に無縫塔や石仏などの石造物が整然と並んでいる。 その中に、頭頂に石仏を載せた幾つかの墓石があり、鎮座する諸仏が瞑想する姿が印象的だ。 「不染亭」は、昭和の文豪・島崎藤村が茶道の師匠である夫人の母堂に贈った茶室だそうで、砂利を敷いた狭い敷地に飛び石が打たれ、生垣の傍に石燈籠と飾手水鉢が置かれていて味わいがある雰囲気。 本堂境内には、藤村書の「不染」と刻まれた石碑がある。
中院から少し北の道路脇に、石塔・石仏(地蔵尊)・墓石などの石造物群が鎮座している南院(多門院)跡がある。

△仕切り用の竹の垣に囲まれ、中央が切石敷の釈迦堂への参道....奥に参道を跨いで鐘楼門が建つ

△寄棟造(小棟造)桟瓦葺の鐘楼門

△下層は板扉と柱だけの吹き放ち、上層には擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす

△軒廻りは一軒疎垂木、西東方向に2本、南北方向に曲がった太い梁1本を設け、南北の梁の中央に梵鐘が下がる
  
△真下から眺めた梵鐘      △正面の柱に板扉が設けられている/△中から眺めた鐘楼門

△鐘楼門の傍で参詣者を迎える六地蔵尊像

△赤い帽子と前垂れをした六地蔵尊像....切石敷の参道奥に釈迦堂が見える

△入母屋造銅板葺の釈迦堂....昭和五十八年(1983)の再建

△三間四方の釈迦堂の軒廻りは二軒繁垂木、組物は出三斗で中備は中央間に蟇股、脇間に間斗束を配す

△釈迦堂前に佇む石燈籠は昭和六十二年(1987)の造立

△正面中央間は格子入り両開の板扉、脇間は格子窓

△大棟に鳥衾付き鬼板、拝に猪目懸魚、妻飾は虹梁大瓶束、側面は羽目板と格子戸
 
△釈迦堂前に立つ仏足が刻まれた碑....「釋迦佛手字」&「釋迦如来雙跡靈相圖」の刻/「狭山茶発祥之地」の石碑....慈覚大師が開山時、京から持参した茶の実を薬用として境内で栽培したのが始まり
 
△本堂境内に立つ昭和五十五年(1980)造立の「敷石供養塔」と昭和の文豪・島崎藤村書の「不染」が刻まれた碑

△寄棟造桟瓦葺の不染亭....藤村が静子夫人の母堂(茶道の師匠)に贈った茶室で、新富町から移築

△民家風の造りの茶室「不染亭」
 
△縁側側は腰高格子戸....砂利を敷いた敷地に飛び石が打たれている....右の生垣の中は歴代住持の墓所/砂利の敷地に置かれた飾手水鉢(元は蹲踞手水鉢?)と下部が土に埋まった織部燈籠

△歴代住持の墓所で「星野山無量寿寺 仏地院 中院 歴代先徳之墓」と表示

△無縫塔の変形とみられる円柱型墓標の上に鎮座する諸仏像

△南院(多門院)跡地に鎮座する石造物群(石塔・地蔵石仏・墓石など)
 
△地蔵石仏と石碑....石碑は昭和四年(1929)の造立で「閻魔堂記念碑」の刻/石塔・地蔵石仏・墓石....手前右の地蔵石仏を乗せた墓石は文化四年(1807)の造立


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中院-(1) (川越)

2020年02月17日 | 寺社巡り-埼玉

【埼玉・川越市】平安時代の天長七年(830)、淳和天皇(第53代)の勅願により天台宗伝教大師最澄の弟子・慈覚大師円仁により創建された無量寿寺の3院(北院、中院、南院)の一つで、当初は無量寿寺仏地院と号した。
江戸初期の慶長四年(1599)に天海僧正(慈眼大師)が喜多院(北院)の住持になるまでは、仏地院(中院)が無量寿寺の中心的な役割を果たしていた。 元和二年(1616)に駿府城で没した徳川家康は久能山に葬られたが、翌三年(1617)、家康の遺骸を日光山へ運ぶ途中、喜多院で天海僧正を導師として大法要が営まれた。 宗旨は天台宗(別格本山)、本尊は阿弥陀如来像。

喜多院から南に約150メートルに仙波東照宮、更に、南に約250メートルの位置に無量寿寺の3院の一つである中院がある。 喜多院訪問の前にまずここを訪れた。
門前は落ち着いた雰囲気で、燦燦と朝日を浴びる2基の石燈籠と標石が門前に立つ。 左側の標石には「日蓮上人傳法灌頂之寺」と刻まれている。 山門をくぐって境内に....緑が茂る境内はひっそりとしていて、切石敷の参道が真っ直ぐ本堂に続く。 右手の植栽の中に、「無量寿園」という砂利を敷いた枯山水風の庭園が広がる。
参道奥に江戸中期に創建された寄棟造りの本堂が建つ。 「無量寿」の扁額の下の腰高格子戸に、ご丁寧に、本尊の写真が掲げられている。 写真の下に、横木を打った小窓を設けていて、多分、本尊を拝観するための覗き窓だとみられる。 本堂の右に、唐破風で花頭窓を設けた白壁の玄関、更に、傍に織部燈籠が佇む庫裡が連なる。 境内北側に朱塗りの通用門があり、袖塀に4本、築地塀に3本の定規筋が入っているが、山門の筋数(袖塀3本・築地塀2本)と異なる…何故かな?

△落ち着いた雰囲気の門前....袖塀には3本、築地塀に2本の定規筋が入っている筋塀

△切妻造桟瓦葺の山門....前方の親柱と控柱との間が狭い変形の四脚門

△寺号標石は昭和五十年(1975)、石灯籠は平成平成十八年(2006)の造立

△二軒繁垂木、拝に猪目懸魚....木口に胡粉が塗られている

△「天台宗別格本山」と「元関東八箇檀林」の聯が下がる山門を通して眺めた境内
 
△両側が庭園の切石敷の参道....右手前に「無量寿園」、左手の桜の木の傍に「中院御詠歌」の石碑が立つ/「無量寿園」の石碑
 
△「無量寿園」は枯山水風の庭園....砂利を敷いたところは元は池か?/庭園内に佇む雪見燈籠

△寄棟造桟瓦葺の本堂....享保十八年(1733)の再建

△三間の広い流れ向拝で、水引虹梁の上いっぱいに横たわる精緻な龍の彫刻
  
△向拝に掲げられた大きな「無量寿」の扁額....腰高格子戸の真ん中の細長い格子部に本尊の写真が掲げられ、また、本尊を拝観するためとみられる横木を打った小さな窓がある/小さな格子窓の上に掲げられたご本尊の写真/廻縁は擬宝珠高欄付き切目縁
 
△龍の彫刻を乗せた水引虹梁に紐のない鰐口が下がる/向拝軒下に下がる風鐸....水引虹梁の木鼻は獅子と像の彫刻....向拝と身舎を繋ぐ梁に大瓶束がのる

△軒廻りは一軒繁垂木で組物は舟肘木、長押の上は小壁で一部に欄窓がある....隅降棟と稚児棟端に獅子口が乗る

△正面七間は中央間三間に腰高格子戸、両脇間四間はガラス戸

△前庭の植栽の中に未開蓮を持って鎮座する出世観音菩薩立像....奥に十三重石塔が立つ

△銅板葺唐破風の玄関と右手に庫裡

△玄関脇の白壁に設けられた花頭窓

△玄関脇の庭にある手水鉢と石燈籠
  
△棗形の手水鉢/△庫裏の前に佇む石燈籠は下部が土に埋まった織部燈籠/庭園に佇む装飾を施した石燈籠

△庫裡側の参道から眺めた「無量寿園」

△庫裡側参道脇に佇む「庚申園」の石碑....境内北側の一角に石燈籠1基あるだけの園?

△庫裏への参道の切妻造桟瓦葺の門(四脚門)....袖塀に4本、築地塀に3本の定規筋が入っているが、山門と異なる?
 
△軒下は簡素な構造....梁の上に大棟を支える大きな板蟇股/本柱に板扉


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あっ、ゴジラだ....!?

2020年02月13日 | 街角スナップ

【名古屋・守山区】名古屋市内の寺社巡りをしていて、名古屋城の守り神である「尾張四観音」のひとつの某寺で怪獣「ゴジラ」に出会った。 その姿があまりにも似ていたので、怪獣ゴジラの姿を模索していた故円谷監督が、偶然、この龍の像を見つけてゴジラを生み出したのでは....と勝手に想像してみた。 円谷監督に失礼か....合掌!
それは、手水舎の水口の龍像なのだが、ごつい造りの像容はまさにゴジラにそっくりで、まるで街を破壊しながらのし歩く怪獣ゴジラを彷彿させる....少しオーバーか!
とはいえ、口から勢いよく火焔を吐き出す映画のゴジラとは違って、口から涎を垂らすように清水を吐き出し、清水の一部が体を伝わって手水鉢に注がれている。 龍像に失礼だが、その姿はまるで、餌を前にして「待て!」を食らっているワンちゃんが口からダラダラと涎を垂れているのに似ているような....。

△「尾張四観音」のひとつの某寺院の切妻造りの手水舎....手水鉢の水口に注目!

△手水鉢の縁に前足を掛けて立つ龍像だが、その姿はまさにゴジラそっくりの像容だ!
 
△ゴジラ似の龍は口から、清水が、まるで唾液を垂らすようにたらたらと流れ出ている
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命徳寺-(2) (秦野)

2020年02月09日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・秦野市】茅葺屋根で薬医門形式の山門は江戸時代初期の建立で、市内最古の建造物とされる。 また、境内には、江戸中期の元文元年(1736)造立の宝篋印塔があり、塔身の四方に如来坐像(四方仏)の浮き彫りが施され、塔身内に空間があり日月のような穴が設けられている。

山門の中心から少し右にズレて本堂が建ち、切石敷の境内参道もくの字に曲がっている。
入母屋造りの本堂は、軒が長く、向拝の唐破風が小さいので大きな建物に見える。 向拝の水引虹梁上の龍や兎毛通の鳳凰、そして木鼻の獅子の彫刻はいずれも精緻で見事だ。 調べると本堂は、江戸初期の再建だが創建時の遺構は内陣周辺のみとのこと。
境内西側の竹林の前に3基の石造物があり、真ん中の宝篋印塔に少し違和感を感じたものの、塔身に興味を引かれた。 宝篋印塔は江戸中期の造立だが、違和感は、基礎・塔身と笠・相輪の色(石質)が異なり、笠・相輪はその形状から宝塔のものを乗せているとみられることだ。 特に興味を引かれたのは塔身で、四方に蓮華座に鎮座する如来坐像が厚肉彫りされ、塔身内に空間があって像頭部の左右に日月(?)の穴を設けている。 見慣れた宝篋印塔とはかなり異なる形で、非常に珍しい石塔とは思うが、少し混乱した。

△山門から眺めた本堂....内陣に本尊の不動明王と眷属の矜羯羅童子&制多迦童子とが鎮座

△百日紅越しに眺めた境内....左手の竹藪の前に宝篋印塔が佇む

△入母屋造銅板葺の本堂....慶安四年(1651)頃の再建で、創建当時の遺構は内陣周辺のみとのこと

△「命徳寺」の扁額が掲げられた中央間は上部に硝子を入れた引き戸の桟唐戸で、硝子に輪宝を配す

△卍を入れた鬼板を乗せた流向拝の軒唐破風
 
△兎毛通は鳳凰の彫刻、水引虹梁上の中央に龍の彫刻があり
 
△虹梁の木鼻は正面を見据える獅子、軒廻りは一軒疎垂木、組物は柱上に舟肘木/大棟端に鳥衾を乗せ卍を入れた鬼板、拝は珍しい形の懸魚、妻飾は狐格子

△石燈籠越しに眺めた向拝

△擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす....両脇間三間は全て硝子入り格子戸

△境内の西側に鎮座する石造物越しに眺めた本堂

△宝篋印塔を中心に右に地蔵尊石仏、左に庚申供養塔が鎮座....宝篋印塔の塔身に特徴があり、笠は宝塔のものを乗せているようだ
 
△元文元年(1736)造立の宝篋印塔....塔身の四方厚肉彫りの如来坐像、頭部の左右に丸穴と半月穴、基礎の正面に銘文/基礎左側面に「大乗妙典三千部供養〇」の刻、後方に妙典などを納める穴があるようだ
 
△明和五年(1768)造立の庚申供養塔....上部の種子は胎蔵界大日如来(アーンク)か?/蓮華座に鎮座する錫杖と宝珠を持つ地蔵尊立像

△本堂の右手に連なる庫裡....2体の小坊主石像が参詣者を迎えている
  
△文政四年(1821)造立の供養塔(と思う)....「十萬枚護摩灰〇塔」の刻/本堂前の右手に建つ切妻造銅板葺の手水舎(水汲み場と思う)/手水舎に鎮座する宝冠を頂く観音菩薩像(と思う)

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命徳寺-(1) (秦野)

2020年02月05日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・秦野市】創建年代や縁起は不詳。 茅葺屋根の山門は江戸時代初期の建立で、市内最古の建造物とされる。 本堂は記録から慶安四年(1651)頃の再建で、創建時の遺構は内陣周りに残っているようだ。 宗旨は天台宗で、本尊は鎌倉時代初期作の不動明王像。 関東地蔵百八霊場第92番札所。

秦野駅の近くを流れる水無川に沿って道を南東に進むと、参道前に聳える巨木の下に「照于一隅」と刻まれた寺号標石がある。
緑樹が茂る参道に梅の古木が立ち並び、途中から真ん中に切石が敷かれた参道になる。 直ぐ右手に芝生の境内があり、緑に包まれて丹塗りの柱と白壁の建物が西面で建つ。 鬼子母神を祀っている鬼子母神殿だ。 鬼子母神殿の境内に石燈籠1基が佇むが、火袋や笠が珍しい形をしていて興味を引いた。
参道に戻って山門に向かうと、門前右手の覆屋に鎮座する六地蔵尊像に迎えられる。 目の前に建つ茅葺の山門は、まるで日本昔話にでてきそうな趣だ。 味わいのある茅葺の山門をじっくり眺めた後、山門をくぐって境内に入ると、直ぐ左右に1本ずつ百日紅の古木が立つ。 左の百日紅はかなり朽ちかけているのだが、幹に菰巻きがあり、枯れつつある枝に支え棒が施されていて、手厚く保護されているのが伝わってくる。
 
△参道入り口の前に聳える巨木の根元に最澄の聖句「照于一隅」が刻まれた寺号標石がある

△参道脇のヒバの木越しに眺めた境内

△真ん中に大きな切石が敷かれた参道....参道両側に立ち並ぶ梅の木

△山門前参道の右手にある鬼子母神殿の境内

△入母屋造銅板葺の鬼子母神殿....階段上の親柱に擬宝珠が乗り、周りに組高欄付き廻縁
 
△正面は菱狭間を入れ桟唐戸で、脇間は小脇羽目、側面に花頭窓....古建築風の造りだが、垂木や組物等がない
 
△石燈籠越しに眺めた鬼子母神殿          △飾手水鉢と珍しい形をした石燈籠

△鬼子母神殿境内に置かれた夫婦狸の置物....昔から福を呼ぶ縁起物とされる信楽焼き(と思う)

△山門前の切妻造銅板葺の覆屋に鎮座する六地蔵尊像

△編み笠を背負い、赤い帽子を被り前垂れをして参詣者を迎える六地蔵尊像

△切妻造茅葺の山門....江戸時代初期の建立

△風情が感じられる茅葺の簡素な山門...用材はケヤキで、当初材をほぼ残している市内最古の建築物

△山門は薬医門形式で、冠木上に男梁を組み、先端に出組斗を乗せ妻虹梁を受けている
 
△拝に梅鉢懸魚、妻飾りは虹梁本蟇股/一軒繁垂木で、垂木の反りが大きい

△本堂境内から眺めた山門....北側の茅葺に草が生えている

△手入れが行き届いた境内は清々しい雰囲気
 
△前庭の百日紅の老木(と思う)....幹に巻かれたこも巻き、枝に支えが施され大切に保存されている/古い幹から育つ若木に白い花が咲いている





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三宮社 (稲沢)

2020年02月01日 | 寺社巡り-愛知

【愛知・稲沢市】平安時代の弘仁九年(818)、空海が性海寺の鎮守として八剣宮を勧請したことが始まりと伝える。 鎌倉時代の文永年間(1264~1275)、熱田大宮司家出身の良敏上人が性海寺を中興したときに置いた鎮守堂が三宮社で、当時、八剣宮、天王社、春日社を祀ったことから三宮社と号した。
三宮社は性海寺の境内に鎮座しているが、明治初期の維新政府の神仏分離令により境内を分けた。 現在の本殿は元禄四年(1691)の建立。 主祭神は建速須佐之男命。

性海寺の堂塔を拝観した後、性海寺と境内を分けた多宝塔左後方に鎮座する三宮社の拝殿に。 拝殿の南側に100mほどの参道があり、明神鳥居と社号標石が小さく見えるが、時間ないので....。 調べたら、標石には「村社 三宮社」の刻。
三宮社は拝殿、渡殿そして玉垣に囲まれて建つ祭文殿と本殿で構成。 「三宮社」の扁額が掲げられた拝殿は、倒壊防止の支棒で補強されて建つ。 拝殿の前に賽銭箱が置かれておらず、また、格天井で四方が吹き放ちの造りなので、まるで神楽殿のようだ。
殿前に狛犬が鎮座する祭文殿は、本殿とともに玉垣の中に建つ。 玉垣の真ん中の少し後方に、元禄時代に再建された流造杮葺の本殿、その左右にそれぞれ二神を祀る小さな変形の流造の境内社が鎮座。 玉垣の外の北側に役行者堂が建ち、前垂れをした役行者像が安置されている。 本殿に隣接する役行者堂だが、役行者は修験道の開祖で仏教に通じていたので性海寺の管轄と思う。
次の訪問先への電車時刻が迫ってきたので、足早に奥田駅に向かった。

△性海寺境内の南端、多宝塔の左後方に鎮座する三宮社

△三宮社は鎌倉時代に良敏上人が性海寺を中興した際に建立した鎮守堂

△切妻造桟瓦葺の拝殿....支え棒で補強されているのは倒壊防止のためだろう

△大きな牛蒡注連縄が張られた拝殿正面に「三宮社」の扁額....拝殿の天井は格天井で、四方吹き放ちの造りで神楽殿を兼ねていると思う

△切妻造銅板葺の渡殿と切妻造桟瓦葺の祭文殿....祭文殿は神様に祝詞を奉げる建物

△祭文殿前の左右に鎮座する阿形吽形の狛犬

△正面三間側面二間の祭文殿....正面中央間は格子戸、脇間は連子窓に縦羽目板、側面は横羽目板

△本殿右側に境内社の「春日社」と「秋葉社」が鎮座.....社殿左側に「八剣社」と「熊野社」が鎮座/変形の流造銅板葺の境内社(春日社&秋葉社)

△玉垣に囲まれた境内に建つ祭文殿と本殿....ご祭神・健速須佐乃男之命を祀る

△流造杮葺の本殿....元禄四年(1691)の再建....擬宝珠高欄付き切目縁、側面縁奥に板羽目の脇障子、浜床がある

△二軒繁垂木、組物は出組で詰組、拝に蕪懸魚、妻飾は虹梁大瓶束

△本殿の北側に鎮座する役行者堂....修験道の開祖役行者は仏教に通じていたので性海寺の管轄のはず

△堂前右の板石碑は大正時代造立の巡拝塔か(修験道霊山の巡拝)....中央上に「奉供養大峯登山五十度」、他に「四国、西国順拝....」の刻、左の石柱にも「奉供養大峯三十三度....」の刻

△切妻造桟瓦葺の役行者堂              △前垂れをして鎮座する役行者坐像
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