【名古屋・東区】天明五年(1785)の大曾根の大火により第5代藩主徳川五郎太の御霊屋、総門、三門を残して灰燼に帰したが、天明七年(1787)、第9代藩主徳川宗睦と第19世辨及喚阿が創建当時の伽藍に中興させた。
寛政十二年(1800)から嘉永三年(1850)の間に第9代藩主から第13代藩主の廟が建立された。 江戸時代を通じて無本寺(別格本山)として、宗心院や誓安院など7つの塔頭寺院と多くの末寺を有していた。
●三門をくぐって小粒の砂利を敷いた広い境内に入ると、三門から本堂に向かって切石敷の参道が真っ直ぐ延びている。 本堂は名古屋市内で最大の木造建築物とされる江戸中期の再建で、意外に質素な造りなれど格式が高く古式を保っていて荘厳だ。 三門と同じように唐破風の向拝の軒下が身舎からすっぽりと防護用金網で覆われている。 本堂の入母屋破風の妻は、緑青が浮き出た銅板が張られていて格式を感じさせる。
△本堂境内西側の小庭越しに眺めた本堂は、格式が高く古式を保っている
△入母屋造本瓦葺の本堂....天明七年(1787)の再建で、飛鳥時代の止利仏師作の中品中生の印相を結ぶ阿弥陀如来像を安置
△本堂は四方九間の巨大な木造建築で、現在名古屋市内で最大の木造建築物
△正面三間の唐破風の向拝....周囲に擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす....各三間の脇間は二軒が板戸の引き戸で一間は縦羽目板に連子窓
△向拝柱は唐戸面取の方柱
△中央間三間は上部に菱格子を入れた桟唐戸....三間の真ん中は両折両開、左右は両折片開で内側は腰高明障子と格子欄間....中央長押の上に「徳興山」の扁額
△身舎と向拝を結ぶ唐草文様を入れた海老虹梁と見事な彫刻を施した大きな手挟
△軒廻りは二軒繁垂木、組物は柱頭に乗る舟肘木で丸桁を支えている....長押の上は全て白壁の小壁
△向拝破風に鳥衾を乗せ三つ葉葵紋を入れた鬼板、兎毛通は鳳凰彫刻,妻飾は虹梁大瓶束(と思う)/大棟端に鳥衾を乗せ三つ葉葵紋を入れた鬼瓦、拝は猪ノ目風の懸魚、妻飾は緑青が浮き出た銅葺で二重虹梁大瓶束
△本堂左(西側)の縁から眺めた紅葉が残る手入れが行き届いた庭園/本堂右(東側)の雪見燈籠が置かれた小庭
△本堂側面は九間で、右側面の前一間は羽目板に連子窓、八間は板扉の引戸で内側に腰高明障子
△南面の本堂の前縁端から向拝を通して眺めた境内の東に建つ経蔵と鐘楼
△不動堂近くから眺めた北東方向の境内....本堂と経蔵の間の奥に書院と庫裡等が建つ
●本堂前境内の東側に裳腰を設けた白壁の経蔵が西面で建つ。 窓の無い経蔵には膨大な数の黄檗版大蔵経典を納めた精緻な八角輪蔵が置かれている…と案内板にある。 本堂と経蔵の間の奥の境内に書院と庫裡・徳興殿がある。 経蔵と並んで入母屋造りの袴腰付き鐘楼が建つが、本堂と同様に入母屋破風の妻は緑青が浮き出た銅板が張られている風格がある。 鐘楼には重さ約2トンの梵鐘が吊るされているが、軒下から腰組までが防護用金網で覆われていて組物や梵鐘がよく見えず残念。
△露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の経蔵....文政十一年(1828)の創建で、内部に鉄眼禅師開版の黄檗版大蔵経五千八百巻が納められた精緻な八角輪蔵が置かれている
△軒廻りは二軒繁垂木、組物は三手先で中備は間斗束....三間四方の全てが白壁で窓がない
△本瓦葺の裳腰は軒廻り二軒繁垂木、組物は木鼻に組物(平三ツ斗)を置き、中備は本蟇股/入り口の扉は上部に連子を入れた桟唐戸
△入母屋造桟瓦葺の書院....昭和三十九年(1964)、34代住持徳誉上人による再建で、本堂と庫裡の間の渡廊下の中間に建つ....玄関の屋根は唐破風銅板葺
△銅板葺唐破風の書院玄関....身舎正面は三間で、中央入口は腰高格子戸、両脇間は白壁に花頭窓で腰部は縦羽目板
△鳥衾を乗せ三つ葉葵紋を入れた唐破風の兎毛通は猪ノ目風の懸魚、妻飾は彫刻を施した笈形付きの虹梁大瓶束/下の梁の中央上に脚間に彫刻を配した本蟇股....読めないが扁額は「禅雲閣」か?
△書院から庫裡への渡廊下前の竹柵で囲まれ、手入れが行き届いた植栽の小庭
△書院の東側の桟瓦葺の渡廊下の先に庫裡、庫裡後方に明治二十九年(1896)建立の徳興殿が建つ
△入母屋造本瓦葺で鐘楼....天明七年(1787)の再建で、約2トンの梵鐘が吊るされている....梵鐘に江戸初期の儒学者林道春(林羅山)の銘が刻まれていたため戦時中の供出を免れた
△入母屋造本瓦葺の鐘楼....天明七年(1788)の再建
△板張り羽目の裳腰付きの鐘楼は、擬宝珠高欄付き回縁を設けている
△軒廻りは二軒繁垂木、防護網で見え難いが組物は三手先で中備は蟇股(と思う)....回縁を支える腰組は二手先(と思う)で中備は蓑束
△三門傍から眺めた鐘楼....右奥は経蔵
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