【大分・豊後高田市】奈良時代の養老二年(718)、宇佐八幡神の応現といわれた仁聞菩薩によって聞基された古刹。 平安時代から室町時代にかけて修業や多くの祈祷が行われた寺院の法燈を輝かせ、室町時代の最盛時には25ヵ所の末院を擁していた。
戦国時代や大友末期の兵乱の災いが降りかかり、江戸時代初期には衰微したが、元禄八年(1695)に両子寺の傑僧といわれた順慶師の弟子の澄慶師によって現在地に再興された。 再興後は急速に寺勢を盛り返し、幾つかの末寺末坊を抱えた。 天台宗で本尊は千手観世音菩薩像。 <国東六郷満山霊場第十一番札所 (六郷満山中山本寺)>
門前に着くと、石段下の両側に立つ石燈籠に目が留った。 童児像が燈籠の竿となり、頭に火袋を乗せ、片手を添えて踏ん張っている姿が微笑ましい。 石段の上に、力感溢れる仁王像に護られたこじんまりした山門が建つ....元禄中興時の古建築とのことで歴史を感じさせる。
山門をくぐって本堂に進む....実は本堂前の敷石が曼荼羅の形式になっていたのだが、参拝時に知らずに踏みつけたかも知れず、後で悔やまれた。
境内には石仏や石塔など貴重で美術品的な石造物が意外に多くある。 山門左脇の大きな地蔵尊像、観音堂前の素朴で少しユーモラスな仁王像、何故か鐘楼の床に安置された馬頭観音等の石仏、観音堂傍の隠れキリシタン五輪塔や気品がある宝篋印塔、皇太子像を祀る石室、風化した板碑などだ。
本堂左側のまっすぐな道を進むと苔生した石段があり、石段を登り約200年前建立の台輪鳥居をくぐると、直ぐ正面に鎮守六所権現社が鎮座している。 棟中央に小さな千鳥破風がある切妻造りの拝殿だ。
六所権現社で参拝した後、更に社殿左脇の石段を登ると、途中の右側に露出している岩壁に仏像が一列に刻まれている....堂ノ迫磨崖仏だ。 3つの龕に分け、ここに仏像を刻んだ発願者夫妻、六地蔵立像、六観音立像、十王の閻魔坐像など計16体の仏像が横一列に並ぶが、発願者夫妻が死後の救済を仏像にすがる思いが感じられた。
門前石段下の両側の珍しい石燈籠(安政七年(1860)造立)..竿部は童児像で頭に火袋を乗せている
江戸時代初期(元禄中興時)建立の山門..石造仁王像は享保十三年(1728)造立
切妻造本瓦葺で六郷山寺院には珍しい薬医門
山門脇に建つ宝形造桟瓦葺の鐘楼..鐘楼の床上に石造馬頭観音像などの石仏が置かれている/山門に小さな袖塀
露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺の本堂
正面が全面ガラス戸、また向拝は質素な造り
窓の上に小さな喚鐘が下がる/見逃したが本堂前の石畳の中に曼茶羅石がある(中写真の右下隅に小さく確認できる)
願かけ地蔵尊像と観音堂..観音堂脇に貴重な石造物が佇む
宝形造桟瓦葺の観音堂..堂内に三十三躰観音像が鎮座
六所権現奥の院にあった板石に半浮彫りした仁王像..どちらも右手に金剛杵を持って肩上に構えている
子安観音とある(如意輪観音像や様々な持物を持った観音像が鎮座)/願かけ地蔵尊像..総高5.27mで半島屈指の巨像(元治元年(1864)造立)/観音堂脇に佇む祖形五輪塔(一石五輪塔,原始五輪塔)..平安末期~室町時代の造立
隠切支丹五輪塔(江戸末期造立)..底部に十字形の刻/応暦寺宝篋印塔(南北朝造立)/石室の奥壁に浮き彫りされた聖徳太子像
境内の隅に佇む石造物群 板碑(風化が激しく種子など判読できない)
手水鉢
玄関と庫裡
発掘された本堂脇の石造物群
本堂左側の六所権現社への苔生した参道石段/六所権現社への参道脇の林の中に佇む墓石群
「六所大権現」の額が掛る台輪鳥居(文政二年(1819)建立)
六所権現社の社殿(拝殿)..棟中央に小さな千鳥破風がある切妻造り桟瓦葺
拝殿後方の弊殿の奥に建つ本殿
社殿左の叢林の石段を登ると右手に露出する岩壁に彫られた「堂の迫磨崖仏」(室町時代作とされる)
右端から司録立像、比丘尼坐像、比丘坐像、六地蔵立像、十王閻魔坐像、六観音立像/十王閻魔坐像(右は地蔵立像、左は観音立像)
右端の龕に鎮座する右から司録立像、比丘尼坐像、比丘坐像(比丘2像は磨崖仏の発願者夫妻)/別に下段の岩に四角の龕に刻まれた2体の菩薩形立像