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何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

池上本門寺の五重塔

2025年08月01日 | 最古・唯一などの遺構
今回をもってgooブログへの投稿を終了します。  いままで訪問してくださった方々に感謝いたします。 なお、近日中に他ブログサービスにて新規に開設する予定です。

【お知らせ】8月11日(月)、 アメーバブログ にて「何気ない風景と独り言」を開設いたしました。 ご訪問をお待ちしております。


【東京・大田区】関東に現存する最古最大の五重塔。
鎌倉時代弘安五年(1282)に創建された池上本門寺(開山は日蓮聖人)の境内に聳える五重塔で、第2代将軍徳川秀忠の病気平癒祈願が成就したため、慶長十三年(1608)、江戸幕府によって建てられた。 明治四十四年(1911)、国指定重要文化財に。 関東には江戸時代に建立された五重塔が四基現存するが、塔高約29メートル、初重のみが和様、二重以上が禅宗様(唐様)で、両様式を混用した建築様式が特徴。 江戸時代建立の五重塔は、池上本門寺以外では法華経寺、旧寛永寺そして日光東昭宮にある。
軒廻りは各重いずれも二軒だが、初重は繁垂木で二重以上は扇垂木。 組物は各重いずれも三手先だが、初重は三手目だけが尾垂木で二重以上は二手目と三手目が尾垂木。 中備は初重が脚間に十二支を配した彩色された蟇股で、二重以上は間斗束(蓑束?)。 二重目の円柱の上に粽が確認できるので、三重以上も同様と思われる。 また二重以上には逆連柱高欄の廻縁があり、出三つ斗の腰組で支えられている。 上層への逓減率が少なく、短い相輪、さらに心柱が初層天井の梁上に立つなどの特徴があり、極めて貴重な塔建築。

△慶長十三年(1608)建立の五重塔....徳川二代将軍秀忠の乳母・正心院日幸尼(岡部局)が秀忠の病気平癒を願って建立された....塔内には一塔両尊像と四菩薩像を安置

△方三間で、塔高(基壇から相輪先端まで)は約29m、屋根は初重と二重が本瓦葺で三重以上は銅板瓦葺、建築様式は初重が和様で二重以上は禅宗様

△初重は高欄無しの切目縁、二重以上は逆連頭の禅宗様高欄を設けた切目縁、また二重以上の中備は詰組ではなく間斗束のようだ、腰組は出三ツ斗/軒廻りは各重二軒で、初重は繁垂木、二重以上は禅宗様の扇垂木....組物は初重が三手目が尾垂木の三手先、二重以上は二手目と三手目が尾垂木の三手先

△初重各面は中央に桟唐戸、両脇間は連子窓ではなく羽目板に格狭間形の装飾を施している....二重目の円柱に粽が確認できる(二重以上は全部にある?)

△初重に蛇腹軒支輪を設けている....中備は彩色が施された透蟇股で、脚間に十二支の彫刻

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備中国分寺の五重塔

2025年07月01日 | 最古・唯一などの遺構

【岡山・総社市】岡山県内で最古で唯一の五重塔。
江戸時代末期の弘化元二年(1844)に再建された備中国分寺の境内に聳える五重塔で、国の重要文化財に指定されている。 備中国分寺は奈良時代に聖武天皇(第45代)が仏教の力で天災や飢饉から国家を護るため国ごとに建立した国分寺のひとつ。
創建時は高さ約50m(推定)の七重塔を擁していた七堂伽藍の大寺院だったが、兵火で消失して廃寺となった。 安土桃山時代の天正年間(1573~1592)に備中高松城主・清水宗治が再興したものの衰微し、江戸中期の宝永年間(1704~1711)に再建された。 五重塔は江戸後期の弘化元年(1844)、七重塔跡ではなく位置を変えて再建された。 初層の塔内中央に大日如来とする心柱が立ち、四方の四天柱の内側の仏壇の中に四如来像を安置している(五智如来)。

◆レンタサイクルで ”吉備路自転車道” を備中国分寺に向かって進むと、アカマツの丘陵の緑樹の中に聳える五重塔が見えてくる。 澄み切った青空の下、アカマツ林の中に黒々と聳え建つ五重塔はまさに総社、吉備路のシンボルだ。
五重塔は全ての屋根がほぼ同じ大きさの寸胴型、また相輪が短い。 初層の中央間は桟唐戸、両脇間は盲連子窓。 軒廻りは各層とも二軒繁垂木で、初層と二層目に蛇腹支輪と軒天井(三層以上は軒天井のみか)がある。 組物は各層とも三手目が尾垂木の三手先で、初層の組物間(中備位置)に十二支とみられる彫刻を配した本蟇股。

△南門跡の参道から眺めた備中国分寺の五重塔....白壁の築地塀の中の入母屋瓦屋根は鐘楼

△五重塔は岡山県内唯一のもので、江戸時代弘化元年(1844)の再建....再建計画では三重塔だったが変更された/塔高は約34m、全ての屋根はほぼ同じ大きさ....建材は三層層までがケヤキ材、四&五層はマツ材が主体

△初層内陣には心柱を大日如来とする五智如来(阿閦、阿弥陀、宝生、不空成就)を安置/全ての層に擬宝珠高欄付廻縁を設け、腰組は平三斗

△二層以上の塔身の中央間は格狭間入れた桟唐戸、両脇間は板張りの窓のようだ

△全層とも軒廻りは二軒繁垂木、組物は三手目が尾垂木の三手先....初層と二層目のみに蛇腹支輪と軒天井がある/各層の四方の軒下に風鐸がさがる

△初層の中央間は桟唐戸、両脇間は盲連子窓....組物間の中備に十二支の彫刻を施した本蟇股

△初層と二層目の蛇腹支輪と軒天井....二層以上の中備は撥束

△田園風景の中に聳え建つ五重塔は吉備路のシンボル的存在


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安養院の宝篋印塔

2025年04月06日 | 最古・唯一などの遺構

【神奈川・鎌倉市】鎌倉市内に現存する最古の関東様式宝篋印塔。
鎌倉時代の喜禄元年(1225)、北条政子が浄土宗名越派の開祖・良弁尊観上人を開山として創建した安養院の境内に鎮座する宝篋印塔で、相輪部を除いて国の重要文化財に指定されている。 宝篋印塔は良弁尊観上人の墓(伝)で、鎌倉市内に現存する最古の関東様式宝篋印塔の典型とされる。 鎌倉時代の後半頃から、地域によって宝篋印塔の形状に相違が現れ、関西型・関東型と呼ばれるようになった。 関東型の主な特徴は、塔身に四角の輪郭を刻み、基礎を二区に分けて縁どりし、基礎の下に反華座を設けているなど。 直立した隅飾突起は鎌倉時代の特徴だが、一部が欠落していて残念。 なお、相輪は後補の様で重文指定対象外。良弁尊観上人墓の左手の宝篋印塔は、安養院開基・北条政子の墓(供養塔)と伝えるやはり関東型。

△本堂裏手に並ぶ二基の宝篋印塔....右は鎌倉幕府滅亡の際に戦火で焼失した善導寺開山の良弁尊観上人の墓とされる....左は安養院を創建した北条政子の供養塔で、笹目ケ谷の「安養院(元・長楽寺)」より移転された(伝)

△鎌倉後期の徳治三年(1308)造立の宝篋印塔(国重文)....鎌倉に現存する最古の石塔

△塔身に四角の輪郭を刻んでいるのは関東様式の特徴....笠の露盤は五段で、2つの輪郭がある最上段は後補と思う/隅飾突起が直立なのは鎌倉時代の特徴....相輪は後補のようで重文指定対象外

△塔身の月輪に蓮花と阿弥陀如来と虚空蔵菩薩の梵字(左キリーク、右タラーク)が彫られている

△基礎を二区に分けて縁どりし、基礎下にはっきりした反花座を設けているのは関東型の特徴
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円覚寺の舎利殿

2024年12月26日 | 最古・唯一などの遺構

【神奈川・鎌倉市】室町時代建立の日本最古の唐様(禅宗様)建築物。
円覚寺塔頭の1つである正続院の境内に建つ舎利殿は、鎌倉で唯一の国宝建造物。 正続院は円覚寺創建2年後の弘安八年(1285)、鎌倉幕府九代執権北条貞時が、三代将軍源実朝が中国南宋の杭州にある能仁寺から分けてもらったとされる”仏舎利”を納めるため、無学祖元を開山として建立(当初は祥勝院)した。
建武二年(1335)、後醍醐天皇(第96代)の勅命で夢窓疎石が、祥勝院を円覚寺に移して舎利殿を塔所し、院号を正続院に改めた。 当初の舎利殿は、室町時代の永禄六年(1563)に焼失したが、鎌倉西御門 にあった尼寺・太平寺(廃寺)の佛殿(鎌倉時代末~室町初期の再建)を移築して舎利殿と称した。 室町時代中期頃の建築と推定され、中国南宋時代の建築様式に基づいた禅宗様建築の代表的な遺構。

★柿葺の舎利殿は、禅宗の仏殿らしい優美な曲線を描き、四隅の軒が大きく反り上がっていて実に優雅な姿だ。 軒廻りは二軒扇垂木(裳腰は二軒繁垂木)、組物は二手目と三手目が尾垂木の三手先で、柱間に禅宗様の特徴である詰組を配している。 正面中央間は桟唐戸、脇間に花頭枠の引き違い戸と花頭窓を配し、外壁は建具以外全て縦羽目板だ。
桟唐戸が開いていて、殿内に安置されている須弥檀、その上に彩色が施された宮殿(厨子)そして二体の仏像が見える。 禅宗様高欄がある須弥檀は鎌倉彫りとのこと。 宮殿は、正面に軒唐破風を設けた入母屋造り本瓦葺風の屋根で、一間の柱間の台輪上に3基の組物・三手先を配した精緻な造りだ。 須弥壇の上に鎮座する仏像は、未開蓮を持つ観音菩薩と宝珠を持つ地蔵菩薩だ。 (円覚寺舎利殿は通常非公開で、毎年11月3日前後に行われる「宝物風入れ」の折に拝観&撮影可)

△切妻造桟瓦葺の円覚寺塔頭正続院の山門(「万年門」と呼ばれる).....銅板葺の黒い袖塀を設け、門前に「佛牙舎利塔」の標石が建つ....標石の左側面に「大唐国能仁寺拝請」とあり、仏牙舎利が中国南宋の杭州にある能仁寺から請来されたことを示す

△正続院本堂前から眺めた舎利殿前門と桟瓦葺きの源氏塀

△源氏塀の左側に舎利殿境内に入る脇門があり、更に洞窟がある崖まで透き塀を設けている

△源氏塀の右側は茅葺の本堂と雲水の修行道場の正法眼堂(禅堂)の間に延びている

△前門は平唐門で、門前の左に石燈籠、右に手水鉢が置かれている....手水鉢は文政十三年(1830)の造立

△平唐門の軒下の彫刻は、拝に鳳凰、台輪の上は中国故事の一場面ではと思う

△前門を通して眺めた舎利殿

△入母屋造柿(椹?)葺で裳腰を設けた舎利殿....室町時代中期頃の建立(推)で、日本最古の唐様(禅宗様)建造物

△正面五間で中央間に桟唐戸、両脇間は花頭枠の引違い戸(と思う)と花頭窓....窓下の腰壁は縦羽目板

△軒廻りは二軒扇垂木、組物は二手目と三手目が尾垂木の三手先で柱間の中備に詰組を配す....裳腰は二軒繁垂木、柱上に出三ツ斗を置き中備に平三ツ斗を配す

△五間全ての頭貫の上に弓欄間をつくり、中央間の欄間に宝珠を配している....上部に連子を入れた桟唐戸の開閉軸に藁座を置いている

△丸柱の上部に粽をつくっている/中央間の弓欄間に配された宝珠の彫刻

△殿内正面の鎌倉彫りで禅宗様高欄がある須弥檀上に宮殿を安置....須弥檀上の右に未開蓮を持つ観音菩薩、左に宝珠を持つ地蔵菩薩が鎮座

△「仏牙舎利」が祀られている宮殿(厨子)は入母屋造り本瓦葺風の屋根で、正面に軒唐破風....一間の柱間の台輪上に3基の組物・三手先を配している

△国宝らしい優美な姿の舎利殿

△側面は五間で、正面側に出入口、一間に花頭窓、残り三間と腰壁は縦羽目板



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談山神社の総社本殿

2024年09月26日 | 最古・唯一などの遺構

【奈良・桜井市】日本最古の総社本殿。
末社の総社本殿は平安時代延長四年(926)の創建で、第四十代の天武天皇の治世に創建された談山神社の境内に建ち、国の重要文化財に指定されている。 現在の総社本殿は江戸時代寛文八年(1668)造り替えの談山神社本殿を、寛保二年(1742)に移築したもので、天神地祇・八百万神を祀っている。
総社(惣社)とは、いくつかの神社の祭神を一カ所にまとめて合祀した神社のことで、平安時代、朝廷から行政官として諸国に派遣された国司が、任地国の神社を巡拝する手間を省くため、国府の近くに勧請したのが起源とされる。
壇上積の基壇の上に菱垣で囲まれて鎮座する総社本殿は朱塗りの三間社春日造りで、古色蒼然たる佇まいだが風雅で威厳に満ちている。 妻入り切妻造りで左右の屋根は反りがある照屋根。 身舎の長押、丸桁、頭貫、組物、本蟇股などに、また、4本面取り角柱が立つ向拝の水引虹梁、向拝桁、本蟇股、手挟などに彩色彫刻が施されている。 いずれも経年により殆どの彩色が剥落していて萎びた感があるが、それが壮麗な装飾の想像を掻き立てる。

△総社本殿(左)と総社拝殿....いずれも国指定重要文化財で、総社本殿は日本最古の総社とされる

△三間社春日造銅板葺の総社本殿....平安時代延長四年(926)の創建で、天神地衹・八百万神を祀る

△壇上積の基壇上に朱塗りの菱垣で囲まれて鎮座する朱塗りの総社本殿....周囲に擬宝珠高欄付き切目縁、側面の縁に格子脇障子

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は木鼻付平三斗で中備は正面のみで本蟇股....水引虹梁と向拝桁に彫刻が施されている

△向拝柱は4の面取り角柱で、柱の真ん中で色が異なっているので木組み工法で補修されているようだ....柱上の組物の間に脚間に彫刻を配した本蟇股を置く

△水引虹梁の木鼻は獅子のようだが平安時代には木鼻はまだ無かったはずだから後補と思う

△正面の扉の種類は三間いずれも御簾が下がっていて不明....長押と丸桁の間の頭貫や梁や組物に彩色彫刻を施している

△向拝の登り高欄/向かって右側面....三間の正面側一間は板扉、脇障子を挟んだ前後は板壁のようだ

△一段高い所に鎮座する比叡神社境内から眺めた総社本殿

△総社本殿(右)の前に建つ総社拝殿....長い入母屋造銅板葺屋根の中央に十字に入母屋屋根を組んだ造りで、十字に組んだ入母屋の両妻に唐破風がある

△総社本殿脇から眺めた総社拝殿....桁行七間で、梁間二間は羽目板

△総社拝殿(国重文)は寛文八年(1668)建立の美麗な建造物



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西宮神社の大練塀

2024年04月11日 | 最古・唯一などの遺構

【兵庫・西宮市】国内に現存する最古・最大規模の練塀。
創建年代不明(平安時代後期には既に鎮座)の西宮神社の境内地を取り囲む築地塀のうち、表大門(赤門・重要文化財)がある東面と南門がある南面とに築かれている全長247メートルの練塀で、「大練塀」と呼ばれ、国の重要文化財に指定されている。 大練塀は室町時代初期(約650年前)の造営と推定されている。 西宮神社の練米は、名古屋・熱田神宮の「信長塀」と京都・三十三間堂の「太閤塀」(いずれも重要文化財)と共に日本三大練塀の一つに数えられている。 なお、西宮神社は全国に約3,500社ある「蛭子(えびす)神社」の総本社(えびす宮総本社)で、地元では「西宮のえべっさん」と呼ばれる。

★えべっさん筋に面して鮮やかな朱塗りの表大門が建ち、門両側に薄茶色の堅牢な練塀が延びている。 練塀は広大な境内の東面の南半分と南面全体に247メートルにわたって設けられている。 桃山建築の遺構を残した風格ある佇まいの赤門と呼ばれる表大門をくぐり、境内から赤門付近の練塀を眺める。 見ると約4メートル毎に縦筋が入っていて、4メートル単位の築地を連ねて構築されていることがよくわかる。 手入れが行き届いた境内の参道を通り、練塀を繰り抜いたように設けられた南門に向かう。いったん南門をでて、門前に立って東西に延びる練塀を眺める....まさに歴史を感じさせる古色蒼然たる佇まいだ。

△東面で建つ赤門と呼ばれる表大門(重文)の両側に連なる練塀....表大門は安土桃山時代末期の慶長九年(1604)、豊臣秀頼による再建

△表大門の門前から見た東面南側の練塀....「大練塀」と呼ばれ、室町時代初期(約650年前)の造営と推定されている

△境内側から眺めた切妻造本瓦葺で朱塗りの表大門

△東面南側の境内側の練塀

△境内側から見た南側の練塀....練塀は平均長さ約4メートル単位の築地塀を63連ねたもの

△本瓦葺屋根の練塀の中に設けられた門....南面側にあったと思うが境内図等で位置や門名は確認できず

△門前から見た境外南面の東側の練塀

△門前から見た境外南面の西側の練塀
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吉備津彦神社の大燈籠

2023年11月07日 | 最古・唯一などの遺構

【岡山・岡山市】我が国で最大の石燈籠。
推古天皇(第33代)の御代の創建とされる吉備津彦神社の境内に立つ2基の巨大な石燈籠で、「安政の大燈籠」と呼ばれる。 吉備津彦神社は備前国と備中国の境にある吉備の中山(ご神体)の麓に鎮座し、ご祭神は昔話「桃太郎」のモデルだった大吉備津彦命で、第7代孝霊天皇の皇子。

■隋身門の前から眺めると、燈籠の高さは明らかに隋身門の屋根よりも高い。 荘厳な随身門をくぐると、すぐ左右に見上げる大きさの石燈籠が聳え立っている。 天下泰平を願う備前国一円の1670余名の衆生の寄付によって江戸末期に造立されたもので、「安政の大燈籠」と呼ばれている。
石燈籠は一辺が8メートルの基壇の上に積み重ねられた五段の台石の上に立つ。 総高が約12メートルなのであまり感じられないが、笠石はなんとなんと八畳敷きの広さがあるそうで、我が国最大どころか東洋一とされる。 集められた浄財は5676両(現在の価値で約1億3千余万円相当)で、納者名1670余名の名が台石にしっかりと刻まれている。

△約330年前の元禄時代に造営された吉備津彦神社の随身門....門の左右に隋身門の屋根より少し高い大石燈籠が聳える

△大石燈籠は安政六年(1859)の造立....天下泰平を祈願し、備前一円の多くの人々の寄付によって造営された

△一辺が8メートルの亀甲積の基壇(6段の台石の最下段)の上に立ち、総高12メートルで東洋一の大きさとされる....右下に佇む人と比べると巨大さが分る

△基礎・竿・中台・火袋はそれぞれ一石造りで、格子窓がある火袋の縦の長さは1.1メートルで横幅は1メートル/笠石は3.6メートル四方で8畳敷きの大きさがある

△元禄十年(1697)造立の大きめの石燈籠と比べると、大石燈籠の巨大さは一目瞭然/元禄十年造立の石燈籠越しに眺めた大石燈籠

△六段に重ねられた台石に1670余名の奉納者名が刻まれている
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最乗寺の多宝塔

2023年02月07日 | 最古・唯一などの遺構

【神奈川・南足柄市】神奈川県下で現存する唯一の多宝塔。
室町時代応永元年(1394)に了庵慧明禅師によって開山された大雄山最乗寺の境内に建つ多宝塔。 最乗寺は、曹洞宗では福井県永平寺、横浜市総持寺に次ぐ格式のある古刹。 多宝塔は江戸時代の文久三年(1863)、江戸音羽(現文京区)の高橋清五郎により建立された。 建立後、二度の火災に遭い堂宇の殆んどを焼失したが、多宝塔が唯一被災を逃れ、建立当時の姿をいまに残している。

■山中に広がる最乗寺の境内はかなり広大で、傾斜地に段々に造営された平地に堂塔が建つ。 多宝塔は本堂境内から一段上がったところの山裾の林の中に建つ。 多宝塔は聳える巨木の枝葉に隠れるかのように建ち、参道からは全容が見られない。
近づくと、ひんやりした空気が漂う静寂の中にひっそり佇んでいて、深い軒反りの姿は雄大で見応えがある。 近くの傾斜地から塔を見下ろせるので、上層の亀腹や塔身の組物などが間近で拝観できる。 上層(塔身)は二軒扇垂木、組物は三手目と四手目が尾垂木の四手先で、全ての尾垂木の先端や出三ツ斗の木鼻に龍の彫刻を施していて興味深い。 下層(裳腰)は二軒繁垂木、組物は二手先で中備は脚間に十二支彫刻を配した本蟇股。 連子入り桟唐戸が大きく開いて中を覗くと、彩色された如来像が蓮華座に鎮座している。 塔内の厨子に多宝如来像が安置されているので、この像は「お前立ち」だろう…合掌。

△最乗寺境内の傾斜地の建つ多宝塔....神奈川県下で唯一の多宝塔遺構

△多宝塔は文久三年(1863)の建立で高さ19.6メートル....二度の火災(大正と昭和)でも被害を受けず、建立当時の姿を残している

△塔内に多宝如来像が安置され、塔の下には開祖了庵慧明禅師、大綱明宗祖師、春屋宗能祖師の火定灰が納められている

△下層は方三間で、各面中央に連子入り桟唐戸、左右に腰高連子窓、周囲に高欄の無い切目縁を設けている

△入口上に掲げられた「多寶塔」の扁額....塔内に多宝如来像を安置した厨子がある/舟形光背を背負って蓮華座に鎮座する「お前立ち」の合掌多宝如来仏

△下層(裳腰)の軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手先、中備は脚間に十二支彫刻を配した本蟇股

△本瓦葺で、円形の塔身に円形の高欄付き廻縁....腰組は出三ツ斗

△上層(塔身)の軒廻りは二軒扇垂木、組物は三手目と四手目が尾垂木の四手先....尾垂木の先端と最上の出三ツ斗の木鼻に龍の彫刻を施している

△下層の四天柱そのまま上に伸ばし、上層の側柱にしている珍しい手法/山の傾斜地に段々に造営されたの平地に伽藍が建つので、多宝塔の塔身の組物などが上から見下ろせる

△上層と下層の接続部に白色漆喰の亀腹(饅頭形)

△塔前に設けられた鰐口越しに眺めた多宝塔
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般若寺の十三重石塔

2020年09月01日 | 最古・唯一などの遺構

【奈良・奈良市】現存するわが国最大級の十三重石塔。
鎌倉時代の建長五年(1253)頃、宋の石工・伊末行によって建立された十三重石塔は、飛鳥時代の舒明天皇元年(629)、高句麗の僧・慧灌による開創とされる般若寺の境内に立ち、国の重要文化財に指定されている。
般若寺は、奈良時代の天平七年(735)、聖武天皇の勅願で行基により寺観が整えられ、平城京の鬼門を護る寺とされた。 平安末期の治承四年(1180)、源頼政を破り、東大寺や興福寺を焼いた平重衡の南都焼討にあって伽藍すべてが灰燼に帰したが、鎌倉時代に入って諸堂が復興されるに先立って十三重石塔が再建された。

奈良と京都を結ぶ旧街道(京街道)に面して建つ国宝の楼門を通して境内を覗くと、伽藍の中心に鎮座する大きな十三重石塔が見える。 境内にコスモスが咲く頃は、楼門を額縁とした美しい絵画のようになるだろうと想像した。
巨大な基壇の上に聳え立つ端麗な姿の十三重石塔は、まさに、般若寺のシンボルだ。 塔高は12.6メートルで、相輪と二層目の屋根は後補。 安土桃山時代慶長元年(1596)の大地震で相輪と上部の二重が落下して損傷、その後百年余り地に落ちたまま放置され、江戸時代元禄十三年(1700)に修理が始められた。 基壇の傍に、露盤から宝珠まで一石で造られた創建当初の旧相輪が、まるで十三重石塔を見守るかのように立っている。
石塔は、大きく造られた初層の屋根が安定感を醸し出し、軒下に一重の垂木型を設けた屋根は、緩やかに力強く反り、屋根が重なる各層の逓減率はほどよく美しい旋律を感じさせる。 奈良の寺社を始めとし、数多くの石塔が、般若寺十三重石塔を参考にして建てられているそうだが....。 初層軸部の四面には、線刻された二重円光背を負って蓮華座に坐す顕教四仏が薄肉彫りされている....合掌。

△京街道に面して建つ般若寺の入母屋造本瓦葺の楼門(国宝)....鎌倉時代文永四年(1267)頃の建立で、軒の出が深い

△楼門を通して眺めた境内に鎮座する十三重石塔(国重文)....鎌倉時代中期の建長五年(1253)、渡来した宋の石工・伊末行により建立....塔後方の切妻造本瓦葺のお堂は経蔵(国重文)

△一辺が12.3mの巨大基壇上に聳え立つ十三重石塔は現存最大の大きさ

△十三重石塔は花崗岩製で総高14.2m....二層目の屋根は江戸期の後補で軒下に垂木型なし

△初層軸部には二重円光背を負い蓮華座に坐す顕教四仏が線刻されている(四方仏は東面薬師如来、西面阿弥陀如来、南面釈迦如来、北面弥勒菩薩)/基壇脇に立つ旧相輪....創建当初のもので露盤から宝珠まで一石で造られている....旧相輪は慶長元年(1596)の地震で落下

△十三重石塔と旧相輪の間から眺めた般若寺の本堂
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東福寺の三門

2020年08月05日 | 最古・唯一などの遺構

【京都・東山区】禅宗寺院の中で現存する我が国最古の三門。
室町時代の応永三十二年(1425)、四代将軍・足利義持により再建された三門で、格式の高い二重門。 再建前の三門は、鎌倉時代元応元年(1319)の大火で焼失した。
鎌倉時代の嘉禎二年(1236)、摂政九条道家が宋から帰国した禅僧・聖一国師円爾弁円を開山(初代住持)として創建した臨済宗東福寺に建つ三門で、国宝に指定されれている。 東福寺は京都五山の第四位の格式を持つ禅宗寺院で、正門は格式の高い五間三戸の三門。
禅宗寺院ではあるが、三門は大仏様(天竺様)を基調とし、細部様式に禅宗様(唐様)と和様を組み合わせた独特の建築方式で建てられている。 また、上重・下重屋根の軒下の四隅に屋根を支える柱が設けられているが、豊臣秀吉が、安土桃山時代の天正十三年(1586)の大地震で破損した三門を修理した際に取り付けた補助柱で、「太閤柱」と呼ばれているようだ。 大仏様の特徴が強くみられるのは軒下の三手先の組物で、柱に挿した挿肘木によって前方に三段に張り出し、それを通肘木で繋いでいる構造。 禅宗様としては、上下に粽を施し、柱下に礎盤を入れた唐様円柱、上重の高欄の親柱の逆蓮頭など。 和様では繁(平行)垂木など。

壮大な伽藍の正門である三門が、偉容を誇って聳え立っている。 最初に目を引いたというより違和感を感じたのは、上重・下重屋根の軒下の四隅の支柱だ。 深い軒の屋根を大仏様の組物で支える構造だが、重みで屋根が垂れ下がるのを防ぐためとはいえ、支柱が風格を損なっているようで少し残念に思う。 とはいえ、垂木や組物など木口に胡粉が塗られた意匠は風雅さを感じさせ、素晴らしい。 最も興味がわいたのが、上下に粽がある円柱の下部に設けられた四角い穴で、いろいろ調べたが、穴を設けた理由は分からずだった。

△主要堂宇が一直線に配置された禅宗寺院伽藍の正門は、最も格式の高い五間三戸の三門(二重門)....大仏様(天竺様)を基調とし、禅宗様(唐様)と和様を組み合わせた建築方式

△入母屋造本瓦葺の三門(国宝)....室町時代応永三十二年(1425)の建立で、現存する禅宗寺院の三門の中で最古・最大級の二重門

△軒廻りは上重・下重いずれも二軒繁垂木で、大棟端に鳥衾を乗せた鬼瓦、拝に三つ花懸魚(妻飾は失念)....上重・下重屋根の軒下四隅の屋根を支える補助柱は、豊臣秀吉が修理の際に取り付けたことから「太閤柱」と呼ばれる

△上重・下重いずれも組物は大仏様の三手先で中備は通肘木に平三斗....上重の高欄は親柱に逆蓮頭を乗せている

△大仏様の三手先は,柱に挿した挿肘木によって前方に三段に張り出し、それを通肘木で繋いでいる構造....垂木や組物など木口に胡粉が塗られた意匠

△上重に掲げられている扁額「妙雲閣」は足利義持の直筆

△三門両側に設けられた切妻造本瓦葺の山廊(右側)....楼上へ昇る階段を覆っている
 
△三門に向かって左側の山廊/上下に粽がある円柱の下部に四角い穴が空いているが目的は不明

△三門の高さは約22メートル....楼上は仏堂になっていて宝冠釈迦如来像や16羅漢像などを安置
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吉備津神社の本殿

2020年06月01日 | 最古・唯一などの遺構

【岡山・岡山市】日本で唯一の吉備津造りの比翼入母屋造本殿。
南北朝時代の観応二年(正平六年(1351))に火災で焼失した後、室町幕府第三代将軍・足利義満が約25年の歳月をかけて応永三十二年(1425)に本殿と拝殿を再建、現在に至る。
本殿は「吉備津造り」と称する独特の比翼入母屋造で、拝殿とともに国宝に指定されている。 吉備津神社は、創建年は不詳だが、平安時代の延長五年(927)に成立した法令集「延喜式」の「延喜神名帳」に「吉備津彦神社 名神大」と記載されていることから、平安前期から中期の創建とみられる。

曇天の空で薄暗かったが、約600年前に建てられた比翼入母屋造檜皮葺の本殿を目の当たりにし、そのあまりの壮麗さに思わず息を呑んだ。 以前、千葉県市川市法華経寺に鎮座する比翼入母屋造杮葺の祖師堂(江戸時代建立)を拝観して感動したのを記憶しているが、「吉備津造り」と呼ばれる豪壮にして優雅な姿の比翼入母屋造本殿を目にし、さらに深い感動を覚えた。 と同時に、偉容を誇る本殿と平入で繋がる拝殿を眺めていると、歴史と伝統に溢れる古社ということを、否応なしに感じさせる。
社殿は、巨大な白漆喰の亀腹の上に、まるで浮遊しているかの如く鎮座しているが、湿気を防ぐための亀腹は中世社殿建築の中で最も大きく、約2メートルもの高さがあるようだ。
足利義満による再建以来、荘厳な姿をいまに伝えているが、社殿の完成をみずに応永十五年(1408)に没した義満は、さぞかし無念だったろうと思う。

△本殿と拝殿の全景(両殿国宝)....本殿は我が国唯一の「吉備津造り」と呼ばれる独自の建築様式で、入母屋造を前後に並べた「比翼入母屋造」

△比翼入母屋造の本殿と切妻造の拝殿はいずれも檜皮葺....本殿の入母屋の大棟端に外削ぎの置千木と2本の堅魚木を乗せている

△平入の2棟を入母屋造を前後に連結させて平面ではH型にした特異な屋根....周囲に擬宝珠高欄付き槫縁を巡らす

△入母屋造の大棟端に左三つ巴の紋を入れた獅子口、破風の拝は猪目懸魚、妻飾は虹梁大瓶

△側面八間は全て窓枠に飾金具を施した盲連子窓と横羽目板

△軒廻りは一軒繁垂木、組物は天竺様の挿肘木と巻斗による二手先で中備無し....後方七間の中央間に桟唐戸、脇間は全て盲連子窓と横羽目板

△擬宝珠高欄付き槫縁を支えるのは天竺様の挿肘木と巻斗

△湿気を防ぐための白漆喰の大きな亀腹の上に建つ本殿は正面七間・側面八間で、亀腹の高さは2メートルで中世神社建築の中で最高とされる

△本殿正面に連なった切妻造檜皮葺で吹き放ちの拝殿....三方の裳階はいずれも本瓦葺

△拝殿の軒廻りは母屋が二軒繁垂木で裳腰は一軒繁垂木、組物はいずれも出三ツ斗/拝殿の大棟に獅子口、拝に猪目縣魚、妻飾は虹梁大瓶束

△(類似例) 千葉県市川市の法華経寺祖師堂(重文)....比翼入母屋造杮葺で錣葺(延宝六年(1678)建立)
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慈眼院の多宝塔

2020年04月25日 | 最古・唯一などの遺構

【大阪・泉佐野市】国指定文化財の中で現存する屋外にある日本最小の木造多宝塔。
鎌倉時代の文永八年(1271)の建立で、檜皮葺で塔高は約11メートル。 現存最古の石山寺の多宝塔および高野山金剛三昧院の多宝塔に次いで古く、これらは日本の多宝塔の三名塔とされる。
白鳳時代の天武天皇二年(673)、天武天皇(第40代)の勅願寺として覚豪阿闍梨によって創建された慈眼院(泉州の最古刹)の境内に建つ多宝塔で、「国宝」に指定されている。 多宝塔境内に建つ金堂(重文)の脇に、崩れかけた野面積基壇の遺構があって「多寶塔旧蹟」の碑が立つ。 明治時代、僅かな距離だがこの基壇から現在地に移築されたが、その理由は何故か明らかでないようだ。

本堂・庫裡後方の苔生に覆われた庭の先に、生垣に設けた2つの簡素な棟門があり、木立に囲まれたこじんまりとした境内に多宝塔と金堂がひっそりと建っている。 厳かな空間が広がる境内は、一面が緑の絨毯を敷き詰めたように鮮やかな苔で覆われ、棟門から多宝塔まで踏石が続いている。
本堂・庫裡の境内もそうだが、多宝塔・金堂の境内は手入れが行き届いていて実に気持ちがいい。 古色蒼然とした多宝塔は小規模なれどすごく味わいがある。 苔を踏みつけないよう細心の注意を払いながら撮影していたら、多宝塔の建ち姿に何か不安定さを感じた。 それは多分、上層の円形の塔身が細目なので下層の身舎が大きく見えるのと、低い塔高に対して床がかなり高めに張られているからではと思った。
 
庫裡・客殿後方の苔に覆われた美しい庭/後庭の奥の生垣に2つの門があり、中に金堂と多宝塔が建つ....右の門は客殿から後庭を通って直接多宝塔境内に入る門

檜皮葺の多宝塔(国宝)....鎌倉時代文永八年(1271)の再建で、塔内に智拳印を結ぶ本尊金剛界大日如来像を安置

木造多宝塔は高さは10.8メートルで、国宝・重文に指定されている屋外に建つ多宝塔の中で最小

三間四方の中央間に板唐戸、脇間に連子窓と横羽目板、周囲に切目縁を巡らす

上層の軒廻りは二軒繁垂木で、組物は三手目と四手目が尾垂木の四手先

裳腰の下層は二軒繁垂木、組物は二手先で中備は中央間のみに本蟇股、軒天井と軒支輪がある....本蟇股は内側に刳り形が施され、脚間に飾り彫刻を入れている

上層の円形の塔身が細く見える....上下層の軒先の四隅に風鐸が下がる

金堂(重文)越しに眺めた多宝塔....金堂脇に遺構の野面積の基壇があり「多寶塔旧蹟」の碑が立つ....明治時代に現在地に移築された

緑の絨毯を敷いたような鮮やかな苔で覆われた境内に建つ国宝の多宝塔
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高台寺の時雨亭

2020年03月17日 | 最古・唯一などの遺構

【京都・東山区】日本唯一の二階建て茶室。
安土桃山時代、豊臣秀吉が築城した伏見城の城内に建てられた茶室「傘亭・時雨亭」が、高台寺創建時に移築された。
茶室は、江戸時代初期の慶長十一年(1606)、豊臣秀吉の妻・北政所(ねね)が秀吉の菩提を弔うために創建した高台寺の境内の東奥の小高い丘の上に建ち、重要文化財に指定されている。 高台寺は度重なる火災に遭って大半の堂宇を焼失したが、茶室は焼失を逃れた幾つかの遺構の一つで、桃山の面影を色濃く漂わせている。
小堀遠州の意匠という屋根付きの土間廊下(移転時の築)で「傘亭」と繋がっている「時雨亭」は、日本で唯一の総二階建ての茶室として珍しい。 入母屋造茅葺の「時雨亭」....二階の西側半分は眺望がよい「上段の間」で”貴人席”とよばれ、伏見城内にあったとき秀吉はここでお茶を嗜んだそうだ。 「上段の間」で、京の都を眺めながらお茶を嗜む秀吉の姿を想像しながら拝観。
宝形造茅葺の「傘亭」は、草庵の風情が感じられる素朴な建物で、正式名称は「安閉窟」という。 傘亭の天井は、自然木の梁に束を立て、放射状に丸竹の垂木を組んだ美しい化粧屋根裏で、その形が唐傘に似ていることから「傘亭」の名が付いたようだ。 ちなみに、「時雨亭」の名は、秀吉が時雨のように不意に訪れたことに由来するらしい。
茶室を眺めていると、伏見城内にあったこの茶室でお茶を楽しむ秀吉とねねの様子が想像され....侘びた茅葺の茶屋に浪漫を駆り立てられた。 (拝観は2009年5月)

△高台寺境内の東奥の一番高い所に建つ茶屋「時雨亭」(手前・南側)と「傘亭」(奥・北側)....桃山時代に伏見城内に建立されたもので、高台寺創建時に移築された....両茶屋は屋根付きの土間廊下(後世の築)で繋がっている

△入母屋造茅葺で総二階建ての「時雨亭」(重文)....二階の右半分(西側)が「上段の間」で”貴人席”と呼ばれ、秀吉はここでお茶を嗜んだとされる....左半分(東側)は下段の間で板張りの涼みの間....手前は切妻造杉皮葺で吹き放し構造の土間廊下で、支える柱は皮付丸太
 
△一階は土間で竈を付けた勝手の場....土間から木の階段で二階に上がる構造/二階の東側は窓が少ない「下段の間」....丸窓は床の間の壁に開けられていて、丸窓を通して外の景色を掛け軸とした趣向になっている

△二階の西側(右半分)は「上段の間」で、南北西の三方に低い腰板を周して上から突き上げ窓を吊るした開放的な構造で、非常に眺望がいい (写真はNETから借用)

△「時雨亭」の天井は自然木の梁に束を立てて丸竹の垂木を組んだ化粧屋根裏

△宝形造風茅葺の「傘亭」(重文)....「時雨亭」の北側に建ち、切妻造杉皮葺の土間廊下(移築時の建築)で繋がっている

△窓が多い造りで、四方に大きさが異なる中連子窓が10ヵ所ほど設けられている
△侘びた「傘亭」は素朴で草庵の風情が感じられる

△「傘亭」の天井は自然木の梁に束を立て、放射状に丸竹の垂木を組んだ化粧屋根裏
 
△「傘亭」は周囲には跳ね上げ窓、跳ね上げ板付の連子窓風や格子窓風など異なる窓を備える開放的な茶屋....天井に「安閉窟」の扁額が掲げられている/北面の跳ね上げ窓と西面の跳ね上げ板を設けた連子窓風や格子窓風の窓....連子窓風窓には丸竹を連子子として用いている
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東大寺の鐘楼

2019年09月17日 | 最古・唯一などの遺構

【奈良・奈良市】入母屋造で、方一間の吹き放し形の鐘楼では現存最古の遺構とされる。
鎌倉時代承元年間(1207~1211)、大勧進となった栄西禅師により再建された。 奈良時代天平勝宝四年(752)に鋳造された梵鐘は、「奈良太郎」と呼ばれる名鐘で、日本三名鐘のひとつに数えられている。
奈良時代、聖武天皇(第45代)によって建立された東大寺に建つ鐘楼で、梵鐘とともに国宝に指定されている。 平城京の「東の大寺」である東大寺は、天平十三年(741)の制定により国々に置かれた国分寺(金光明四天王護国之寺)を統轄した官寺で、その始まりは、聖武天皇が早世した皇太子基皇子の菩提を弔うため建てた金鐘寺(大和の国分寺)とされる。

大仏殿の東側の階の上に建つ鐘楼は、大仏様に禅宗様と和様の要素を加えた豪放な折衷様建築だ。 奈良時代に鋳造された重量約26トンの梵鐘の重さに耐え得るよう太い木材を用いた頑強な造りで、近づくとその大きさに圧倒される。
鐘楼は壇上積の基壇に建ち、深い軒で天空へと反り上がった軒反りの姿は実に雄大だ。 軒廻りは和様の二軒繁垂木、組物は禅宗様の四手先で隅斗栱の間に三組の詰組を配している。 太い柱を貫く頭貫・内法貫・地貫の柱から長く突き出た木鼻は、先端に刳り形を施した大仏様だ。 鐘楼は、重い梵鐘を全体で支えるため、梁に東西に大虹梁2本を架け、その間に南北に1本の大虹梁が組まれた構造で、南北に架けられた大虹梁から大きな梵鐘が吊り下げられている。 東大寺創建当初に鋳造された梵鐘は、傍で見上げる拝観者と比べると、その巨大さを実感する。

入母屋造本瓦葺の鐘楼(国宝)....鎌倉時代承元年間(1207~1211)、大勧進となった栄西禅師による再建

壇上積一重基壇上に建つ折衷様の鐘楼....屋根の深い軒と軒反りが豪快

軒廻りは二軒平行垂木、組物は四手先で隅斗栱の間に3つの詰組....正面の飛貫上に2つの蟇股....大棟に鬼瓦、拝みに猪目懸魚、妻飾は虹梁大瓶束か

飛貫を支える4本の添柱、内法貫と地貫に大仏様の長大な木鼻が突き出ている

梵鐘(国宝)は東大寺創建当初の奈良時代天平勝宝四年(752)の鋳造....「奈良太郎」と呼ばれる名鐘で、日本三名鐘のひとつに数えられている
 
東大寺では「大鐘」と呼ばれ、重さ26.3tで、高さ3,9m、口径2,7mの大きさ/梵鐘の巨大さが分かる!

鐘楼は重い梵鐘を全体で支える構造で、梁に東西に2本の大虹梁を乗せ、その間の上にさらに南北に大虹梁を乗せ、その大虹梁の中心に梵鐘を吊っている
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臼杵の摩崖仏

2019年02月11日 | 最古・唯一などの遺構

【大分・臼杵市】日本で唯一国宝に指定されている磨崖仏。
伝説では1400年前の飛鳥時代から奈良時代にかけての造営とされるが、仏像の様式などから平安時代後期から鎌倉時代にかけての作とも推定されている。
深田の里の丘陵地帯の切立った岩壁に彫像された磨崖仏で、平成七年(1995)に石仏(磨崖仏)として唯一国宝に指定され、「臼杵石仏」の名で知られている。
臼杵の磨崖仏については、2015年2月に「国宝臼杵石仏-(1)、(2)」として投稿したが、カテゴリーに「最古・唯一などの遺構」を設けたので、唯一国宝の石仏ということであらためて投稿する。
磨崖仏は4カ所に所在し、鎮座する場所の地名からそれぞれ「古園石仏」、「山王山石仏」、「ホキ石仏第一群」、「ホキ石仏第二群」(「ホキ」とは「岸險(がけ)」という意味の地名)と称され、60躯以上を数える石仏の内、59躯が国宝に指定された。 石仏はいずれも火砕流が溶結した凝灰岩に丸彫りに近い姿に厚肉彫りされたもので、1400年余の風雨に耐え、仏師の思いを今に伝える穏やかな表情には癒される。 また、造立時に施された彩色が僅かだが残っているのは驚きで、鮮やかに彩色された1400年前の磨崖仏の姿に思いを馳せた。

■古園石仏■

古園石仏は「臼杵石仏」の中心的存在で、中尊の大日如来坐像を中心に、左右に如来像2躯、菩薩像2躯、明王像1躯、天部像1躯の計13躯の石仏が鎮座。 智拳印を結ぶ一際大きな中尊の大日如来坐像は、日本の石仏の中でも最高傑作の一つとされる。 気品に溢れるお顔が幽玄の美を感じさせ、僅かに残っている宝冠の彩色が印象的だ。
石仏は劣悪な環境の中に露座していたため、仏頭の多くが剥落....中尊の大日如来の仏頭も落ちて長い間台座上に安置されていたが、平成五年(1993)に行われた一連の保存修復時に復位され、現在のお姿に。

臼杵石仏」の中心的存在で、中尊大日如来坐像を中心に左右に如来像2躯、菩薩像2躯、明王像1躯、天部像1躯の13躯の石仏が鎮座

智拳印を結ぶ中尊の大日如来坐像....日本の石仏の中でも最高傑作の一つとされる

■山王山石仏■

山王山石仏は、中尊に丈六の如来坐像をすえ、脇尊として小さめの阿弥陀如来坐像を左に、薬師如来坐像を右に3躯の石仏で構成されている。 いずれもお顔の輪郭が丸く、目鼻はこじんまりとしていて無垢な童子の顔そのものだ。
拝観時、薬師如来坐像の前に架台が組まれ紫外線照射器が取付られていたので一部のお姿しか見えなかったが、摩崖仏表面のコケ類等を除去するため紫外線が照射されている光景を見るのは初めてで、非常に興味深かった。

中尊に丈六の如来坐像、左に阿弥陀如来坐像、右に薬師如来坐像の3躯の石仏が鎮座
 
中尊の丈六の(伝)釈迦如来坐像...優しい顔の輪郭が丸く、無垢な童子の顔のようだ/紫外線照射されている(伝)薬師如来坐像

■ホキ石仏第一群■

覆屋は平成六年(1994)に落成。 ホキ石仏第一群は四つの石窟の龕からなり、20余躯の石仏が並ぶ。 第一龕には薬師如来坐像、裳懸座が残る釈迦如来像、阿弥陀如来像の3躯と脇侍の菩薩立像2躯が鎮座。 第二龕には阿弥陀如来坐像、薬師如来坐像、(伝)釈迦如来坐像の3躯が鎮座するが、中尊の薬師如来坐像は半眼だが黒い瞳がくっきり描かれている。 第三龕には彩色が施された宝冠を被る大日如来坐像と他に4躯が鎮座。第四龕には地蔵菩薩半跏像と十王像の11躯が鎮座するが、地蔵菩薩半跏像の船形光背と衲衣、そして十王像の冠と道服の鮮やかな彩色には目を奪われる。
連なる四つの龕に、如来像・菩薩像及び十王像の20余躯の石仏が整然と鎮座している光景は壮観だ。

ホキ石仏第一群の磨崖石仏....四つの龕からなり20余躯の石仏が鎮座

第一龕に鎮座する磨崖仏....如来坐像3躯と脇侍の菩薩立像2躯

第一龕....左から薬師如来坐像、釈迦如来像、阿弥陀如来像の3躯....中尊の裳懸座の半分が残っている

第二龕に鎮座する磨崖仏....阿弥陀如来坐像、薬師如来坐像、(伝)釈迦如来坐像の3躯
 
第二龕....中尊の薬師如来坐像は半眼だが黒い瞳がくっきり描かれている

第三龕に鎮座する磨崖仏....大日如来坐像、如来坐像2躯、菩薩立像2躯

第三龕....中央は彩色が残る宝冠をいただき智拳印を結ぶ大日如来坐像、左は阿弥陀如来坐像、右は(伝)釈迦如来坐像

第四龕に鎮座する磨崖仏....地蔵菩薩半跏像と十王像の11躯
 
第四龕....中尊の地蔵菩薩半跏像の船形光背と衲衣、そして十王像の冠と道服に鮮やかな彩色が残る

■ホキ石仏第二群■

覆屋は平成六年(1994)に落成。 ホキ石仏第二群は二つの石窟の龕からなり、14躯の石仏が並ぶ。 第一龕は中尊に阿弥陀如来坐像で、脇侍に観音菩薩像と勢至菩薩像を配した三尊像が鎮座するが、特に大きな阿弥陀如来坐像は丸彫りに近い精巧に彫像された石仏といえる。 第二龕には「九品の阿弥陀」と呼ばれる9躯の阿弥陀如来立像が鎮座するが、肘から先が欠落していて九品の印相が分からずで残念。 また、左右に1躯ずつの菩薩立像を配しているが、左の菩薩立像は原形をとどめていない。

ホキ石仏第二群の磨崖仏....二つの龕からなり、14躯の石仏が鎮座

第一龕に鎮座する磨崖仏....阿弥陀三尊、脇侍は右に観音菩薩像と左に勢至菩薩像

第一龕....中尊の大きな阿弥陀如来坐像は丸彫りに近い精巧な石仏

第二龕に鎮座する磨崖仏....「九品の阿弥陀」と呼ばれる9躯の阿弥陀如来立像、他に2躯の菩薩立像

第二龕....右側の3躯の阿弥陀如来立像と右端は観音菩薩立像



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