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何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

浄土寺-(1) (小野)

2025年05月06日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・小野市】現浄土寺の西約2kmの場所にあった奈良時代の僧・行基菩薩創建の広渡寺が浄土寺の前身寺院とされる。 鎌倉初期の建久三年(1192)、鎌倉初期の浄土宗の僧・重源上人が荒廃していた広渡寺を現在地に移転して復興、寺号を浄土寺に改めて開山した。 重源上人は鎌倉初期の浄土宗の僧で、平安末期の平氏の南都焼討の兵火で焼け落ちた東大寺大仏・大仏殿の再興のため、大勧進職として尽力した。 宗旨は高野山真言宗で、本尊は薬師如来像と阿弥陀如来三尊像。新西国三十三箇所客番札所。

◆バス停から浄土堂の屋根を望みながら参道を進む。 塔頭の歓喜院がある南側の石階の下に「加東準四國六十一番霊場」と彫られた標石が立つ。 石階を上ると直ぐ左脇に手水舎、正面奥に鐘楼そして左側に国宝の浄土堂が東面で建つ。 鎌倉時代に大仏様(天竺様)で建てられた浄土堂は、鮮やかな丹塗りで典雅な趣があり、簡素だか風格が漂う。 禅宗様(唐様)とは異なり、柱から突き出た挿肘木などに目を奪われる。
北側の小さな入り口から堂内に入ると、鮮やかな朱塗りの化粧屋根裏天井、そして雲形の台座に鎮座する放射光を背負う巨大な阿弥陀三尊立像(国宝)に圧倒される。 仕掛けがあり、西側の蔀戸を通して西日が差し込むと、阿弥陀如来の背面が照らされて浮かび上がることで来迎の姿を表現するそうだ。 完全な形で現存する2つの大仏様建築の一つである浄土堂、そして快慶作の阿弥陀三尊像を拝観できて大いに感動した。

△一般道から延びる参道から眺めた石燈籠と浄土堂の本瓦葺屋根....右は塔頭・歓喜院側の境内入口に、左には塔頭・宝持院側の境内入口がある

△正面に立つ一対の石燈籠....手前は宝暦四年(1754)、奥は天明四年(1784)の造立

△塔頭・歓喜院側の浄土寺境内への石階....石階上に鐘楼堂と手水舎が見え、石階下に「加東準四國六十一番霊場」と彫られた標石が立つ

△石階の直ぐ上に建つ切妻造桟瓦葺の手水舎....手水鉢と古井戸がある/寺社型手水鉢

△露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の浄土堂(阿弥陀堂)(国宝).... 本尊阿弥陀如三尊像(快慶作)を祀る....鎌倉時代建久八年(1197)の建立で、大仏様(天竺様)の建築様式の貴重な遺構

△方三間で柱間が約6メートルある....照り屋根の反りが緩やかで、ほぼ直線的

△身舎周囲に榑縁を設け、正面三間にはそれぞれ観音開きの桟唐戸と両側に横羽目板の小脇羽目

△浄土堂の右側面(北面)....榑縁がある前二間は横羽目板と両脇に小脇羽目がある桟唐戸....正面側に小さな板戸の入口、後一間は縁の幅だけ突き出た連子窓付き部屋(と思う)

△背面(西面)の榑縁がある三間全てが蔀戸....西日が蔀戸を通して堂内に差し込んで阿弥陀如来の背面を照らす

△浄土堂の左側面(南面)は前二間に榑縁、一間は蔀戸、中一間は両脇に小脇羽目がある桟唐戸、後一間は縁の幅だけ突き出た横羽目板壁の部屋(と思う)

△組物は三手先だが、肘木は斗からではなく柱に挿し込んだ挿肘木

△軒廻りは一軒繁垂木で、垂木途中の丸桁を三手目と身舎壁から突き出た尾垂木のような腕木で支えている

△浄土堂に安置されている阿弥陀三尊像(パンフより拝借)....鎌倉初期の仏師快慶の作で、阿弥陀如来像の高さは5.3メートル....堂内は貫や梁などの構造材がそのまま見え、天井を張らない化粧屋根裏

◆浄土堂の南側に小さな庭園があり、隅飾突起が大きく反りかえりひらいている宝篋印塔が佇んでいる。 また、玉取りの阿形の狛犬が植栽に隠れるようにして、ジッと浄土堂を見つめている。 ユニークな勇ましい像容の狛犬は現代のものだが、何故か吽形が見当たらない。
浄土堂の東側で少し離れたところの小さな庭には、幾つかの石造物が浄土堂に向かって鎮座している。 円光を背負い前垂れをした地蔵尊像、塔身に宝篋印陀羅尼経の梵字が彫られた宝篋印塔、それに3基の板状の石仏だ。 板状石仏は摩滅や破損が激しいが、地蔵尊像、阿弥陀三尊像、そして残りの1基はかなり摩滅しているが天蓋下に曼荼羅が薄肉彫りされているのがなんとか確認できる。

△南側に建つ宝篋印塔....隅飾突起が大きく反りかえりひいているので江戸時代造立と推....塔身に虚空蔵の梵字(タラーク)が彫られ、基礎と塔身の石色が異なる

△南側の庭園の植栽に隠れるようにして浄土堂を見つめる狛犬

△昭和六十三年(1988)の造立で、勇ましい姿の阿形狛犬と思うが、確か一体しかなかったと思う/ユニークな姿の玉取り阿形狛犬....通常の狛犬と大きく異なる像容

△浄土堂に向かって前庭に鎮座する石造物....左から地蔵尊像、宝篋印塔、3基の石仏

△梵字(地蔵)が彫られた台座上の蓮華座に鎮座する円光を背負う地蔵尊坐像、右の宝篋印塔は隅飾突起の形から江戸期造立とみられ、塔身に宝篋印陀羅尼経の梵字(シチリヤ)が彫られている

△3基の板状石仏....面に薄肉彫りされているのは右から地蔵尊像、中は阿弥陀三尊像、そして左は天蓋下に曼荼羅

△上部が失われているが阿弥陀三尊の「来迎」の姿が彫られているようだ/幅約60cm、高さ約130cmの起舟後光型地蔵尊像石仏....円光を背負う大きな地蔵尊像が薄肉彫りされている

△八幡神社の境内参道から池(放生池と思う)越しに眺めた浄土堂







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斑鳩寺-(3) (太子)

2025年03月11日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・揖保郡・太子町】その後、楽々山円勝寺の円光院昌仙が中興し、龍野城主の赤松下野守政秀らの寄進を得て講堂、三重塔、太子御堂(聖徳殿)、仁王門などの堂宇が復興され、現在に至っている。 斑鳩寺は太子創建後の一千余年間は奈良法隆寺の別院だったが、復興を機に法隆寺の別院を脱し、聖徳宗から天台宗に改宗された。 豊臣秀吉から300石が寄進され、江戸時代には歴代将軍の御朱印地となった。

◆講堂手前の西側に建つ、聖徳太子の愛馬「黒駒」を鎮座する旧太子堂の聖徳殿前殿に。 一見するとひとまわり小さい講堂のような造りに見えるが、脇間に禅宗様の花頭窓が設えられていて講堂とは違う味わいがある。 殿内は奥行の前一間が外陣で内陣とは腰高格子戸で仕切られていて、講堂と同じご本尊は拝観できず。 聖徳殿のご本尊は聖徳太子十六歳孝養像だが、奥殿と呼ばれる後殿に安置されているのかな。 聖徳殿は、江戸期建立の前殿と、大正期建立の中殿及び後殿が一体に構成されたかなり特異な形の建物。 特に後殿は法隆寺の夢殿を模したとされ、三重に見える裳階付八角二重円堂だ。

△境内の西側に建つ聖徳院....前殿・中殿・後殿で構成され、前殿は江戸期(再建)で、中殿と後堂は大正期の建立....近世(江戸時代)には太子殿と呼ばれていた

△聖徳院の左前の基壇上に鎮座する合掌する聖徳太子御二歳尊像

△入母屋造本瓦葺の聖徳院(前殿)....天文二十年(1551)の再建で、聖徳太子十六歳孝養像を安置....堂前左右に鎮座する馬像は太子の愛馬「黒駒」

△正面五間で中央間三間は両折両開の桟唐戸で講堂と同じ....桟唐戸上部に2つの格狭間を配した連子の意匠

△外陣と内陣は中三間の格子窓と両側に引き違いの格子戸で仕切られている

△中央間三間に上部に格狭間を配した両折両開の桟唐戸、両脇間に花頭窓....母屋と向拝柱を繋ぐ海老虹梁がない

△周囲に切目縁を巡らすが、正面の縁のみに擬宝珠高欄を設けている

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は木鼻付き出組で中備は脚間に彫刻を施した本蟇股、軒支輪がある

△奥行の前一間が外陣で、両側の壁に花頭窓を設えている....内陣とは格子戸で仕切られている

△聖徳殿前殿の南側の小さな入母屋屋根の御堂は護摩堂か?....三方にそれぞれ2つの花頭窓、羽目板の腰壁にクロスに吹き寄せ連子を設えている

△聖徳院殿中殿 ....大正五年(1916)の建立

△南側の築地塀に2つの門があり奥が仁王門....境内掲示の伽藍配置図は「徳川初期の境内図」で、手前の門(聖徳殿後殿の位置)はない

△南側の築地塀に設けられた門を通して眺めた明治~大正にかけて増築された聖徳殿の中殿と後殿

△聖徳殿はかなり特異な形の建物で、入母屋造の前殿、両下造の中殿そして八角円堂の後殿(奥殿)が東西に連なる

△後殿は三重に見える裳階付八角二重円堂....法隆寺の夢殿を模した建物とされる

◆講堂の西側の境内に、瑞垣に囲まれた天神社、経蔵(と思う)そして聖宝殿が建つ。 経蔵は瓦葺の”置き屋根”を乗せた造りで、豪農の古民家でよく見られる土蔵だ。 朱塗りの聖宝殿は、外壁が下見板張り風のデザインで窓が無い。 境内の北東に鎮座する聖霊権現社に向かう。 聖霊権現社は、石造瑞垣に囲まれた本殿に聖徳太子像が祀られている。 拝殿の前に姿勢のよい狛犬が鎮座し、少し離れて「下宮 稗田神社御旅所」と彫られた石柱が建つ。 稗田神社は法隆寺領鵤荘の総鎮守社で、稗田阿礼を祀っている。 凛々しい姿の狛犬だが、左の吽形像の頭上に小さな角があるように見えるが....気のせいか。

△講堂の西側....講堂から聖徳殿前殿に繋がる渡り廊下、左手の小さな建物は天神社

△入母屋造銅板葺で三間社の天神社....天保六年(1835)の再建

△正面三間はいずれも桟唐戸、側面一間で横羽目板....正面のみに切目縁

△軒廻りは二軒繁垂木、柱上に木鼻付き出組が乗り軒支輪がある

△講堂に向かって西側に建つ土蔵造りの経蔵(と思う)....最近の建築のようだ

△切妻造りで瓦葺きの置き屋根を乗せた造り.....豪農の古民家に見られる土蔵のようだ

△寄棟造銅板葺の聖宝殿(宝物館)....外壁は下見板張り風のデザインで確か窓が無い

△乱積みの基壇の上に鎮座する供養塔....2基の石燈籠と五重石塔そして丸石を積み重ねた六重石塔(でいいのかな?)が建つ

△入母屋造銅板葺でコンクリート造り(と思う)の聖霊権現社拝殿....社頭に一対の狛犬が鎮座 、前右に建つ「下宮 稗田神社御旅所」の石柱...稗田神社は法隆寺領鵤荘の総鎮守社

△社頭に鎮座する長い前足の一対の狛犬....安政四年(1857)の造立....左は頭頂に小さな角があるので雌の吽形狛犬、右は雄の阿形獅子(と思う)

△聖霊権現社は本殿・幣殿(と思う)・拝殿が連なる....瑞垣に囲まれた本殿に稗田阿礼を祀る(現在も旧荘域の氏神)

△入母屋造本瓦葺の聖霊権現社本殿....文政十年(1827)の再建

△白壁の築地塀に囲まれた斑鳩寺庫裡(宝勝院(本坊)旧保性院).... 慶安二年(1649)建立で、門は塔頭旧保性院の表門

△唐破風屋根の玄関がある入り母屋造本瓦葺の庫裡....17もの部屋がある

△本瓦葺築地塀に設けられた東門

△東門(赤門)前の堀に架かる石造り反橋

△「赤門」と呼ばれる東門を通して眺めた袴腰造りの鐘楼












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斑鳩寺-(2) (太子)

2025年03月06日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・揖保郡・太子町】斑鳩寺創建以後、鵤の地は長く太子信仰の中心としても栄え、播磨国における特異な文化興隆地域を形成された。 平安時代、この地は法隆寺の荘園「法隆寺領播磨国鵤荘」へと発展し、荘園経営の中核的存在として政所とともに斑鳩寺が建立された。
往古には七堂伽藍と数十の坊院を誇る壮麗を極めた大寺院だったが、室町・戦国時代の天文十年(1541)、出雲国の守護大名の尼子政久氏の播磨侵攻(赤松氏と山名氏の争い)後の混乱の中で、不慮の火災により諸堂が灰燼に帰した。

◆仁王門と大講堂を結ぶ切石敷参道の東側に弥勒堂、手水舎、三重塔、袴腰鐘楼そして聖霊権現社が建ち並ぶ。 東側の築地塀際に「西國卅三所観世音」と彫られた石柱が立ち、塀に沿って赤い前垂れをした起舟後光型観世音菩薩石仏群が整然と鎮座している。 石仏は新西国三十三ヶ所の観音菩薩像で、数分で三十三所霊場巡りができる。
古色蒼然とした朱塗りの三重塔は、斑鳩寺に現存する当時の唯一の貴重な遺構で国指定重要文化財だ。 室町後期に再建された和様建築で、バランスのとれた美しい塔だ。 しばしの間、和様建築の細部の意匠を楽しんだ。

△仁王門と大講堂を結ぶ切石敷の参道の東側に建ち並ぶ右から弥勒堂、手水舎、三重塔そして袴腰鐘楼

△仁王門近くに建つ露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の弥勒堂....正面三間側面二間で側面白壁に格子窓、組物は舟肘木

△軒廻りは一軒疎垂木、正面の組物は撥束....中央間は引き違い戸の格子戸、腰壁は全て縦羽目板

△弥勒堂と袴腰鐘楼の間に建つ本瓦葺の三重塔(国重文)....室町時代後期の永禄五年(1562)に再興された和様建築

△多くの観世音菩薩石仏に見守られて聳え建つ三重塔

△築地塀際に佇む「西國卅三所観世音」と彫られた石柱(卅は三十)/築地塀際に整然と鎮座する三十三所霊場巡りの石仏群....赤い前垂れをした33体の起舟後光型観世音菩薩石仏

△三重塔は斑鳩寺に現存する当時の唯一の貴重な遺構....塔高は約25メートル/軒廻りは三層いずれも二軒繁垂木で蛇腹支輪がある

△三間四方で初重の中央間は板唐戸、両脇間は盲連子窓で腰壁は横羽目板....周囲に擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす

△組物は三手目が尾垂木の三手先で、中備は蓑束....軒(蛇腹)支輪の下内側に小組天井の軒天井

△二重・三重に軒支輪と軒天井があり、組高欄付廻縁を巡らす

△二重・三重の組高欄付廻縁の腰組は間斗束....中備は蓑束で初重に3個、二重目は真ん中にのみ配す

△三重塔越しに眺めた大講堂

◆三重塔の北側に大棟に鯱を配した朱塗りの袴腰鐘楼が建つ。 縦羽目板の袴腰や緑色の連子窓など趣があるが、元禄時代の再建にしては古色さが感じられない。 国指定ではなく県指定の有形文化財なのは、新資材を多く使った近年の修復によるものと思うが....。

△三重塔の北側に建つ袴腰鐘楼と手水舎

△入母屋造本瓦葺の袴腰鐘楼....天正三年(1575)の再興、銅鐘は元禄六年(1693)の梵鐘の再鋳と共に鐘楼も再建されたようだ

△正面三間、側面二間の鐘楼....大棟端に鯱、拝に猪ノ目懸魚、妻飾は失念....周囲に擬宝珠付高欄を巡らす/袴腰鐘楼の軒廻りは二軒繁垂木、組物は木鼻付き平三斗で中備は二間の北側と南側に間斗束....四方に各2つの連子窓がある

△朱塗りの壮麗な三重塔と袴腰鐘楼は古刹にふさわしい堂宇

△鐘楼の羽目板の袴腰越しに眺めた大講堂(東側)





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斑鳩寺-(1) (太子)

2025年03月01日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・揖保郡・太子町】飛鳥時代の推古天皇十四年(606)、聖徳太子が豊浦宮(現在の奈良橘寺)で第33代推古天皇に「勝鬘経」を、また、岡本宮で「法華経」を講説したところ、深く感動した天皇から播磨国揖保郡の土地 ”水田百町” を賜り、この土地を仏法興隆のため法隆寺に寄進した。 太子は大和国斑鳩宮からこの地に移住して「鵤荘(斑鳩荘)」と命名し、その一角に仏堂を建てたのが播州斑鳩寺の始まりと伝える。
宗旨は天台宗で、本尊は釈迦如来・薬師如来・如意輪観音。 新西国三十三箇所第32番札所、西国薬師四十九霊場第23番札所、聖徳太子霊跡第28番札所など。

◆バス停「鵤」で下車し北西に数分歩くと、山門と築地塀(筋塀)に囲まれた斑鳩寺に着く。 山門は仁王像が鎮座する仁王門、5本の筋が入った塀の上から三重塔が顔を出している。
仁王門に鎮座する仁王像は筋骨隆々だが、かなり細身で、また、金剛杵を持つ阿形像のお顔はまるで侵入した仏敵にびっくりした表情でなかなか面白い。 「新西国三十三箇所第32番霊場」と「西国薬師第二十三番霊場」の聯が掛けられた仁王門から境内を眺める。
切石敷参道の奥に講堂が建つが、釈迦如来他が祀られているのに何故か本堂とは言わないようだ。 講堂は室町後期の再建だが、簡素で趣がある。 向拝前の天水桶は江戸後期の造立だが、正面に彫られている「承霤」の字は初めて知った。 そういえば、境内に伽藍配置図が掲示されていたが、何故か「徳川初期の境内図」で、いまの聖徳殿、天神社、経蔵、聖宝殿が描かれていない。

△門前に建つ「聖徳太子御由跡 斑鳩寺」と彫られた寺号標石から見える仁王門と築地塀上に三重塔

△大棟端に鯱を乗せた入母屋造本瓦葺の仁王門....江戸時代寛文十三年(1673)の再建

△仁王門の軒廻りは二軒繁垂木....両側に本瓦葺で5本の筋が入った築地塀(筋塀)が延びる

△戸口両側に仁王像が鎮座....像の周りに多くの草鞋が下がる

△戸口左右の金剛柵の中に鎮座する阿形・吽形の金剛力士像/阿形像は左手に偉大な力をもつ金剛杵を持つ

△両側門柱の左に「新西国三十三箇所第32番霊場」、右に「西国薬師第二十三番霊場」(と思う)の聯が掛けられている

△仁王門から眺めた境内....切石敷参道の正面奥に大講堂が建つ

△入母屋造本瓦葺の大講堂....室町時代後期の弘治二年(1556)の再建....本尊に釈迦如来像・薬師如来像・如意輪観音像の三尊を祀る

△向拝前に魔尼車、左右に立つ石灯籠は昭和十年(1935)の造立

△向拝軒に下がる筒状の鎖樋と天水桶....天水桶は文政十三年(1830)の造立で正面に「承霤」と彫られている

◆講堂は、正面五間の中央間三間に両折両開の桟唐戸、両脇間一間に盲連子風の連子窓を設えた造りで、飾り気がなく質素な佇まいだ。 だた、正面の切目縁の上に設けられた木製レールが母屋と異なる色合いで変に目立ち、古刹の雰囲気を損なっていて残念だ。 多分、五色幕を張る棒だと思うが....。 堂内は奥行の前二間が外陣で内陣と腰高格子戸で仕切られていて、ご本尊を拝観できずだ。
外陣の隅に鎮座する賓頭盧尊者像に見守られながら参拝した後、天井を見上げると、彩色された西國三十三所観音様が描かれた板が壁に整然と並んでいる。 講堂の西側と北側の切目縁から吹き放しで高床の渡り廊下が延び、それぞれ聖徳殿前殿と庫裡に繋がっている。

△正面五間で中央間三間は両折両開の桟唐戸で、両脇間は盲連子のような連子窓....桟唐戸上部に菊紋(真ん中の戸のみ)と格狭間を配した連子の意匠

△水引虹梁の上に龍の彫刻、木鼻は正面が象鼻、側面が象頭

△外陣と内陣は腰高格子戸で仕切られている....頭貫上の台輪の上に奉納された西國三十三所観音様を描いた板が立ち並んでいる

△奥行の前二間が外陣で、西側の隅に鎮座する十六羅漢の第一尊者・賓頭盧尊/右手は施無畏印を結び,左手に宝珠をもつ

△外陣から眺めた聖徳院の前殿

△大講堂の西妻面(側面五間)....連子窓、三間に両折両開の桟唐戸、そして羽目板....身舎周囲に高欄のない切目縁を巡らす...瓦葺と銅板葺の高床渡り廊下は聖徳殿前殿に延びる

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は出三つ斗で中備は脚間に彫刻を配した本蟇股....身舎円柱の頂部に禅宗様の粽がある

△大棟端に獅子口、拝は蕪懸魚、妻飾は二重虹梁大瓶束

△大講堂の東妻面と北面....鋼板葺の高床の渡り廊下が庫裡に延びる

△境内の東側に袴腰鐘楼その前に手水舎が建つ....鐘楼の北側(奥)に聖霊権現社が鎮座

△切妻造本瓦葺の手水舎

△社寺型手水鉢....奥の古井戸から吸い上げた清水を流れ落とす竹製の水口

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一乗寺-(5) (加西)

2024年06月01日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・加西市】謎の法道仙人は、飛鳥時代(6~7世紀)頃に天竺から中国・朝鮮半島を経由して日本に渡ってきたとされる。 法道仙人伝説の始まりは法華山一乗寺とされ、播磨国一帯の山岳には法道仙人を開山・開基と伝える数多くの勅願寺を含む所縁の寺が存在する。 法道仙人の存在や開基伝承の真偽は不明だが、寺院が存続していくために霊力あらたかな人物を開山者とした由緒ある縁起が必要だったために創出されたことも考えられる。

★賽の河原から石段の無い東側の緩やかな参道を下って放生池に向かう。 樹林の中の参道を進むと、柵と鮮やかな青紅葉に囲まれた放生池が現れ、中島に東面で弁天堂が鎮座している。 放生池の周りには石造仏龕が建ち並び、多くの石仏が弁天様を見守るように鎮座している。

△奥の院への石段のない参道(女坂?)の樹林の中に造営された放生池

△放生池の周囲の参道に立ち並ぶ石造り仏龕に鎮座する石仏群(坂東三十三観音か?)

△放生池の中島に東面で鎮座する弁天堂

△流造銅板葺の弁天堂....向拝下に浜床、側縁の奥に板張りの脇障子がある

★放生池がある境内に面して石造りの明神鳥居が建つ。 鳥居には上部が破損した額が掲げられているが、「見子〇〇」の下二文字はハッキリしない。 少し複雑な字に見えるので「見子神社」だと思うが....。 鬱蒼と茂る木々の間に緩やかな石段の参道が延びていて、奥に社殿が見える。 古びた石段を上り詰めると樹林の中に社殿が建ち、拝殿に「見子大神」の扁額が掛かっている。 一乗寺管理の神社なのか分からないが、一乗寺を訪れた参詣者があまり来るような雰囲気ではない気がした。
境内入口の前の道を挟んだ向かい側に一乗寺が管理する無料休憩所があり、帰りのバスを待つ間番茶をご馳走になった。

△放生池傍の見子大明神の社への参道入口に建つ石造り明神鳥居....文化三年(1806)の造立で、額束に上部が破損した「見子〇〇」の額....少し奥に朱塗りの明神鳥居がある

△参道途中に建つ苔生した笠の石灯籠と注連柱(と思う)

△緩やかな石段の上に西面で鎮座する見子大明神の社殿

△入母屋造本瓦葺の拝殿....中央の虹梁の上に「見子大神」の扁額

△正面三間,側面二間の拝殿は細めの柱で吹き放しの造り....一軒繁垂木で組物は出三ツ斗

△拝殿の大棟端に鬼瓦、拝は蕪懸魚、妻飾は狐格子....狐格子は桃山以降の新式

△本殿の正面は二間で左右に格子の引き違い戸(と思う)

△本瓦葺の本殿の屋根は前方が入母屋造りで、後方は切妻造り

△南側から見た社殿全景....本殿は基壇の上に建つ

△社頭の石燈籠は天保十五年(1844)の造立、石柱は玉垣修全記念柱で大正二年(1913)の造立/手水鉢は明治十三年(1924)の造立

△放生池南側の広い境内に建つ太子堂と四阿

△聖徳太子を祀る太子堂と向かって右手に石造物が鎮座

△露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の太子堂....まだ新しいので昭和期頃の建立ではと思う

△基壇の上の石造物は宝篋印塔、五輪塔そして箱型や唐破風付きの墓石

△入母屋造桟瓦葺の桁三間の横長の四阿

△境内入口の前の道を挟んだ向かい側に建つ無料休憩所

△休憩所の中ではお茶のサービスが....


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一乗寺-(4) (加西)

2024年05月26日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・加西市】一乗寺には7~8世紀造立の金銅仏や平安建築の三重塔など奈良・平安時代の寺宝が数多く残されていて、国宝や国指定重要文化財が数多くある。 国宝としては「絹本著色聖徳太子及び天台高僧像10幅」と「三重塔」で、いずれも平安時代のもの。 重要文化財の建物としては、江戸時代初期再建の本堂の他、鎮守社の護法堂、妙見堂、弁天堂がある。 その他、飛鳥時代末~ 奈良時代初(7世紀後半)の金銅仏である本尊の聖観音菩薩立像や石造五輪塔が重要文化財に指定されている。

★本堂後方の境内に4棟の御堂が建つ。 西側の山裾に並んで建つ檜皮葺の2棟は、いずれも室町時代建立の三間社流造り妙見堂と一間社隅木入春日造りの弁天堂。 いずれも風情を色濃く残す雰囲気で、悠久の時を感じさせる御堂だ。 少し本堂寄りの傾斜地に、仏法守護神で北方世界を守護する毘沙門天を祀る一間社春日造り檜皮葺の護法堂が鎮座しているが、さらに古い鎌倉時代の建立だ。

△本堂(金堂)裏手の山裾の境内に鎮座する右から妙見堂、弁天堂そして行者堂

△南面で鎮座する檜皮葺屋根の弁天堂(左)と妙見堂(右)(いずれも国指定重要文化財)

△一間社隅木入春日造檜皮葺の弁天堂....室町時代の建立で、福徳・除災・得勝・音楽などを司る弁財天を祀る

△弁天堂は二軒重垂木で軒支輪がある....高欄のない側縁奥に板脇障子....大棟に鳥衾付き鬼瓦、拝は蕪懸魚、妻飾は豕扠首

△三間社流造檜皮葺の妙見堂....室町時代の建立で、国土守護・災害滅除・福寿増長の妙見菩薩を祀る

△二妙見堂は軒繁垂木、向拝柱の上に連三ツ斗、下に浜床、大棟に鬼瓦、拝は猪ノ目懸魚、脇懸魚は蕪懸魚、側縁の奥に板脇障子

△露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の行者堂(護摩供の道場)....寛文年間(1661~1673)の建立で、役行者と前鬼・後鬼を祀る

△一軒繁垂木で組物は柱上に舟肘木.....周囲は白壁で正面と右側面に入口がある

△本堂(金堂)真裏の山の石段の上に鎮座する護法堂(国指定重要文化財)....仏法守護の毘沙門天を祀る

△一間社春日造檜皮葺の護法堂.....鎌倉時代の建立

△護法堂は二軒繁垂木で軒支輪があり、向拝柱上の組物は連三ツ斗、柱間に本蟇股.....組高欄付き縁がある

★本堂から奥の院に向かう。 本堂から5分ほど山に入った処の石垣の上に、一乗寺開山の法道仙人を祀る開山堂がひっそりと建つ。 開山堂に設けられた廻縁と周囲の柵の上にびっしりと小石が置かれていて、多くの人が参詣していることが分かる。  開山堂から20メートルほど山を登った所に「賽の河原」があるので、参詣者はそこから石を持ってきたものと思う。 とはいえ、開山堂と賽の河原は関係がなさそうだが....。
ごつごつとした岩の参道を上ると、数体の地蔵菩薩像が鎮座する浅い洞窟があり、その前に積み上げた小石が所狭しとある。  亡くした子供や水子の菩提を弔うために多くの親御さんが石を積んで地蔵菩薩に弔いをお願いしたのだろう....合掌。

△奥の院への参道から眺めた本堂/ 奥の院近くの切石敷の参道....先には苔むした緩やかな石段がある

△緩やかな石段参道の奥の石垣の上に建つ開山堂

△奥の院の開山堂には一乗寺の開山・法道仙人を祀る

△露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の開山堂....江戸時代前期の寛文七年(1667)の建立

△三間の中央間に桟唐戸、両脇間に花頭窓....身舎の柱は円柱で、向拝柱は面取り角柱

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は平三ツ斗で中備は脚間に彫刻を施した本蟇股、周囲に高欄のない切目縁を巡らす

△開山堂の西側面....2つの花頭窓と舞良戸風の引違い戸、小さな格子窓がある

△廻縁には奥の賽の河原から持ってきたとみられる石が置かれている/開山堂傍に建つ唐破風の笠を乗せた三界萬霊塔....延宝八年(1680)の造立で梵字と「三界萬霊有無兩縁等」が彫られている....梵字は胎蔵界大日如来の「ア」か?

△開山堂から20メートルほど上った所にある「賽の河原」....浅い洞窟の処が行き止まり/湧き水が流れているのでこれを三途の川と考えて「賽の河原」と名付けたものと思う....この地は台風で少し崩れたようで賽の河原にあるはずの九重石塔が見当たらない

△子供や水子を亡くした親が菩提を弔うために積んだ小石群

△洞窟内に鎮座する地蔵菩薩石仏群....合掌



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一乗寺-(3) (加西)

2024年05月21日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・加西市】中世(鎌倉~室町時代)においては、山内に真言律宗の律院が併設されていた。 真言律宗の宗祖・興正菩薩叡尊が鎌倉時代の弘安八年(1285)、一乗寺にて仏教活動を行い2124人に菩薩戒を授けた。 正応三年(1290)には、後に後醍醐天皇・後村上天皇の護持僧となる文観房弘真(13歳)がこの地で真言律宗に入信、真言律宗の僧・巌智律師に入室し、叡尊の高弟・観性房慶尊のもと得度した。

★三重塔境内から3番目の石段を上っていくと、眼前に舞台造りの本堂が迫ってくる。 斜面にせり出して建つ本堂は、古色蒼然たるたたずまいで歴史を感じさせる。 五色幕が張られた正面に古びた「大悲閣」の扁額が掲げられているが、向拝がなく入口への階段がない。
少し右に進んで左に折れると、趣のある腰袴付きの鐘楼が建ち、本堂に沿って参道が奥に延びている。 周囲に切目縁を設けた本堂の東側面の意匠を拝観しながら背面に回る。

△三重塔境内から見上げた入母屋造本瓦葺の本堂(金堂)....本尊の銅像聖観世音菩薩像(秘仏)を祀る

△3番目の石段下から見上げた本堂

△斜面にせり出した舞台(懸)造りの本堂(国指定重要文化財)....飛鳥時代の白雉元年(650)、第36代孝徳天皇による建立....現建物は江戸時代前期寛永五年(1628)の再建

△軒廻りは二軒重垂木、組物は出三ツ斗で中備は間斗束....長押の上に「大悲閣」の扁額が掲げられている

△舞台造りで南面の正面からではなく背面から本堂に入る....本堂正面九間の内の五間は両折両開の桟唐戸、両端二間と側面二間(連子窓)に五色幕が張られている

△本堂正面(南面)の縁(切目縁)の床下....左は下の境内に建つ三重塔

△正面から右に折れ、本堂脇の参道を進んで本堂入りに....右側(東側)の建物は鐘楼

△入母屋造本瓦葺の袴腰鐘楼....江戸初期寛永六年(1629)の建立で、軒廻りは二軒繁垂木、組物は出三ツ斗

△本堂側面は八間で一間は両開き桟唐戸、五間は舞良戸風の引違い戸(五色幕が張られた二間は失念)

△本堂への入口階段傍から眺めた本堂東脇の参道....左側は袴腰付き鐘楼

★本堂の背面には手水舎が建ち、本堂に上がる片側のみに登高欄を設けた階段がある。 階段を上がって縁を進み、本堂から腰袴付き鐘楼を拝観しながら本堂正面に。 正面に回ると眼下の三重塔が目に入り、素晴らしい眺望が現れる。 両折両開の桟唐戸から外陣に入る。 密教寺院の特長である広い外陣があり、大きな2つの「南無観世音」の赤い提灯が下がる。 内陣とは格子壁で仕切られていて、まるで参詣者に内陣を見られるのを拒んでいるかのようにみえる。

△桁行九間、梁間八間の本堂の背面(北側)....背面の縁には擬宝珠高欄が無い

△向かって左手(東側)の階段から本堂に上がる....背面は五間に扉、四間横羽目板....手前の建物は手水舎

△切妻造本瓦葺の手水舎/寺社形手水鉢は江戸時代正徳四年(1714)の造営

△階段を上がってみた本堂東側の切目縁

△袴腰付き鐘楼は桁行三間、梁間二間....屋根の大棟、降棟、隅棟の端に鳥衾付き鬼瓦、拝は猪ノ目懸魚、妻飾は豕扠首

△上層周囲に組高欄付き切目縁....周囲の外壁には格子窓が設えられている/「一乗寺」の銘が打たれた梵鐘

△正面の両折両開の桟唐戸....一部の戸に連子を入れている/本堂は広い外陣、閉鎖的な内陣、脇陣、後陣から構成されている

△内陣は五間の格子壁と菱格子欄間そして引き違い板戸で外陣と仕切られている

△引き違い板戸で仕切られている....三間の厨子に本尊聖観音立像(国指定重要文化財)と左右に不動明王・毘沙門天像を安置....飛鳥時代末~ 奈良時代初造立の金銅仏でいずれも秘仏

△三間の広い外陣に「南無観世音、左三つ巴、法輪」が描かれた赤提灯が下がる

△外陣に鎮座する十六羅漢の第一尊者・賓頭盧尊者/外陣の格天井の模様は木札?....改修前は巡礼者が打ちつけた大量の木札があったそうな


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一乗寺-(2) (加西)

2024年05月16日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・加西市】”天竺から紫雲に乗って飛来”云々の真偽は別としても、兵庫県東部地域に法道仙人が開基したとの伝承を有する寺院が集中しており、伝承の元となる中心人物が実在した可能性は否定できない。 また、一乗寺の付近には奈良時代に遡る廃寺跡や石仏などが存在することから、この地域一帯は早くから仏教文化が栄えた地のようだ。

★常行堂境内から上の段に建つ三重塔の三重目の屋根が木立の上から顔を出している。 2番目の石段を上って三重塔境内に....常行堂境内よりも狭いが、静謐な空気が満ちる中に国宝の三重塔が聳え立つ。 平安後期建立の和様建築で日本最古の塔の一つとされ、国内で十指に数えられている古塔だ。 古代の塔らしく上重の逓減率が大きく、また相輪が長く大柄なので安定感があり、実に調和のとれた優美な姿だ。 本堂境内から三重塔を見下ろした時、初重と二重の屋根瓦が気になった。 ところどころ変色したかなり古そうな瓦が葺かれているので、奈良元興寺の古瓦・行基瓦を思い出した。

△青銅製燈籠が佇む常行堂境内から眺めた三重塔....青銅製燈籠は昭和十一年(1936)の造立

△常行堂境内に鎮座する石造物群....宝篋印塔は享保五年(1720)の造立

△三重塔境内への36段の石段市から見上げた三重塔....さらに上に建つ本堂が少し見える

△本瓦葺の三重塔(国宝)....平安時代承安元年(1171)建立の和様建築.で日本最古の塔の一つとされる....国内で10指に入る古塔また兵庫県下に現存する最古の塔婆

△三重塔は総高約21.8メートルで相輪は約7メートル....建築年代が明確で奈良・京都以外の地域に現存する最古の三重塔/塔内に本尊五智如来を祀る

△三重塔の書租の軒廻りは二軒重垂木、組物は三手目が尾垂木の三手先、中備は本蟇股(刳抜蟇股)....軒天井と蛇腹支輪がある

△三間中央間は板扉、両脇間は盲連子窓....初層周囲に設けた幅が広い広縁は高欄なしの切目縁

△二層目の軒廻りや組物、中備は初層と同じだが回縁は組高欄付き切目縁

△三層目は二層目と同じ造りだが蛇腹支輪と軒天井がない

△三重塔は各部材の寸法が太いので重厚な意匠を持つ....また反りの強い尾垂木や飛檐垂木を用いて深い軒を出している/軒がかなり深く上重の減衰率が大きくなっているので安定感がある....初層の切目縁がかなり広いことが分る

△本堂境内から眺めた三重塔....総高さにおける塔身部と相輪長さの占める割合のバランスがいい....初重と二重の屋根瓦は行基瓦風でかなり古そうだ/相輪は塔身部に比して長く大柄....心柱は初重天井上の梁から立っている、また、二重・三重の四天柱が省略されている

★同じ境内に三重塔に対面して法輪堂が建つが、江戸中期の建築なのだが新しい建物のようにみえる。 周囲に鎮座する石仏たちに見守られながら聳える古びた三重塔とは対照的で面白い。 法輪堂は修築などが行き届いているのだろう、漆喰壁と腰壁のなまこ壁の白さが眩しい。

△露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の法輪堂(経蔵)....四方は漆喰壁で腰壁はなまこ壁

△本瓦葺の唐破風の入口....兎毛通は蕪懸魚、虹梁に龍の彫刻があるが頭部と片腕が欠落しているようだ

△入口は腰高格子戸....梁に掲げられた扁額は「法輪堂」か?/法輪堂は江戸時中期の宝暦十二年(1762)の建立で、黄檗版一切経が納められている

△側壁に花頭窓を設けた法輪堂脇から眺めた三重塔

△三重塔の山側に石造りの屋根付仏龕に鎮座する石仏群

△三重塔境内から見上げた上の段に建つ本堂


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一乗寺-(1) (加西)

2024年05月11日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・加西市】孝徳天皇の時代の白雉元年(650)、天竺から紫雲に乗じて中国朝鮮を経て飛来したとされる法道仙人が創建した伝わる。 法道は伝説的人物だが、神通力で鉄鉢を自在に飛ばし、山里から米などの供物を得ていたため「空鉢仙人」と呼ばれていた。 法道の評判は孝徳天皇の耳にも入り、天皇の病を法力で治癒させた縁で、天皇が金堂を建て「一乗寺」の勅額を与えたとされる。 宗旨は天台宗で、ご本尊は聖観世音菩薩像で白鳳時代作の金銅仏。 西国三十三所第26番札所。 播磨西国三十三カ所第33番札所。 神仏霊場巡拝の道第77番霊場(豊饒の道兵庫第12番)。
<文化財(建造物): 国宝 =三重塔/国指定重要文化財=金堂、護法堂、妙見堂、弁天堂>

★まずは、県道206号線に面した一乗寺の境内入口から東に向かい、約500メートル上った峠の道路脇に建つ山門を拝観する。 西に約550メートル離れた所にも同じような門が建つことから、往時には広大な寺領を有す大寺であったことが窺い知れる。 とはいえ、いずれも規模が小さく簡素な造りなので、大寺の山門らしくない。
境内入口に戻り、道に沿って流れる側溝に架かる緩やかな反橋を渡って境内に。 参道の真ん中に総高は約3メートルの石造り笠塔婆が佇んでいて参詣者を迎えている。 二重の反花座台石の上に建つ笠塔婆は約710年前の鎌倉末期の造立で、大日如来の梵字と金堂(本堂)からちょうど一町の距離にあることが刻まれている。

△一乗寺前の県道206号線を東へ約500メートル上った峠の道路脇に建つ一乗寺山門

△切妻造本瓦葺の山門は東門....一乗寺前から西側に約559メートル離れた所に同じような形の西門が建つ

△規模が小さい簡素な造りの薬医門形式の山門....一乗寺の伽藍の規模にしては東西門いずれも小さい

△門前の全景....門前右手に昭和四十一年(1965)造立の「法華山一乗寺」と彫られた寺号標石が立つ

△入り口の境内前を流れる側溝(小川?)に架かる幅広の小さな石橋(反橋)....2つの切石敷参道の間に常香炉が置かれ、石造笠塔婆が立つ

△石橋の脇に建つ道標/向かって右手に建つ歓喜院の石垣そして土塀に沿って流れる小川

△入り口の参道中央に常香炉と石造笠塔婆、右手歓喜院の石垣土塀の傍に宝暦十二年(1762)造立の石燈籠が立つ

△二重の反花座の台石上に建つ石造笠塔婆鎌倉末期の正和五年(1316)の造立....上部に胎蔵界五仏の大日の梵字を刻む....塔婆の位置は本堂からちょうど一町(約109m)の距離にある/笠の軒下端に薄く平板状の垂木型を刳り出し、頂部に蓮弁を刻んだ請花・宝珠をいただく

★伽藍は山間の傾斜地に階段状に造営されていて、本堂までは三つの石段がある。 山裾の境内を奥に進むと木々に覆われた最初の急峻な石段がある。 まずは石段右手奥の傾斜地に佇む鎌倉末期造立の五輪塔を拝観する。
最初の石段を上ると狭いが静寂な境内に常行堂(阿弥陀堂)がひっそりと建つ。 奈良時代に聖武天皇の勅願で創建され、その後、二度の焼失・再建を繰り返したが明治元年に再建された。 さほど古くはない御堂だが、歴史を感じさせる佇まいだ。

△入り口境内の正面奥に堂宇境内への急峻な石段がある....左手の白壁の建物は宝物館

△左に山号寺号標石、切石敷参道に回向柱が建ち、石段下の右手の奥に五輪塔がある

△傾斜地の木立の中に鎮座する石造五輪塔

△鎌倉末期の元亨元年(1321)造立の石造五輪塔(国指定重要文化財)

△空(宝珠)、風(受花)、火(笠石)、水(塔身)、地(基礎)の五大各輪に梵字が刻まれている

△回向柱の傍から眺めた境内の入り口

△最初の常行堂(阿弥陀堂)境内への急峻な石段(76段)....山腹に建つ本堂へは三段に分かれた石段(計161段)を上る

△石燈籠越しに眺めた常光堂(阿弥陀堂)....第45代聖武天皇の勅願で創建されたが、室町時代嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で焼失

△露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺で裳腰を設けた常行堂....天文二年(1533)に再建されたが再び焼失、明治元年(1868)に再々建された

△正面五間で中央間三間は引き違いの腰高格子戸で両脇間は引き違いの縦羽目板戸

△身舎の軒廻りは二軒繁垂木、組物は柱頭に出三つ斗、中備は本蟇股(刳抜し蟇股)

△裳腰の軒廻りは二軒繁垂木、組物は出三つ斗で中備無し

△側面五間で二間が格子戸、三間が横羽目板張....正面側一間のみに高欄付縁/簡素な組高欄風の高欄付き縁

△常行堂境内に鎮座する大正十五年(1926)造立の地蔵尊立像/常行堂の左側面側に置かれた水口のない手水鉢

△青銅製燈籠越しに眺めた常行堂






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西宮神社-(4) (西宮)

2024年04月06日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・西宮市】太平洋戦争が終わる昭和二十年(1945)、連合国軍の都市無差別空襲で本殿等を焼失した(赤門は残る)。 同三十六年(1961)、桧皮葺から銅板葺に変わった他はほぼ元通りに復興された。 本殿は三連春日造と云う珍しい構造をしている。 西宮神社は「十日戎」での福男選びというイベントが有名で、毎年、TVニュースで紹介されている。

★拝殿の南側に広がる中世造営の神池の庭園に。 拝殿の真正面の池の端に石造りの太鼓橋が架かっている。 瑞寶橋という青銅製の擬宝珠欄干を備えた趣のある橋だが、神様だけが渡る橋だからか柵に注連縄が張られていて通行止めだ。
太鼓橋と並行に架けられた緩く湾曲した反橋を渡って中島へ。 石組護岸の神池に浮かぶ中島は3つの島からなり、ほぼ平らな石橋で繋がっている。 拝殿側の島には古い境内社の宇賀魂神社が鎮座し、石組の築山の上に伊勢鳥居が東面で建つ伊勢神宮遥拝所がある。

△社殿の南側に広がる庭園....南北朝時代~室町時代の造営で、神池を中心に中央に石組による築山を配した庭(「蓬莱山水式庭園」という)....石組護岸の神池に浮かぶ中島は3つの島からなる

△拝殿の真正面の神池に架かる瑞寶橋....明治四十年(1907)に奉納された石造り太鼓橋で擬宝珠欄干は青銅製

△瑞寶橋と並行に架けられた石造り反橋(通行可)

△中島から見た瑞寶橋....ちょうど拝殿の真正面に架かっている

△反橋を渡った直ぐの中島(北側の大きな島)に鎮座する宇賀魂神社

△流造銅板葺の宇賀魂神社....祭神・宇賀御魂命を祀る....文明年間(1469~1487)以前からこの地に祀られていた古い境内社

△神楽所の西側に広がる神池の「神池石垣寄進碑」....元禄九年(1696)に寄進された神池の石垣を記念した石碑で、長らく池畔に散在していた

△中島と神楽所の間に架かる反り橋

△宇賀魂神社の向かいに設けられた伊勢神宮遥拝所....石組みの築山の上に周囲を石で囲み、伊勢鳥居が東面で建つ

★遥かな伊勢神宮に向かって参拝した後、3つに分かれていて平らな石橋で繋がっている石組護岸の中島を時計回りに進む。 石組み築山の石の間から流れ落ちる段落の滝があるが、小さ過ぎて見落としそうだ。 鯉が優雅に泳いでいる3つの島の真ん中は、まるで池の中にもう一つの池があるようだ。 神池西側の境内にある「おかめ茶屋」に近い島には、江戸時代には弁才天として祀られていた市杵島神社が鎮座している。 西宮神社を参拝したのは4月20日だったが、偶然にも「旬祭」という祭典を拝観することができた。 厳かに行われている神事を拝殿からしばし眺め、これはゑびす様からのご利益の一つなのかなと思いながら表大門に向かった。

△伊勢神宮遥拝所の伊勢鳥居から眺めた庭園....奥の木々の中に見える寄棟造りの建物は六英堂

△伊勢神宮遥拝所の石組みの築山から流れ落ちる小さな段落の滝....松の木の奥の建物は社殿

△中島の松の古木と植栽の中に佇む雪見燈籠

△中島の南側から眺めた庭園....神池の東側に建つ建物は神楽所

△石垣で囲まれた3つの島の中島は石橋で繋がっていて、池の中に池がある景色

△中島の「おかめ茶屋」への反橋の近くに鎮座する市杵島神社

△流造銅板葺の市杵島神社...祭神・市杵島神を祀る....江戸時代には弁才天として祀られていた

△神池の西側の境内にある「おかめ茶屋」....神池に架かる反橋(反橋は中島に3つある)を渡った直ぐの所

△神明造屋根で吹き放しの祓所....大棟に内削ぎの千木と4本の堅魚木が乗る

△偶然にも4月20日の訪問だったので、「旬祭」の祭典(午前十時)に出くわした

△祭典が始まる十時前には多くの参詣者が拝殿に居並ぶ

△最初は神酒を供えるようだ

.△野菜を供える....すでに魚が供えられている

△リンゴだろうか果物を供える

△玉手箱のようなこれは何かな?




















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西宮神社-(3) (西宮)

2024年04月01日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・西宮市】西宮神社は廣田神社の摂社で「西宮戎社」と呼ばれていたが、明治五年(1872)、官幣大社となった廣田神社から分離独立、同六年(1873)に西宮戎社から「大国主西神社」に改称された。 しかし、同七年(1874)、境内末社の大己貴社が大国主西神社とする説が挙がったため、教部省は大国主西神社を西宮神社に、末社の大己貴社を大国主西神社に改称し、両神社とも廣田神社の摂社とし、県社に指定した。 同八年(1875)、教部省から西宮神社は廣田神社とは別に祠官を定め、社務と社入も別途としてもよいとの通達が出され、西宮神社の独立が守られた。

★若い男達が「福男選び」で走る表大門から約230mの位置に建つ社殿は、昭和三十六年の再建で新しいが荘厳さが漂う。 大きな唐破風向拝の拝殿の前の左右に、いずれも青銅製の一対の狛犬と神馬とが鎮座。 向かって左側の吽形は頭頂に角があるので雌の狛犬で、右側の阿形は雄の獅子だ。 拝殿を通って中に入ると、社殿と回廊で囲まれた玉砂利と切石が敷かれた聖域がある。 真正面に鎮座する本殿は、三連春日造りという三棟(三殿)が繋がった珍しい造りだ。 本殿は昭和期の再建なれど、神々しい威厳に満ちた社殿だ。

△表大門から約230m離れた位置に南面で鎮座する西宮神社の社殿

△拝殿前左右に鎮座する一対の青銅製馬像は明治三十二年(1899)の造立

△入母屋造銅板葺きの拝殿....社頭に各一対の青銅製の狛犬と神馬とが鎮座

△正面の屋根に大きな千鳥破風を乗せ、身舎左右に翼廊とみられる入母屋造りの建物....大きな唐破風の三間幅の向拝

△拝殿前左手に鎮座する青銅製の狛犬....天保十二年(1841)造立で昭和四年(1929)の再建/右手に鎮座する青銅製の狛犬....こちらは阿形の雄の獅子

△吽形の像は角があるので雌の狛犬....昭和二十年(1945)の戦災で礎石を破損したため像を徹客、その後破損を改修して再安置

△唐破風の棟に鳥衾を乗せた鬼板、拝は変形の猪ノ目懸魚、水引虹梁に「西宮神社」の扁額....向拝は三間幅で主に両折両開で吹寄格子を配した扉

△社殿に向かって左側の翼廊(と思う)に配された吹寄格子風の窓と上に菱格子欄間/吹寄格子を配した扉

△本殿は銅板葺き三連春日造という三棟が繋がった珍しい造り....元国宝の建物で昭和二十年(1945)の戦災で焼失したが、昭和三十六年(1961)に桧皮葺から銅板葺に変えた他はほぼ元通りに復元された

△本殿の創建は江戸時代寛文三年(1663)で、徳川第四代将軍家綱により寄進

△向かって右から蛭児大神を祀る第一殿、中央は天照大御神・大国主大神を祀る第二殿、左が須佐之男大神を奉斎する第三殿

△「西宮造り」ともいわれる三連春日造銅板葺の本殿....屋根に内削ぎの千木と1本の堅魚木が乗り、拝に蕪懸魚、妻飾は豕扠首

★本殿に向かって左側に、大きく枝を広げた古木の下に四社の摂社末社が鎮座している。 その中の拝殿を備えて東面で鎮座する大國主西神社は、延喜式神名帳に記載されている式内社だ。 大國主西神社の南側に大きな神輿殿、そして社頭に六基の朱塗りの明神鳥居が建ち並ぶ神明神社が鎮座するが、社殿に多くの「稲荷大神」の提灯が下がり、赤い前垂れの狐像が守護しているので稲荷社といった方がよさそうだ。 さらに南側には、立派な基壇の上に瑞垣に囲まれて松尾神社が鎮座している。

△社殿の西側に並んで鎮座する摂社末社....右から南面の火産霊神社、百太夫神社、六甲山神社そして東面の大國主西神社

△流造銅板葺の火産霊神社....火伏の神様として信仰される愛宕の神様(祭神火皇産霊神)を祀る

△流造銅板葺の百太夫神社....祭神百太夫神を祀る、「えびすかき」として有名な人形操り蘇秦

△流造銅板葺の六甲山神社....祭神菊理姫命を祀る....白山権現と言われる山の神様で、六甲山頂に鎮座する奥宮の方角を向いている/六甲山神社社殿の大棟に内削ぎの千木と2本の堅魚木が乗る

△大國主西神社(式内社)....祭神大巳貴命・少彦名命の2柱を祀る

△拝殿は入母屋造銅板葺、後方の瑞垣で囲まれた中に鎮座する本殿は流造銅板葺/大國主西神社社殿の大棟に外削ぎの千木と3本の堅魚木が乗る

△切妻造桟瓦葺の神輿殿....入口の切妻破風の妻と身舎の妻は豕扠首

△神明神社....祭神豊受比女神(合祀稲荷神)を祀る....大阪奉行所の西宮勤番所敷地内から遷座され、稲荷神を合祀

△社殿前に多くの「稲荷大神」の提灯が下がり、狐像が鎮座

△社殿前の左右に鎮座する赤い前垂れをした狐像

△流造銅板葺の神明神社社殿....大棟に外削ぎの千木と3本の堅魚木が乗る/社頭に建ち並ぶ六基の明神鳥居と左右に石燈籠....大きい石燈籠は弘化二年(1845)、社殿側は文政元年(1818)の造立

△神明神社の南側に鎮座する酒・海上安全・船玉・道案内の神様を祀る松尾神社

△基壇上の瑞垣に囲まれて鎮座する松尾神社....祭神大山咋神・住吉三前大神・猿田彦命の三柱を祀る

△流造銅板葺の松尾神社社殿....擬宝珠高欄付き縁を設け側縁の奥に脇障子がある












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西宮神社-(2) (西宮)

2024年03月26日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・西宮市】古社廣田神社の境外摂社南宮社の名残として、「南宮神社」が現在でも西宮神社の境内に鎮座する。 鎌倉時代の弘安十年(1287)、時宗の開祖一遍上人が西宮大明神を参詣した。 安土桃山時代の天正六年(1578)、織田信長に反旗を翻した武将・荒木村重の乱の戦火で社殿を消失した。 安土桃山末期の慶長八年(1603)、豊臣秀吉の次男秀頼により慶長九年~十四年(1604~1609)に本殿、拝殿などが再建され、同年九年(1604)に表大門が再建された。 承応二年(1653)に社殿を焼失したが、寛文三年(1663)、徳川第4代将軍家綱によって本殿が再建された。 また、西宮神社は全国に頒布していたえびす神の神像札(神札)の版権を江戸幕府から得て隆盛した。

★南門をくぐると直ぐ左手の大練塀の傍にあらえびす神社と呼ばれる沖恵美酒神社が東面で鎮座している。 参道を進み社殿側に折れると直ぐ左手に廣田神社の境外摂社の南宮神社が鎮座している。 南宮神社から注連柱と鳥居が建つ切石敷の参道が真っすぐ延びているが、社殿はまだ見えない。 参道を少し進むと左脇に木々に囲まれて六英堂が建ち、門傍に「明治天皇御聖蹟」と彫られた標石が立つ。 六英堂は都内にあった明治の元勲・岩倉具視の私邸が移築されたもので、岩倉病臥中、明治天皇行幸の際に使われた部屋があったようだ。 参道を跨ぐ明神鳥居の傍の左手に神馬舎があり、やさしい顔の神馬が参詣者を迎えている。

△南門傍の大練塀脇に鎮座する境内末社の沖恵美酒神社(あらえびす神社)....明治五年(1872)この地に遷座、ご祭神は沖恵美酒大神

△切妻造銅板葺の拝殿と大棟に外削ぎの千木と5本の堅魚木を乗せた流造銅板葺の本殿

△妻入の拝殿は一軒繁垂木で組物は舟肘木、拝は猪ノ目懸魚で妻飾は豕扠首....扉は腰高格子戸/本殿は一間四方で、柱は丸柱、向拝柱は面取角柱

△正面は飾金具を施した扉と両側に小脇羽目板....正面と両側面に組高欄付き縁、側面縁奥に格子状板張の脇障子

△南宮神社前の竿が角柱の石燈籠は明治三十七年(1904)の造立

△北面で鎮座する南宮神社....西宮神社の境内にあるが廣田神社の境外摂社....切妻造銅板葺の大きな拝殿は吹き放しの造りで、「廣田神社摂社 南宮神社」の扁額が掛かる

△南宮神社前の赤い前掛けをした狛犬は弘化二年(1845)の造立/阿形の狛犬は顔面の鼻と口の部分が破損している

△拝殿を通して眺めた本殿....正面は中央と左右小脇羽目の3カ所に飾金具を施した扉を配している

△本殿は一間四方で柱は丸柱、向拝柱は面取角柱....正面と両側面に組高欄付き縁、側面縁奥に格子状板張の脇障子

△明治七年(1874)造立の注連柱....社殿に続く切石敷の参道の両側に明治期造立の石燈籠が建ち並ぶ

△注連柱傍の参道から眺めた南宮神社と朱塗りの表大門が建つ境内....ここから南宮神社の本殿大棟に乗る外削ぎの千木と5本の堅魚木が見える

★神馬舎の傍から参道に沿って大きな神楽所が建つが、現代風の造りで全面ガラス張りだ。 参道を挟んで向かい側に二基の「青銅神馬の賛碑」と手水舎がある。 手水舎の後方に、域内守護の神を祀る庭津火神社が鎮座するが、拝殿(拝所?)があるだけだ。 見ると裏に周囲に注連縄が張られた塚状の封土がある。 真っすぐな参道を抜けると広い境内が広がり、左奥に社殿、右手に平成再建の社務所が建つ。 社務所の斜め向かいの池の端にある建物に、慶長十五年(1610)に豊臣秀吉の次男秀頼が奉納した「御戎之鐘」.が保存されている。

△注連柱から社殿への参道途中の左手にある六英堂...東京丸の内にあった明治の元勲・岩倉具視公の私邸の離れが昭和五十一年(1976)に移築されたもののようだ

△六英堂の切妻造銅板葺の棟門式の門/六英堂前の植栽傍に立つ「明治天皇御聖蹟」と彫られた標石....明治十六年(1883)、岩倉公が病臥中、明治天皇行幸の際の部屋があった(伝)

△神楽所の南側に建つ入母屋造産瓦葺で妻入の神馬舎/参詣者を迎える白い神馬

△注連柱の先の切石敷参道の途中に南面で建つ明神鳥居....二ノ鳥居で確か鉄製だったか?

△切石敷参道に沿って建つ切妻造銅板葺の神楽所

△手水舎傍の参道脇に建つ2つの青銅神馬の賛碑....神馬は拝殿前に鎮座....左は明治三十二年(1899)建立、右は大正三年(1914)建立

△参道を挟んで神楽所に対面して建つ切妻造銅板葺の手水舎

△手水舎の後方に鎮座する切妻造銅板葺の庭津火神社

△庭津火神社は社殿が無く拝殿(拝所?)のみ,....拝所正面の菱格子窓の前に供えられた沢山の御幣/拝殿の奥の塚状の封土を祭祀の対象とした神社....域内守護の神として祭神奥津彦神・奥津比女神を祀る

△社殿に向かって右手に建ち並ぶ社務所と西宮神社会館(奥)....社務所は阪神・淡路大震災で倒壊、平成十年(1998)に再建

△社務所の斜め向かいの池の端に建つ御堂に「御戎之鐘」が保存されている....切妻造銅板葺きで起り屋根、側面全面に菱格子が施されているに....

△梵鐘は慶長十五年(1610)、豊臣秀吉の長男秀頼による奉納/梵鐘に刻まれた「慶長拾五年三月八日」の銘


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西宮神社-(1) (西宮)

2024年03月21日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・西宮市】創建時期は不明。 社伝では、神戸・和田岬の沖に出現した蛭児神の御神像を西宮・鳴尾の漁師が引き上げ自宅で祀っていたが、御神託により自宅から西方の地の西宮に宮居を建て、御神像を遷して祀ったのが起源と伝える。
戎(えびす)の名は平安時代後期の文献に記載されていて、古社廣田神社の境外摂社の「浜の南宮」(又は「南宮社」)内に鎮座していたえびす大神は、漁業の神として信仰されていた。 南宮社が現在の西宮神社で、全国に約3,500あるえびす神社の総本山。 主祭神は西宮大神(蛭子命)で、他に天照大御神、大国主大神、須佐之男大神の三柱を祀る。

★阪神電鉄本線「西宮駅」の南口をでて”えびっさん筋”を少し南下すると、古い土塀に挟まれた鮮やかな朱塗りの門の前に着く。 社号標石と石造り明神鳥居を構えた門は赤門と呼ばれる表大門で、この門が毎年1月10日に開催される有名なイベント「福男選び」のスタート地点だ。
門前右手にお酒の神様を祀る梅宮神社が鎮座しているが、以前は御神木を祀っていたようだ。 朱塗りの表大門は安土桃山末期の創建で、その佇まいは威厳に満ちている。 表大門は江戸初期の火災やその後の戦火や震災を逃れた唯一の遺構。

△「えぺっさん筋」に面して立つ社号標石と石造明神鳥居

△明神鳥居を通して眺めた梅宮神社と石燈籠

△大棟に外削ぎの千木と2つの堅魚木を乗せた梅宮神社....石燈籠は神社側が享保十一年(1726)、道路側(右)が寛政十一年(1799)の造立

△赤門前の大練塀を背にして鎮座する梅宮神社....ご祭神はお酒の神様の酒解神

△切妻造本瓦葺の表大門(重文)....安土桃山末期の慶長九年(1604)、豊臣秀頼により再建(伝)で「赤門」と呼ばれる

△威厳が漂う四脚門の表大門....本殿が焼失した承応三年(1654)の火災、以降も戦火や震災に遭ったが逃れ、慶応年間からの遺構を伝えている

△二軒繁垂木、拝の懸魚は変形の蕪懸魚で降懸魚は蕪懸魚/板扉1枚の大きさは3.7mx2.4mで、重さは250kg(推)....出八双金具や乳金具そして釘隠が施されている

△本柱を渡した桁に4つの紙垂を下げた注連縄が張られている

△表大門は毎年1月10日早朝に『福男選び』が行われる『開門神事』で有名

★表大門をくぐると松などが茂る境内が広がり、広い参道の脇に石燈籠が整然と建ち並んでいる。 左手に参道に沿って長く延びている土塀は瓦葺の築地塀で、日本最古のもので「大練塀」と呼ばれる。 参道を進むと、左手に大練塀に挟まれたように高麗門造りの南門が建つ。 南門から一旦外に出、「ゑびす宮」の扁額が掲げられた南門と東西に延びる大練塀とを眺めてから境内に....。

△赤門から眺めた玉砂利が敷かれた松林が広がる境内....中世には現境内が浜辺近くの廣田神社の浜南宮だったことを偲ばせる景色

△西宮神社境内の東側と西側を囲んでいる築地塀は日本最古のもので「大練塀」と呼ばれる

△表大門を入った参道左手の基壇に建つ二基の石燈籠....明治期の造立とみられ、基壇上に瑞垣が設けられている

△壇上積のような基壇に建つ二基の石燈籠....前の石燈籠と異なり、蕨手のある笠、火袋に火口と円窓、中台に格狭間と連弁、節がある竿、基礎に反花と格狭間

△北向きで鎮座する流造銅板葺の兒社

△兒社は廣田神社の境外摂社・南宮神社の末社で、南宮の若宮として祀られた(伝)/一間四方で正面は引き違いの格子戸

△境内の参道から眺めた南門....南門の先に国道43号線が高架橋と共に見える

△国道43号線に面して建つ南門....門前の石燈籠は手前が大正四年(1915)造立、門傍は明治九年(1876)の造立

△切妻造本瓦葺の南門

△本瓦葺の大練塀の間に建つ南門....冠木門風の本柱上に屋根を乗せた造り

△一軒重垂木、「ゑびす宮」の扁額が掲げられている

△南門は高麗問の造りで、本柱の上の切妻屋根に直角に本柱と控柱間に切妻屋根がある/扉に乳金具と入八双金具が施されている

△南門前からみた南側の大練塀



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羅漢寺-(2) (加西)

2023年09月25日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・加西市】境内に鎮座する北条石仏「五百羅漢」と呼ばれる約500体の石仏は、江戸時代初期の慶長年間(1596~1615)の造立とされる。 もともとは酒見寺境内にあって、酒見寺再興に伴う山内整備や信仰・供養のために造立されたと考えられている。
角柱状の石材から彫られた石仏はほとんどが羅漢像で、他に釈迦三尊像や大日・阿弥陀如来像、天女型坐像など459体で構成されている。

■石仏境内に整然と立ち並ぶ羅漢像....ほりの深い顔は西洋人風であり、一般的な仏像とはまるで違っていてしみじみとした味わいがある。 特に、陰になっている黒い目の部分と鼻筋の通ったお顔が実に印象的だ。 素朴な姿の羅漢像はそれぞれ違う表情をしていて、どの像も何かを語りかけようとしているようだ。
境内西側には、西方極楽浄土へ誘うように来迎二十五菩薩石像が向き合って鎮座し、一番奥に教主である阿弥陀如来立像が鎮座している。

△五尊仏の東側石仏境内に西面で鎮座する羅漢像群,,,,奥の建物は本堂

△五尊仏の西側石仏境内に南面で鎮座する羅漢像群

△西側石仏境内に南面で鎮座する羅漢像群

△西側石仏境内に南面で鎮座する羅漢像群

△東側石仏境内に南面で鎮座する羅漢像群....手に持つ未開蓮や宝剣が線刻されている

△東側石仏境内に南面で鎮座する羅漢像群

△石仏境内の西側の塀際に鎮座する来迎二十五菩薩石像と阿弥陀如来立像....滋賀県大津市の西教寺についで2番目に古い菩薩像

△二十五観音は阿弥陀如来来迎のときに従い、死者を西方の極楽浄土に導く

△一番奥に鎮座する舟光背型阿弥陀如石仏/上品下生(来迎印)の印相を結んでいる....後頭部から放たれた後光が線刻されている

■石仏境内の南側の木立の中に苔生した前庭があり、五輪塔、宝篋印塔、石仏など様々な石造物が佇んでいる。 前庭のほぼ真ん中に、約400年前の江戸初期に造立された宝篋印塔が虎のような霊獣に護られて鎮座しているが、造立年が分かる宝篋印塔は珍しい。
本堂以外の堂宇として、本尊青面金剛龍王を祀る庚申堂と大聖歓喜天を祀る聖天堂が木々に囲まれて建つ。 大聖歓喜天像の像容に興味があって、ここで拝めるものと期待して拝観したが、外陣の小さな厨子の中に安置されているらしく....残念。 パンフレットに北条の五百羅漢には「必ず親や子に似た顔があるといわれている」とあるので、石仏境内に戻り、すでに他界した両親に似た顔の羅漢様を探してみた….が、やはり西洋人風のお顔なので無理だった。

△石仏境内の木陰の前庭に鎮座する石造物群

△前庭東側に鎮座する壊れた石仏、宝篋印塔、五輪塔など

△前庭の真ん中に鎮座する四基の五輪塔、阿弥陀如来とおぼしき厚肉彫りの坐像石仏、そして「五百阿羅漢」と彫られた石柱

△前庭の真ん中に鎮座する宝篋印塔....江戸初期の慶長十七年(1614)造立で、狛犬のようなトラ似の霊獣に守られている

△前庭西側に鎮座する不動明王像

△前庭西側に鎮座する五輪塔と石仏....五輪塔は八角体の地輪の各面に仏像が彫られていて珍しい/舟光背型石仏は宝冠に阿弥陀如来の化仏をいただき、未開蓮を持つ聖観音菩薩像

△寄棟造桟瓦葺の庚申堂....本尊青面金剛龍王を祀る

△寄棟造桟瓦葺の庚申堂....本尊青面金剛龍王を祀る

△本尊青面金剛龍王像の前に鎮座する「ふれ愛観音菩薩像」

△内陣の格子(厨子)内に鎮座する本尊の青面金剛龍王像....他に童子、3夜叉、三猿、鶏が祀られている

△三間四方で軒周りは一軒重垂木、組物は柱上に出三斗....周囲に切目縁

△境内の参道脇に鎮座する地蔵像とみられる2基の一石二像石仏

△入母屋造桟瓦葺の聖天堂....向拝柱に「大聖歓喜天」の聯が掛かる

△聖天堂に観音菩薩像と歓喜天(聖天)が祀られている....歓喜天像は小さな厨子内に安置とみられるが、像容は象頭人身で男女二天が抱擁する姿

△聖天堂は入母屋造産瓦葺きの主屋の妻側に入母屋造り桟瓦葺の向拝を設けている....軒周りは一軒疎垂木で組物なし

△木立の中に建つ切妻造桟瓦葺の覆屋と古井戸

△古井戸に下がる釣瓶     水鉢






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羅漢寺-(1) (加西)

2023年09月19日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・加西市】創建年は不詳だが、奈良時代の天平十七年(745)に行基によって開創されたと伝わる真言宗寺院の酒見寺の伽藍の一部(塔頭?)だったとされる。 寺伝では、戦国時代の天正年間(1573~1592)に兵火によって焼失した後、慶長年間(1596~1615)に再建されたとされる。
境内に約500体の石仏が鎮座していることから「五百羅漢」と呼ばれていたが、明治時代の廃仏毀釈後、北条御旅町にあった薬師堂が現在地に移築され一寺院とされた。 昭和十七年(1942)に寺号を羅漢寺とし、天台宗に復帰した。 宗旨は天台宗で、本尊は薬師如来像。 播州薬師霊場第十一番札所。

■約50年振りに羅漢寺を訪問した。 某電機メーカーに入社して間もないころに姫路に出張する機会があり、その時に地元の方の案内で羅漢寺を訪れたのだが、行き方や場所などは一切記憶にない。 唯一、数枚の石仏写真が残っていて、ほりが深い西洋人風のお顔をした素朴な石仏の姿はずっと印象に残っている。
酒見寺と住吉神社を拝観した後、こっもりとした木々の羅漢寺の門前に着く。 「五百羅漢」と刻まれた石の門柱が立ち、門扉に「天台宗 北榮山 羅漢寺」の寺号掛札が掲げられている。 直ぐ中に蓮華座とみられる台座に鎮座する仁王石像に迎えられるが、坐像のようにみえる像容で、もしそうであれば珍しい坐像の仁王様ということになるが....。 まずは、妻入の本堂の向拝で本尊の薬師如来様に参拝する。 少し開いた扉から中を覗くと、挙身光を背負い左手に薬壺を持つ薬師如来像が鎮座している。 本堂左手の境内には、燦燦と陽を浴びているたくさんの石仏が整然と立ち並んでいる。

羅漢寺の門前....寺号標石はなく門扉に「天台宗 北榮山 羅漢寺」と記された掛札が掲げられている

△入り口に露座している金剛力士像....蓮華座風の第一に鎮座する金剛力士は坐像のように見える

△左の金剛力士像は吽形ではなく阿形に見える/右の金剛力士像は左手に金剛杵を持つ....阿形ではなく口を閉じた吽形に見える

△入母屋造桟瓦葺で妻入の本堂....本尊の薬師如来像を祀る

△主屋の軒廻りは一軒繁垂木だが、正面の屋根を伸ばした向拝屋根の軒は二軒疎垂木....水引虹梁の上に龍の彫刻、木鼻は獏

△中央間の小壁の梁の上に牡丹の彫刻を配す/本堂に祀られている本尊薬師如来坐像....眷属として日光・月光菩薩及び十二神将を従えている

△大棟に鳥衾付き鬼瓦、拝は蕪懸魚、妻飾は狐格子

△正面の縁下に置かれた古い鬼瓦....縁は正面のみで、親柱に逆蓮頭を乗せた高欄付き

△中央間は大きな格子の引き戸、脇間はて蔀戸風の格子窓(腰部も)

■まずは本堂の左脇を進み、境内の北側に延びる築地塀に沿って鎮座するほとんど陽刻の石仏を拝観。 そこから戻り、整然と立ち並ぶ羅漢像をみていると、半世紀前に訪問したときのことが思い出され、懐かしさを感じた。 一体一体が異なるお顔の石仏と向き合っていると、何かを語りかけているように感じるから不思議だ。
石仏境内の中央に切妻屋根の覆い屋に常香炉が置かれ、正面の北側の築地塀の前に中央に釈迦如来を配した五尊仏が鎮座している。 五尊仏はいずれも陽刻像で、舟型と板碑型の光背の石仏だ。

△本堂の西側に鎮座する五百羅漢像などの石仏群

△多くは南面で鎮座する五百羅漢像群(東面、西面を向いた石像もある)

△境内北側の築地塀際に4体の舟光背型地蔵尊、御堂内に地藏尊坐像が鎮座

△境内北側の築地塀際に整然と鎮座する様々な尊像の石仏

△唐破風を乗せた石塔は「三界萬霊」と彫られた慶長供養塔....上部に弥陀三尊の種子(弥陀、観音、勢至)....右は明和八年(1771)造立の台座に鎮座する僧坐像

△本堂に向かって東面で鎮座する五百羅漢像群....角柱状の石材から彫り出した丸彫りの石仏

△南面で鎮座する五百羅漢像群....元々羅漢寺の南にある酒見寺にあって、江戸時代初期の寺再興の際に造立されたとされる

△多くは西洋人風のお顔の五百羅漢像....江戸初期の造立時の原形をいまに留めている

△五百羅漢像の彫技は稚拙だが、500体もの石仏を造立する際の信仰心と供養の純真さに感心

△穏やか表情の五百羅漢像

△五百羅漢像群の中央に、築地塀際に鎮座する五尊像に向かって置かれた常香炉

△常香炉前に立つ高札風立札に「北条石仏 五百羅漢」と記されている/「慈法尼手簡塚」と刻まれた文塚石碑....延享二年(1745)の造立

△五百羅漢像墳の間に鎮座する中央に釈迦如来を配した五尊仏

△五尊仏の右脇に閻魔王と男性供養者坐像(2つ目)、左脇に倶生神と慶長十七年(1612)造立の女性供養者坐像(2つ目)

△五百羅漢像群の中央の築地塀際に鎮座する五尊像....左から阿弥陀如来像、普賢菩薩像、釈迦如来像、文殊菩薩像そして大日如来像

△上品下生(来迎院)を結ぶ阿弥陀如来立像(左)と6牙の白象に騎乗する普賢菩薩造(左)....阿弥陀如来像前に置かれた「倶生神」の木札は間違い?/中央の蓮華座に鎮座する釈迦如来坐像

△右手に剣を持って獅子に騎乗する文殊菩薩像(左)と智拳印を結ぶ大日如来立像(右)/大日如来像の右手に鎮座する閻魔大王像

△閻魔大王像....顔の右側に「炎○王」と彫られている



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