何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

一乗寺-(4) (加西)

2024年05月26日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・加西市】一乗寺には7~8世紀造立の金銅仏や平安建築の三重塔など奈良・平安時代の寺宝が数多く残されていて、国宝や国指定重要文化財が数多くある。 国宝としては「絹本著色聖徳太子及び天台高僧像10幅」と「三重塔」で、いずれも平安時代のもの。 重要文化財の建物としては、江戸時代初期再建の本堂の他、鎮守社の護法堂、妙見堂、弁天堂がある。 その他、飛鳥時代末~ 奈良時代初(7世紀後半)の金銅仏である本尊の聖観音菩薩立像や石造五輪塔が重要文化財に指定されている。

★本堂後方の境内に4棟の御堂が建つ。 西側の山裾に並んで建つ檜皮葺の2棟は、いずれも室町時代建立の三間社流造り妙見堂と一間社隅木入春日造りの弁天堂。 いずれも風情を色濃く残す雰囲気で、悠久の時を感じさせる御堂だ。 少し本堂寄りの傾斜地に、仏法守護神で北方世界を守護する毘沙門天を祀る一間社春日造り檜皮葺の護法堂が鎮座しているが、さらに古い鎌倉時代の建立だ。

△本堂(金堂)裏手の山裾の境内に鎮座する右から妙見堂、弁天堂そして行者堂

△南面で鎮座する檜皮葺屋根の弁天堂(左)と妙見堂(右)(いずれも国指定重要文化財)

△一間社隅木入春日造檜皮葺の弁天堂....室町時代の建立で、福徳・除災・得勝・音楽などを司る弁財天を祀る

△弁天堂は二軒重垂木で軒支輪がある....高欄のない側縁奥に板脇障子....大棟に鳥衾付き鬼瓦、拝は蕪懸魚、妻飾は豕扠首

△三間社流造檜皮葺の妙見堂....室町時代の建立で、国土守護・災害滅除・福寿増長の妙見菩薩を祀る

△二妙見堂は軒繁垂木、向拝柱の上に連三ツ斗、下に浜床、大棟に鬼瓦、拝は猪ノ目懸魚、脇懸魚は蕪懸魚、側縁の奥に板脇障子

△露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の行者堂(護摩供の道場)....寛文年間(1661~1673)の建立で、役行者と前鬼・後鬼を祀る

△一軒繁垂木で組物は柱上に舟肘木.....周囲は白壁で正面と右側面に入口がある

△本堂(金堂)真裏の山の石段の上に鎮座する護法堂(国指定重要文化財)....仏法守護の毘沙門天を祀る

△一間社春日造檜皮葺の護法堂.....鎌倉時代の建立

△護法堂は二軒繁垂木で軒支輪があり、向拝柱上の組物は連三ツ斗、柱間に本蟇股.....組高欄付き縁がある

★本堂から奥の院に向かう。 本堂から5分ほど山に入った処の石垣の上に、一乗寺開山の法道仙人を祀る開山堂がひっそりと建つ。 開山堂に設けられた廻縁と周囲の柵の上にびっしりと小石が置かれていて、多くの人が参詣していることが分かる。  開山堂から20メートルほど山を登った所に「賽の河原」があるので、参詣者はそこから石を持ってきたものと思う。 とはいえ、開山堂と賽の河原は関係がなさそうだが....。
ごつごつとした岩の参道を上ると、数体の地蔵菩薩像が鎮座する浅い洞窟があり、その前に積み上げた小石が所狭しとある。  亡くした子供や水子の菩提を弔うために多くの親御さんが石を積んで地蔵菩薩に弔いをお願いしたのだろう....合掌。

△奥の院への参道から眺めた本堂/ 奥の院近くの切石敷の参道....先には苔むした緩やかな石段がある

△緩やかな石段参道の奥の石垣の上に建つ開山堂

△奥の院の開山堂には一乗寺の開山・法道仙人を祀る

△露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の開山堂....江戸時代前期の寛文七年(1667)の建立

△三間の中央間に桟唐戸、両脇間に花頭窓....身舎の柱は円柱で、向拝柱は面取り角柱

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は平三ツ斗で中備は脚間に彫刻を施した本蟇股、周囲に高欄のない切目縁を巡らす

△開山堂の西側面....2つの花頭窓と舞良戸風の引違い戸、小さな格子窓がある

△廻縁には奥の賽の河原から持ってきたとみられる石が置かれている/開山堂傍に建つ唐破風の笠を乗せた三界萬霊塔....延宝八年(1680)の造立で梵字と「三界萬霊有無兩縁等」が彫られている....梵字は胎蔵界大日如来の「ア」か?

△開山堂から20メートルほど上った所にある「賽の河原」....浅い洞窟の処が行き止まり/湧き水が流れているのでこれを三途の川と考えて「賽の河原」と名付けたものと思う....この地は台風で少し崩れたようで賽の河原にあるはずの九重石塔が見当たらない

△子供や水子を亡くした親が菩提を弔うために積んだ小石群

△洞窟内に鎮座する地蔵菩薩石仏群....合掌



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一乗寺-(3) (加西)

2024年05月21日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・加西市】中世(鎌倉~室町時代)においては、山内に真言律宗の律院が併設されていた。 真言律宗の宗祖・興正菩薩叡尊が鎌倉時代の弘安八年(1285)、一乗寺にて仏教活動を行い2124人に菩薩戒を授けた。 正応三年(1290)には、後に後醍醐天皇・後村上天皇の護持僧となる文観房弘真(13歳)がこの地で真言律宗に入信、真言律宗の僧・巌智律師に入室し、叡尊の高弟・観性房慶尊のもと得度した。

★三重塔境内から3番目の石段を上っていくと、眼前に舞台造りの本堂が迫ってくる。 斜面にせり出して建つ本堂は、古色蒼然たるたたずまいで歴史を感じさせる。 五色幕が張られた正面に古びた「大悲閣」の扁額が掲げられているが、向拝がなく入口への階段がない。
少し右に進んで左に折れると、趣のある腰袴付きの鐘楼が建ち、本堂に沿って参道が奥に延びている。 周囲に切目縁を設けた本堂の東側面の意匠を拝観しながら背面に回る。

△三重塔境内から見上げた入母屋造本瓦葺の本堂(金堂)....本尊の銅像聖観世音菩薩像(秘仏)を祀る

△3番目の石段下から見上げた本堂

△斜面にせり出した舞台(懸)造りの本堂(国指定重要文化財)....飛鳥時代の白雉元年(650)、第36代孝徳天皇による建立....現建物は江戸時代前期寛永五年(1628)の再建

△軒廻りは二軒重垂木、組物は出三ツ斗で中備は間斗束....長押の上に「大悲閣」の扁額が掲げられている

△舞台造りで南面の正面からではなく背面から本堂に入る....本堂正面九間の内の五間は両折両開の桟唐戸、両端二間と側面二間(連子窓)に五色幕が張られている

△本堂正面(南面)の縁(切目縁)の床下....左は下の境内に建つ三重塔

△正面から右に折れ、本堂脇の参道を進んで本堂入りに....右側(東側)の建物は鐘楼

△入母屋造本瓦葺の袴腰鐘楼....江戸初期寛永六年(1629)の建立で、軒廻りは二軒繁垂木、組物は出三ツ斗

△本堂側面は八間で一間は両開き桟唐戸、五間は舞良戸風の引違い戸(五色幕が張られた二間は失念)

△本堂への入口階段傍から眺めた本堂東脇の参道....左側は袴腰付き鐘楼

★本堂の背面には手水舎が建ち、本堂に上がる片側のみに登高欄を設けた階段がある。 階段を上がって縁を進み、本堂から腰袴付き鐘楼を拝観しながら本堂正面に。 正面に回ると眼下の三重塔が目に入り、素晴らしい眺望が現れる。 両折両開の桟唐戸から外陣に入る。 密教寺院の特長である広い外陣があり、大きな2つの「南無観世音」の赤い提灯が下がる。 内陣とは格子壁で仕切られていて、まるで参詣者に内陣を見られるのを拒んでいるかのようにみえる。

△桁行九間、梁間八間の本堂の背面(北側)....背面の縁には擬宝珠高欄が無い

△向かって左手(東側)の階段から本堂に上がる....背面は五間に扉、四間横羽目板....手前の建物は手水舎

△切妻造本瓦葺の手水舎/寺社形手水鉢は江戸時代正徳四年(1714)の造営

△階段を上がってみた本堂東側の切目縁

△袴腰付き鐘楼は桁行三間、梁間二間....屋根の大棟、降棟、隅棟の端に鳥衾付き鬼瓦、拝は猪ノ目懸魚、妻飾は豕扠首

△上層周囲に組高欄付き切目縁....周囲の外壁には格子窓が設えられている/「一乗寺」の銘が打たれた梵鐘

△正面の両折両開の桟唐戸....一部の戸に連子を入れている/本堂は広い外陣、閉鎖的な内陣、脇陣、後陣から構成されている

△内陣は五間の格子壁と菱格子欄間そして引き違い板戸で外陣と仕切られている

△引き違い板戸で仕切られている....三間の厨子に本尊聖観音立像(国指定重要文化財)と左右に不動明王・毘沙門天像を安置....飛鳥時代末~ 奈良時代初造立の金銅仏でいずれも秘仏

△三間の広い外陣に「南無観世音、左三つ巴、法輪」が描かれた赤提灯が下がる

△外陣に鎮座する十六羅漢の第一尊者・賓頭盧尊者/外陣の格天井の模様は木札?....改修前は巡礼者が打ちつけた大量の木札があったそうな


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一乗寺-(2) (加西)

2024年05月16日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・加西市】”天竺から紫雲に乗って飛来”云々の真偽は別としても、兵庫県東部地域に法道仙人が開基したとの伝承を有する寺院が集中しており、伝承の元となる中心人物が実在した可能性は否定できない。 また、一乗寺の付近には奈良時代に遡る廃寺跡や石仏などが存在することから、この地域一帯は早くから仏教文化が栄えた地のようだ。

★常行堂境内から上の段に建つ三重塔の三重目の屋根が木立の上から顔を出している。 2番目の石段を上って三重塔境内に....常行堂境内よりも狭いが、静謐な空気が満ちる中に国宝の三重塔が聳え立つ。 平安後期建立の和様建築で日本最古の塔の一つとされ、国内で十指に数えられている古塔だ。 古代の塔らしく上重の逓減率が大きく、また相輪が長く大柄なので安定感があり、実に調和のとれた優美な姿だ。 本堂境内から三重塔を見下ろした時、初重と二重の屋根瓦が気になった。 ところどころ変色したかなり古そうな瓦が葺かれているので、奈良元興寺の古瓦・行基瓦を思い出した。

△青銅製燈籠が佇む常行堂境内から眺めた三重塔....青銅製燈籠は昭和十一年(1936)の造立

△常行堂境内に鎮座する石造物群....宝篋印塔は享保五年(1720)の造立

△三重塔境内への36段の石段市から見上げた三重塔....さらに上に建つ本堂が少し見える

△本瓦葺の三重塔(国宝)....平安時代承安元年(1171)建立の和様建築.で日本最古の塔の一つとされる....国内で10指に入る古塔また兵庫県下に現存する最古の塔婆

△三重塔は総高約21.8メートルで相輪は約7メートル....建築年代が明確で奈良・京都以外の地域に現存する最古の三重塔/塔内に本尊五智如来を祀る

△三重塔の書租の軒廻りは二軒重垂木、組物は三手目が尾垂木の三手先、中備は本蟇股(刳抜蟇股)....軒天井と蛇腹支輪がある

△三間中央間は板扉、両脇間は盲連子窓....初層周囲に設けた幅が広い広縁は高欄なしの切目縁

△二層目の軒廻りや組物、中備は初層と同じだが回縁は組高欄付き切目縁

△三層目は二層目と同じ造りだが蛇腹支輪と軒天井がない

△三重塔は各部材の寸法が太いので重厚な意匠を持つ....また反りの強い尾垂木や飛檐垂木を用いて深い軒を出している/軒がかなり深く上重の減衰率が大きくなっているので安定感がある....初層の切目縁がかなり広いことが分る

△本堂境内から眺めた三重塔....総高さにおける塔身部と相輪長さの占める割合のバランスがいい....初重と二重の屋根瓦は行基瓦風でかなり古そうだ/相輪は塔身部に比して長く大柄....心柱は初重天井上の梁から立っている、また、二重・三重の四天柱が省略されている

★同じ境内に三重塔に対面して法輪堂が建つが、江戸中期の建築なのだが新しい建物のようにみえる。 周囲に鎮座する石仏たちに見守られながら聳える古びた三重塔とは対照的で面白い。 法輪堂は修築などが行き届いているのだろう、漆喰壁と腰壁のなまこ壁の白さが眩しい。

△露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の法輪堂(経蔵)....四方は漆喰壁で腰壁はなまこ壁

△本瓦葺の唐破風の入口....兎毛通は蕪懸魚、虹梁に龍の彫刻があるが頭部と片腕が欠落しているようだ

△入口は腰高格子戸....梁に掲げられた扁額は「法輪堂」か?/法輪堂は江戸時中期の宝暦十二年(1762)の建立で、黄檗版一切経が納められている

△側壁に花頭窓を設けた法輪堂脇から眺めた三重塔

△三重塔の山側に石造りの屋根付仏龕に鎮座する石仏群

△三重塔境内から見上げた上の段に建つ本堂


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一乗寺-(1) (加西)

2024年05月11日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・加西市】孝徳天皇の時代の白雉元年(650)、天竺から紫雲に乗じて中国朝鮮を経て飛来したとされる法道仙人が創建した伝わる。 法道は伝説的人物だが、神通力で鉄鉢を自在に飛ばし、山里から米などの供物を得ていたため「空鉢仙人」と呼ばれていた。 法道の評判は孝徳天皇の耳にも入り、天皇の病を法力で治癒させた縁で、天皇が金堂を建て「一乗寺」の勅額を与えたとされる。 宗旨は天台宗で、ご本尊は聖観世音菩薩像で白鳳時代作の金銅仏。 西国三十三所第26番札所。 播磨西国三十三カ所第33番札所。 神仏霊場巡拝の道第77番霊場(豊饒の道兵庫第12番)。
<文化財(建造物): 国宝 =三重塔/国指定重要文化財=金堂、護法堂、妙見堂、弁天堂>

★まずは、県道206号線に面した一乗寺の境内入口から東に向かい、約500メートル上った峠の道路脇に建つ山門を拝観する。 西に約550メートル離れた所にも同じような門が建つことから、往時には広大な寺領を有す大寺であったことが窺い知れる。 とはいえ、いずれも規模が小さく簡素な造りなので、大寺の山門らしくない。
境内入口に戻り、道に沿って流れる側溝に架かる緩やかな反橋を渡って境内に。 参道の真ん中に総高は約3メートルの石造り笠塔婆が佇んでいて参詣者を迎えている。 二重の反花座台石の上に建つ笠塔婆は約710年前の鎌倉末期の造立で、大日如来の梵字と金堂(本堂)からちょうど一町の距離にあることが刻まれている。

△一乗寺前の県道206号線を東へ約500メートル上った峠の道路脇に建つ一乗寺山門

△切妻造本瓦葺の山門は東門....一乗寺前から西側に約559メートル離れた所に同じような形の西門が建つ

△規模が小さい簡素な造りの薬医門形式の山門....一乗寺の伽藍の規模にしては東西門いずれも小さい

△門前の全景....門前右手に昭和四十一年(1965)造立の「法華山一乗寺」と彫られた寺号標石が立つ

△入り口の境内前を流れる側溝(小川?)に架かる幅広の小さな石橋(反橋)....2つの切石敷参道の間に常香炉が置かれ、石造笠塔婆が立つ

△石橋の脇に建つ道標/向かって右手に建つ歓喜院の石垣そして土塀に沿って流れる小川

△入り口の参道中央に常香炉と石造笠塔婆、右手歓喜院の石垣土塀の傍に宝暦十二年(1762)造立の石燈籠が立つ

△二重の反花座の台石上に建つ石造笠塔婆鎌倉末期の正和五年(1316)の造立....上部に胎蔵界五仏の大日の梵字を刻む....塔婆の位置は本堂からちょうど一町(約109m)の距離にある/笠の軒下端に薄く平板状の垂木型を刳り出し、頂部に蓮弁を刻んだ請花・宝珠をいただく

★伽藍は山間の傾斜地に階段状に造営されていて、本堂までは三つの石段がある。 山裾の境内を奥に進むと木々に覆われた最初の急峻な石段がある。 まずは石段右手奥の傾斜地に佇む鎌倉末期造立の五輪塔を拝観する。
最初の石段を上ると狭いが静寂な境内に常行堂(阿弥陀堂)がひっそりと建つ。 奈良時代に聖武天皇の勅願で創建され、その後、二度の焼失・再建を繰り返したが明治元年に再建された。 さほど古くはない御堂だが、歴史を感じさせる佇まいだ。

△入り口境内の正面奥に堂宇境内への急峻な石段がある....左手の白壁の建物は宝物館

△左に山号寺号標石、切石敷参道に回向柱が建ち、石段下の右手の奥に五輪塔がある

△傾斜地の木立の中に鎮座する石造五輪塔

△鎌倉末期の元亨元年(1321)造立の石造五輪塔(国指定重要文化財)

△空(宝珠)、風(受花)、火(笠石)、水(塔身)、地(基礎)の五大各輪に梵字が刻まれている

△回向柱の傍から眺めた境内の入り口

△最初の常行堂(阿弥陀堂)境内への急峻な石段(76段)....山腹に建つ本堂へは三段に分かれた石段(計161段)を上る

△石燈籠越しに眺めた常光堂(阿弥陀堂)....第45代聖武天皇の勅願で創建されたが、室町時代嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で焼失

△露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺で裳腰を設けた常行堂....天文二年(1533)に再建されたが再び焼失、明治元年(1868)に再々建された

△正面五間で中央間三間は引き違いの腰高格子戸で両脇間は引き違いの縦羽目板戸

△身舎の軒廻りは二軒繁垂木、組物は柱頭に出三つ斗、中備は本蟇股(刳抜し蟇股)

△裳腰の軒廻りは二軒繁垂木、組物は出三つ斗で中備無し

△側面五間で二間が格子戸、三間が横羽目板張....正面側一間のみに高欄付縁/簡素な組高欄風の高欄付き縁

△常行堂境内に鎮座する大正十五年(1926)造立の地蔵尊立像/常行堂の左側面側に置かれた水口のない手水鉢

△青銅製燈籠越しに眺めた常行堂






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津久井浜駅傍の庚申塔

2024年05月06日 | 石仏巡り

【神奈川・横須賀市】「万代会館」訪問のため京急久里浜線の津久井浜駅を降りると、駅前に浅間神社の大きな社号標石と三基の庚申塔が大きな基壇の上に鎮座。 さらに、駅から坂道を少し上がったところにコンビニ店があり、その脇の丁字路の角に四基の庚申塔が鎮座し、いずれも駅に行き交う津久井の人々を見守っている。

★駅前の三基はいずれも「青面金剛」と刻まれた駒形文字庚申塔で、一基は明治期、二基は江戸時代後期の造立だ。 庚申塔には造花だが供えられていて、津久井の方々に手厚く保存されていることがわかる。 青面金剛は駅に背を向けているが、駅利用者に降り掛かりそうな悪疫を調伏しているのだろう。

△京急津久井浜駅前に鎮座する社号標石「村社浅間神社」と三基の庚申塔....社号標石は昭和十五年(1840)の造立

△三基の庚申塔の造立年は左から明治四十一年(1908)、文化十三年(1816)、文政七年(1824)

△駒型青面金剛文字庚申塔(日月瑞雲、3猿)/三猿

△駒型青面金剛文字庚申塔(日月瑞雲、3猿)/剥落した三猿の跡

★津久井浜駅近くのコンビニ傍の基壇上に鎮座する四基の庚申塔。 いずれも全体の形状が異なる。 駒型の青面金剛文字庚申塔を除く三基は風化による摩滅や剥落が進み像容や文字がわからない。 三基のうちの一基は笠付き角柱型青面金剛庚申塔で、邪鬼を踏みつける青面金剛が左手で合掌する女人(ショケラ)の髪を掴んでぶら下げている。 二基目は合掌する地蔵尊像が浮き彫りされたもので、庚申塔と思う。 最後の一基は自然石を用いた庚申塔で、摩滅や剥落が激しく、浮き彫りされた猿とみられる像のみが確認できるものだ。

△津久井浜駅近くのコンビニ傍に佇む庚申塔....花が添えられ手厚く供養されている

△磨き石の基壇の上に鎮座する四基の庚申塔

△左は駒形青面金剛文字庚申塔、右は笠付角柱型青面金剛庚申塔/笠付角柱型青面金剛庚申塔(日月瑞雲、邪鬼、3猿)は文化五年(1808)の造立

△浮き彫りされた悪疫を調伏する六臂の青面金剛像....「剣&人持型」と思うが剣は確認できず/左手で着物を着て合掌する女人(ショケラ)の髪を掴んでぶら下げている

△謹慎態度を示す三猿と青面金剛に踏まれている邪鬼....邪鬼の左右の盛り上がりは「鶏」か?

△舟光背型地蔵菩薩庚申塔....造立年は摩滅していて不明/合掌する地蔵立像が浮き彫り

△風化・剥落が激しく、種類及び造立年不明の自然石型庚申塔/向かって左下の浮彫り像は猿の一匹か?

△庚申塔の後方に並べられた幾つかの五輪塔と宝篋印塔の各部位....宝珠と受花が多い
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万代会館-(2) (横須賀)

2024年05月01日 | 史跡探訪-日本編

【神奈川・横須賀市】昭和三十四年(1959)に順四郎氏が逝去した後は、妻トミ氏が継承した。 昭和五十三年(1978)に建物と敷地が横須賀市に寄贈され、整備後、昭和五十四年(1979)から「横須賀市立万代会館」として公開された。 4,000㎡を越える敷地に純日本風・数奇屋作り風の3棟茅葺屋根の建物が建ち、芝生の日本庭園がひろがる。 
「万代会館」の名称に違和感を感じたので「旧万代邸」と記した。 辞典では会館とは「集会・会議・儀式などに用いる目的で建てた建物」とあるが、この建物は万代氏夫妻が住んでいた邸宅であり、また歴史的価値があるので「旧万代邸」と呼ぶべきと思うが....。

★真ん中の棟からは庭園全体を見渡せられ、特に応接間は絶好の位置にある。 納戸を挟んで右側に建つ棟は、八畳敷和室一間(「椿」の間)と後方に湯沸室・水屋があり、他の二棟と異なり妻側を南東に向けて建つ。 建物に上がっての拝観はできないので、北東面の窓から中を拝観してから、連なる三棟の北側に廻ると最初に見た茅葺屋根の倉庫棟が現れる。

△芝生の庭園から眺めた真ん中と右手の棟....真ん中は和室一間と応接間がある棟、右は和室一間の棟.....二つの棟の間に納戸がある

△真ん中の棟には十畳敷和室「梅」の間と応接間がある

△真ん中の棟の庭園に面した側の建具は,和室に明障子窓,奥の応接間にガラス戸

△右側(一番北側)に建つ八畳敷和室「椿」の間のみの棟

△右側の棟の妻面(南東面)に内縁が設けられている/内縁の外に石をちりばめたコンクリ床を設け、石をコンクリで固めた沓脱石を置いている

△南東面の妻側に裳腰を設けた右側の棟(八畳敷和室一間)

△北東側の窓から覗いた八畳敷の「椿」の間と内縁

△「椿」の間の北側の裳腰を設けた部分は湯沸室&水屋....二方面に面格子付き窓、壁は下見板張

△建物の北側から眺めた八畳敷和室二間の棟と倉庫棟

★先の「松」と「竹」の間の棟と「梅」の間と応接間がある棟の北側は鉤の手に曲がった廊下になっていて、いずれもガラス戸が全開になっている。 まずは「梅」の間を覗く....真ん中の畳の中に「炉」を設ける位置に小さな畳がはめ込まれている。 「梅」の間と応接間とは腰高明障子と障子欄間で仕切られ、応接間には陽が燦燦と差し込んでいる。 廊下を通して連なる「竹」の間と「松」の間を見通すと、三方を腰高障子戸と障子欄間で囲まれていて明るく落ち着いた雰囲気だ。 二つの和室は襖と大きく半月上に開けた欄間で仕切られている。 「梅」の間と同じく、両和室の真ん中の畳に「炉」を設ける位置に小さな畳がはめ込まれている。 北面と東面が雨戸で閉じられている倉庫棟だが、何故か濡れ縁がある。

△正面は八畳敷和室二間の棟、左側は十畳敷和室一間と応接間がある棟

△左は八畳敷和室一間の棟、ガラス戸がある右は十畳敷和室一間と応接間がある棟

△十畳敷の和室一間と応接間がある棟....「炉」を設ける位置に小さな畳をはめ込んでいる

△十畳敷和室と応接間を仕切る腰高明障子戸、内法長押の上の小壁に障子欄間

△応接間の脇の廊下は3つの和室の棟にまたがって設けられている

△応接間は東南が全てガラス戸で、庭園を広く見渡せる....何故か天井が傾斜している

△北側から見た和室二間の棟の内部....手前に廊下、八畳の「竹」と「松」の間が連なる....両和室に「炉」を設ける位置に小さな畳をはめ込んでいる

△和室二間の南東側は腰高明障子を配し、外側に廊下(内縁?)....腰高明障子の上に障子の欄間、襖で仕切ら上の小壁に大きな饅頭型に開けた欄間

△八畳和敷室二間の棟の北側に建つ倉庫棟(右)

△寄棟造茅葺の倉庫棟....建物は倉庫だが濡れ縁がある

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