goo blog サービス終了のお知らせ 

何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

来迎寺 (東京)

2023年03月13日 | 寺社巡り-東京

【東京・足立区】鎌倉時代初期の建久六年(1195)に創建された古刹。 江戸時代の天和年間(1681~84)に尊宥和尚によって再興され、今日に至る。 往時は中本寺・西新井大師総持寺の末寺であったが、近来は大和長谷寺の直末寺となった。
宗旨は真言宗(豊山派)で、本尊は阿弥陀三尊像。 荒川辺八十八ヶ所第40番霊場、荒綾八十八ヶ所第58番霊場、新四国八十八ヶ所第4番札所。

■西新井駅から住宅街の中を数分進むと、突然、ブロック塀の上に多宝塔が現れる。 塀に沿って進むと3本の筋が入った築地塀がある。 築地塀の間の閉じられた門扉があり、その奥に連子窓付き袖塀を設けた山門が建つ。 山門は両側部に唐破風がある平唐門で、菱狭間入り桟唐戸も固く閉じられているので、勅使門的な扱いの門か。
多宝塔は平成二十四年(2012)に建てられた和様式建築で、新しいが趣がある。 平唐門の右側に門柱が立ち、傍に「三つ葉葵の紋」と「女人高野室生寺末」と刻まれた寺号標石がある。 そこから境内に入ると直ぐ右に、赤い帽子を被り前掛けをつけた子育地蔵尊像が鎮座する地蔵堂が建つ。

△住宅街を歩いていると突然ブロック塀越しに現れた多宝塔

△正面の山門は閉じられ、右の門柱が入口….築地塀は3本の筋が入った筋塀

△門前の道路を挟んで反対側の敷地に本堂を向いて立つ「蓮花手観音像」/左手の甲に乗せた持物は蓮華と何かな?

△本瓦葺屋根の多宝塔は平成二十四年(2012)建立の和様式建築

△軒廻りは上下層いずれも二軒繁垂木、上下層を繋ぐ白色漆喰の亀腹....下層(裳腰)中央間に板唐戸、両脇間は腰高連子窓、組物は出組で中備は脚間に彫刻を施した本蟇股、軒支輪がある/上層(塔身)の組物は四手目が尾垂木の四手先....上下屋根の四隅軒下に宝鐸が下がる

△切妻造本瓦葺の山門....扉は菱狭間を入れた桟唐戸、桟瓦葺の袖塀に連子窓を設けている

△山門は多宝塔と同時期の建立か?/山門は薬医門構だが、両側面に唐破風があるので平唐門

△境内側から眺めた山門....右手に多宝塔が建ち塔前に石燈籠が立つ

△門柱前に立つ寺号標石に「三つ葉葵の紋」と「女人高野室生寺末」の刻/門柱から眺めた境内....直ぐ右手に地蔵堂、庚申塔、歴代住持墓碑の五輪塔などがある

△切妻造銅板葺の地蔵堂に鎮座する子育地蔵尊像/赤い帽子と前掛けを付け、宝珠と錫杖を持つ子育地蔵尊立像

■地蔵堂と並んで参道脇に江戸初期造立の4基の庚申塔と舟光背型地蔵尊像1基が鎮座、その後方に五輪塔など歴代住持の墓碑が並んでいる。 その中に、駒型板石に五輪塔を浮き彫りした墓碑がある。 木立の奥に本堂が建ち、堂前に樹齢数百年とされる松と榎の古木が聳える。 本堂の前に弘法大師修行像と舟光背型六地蔵石仏が鎮座し、笠に隅飾突起がない二重式宝篋印塔が立っている。 本堂に向かって左側に墓所が広がるが、本堂脇の墓碑の上に、石造りの椅子に座る弘法大師のお姿がある。

△境内参道に脇に鎮座する江戸初期造立の4基の庚申塔と舟光背型地蔵石仏(別途「石仏巡り」で投稿)

△庚申塔の後方にある歴代住持の墓所....五輪塔や無縫塔などの墓碑が並んでいる

△整然と並ぶ様々な形の墓碑....造立年は左から駒型は享保十二年(1727)、無縫型は元文五年(1740)、箱型は明和四年(1767)、角柱型は文化七年(1810)

△中央3基の五輪塔の右端は享保七年(1722)の造立....他の2基は造立年不明

△駒型板石に浮き彫りされた五輪塔....宝永四年(1707)の造立/縦長の箱型墓碑は安永四年(1775)、五輪塔は享保七年(1722)の造立

△木立の奥に建つ本堂....堂前に聳える松と榎は樹齢数百年の古木

△入母屋造本瓦葺の本堂....正面七間の中央間は腰高格子戸、上に格子欄間、両脇間は白壁の小脇羽目を挟んで腰高格子戸と連子窓

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は平三ツ斗、中備なし....中央間に「来迎寺」の扁額/前と側面に擬宝珠高欄付切目縁....本堂右手に鬼瓦を乗せた唐破風の玄関.があり、その右に庫裡
が建つ

△本堂前に弘法大師修行像、六地蔵尊像そして宝篋印塔が鎮座....本堂に向かって左側に墓所がある

△本堂前に鎮座する造立年不明の舟光背型六地蔵石仏と宝篋印塔

△五重基壇に立つ明和五年(1768)造立の二重式宝篋印塔....隅飾突起のない笠の下に垂木を設け、塔身の月輪に梵字が刻まれている/真言宗のお寺なので弘法大師修行像か
△本堂に向かって直ぐ左手にある墓碑の上の椅子に座ったお姿の弘法大師/持物は右手に五鈷杵、左手は数珠とみられる




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瀧泉寺-(4) (東京)

2022年12月07日 | 寺社巡り-東京

【東京・目黒区】昭和二十年(1945)の東京大空襲で壮大な伽藍の多くが焼失したが、その中で前不動堂と勢至堂だけが戦災をまぬがれた。 本堂は昭和五十三年(1978)に焼失したが、3年後の昭和五十六年に鉄筋コンクリート造りで再建された。 本堂は入母屋造屋根に大きな千鳥破風を乗せた懸造風の大規模な仏堂。

●本堂境内から女坂の石段を下って平地の境内に向かう。 女坂の途中に傾斜地から突き出たように御堂が建ち、前鬼・後鬼を従えた全身黒光りしている役の行者倚像が鎮座している。 石段の下りたところに、石積みの壁にへばりつくように鯱の水口があり、清水を水鉢に吐き出している。 また石段の傍には、第三代将軍徳川家光の愛鷹に由来する「鷹居の松」の跡がある。
平地境内の東側には地蔵堂・精霊堂。観音堂・書院・阿弥陀堂そして寺務所が建ち並ぶ。 その中で地蔵堂は近代的な造りで、古建築特有の垂木・組物・中備などがないが、緑色の連子窓だけが御堂の雰囲気を出している感じだ。 地蔵堂前に置かれている「後生車」の車輪を上下に廻したので、現世と後生の願いが叶うかも....合掌。

△女坂の石段の途中に建つ「役の行者堂」

△切妻造銅板葺で妻入の「役の行者堂」....右手上に「神変大菩薩」が鎮座

△役の行者堂に鎮座する修験道の祖・役の行者倚像....寛政八年(1796)造立で、銅造りで坐高92.7cm、右手に錫杖、左手に巻子を持つ....左右後方は前鬼&後鬼像か?

△弘化二年(1845)造立の「神変大菩薩」....神変大菩薩は役の行者(役の小角)の別名で、没後千年以上後の寛政二年(1790)に第119代光格天皇から送られた諡号/女坂の途中の石積みの壁にへばりつくように鎮座する鯱の水

△「鷹居の松」の跡....徳川三代将軍家光が狩猟中に行方不明になった愛鷹を目黒不動別当僧に祈らせたら境内の松の枝に戻ったために、「鷹居の松」と命名したとされる

△入母屋造銅板葺の地蔵堂

△地蔵堂は三間四方の白壁の建物で、正面中央間は格子戸、脇間は連子窓

△近代的な建物で、古建築特有の垂木・組物・中備がない造り

△地蔵堂前に置かれた後生車....石柱の中の車輪を上へ回すと現世の願い、下へ回すと後生の願いが叶うとされる

●地蔵堂と観音堂の間の少し奥に、地蔵尊等が鎮座する湾曲屋根の精霊堂がある。 死者の霊魂を祀る御堂らしく多くの卒塔婆が立てられているが、ひときわ大きな閻魔王と片膝立て姿の奪衣婆も鎮座しているので、この地は冥途の三途の川の河原を表しているのかな。 観音堂は屋根の形と一軒繁垂木を設けている以外は地蔵堂の身舎とほぼ同じ造りだ。 観音堂前の右手に片流れ屋根風の書院が建つが、屋根を除けば民家の佇まいだ。
阿弥陀堂は御堂の中で唯一西面で建つ。 堂前の大きな2本の松がある小庭の脇に、約300年前の江戸享保期造立の兜巾型「六字名号塔」が立つ。 阿弥陀堂は正面に唐破風を設けた裳腰がある造りで、裳腰五間の中央間には両方に開く引戸の格子戸、両脇間の白壁に緑色の連子子を入れた連子窓がある。 諸堂の前の境内に白い木肌の鈴懸の木(プラタナ)の聳え立ち、傍に球形の軸部に梵字を刻んだ装飾性に富んだ石造りの宝塔が佇んでいる。

△地蔵堂と観音堂の間に立つ「春洞西川先生碑」、少し奥に地蔵尊等が鎮座する精霊堂が建つ

△六道に導く地蔵尊や西の河原地蔵尊などが整然と鎮座する湾曲屋根の精霊堂....多くの卒塔婆が立てられ、壁に「西の河原地蔵菩薩 和讃」の表記


△片膝を立てた閻魔王の妹・奪衣婆の石像....奪衣婆は三途の川のほとりで人の衣を剥ぐ鬼女/死者の罪業を裁く地獄の王・閻魔王の石像....冠をつけ、道服を着て笏を持つ

△明和九年(1772)造立の舟光背型地藏石仏/尊名不明の石仏....左手に開蓮を持っているように見える

△入母屋造銅板葺で妻入の観音堂....堂前の石燈籠は寛文九年(1669)の造立

△軒廻りは一軒繁垂木、組物や中備はなく白壁の祖式....正面に横連子子を入れた欄間、側面に2つの連子窓がある

△観音堂前の佇む寛文九年(1669)造立の石燈籠越しに眺めた阿弥陀堂....左側は書院

△片流れ屋根風銅板葺の白壁の書院....正面側だけ仏殿のような造り

△入母屋造本瓦葺の阿弥陀堂(本坊)....正面の銅板葺裳腰に唐破風を設けている

△阿弥陀堂前に立つ享保十二年(1727)造立の「南無阿弥陀佛」と上部に梵字(キリーク)が彫られた兜巾型六字名号塔

△身舎の軒廻りは二軒繁垂木、組物は平三ツ斗、中備は間斗束

△脇間は連子窓、裳腰の軒先から鎖樋が天水桶に下がる....前縁の柱に釣鐘(半鐘)が下がる

△鳥衾を乗せた鬼瓦を配した銅板葺唐破風....金色の飾金具を施した破風、兎毛通は猪ノ目懸魚、妻飾は虹梁蟇股

△切妻造桟瓦葺の社務所

△地蔵堂前の境内に聳え立つ鈴懸の木(プラタナス)

△鈴懸の木の傍に立つ装飾性の高い寛政十二年(1800)造立の石造宝塔....後方の仏堂は地蔵堂(左)と観音堂

















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瀧泉寺-(3) (東京)

2022年12月01日 | 寺社巡り-東京

【東京・目黒区】幕府の保護が厚く、徳川将軍が参拝する広壮な堂塔はを有す寺院ということで「目黒御殿」と称されるほど華麗を極めた。 また、目黒不動は江戸庶民の間でも人気が高まって門前町として栄え、江戸中期には江戸近郊を有数の行楽地となった。 家康が定めた「江戸五色不動」は、江戸城の周囲を四神の色で護ろうとするものという。

●大本堂で参拝した後、本堂境内に鎮座する石仏群を拝観。 まずは境内のほぼ中央に、蓮華座の上に半跏倚坐で鎮座する延命地蔵菩薩坐像そして大本堂の傍に宝冠を頂く虚空蔵菩薩坐像が鎮座。 大本堂の右手には、石積みの壁を背にした災厄除けの護衛不動尊像が、参拝者を見守るように蹲踞座姿で鎮座している。
境内の東側に「八大童子の山」があり、築山のような小高い所に燦燦と陽を浴びる不動明王像と8人の童子像が南面で鎮座している。 境内の西側に鎮座している意思不動尊、微笑観世音菩薩そして愛染明王の各像を拝観してから、大本堂の後方に露座する大日如来坐像に向かう。

△懸造り風の大本堂に向かって右手の東側境内に鎮座する延命地蔵尊、虚空蔵菩薩そして護衛不動尊

△境内の中ほどの基壇の上の蓮華座に鎮座する半跏倚坐の延命地蔵菩薩坐像/宝冠を頂く虚空蔵菩薩坐像....持物は右手が如意宝珠(と思う)、左手は分からず

△少し斜めに大本堂を見守るように鎮座する護衛不動尊像

△石壁の前に蹲踞座で鎮座する災厄除けの護衛不動尊像/左眼を半眼に閉じ、下の歯で上唇をかみ、2本の牙を出し、頭髪が巻髪の不動明王坐像

△鐘楼堂の北側(境内東側)にある「八大童子の山」

△不動明王尊を中心に矜迦羅童子など眷属の八大童子が南面で鎮座/不動明王立像

△大本堂に向かって左側の石壁の前に意思不動尊、微笑観世音菩薩、愛染明王像が鎮座している/眷属の2童子を従えた意志不動明王立像....左は金剛棒と五鈷を持つ制た迦童子、右は髪を肩にたれ合掌手に独鈷を持つ矜迦羅童子

△基壇上の2段積み台座の上の蓮華座に鎮座する微笑観世音菩薩立像/右手は与願印とし、左手に未開蓮を持つ微笑観世音菩薩

△愛欲を表現するかのような真紅系の台座の上で、日輪を背負って蓮華座に鎮座する愛染明王坐像/獅子冠を頂き、1面6臂の愛染明王像

●大日如来坐像は約340年前の江戸前期に鋳造された銅造りで、簡素な覆屋に結跏趺坐で鎮座している。 大日如来像は全身黒いお姿で、智拳印ではなく法界定印を結んでいる。 金色に輝く二重円光を背負っていて、金色の宝冠・胸飾・臂釧・腕釧が黒いお躯に際立っている。
大日如来の庭の四方には、邪鬼を踏みつける仏法の守護神・四天王像が鎮座し、大日如来を護っている。

△大本堂後方の簡素な覆屋根に鎮座する大日如来坐像/大日如来遷座供養碑

△銅造大日如来坐像は天和三年(1683)の鋳造で、江戸の鋳物師横山半右衛門尉正重の作

△蓮華座に結跏趺坐する大日如来像は総高385cm、座高281,5cm、頭長121cm....印相は智拳印ではなく法界定印/江戸時代には堂舎の中に鎮座していた....金色の二重円光を背負い、金色の宝冠・胸飾・臂釧・腕釧が眩しい

△大日如来坐像の後方に鎮座する神明鳥居を構えた地主神/正面に唐破風を設けた流造風の石祠と石柱

△寛文二年(1662)造立の石燈籠/造立年号不明の五重石塔....輪郭を巻いた初層塔身に四方仏が彫られている

△大日如来像の庭の四方(東西南北)に邪鬼(天邪鬼)を踏みつける仏法の守護神・四天王像が鎮座....右手に刀を持ち、左手を腰に当てている持国天(東方世界の守護神)/左手に鉾を持ち、右手を腰に当てている増長天(南方世界の守護神)
    
△鉾を持つ広目天(西方世界の守護神)....一般には右手に筆、左手に巻物を持つ姿が多い/右手に宝棒、左手に宝塔を持つ多聞天(北方世界の守護神、毘沙門天のこと)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瀧泉寺-(2) (東京)

2022年11月25日 | 寺社巡り-東京

【東京・目黒区】江戸時代寛永七年(1630)に徳川家の菩提寺である寛永寺の子院・上野護国院の末寺となり、徳川家光の庇護を受けて興隆し、寛永十一年(1634)には50棟余の堂宇が建ち並ぶ大伽藍となった。 元和元年(1615)に火災により本堂を焼失した。
目黒の地は将軍家や御三家の鷹狩りの場所だったが、鷹狩り中に不明になった愛鷹が、不動明王の霊験により戻ったという徳川三代将軍家光(寛永寺開基)が特に目黒不動を篤く信仰、焼失した多くの堂宇を寄進した。

●「独鈷の瀧」を囲む石壁に彩色された2頭の龍の水口があり、口から滝のように湧水の御神水を吐き出ている。 湧水は湧き出してから現在まで1200年にわたり涸れたことがないらしい。 石壁上の傾斜地に様々な庚申塔や石仏が並んでいるが、特に上方に鎮座している主尊不動明王の剣に巻き付いた降魔の俱梨伽羅龍像の姿が興味深い。 独鈷の瀧の石段側に火焔を背負った水かけ不動尊像が鎮座し、参詣者に睨みを利かせている。 男坂と呼ばれる急な石段の前に、石燈籠と二段積みの台座の上に子連れの和犬型狛犬が鎮座している。
石段を上りつめると、雲一つない青空の下に大本堂の境内が広がる。 石段を上がった直ぐの両側に、都内最古とされる狛犬が向かい合って鎮座している。 愛嬌のあるユニークな顔立ちで、とくに阿形の方は大きな舌を見せて笑っているようでユニークだ。 胸部に「不動尊宝前」と刻まれた狛犬は江戸初期の造立の貴重なものだが、約370年間も露座しているのに殆んど劣化が見られないので驚いた。

△本堂への石段下の左側にある「独鈷の瀧」....石壁に設けられた2頭の龍の水口

△「独鈷の瀧」を見下ろすように石積みの上に立ち並ぶ庚申塔や不動明王などの石仏群....この湧水は「東京の名湧水57選」のひとつらしい....池の石壁に「慧光照無量」とある

△石壁の銅製の龍の口から湧水の御神水を吐き出している....湧水は湧きだしてから現在まで1200年にわたって涸れたことがないとされる/最上部に不動明王の梵字が刻まれた石塔「獨〇霊泉」....不動明王の剣に巻き付いた降魔の俱梨伽羅龍像

△「独鈷の瀧」の池の中に鎮座する舟光背型火焔を背負った水かけ不動尊像....手水鉢は天明八年(1788)の造立

△仁王門の正面奥の樹林の中に本堂境内への急な石段(男坂)がある

△石段(男坂)前に立つ文久二年(1862)造立の石燈籠と傍に和犬型の狛犬

△狛犬は石燈籠と同じ文久二年(1862)壬戌の造立....狛犬は干支から獅子ではなく犬....台座は文政十二年(1829)の造立/両方とも子連れの和犬型狛犬で石燈籠と同じ文久二年(1862)の造立

△樹林の中に造られた大本堂が建つ高台の境内への急な石段/石段は「男坂」と呼ばれ、下の平地境内に建つ地蔵堂の後方に「女坂」がある

△石段を上りつめた所から眺めた境内

△「男坂」を上り切った処に本堂を向いて鎮座する狛犬....承応三年(1654)の造立で、胸部に「不動尊宝前」などと刻まれている/約370年前の造立で都内最古の狛犬とされる

●境内の正面に丹塗りの大本堂が建っている。 昭和期再建の鉄筋コンクリート造りだが、懸造り風で荘厳さを感じさせる。 大本堂は踊り場に常香炉が置かれた大きな階段の上に建つが、鳥が大きく羽を広げたように軒が大きく張り出して深い。 また、身舎の屋根が隠れるほどに大きな千鳥破風を乗せていて堂々たる構えだ。 大本堂境内の東側に、羽目が漆喰造りとみられる袴腰付きの鐘楼堂が建つ。

△入母屋造本瓦葺で大きな千鳥破風を乗せた大本堂....昭和五十六年(1981)再建の鉄筋コンクリート造り

△都内最古の狛犬の傍に立つ「百度石」/大本堂階段下に佇む安政六年(1859)と宝暦三年(1753)造立の石燈籠

△石段を上りつめた直ぐ右手に鎮座する青銅製の宝塔/軸部は周囲に逆蓮頭を乗せた高欄を施し、高欄四面の中央に仏坐像を配している

△石燈籠越しに眺めた大本堂....身舎正面に唐破風を設けた銅板葺の庇の三間の向拝

△正面七間側面五間で、中央間三間は両折両開きの扉、両脇間二間は板扉と連子窓

△向拝三間の両側に彩色を施した水引虹梁....虹梁上に脚間に彩色彫刻を配した本蟇股、両端に彩色された木鼻

△千鳥破風の大棟端に鳥衾を乗せた鬼瓦、拝は猪ノ目懸魚、妻飾は彩色装飾を施した混成複合式....唐破風に鳥衾を乗せたヒレ付き鬼瓦

△中央間三間は黒漆塗りの両折両開の板扉

△中央間の縁に下がる「目黒不動尊」の大きな提灯/△軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手目が尾垂木の二手先、中備は間斗束、素式の軒天井と支輪がある

△周囲に擬宝珠高欄付き切目縁....側面五間は2つの連子窓、引戸の板扉、3段引戸の格子戸そして白壁

△本堂境内の東側に建つ鐘楼堂

△入母屋造本瓦葺の袴腰付き鐘楼堂

△羽目は漆喰の袴腰(と思う)....周囲に組高欄付き切目縁

△軒廻りは二軒扇垂木、組物は出組で中備は間斗束....軒天井と支輪がある


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瀧泉寺-(1) (東京)

2022年11月19日 | 寺社巡り-東京

【東京・目黒区】平安時代の大同三年(808)、十五歳の円仁(慈覚大師)が下野国から伝教大師最澄のもとへ赴く途中、目黒の宿で霊夢を見て開創とされる。 その後、円仁は唐に渡り、長安の青龍寺で修行中に霊夢に登場したのが不動明王だと知り、帰国後の天安二年(858)、不動尊像を彫刻してこの地に堂宇を建て安置した。
貞観二年(860)、清和天皇(第56代)から「泰叡」の勅額を下賜され、山号を「泰叡山」と称した。 本尊不動明王から一般に「目黒不動(目黒不動尊)」通称で呼ばれ、関東最古の不動霊場。 宗旨は天台宗で、本尊は不動明王像。 関東三十六不動霊場第18番札所、江戸三十三観音霊場第33番札所(結願寺)、江戸五色不動の第一。

●JR目黒駅から行人坂を下り、坂の途中にある大圓寺を拝観した後、目黒川に架かる太鼓橋を渡って瀧泉寺に。 仁王門前の参道脇に伏見稲荷が鎮座し、傍に「比翼塚」と彫られた石碑が佇んでいる。 仁王門をくぐる前に、門前西側の放生池らしき池がある飛地に鎮座する三福堂と豊川稲荷に向かう。 朱塗りの明神鳥居が立つ入口に「江戸最初 山手七福神 恵比寿神」の石柱が立つ。 正面の切目縁に恵比寿様が鎮座する三福堂と豊川稲荷を拝観してから仁王門に向かう。 門前に「目黒不動尊」の提灯がある仁王門は、昭和中期再建の鉄筋コンクリート造りだが風格を感じさせる。

△仁王門前の参道脇に鎮座する伏見稲荷と比翼塚

△切妻屋根の覆屋に鎮座する明神鳥居(台輪がないので稲荷鳥居ではない)を構えた伏見稲荷の社殿/比翼塚

△境内前の飛地に鎮座する三福堂と豊川稲荷への朱塗りの明神鳥居....「江戸最初 山手七福神 恵比寿神」の石柱が立つ

△正面が切妻造桟瓦葺の三福堂、右手に豊川稲荷、左脇にも稲荷社が鎮座....堂前の石燈籠は文化九年(1813)の造立

.△切妻造桟瓦葺の三福堂/△山手七福神の恵比寿神を祀る三福堂....向拝縁に鎮座する恵比寿神像はお前立か?

△三福堂左脇に鎮座する福珠稲荷大明神....6匹の狐が護る石造りの社殿/入母屋造屋根に千鳥破風を乗せ、唐破風向拝の軒下に鳳凰と龍の彫刻を配す

△豊川稲荷に構えた2基の朱塗りの鳥居....奥は稲荷鳥居とみられるが、手前は稲荷鳥居と鹿島鳥居とを合わせたような造り

△狐像に護られた豊川稲荷

△流造銅板葺で屋根に千鳥破風を乗せた豊川稲荷....千鳥破風の妻に鳳凰、水引虹梁の上そして小脇羽目に龍の彫刻が配されている/放生池の畔に佇む石燈籠と石祠

△三福堂境内から放生池越しに眺めた仁王門

△入母屋造本瓦葺で三間一戸の仁王門(楼門)....上層に「泰叡山」の扁額、戸口両側の金剛号柵の中に金剛力士像が鎮座

△戦災で焼失した仁王門は昭和三十七年(1962)再建の鉄筋コンクリート造り

△軒廻りは一軒繁垂木、組物は二手先、中備は間斗束....支輪と軒天井がある

△大棟端に鳥衾を乗せた鬼瓦、拝に蕪懸魚(と思う)、妻飾は豕扠首

●仁王門の戸口を通して正面奥の樹林の中に本堂への石段が見える。 境内は台地と平地の境目に造営され、台地の高台には大本堂と鐘楼堂が建ち、下の平地には仁王門や阿弥陀堂などの諸堂がある。 まずは平地の西側境内を散策。 西端に地蔵尊像が半肉彫りされた板碑型三界萬霊塔が平地の境内を見守るように鎮座。 北側の一段高い所に木々を背にして不動堂、勢至堂(改修中)が南面で、朱塗りの前不動堂が東面で建ち並んでいる。 江戸中期建築の前不動堂の前に珍しい狛犬が鎮座している。 狛犬は和犬型でまさに犬の像。 しかも力なく首を前に垂れた像容で、まるで飼い主に叱られて気落ちした犬が両手をついて謝っているような姿にみえて面白い。 本堂への石段の下の左側に「獨鈷の瀧」と呼ばれる池があり、池の前に清水で身を清める垢離堂が建っている。 垢離堂も江戸中期の建築で、前不動堂と同様戦災を逃れて焼け残った遺構だ。

△仁王門から眺めた境内....樹林の奥の一段高い位置に本堂が建つ

△切妻造りの覆屋に鎮座する舟光背型石仏の北向六地蔵尊像

△板碑型三界萬霊塔....台座の正面に蓮華が浮き彫り(と思う)/中央に蓮華座に鎮座する半肉彫りの地蔵尊像

△覆屋で守られた流造銅板葺の不動堂     .不動堂に鎮座する腰立不動像

△前不動堂の左方に建つ宝形造の勢至堂(改修中)....江戸時代中期の建築で勢至菩薩を安置/勢至堂の近くに立つ宝篋印塔..塔身に「華経」の銘

△「千家茶塚」(と思う)と彫られた石碑/明治四十四年(1911)造立の青木昆陽の顕彰碑(左)、右は「甘藷講」と彫られ明治三十一年(1898)造立の石碑....奥の建物は前不動堂

△独鈷の滝の左方の一段高い位置に建つ朱塗りの小堂は前不動堂

△露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺で三間四方の前不動堂....江戸時代中期の建立

△前垂れをした珍しい和犬型の狛犬....両狛犬ともうな垂れた像容

△軒廻りは一軒繁垂木で組物は舟肘木....中央間に飾り金具を施した桟唐戸、両脇間に連子窓、向拝に鰐口が下がる

△獨鈷の瀧の前に建つ霊水で身を清める垢離堂....不動講の水垢離場

△宝形造桟瓦葺の垢離堂....江戸時代中期建立の仏堂で、戦災を逃れた遺構
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧岩崎邸庭園-(2) (東京)

2022年09月07日 | 寺社巡り-東京

【東京・台東区】旧岩崎家住宅に建つ洋館・和館・撞球室(ビリヤードルーム)の内、洋館と撞球室はイギリス人建築家のジョサイア・コンドルによる設計の西洋木造建築。 迎賓館としての役割をもった洋館は、17 世紀の英国ジャコビアン様式を基調として建てられ、館内の随所にジャコビアン様式の見事な装飾が施されている。 また、イギリスルネサンス様式やイスラム風のモティーフなど様々なスタイルが取り入れられている。

●客室・婦人客室・書斎に面して1階の東側に明治後期に増築されたサンルームがある。 台形に角度をつけて張り出したサンルームは、全面に大きなガラス窓をめぐらし、午前の陽射しが燦燦と入り込む造りだ。 サンルームからは洋館と地下通路で繋がっているスイスの山小屋風の撞球室が見える。 客室と書斎に挟まれた婦人客室…天井はシルクのペルシャ刺繍が施された布張り、またイスラム風の装飾などが施された優雅な部屋だ。

△洋館1階の東側に設けられたサンルーム....明治後期に増築されたとされる

△案内板に「室内から台形に角度をもって張り出したベイウインドーがデザインに採り入れられている。暖房を補う役割があった」とある

△前庭の井戸のように見える四角形の石組は、洋館と撞球室を結ぶ地下通路の通気口/非公開の地下道の案内板....千香通路の全面に白い焼き付けタイルが貼られ、天井には明り取りのためガラスがはめ込まれている

△サンルームから眺めたゴシック様式の撞球室(別途投稿)

△中央ホール側の出入り口から眺めたサンルームに面した1階婦人客室

△婦人客室の 天井はシルクのペルシャ刺繍が施された布張り/部屋のコーナーにイスラム風のアーチが施されている

△婦人客室の暖炉....周囲にイスラム風の装飾が施されている

△イスラム風アーチの下に置かれた岩崎家のガラス食器/一階の客室に使われている寄木のサンプル

△婦人客室の出入り口を通して眺めた中央とファサードのホール

△婦人客室の北隣りにある書斎への出入り口....左は撞球室への地下道への階段と二階への大階段がある

●書斎には唯一、1820年設立のビクトリア朝時代の英国家具メーカー製のキャビネットが置かれている。 中央ホールの北側に2階ホールの床を支える蔓草文様が装飾された列柱が台座の上に立ち、少し奥に撞球室に繋がる地下通路への階段と2階への大階段がある。 大階段は3面の壁にへばりつくように設けられていて、階段を支える支柱がない。
2階の中央ホールの周りには、南側にベランダに面した集会室と客室、東側に婦人客室、北側に客室など、そして西側の廊下の奥にトイレがある。 2階の婦人客室は1階のそれに近い造りで、東側に張り出た所に矩形テーブルと椅子が置かれていて趣がある。 2階のベランダ側の客室は、貴重な金唐革紙の壁紙が貼られた豪華な部屋とのことだが....壁紙に顔を近づけてみてなるほどと思った。

△書斎への中央ホールの出入り口/サンルーム側から眺めた書斎....出入り口の正面にキャビネット(書籍棚)、手前左手の壁に暖炉がある

△キャビネットは1820年に英国ロンドンで設立されたビクトリア朝時代の家具メーカー・ハワード&サンズ社製/書斎の暖炉

△書斎に置かれた洋館と撞球室の模型

△洋館の正面(北側)

△洋館の東側(サンルーム側)

△中央ホール北側にある2階への三折れ大階段....右側は洋館と撞球室とを結ぶ地下道への階段(螺旋階段?)

△台座の上に2階ホールを支える装飾された双子の列柱....施されたジャコビアン様式の装飾(革紐模様)が美しい

△装飾性の高い意匠の手摺りを設けた大階段....階段を支える柱が無い

△2階中央ホール側の出入り口から眺めた婦人客室....婦人用の寝室

△東側に張り出た位置に置かれた矩形テーブルと椅子

△矩形テーブル....岩崎久彌邸洋館で使用されていたもの

△椅子の由来は不詳....矩形テーブルは昭和二十四年(1949)から4年間、岩崎邸を活動の拠点としていた学校法人聖公会神学院が教室などで使用していたもので、寄贈を受けた

△東側の2階の婦人客室と扉で繋がったベランダ側の客室(コネクティングルーム)....金唐革紙の壁紙を用いるなど豪華な客室

△2階客室の暖炉/客室に貼られている貴重な金唐革紙の壁紙

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寛永寺-(8) (東京)

2022年07月25日 | 寺社巡り-東京

【東京・台東区】大正十二年(1923)の関東大震災や太平洋戦争(昭和十六年(1941)~二十年(1945))の空襲などで被災したが、戦後は新たに霊園を造成するなどして復興した。 上野戦争、関東大震災そして太平洋戦争で焼失を免れて現存する清水観音堂、輪王寺門跡御本坊表門、徳川将軍霊廟勅額門などが重要文化財に指定され、往時の雰囲気が偲ばれる。

●不忍池から上野恩賜公園の高台に建つ懸造りの清水観音堂に向かう。 高台の裾から清水観音堂を見上げると、張り出した舞台の中央の前庭に「月の松」と呼ばれる一本の松がある。 歌川広重の「名所江戸百景」に由来する松で、樹冠の一部が輪になっていて、まるで「茅の輪」のようだ。
脇に重厚な3基の石燈籠がある「清水坂」と呼ばれる石段を上って清水観音堂に。 後から知ったが、観音堂の北側に石段の参道があり、南側の「清水坂」は参道ではなく公園内の石段ようだ。 石段を上りつめると、金属製の柵で囲まれた境内に丹塗りの清水観音堂と手前に手水舎が建つ。 手水舎は屋根の各部に三つ葉葵紋を配していて威厳を感じさせる。 清水観音堂への正規の入口は参道側の舞台脇なのだが、何故か手水舎は南側にある。

△上野恩賜公園の高台に建つ清水観音堂....上野の山に現存する創建年代が明確な最古の建造物/寛永寺の開山・慈眼大師天海大僧正による創建で、京都清水寺を模して建てた懸造り(舞台作り)

△入母屋造本瓦葺で舞台造りの清水観音堂(重文)....寛永八年(1631)、上野公園内の「擂鉢山」に創建され、禄七年(1694)に現在地に移転

△清水観音堂は京都清水寺の義乗院春海上人から同寺に安置されていた千手観世音菩薩像が天海大僧正に奉納されたことにちなみ建立された

△観音堂の南側にある脇に3基の石燈籠が立つ石段は「清水坂」という

△清水坂の石段から眺めた舞台造り(懸造り)の清水観音堂

△清水坂を上りつめた公園の南側から眺めた清水観音堂

△側面は四間で、側面と背面に御母子高欄付き切目縁/大棟に鳥衾を乗せた鬼瓦、拝みに三つ花懸魚、妻飾りは豕扠首

△切妻造銅板葺で起り屋根の手水舎....大棟、鬼板そして破風板に三つ葉葵紋が施されている

△正面に「洗心」と「卍」が彫られた手水鉢/水口は龍で、口から手水鉢に浄水が注がれている

●清水観音堂の不忍池側の丹塗りの柵が施された舞台に上がる。 観音堂の正面は五間で、中央間に板唐戸、脇間は全て蔀戸になっている。 中央間に「施無畏」と書された扁額が掲げられ、垂木から鰐口と鈴紐が下がっている。
観音堂に向かって左側に、参道を跨ぐように架かる花頭窓を設けた白壁の渡り廊下があり、その先の御堂と繋がっている。 御堂名は調べたが分からずだ。
舞台の前庭にある「月の松」の輪を通して、美しく緑青が浮き出た銅板葺八注屋根の不忍池辯天堂が遠望できる。 しかし、舞台から眺望できるはずだった不忍池の景観が、前庭に繁る木々に遮られて....。

△観音堂の側面は四間、舞台側一間が蔀戸で他は横羽目板

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は出三ツ斗....長押と丸桁の間の小壁は総て羽目板

△観音堂の正面は五間で、中央間に飾金具を施した両折両開の板唐戸、両脇間は蔀戸

△観音堂の向かって左側が参道からの入口....中央間に「施無畏」の扁額が掲げられ、軒下の垂木から鰐口と鈴紐が下がる....観音菩薩は「施無畏者」と呼ばれ観音菩薩の働きのことを意味す

△観音堂内陣の厨子内に安置されている本尊・千手観世音菩薩(秘仏)は平安時代の比叡山の高僧・恵心僧都の作(伝)

△観音堂と北側に立つ御堂を結ぶ白壁に花頭窓を配した渡り廊下....廊下の下に参道が通っているが撮影を失念

△観音頭の北側に建つ入母屋造銅板葺の御堂....軒廻りは一軒繁垂木、組物はなく舟肘木で丸桁お支えている

△御堂の周囲に組高欄付き切目縁/大棟に鳥衾を乗せた鬼板、拝みに猪ノ目懸魚、妻飾りは豕扠首

△参道の両側に佇む異なる形の2基の燈篭

△清水観音堂は京都清水寺と同じ舞台作り

△清水観音堂の舞台前にある.樹冠の一部が茅の輪のような「月の松」....「月の松」は歌川広重の「名所江戸百景」に描かれている....明治初期の台風で消失したが150年ぶりに復原された



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寛永寺-(7) (東京)

2022年07月19日 | 寺社巡り-東京

【東京・台東区】明治十二年(1879)、寛永寺の復興が認められ、川越喜多院(天台宗の寺院)から現在地(旧子院大慈院跡)に本地堂を移築、根本中堂として再建された。 明治十八年(1885)、輪王寺門跡の門室号が下賜され、天台宗の高僧を輪王寺門跡門主として寛永寺に迎えて再出発した。

●上野大仏パコダから不忍池の中之島に鎮座する寛永寺・不忍池辯天堂に向かう。 不忍池の中之島に鎮座する不忍池辯天堂への提の参道の入口に「東叡山寛永寺辯天堂」と彫られた寺号標石が立ち、その傍に、竿から下が石造りの珍しい青銅製燈籠が佇む。 参道の先に瓦葺と銅板葺屋根の社殿が東面で建つが、社頭に社殿を隠すようにたくさんの提灯が吊り下げられている。 参道を進むと反橋が不忍池に架かり、左脇に手水舎が建ち、水口の龍の口から吐き出された浄水が竹筒を通って手水鉢の外に垂れている。
拝殿の階の下に、髑髏を巻いた蛇の上に老翁の頭部を持つ宇賀神が鳥居を構えて鎮座している。提灯をくぐって拝殿に。 正面三間はいずれにも両折両開の飾金具を配した板扉で、各扉の真ん中に輪宝が描かれている。 拝殿を覗くと奥に厨子があってお前立の像が鎮座しているように見えるが....。

△「東叡山寛永寺辯天堂」と彫られた寺号標石....昭和四十九年(1974)の造立/青銅製燈籠は宝暦十年(1760)の造立....竿から下の基礎は珍しい造り

△昭和五年(1930)造立の石造り反橋....元は寛文年間(1661~1672年)に石橋が架橋された

△切妻造銅板葺で起り屋根の手水舎....垂木の木口や組物・木鼻に胡粉を施している

△水口の龍の口から吐き出される浄水は,正面に洗心と彫られた手水鉢の外に流し出されている/池の袂に立つ「不忍池」と彫られた石碑

△軒に紙垂を付けた注連縄が張られ、「不忍池 辯天堂」の提灯が下がる

△手水舎越しに眺めた不忍池辯天堂

△不忍池辯天堂は江戸初期の寛永年間の創建....東叡山寛永寺の開山・慈眼大師天海大僧正と備中松山藩主水谷伊勢守勝隆により創建された

△不忍池の中之島(弁天島)に鎮座する不忍池辯天堂には煩悩を破壊する道具(武器)を持つ「八臂辯才天」(伝慈覚大師作)が祀られている....「八臂辯才天」は谷中七福神の弁財天

△不忍池辯天堂は手前の瓦葺の拝殿と後方の八角の銅板葺の本殿が繋がった一体構造....現在の御堂は昭和三十三年(1958)の再建

△鳥居を構えた宇賀神(宇賀神弁才天)石像....天台宗の教学に取り入れられた蛇神と仏教の神・弁才天が習合(合体)した像で、宇賀神弁才天とも呼ばれる/.蓮華座に鎮座する髑髏を巻いた蛇の上に老翁の頭を持つ宇賀神

△社頭に下がる奉納された沢山の提灯を通して眺めた拝殿入口

△拝殿正面は三間で、三間いずれにも両折両開きの飾金具を配した板扉

△本尊・八臂辯才天は秘仏で、厨子前に身代りとして鎮座するお前立ちの弁財天像が小さく見える

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は平三つ斗、中備は中央間に脚間に彩色された彫刻を配した蟇股、脇間に間斗束

△拝殿の側面に連子窓、高欄付き縁が後方の本殿迄延びる/各扉の中央に描かれた輪宝....軒に下がる2基の釣燈篭

●社殿を左回りに拝観する。 奥行二間の拝殿と幣殿の側面そして本殿の左右(南北)に緑色の連子窓が設けられている。 八注造銅瓦葺の本殿は一見すると二階建に見えるが、多分、身舎に庇を設けた造りなのだと思う。
不忍池辯天堂前の参道の北側の少し奥まった所に、寛永寺伽藍の一つである大黒堂が建ち、高札風の立て札に「豊太閤護持 大黒天堂」とある。 本尊は上野戦争や太平洋戦争の戦火を逃れた大黒天像で、豊臣秀吉が護持していたものとされる。 ライバルだった豊臣秀吉の墓を破壊するほど秀吉に険しかった家康が、徳川家の菩提寺・寛永寺の境内に豊臣秀吉護持の天像を祀っている理由を調べたが....。 秀吉の妹旭姫を正室として迎えた「義兄」だったためでは....と勝手に想像しながら、最後の伽藍の清水観音堂に向かった。

△切妻造本瓦葺の拝殿(右)....側面二間で、大棟端に鳥衾を乗せた鬼板、拝に猪目懸魚、妻飾は二重虹梁蟇股式

△八注造銅瓦葺(本瓦葺風銅板葺)で庇を設けた本殿....軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組、中備は間斗束

△拝殿と幣殿の側部を含め、本殿の上下の白壁の左右側部に緑色の連子窓、周囲に組高欄付き縁....渡り廊下の左手に庫裏が建つ

△社殿後方の不忍池の辺に鎮座する流造銅板葺の祠....周囲を丹塗りの鉄柵で囲まれていて参拝に違和感を感じる

△不忍池辯天堂前の参道から眺めた大黒堂....寛永寺伽藍の一つで創建時の御堂は第二次世界大戦で焼失、現御堂は昭和四十三年(1968)の再建....本尊の大黒天像は豊臣秀吉が護持した像とされ、戦火を逃れた

△入母屋造桟瓦葺の不忍池大黒堂....正面三間の一間は獅子口を乗せた銅板葺唐破風の向拝

△周囲に擬宝珠高欄付切り目縁、中央間は連子を入れた桟唐戸、両脇間は白壁と腰羽目板

△水引虹梁の上に脚間に彫刻を配した本蟇股,上野梁の上は変形の蟇股か

△長押の上は小壁で、組物と中備はなし、柱で直接丸桁を支えている、向拝柱は礎盤上に立つ面取り方柱/向拝前に回向柱が立ち、常香炉が置かれ、高札風の「豊太閤護持 大黒天像」と記された立札がある

△辯天堂の東側の高台に建つ清水観音堂の舞台から茅の輪のような「月の松」を通して眺めた不忍池辯天堂

△清水観音堂からズームアップで眺めた美しく緑青が浮き出た銅板葺八注屋根の不忍池辯天堂


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寛永寺-(6) (東京)

2022年07月13日 | 寺社巡り-東京

【東京・台東区】慶応四年(1868)、江戸開城後、寛永寺に立てこもった旧幕臣らの彰義隊が明治新政府に反抗して起きた上野戦争により、寛永寺は戦場と化した。 その時、官軍の放った火によって全山の伽藍の大部分が灰燼に帰し、明治政府によって広大な境内地の多くが新政府によって没収され、寛永寺は壊滅的な打撃を被った。

●上野東照宮を拝観した後、上野大仏パコダ(祈願塔)に向かう。 大仏パコダ境内への石段下に、塔身に梵字を刻んだ宝塔と赤い前垂れをした地蔵尊像が大仏パコダを見守るように鎮座。
階を上がって大仏パコダ境内に....狭い境内の真ん中にミヤンマー様式のパコダが建ち、薬師三尊が安置されている。 上座部仏教ではパコダには釈迦仏の遺品(遺骨や聖髪など)が納められるが、薬師仏が間借りしているようだ。 パコダを拝観していて、タイのナコーンパトムという町にある黄金色に輝く世界最大のパコダを思い出した。

△大仏パコダ境内前の石段下に鎮座する宝塔、地蔵尊立像、そして萬霊供養塔越しに眺めたパコダ

△赤い前垂れをした地蔵菩薩立像....如意宝珠を持つ左手が破損しているようだ/塔身(軸部)の月輪に梵字が彫られた宝塔....基壇の四隅に高欄風の隅飾りを設けている

△昭和四十二年(1967)建立のパコダ(祈願塔)....上野観光連盟が願主となり、大成建設による寄進で、仏殿の跡地に建立された

△パコダ(祈願塔)はミャンマー様式で造営された仏塔....パコダ前に置かれた常香炉の台座部は石燈籠の中台下を用いたような造り/露盤の月輪に薬師如来の梵字(ベイ)、花頭曲線の入口の扉の上に「本尊 薬師如来」の額

△内部の中央に薬師如来、左に月光菩薩、右に日光菩薩を安置.....薬師三尊像は江戸時代末まで上野東照宮境内に建っていた薬師堂の本尊....明治初期の神仏分離令により寛永寺に移管、さらにパゴダの本尊として祀られた

△パコダ右側面の入口....扉に法輪が描かれている         パコダの背面

△境内の隅に鎮座する不動明王の石仏....「野辺の石に仏を見る」とあるので石を不動明王に見立てているようだ

●また境内には、本尊の薬師如来を見守るかのように上野大仏の釈迦如来の大きなお顔が鎮座する。 緑青が浮き出たお釈迦様のお顔は予想していたより大きく感じたが....高さ6メートルの巨大な坐像ならと納得。 額の真ん中に大きな白毫があり、口唇に僅かに茶色の部分がある。 彩色が残っているのかなと思ったが、よ~く見ると緑青が離れて地金の銅がみえているようだ。
大仏パコダ境内から不忍池の方向に、高い基壇の上に鐘楼が見える。 上野精養軒近くに建つ時鐘堂で、江戸中期改鋳の梵鐘が下がるが、近づいての拝観ができずだ。

△千鳥破風を乗せた銅板葺(と思う)の覆屋に、パコダに向かって鎮座する釈迦如来像の顔面部....左右に沢山の「合格大仏」の絵馬

△釈迦如来銅像の上野大仏(顔面部)....寛永八年(1631)、越後国村上城主の堀丹後守直寄公が戦乱に倒れた敵味方の冥福を祈るためこの地に建立

△緑青が浮き出た銅仏だが当初は漆喰で造立されていた....額の真ん中に大きな白毫、口唇の僅かな茶色は彩色ではなく、緑青が剥がれて地金がみえているようだ

△大正十二年(1923)の関東大震災で頭部が落下する前の姿....仏殿(覆堂)が明治八年(1875)に取り払われて露座に....仏像は高さ約6メートル/案内板に「お体は第二次世界大戦時に供出された」とある

△上野大仏の由来などが記された案内碑

△上野大仏境内から眺めた近くに建つ時鐘堂....江戸時代には周辺に時を知らせる「時の鐘」として機能した

△入母屋造本瓦葺の時鐘堂....高い基壇の上に建ち、周囲に連子子を入れた高欄を設けている

△一軒繁垂木、大棟に鳥衾を乗せた鬼板、拝に猪の目懸魚、妻飾は豕扠首

△梵鐘は天明七年(1787)に改鋳      梵鐘の正面に「東叡山大銅鐘」と刻まれている


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野東照宮-(2) (東京)

2022年07月07日 | 寺社巡り-東京

【東京・台東区】慶応四年(1868)、江戸城無血開城を不満とした彰義隊が上野寛永寺に立て籠もって抵抗した上野戦争で、寛永寺の堂宇は戦火で殆んど焼失したが、上野東照宮は奇跡的に焼け残った。 上野東照宮は神仏習合により明治以前は東叡山寛永寺の一部だったが、明治元年の神仏分離令で神社として独立した。
大正十二年(1923)の関東大震災や、昭和十六年~昭和二十年((1941~1945)の太平洋戦争での戦火を逃れた。 五重塔は上野東照宮の所属だったが、明治元年(1868)の神仏分離令発布で寛永寺に移管された。 昭和三十三年(1958)に東京都に譲渡され、現在は上野動物公園の敷地内にある。

●唐門前の参道の両側に計48基の銅燈籠が立ち並ぶ。 諸国の大名が東照大権現霊前に奉納したものだが、整然と立ち並ぶ銅燈籠はなんとなく神前に平伏す大名たちの姿に見えた。 少し先の参道脇の三つ葉葵紋を入れた台座に一対の狛犬が鎮座するが、阿形・吽形ではなく二体とも阿形の像で珍しく、京都清水寺の仁王門前の狛犬を思い出した。 両体阿形なのはお釈迦政の教えを大声を出して広めるためとか。
唐門右側の透塀の前に、幕が張られた工事用の柵が置かれていて残念なのだが、透塀と金色に輝く風雅な唐門そして千鳥破風を乗せた拝殿の美しく緑青が浮き出た銅瓦葺の屋根が重なった光景は神々しく威厳に満ちている。 唐門の扉は上に唐草格子(花狭間)を入れた桟唐戸で、両側に左甚五郎作の「昇り龍と降り龍」の彫刻が配されている。
また、混成複合式の唐破風の妻飾りは、極彩色の松竹梅と金鶏鳥などの彫刻を配した彫刻充填式で見事だ。 唐門左右の透塀の前に6基の銅燈籠が佇むが、徳川御三家(紀伊・水戸・尾張)から寄進されたもので国宝だそうだ。

△手水舎前の参道から眺めた社殿....唐門前の右手にもうひとつの手水舎が建つ

△手水舎の後方と対面側に計48基の銅燈籠が建ち並ぶ

△超巨大な鈴が下がる手水舎の後方の銅燈籠群

△銅燈篭は諸国の大名が寛永・慶安年間に東照大権現霊前に奉納したもの

△参道左右に鎮座する狛犬から眺めた上野東照宮の正面....唐門と重なる後方の建物は拝殿の屋根

△参道脇の三つ葉葵紋を入れた台座に鎮座するの獅子の狛犬....京都清水寺の仁王門前の狛犬と同じでいずれも阿形像

△唐門と左右に透塀、後方は千鳥破風を乗せた入母屋造銅瓦葺の拝殿....唐門、透塀、社殿はいずれも慶安四年(1651)に第三代将軍徳川家光により改築

△社殿を囲む透塀の間に建つ極彩色に装飾された唐門(重文)....慶安四年(1651)の建築で、正面前後に唐破風を設けた向唐門形式

△唐門は荘厳な唐破風造り四脚門で、両側に三つ葉葵紋を入れた桟唐戸の通用口がある

△唐破風大棟の鬼板、破風の飾金具に三つ葉葵紋を配し、兎毛通は蕪懸魚、頭貫の木鼻は正面を向いた阿吽形の獅子/扉は上に唐草格子(花狭間)を入れた桟唐戸、扉の上に亀甲花菱

△扉の左右に設けられた左甚五郎作の昇り龍と降り龍の彫刻

△妻飾は混成複合式で、虹梁のほか蟇股・大瓶束が混成している

△彫刻充填式ともいえ、三つ葉葵紋を配した虹梁の上の大瓶束の両側に松竹梅と金鶏鳥の彫刻を施す....室町・桃山の技術を集大成した傑作

△唐門の前両側に立ち並ぶ6基の銅燈籠(国宝)....6基の銅燈籠は紀伊・水戸・尾張の徳川御三家から各2基が寄進されたもの

●透塀の隙間から社殿を覗くが境内に人気が無く、また、社殿は非公開だと勘違いして引き返した。 参道から柵越しに上野動物園の敷地内にある五重塔の姿を拝観する。 木立に隠れるように聳える五重塔は江戸初期の建立で、古建築の美しさと風格、そして約400年の歴史の重みを感じさせるが、軒下の意匠や装飾彫刻などが良く見えず残念だった。
神門(手舎門)前から右に折れて「お化け燈籠」に向かう。 樹木を抜けたところの芝生に、燦燦と陽を浴びて立つ巨大な石燈籠がある。 奉納した譜代大名の名前がついた「佐久間燈籠」と呼ばれ、日本三大灯籠の一つにも数えられている高さ約6メートルの巨大さから「お化け燈籠」といわれるようになったようだ。 それにしてもデカイ!

△銅燈籠越しに眺めた拝殿向拝の唐破風と屋根に乗る千鳥破風....社殿境内は非公開と思って離れ、撮影を失念した

△上野東照宮の入母屋造銅瓦葺の拝殿(NETから拝借)....正面五間で中央間三間は桟唐戸、両脇間は蔀戸....社殿は拝殿と本殿を幣殿(石の間)で繋ぐ権現造り構造

△社殿境内の拝殿越しに眺めた唐門(NETから拝借)

△参道北側の上野動物園の敷地内に聳える旧寛永寺五重塔(重文)....最上層のみ銅瓦葺で、初層~4層目は本瓦葺屋根

△寛永寺建立当時の総奉行・老中土井利勝が寛永八年(1631)、現在地に上野東照宮の一部として五重塔を創建寄進したもの/寛永十六年(1639)の火災で焼失したが、同年に再建された

△心柱が釣られた懸垂式と呼ばれる建築構造で、心柱を大日如来に見たて、それを中心にして初層四方に釈迦・薬師・阿弥陀・弥勒の各如来仏が祀られている

△塔高約36メートルで、全層が和風様式建築....この塔は江戸初期を代表する優れた建築の1つ....軒廻りは各層いずれも二軒繁垂木で、組物は三手目が尾垂木の三手先

△各層の軒下角隅部には4頭ずつ龍の彫刻が配されている

△上野東照宮の参道から眺めた五重塔の初層....こちらが正面で中央間に板唐戸、両脇間に連子窓

△初層の桁を受ける支持材の蟇股に十二支が装飾されている(見えないが....)

△寛永八年(1831)に譜代大名佐久間勝之が奉納した巨大な石燈籠「佐久間燈籠」...「お化け灯籠」と呼ばれ、日本三大灯籠の一つにも数えられている

△石燈籠は高さ6.06メートル、笠の周囲3.63メートルで、その巨大さから「お化け灯籠」という名が付いた
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野東照宮-(1) (東京)

2022年07月01日 | 寺社巡り-東京

【東京・台東区】江戸初期の寛永四年(1627)、徳川家の重臣として仕え「築城三名人」の一人と称された藤堂高虎により、上野の高虎の敷地(旧忍ヶ丘)内に創建された。 社伝では、元和二年(1616)、危篤状態にあった家康が、高虎と家康に重んじられ政策にも参加した慈眼大師天海僧正に対し「自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしい」と遺言したとされる。
徳川家康は、逝去した翌年(元和三年)、朝廷より東照大権現の神名と神階正一位を受けて「神」となった。 東の比叡山として機能した東叡山寛永寺の一画に鎮座し、江戸での将軍家の権威を諸大名に示す象徴的存在だった。 現社殿は、慶安四年(1651)に家康の孫である第三代将軍徳川家光により改築されたもの。 主祭神は徳川家康(東照大権現)、八代将軍徳川吉宗、十五代将軍徳川慶喜の三将軍。

●寛永寺旧本坊表門から大噴水がある広場を通って上野動物園の南側に位置する上野東照宮に向かう。 両側に低い石垣があり、樹木の中に続く広い参道を進んで大石鳥居に。
備前の御影石で造られた大きな明神鳥居の柱に、「東照大権現」の文字と、造立年として徳川家康が逝去した日が小さく彫られている。 両側に笠と火袋に三つ葉葵紋を入れた石燈籠が立ち並ぶ参道の先に、左右に石を積み上げた壁の袖塀を従えた手舎門と呼ばれる神門が建つ。 照り屋根の神門は薬医門のように見えるが、親柱の無い四脚門で珍しい造りだ。 装飾性が高く、各所に三つ葉葵紋を配していて威厳を感じさせる。

△参道入口から眺めた樹木に囲まれた境内参道....奥に大石鳥居と神門が見える

△表参道に建つ柱に「東照大権現」と彫られた大石鳥居....備前の御影石を用いた石造明神鳥居で、家康が逝去した日である寛永十年(1633)の造立

△石造明神鳥居は大老酒井忠世による寄進/柱に酒井忠世の名と徳川家康が逝去した日の「寛永十年四月十七日」が刻まれている

△石燈籠越しに眺めた神門....火袋と笠に三つ葉葵紋を配した石燈籠は殆んど慶安四年(1651)の造立

△切妻造銅瓦葺の神門(重文)....慶安四年(1651)の建立

△照り屋根の神門は手舎門と呼ばれる....瓦屋根の袖塀は石を積み上げた壁のようだ

△神門は薬医門風の造りで、軒廻りは二軒繁垂木、軒先と飛燕垂木の間の茅負と甲(化粧材)に三つ葉葵紋を配した飾金具が施されている

△側面の台輪上に2つの雲肘木を乗せた出三ツ斗、上の三つ葉葵紋を配した梁に笈形付き大瓶束を置いて棟木を支えている

△中心に親柱がない四脚門風の造り....石燈籠後方の白鐘の透塀は「ぼたん園」を囲む塀

△破風に三つ葉葵紋を配した飾金具が施されている....正面の頭貫台輪上に3つの出三ッ斗を置く/頭貫の木鼻は禅宗様で渦紋が彫られている

△参道左手の「ぼたん園」の入口の切妻造桟瓦葺の門....門前左右の石燈籠に真田信繁(幸村)の兄・「真田伊豆守滋野朝臣信之」の銘が刻まれている

●神門から社殿への参道を眺めると、両側に重厚な石燈籠が整然と立ち並んでいる。 切石敷の参道を進むと、右手の柵の外に五重塔が聳え立つ。 五重塔は東京都に帰属し、隣接する上野動物園の敷地内にある。 更に社殿に向かって進むと、右側に銅板葺の神楽殿が建つが、都内随一とされるほど軒反りの屋根の勾配が美しい。
左側に手水舎があり、その右手に立っている銅燈籠は、多面体風の珍しい形をした格子状の火袋を備えていて一見に値する。 そこから少し先の右側にもうひとつ手水舎があって驚いた。 手水舎は軒下の木口・梁・蟇股などに彩色が施され、浄水が張られていない手水鉢が置かれている。 格天井から超巨大な鈴がぶら下がっていて吃驚….まさに「ナニコレ珍百景!」だった。

△神門から眺めた切石表敷の参道....両脇に立ち並ぶ石燈籠(200基以上)は殆んど、金色殿建立時に諸国の大名が寛永・慶安年間に東照大権現霊前に奉納したもの

△参道右手の柵内の上野動物園敷地に聳え立つ五重塔....昭和三十三年(1958)に寛永寺から東京都に譲渡された

△参道右手に建つ神楽殿....明治七年(1874)に深川木場組合による奉納

△入母屋造銅板葺の神楽殿....舞台周囲に組高欄を巡らす

△大棟に鳥衾を乗せ三つ葉葵紋を配した鬼板、拝は猪ノ目懸魚、妻飾は豕扠首....屋根の美しい勾配は都内随一とされる

△軒廻りは一軒疎垂木

△神楽殿前の参道から眺めた社殿....参道の左右に手水舎が建つ

△左手の手水舎の手前の参道脇に佇む明治九年(1876)造立の「東照神廟」の石碑....手水舎の左手に立つ火袋と笠に三つ葉葵紋を配した青銅製燈籠

△参道左手に建つ切妻造銅板葺の手水舎....石造り手水鉢の周囲を木造の枠を巡らせている

△手水舎の右脇に立つ銅製燈籠....左脇の燈籠とは火袋の形が異なり、すべて格子の多面体造り

△大棟に鳥衾を乗せた鬼板、拝は変形の三つ花懸魚/梁に大瓶束を置いて棟木を支えている

△梁や頭貫、木鼻に渦文の装飾を施している

△手水舎前の参道から眺めた参道右脇に建つひとつの手水舎

△切妻造銅板葺の手水舎

△手水舎は木口や梁や蟇股などに彩色が施されていて装飾性が高い

△慶安四年(1651)造立の手水鉢....水口が無く、浄水が張られていない/格天井から下がる巨大な鈴
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寛永寺-(5) (東京)

2022年06月26日 | 寺社巡り-東京

【東京・台東区】最盛期の境内地は、現上野公園を中心に約三十万五千坪、さらに大名並みの約一万二千石の寺領を有した。 大伽藍と多数の子院を誇り、室町時代創建の増上寺(浄土宗寺院)とともに徳川将軍家の菩提寺として繁栄した。

●開山堂境内の鐘楼、手水舎、珍しい形の手水鉢、寝釈迦石などを拝観した後、輪王殿に向かう。 開山堂と連なる輪王殿との間に唐破風の玄関があり、軒から下がる太い鎖樋が砂利を敷いた雨落溝に垂れ下がっている。
開山堂境内と輪王殿が建つ境内の間に、両境内を仕切るように植栽の垣根が設けられ、垣根の間に小さな桟瓦葺の門がある。 この門は、明治の文豪・幸田露伴ゆかりのもので、柱・梁・垂木が全て丸太で造られた簡素な腕木門で、明治期の木戸門のある”仕舞た屋”の風情を感じさせる。

△開山堂の切妻造桟瓦葺の鐘楼....四方に柱を支える支柱を設けている

△二軒繁垂木、頭貫上台輪と虹梁の間に雲肘木を乗せた蟇股、虹梁上に笈形付き大瓶束を乗せ棟木を支えている

△鐘楼に下がる梵鐘は慶安四年(1651)の鋳造....後方は山門の傍に建つ白壁の阿弥陀堂

△開山堂の前庭に建つ切妻造銅板葺の手水舎

△金属製の手水鉢の正面の装飾は植物文様....四脚は獅子像

△岩の上の龍が水口で,口から清水が手水鉢に注がれている/水口は3本爪の龍

△両側面に鶴像(首と頭)が配されている

△参道脇に置かれた寺紋と法輪を施した飾手水鉢と笠に三つ葉葵紋を配し、龍の蕨手を設けた青銅製燈籠/根本中堂境内に立つ銅燈籠はもと上野の大猷院(徳川家光)霊廟に奉納されたもの....火袋に天女、中台に龍の像が施されている

△庭内の仕切りの竹垣に囲まれた「御車返しの桜」と飾手水鉢....竹垣の間に置かれた「寝釈迦石」

△連なる開山堂と輪王殿の間にある唐破風の玄関

△玄関の軒から太い鎖樋が砂利を敷いた雨落溝に垂れ下がる/唐破風の梁と虹梁の間に連子を配している....扉は引き戸式の格子戸

△玄関右側の近代的な建物は輪王殿

△開山堂境内と輪王殿境内を仕切る垣根に設けられた門....明治の文豪幸田露伴旧宅の門で谷中から移築、代表作「五重塔」の主人公が現根本中堂建設の大工の棟梁がモデル

△切妻造桟瓦葺の腕木門(木戸門)....2本の柱を冠木(梁)で繋ぎ屋根を押せた簡素な門/柱や梁、垂木は総て丸太造りで、明治期の仕舞た屋の風情をとどめている

●腕木門をくぐって輪王殿が建つ境内に。 裳腰を設けた銅板葺の輪王殿は現代風の造りで、古建築造りの入母屋破風があるのでどうにか殿堂に見えるが....多目的会館とのこと。
輪王殿の正門である寛永寺旧本坊表門が、東京都道452号線の神田白山線に面して建つ。 この門は寛永寺旧本坊表門なのだが、門前に「東叡山輪王寺門跡」と彫られた寺号標石が立っていて、いささか混乱…寛永寺と輪王寺の関係がイマイチ分からない。 通称「黒門」といわれる真っ黒い旧本坊表門は薬医門形式で、向かって左側に中央戸口の半分の高さの潜門がある。 門扉には慶応四年の上野戦争の際の弾痕があるらしいが、中央戸口と潜門の扉に白っぽい小さな穴が散見されるがこれが銃弾の痕跡か? 本坊は徳川家光の時代に建てられた貫主(天台座主)の住坊だったのだが、それにしても本坊の門にしては豪壮すぎる構えで、小壁などに菊の御紋が配されていて近ずき難い雰囲気が漂う。

△開山堂に連なって右隣に建つ裳腰を設けた銅板葺の輪王殿....切妻破風の大棟に鳥衾を乗せ三つ葉葵紋を配した鬼板、拝は梅鉢懸魚、妻飾は狐格子(木連格子)

△切妻造本瓦葺の寛永寺旧本坊表門(重文)....寛永二年(1625)、天海僧正により現東京国立博物館の地に創建された....博物館の本館改築に伴い昭和十二年(1937)に現在地に移築され.輪王殿の正門に

△「東叡山輪王寺門跡」と彫られた寺号標石と寛永寺旧本坊表門....旧本坊表門は慶応四年(1868)の上野戦争で奇跡的に焼失を逃れた

△中央戸口の左側に通用口の潜門が付いていて中央戸口に比し高さが半分程....扉の穴は大き過ぎるので上野戦争時の銃弾の跡ではないと思う

△扉に八双金具(出八双)、猪ノ目を入れた六葉の釘隠、乳金具、柱に根巻金具を施している/各門扉に白っぽく見える小さな穴らしきものがあるが、これが慶応四年(1868)に起きた上野戦争の際の弾痕か?

△旧本坊表門は三間三戸風だが、中央戸口と左のみに潜門があるのみ

△軒廻りは二軒繁垂木、軒天井を設け、突き出した梁の上に雲肘木を乗せた平三ツ斗を置いて丸桁(軒桁)を支えている....小壁と門柱にオレンジ色の菊紋を配す

△大棟端に鬼瓦、拝に蕪懸魚、桁隠し(脇懸魚)は猪ノ目懸魚、妻飾は虹梁間斗束

△旧本坊表門は薬医門形式....左右の切石積みは袖塀と思うが....

△境内側から見た門....奥に見える白壁の建物は開山堂境内に建つ阿弥陀堂

△正面からみて右側の脇間には潜門が無く板張

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寛永寺-(4) (東京)

2022年06月20日 | 寺社巡り-東京

【東京・台東区】寛永寺は徳川将軍家安泰を祈願するために建てられた祈願寺だったが、先祖の位牌を納める菩提寺を兼ねるようになって霊廟が建てられた。 第六代将軍家宣の廟が増上寺に造営されて以降、幕末まで、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営された。
寛永寺霊園には徳川将軍15人のうちの6人(四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定)が眠っている。

●根本中堂から東京国立博物館の前の通りを進んで開山堂の門前に着く。 開山堂は寛永寺の境内地に建つ輪王寺のことで、寛永寺の伽藍の一部。 切石敷の広い門前に「両大師」と記された2本の高札風の立札が立ち、正面に建つ薬医門形式の山門の柱に「東叡山寛永寺 開山堂」と「厄除 両大師」の聯が下がる。 山門をくぐると直ぐ左手の塀際に地藏堂が建ち、赤い帽子と前垂れをつけた2体の地蔵尊石仏が安置されている。
両側に「厄除 角大師」と「大師御守護」の幟が立ち並ぶ切石敷参道の奥に開山堂が建つ。 正面は簡素な造りで、中央間には両折両開で連子を入れた桟唐戸、両脇間には上下二段ではなく一枚戸の蔀戸が配され、桟唐戸と蔀戸の内側は格子戸・格子窓そして上に菱格子欄間を設けている。 向拝の軒から太い鎖樋が吊り下がり、蓮を模した天水桶の中に導かれる。

△開山堂(輪王寺)の山門前....左右に「両大師」と記された高札風の立札、「両大師」と呼ばれるのは慈眼大師(天海大僧正)と慈惠大師(良源大僧正)とを祀ってることによる

△切妻造桟瓦葺でL字形銅板葺袖塀を設けた山門....門柱の左に「東叡山寛永寺開山堂」、右に「厄除両大師」の聯が下がる

△山門は薬医門形式で、両側にL字状に銅板葺の袖瓶を設けている

△垂木の木口と丸桁に金色の飾金具を施している....門扉は飾金具を施した桟唐戸

△山門の傍に立つ切妻造銅板葺の地蔵堂....赤い帽と前垂れを付けた2体の地蔵尊石像が鎮座

△地蔵堂の右隣に鎮座する青銅製の宝塔....台座に「法華塔」、塔身正面の軸部にバク(釈迦如来)の梵字を配す

△山門から眺めた開山堂....境内の切石敷参道の両側に立ち並ぶ「厄除角大師」の幟は、疫病神を降伏して自ら夜叉になったと伝える慈恵大師の災厄除け信仰によるもので、角がある大師像として描かれているらしい

△入母屋造本瓦葺の開山堂....創建は正保元年(1644)で、現御堂は平成五年(1993)の再建

△正面は五間で、中央間は連子を入れた両折両開の桟唐戸、両脇間二間は蔀戸

△桟唐戸の内側はガラス入り格子戸(引戸)で、上に菱格子欄間

△向かって左側の脇間....蔀戸は上下二段ではなく一枚戸、内側は格子窓に菱格子欄間

△向かって右側の脇間....蔀戸に飾金具を施している

△コロナ感染対策のようで、鰐口を鳴らす鈴緒が吊り上げられている....正面と側面に擬宝珠高欄付き切目縁

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組、中備は間斗束/大棟端に鬼瓦、拝に猪ノ目懸魚、妻飾は豕扠首

△向拝の軒から下がる太い鎖樋と蓮を模した天水桶

●山門の傍の右手に宝形造りの阿弥陀堂が建つ。 阿弥陀堂は三間四方の白壁の建物で、軒下の垂木や組物そして小壁なども白塗りでまさに白亜の仏堂だ。 中央の隙間の広い連子を入れた桟唐戸が大きく開いていて、堂内を覗くと阿弥陀如来坐像など円光を背負った3体の仏像が鎮座している。 阿弥陀堂には開山堂に掲示されていた「堂内撮影禁示」の表示がないので、3尊像を撮らせて頂いた。 前庭に鐘楼と古井戸の覆屋が建ち、古井戸は巧みに石を組んだ岩組で囲まれ、覆屋天井の棟木に水汲み用の滑車が取り付けられている。

△露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の阿弥陀堂....三間四方で基壇上に建つ

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備は中央に出組、両脇間に撥束....正面中央間に連子入り桟唐戸、両脇間に花頭窓

△阿弥陀堂の側面....三間の中央に花頭窓、中備は中央に出組(詰組)、両側に撥束を配す

△阿弥陀堂に鎮座する金色の円光を背負っている三尊仏....奥が阿弥陀如来像、手前右が虚空蔵菩薩像、左が地蔵菩薩像....虚空蔵菩薩像は右手が与願印を組み、左手で宝珠を持つ

△弥陀定印を結んで蓮華座に鎮座する阿弥陀如来坐像/右手に錫杖、左手に如意宝珠を持つ地蔵菩薩立像

△開山堂の前庭に建つ鐘楼と古井戸の覆屋

△切妻造桟瓦葺の古井戸と鐘楼、奥に白壁の阿弥陀堂が建つ

△礎盤の上に立つ方柱の上端に禅宗様の粽を施している

△巧みに石を組んだ岩組の古井戸、天井に滑車ある/棟木(棟桁)に固定された水汲み桶を吊るす滑車

△古井戸の岩組は正保二年(1625)の造立


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寛永寺-(3) (東京)

2022年06月14日 | 寺社巡り-東京

【東京・台東区】山主は朝廷から「輪王寺宮」の称号が下賜され、輪王寺宮は東叡山寛永寺のみならず、比叡山延暦寺、日光山万願寺(現輪王寺)の山主を兼任。 また、東叡山に在住した輪王寺宮は、「三山管領宮」と称され、仏教界に君臨した。
徳川家の菩提寺は第二代将軍秀忠が眠る芝の増上寺だったが、天海僧正に帰依した第三代将軍家光は自分の葬儀を寛永寺に行わせた。 第四代将軍家綱、第五代将軍綱吉の廟は寛永寺にて営まれ、寛永寺は室町時代創建の増上寺(浄土宗寺院)とともに徳川家の菩提寺となった。

●古建築造りの根本中堂を拝観した後、根本中堂の前庭を散策する。
堂前に一対の銅燈籠が立ち、笠に三つ葉葵紋、火袋に三つ葉葵紋と天女像を配していて威厳を漂わせる。 笠の蕨手の根元に龍の頭が施され、口から出している舌が蕨手になっている。 また、露盤から軒に向かう棟が龍の胴体になっていて面白い。
銅燈籠の近くに約320年前の元禄時代に造立された一対の大きな社寺型手水鉢が置かれている。 境内に建つ了翁堂に、寛永寺境内に勧学寮を建てた黄檗宗の僧・了翁禅師坐像が安置され、了翁堂の傍の八角の基台の上に、了翁禅師の顕彰碑が亀跌に立つ。

△厳かな空気に包まれた根本中堂の前庭に置かれた2基の銅燈籠....根本中堂脇に寛永寺の歴史を記した案内板が設置されている

△銅燈籠越しに眺めた根本中堂は質素な造りだが堂々として建つ

△開放的な明るい境内に建つ根本中堂は風格を漂わせている

△笠に三つ葉葵紋、火袋に三つ葉葵紋と天女像を配した銅燈籠/明治十二年(1879)造立の天水桶....軒先で受けた雨水を天水桶に流す鎖樋が見当たらない
△八角の笠の蕨手の根元に龍の頭があり、口から出した舌が蕨手になっている....露盤から軒に向かう棟を龍の胴体としている

△根本中堂の前庭に置かれた元禄十一年(1698)造立の一対の大きな社寺型手水鉢

△手水舎越しに眺めた銅燈籠          手水舎越しに眺めた鐘楼

△切妻造桟瓦葺の鐘楼

△鐘楼に下がる梵鐘(銅鐘)は、第4代将軍家綱の一周忌の延宝九年(1681)の鋳造

△宝形造銅板葺の寛永寺了翁堂....江戸時代前期の黄檗宗の僧・了翁禅師が鎮座する

△了翁禅師坐像....了翁禅師は天和三年(1683)、寛永寺境内に勧学寮(勧学講院・文庫)を建立し教学を専任

△了翁禅師坐像は右手で未開連、左手で数珠を持つ/亀形の台座・亀跌の上に立つ了翁禅師の顕彰碑(禅師塔碑)

●境内には石碑、墓石、石塔、石仏などの石造物の他、寛永寺旧本坊表門と寛永寺根本中堂の巨大な鬼瓦などがある。 江戸中期の高名な画家・尾形光琳の弟・尾形乾山の墓碑と顕彰碑の「乾山深省蹟」、約320年前の元禄六年(1693)に造立された舟光背型聖観世音菩薩石仏の寛永寺の門主・慈海僧正墓、軸部の月輪の中に種子が彫られた宝塔が立つ。
境内の塀際に薬師如来坐像や赤い帽子を被り赤い前垂れをした六地蔵などの地蔵尊の石仏がひっそりと鎮座。 他に、植生に囲まれて珍しい虫塚碑や「施無畏」と彫られた石碑が佇んでいる。

△江戸中期の陶工・画家で尾形光琳の弟の尾形乾山の墓碑と顕彰碑の「乾山深省蹟」....顕彰碑は文政六年(1823)の造立

△舟光背型聖観世音菩薩石仏は慈海僧正の墓石....左手に立つ輪郭を巻いた台座に「宝塔」と彫られた宝塔

△宝塔の軸部の月輪の中に種子が彫られ、正面はキリーク(阿弥陀如来)で右側面はタラーク(虚空蔵菩薩)/慈海僧正墓石は元禄六年(1693)の造立....慈海僧正は東叡山凌雲院の学頭の第四代で、寛永寺の門主・輪王寺宮の名代を勤めた

△境内に置かれている寛永寺旧本坊表門と寛永寺根本中堂の鬼瓦

△寛永寺根本中堂の鬼瓦(獅子口)....高さ248cmで中央に三つ葉葵紋を配す/寛永寺旧本坊表門の鬼瓦....高さ113cm

△境内隅の塀際に鎮座する石仏群

△左は赤い前垂れをした丸彫りの薬師如来坐像、真ん中は舟光背型地蔵菩薩像、右は明治三十三年(1900)造立の隅丸型地蔵菩薩像

△大正十二年(1923)造立の舟光背型地蔵尊石仏/地蔵尊は右手に錫杖、左手に如意宝珠を持つ

△根本中堂を向いて鎮座する赤い帽子を被り赤い前垂れをした六地蔵尊像

△文政四年(1821)造立の蟲塚碑....伊勢長島藩主増山雪斎の遺志で、写生に使った虫達の霊を慰めるため建てたもの

△境内の隅に置かれた「施無畏」と彫られた石碑....「施無畏」は仏語で「仏・菩薩が衆生の恐れの心を取り去って救うこと」の意



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寛永寺-(2) (東京)

2022年06月08日 | 寺社巡り-東京

【東京・台東区】伽藍は延暦寺の様式に準じて造営され、寛永四年(1627)には法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、東照宮などが建立され、寛永八年(1631)には清水観音堂、五重塔などが建立された。
寺院の中心の根本中堂(本堂)は開創から約70年後の元禄十一年(1698)、第五代将軍綱吉(常憲院)の執権期に落慶した。 承応三年(1654)に後水尾天皇(第108代)の第三皇子守澄・法親王が寛永寺第三代山主となって以来、幕末まで歴代山主を皇室から迎えることになり、朝廷の勅願所を兼ねる格式と規模において我国最大級の寺院としてその偉容を誇った。

●徳川綱吉の霊廟から仕切り門を通って根本中堂の境内に入る。 右手に本坊(と思う)を囲む築地塀が根本中堂近くまで延びている。 腰に羽目板を張り白壁に格狭間を配した築地塀に沿って根本中堂に進むと、白壁に花頭窓を入れた高床の渡り廊下があり、根本中堂と本坊を繋いでいる。 渡り廊下をくぐると、根本中堂の後方に大きな玄関を構えた客殿と本坊とが連なって建つ。
客殿から根本中堂境内を通り、「東叡山 寛永寺」と彫られた寺号標石が立つ門前に行く。 袖塀を設けた黒塗りの門柱の間から 緑と静寂につつまれた境内に建つ根本中堂が見える。 大きな銅燈籠を構えた根本中堂は、大棟に金色の三つ葉葵紋を配し、大きく軒を広げて風格を醸し出している。 厳かな空気に包まれた境内を進んで根本中堂に....。

△霊園側から仕切り門を通して眺めた根本中堂(本堂)境内/右の築地塀は根本中堂と渡り廊下で繋がった本坊(と思う)を囲む塀

△本坊を囲む瓦葺築地塀は透塀で、上半分が格狭間を入れた白壁、下半分の腰は羽目板張り

△根本中堂と本坊を結ぶ瓦葺の渡り廊下....壁に花頭窓を配した境内参道を跨いだ高床式の廊下

△根本中堂の後方に建つのは連なる本坊・客殿(と思う)....奥の建物は客殿の玄関か

△入母屋造本瓦葺の客殿の玄関

△袖塀を設けた黒塗りの門の前に立つ「東叡山寛永寺」と彫られた寺号標石....築地塀は3本筋が入った筋塀

△門から眺めた根本中堂....創建は元禄十一年(1698)で、往時は上野公園の大噴水の地に建っていたが、幕末慶応四年(1868)彰義隊による戦争(上野戦争)の際に焼失

△大きな青銅製燈籠を構えた根本中堂....大棟に金色の3つの三つ葉葵紋を配している

△入母屋造本瓦葺の本堂(根本中堂)....現根本中堂は明治十二年(1879)に川越喜多院の本地堂を山内子院の大慈院(現・寛永寺)の地に移築・再建された

●向拝柱に「金本中堂」と書された大きな木札が掛かり、正面中央間に東山天皇(第113代)の筆による「瑠璃殿」の大きな扁額が掲げられている。
向拝柱は方柱だが、上部に粽を施していて珍しい。 向拝に大きな鰐口が吊り下がるが、コロナ感染防止のため鈴紐が固定されていて鳴らせない。 正面中央間に両折両開の桟唐戸、両脇間は全て蔀戸で、周囲に擬宝珠高欄付切目縁を巡らした質素な造りだが、格式を感じさせる。
七間四方の金本中堂を左回りで身舎を拝観した。 入母屋破風の妻飾に珍しいものを見つけた。 豕扠首の扠首竿と扠首束の間に小窓が設けられているのだが、多分、屋根裏を換気するためのものと思うが….。

△軒廻りは二軒繁垂木、周囲に擬宝珠高欄付き切目縁....繁垂木と切目縁の木口に胡粉を施している

△向拝の階段の角材の木口に三つ葉葵紋を配した飾金具/扁額の「瑠璃殿」は第113代東山天皇の筆

△正面の左側二間の脇間の蔀戸         正面右側の蔀戸

△組物は二手先が尾垂木の出組、中備は撥束....軒支輪がある

△向拝の手挟に牡丹の彫刻が施されている

△中央間三間は両折両開の桟唐戸....角柱の向拝柱の上部に粽を設けている....水引虹梁の上に脚間に彫刻を配した3つの本蟇股

△御本尊は伝教大師最澄上人の自刻とされる薬師瑠璃光如来像を安置

△境内の八重桜が豪壮な根本中堂に花を添えている

△根本中堂の右側面....七間の内の二間に蔀戸、二間に桟唐戸、三間に羽目板

△大棟端に三つ葉葵紋を配した獅子口、拝に蕪懸魚、妻飾は豕扠首/豕扠首の扠首竿と扠首束の間に小窓を設けている

△側面前方の両折両開の桟唐戸と枠に飾金具を配した蔀戸

△側面と背面の内法長押と腰長押の柱部に釘隠が施されている

△根本中堂の背面の中央間一間(両脇間は全て羽目板)に飾金具を配した両折両開の桟唐戸....角柱で庇を出し、傍の擬宝珠高欄付き上り階段は庫裡への渡廊下に上がるもの

△根本中堂の左側面....七間の内の二間に蔀戸、二間に桟唐戸、三間に羽目板

△客殿玄関近くから眺めた根本中堂の左側面



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする