何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

岳王廟 (中国)

2015年04月30日 | 史跡探訪-中国編

【中国・浙江省・杭州市】女真族の金と戦った南宋の武将・岳飛(1142年没)を祀る大廟で、岳飛没(1142年)後、宋代1221年に創建。 岳飛は、三国時代の蜀の武将・関羽とともに漢民族の英雄とされる人物で、奪われた江南の地を奪回すべく金との徹底抗戦を主張したが、南宋の宰相秦桧の陰謀に遭って投獄され毒殺された。
冤罪がはれた後に建てられた廟は、忠烈祠、啓忠祠、岳飛墓の三部分からなり、本殿の廟堂には高さ約4.5mの岳飛坐像が鎮座、後方に岳飛の真筆とされる「環我河山」の大きな額が掲げられている。
岳飛を投獄した秦桧夫婦は奸臣とされ、墓手前の檻の中に膝まづく姿の半裸の鉄像が置かれているが、像に唾を吐きかけて未来永劫恨みを晴らす習慣があったそうだ。
冤罪がはれた以降、人々の敬愛を受けたため、岳飛が没した63年後、南宋の朝廷により王号が追贈され、以後、「岳王」(鄂王、岳鄂王とも言われる))と称された。
 
岳王廟の立派な表門..門番はいずれも阿形の獅子の白い狛犬

表門を入った正面に建つ廟堂

入母屋造瓦葺の廟堂(忠烈祠と思う)

廟堂の内部..正面に岳飛坐像が鎮座
  
高さ約4.5mの岳飛坐像        岳飛を守護する武官像

常香炉越しに眺めた廟堂の左手に建つ殿
 
岳飛墓への石橋と入口の重厚な門                門の奥に岳飛墓が見える

岳飛墓側から見た門

門の左右に置かれた膝まづく姿の半裸の鉄像..向かって左が秦桧夫婦、右は腹心の2人
 
左側の秦桧夫婦(右秦桧、左王氏)の半裸の鉄像/像に唾を吐きかける習慣があるが、今は禁止の表示「文明游覧 請勿吐痰」が..

岳飛親子の墓(左:岳飛、右:岳雲)..石碑に刻まれた岳鄂王は岳飛の別称

岳飛親子の墓を護る武官、文官、動物(馬、羊、獅子かな)の石像群
 
岳飛墓に向かって右側に立ち並んで墓を見守る武官と文官の石像
 
岳飛墓に向かって左側に立ち並ぶ武官,文官の石像     忠泉..岳飛親子の墓の近くにあったと思う
 
池の傍に建つ岳飛紀念館

境内に建つ堂(啓忠祠か?)

落ち着いた雰囲気の静かな境内..正面の建物は表門
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鼓山十八景公園-(2) (中国)

2015年04月28日 | 史跡探訪-中国編

【中国・福建省・福州市】園内には、多くの奇岩や洞窟、歴史ある貴重な銘刻、古代の樹木や花があって、「大地岩雕」「緑色宝庫」「書法藝術長廊」と呼ばれる。
「十八景公園」の面積は33ヘクタールで、園内には多くの石段の参道が続き、意外に足が疲れる。
幾つの景を参観したのか分からないが、「登高台」や法華岩洞の上に建つ「法華亭」で、山麓から吹き上げる涼しい風をうけながら榕城(ガジュマル城/福州市街)を眺めていると、疲れが吹っ飛び、爽やかな気分で下山した。

八仙岩洞(奥)..伝説の八仙人の一人(藍采和)が他の七仙人を招き、ここで満月の夜を過ごしたとか..
 
八仙岩洞(第7景)                           八仙岩洞前の亭

八仙岩洞から眺めた亭

八仙岩洞

金蟾洞
 
金蟾洞..大きな岩が洞窟を支えている              蟠桃林..大石が仙桃のようにみえるらしい?

伏虎祠(伏虎駄経)

伏虎祠(伏虎駄経)

石鐘閣..山中にひっそりと建つ
 
石鐘閣入り口の小さな石橋     石橋から眺めた石鐘閣

古月霊塔

古月霊塔..鎌倉時代に日本に輸入された墓塔「無縫塔」の原型か?
 
古月霊塔                    古月霊塔

比丘尼善慈然之塔..古月霊塔の後ろの山の崖にある
 
霊座塔..古月霊塔の後ろの山の崖にある            「龍首」と刻まれた巨石..根元に石仏が鎮座

降龍洞..幾つかの仏像が鎮座している
 
降龍洞..「龍首」の右手にあり龍の胴体にあたる巨石か?/降龍洞..阿弥陀三尊像であろうか、中央の如来像の前に小さな弥勒尊像が鎮座  

降龍洞に鎮座する阿弥陀三尊像か?

降龍洞と手前に立つ通天亭
 
通天亭..天井が抜けていてまさに天に通じる
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鼓山十八景公園-(1) (中国)

2015年04月27日 | 史跡探訪-中国編

【中国・福建省・福州市】街の東に聳える鼓山の山中に位置し、清代咸豊年間、福州人の詩人魏杰が自然の景観の他、古い歴史のある郷土伝説や絶壁の美しい銘刻などから十八の景観を選定して命名。 以来、「十八景公園」として知られ、2003年に保護と発展のために再整備された。
先人が多彩な自然の景観や神秘的な郷土伝説などから「達磨洞十八景」を創造、命名してそれぞれに詩を刻んだ。 涌泉寺に向かう参道の途中、大きな岩で造られた南大門があり、そこから園内に....。
 
巨石で造られて南大門..右手の石壁に「鼓山十八景公園」の刻

石壁に刻まれた「鼓山賦」

佛法盛会..観世音菩薩碑

羅漢台..3つの足跡は八仙の1人の「藍采和」が残したもので「仙人巨跡」(第3景)

佛窟法会..清代に鼓山涌泉寺の主持道霈が石壁に刻んだ文字で多くの仏陀の名が刻まれている..奥に「佛窟」

佛窟法会の右手に「佛窟」がある(第4景)

登高台(第5景)

登高台からの眺望..遠くに榕城(福州の街)が眺められる

達磨洞十八景..右奥は「玉石雲梯」
 
玉石雲梯..断崖の上に勾配70°以上の険しい128段の石段が続くらしいが../二重屋根の望洲亭..園内散策中に一息つける所

達磨洞(達磨面壁)..望洲亭の直ぐ左手にある
 
達磨洞..鎮座するのは「面壁九年」の厳しい修行を行った達磨大師像

望洲亭&達磨洞

葛仙居..手前の大きな亭の左奥に葛仙が鎮座

天井の巨石に刻まれている「葛仙居」と「北斗」
 
葛仙居                  葛仙居..気取った仙人が遠くを見つめている

法華岩洞..洞內の岩に清代に魏杰が刻んだ「且憩」
 
法華岩洞..二つ通じ合うの岩洞から構成されている

法華亭..円形の亭でここから榕城を一望できる

法華岩洞の上に立つ法華亭
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弥勒寺 (豊後高田)

2015年04月26日 | 寺社巡り-大分

【大分・豊後高田市】奈良時代の養老二年(718)、宇佐八幡神の化身とされる仁聞菩薩によって聞基された、六郷満山中山本寺・応暦寺の末寺。 鎌倉時代から戦国時代にかけて武士の横暴と兵乱の被害を受け、廃絶に追い込まれた本寺・応暦寺と共に衰微をたどった。
元禄時代に応暦寺が再建を果たした後、弥勒寺も寺勢を取り戻して五坊の末坊を擁するまでに。
また、弥勒寺では「修正鬼会」が明治三十七年(1904)まで行われていたが、その後衰微に向かい無住となり廃絶の道をたどったが、信心深い村人守られ仏像等の遺品の管理が続けられ、昭和五十年に新堂が建立され本尊弥勒菩薩像が安置され今日に至る。 本尊は六郷満山の中でこの寺だけに祀られている弥勒菩薩像。 <国東六郷満山霊場第十ニ番札所 (六郷満山中山末寺)>

緩やかな丘陵地へ上って行くと、石段と台輪鳥居とこじんまりとしたお堂が見えてくる。
鳥居をくぐるとそこは弥勒寺と三社大権現の境内で、直ぐ右手に小さなお堂がひとつポツンと建つだけだ。 お堂前の少し荒れた庭にひっそりと佇む笠塔婆と2基の石碑が印象的だった。
お堂右手の山に続く急峻な石段の上の岩窟に三社大権現が鎮座しているが、石段下に通行止めの紐が張られ参拝は叶わなかった。 三社大権現に向かって左手に宝珠と請花を乗せた笠塔婆と室町時代作とされる清楚な宝篋印塔が佇む。
流石に第十ニ番札所だけあって、無住のお堂の窓に「当寺の御朱印は真玉温泉スパランド真玉に預けております」とあるが、功徳がなさそうな預け先につい笑ってしまった。

緩やかな丘陵地にある弥勒寺の遠景

石段と台輪鳥居とこじんまりとしたお堂が建つ

「三社権現」の額が掲げられた台輪鳥居

本堂と急峻な石段の上の岩窟に三社権現社が鎮座

入母屋造桟瓦葺の本堂
  
本堂には弥勒菩薩像を安置している/簡素な本堂向拝に下がる小さな鈴

お堂がひとつだけ建つ無住の弥勒寺

本堂前の庭に佇む石碑と笠塔婆
  
大きな宝珠と請花を乗せた笠塔婆/古い2基の石碑

岩窟に鎮座する三社大権現
  
石段下から三社大権現境内は立入り禁止/宝篋印塔(室町時代作とされる)/左の仏塔は宝珠と請花を乗せた笠塔婆

三社大権現の社殿..切妻造りで彫刻が施されている

境内の石造物

境内の五輪塔群

自然石を刳り貫いた手水鉢
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応暦寺 (豊後高田)

2015年04月25日 | 寺社巡り-大分

【大分・豊後高田市】奈良時代の養老二年(718)、宇佐八幡神の応現といわれた仁聞菩薩によって聞基された古刹。 平安時代から室町時代にかけて修業や多くの祈祷が行われた寺院の法燈を輝かせ、室町時代の最盛時には25ヵ所の末院を擁していた。
戦国時代や大友末期の兵乱の災いが降りかかり、江戸時代初期には衰微したが、元禄八年(1695)に両子寺の傑僧といわれた順慶師の弟子の澄慶師によって現在地に再興された。 再興後は急速に寺勢を盛り返し、幾つかの末寺末坊を抱えた。 天台宗で本尊は千手観世音菩薩像。 <国東六郷満山霊場第十一番札所 (六郷満山中山本寺)>

門前に着くと、石段下の両側に立つ石燈籠に目が留った。 童児像が燈籠の竿となり、頭に火袋を乗せ、片手を添えて踏ん張っている姿が微笑ましい。 石段の上に、力感溢れる仁王像に護られたこじんまりした山門が建つ....元禄中興時の古建築とのことで歴史を感じさせる。
山門をくぐって本堂に進む....実は本堂前の敷石が曼荼羅の形式になっていたのだが、参拝時に知らずに踏みつけたかも知れず、後で悔やまれた。
境内には石仏や石塔など貴重で美術品的な石造物が意外に多くある。 山門左脇の大きな地蔵尊像、観音堂前の素朴で少しユーモラスな仁王像、何故か鐘楼の床に安置された馬頭観音等の石仏、観音堂傍の隠れキリシタン五輪塔や気品がある宝篋印塔、皇太子像を祀る石室、風化した板碑などだ。
本堂左側のまっすぐな道を進むと苔生した石段があり、石段を登り約200年前建立の台輪鳥居をくぐると、直ぐ正面に鎮守六所権現社が鎮座している。 棟中央に小さな千鳥破風がある切妻造りの拝殿だ。
六所権現社で参拝した後、更に社殿左脇の石段を登ると、途中の右側に露出している岩壁に仏像が一列に刻まれている....堂ノ迫磨崖仏だ。 3つの龕に分け、ここに仏像を刻んだ発願者夫妻、六地蔵立像、六観音立像、十王の閻魔坐像など計16体の仏像が横一列に並ぶが、発願者夫妻が死後の救済を仏像にすがる思いが感じられた。
 
門前石段下の両側の珍しい石燈籠(安政七年(1860)造立)..竿部は童児像で頭に火袋を乗せている

江戸時代初期(元禄中興時)建立の山門..石造仁王像は享保十三年(1728)造立

切妻造本瓦葺で六郷山寺院には珍しい薬医門
  
山門脇に建つ宝形造桟瓦葺の鐘楼..鐘楼の床上に石造馬頭観音像などの石仏が置かれている/山門に小さな袖塀

露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺の本堂

正面が全面ガラス戸、また向拝は質素な造り
  
窓の上に小さな喚鐘が下がる/見逃したが本堂前の石畳の中に曼茶羅石がある(中写真の右下隅に小さく確認できる)

願かけ地蔵尊像と観音堂..観音堂脇に貴重な石造物が佇む

宝形造桟瓦葺の観音堂..堂内に三十三躰観音像が鎮座

六所権現奥の院にあった板石に半浮彫りした仁王像..どちらも右手に金剛杵を持って肩上に構えている
  
子安観音とある(如意輪観音像や様々な持物を持った観音像が鎮座)/願かけ地蔵尊像..総高5.27mで半島屈指の巨像(元治元年(1864)造立)/観音堂脇に佇む祖形五輪塔(一石五輪塔,原始五輪塔)..平安末期~室町時代の造立
  
隠切支丹五輪塔(江戸末期造立)..底部に十字形の刻/応暦寺宝篋印塔(南北朝造立)/石室の奥壁に浮き彫りされた聖徳太子像
 
境内の隅に佇む石造物群                     板碑(風化が激しく種子など判読できない)

手水鉢

玄関と庫裡

発掘された本堂脇の石造物群
 
本堂左側の六所権現社への苔生した参道石段/六所権現社への参道脇の林の中に佇む墓石群

「六所大権現」の額が掛る台輪鳥居(文政二年(1819)建立)

六所権現社の社殿(拝殿)..棟中央に小さな千鳥破風がある切妻造り桟瓦葺

拝殿後方の弊殿の奥に建つ本殿

社殿左の叢林の石段を登ると右手に露出する岩壁に彫られた「堂の迫磨崖仏」(室町時代作とされる)
 
右端から司録立像、比丘尼坐像、比丘坐像、六地蔵立像、十王閻魔坐像、六観音立像/十王閻魔坐像(右は地蔵立像、左は観音立像)
 
右端の龕に鎮座する右から司録立像、比丘尼坐像、比丘坐像(比丘2像は磨崖仏の発願者夫妻)/別に下段の岩に四角の龕に刻まれた2体の菩薩形立像


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無動寺 (豊後高田)

2015年04月20日 | 寺社巡り-大分

【大分・豊後高田市】奈良時代の養老二年(718)、宇佐八幡神の化身とされる仁聞菩薩によって聞基されたと伝えられる。 鎌倉時代初期には修業や他の諸寺をしのぐ祈祷が行われた道場となり栄えた。
六郷満山諸寺と同様、鎌倉時代から室町時代にかけて武士の横領・支配で被害を受け、また、安土桃山時代の大友末期の動乱で一時期衰微したが、江戸時代の元禄八年(1695)頃、円舜和尚が現在地に移転中興した。 中興後は藩の庇護を受けて寺勢を盛り返し、、六郷山役職の満山記録書(江戸時代)による最盛時には50以上の伽藍があり12坊を擁していた。 天台宗山門派で本尊は不動明王像。 <国東六郷満山霊場第十番札所 (六郷満山中山本寺)>

切立った岩山を見上げる....岩肌をむき出しにした絶壁が迫ってくる感じで、目を見張るばかりの険しさだ。
扉がない四脚門をくぐって境内に....直ぐ正面に鎮座する全面ガラス戸の本堂のガラスに山門の屋根が映っている。
山門近くの境内には、苔生した五輪塔などの石造物がひっそり佇んでいる。 堂宇境内の直ぐ右隣の身濯神社への参道を進み、霊獣の狛犬が護る少し苔生した石段を上っていく。 社殿境内入口に約300年前建立の台輪鳥居が立つが、「六所権現」と刻印の額の一部が欠損した様に何か感じるものがあった。
身濯神社の参拝を終えた後、石段を戻って本堂裏山の石仏公園と呼ばれる所に向かう。 屏風のようにそそり立つ岩壁の裾野に、十六羅漢像などのたくさんの石仏や板碑、五輪塔、宝篋印塔などが鎮座....まさに霊場の雰囲気に包まれている。
哲人風の風貌の十六羅漢像の前で足を止め、しばらく向き合っていると、そらとぼけた顔で何やら語りかけてくるような感じがして印象的だった。
 
標高約200mの岩山の切立った絶壁の下に建つ

入母屋造桟瓦葺の山門(四脚門)..本堂のガラス戸に山門の屋根が映っている

寄棟造桟瓦葺の本堂
 
質素な本堂の向拝..全面がガラス戸になっていて小さな喚鐘が下がる
  
本堂境内前の庭の石造物   五輪塔と板碑          石燈籠
 
切妻造本瓦葺の鐘楼      本堂左手に建つ庫裡(手前は山門)

無動寺の全景..身濯神社への一ノ鳥居
 
身濯神社への参道入口に立つ石造鳥居..「六所権現」の額が掛る/鳥居近くに建つ神輿庫..古そうな2基の神輿と獅子舞の獅子頭部が並ぶ

無動寺の鎮守社だった身濯神社への参道の石段

身濯神社の境内..二ノ鳥居の石造台輪鳥居は享保七年(1722)建立、額束に「六所権現」の額

身濯神社..延暦年間(782~806)に鎮座,承平~応和(931~964)に本寺垂迹説の所産として六所権現と称されたが、明治維新の神仏分離令で「六所権現」から「身濯神社」に改称
 
寄棟造桟瓦葺の拝殿..奥に石造社殿(弘化五年(1848)安置)が鎮座/祭神は伊弉諾尊、大直日命など六神を祀る

鳥居傍の石燈籠は明和二年(1765)建立

本堂裏山の石仏公園への入口に佇む石造物群
  
道祖神か/石造神殿..弘化五年(1848)造立/四国八十八か所霊場の第4,5,6番の石仏

本殿裏山は石仏公園と呼ばれ、羅漢像や菩薩などの石像や板碑、宝篋印塔などが佇む

本堂を見つめて鎮座する16羅漢像
  
冗談でも言い出しそうな顔の羅漢像/国東塔と宝篋印塔/道祖神か    
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川中不動 (豊後高田)

2015年04月19日 | 石仏巡り

【大分・豊後高田市】天念寺前を流れる長岩屋川の川中の巨石に刻まれた水害防止のために造立された磨崖仏で、室町時代~安土桃山時代作とされる。 刻まれている磨崖仏は不動明王と脇侍の制多迦童子と矜羯羅童子の不動三尊像で、不動明王の像高は約3.2mある。
江戸時代の寛永四年(1751)に寺社役所に提出された由緒書には、護摩堂と川中不動のことが記されていて、川中の巨石を「月見の大岩」と呼ばれていた。
また、他の同時代の古文書から天念寺に詣でるために石造りの車橋(眼鏡橋)が渓流に架けられていたが、昭和十六年の洪水で崩壊した。

天念寺から長岩屋川に架かる不動橋を渡って川中不動に向かう。 川中不動の巨石は不動橋の少し下流にあるが、多分、太古に地震か異変によって山上から転落してここに居座ったのだろう。
川中に突き出た礼拝所に進み、近くから不動三尊像を仰ぐ....巨像であることを実感する迫力だ。 不動明王が天念寺ではなくいかめしい表情で川の上流を向いているのは、やはり氾濫が起きないよう睨みをきかせているのだろう。 素朴で無骨な浮彫りの不動三尊像だが、いかめしい表情にはなんとなく親しみが感じられ、忘れ難い磨崖仏だ。

天念寺前の道路から眺めた川中不動
 
長岩屋川に架かる不動橋の上から眺めた川中不動「不動三尊像」

川中不動は安土桃山時代作と表記されているが、室町時代まで遡るとの説が強い
 
この場所にはかつて1間四方の護摩堂が建っていた/川中に突き出た礼拝所への参道の石橋

不動明王と脇侍の制多迦童子と矜羯羅童子の不動三尊像

右手に三鈷剣を持っていかめしい表情の不動明王像
 
不動明王の像高は約3.2m、制多迦童子は約1.7m、矜羯羅童子は約2.1m/不動三尊像は天念寺ではなく川の上流を睨んでいる..向こう岸の建物は天念寺の講堂

不動明王像は素朴な浮き彫り
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天念寺 (豊後高田)

2015年04月18日 | 寺社巡り-大分

【大分・豊後高田市】奈良時代の養老二年(718)、宇佐八幡神の化身とされる仁聞菩薩によって聞基されたと伝えられる古刹。 長岩屋川流域の上流から下流の約3kmの細長い谷筋を寺域とし、背後に屏風を立てたような天念寺岩屋と呼ばれる岩峰郡が聳え、修験と祈願の寺院として繁栄した。
昔、岩屋の龕は「龍門窟」と呼ばれ、龕中には平安時代から鎌倉時代に製作された優れた木彫仏が奉安されていたが、六郷満山修験の衰退により全て天念寺本堂に移された。 天念寺は六郷満山霊場の主要な一寺だが、この地に四国八十八ヶ所札所を勧請してその起点となったことから、この地方の人々は古くから四国八十八ヶ所信仰が厚く、船で四国へ渡って遍路を重ねた。
寺院前を流れる長岩屋川の川中の巨岩には、「川中不動」として知られる磨崖仏がある。 天台宗で、本尊は聖観世音菩薩像。 <国東六郷満山霊場第九番札所 (六郷満山中山本寺)>

聳える崖の下に岩屋堂形式の講堂と身濯神社(旧六所権現社)と本堂が道路に面して横並びで建つ。
道路に直接面した民家風の本堂のガラス戸に、「自由に御拝観下さい(無住寺…)」と書かれた貼り紙あり、表の扉は開け放しだ。 堂内を覗くと、内部はキチンと整理されていてとても無住とは思えない佇まい....長岩屋の人々によってキチンと管理されているのだろう。 正面奥の仏壇(内陣)の格子戸の奥に釈迦三尊像が鎮座している。
本堂の直ぐ左手の少し奥まったところが国宝堂跡とのことだが、かなり狭い空間に石窟(深い龕)が...格子状衝立ての奥に数体の石仏が安置されている。
国宝堂跡の左の道路より一段高い境内には身濯神社と講堂とが並んで建つ。 身濯神社の拝殿に上がると、正面奥に朱塗りの本殿が鎮座....ふと社額を見上げると鴨居の上に老夫婦の白と赤のお面があるが、「修正鬼会」で使われるものかな。
隣の講堂は半分以上が岩窟の中に造られていて、まさに山岳寺院の雰囲気がいっぱい漂う建物だ。 薬師如来坐像と脇侍の月光菩薩立像が鎮座する御堂で、霊場国東六郷の象徴的行事である「修正鬼会」が行われる建物。 堂内には「修正鬼会」で使われる大きな松明などが置かれているが、黒鬼と赤鬼が斧や松明をもって乱舞する火祭りのイメージが浮かんできそうだ。

道路に面して建つ天念寺と流れる長岩屋川..不動橋の向こう側の川中に磨崖仏が刻まれた巨岩が
 
入母屋造桟瓦葺の本堂..身舎に裳腰を設けた造りだ

質素な向拝の本堂..一見すると民家風の建物のようだ

本堂内陣に鎮座する木造の本尊釈迦如来坐像(平安時代末期作)と脇持の日光&月光菩薩立像
 
本堂と身濯神社の間の国宝堂跡..明治三十九年(1906)に旧国宝指定の国宝堂があった(石窟内に6体の平安仏が鎮座)

不動橋から眺めた身濯神社(右)と講堂(左)
  
道路に面して横に軒を並べる身濯神社と講堂/文殊種子を刻みこんだ不動種子石碑(建武五年(1338)造立)/険しい崖下に建つ天念寺

不動橋から眺めた入母屋造桟瓦葺の身濯神社

身濯神社は明治維新の神仏分離令までは六所権現社だった
 
身濯神社の拝殿(嘉永六年(1853)建立)と奥に朱塗りの本殿(文政十一年(1828)建立)が建つ

身濯神社拝殿に掲げられている老夫婦のお面

身濯神社の右後方に鎮座する羅漢像

講堂前から眺めた身濯神社前の境内

崖下に建つ講堂と身濯神社(旧六所権現社)..八幡鳥居には寛政元年(1789)の銘

宝形造茅葺の講堂(江戸時代の嘉永六年(1853)以前の建立)
 
石窟に潜り込むように建つ講堂/講堂内陣には本尊の薬師如来坐像と脇侍として月光菩薩立像が鎮座
 
講堂では毎年国家安穏・五穀豊穣・万民快楽を祈願する「修正鬼会」(仏教行事)を開催/「修正鬼会」で使われる松明

講堂前に佇む苔生した石造物群
 
講堂の左手に鎮座する磨崖の役の行者像..戦国時代末期の造立で、修験道の開祖役行者の薄浮彫りされた磨崖仏

講堂の向拝から眺めた長岩屋川に架かる不動橋

鬼会の里 歴史資料館..館内に木造の阿弥陀如来立像と勢至菩薩立像を安置
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長安寺 (豊後高田)

2015年04月17日 | 寺社巡り-大分

【大分・豊後高田市】奈良時代の養老二年(718)、宇佐八幡神の化身とされる仁聞菩薩によって聞基されたと伝えられる天台宗の古刹。 中山本寺十ヵ寺の一つで、平安時代に六郷満山六十五か寺を統括していた本山本寺の西叡山高山寺が衰微したのに代わって執行権が置かれ、満山の中核となって発展した。 鎌倉時代には将軍家の祈願寺として隆盛したが、戦国時代の末期、戦乱の犠牲となった。
元禄時代になって豪円大和尚が長安寺の法灯を旧に復したが、六郷満山統轄の資格は戻らず、杵築城主の崇敬を得た両子寺が満山の執行権を獲得した。
奥の院の六所権現社はいま祭神不在らしい。 昔は木造の太郎天&二童子立像を主祭神として山王宮と六所宮を祀っていたが、太郎天&二童子立像が国指定重要文化財となったことで寺院に保管され、また他2神もよそに遷坐したようだ。 天台宗で本尊は千手観世音菩薩像。 <国東六郷満山霊場第八番札所 (六郷満山中山本寺)>

駐車場から境内に向かうと樹林の中に幾つかの堂宇が見えてくる。 本堂までの前庭は苔生していて石造物などが鎮座していているが、秋には美しい紅葉が楽しめるそうだ。
参道を進むと右手に鐘楼、本堂を守るように仁王像が立ち、そして樹林を背に本堂と庫裡が一体となった横長の入母屋造本瓦葺の本堂が建つ。 本堂周りに佇む石造物等の写真を撮っていると、庫裡から住持の奥様がでてこられ、「随分お早いお越しですね」といいながら本堂の扉を開けてくれ、外陣の暖房を入れてくれ参拝の準備をして下さった。 本尊に線香を立てた後、本尊の前で奥様から長安寺の縁起などについて教えて頂いた。
本堂の左側の4体の仁王像が立つところから、六所権現社への高い石段が真っ直ぐに登って樹林の奥に消えている。 石段を登り切ると林道にぶつかり、そこから左に暫く進むと鬱蒼と繁る樹林の中に六所権現の社殿が見えてくる。 拝殿の向拝の虹梁に注連縄が引っ掛けられているが、扁額など祭神を示すものなどは何もなくガラ~ンとしている。 また、拝殿後方の弊殿(と思う)や本殿にも装飾らしきものが一切ないので、やはり祭神不在なのだと実感させられる。
社殿前参道の山側の木立の中に国東塔1基がポツンと立っているが、鎌倉時代造立とされるその姿は実に優美だ。
 
静寂に包まれた長安寺の前庭..秋には鮮やかな紅葉が楽しめるそうだ

前庭から眺めた本堂

本堂を守るように鎮座する仁王像..忿怒の表情はさほど激しくない
  
天衣を肩上において宙に舞う姿だが重量感がある仁王像(右側は天衣半分が欠落)/本殿前に「宇佐神宮六郷満山霊場」の幟が立つ

入母屋造本瓦葺の横長で広縁をめぐらした本堂(宝持院といわれる)

本堂向拝..奥の内陣に鎮座するのは千手観世音菩薩立像
 
本堂西側に立つ宝篋印塔2基、無縫塔、五輪塔..右側の宝篋印塔は中興の豪円大和尚の供養塔

文政十二年(1829)造立の仁王像に守られた露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の経蔵(と思う)
 
四体の仁王像が向かい合わせに佇む六所権現社への石段参道/石段は樹林の奥に消えている

樹林の奥に建つ六所権現社

明治四年(1767)再建の奥の院「六所権現社」..この社は屋山権現と呼ばれている
 
入母屋造銅板葺の六所権現社の拝殿             切妻造銅板葺で流造りの本殿

六所権現社には昔、主祭神の太郎天童他2神を祀っていたが現在は祭神不在らしい(太郎天童像は収蔵庫に、他2神はよそに遷坐)
  
鎌倉時代造立とされる優雅な長安寺国東塔..総高347cm,基礎三重,台座は反花のみ/水盤
 
境内の片隅に鎮座する石殿群と石仏              立派な屋根を持つ石殿

露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺の鐘楼..表参道の石段を上った本堂前に建つ
  
石垣の間の急峻な石段の上から眺めた鐘楼/収蔵庫(国指定重要文化財で平安時代大治五年(1130)造立の太郎天立像と脇持2童子立像を保管)/経蔵(と思う)

宝形造桟瓦葺の護摩堂


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熊野磨崖仏 (豊後高田)

2015年04月15日 | 石仏巡り

【大分・豊後高田市】熊野磨崖仏は胎蔵寺の奥の院として熊野神社とともに造営されたもので、藤原時代(平安時代中期~後期)作と推定されている。
胎蔵寺から山道を300m程登ると、そこから鬼が一夜で築いたとの伝説がある自然石を乱積みした険しい石段が熊野神社までおよそ百段続く。 急峻な石段を八分目程登った左手に開けた空間(護摩堂跡)があり、岩壁に刻まれた2体の巨大な磨崖仏が現れる。 磨崖仏は高さ約8mの不動明王像と約7mの大日如来像で、いずれも半立像。 不動明王像の両脇には高さ約3mの脇侍像(矜羯羅童子・制多迦童子)の痕跡が....。 また、不動明王像左脇侍の外側には高さ約1.5mの方形の龕があり、3体の男神像の存在が認められる。
石段を登り切ると熊野神社が鎮座するが、明治維新の神仏分離令により胎蔵寺から独立し、熊野権現社から熊野神社に改名された。 熊野磨崖仏は熊野神社に属する。

胎蔵寺前の受付のおばさんに勧められた杖を片手に、比較的緩やかな参道を上ってゆくと、鬱蒼とした樹林の中に石造りの熊野社の鳥居が見えてくる。
鳥居から見上げた石段に驚いた。 自然石をそのまま積み上げた石段は想像以上に険しく、不規則でごつごつした石段が林の中に消えるまで続いていて少し不安にかられた。 大きく深呼吸し一礼して鳥居をくぐり石段を登り始めたが、急峻で足場が悪いため直ぐに息が切れ、悲鳴を上げる足をなだめながらやっと磨崖仏に....。
樹間から左手の切立った絶壁を見上げると、巨大な大日如来と不動明王がこちらを....はっと息を飲む思いで足を止めた。 ベンチに座って息が落ち着いたところであらためて拝観....峻厳な表情の大日如来とは対照的に、頬にかすかに微笑を浮かべた不動明王の穏やかな顔はちょっとユ-モラスな感じがして強く印象に残った。
磨崖仏からさらに石段を登り切ると鎮守神熊野神社に....静寂な境内には巨杉老樹が天を覆うように聳え、神々しい雰囲気が漂っていた。

この石造台輪鳥居から自然石を累々と積み重ねた急峻な石段が続く
  
「三社大権現」の額がある鳥居から熊野神社まで、鬼が一夜で築いたという自然石を乱積みした険しい石段が約百段続く

岩壁に刻まれた熊野磨崖仏..右は大日如来像、左は不動明王像

熊野磨崖仏は藤原時代(平安時代中期~後期)作と推定され、胎蔵寺奥の院として造営された
  
不動明王像は約8mの半立像..憤怒相ではなく柔和な慈悲相..頬に幽かに微笑を浮かべた優しい表情..両脇に高さ約3mの矜羯羅童子、制多迦童子像の痕跡が..
 
不動明王像の右下に3体の男神像が認められる..熊野神社に祭られている神様の像らしい

口をへの字にした峻厳なお顔の大日如来像..緻密に彫られた肉髻と螺髪が素晴らしい
 
大日如来像は約7mの半身像..螺髪等の造形的特徴から不動明王像より制作年代が下る?

鎮守神熊野神社..入母屋造桟瓦葺(向拝両側のそれぞれ1列に行基瓦が使われているようだ)
  
熊野磨崖仏から更に乱積みの石段を上りきった所に鎮座(胎蔵寺の奥の院)江戸時代文政四年(1821)造立の笠が苔生した石燈籠
 
社殿前に聳える巨杉老樹..奥に建つのは講堂か/社殿の右手後方の崖に佇む石殿と石燈籠
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胎蔵寺 (豊後高田)

2015年04月14日 | 寺社巡り-大分

【大分・豊後高田市】奈良時代の養老二年(718)、宇佐八幡神の化身とされる仁聞菩薩によって開創され、六郷満山本山本寺であった伝乗寺の末寺八ヶ寺の一つとして宇佐神宮により創建。
平安時代になって山岳仏教が盛んになり、更に鎌倉時代初期に六郷満山に入り込んできた紀州の熊野権現を奉じる修験の勢力と結んで独自の発展を遂げてきた六郷満山の中でも得意な存在の寺院。
奥の院として、背後に聳える鋸山の山中に鎮守熊野神社と日本一雄大で荘厳な熊野磨崖仏が鎮座。
入口に立つ仁王像は当初、熊野権現参道に立っていたが、明治初年の神仏分離令により胎蔵寺境内に下ろされた。 天台宗で本尊は阿弥陀如来像。 <国東六郷満山霊場第五番札所 (六郷満山本山末寺)>

境内入口に立って参拝者を見下ろす仁王像に迎えられながら石段を上る。
直ぐ正面に茅葺屋根にトタン板をかぶせた寄棟造りの護摩堂が建つが、「日本むかし話」にでてくる山寺のような佇まいで、山岳寺院の風情をいまに残しているようだ。
本堂前の簡素な覆屋に大きな不動明王像が鎮座しているが、お顔などに参拝者が願いを込めて貼った金色の箔が輝いている。 みると、境内に鎮座している他の石仏や「熊野羊水」を囲む十ニ支石像にも金色の箔が....。 石仏を参拝していると、建物の中から女性がでてきて「どうぞ」と金色の箔を渡された。 少し躊躇したが、この寺の慣行にならうべきかなと考えて不動明王像の足下に貼らせて頂いた。

仁王像により仏道世界との境界をしっかりと守られた胎蔵寺

山岳寺院の古の風情を感じさせる屋根

入口に立つ石造り仁王像は江戸時代末期文久三年(1863)造立
  
力がこもった筋肉が盛り上がっている重量感が溢れる仁王像/護摩堂前の常香炉

寄棟造トタン板葺の護摩堂..トタン板葺屋根は珍しい
 
寄棟造トタン板葺の本堂                      簡素な覆屋に鎮座する不動明王坐像

本堂前境内に佇む石造物群

本堂前の[熊野羊水」..周りに十二支石像が鎮座

本堂と護摩堂

本堂前に佇む観音菩薩像と石造物群(国東塔、石殿、石祀、石仏など)

観音堂入口の上に観音菩薩を表す梵字(種子)がある

本堂後方の境内に多くの石仏が鎮座
  
不動明王石像           千手観音菩薩石像       尊名不詳の石像

本堂後方のお堂への参道
 
本堂後方の境内に建つ新しいお堂                お堂の傍に立つ国東塔

境内奥の杉木立の中から眺めた護摩堂と本堂の屋根
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大門坊磨崖仏 (豊後高田)

2015年04月13日 | 石仏巡り

【大分・豊後高田市】伝乗寺末の大門坊と呼ばれる寺院跡にある磨崖仏で、鎌倉時代初期の作とされる。 境内左奥に聳える肌のあらい岩壁に、大日如来、薬師如来、多門天など数体の仏が彫られ、雨ざらしの状態で鎮座している。 地元では、磨崖仏は大門坊地区の民家の火伏せの仏として信仰され、火事になりそうな家があると知らせてくれるとされる。

真木大堂前の道路を北へ1.5kmほど進み、道路から少し入ったところの遺跡近くまで車を乗り入れた。
直ぐ右手の少し高い土手の上に、五輪塔などの石塔に囲まれた地蔵菩薩像が立っている。
地蔵菩薩像の目線の先には、ごつごつとした岩肌に彫られた数体の仏像が鎮座している。 近ずいて拝観したが、風化がかなり激しく、かろうじて滅びに耐えている感じだ。 狭い境内には磨崖仏に寄り添うように幾つかの石造物が佇んでいる。 これ以上風化が進まないよう、少なくとも覆屋を設けて保護して欲しいと願いながら磨崖仏を離れた。
帰り際、道路沿いに立てられた案内板に気付いてカメラに収めたが、写真で六体の仏像が彫られていることを知り、また、帰宅してから写真の隅に邪鬼を踏んで立つ多聞天立像を確認した。
  
鎌倉期制作と言われる6体の磨崖仏が彫られているが3体しか確認できず..撮影時は一番右端の多聞天立像に気づかなかった

右から多聞天立像、薬師如来坐像(像高1.4m)、大日如来坐像(像高1.46m)、尊名不詳の仏像
 
尊名不詳の仏像(像高1.00m)/薬師如来坐像(右)、大日如来坐像(左)

薬師如来坐像(右)の坐下の小龕に6人の声聞衆、大日如来坐像(左)の坐下の小龕に7人の菩薩衆がそれぞれ彫られている..画面の右端に邪鬼を踏む多聞天立像が鎮座

磨崖仏の左手に鎮座する五輪塔群
  
磨崖仏の前に佇む石朝と半分土に埋まった板石塔婆(板碑)/石碑/石燈籠

境内の隅に佇む石造物(板石塔婆、五輪塔など)

境内の隅に置かれた石造物の一部か

磨崖仏を見守るように鎮座する地蔵菩薩立像..右手の錫杖が失われている
 
地蔵尊像の周りに五輪塔などの石造物が佇む
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鍋山磨崖仏 (豊後高田)

2015年04月12日 | 石仏巡り

【大分・豊後高田市】田染耶馬の一つである鍋山の切立った岩壁に彫られた磨崖仏で、鎌倉時代初期の作とされる不動三尊立像。 中尊の不動明王立像の像高は約230cmで、右手に宝剣、左手に索を持つ。 脇寺の矜羯羅童子立像と制吨迦童子立像の像高は約121cmだが、いずれも風化が激しい。 「鍋山の磨崖不動明王」として国指定史跡となっている。

桂川に沿って走る県道の脇から直接、岩山に向かって急峻な石段が続く。 石段は思った以上に険しく、鎖の手摺りをしっかり掴みながら苔生した石段を這うようにして登る....息を切らして岩山の中腹までくると、そこは岩棚になっていて小さな覆屋が建つ。
覆屋の中を見ると、正面の岩壁に不動三尊が鎮座しているが、特に脇寺の童子立像の風化が激しく、僅かに痕跡が確認できるほどだ。 険しい鍋山山中の岩壁に約800年もの長きに渡って風雪に耐え、鎮座し続けている不動尊像....合掌する手に力がはいった。
合掌していると突然、下から道路を走る車の騒音が響いてきた....不動明王像は道路が開通されるまでは静寂な霊場で瞑想をされていたのだろうな~と思いながら石段を下った。
 
約80段のかなり急峻で苔生した石段を登った鍋山中腹の岩棚に設けられた覆屋

鎌倉時代作とされる鍋山磨崖仏が鎮座する覆屋
  
覆屋内の岩壁に彫られている磨崖仏・不動三尊像/中尊の不動明王立像の像高は約230cm/脇侍は像高約121cmの矜羯羅童子(右)と制吨迦童子像(左)両立像..いずれも風化が激しい

鍋山磨崖仏は「鍋山の磨崖不動明王」として国指定史跡

不動三尊像の両側に仏像らしき痕跡が認められる

覆屋近くの古木傍に置かれた自然石を使った手水鉢
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真木大堂 (豊後高田)

2015年04月11日 | 寺社巡り-大分

【大分・豊後高田市】真木大堂は、六郷満山寺院の中核・本山本寺八か寺の一つとして田染盆地に創建された伝乗寺の堂宇の一つとして建てられたと伝わる。 伝乗寺は奈良時代の養老年間(717~724)、宇佐八幡神の化身とされる仁聞菩薩によって開創され、36寺坊の伽藍を擁した満山最大規模の中心的寺院で、満山の僧たちが学問を学ぶ「長講所」だった。
伝乗寺は鎌倉時代に火災によって焼失したが再建されず、中世には本山本寺八か寺の中からその名が消えていて、謎に包まれた「幻の大寺」と言われる。 火難から免れた各寺坊の仏像は、村人の厚い信仰を集めてこの地で大切に守られ、江戸時代建立の大堂に長い間安置され、現在は昭和30年代に建てられた収蔵庫に保管されている。 収蔵庫に保管されている9体の仏像は、平安時代中期から後期にかけて都の仏師により彫られたとされる。
また、境内には豊後高田市の仏教遺跡保護策の一環として、田染盆地に散在していた貴重な石造物を一堂に集めた古代文化公園がある。 天台宗で本尊は阿弥陀如来像。 <国東六郷満山霊場第四番札所 (六郷満山本山本寺)>

真木大堂前の道路を挟んで大きな駐車場があるが、乗り入れるや否や「何だこれは!」と叫んでしまった。 人形たちがまるで駐車場を占領しているかのような異様な光景....一瞬背筋が寒くなった。
沿道に面して佇む真貴大堂....境内に入った直ぐ正面に「真木大堂」の額が掲げられた鉄筋コンクリート造りの「収蔵庫」が建つ。
まずは九体の丈六仏像を安置している収蔵庫に....木造阿弥陀如来坐像を中心とした見事な諸仏は、まるで巨大なガラスケースの中に保管されているようだ。 諸仏はさながら陳列場に並べられたかのようにひしめいて鎮座....その姿には何か戸惑いというか違和感を感じた。 とはいえ、収蔵庫は仏像を火災等の災害から守るために建てられてたものなのでやむを得ないのかな....と自分に言い聞かせながら、ガラス越しに諸仏に合掌して外に出た。
収蔵庫の直ぐ奥に江戸時代再建の貴重な遺構である大堂が鎮座しているが、正面に建物の景観を損ねるような大きな掲示板などがあり、落ち着かない雰囲気には少し残念だ。
大堂右の境内を進んで「古代文化公園」へ....田染盆地内に散在していた石塔や石仏が集められ整然と配されている。 多くの石造物を拝観していてあらためて国東が仏の里であることを感じさせられたが、ただ六郷満山の古刹に密接に関わっている石造り仁王像がひとつもないことが気になった....やはり堂宇の傍で守護する仁王像は堂宇の焼失とともに失われたのであろうか。

真木大堂の全景

沿道に面して佇む真貴大堂..正面に「真木大堂」の額が見える

「国東六郷満山霊場第四番札所」そして「宇佐神宮六郷満山霊場第五番札所」でもある
 
九体の仏像を祀ってある収蔵庫..いずれも木造の阿弥陀如来坐像、四天王立像、大威徳明王像、不動明王像&二童子立像(境内に貼られたポスター写真を拝借)

大堂側から眺めた収蔵庫前の境内

大堂..江戸時代再建で露盤宝珠が乗る宝形造桟瓦葺

近年まで現在の収蔵庫の位置にあって収蔵庫内の諸仏を保管していた

質素な大堂向拝..内陣に中尊阿弥陀如来像や不動三尊などを安置
  
内陣前に鎮座する大きな仁王像(大きな鰐口が下がる)/境内に佇む石燈籠か(なかなか品がある)/背後の馬城山伝乗寺大展望への石段..六所権現と金比羅様を祀っている

豊後高田市古代文化公園..田染盆地の路傍や薮中に散在していた石造物を破損や紛失から守るため集められた
 
古代文化公園の入口に佇む真木大堂庚申塔(市指定有形文化財)/古代文化公園内の石造物群
  
庚申塔               小さな国東塔/供養塔(宝篋印塔の変形と思うが笠部が異様に大きい)
  
古墓                 笠を乗せた供養塔       石祠

古代文化公園内の石造物(国東塔、五輪塔、石祠)
  
龍泉寺国東塔(市指定有形文化財)  五輪塔          宝篋印塔

収蔵庫前にある燈明石(拝み石)..12の穴に油を入れ燈明をあげて仏様を拝んでいた十二支燈明石

入母屋造桟瓦葺の鐘楼
 
鐘楼の傍に佇む石燈籠     境内前の石庭..2つの石橋は趣がある

駐車場の待合所を占領している人形群?..何これ!..霊場には全く似合わない!
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富貴寺-(2) (豊後高田)

2015年04月10日 | 寺社巡り-大分

【大分・豊後高田市】大堂(阿弥陀堂)は苦難の歴史をたどっていて、中世に六郷満山の多くが武士により荒らされて衰退。 その後、安土桃山時代の天正年間(1573~1592)には臼杵城主・大友宗鱗の乱によって大破したが、悲しんだ村人たちが力を合わせて大堂を修復。 そして、昭和二十年(1945)の太平洋戦争時に米軍機の投弾に遭って大破したが、終戦後、国と県により修復された。
参道石段の登り口や大堂周辺には、鎌倉時代や室町時代に造立された後、数百年もの風雪に耐えて立ち続ける多くの石造物が佇む。

大堂が建つ境内には笠塔婆、石仏、国東塔、五輪塔、種子石、石祠など多くの石造物が佇む。 中でも興味が引かれたのは、四基の笠塔婆の背後に鎮座する苔生した異様な石像群だ。 それは閻魔大王を中心に座す十王像と閻魔大王の妹の脱衣婆像の石像で、特に脱衣婆の石像は珍しく、ふてぶてしく容赦のない形相と容姿の怪奇な風貌はとても印象に残った。
石造物をゆっくり拝観した後、大堂背後の山の中腹に立つ白山社そして大堂の下の境内に建つ院主坊(本堂)を参拝し、院主坊側の小さな山門から外に。 山門の石段の下に梅干売りのお婆さんがいて、手造りの梅干を勧められたが、丁重にお断りし....少し世間話をした後、記念にと写真を1枚撮らせて頂いて次の史跡に向かった。

大堂周辺には多くの石造物が鎮座している..左手に笠塔婆や国東塔などが見える
 
大堂左手の石造物群/笠塔婆..塔身上に笠石と宝珠を乗せている(一番左は鎌倉時代仁治4年(1243)、他3基は文永五年(1268)の銘)

冥土の裁判官の十王像と地獄の王閻魔大王の妹の奪衣婆坐像(一番右)
 
亡者の罪業を裁く十王像(中央の台座に鎮座するのは閻魔王)/奪衣婆石像..冥土の三途の川で亡者の衣類を剥ぎとる鬼女

鎌倉時代中期作とされる種子石(刻まれている種子は胎蔵界大日と薬師)..後方は「大乗妙典1字1石書寫塔」(享保三年(1718)建立)

大堂左手の大小の国東塔や石祠など..小さい国東塔には江戸時代の慶長八年(1603)銘
  
国東塔(造立年無銘)      大堂越しに見た国東塔     石祠(鎮座は不動明王像か?)
  
大堂後方の五輪塔群/鎌倉時代の仁治三年(1242)銘がある笠塔婆(弥陀の種子、笠石と宝珠が乗る)/堂背後の樹林にある薬師岩石屋

大堂背後の山の中腹に立つ「大権現」の額が掛る台輪鳥居..白山社の前は六所権現社だった
 
参道石段下から見上げた社殿/白山社の社殿..入母屋造桟瓦葺の拝殿、奥に切妻造桟瓦葺の本殿

院主坊(本堂)阿弥陀三尊像を祀っている
 
本堂前庭近くに佇む六地蔵の石造物/院主坊の境内(前庭)
 
入母屋造本瓦葺の院主坊の全景..古民家風の建物/質素な「蓮華山」の額が..山の字がユニーク
 
玄関と庫裡                               前庭に佇む苔生した雪見燈籠

本堂境内の山門越しに眺めた院主坊

石垣の上に造られた土塀(奥は大門坊)

 
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