何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

氷川神社 (東京)

2016年05月30日 | 寺社巡り-東京

【東京・練馬区】高野台に鎮座する氷川神社で、谷原氷川神社と呼ばれる。
社伝によると、慶長年間(1596~1615)、武蔵国(さいたま市)一ノ宮の大宮の氷川神社から祭神を勧請し、江戸時代初期に創建されたようだ。 江戸時代には南西約100mの位置にある真言宗の名刹・長命寺の境内にあり、谷原氷川神社の別当寺(神宮寺)だった。 明治維新の神仏分離令により現在地に移転。 主祭神は須佐之男命で、境内末社に3神(天照大神、天児屋根命、応神天皇)を祀る。

長命寺参拝後、笹目通りを挟んで斜め向かいに鎮座する谷原氷川神社に向かう。 通りに面して「氷川神社」の額が掲げられている鳥居が立ち、鳥居の間から明るい境内に鎮座する石燈籠、狛犬そして社殿が見える。 境内参道を進んで社殿に....社殿は黒っぽい板張りの壁で、拝殿には横板が張られているが、拝殿後方に回ると、幣殿と本殿には縦板が張られ、本殿は簡素な造りだ。

道路から眺めた谷原氷川神社の全景

「氷川神社」の額が掲げられている明神鳥居越しに眺めた境内..鳥居は昭和五十一年(1976)造立

石燈籠越しに眺めた境内
 
大正七年(1918)造立の獅子の狛犬..左右の台座正面に各一字「奉」「獻」の刻

入母屋造銅板葺の拝殿..嘉永五年(1852)建築

拝殿向拝の虹梁や母屋正面頭貫に鮮やかな線様が入っている..大棟両端に獅子口が乗る
 
拝殿向拝の線様を刻んだ虹梁上に線様を入れた大きな蟇股がのる/向拝に2つの鈴が下がる

拝殿の垂木は二軒で平行垂木

本殿は天保六年(1835)建立
 
拝殿・幣殿・本殿が連なるが、切妻造銅板葺の本殿はかなり簡素

切妻造桟瓦葺の境内末社..左から春日神社(祭神天児屋根命)、皇大神宮(祭神天照大神)、八幡神社(祭神応神天皇)
 
石造り神明鳥居を従えた稲荷神社(と思う)..流造銅板葺の社
 
稲荷神社前に佇む石燈籠と手水鉢..手水鉢は文政十二年(1829)造立か
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長命寺-(3) (東京)

2016年05月28日 | 寺社巡り-東京

【東京・練馬区】新高野又は東高野山と呼ばれたが、その歴史を今に伝えるのは境内にある東高野山奥之院。 奥之院は、増島重俊が慶算阿闍梨の志を継いで紀州高野山の弘法大師入定の地勢を模して造られたので、高野山奥之院を凝縮した形の霊場になっている。 奥之院の石仏や石塔は、徳川家光の一周忌の追悼して承応元年(1652)に安置された。 長命寺の石仏と石塔の数は、練馬区最多。

境内左手の参道入口から奥之院境内に足を踏み入れると、空気が一変する。 静寂に包まれ鬱蒼とした樹林の中に続く参道の脇に、多くの石造物が参詣者を奥之院へ導くように立ち並んでいる。 参道を右に折れると放生池に架かる石造りの御廟橋があり、御廟橋から先に続く新緑に包まれた空間にたくさんの石灯籠や地蔵像、宝篋印塔などが整然と並んでいて、まさに聖地らしい雰囲気を醸しだしている。
弘法大師像が安置されている御影堂の周囲には、空海を見守るようにたくさんの石仏が鎮座....中でも御影堂の裏手に整然と居並ぶ十王像や十三仏群は圧巻で、拝観していると厳かな霊場を感じさせる。 十王像群から少し離れた塀の傍に閻魔大王像が鎮座....大王の形相と鋭い眼光が印象的だった。
 
東高野山奥之院への参道入口..奥之院は紀州高野山の弘法大師入定の地勢を模して整備された/八角石幢..寛政六年(1794)造立..各面に月輪に梵字そして正面に観音供養と十一面観音、右回りで如意輪観音、聖観音、千手観音、勢至菩薩、馬頭観音、準胝観音を刻

奥之院参道入口から少し入った塀側に鎮座する石造物群
 
舟形光背に二重円光、錫杖と宝珠を持つ地蔵菩薩像..貞享三年(1686)造立/右手施無畏委印、左手に蓮華なので聖観音像(と思う)..寛政八年(1796)造立

江戸時代中期~後期の特徴を持つ青面金剛庚申塔2基と観音菩薩像2基..右端は宝永八年(1711)造立の如意輪観音像、2番目は左手持物が蓮華で種子から元文三年(1738)造立の観世音菩薩像
 
青面金剛庚申塔..享和元年(1801)造立        青面金剛庚申塔..正徳二年(1712)造立

参道から眺めた御影堂への直線参道にある石造り御廟橋
 
五輪塔と各輪に種子を刻んだ箱形墓石..慶応三年(1867)造立/基壇上と基礎上の反花が極めて簡素な宝篋印塔(造立年不詳)
 
馬頭観音石仏..文化八年(1811)造立/2基の板碑型墓石..右は元禄五年(1692)、左は寛文十二年(1672)造立
 
笠付型青面金剛庚申塔..造立年号の確認を失念/舟形光背で錫杖と宝珠を持つ地蔵尊像..元禄十二年(1699)造立

放生池に架かる石橋・御廟橋から眺めた奥之院の御影堂

奥之院参道の両側に石灯籠、六地蔵尊像、宝篋印塔等が配置されている

奥之院・御影堂前に並ぶ大きな相輪を乗せた宝篋印塔群..慶安二年(1649)造立

露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の奥之院の御影堂..周囲に十三仏や十王像など石仏が鎮座
  
物語風の彫刻が施された狭間の桟唐戸/御影堂前に佇む句碑/姿身ノ井戸

姿身ノ井戸..昔から姿身ノ井戸の水に顔が写れば長生きできるとの伝えがある
 
御影堂左手に立つ石造五重層塔と聖観音像..聖観音像は享保十七年(1732)造立で右手に与願印、左手に蓮華を持つ
 
御影堂左手に立つ馬頭観音像..明暦元年(1655)造立/如意輪観音像..造立年不詳

御影堂の裏手の石造物群..五重層塔、十王像、五輪塔など

五重層塔越しに眺めた十王像と奥に十三仏像が鎮座..殆どが江戸時代前期造立らしい
 
ひときわ大きな十王像の一人(閻魔王か)/大きな十王像の後方に立つ徳川家康公供養塔
 
2基の石燈籠を従えた江戸初期の五輪塔..慶安三年(1650)造立/反花の台座に鎮座する火輪に隅飾突起を設けた珍しい形の五輪塔
 
十王像群から離れて鎮座する閻魔大王像/閻魔大王像..詣でる人の身代わりとなって苦難を引き受けてくれる「身代わり閻魔」として崇敬を集めた

閻魔大王は六道の地獄の王

石燈籠を囲んで鎮座する十三仏像群

丸彫りの十三仏が鎮座..手前は弥陀定印を結ぶ阿弥陀如来像

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長命寺-(2) (東京)

2016年05月25日 | 寺社巡り-東京

【東京・練馬区】江戸幕府より九石五斗の御朱印を受け、府内八十八カ所十七番霊場となるなど関東における有数の庶民信仰の霊場となり、東高野山と呼ばれて多くの参詣者で賑わった。 当時、紀州の高野山奥之院は女人禁制としていたが、長命寺奥之院は女人の参詣を許していたため、特に江戸の女性の人気を集めていた。

境内の正面奥の基壇の上に3間の広い向拝を設けた本堂が建つ。 向拝の虹梁や蟇股の彫刻が見事、また、向拝石段の両側に錆び付いた金属製の天水桶があるが何故か鎖樋がない。 左側の天水桶には草が見事?に茂っていて、まるで巨大な植木鉢のようで驚いた。
本堂に繋がって右手に受付所があるが、入母屋造銅版葺の屋根を十字に組んだような造りで壮大だ。 受付所前には大きな手水舎が建つが、自然石を刳り貫いて造られた手水鉢のデカさに吃驚した。
境内左手の木立の中に、石幢のような八角形の木遣地蔵堂が鐘楼舎のような建物の中に鎮座している。 また、本堂の左奥には、参道に回向柱が立つ朱柱の八角堂の観音堂が建っている。 観音堂の左には奥之院への裏参道があり、両脇には約300年前に造立された大きな石燈籠や石仏などが居並び、聖地らしい雰囲気を感じさせる。 ここから東高野山奥之院の御影堂へは行かず、折り返して奥之院参道の入口に向かう。

入母屋造本瓦葺風の銅板葺の本堂(金堂)

本堂には不動明王像等を安置
 
三間の広い向拝..両側に天水桶があるが雨水を天水桶に流す鎖樋がない/向拝に鰐口が下がる

火焔宝珠を乗せや常香炉舎越しに眺めた向拝..虹梁や蟇股の見事な彫刻

本堂と渡り廊下で繋がった受付所

入母屋造銅版葺の屋根を十字に組んだ造りの受付所

受付所の入口は唐破風屋根..入り口前に建つ手水舎

切妻造銅板葺で小さな袖塀を従えた手水舎..巨大な自然石で作られた大きな手水鉢

地蔵尊像を安置する木遣地蔵堂
 
鐘楼舎のような建物の中心に鎮座する八角形の木遣地蔵堂(何故「木遣り」と呼ぶのかな?)
 
本堂左に建つ観音堂(右)と御影堂への裏参道/観音堂前の参道中央に回向柱が立つ

銅板葺屋根に露盤宝珠を乗せた八角の観音堂..基壇上に八角燈籠が立つ

二軒で彩色を施した組物と詰物、正面板扉で周囲の窓は連子窓

石燈籠越しに眺めた観音堂..本尊十一面観音像を安置

奥之院への裏参道に並ぶ8基の大きな石燈籠..手前の2基には正徳六年(1716)銘
 
こちらの2基の石燈籠には正徳二年(1712)銘/梵字を刻んだ石標
 
裏参道に観音堂を向いて佇む千手観音像と石像..石像は明治造立だが明治代の住持の供養塔か/円光を背負い頂上に十一面をいただく千手観音菩薩像(千手千眼観自在菩薩像)
 
上下に反花を設けた台座に鎮座する珍しい形の石造物..宝永二年(1705)の造立
 
観音堂を向いて鎮座する石像(住持像か)と骨納塔の五輪塔/興教大師像と石造九重塔..初層初軸に梵字を刻
 
観音堂の傍に立つ「三鈷の松」/奥之院側から眺めた裏参道の石燈籠群

裏参道から眺めた奥之院の御影堂





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長命寺-(1) (東京)

2016年05月22日 | 寺社巡り-東京

【東京・練馬区】江戸時代の慶長十八年(1613)、戦国時代に南関東一帯に勢力を誇っていた小田原北条氏の一族である増島重明によって開創された。  増島重明は、北条氏没落後隠棲し、慶算と号し高野山へ登り木食修行において弘法大師の木像を感得し、谷原に一宇を営んだのに始まる。 重明の家督を継いだ弟の子・増島重俊が、慶算阿闍梨の志を継いで紀州高野山の構えにならって諸堂を建造し、寛永十七年(1640)、大和長谷寺小池坊の僧正秀算が長命密寺と号した。
たびたび火災に遭って伽藍を焼失し、多くの堂宇は明治以降の再建。 現存するのは江戸時代寛文年間(1661~1673)建立の仁王門のみ。 真言宗豊山派で、本尊は十一面観世音菩薩像。

西部池袋線練馬高野台駅から徒歩10分ほどで長命寺の南大門に着く。 南大門の右手に小さい仁王門が建ち、オレンジ色の金剛力士像が鎮座して仏敵から寺を護っているが、仁王像前の格子窓にたくさんの古びた藁草履が下がっている。 南大門の正面と後方にくすんだ黒色の四天王像が鎮座....正面両側の広目天と増長天が参詣者を迎えているが、両天像の大きな白目と瞳が印象的だ。
南大門から境内を眺めると、右手には石仏に囲まれた大きな鐘楼、左手には巨大な舟形光背を背負って鎮座する修行中の弘法大師空海像が立つ。 正面奥の本堂前の常香炉の傍に、石柵に囲まれ左手で与願印を結んだ大きな地蔵尊像が南面で佇んでいる。 地蔵尊像から東の方向に300年前に造立された2基の大きな石燈籠が立ち、その先は東門への参道になっている。

南大門(左)と仁王門が立ち並ぶ門前..南大門前左手に石造十三重塔が立つ
 
石造十三重塔..初層塔軸に四方仏が彫られ、基礎部に輪郭を巻いて格狭間をいれ格子を浮き彫りしている/門前右手の巨石に「東高野山 長命寺」と刻まれた巨大な自然石の石標

切り妻造本瓦葺風の銅板葺の南大門(八脚門)..四天王を安置し、正面に広目天と増長天、後面に持国天と多聞天
 
正面の広目天像と増長天像               後面の増長天像

南大門右側に建つ入母屋造銅板葺の仁王門..寛文年間(1661~1673)建立..門の中の参道奥に立つ石標が見える
 
仁王門からの境内参道の真ん中に立つ「三界萬霊」の石標/「永楽講」の石碑

南大門から眺めた境内..正面奥に本堂(金堂)、右に鐘楼、左に弘法大師空海像と供養塔

仏像に囲まれた鐘楼と西側に佇む弘法大師空海像
 
入母屋造本瓦葺風の銅板葺の鐘楼..二軒で見事な組物、虹梁、木鼻など/梵鐘は慶安三年(1650)鋳造で区内最古

巨大な舟形光背を背にした弘法大師空海像..傍に1500年御遠忌供養塔
 
空海像の後の光背に三鈷を十字にした法輪のようなものがある
 
境内の何カ所かに巨大な礎石が無造作に置かれている/木遣塚
 
本堂前の境内に鎮座する大きな石造地蔵菩薩立像/左手は与願印、よく見えないが右手は欠落(施無畏印?)

東門境内参道に立つ大きな石燈籠..江戸時代正徳二年(1712)造立
 
東門への参道の入り口に立つ山号寺号石標..左に弘法大師と刻された石標

袖塀を設けた切妻造本瓦葺風で銅板葺の東門(薬医門)
 
石燈籠と寺号石標..石標は宝暦三年(1753)造立/手前の石造物は石塔頂部の相輪の一部か

東門からの参道の右手は白壁に囲まれ冠木門を構えた本坊

東門参道から石燈籠越しに眺めた境内..右は本堂(金堂)


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橘寺-(2) (奈良)

2016年05月20日 | 寺社巡り-奈良

【奈良・高市郡】創建当初は東西870m、南北650mの寺領に、金堂、講堂、五重塔など66棟の堂宇が立ち並んでいた。 奈良時代には光明皇后の発願で丈六の釈迦三尊像が講堂に納められ、また、淳和天皇が薬師三尊像を寄贈した。 平安時代の久安四年(1148)の雷火で五重塔を焼失したことなどで衰退したが、太子信仰の隆盛とともに鎌倉時代び復興し、文治年間(1185~1190)に三重塔として再建。 しかし、戦国時代の永正三年(1506)、多武峯の僧兵に焼討され、全ての伽藍を失った。
現在の堂宇は江戸末期の元治元年(1864)から明治にかけて再建された。 昭和二十~三十年代の境内発掘調査で、中門・塔・金堂・講堂が東西に一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置であったことが判明した。 橘寺は聖徳太子が建立した七ヵ寺の一つ。

参道を挟んで観音堂の斜め向かいに建つ経堂の中を覗くと、須弥壇に少しくすんだ金色の阿弥陀如来像が蓮華座に鎮座している。 金色の頭光と身光の二重円光背を背負い、弥陀定印を結んだ阿弥陀如来像と目が合い、静かに手を合わせた。
聖地らしい雰囲気が漂う境内に建つ荘厳な本堂・太子殿で参拝した後、太子殿の左横にある奇石「二面石」に....一つの石の左右に善と悪の相の顔が彫られ、人間の心の持ち方を現しているという。
境内の南側に東西に広がる大きな放生池があり、池に架かる擬宝珠高欄を設けた石橋の上から東側を眺める。 鏡面のような水面に往生院と古木がくっきりと映っている光景....まさにシンメトリーの美しい絵画のようで印象に残った。

参道から眺めた経堂と奥に本堂

火焔付き露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の経堂
 
経堂には阿弥陀如来座坐像を安置/二重円光背を背負い弥陀定印を結んで蓮華座に鎮座する阿弥陀如来坐像

本堂越しに眺めた経堂..周囲に切目縁をめぐらしている

入母屋造本瓦葺の本堂..元治元年(1864)建立、向拝の屋根は重厚な千鳥破風と唐破風

本堂(太子殿)..本尊聖徳太子像を祀る
 
火袋に菊の紋が付いた八角燈籠越しに眺めた本堂/聖徳太子の愛馬の「黒駒像」..愛馬に乗って各地に説法に行った

本堂の周りに擬宝珠高欄を設けた縁と向拝の昇高欄

飛鳥時代の石造物の「二面石」..高さ1mの石に善悪二つの顔を彫りだしたもの
 
右側が善面,左側が悪面で、人間の心の持ち方を現したもの..飛鳥路に点在する謎の石造物のひとつ
 
本堂手前左側にある蓮華塚(畝割塚)

古井戸..聖徳太子も飲んでいたのか?
 
放生池に架かる石橋の先に建つ水神を祀る簡素な御社/擬宝珠欄干を設けた石橋

鏡面のような水面の放生池..古木と往生院が写り絵のようだ

入母屋造本瓦葺の往生院

入母屋造本瓦葺でコンクリート造りの収蔵庫(聖倉殿)

境内の隅に佇む石仏と石碑

本藤脇の西門への参道

西門付近に建つ切妻造桟瓦葺の手水舎..右奥は慈憩堂

大棟両側に鯱が乗る切妻造本瓦葺の西門
 
西門(四脚門)を通して眺めた境内/西門の構造..虹梁、組物、蟇股など

西門参道の入り口に立つ2体の石仏..ピンクの涎掛けと赤い毛糸の帽子が可愛い






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橘寺-(1) (奈良)

2016年05月17日 | 寺社巡り-奈良

【奈良・高市郡】当時この地に「橘の宮」という欽明天皇の別宮があり、敏達天皇元年(572)に聖徳太子が誕生した。 寺伝では、深く仏法を信仰した太子が第33代推古天皇(欽明天皇の第3皇女)に勝鬘経を3日間講讃した夜、蓮華の花が庭に降り積もり、南の山に千の仏頭が現れ光明を放ち(仏頭山)、太子の冠から日月星の光が輝いて(三光石)不思議な事が起こった。 これに驚いた天皇が太子にこの地にお寺を建てるよう命じたので、「橘の宮」を改築して橘寺を創建した。
創建の経緯は明らかでないが、「日本書紀」(天武天皇九年(680))に橘寺の尼坊失火の記事があることから、680年以前の天智天皇期(668~761年)頃建立の尼寺と推定されている。 昔は法相宗であったが江戸中期より天台宗に改宗、本尊は室町時代作の彩色の木造聖徳太子坐像。

岡寺から歩いてくると、東門への参道の入り口に「日本仏法最初地 聖徳皇太子御誕生所」の石標が立ち、傍に小さな地蔵石仏が道案内をするかのように佇んでいる。 緩やかな石段の脇に鎮座する地蔵石仏に迎えられ、石段を上りつめると、歴史ある古刹にしては小さい山門(東門)が立つ。 門柱に「聖徳太子御遺跡 第八番霊場」と「新西国霊場第十番」の掛札が掛かっている。 山門をくぐると境内は厳かな空気に包まれていて、石畳の参道の両側と奥に堂宇が立ち並んでいる。
直ぐ左手の鐘楼の隣の土壇に塔跡があり、中央の巨石に珍しい形の大きな心礎が....約1400年前の飛鳥時代にここに高さ約40mもの五重塔が建っていたとのことで驚きだ。 右側の本坊の西端に、聖徳太子が作ったとされる小さな阿字池と日・月・星の光を放ったとされる「三光石」があるが、全然イメージがわいてこなかった。 本坊の並びの先には、板縁に賓頭盧尊者が鎮座する観音堂、左隣に不動明王を祀った護摩堂が建ち、その先の親鸞聖人像そして宝印塔と写経塔が参拝者を見守っている。

川原寺跡近くから眺めた橘寺の遠景

東門の参道に立つ「日本仏法最初地 聖徳皇太子御誕生所」の石標..地蔵石仏が参詣者を見守っている

橘寺門前の石段の脇に鎮座する地蔵石仏が参詣者を迎えている

切妻造本瓦葺で小さな袖塀を設けた四脚門の東門(正門)

門柱に掛かる「聖徳太子御遺跡 第八番霊場」と「新西国霊場第十番」の掛札

東門から眺めた境内..右手の本坊の築地塀に内門が、左手に鐘楼が建つ
 
鐘楼越しに眺めた堂宇境内..右の屋根は観音堂        入母屋造本瓦葺の鐘楼

鐘楼越しに眺めた本坊..鐘楼左は大きな石に囲まれた土壇

黄色の筋塀に囲まれた本坊..切妻造本瓦葺の内門
 
五重塔跡にある巨大な心礎..創建の飛鳥時代に高さ約40mの五重塔が立っていた/心礎は直径約90cm深さ10cmで、円孔の三方に半円形の孔(そえ柱孔)が掘られている

塀や建物の土壁が剥がれた御堂は経蔵かな?
 
本坊西端の建物の傍に聖徳太子に因む阿字池と三光石がある

南面で建つ入母屋造本瓦葺の観音堂..傍にセンダンの古木が聳える
 
観音堂前にある珍しい形をした天水桶が置かれている

観音堂は安永六年(1777)に本堂として建立、元治元年(1864)に現本堂新築に伴い現在地に移築

「如意輪」の扁額が掲げられ、内陣の須弥壇に二重円向背を背負う如意輪観音菩薩挫像が鎮座
 
観音堂向拝..虹梁上の蟇股などの彫刻が素晴らしい/観音堂の縁に鎮座する賓頭盧尊者像

南面で建つ護摩堂

入母屋造本瓦葺の護摩堂

護摩堂には不動明王像が祀られている

本堂前の石燈籠越しにみた観音堂と護摩堂
 
宝印塔と写経塔                            親鸞聖人像
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岡本寺 (奈良)

2016年05月12日 | 寺社巡り-奈良

【奈良・高市郡】寺伝では、飛鳥時代の第38代天智天皇の岡本宮といわれる旧蹟を伽藍として岡本寺が建てられた。 本堂から約400m離れた治田神社の麓に平成六年に完成した岡本寺道場・遍照殿があり、弘法大師像、愛染明王像、不動明王像などが安置されている。 真言宗豊山派で、本尊の木造如意輪観世音菩薩像は平安末期作で「子安観音」と呼ばれる。

バス停「岡寺前」から鳥居をくぐって岡寺への参道を進むと、途中の道沿いに「岡本寺子安観音」と書かれたたくさんの赤い幟が風に揺れている。 寺域七十坪という狭い境内のお寺で、道脇の石段から僅か数歩の位置に本堂が建っている。
右手の狭い庭に錫杖の柵で囲まれた宝篋印塔・阿字石そして涎掛けをした尊名のわからない石仏がひっそりと佇んでいる。 宝篋印塔の前の立札に、錫杖を鳴らしながら心願をもって右回りすると功徳があると書かれているが、合掌だけしてお寺を出た。

入母屋造本瓦葺で三間三戸の本堂..昭和六十三年(1988)に修復

鰐口が下がる向拝の向拝柱に「岡本寺」と「子安観音」の掛札が掛かっている
  
本堂前に屋根に宝珠をのせた珍しい形の八角香炉がある/切目縁に釣灯籠が下がる/境内に置かれた手水鉢

境内右手に錫杖の柵で囲まれて佇む宝篋印塔..錫杖を鳴らしながら心願をもって右回りすると功徳があるようだ
 
4段の台座上の蓮華座に鎮座...台座上段の月輪に半肉彫りの仏像、また塔身の月輪に梵字が刻..隅飾突起が反りかえり大きく開いているので近世の造立と推

狭い庭に「阿字石」「石仏」「鎮守社」がひっそりとたたずむ
 
「阿字石」..子授け、縁結びのご利益のある霊石/赤い涎掛けをした石仏..風化が激しく尊名分からず
 
石の基壇上に建つ珍しい屋根の鎮守社/境内右手に佇む石仏群

境内右手に建つ2棟の切妻造の御堂
 
切妻造桟瓦葺で妻入りの御堂..多分地蔵堂と思う/手前は切妻造銅板葺で平入りの御堂(こちらも地蔵堂か?)
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治田神社 (奈良)

2016年05月08日 | 寺社巡り-奈良

【奈良・高市郡】創建や由緒は不詳だが、延喜式巻十の延喜神名帳の式内社とされているので平安時代には社があった。 昭和五十七年の発掘調査で、境内地から凝灰岩の基壇や礎石、白鳳時代の古瓦が出土することから八世紀初頭の岡寺(龍蓋寺)創建伽藍があったと推測され、岡寺の鎮守神として祀られていたようだ。 鎮守神は元々は治田氏の祖神(祭神は彦坐命)として奉祀されていた。
室町時代の文安年間(1444~1449)に一時大国主命の和魂である大物主命を奉祀されたことが古書にある。 その後近年まで、社名を八幡宮と称して応神天皇を奉祀していたが、明治時代になって社名を治田神社に戻されて今日に至っている。 祭神は主神を応神天皇とし、素戔嗚尊、大物主命を祀る。

岡寺参拝後、岡寺の西側に鎮座する治田神社へ向かう。 木々が鬱蒼と茂る境内の奥に社殿が見え、建物に掲げられた「治田神社」の文字がまず目に入る。 参道の左手の草むらに「治田神社」の石標が立ち、その少し先に佇む石灯籠の竿に「八幡宮」と刻まれている。
本殿と拝殿の間に幣殿があり、幣殿に鈴が下がり賽銭箱が置かれている。 本殿前に10基の石燈籠が所狭しと立ち、本殿は透き塀でがっちりと囲まれていて近づけない。 拝殿の入口に二宮尊徳と思われる像があり、その下に長い石段が続いている。 白鳳時代の岡寺は治田神社の境内地にあったとのことで、創建時の伽藍を想像しながら神社を後にした。

岡寺側から眺めた治田神社の境内
 
社号石標と竿に「八幡宮」と刻まれた石燈籠     「遥拝所」と刻まれた石碑

境内の奥にこじんまりと建つ社殿

南面する本殿と幣殿と拝殿..社務所は東を向いて建つ
 
本殿前の左右に各5基(計10基)の石燈籠が佇む
 
本殿前に鎮座する阿形吽形の獅子の狛犬

本殿前に立つ石造神明鳥居..本殿は屋根のある透き塀で囲まれている

屋根には男神を表す外削ぎの千木(3本)と堅魚木3本が乗っている..千木と堅魚木の各1本は千鳥破風の屋根に乗っている

流造銅板葺の本殿..棟や堅魚木には三つ巴の紋がある

拝殿の正面
 
幣殿に鈴が下がり賽銭箱が置かれている/拝殿前で読書にふける二宮金治郎像(と思う)..台座に拝殿改築記念昭和二十四年五月銘

拝殿内部..額絵馬が掲げられている

切妻造桟瓦葺の拝殿と幣殿

社務所

大きな舟形の手水鉢

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岡寺-(2) (奈良)

2016年05月05日 | 寺社巡り-奈良

【奈良・高市郡】飛鳥寺他の寺が中世以降に衰退したのに対し、岡寺は観音信仰と厄除信仰(日本最初厄除霊場である)に支えられて寺勢を維持してきた。 江戸時代までは法相宗興福寺の末寺だったが、江戸時代以降は真言宗豊山派の長谷寺の末寺となって今日に至る。 地名から岡寺と通称されるが、正式寺号は龍蓋寺という。 龍蓋寺は、義淵僧正が田畑を荒らす龍神を法力で池に封じ込め、大石で蓋をしたという伝説に由来する。

本堂の斜め前に龍神を封じ込めたという龍蓋池から鬱蒼とした樹林の中に続いている奥之院参道を進む。 参道途中に「瑠璃井」という地蔵菩薩と不動明王に見守られた古井戸があり、清冽な水が湧き出ている....が飲めないそうだ。
参道の突き当りに鎮守の稲荷明神社があり、その右手に「弥勒の窟」といわれる弥勒菩薩像を安置した石窟堂がある。 堂前に鎮座する弥勒菩薩とまるで苔の法衣を着たような地蔵石仏に迎えられ、腰をかがめて少しだけ石窟堂内へ。 石窟の奥には二重円光背を背負って蓮華座に坐す弥勒菩薩石像が瞑想しており、照らされて浮かび上がる様は幻想的だ。
石窟堂から岡寺を建立した義淵僧正の廟所へ向かう。 廟所といっても高台にある巨木の間の根元に宝篋印塔がひっそりと立つだけの場所だが、約650年前から義淵僧正がここから堂宇境内を見守るように佇んでいるように感じられる。 義淵僧正廟所から木立に包まれた狭い参道を進んで、台風で倒壊してから514年後に再建された三重塔へ....飛鳥の地を見下ろす高台に朱塗りの三重塔が建ち、明日香村のランドマークになっている。
 
龍蓋池..故事で義淵僧正が龍神を池に封じ込め石で蓋をしたことから龍蓋寺(正式寺名)という
  
龍蓋池の上方に建つ十三重石塔..昭和元年(1926)造立/蓮弁請花座の上に鎮座、初軸の月輪に梵字が刻/稲荷社と奥之院への参道に立つ明神鳥居

瑠璃井..露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の簡素な覆屋に古井戸があり、弘法大師ゆかりの厄除の湧き水とされる
 
瑠璃井を守るように三鈷を持つ地蔵石仏坐像..後方には利剣を持つ不動明王坐像が鎮座
 
清流が流れ落ちる岩の月輪に種子が刻、また右上に不動明王立像が鎮座

参道脇にある仏足石と石造り板碑

奥之院手前の参道..正面奥は稲荷大明神を祀る稲荷社
 
参道脇に佇む舟形光背を背負った地蔵石仏/丸彫りの修行大師像

奥之院に鎮座する鎮守の稲荷明神社..建立年代不明
 
覆屋の中に建つお社(如意稲荷社)/稲荷社近くにある舟形に彫り込まれた苔生した手水鉢

奥ノ院石窟(「弥勒の窟」といわれる石窟堂)..入口の左に弥勒菩薩像、右に地蔵菩薩像が鎮座
 
石窟の一番奥に鎮座する弥勒菩薩像..二重円光背を背負い、宝塔を持ち、蓮華座に鎮座
 
二重円光背を背負い、両手で宝塔を持つ弥勒菩薩像/まるで苔の法衣を着けているような丸彫りの地蔵石仏..右手に宝珠、左手の錫杖は消失?

義淵僧正廟所の宝篋印塔..室町時代延文五年(1360)の造立
 
義淵は奈良時代の高僧で草壁皇子の住居跡に岡寺を建立した/墓所に佇む十三重多層塔..初軸の月輪に梵字が刻

三重塔..昭和六十一年再建..現治田神社境内(旧境内)に立っていたが文明四年(1472)の台風で倒壊
 
御影石の基壇に立つ朱塗りの三重塔..軒先には珍しい琴形の風鐸が下がる

露盤宝珠が乗る宝形造銅板葺の大師堂..堂前に修行大師像と稚児大師像が鎮座
 
大師堂の須弥壇に鎮座する弘法大師坐像..右手に三鈷、左手に数珠を持つ














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岡寺-(1) (奈良)

2016年05月02日 | 寺社巡り-奈良

【奈良・高市郡】飛鳥時代の天智天皇二年(663)、天武天皇の子の草壁皇子が住んでいた岡宮を、第38代・天智天皇(天武天皇の兄)が当時の仏教の指導者で法相宗の祖・義淵僧正に与え、義淵が寺に改めたのが始まりと伝わる。 当初は不空羂索観音像を祀っていたが、平安時代になって現本尊の如意輪観音菩薩が信仰の中心となり、西国三十三ヵ所観音霊場として発展した。 岡寺は現在、岡山の中腹に位置するが、寺の西に隣接する治田神社境内から奈良時代前期の古瓦が発掘されていることから、創建当時は治田神社の位置にあったと推定されている。
義淵僧正の門下には、奈良時代の高僧・玄や菩薩と仰がれた行基、東大寺創建に関わった良弁僧正など、奈良時代の仏教を興隆した多くの先駆者がいる。 真言宗豊山派で、本尊は天平期作とされる如意輪観音坐像。

明日香村の中心の岡集落の狭い道にあるバス停「岡寺前」で下車....直ぐ傍に立つ石造鳥居をくぐって集落を東へ進む。 暫く行くと坂道の参道となり、登りつめると山腹に五色幕を巡らした朱塗りの仁王門が立つ。 仁王門の軒下を見ると四隅に獅子や龍や虎の形をした建築部材があり、屋根を支えているのが珍しく、面白い。
仁王門をくぐり石段を登ると、堂宇が南面して東西に並んでいるが、ひときは大きい本堂は西国観音霊場札所にふさわしい威容を誇っている。 本堂の向拝に立って薄暗い堂内の奥を覗く....白く浮かび上がった如意輪観音像と目が合い、慌てて手を合わせた。 如意輪観音像参拝後、厄除鐘が下がる鐘楼に行き、一礼合掌一打してから龍蓋池に向かう。

岡集落の中の参道入口に立つ石造明神鳥居..治田神社の鳥居

坂道を登り切った参道から眺めた門前の佇まい
 
門前の拝観受付の傍の地蔵石仏と六字名号板碑(と思う)/地蔵石仏は右手に持つのは錫杖ではなく未開蓮のように見える

入母屋造本瓦葺の仁王門..江戸時代慶長十七年(1612)再建

仁王門は飛鳥で現存最古の建築..門前左に「日本最初厄除観音」の石標が立つ
 
仁王門には仏敵を追い払う阿形と吽形の金剛力士像が厳しい形相で鎮座

軒下の四隅に屋根を支える阿吽獅子・龍・虎の形をした建築部材が見える
 
仁王門から眺めた境内..左手に切妻造本瓦葺の手水舎、左手上は新書院、正面奥に石造物がある
 
石段の下に参詣者を迎える石造物が鎮座..錫杖と宝珠を持ち蓮華座に坐す丸彫りの地蔵石仏

石段を登りつめた処の社務所の傍から眺めた境内

石段を登りつめた処に建つ入母屋造桟瓦葺の寺務所

境内左手の白壁の築地塀の中に建つ本坊(旧書院)は仁王門と同時期の建立..新書院は旧書院の西側に建つ

本坊(旧書院)前の切妻造本瓦葺の門
 
門から眺めた落ち着いた雰囲気の旧書院(非公開)..江戸初期寛永二十一年(1644)建立

旧書院前に建つ小さな入母屋造本瓦葺の楼門..江戸初期の慶長年間(15966~1615)建立
 
独自の形式の小さな鐘楼門で珍しい遺構..朱塗りの楼門の上層に組高欄を設けている/旧書院・楼門・開山堂・本堂が南面して東西に並んで建つ

入母屋造銅板葺で妻入りの開山堂(三間堂)..江戸時代寛政九年(1797)頃の建立
  
阿弥陀三尊像を祀る開山堂の前面には桟唐戸と両側に花頭窓/八角燈籠越しに眺めた開山堂

入母屋造本瓦葺で妻入りの本堂..江戸時代文化二年(1805)建立

荘厳と偉容を見せる本堂..唐破風の向拝で五色幕を巡らしている
  
露盤宝珠を乗せた宝形造銅板の常香炉舎..本棟と唐破風に獅子口が乗る/蓮華形の常香炉越しに眺めた本堂向拝/本堂前の縁に鎮座する十六羅漢の第一尊者・賓頭盧尊者の像

本堂の向拝..観音信仰と厄除信仰の寺らしい雰囲気,堂内奥に4mを超える本尊の塑造如意輪観音坐像のお顔が..
 
内陣に鎮座する威厳に満ちた結跏趺坐の如意輪観音像..天平時代作で像高4.58m、右手は施無畏印、左手は与念印を結ぶ
 
入母屋造銅板葺の鐘楼..本堂と同時期の建立で、下半分を羽目板で覆っている















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