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何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

寒梅にメジロが...!

2017年01月29日 | 街角スナップ

【東京・豊島区】寺社巡りで某寺の古い石造物を撮影していた時、白い花が咲き誇る寒梅に番のメジロが飛んできた。 枝から枝へと飛び回って花の蜜を吸うメジロにレンズを向け、2メートルほどの距離までそっと近づいて何度かシャッターを切ったが、まったく逃げる素振りをみせない。
暫くの間、小さな花の蜜を夢中で吸っている姿を眺めていたが、メジロの可愛い仕草に疲れがとれ、少し癒された。
我が家の狭い庭にも時々番のメジロが遊びにくるが、家の中からガラス越しにカメラを向けるだけで逃げていく....都会のメジロは警戒心が少ないのかな?

花に嘴を入れて旨そうに蜜を吸っている

暖かな陽を浴びながら、ひと休みしているようだ!

ちょっぴり背伸びして懸命に蜜を吸っている

次に蜜を吸う花を探しているのかな?

こちらに何かを話しかけているのかな?
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走湯神社の庚申塔

2017年01月28日 | 石仏巡り

【神奈川・三浦市】金田の鎮守「走湯神社」の鳥居の右傍、道路に面して6基の庚申塔が鎮座している。 庚申塔はきちんと整備された石台の上に整然と並べられており、大切に保存されていることがわかる。 庚申塔は笠付型青面金剛庚申塔3基と駒型文字庚申塔3基で、道行く人々の安全を見守っている。 最も古いものは宝暦五年(1755)の造立だ。

白い明神鳥居傍に並ぶ6基の庚申塔

石台上に各3基の笠付型青面金剛庚申塔と駒型文字庚申塔

右側3基の庚申塔
 
右端の造立元号不明の唐破風付青面金剛庚申塔(日月瑞雲、2鶏、邪鬼、3猿)..人の髪の毛を掴んで下げている
 
造立元号不明庚申塔の邪鬼と三猿(言わざるの1猿は欠落)/右端から2基目の寛政十二年(1800)造立の駒型青面金剛塔(日月瑞雲、3猿)
 
右端から3基目の宝暦五年(1755)造立の笠付型青面金剛庚申塔(日月瑞雲、3猿)

左側3基の庚申塔
 
右端から4基目の寛政五年(1793)造立の丸肩角柱庚申供養塔(日月瑞雲)/右端から5基目の明治三十五年(1902)造立の駒型庚申塔
 
右端から6基目(左端)の文政八年(1825)造立の唐破風付青面金剛庚申塔(日月瑞雲,3猿)..人の髪の毛を掴んで下げている

文政八年庚申塔の風化が進んでいる三猿
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走湯神社 (三浦)

2017年01月26日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・三浦市】平安時代後期の寛治元年(1087)、伊豆国加茂郡の走湯神社から走湯権現が分祀されて創建されたと伝わる。 祭神は天忍穂耳尊という男神で、農耕の神様らしく、地元では「金田の権現様」と呼ばれている。

白い明神鳥居の右脇に並ぶ6基の庚申塔に迎えられる。 鳥居をくぐって境内を進むと、毛並みのよい獅子の狛犬が鎮座しているが、大柄の体毛彫刻はまるで渦潮の波を思わせる。
正面奥の一段高くなったところに、比較的小さいが風格を感じさせるシッカリした造りの社殿が建つ。 社殿は権現造り。 拝殿と本殿は入母屋造りだが、いずれも平降棟から妻側に出ている大きな掛瓦部がやけに目立つ。 また、拝殿の両側の縁の脇障子には見事な龍が透かし彫りされていて見事だ。
境内には3基の石祠が鎮座しているが、そのうち1基に「三峯神社」と刻まれているが、秩父市三峯神社との関りがあるのかな?
そういえば、本殿の棟には外削ぎの千木と四本の堅魚木が乗っているが、外削ぎは男神、偶数の堅魚木は女神を示すのが一般的なので、少し違和感を感じた。

鳥居前から眺めた神社全景..境内に聳える銀杏の巨木は樹齢数百年、樹高32m、幹周約4.8m
 
「走湯神社」の額が掲げられた明神鳥居を通して眺めた境内..鳥居傍に「釜メ」の案内板が置かれている(「釜メ」は釜戸の神様に感謝する神事)

境内全景..右手の建物は境内を狭くし、社殿を少し隠す位置にありいただけない
 
寛政十二年(1800)造立の阿形吽形の獅子の狛犬..まるで渦潮の波を思わせるような体毛彫刻だ

社殿と左手の朱塗りの明神鳥居が立つ建物は神輿庫かな?

入母屋造銅板葺の拝殿(三間四方)..社殿は大正十四年(1925)改築

質素な拝殿の正面..周囲に擬宝珠高欄を設けた切目縁を廻らしている
 
拝殿の向拝と側面の縁の突き当りの脇障子..龍の透かし彫りの飾りがある

向拝の虹梁上と木鼻の精緻な彫刻が素晴らしい

社殿は拝殿・幣殿・本殿で構成された権現造り
 
入母屋造銅板葺の本殿の棟に男神を示す外削ぎの千木と女神を示す4本の堅魚木が乗る
 
朱塗りの明神鳥居を構えた入母屋造桟瓦葺の建物は神輿庫か?/社殿境内に鎮座する朱塗りの木製の祠
  
社殿境内に鎮座する3基の石祠..風化した屋根の祠/入母屋造り屋根の「三峯神社」/入母屋造りで唐破風付き屋根の祠
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三浦義村の墓 (三浦)

2017年01月24日 | 史跡探訪-日本編

【神奈川県・三浦市】三浦義村は鎌倉時代初期の武将で、三浦一族六代目の当主。 平安時代の武将で三浦郡の豪族だった三浦義明の孫。 平安末期から戦国動乱の世までの450年にわたって関東に勢威をふるった三浦一族の中で最も隆盛を極めて人物で、父義澄とともに平氏追討に武功をあげ、北条氏とともに鎌倉幕府を二分して活躍した武将。 延応元年(1239)12月5日に没し、菩提寺である福寿寺の近くに葬られた。

三浦義村の墓は、義村が信仰した地蔵像を本尊とした福寿寺の塔頭南向院の跡地にあり、金田湾に面した崖の上の木立の中にひっそりと立っている。
義村の墓は二基ある。 「義村公旧墓所」の基壇上に大きくて歪な形の2個の石を積み上げたものと、少し奥の瓦をふんだんに使った瓦塀に囲まれた近年建立のものだ。 南向院には義村の堂々たる五輪塔が立っていたが、大正十二年(1923)の関東大震災で南向院が崩壊し、義村の五輪塔も壊れて崖下の海中に落ちた。 海中から五輪塔の一部が引き上げられ、元の所に組み上げられたのが「義村公旧墓所」の墓石だ。 大正時代に有志によって建立された墓の前には、火袋を失い中台を逆さに重ねた2基の石燈籠が墓を守るように佇んでいる。
 
三浦義村公の墓への石段     八坂神社の神明鳥居の傍に三浦義村公の墓がある
 
「義村公旧墓所」に積まれた五輪塔の残石..大正十二年(1923)の関東大震災で崖下の海中に落ちた後、引き上げられた石を積み上げたもの

近年建立の三浦義村公の墓..瓦塀に囲まれた墓石、三浦氏の家紋がある
 
義村公の墓の前に佇む2基の石燈籠..火袋を失い、中台を逆さに重ねたもの
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福寿寺の石仏

2017年01月22日 | 石仏巡り

【神奈川・三浦市】門前に立つと、参道に張り出した枝にまだ黄色い葉を残す銀杏の老木が目に入る。 門柱から狭い境内参道に入ると右手の垣根の木の下に、庚申塔や供養塔など11基の石仏が整然と佇んでいる。 石仏は庚申塔6基、供養塔2基、馬頭観音1基、丸彫り石仏などである。
印象に残ったのは、忿怒の相の青面金剛庚申塔1基と、蓮華台座に立つ唐破風付きの大乗妙典六十六部供養塔だ。 庚申塔は、口を大きく開けまさに悪疫を調伏するかのごとく怒鳴っている顔の青面金剛に迫力を感じる。 供養塔は、上部に地蔵菩薩像がしっかりと半肉彫りされたもので、地蔵像が舟形光背を背に珍しい半跏倚坐で鎮座している。 ただ髪の毛があるように見えるが....気のせいかな。

境内参道に佇む11基の石仏..庚申塔6基、六十六部供養塔1基、馬頭観音塔1基、納経塔他3基

右端3基の石仏..右端の丸彫り石仏は違和感があるが、多分、半跏倚座菩薩像の体に地蔵尊像の頭を乗せたものだろう/中央は安政三年(1856)造立の丸肩角柱大乗妙典供養塔/左は享保十五年(1730)造立の墓標か..「舶悟梁頭禅定門」の銘文

右から4基目~9基目の6基の庚申塔..笠付型5基と駒型1基

右側3基(4基目~6基目)の庚申塔..右は大正三年(1914)造立の駒型文字庚申塔(日月)
 
真ん中は明和五年(1768)造立の唐破風付青面金剛庚申塔(日月瑞雲、邪鬼、3猿)

明和五年庚申塔の頭を踏まれる邪鬼と三猿
 
左の嘉永元年(1848)造立の唐破風付青面金剛庚申塔(日月瑞雲、2鶏、邪鬼、3猿)..人の髪の毛を掴んで下げている/口を大きく開けたまさに悪疫を調伏する忿怒の顔だ
 
嘉永元年庚申塔の頭を踏まれる邪鬼と三猿/髪の毛を掴まれて吊り下げられている女性

左側3基(7基目~9基目)の庚申塔
 
右の宝暦四年(1754)造立の唐破風付青面金剛庚申塔(日月瑞雲、邪鬼、3猿)..人の髪の毛を掴んで下げている
 
宝暦四年庚申塔の邪鬼と三猿..邪鬼は起き上がった状態で踏まれている/髪の毛を掴まれて吊り下げられながら合掌する女性
 
真ん中は万延元年(1860)造立の唐破風付青面金剛庚申塔(日月瑞雲、2鶏、邪鬼、3猿)..人の髪の毛を掴んで下げている
 
万延元年庚申塔の邪鬼と三猿/髪の毛を掴まれて吊り下げられている女性
 
左の造立年号不明の唐破風付青面金剛庚申塔(日月瑞雲、2鶏、邪鬼,3猿)..人の髪の毛を掴んで下げている
 
造立年号不明庚申塔の邪鬼と三猿/髪の毛を掴まれて吊り下げられている女性

庚申塔から少し離れて立つ供養塔
 
元文五年(1740)造立の唐破風付大乗妙典六十六部供養塔/左側面に元文五年、右側面に宝暦四年(1754)の銘があるが後の刻だろう

供養塔上部にしっかりと半肉彫りされた舟形光背地蔵尊像..蓮弁に半跏倚坐で鎮座
 
天〇三年造立の山状角柱馬頭観世音菩薩
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福寿寺 (三浦)

2017年01月20日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・三浦市】鎌倉時代の正治二年(1200)、三浦大介義明の孫・三浦駿河守義村を開基、慶叔大考禅師大和尚を開山として建立された。 臨済宗鎌倉建長寺の末寺で、本尊は行基作の聖観音菩薩像。 三浦観音霊場第7番札所及び三浦地蔵尊12番札所。 三浦氏滅亡後は次第に荒廃し、江戸時代寛政十年(1789)に紀州家の三浦長門守が浄財を投じて復興した。
大正十二年(1923)の関東大震災で焼けたが、本堂は平成元年(1999)に木造で修復された。 寺宝として、三浦義村が使用した鞍、鎧、脇差等が保存されている。
三浦氏は、平安時代以来、相模国三浦郡を本拠とした豪族で、源頼朝が鎌倉幕府を開くまでの間、一族を挙げて頼朝を援けたことで強い信頼を得、鎌倉幕府の御家人として栄えた。 この時期の三浦氏は北条氏を凌ぐ勢力で、鎌倉時代初期の武将義村は鎌倉幕府設立に貢献、三浦氏の最も最盛の時代を築いた。

金田湾の沿岸を走る道路から狭い路地に入って山に向かって進むと、狭い間口の境内入り口に門柱が立つ。 正面の先に堂宇境内への階があり、その右に黄色い葉が残る銀杏の古木が立ち、参道まで枝を伸ばしている。 参道の垣根の木の下に庚申塔や供養塔などの石仏が整然と並んでいる(別途投稿)。
銀杏の葉が落ちている急な石段を上り詰めた直ぐのところの小さな覆屋に、赤い帽子と涎掛けそして首から頭陀袋を下げた地蔵尊像が鎮座し、参詣者を迎えている。 見ると、赤い帽子の上にニット帽をかぶり、首にマフラーを巻いて寒さを凌いでいる。
狭い境内の正面に質素だが落ち着いた雰囲気の本堂、右手に庫裡、左手に納骨堂(と思う)が建つが、山岳寺院のような雰囲気だ。 本堂前に、大きな石を彫り窪めて側面に「般若」と刻まれた手水鉢があり、その傍には苔むした笠の蘭渓石燈籠が置かれていて趣のある光景を醸し出している。

参道入口に立つ門柱..奥に階と黄色い葉を残した銀杏の老木が聳える

参道右手の垣根の下に庚申塔や供養塔などの石仏が整然と並んでいる(別途投稿)

石の階を上り切ると直ぐ正面に本堂が建つ
 
石段上の右の覆屋に短い錫杖と宝珠を持つ地蔵尊像が鎮座/帽子、涎掛け、そして頭陀袋を下げ、ニット帽を被りマフラーを巻いている

山岳寺院を感じさせる狭い堂宇境内..右奥に庫裡がある

入母屋造本瓦葺の本堂..切目縁を回らせている

質素な造りの本堂には向拝がなく、入口の軒下に鈴を下げている
 
本堂前に置かれた趣きのある石造物と樹木  石燈籠越しに眺めた本堂正面

脇間の花頭窓が禅寺の雰囲気を醸し出している
 
本堂前の大きな手水鉢と石燈籠         笠が苔むして趣きがある蘭渓燈籠

弘化三年(1846)造立の手水鉢..手前側面に「般若」の銘が刻まれている
 
平成6年建立の西堀栄三郎,植村直巳,多田雄幸の顕彰碑/自然石を積み上げて造られた石燈籠
 
露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の納骨堂(と思う)/境内の崖側に設けられた瓦をふんだんに用いた築地塀
 
本堂の左縁に並べられた大根..懐石料理の漬物になるのかな?
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円福寺 (三浦)

2017年01月16日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・三浦市】室町時代の天文十七年(1548)、鎌倉光明寺の伝設大和尚を開山として創建された。 遠い昔、金田湾で漁をしていた漁師が海中から黄金に輝く恵比寿像を拾い上げ、大漁の瑞祥だと喜んで草庵を結んで祀ったのが始まり。 この地に立ち寄った旅の僧のお告げで地蔵尊像も草庵に祀り、その後、現在地に移し伝設大和尚を招いて金田山円福寺と称した。 宗派は浄土宗、本尊は阿弥陀如来像。 厨子には運慶作と伝える秘仏・三浦地蔵尊を祀っている。 祀られている「金光恵比寿」と呼ばれる恵比寿様は、三浦七福神の一つ。 三浦三十八地蔵尊霊場。

門前の路傍の石造物を撮影していると、円福寺の修復に関わっているという大工関係の年配の方が話しかけてきて、六字名号塔について教えてくれた。 話によると、六字名号塔は直ぐ傍の建築作業場内からここに移されたとのこと、また、作業場はもとお寺があった跡とのことだ。 お寺とは多分、円福寺の塔頭でその境内に六字名号塔が佇んでいたのだろう。
開放的に建つ山門をくぐると、眼前にだだっ広い境内が広がる。 正面の奥に堂宇が建つが、参道に聳え立つ大きな老木の陰に隠れていてよく見えない。 老木が聳える参道を進むと、右脇に江戸期造立の六体の舟形光背六地蔵尊像が、さらに進むと、赤い帽子と涎掛けをつけた丸彫りの六地蔵尊像が赤い瓦屋根の覆屋に鎮座している。 その先の参道の右脇に大きな聖観音菩薩像が、そして左脇に七福神像が笑顔で迎えてくれる。
見上げると、一段高いところに重厚な鐘楼そして本堂が陽を浴びて建つ。 石段を上がると、落ち着いた佇まいの境内に意外に質素な造りの本堂が建ち、向拝脇の自然石を積み上げた石燈籠そして向拝の虹梁の精緻な彫刻に目を奪われる。 本堂の造りを眺めていて、妻飾の二重虹梁を肩で担いで支える力士像を見つけた。
本堂前の境内にある歴代住持墓石群から墓所側の参道を下る途中、珍しい墓石を見つけた。 インド式墳墓の仏塔のストウーパーで、まさか三浦半島の寺院にあるとは思わなかった。

門前の路傍に佇む3基の石造物..隅飾突起が破損した宝篋印塔は塔身に種子5文字を縦に刻む(左)、舟形光背に合掌する観音菩薩像(墓石か)、丸肩角柱の六字名号塔(右)

切妻造本瓦葺の重厚な山門
 
山門は通用口のある袖塀を設けた四脚門/門前に鎮座する三浦七福神の恵比寿(夷)天像と大黒天像

広大な境内に墓所、庫裡そして槇の老木が聳える奥の一段高い境内に本堂が建つ

墓所手前の参道脇に鎮座する江戸期造立の舟形光背六地蔵尊像
  
左から、右手錫杖左手如意珠の鶏亀地蔵(延命地蔵)..文政十二年(1829)造立/両手で念珠を持つ地持地蔵(護讃地蔵)..天保六年(1835)造立/両手で柄香炉を持つ法性地蔵(不休息地蔵)..天保五年(1834)造立
  
左から、合掌する宝性地蔵(破勝地蔵)..天保九年(1838)造立/右手施無畏印、左手引摂印の陀羅尼地蔵(弁尼地蔵)..天保四年(1833)造立/両手で幢幡を持つ法印地蔵(讃竜地蔵)..天保年間造立
 
参道に聳える老木の間から眺めた石段上の本堂/赤い瓦屋根の覆屋に鎮座する六地蔵尊像..赤い帽子と涎掛けをつけている

参道から眺めた一段高い境内に建つ堂宇..堂宇石段下に十三重石塔、七福神像、聖観音菩薩像が立つ

参詣者を迎える聖観世音菩薩立像

基礎に輪郭を巻いて格狭間を設け、軸部初層の月輪に四方仏種子が刻まれた十三重石塔..その前に三浦七福神が鎮座
 
参詣者を笑顔で迎える七福神像/墓所の入口に立つ左手宝珠、右手与願印の聖観音菩薩像..宝冠正面に阿弥陀如来の化仏をいただく

十三重石塔の左奥に建つ庫裡..寄棟造桟瓦葺で身舎に裳腰を付けている

一段高い境内に建つ入母屋造本瓦葺風桟瓦葺の重厚な鐘楼と本堂

入母屋造銅板葺の本堂
 
本堂の質素な向拝..左手に自然石を積み上げた大きな石燈籠が立つ/本堂正面の脇間に花頭窓

向拝の虹梁や木鼻に精緻な彫刻が施されている
 
虹梁の上の躍動的な龍の透かし彫り/迫力が感じられる獅子と象の木鼻
 
入母屋造本瓦風桟瓦葺の鐘楼..12本の柱で支えられた頑強な造りの鐘楼/大きな梵鐘が下がる
 
本堂の妻飾の二重虹梁を肩で担いで支える力士像

本堂前の歴代住持の墓石群..無縫塔(卵塔)や宝篋印塔が立つ

墓所にある珍しいストウ-パー(インド式墳墓の仏塔)
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法昌寺 (三浦)

2017年01月13日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・三浦市】寺伝では、この地の庄司入道常玄という人が霊夢によって海岸で観音像を見つけ、お堂を建てて祀り、お堂を潮客寺と名付けたことに始まる。 その後荒廃したが、安土桃山時代の天正三年(1575)、森四郎左衛門という人が中興した。 
天正十八年(1587)、徳川家康が駿河から江戸入府した後、代官に任命された家臣・長谷川七左衛門長綱が文禄三年(1594)に三浦半島の地検を行った際、潮客寺境内を検地する際に観音像の由来を聞いて感動し、除地とした。 その時、逗子沼間の海宝院の三世機宗を開山として招いて再興し、寺号を法昌寺に改めた。 宗派は曹洞宗、本尊は行基作とされる寄木造りで玉眼嵌入の聖観音菩薩坐像。

松が大きく枝を伸ばした参道の門前に、観音菩薩坐像が半浮き彫りされた「三浦観音札所第九番」の唐破風付き石塔が立つ。 門柱から境内を眺めると、老梅や槇の木が枝をのばす参道が本堂境内への石段へと続き、門柱傍の参道脇に菊名講中が造立した「牛馬頭観世音」の石塔がある。
参道を進むと本堂への石段下に百番供養塔がひっそりと立つ。 十数段の石段を上り落ち着いた雰囲気で寂然とした本堂境内に....正面に宝形造りの本堂が新しい石燈籠を従えて建つ。 向拝の虹梁の上に透かし彫りの笛吹く天女の姿があり、参詣者を迎えているようだ。 本堂左手に土壁と壁板の一部が剥がれ落ちた老朽した建物があるが、高台に新しい観音堂があるようなので、この建物は旧観音堂ではと思われる。
本堂裏手の岩肌に、横穴古墳を転用した式三浦一族の墓とみられる方形に掘り込んだやぐらがあるらしいが失念した。
 
枝を伸ばした松が見事な門前に「三浦観音札所第九番」、少し入った参道脇に「牛馬頭観世音」の石塔が立つ
 
「三浦観音札所第九番」の唐破風付石塔..瑞雲に鎮座する観音菩薩像が半浮き彫り/参道脇に佇む「牛馬頭観世音」の丸肩角柱石塔..台座に菊名講中の刻

老梅や槇の木が枝をのばす参道..本堂境内への階の下に供養塔が立つ
 
百番供養の「西國、秩父、坂東観世音供養塔」..造立年号は「嘉永」のように読めるが..

露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の本堂

明るい堂宇境内だが、落ち着いた雰囲気で寂然としている

「圓通閣」の扁額が掲げられた向拝..観世音菩薩が祀られていることがわかる
 
向拝の虹梁上に瑞雲の中で笛を吹く天女(飛天)の透かし彫り彫刻/見事な獅子の木鼻
 
本堂右手に建つ庫裡
 
庫裡前の庭に立つ四脚台座の五重石塔..初層に高欄を設けている/石段近くに置かれた手水鉢

境内に佇む舟形光背の石仏..宝永三年(1706)と正徳二年(1712)の造立年のようだ
   
板碑型墓石..貞享元年(1684)と元禄四年(1691)の元号が刻..中央の刻像は未開蓮か?/舟形光背墓石..元禄四年(1712)造立で刻像は阿弥陀如来坐像/舟形光背墓石..宝永二年(1705)造立で刻像は聖観音菩薩立像

緑に包まれた落ち着いた雰囲気の境内

本堂左手に建つ土壁や板壁の一部が剥がれて老朽した宝形造桟瓦葺の建物は観音堂か?
 
高台の墓所に建つ新しい観音堂(と思う)/未開蓮と弓を持ち背後に頭光が輝く観世音菩薩とみられる
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忍びの者...?

2017年01月09日 | 街角スナップ

【大分・臼杵市】臼杵城址を訪問して鐙坂を降りてきたとき、参道口に佇む石燈籠の火袋に何かうごめくものの気配を感じた。 よ~く見ると、真っ黒い猫が火袋から少しだけ顔を出し、まるで不審者を警戒するかのような鋭い眼でこちらを凝視していた。
少し薄暗くなっていたので目だけがよく見えるが、まるで城に忍び込もうとする黒装束の忍者のようだった。
  
鋭い眼でこちらを見ている!
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永楽寺と付近の庚申塔

2017年01月07日 | 石仏巡り

【神奈川・三浦市】門柱から緩い上り坂の参道を少し進んだ左手に、4基の石塔と石龕に鎮座する疣取地蔵尊像が佇む。 石塔は3基が庚申塔で、1基は巡拝塔だ。 真ん中の庚申塔は江戸時代初期の造立でかなり風化が進んでいるが、合掌する青面金剛や邪鬼や三猿の像容が確認できる。
また、右の庚申塔は他の2基にくらべてかなり小さいが、大きな基礎の上の蓮華座に立っていて格式が感じられるが....。 巡拝塔に「四国、西國、坂東、秩父、百八十八ヶ所〇〇〇」の銘が刻まれ、上部には瑞雲上で右膝を立て頬杖をついて鎮座する如意輪観音像が半浮き彫りされている。

門柱近くの参道に佇む4基の石塔と地蔵尊像

3基の庚申塔と巡拝塔そして地蔵尊像

3基の青面金剛庚申塔..中央は風化が進んでいる、右は二重台石上に鎮座、上が蓮華座、下には蓮の刻
 
左端の享保十六年(1731)造立の駒型青面金剛庚申塔(日月瑞雲、2鶏、邪鬼、3猿)..左手で人の髪の毛を掴んで下げている

享保十六年庚申塔の大きな目の邪鬼と三不三猿
 
中央の延宝五年(1677)造立の駒型青面金剛庚申塔..風化が進んでいるが日月瑞雲、邪鬼、3猿の像容が確認できる
 
右端の安永八年(1779)造立の駒型青面金剛庚申塔(日月瑞雲、邪鬼、3猿)..二重台石上に鎮座

安永八年庚申塔の顎を踏まれている邪鬼と三猿
 
天明八年(1788)造立の山伏角柱霊場供養塔..「四国、西國、坂東、秩父、百八十八ヶ所〇〇〇」の刻が確認できる

石塔の上部に半浮き彫りされた如意輪観音像..瑞雲上右膝を立て頬杖をついて鎮座
 
石龕に鎮座する疣取地蔵尊像..右手の錫杖が消失している..何故か黒く煤けている

■永楽寺付近の路傍■

永楽寺から引橋に抜ける山裾の道を進むと、山手側崖裾に2基の庚申塔が西陽を浴びながら佇み、道行く人を見守っている。 いずれも青面金剛の庚申塔で、1基は刻像塔、もう1基は文字塔だ。 刻像塔の青面金剛像は歯をむき出した忿怒の形相で、険しい顔が印象的だった。

青面金剛の刻像塔と文字塔
 
左の明和二年(1765)造立の変形駒型青面金剛庚申塔(日月瑞雲、邪鬼、3猿)

明和二年庚申塔の邪鬼は横顔を踏まれている
 
右の元治元年(1864)造立の駒型青面金剛塔(日月瑞雲、3猿)
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永楽寺 (三浦)

2017年01月05日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・三浦市】室町時代の享禄元年(1528)の創建。 津久井に鎌倉時代元久元年(1204)創建の法蔵院があったが、房総半島を支配していた里見氏の三浦半島侵略の兵火で焼失。 里見氏が法蔵院の仏像や梵鐘などを持ち帰ろうとしたが、海が荒れたため断念し、仏像を海に投げ捨てた。 その仏像が菊名に流れ着いて法蔵院に戻り、その縁で菊名に檀家ができて永楽寺が建立された。
再建された津久井の法蔵院の末寺。 安土桃山時代の文禄元年(1592)に現在地に移転。 宗派は浄土宗で、本尊は行基作の阿弥陀如来像。 他に運慶作の不動明王像が安置されている。
境内には庚申塔、疣取地蔵、六地蔵そしてポックリ地蔵が鎮座している。 三浦不動尊第14番札所。

門柱から緩い上り坂の参道を少し進むと左脇に庚申塔3基と供養塔そして石龕に疣取地蔵が鎮座している。 参道を上り切ると直ぐ右手に赤い涎掛けをした六地蔵とポックリ地蔵などの石仏が迎えてくれる。
急峻な斜面を利用して墓所が造られ、狭い境内の左奥に建つ本堂の直ぐ手前まで墓石が立ち並ぶ。
向拝の阿弥陀如来を表す「無量光」と刻された台座に常香炉が乗り、本堂入口の柱に「この寺の起立 室町時代享禄元年(1528)」の札が掛かる....が、なんだか古寺であると誇示しているかのようだが、考え過ぎか。

緩い上り坂の参道の脇に庚申塔や地蔵尊像などが佇む
 
参道脇に佇む庚申塔3基と霊場供養塔そして石龕に鎮座する疣取地蔵尊像

参道を上り切った右手に佇む石仏群
 
覆屋に鎮座する六地蔵尊像/六地蔵尊像の右隣に鎮座する「ぽっくり地蔵尊像」

ぽっくり地蔵尊像の右にある舟形光背型、箱型、丸彫り地蔵などの墓石等
 
墓所内に鎮座する石仏..享保十三年(1728)造立の舟形光背墓石..弥陀定印を結んだ尊像は珍しい/造立年号不明の舟形光背墓石..地蔵尊像かな

狭い境内は本堂の直ぐ前まで墓石が迫る..急峻な斜面に雛壇のように墓所が造られている

入母屋造桟瓦葺の本堂..大棟、平衡棟、隅降棟、稚児棟の先端に獅子口が置かれている
  
向拝屋根上の獅子と花(牡丹かな)の飾り/阿弥陀如来を表す「無量光」の台上に常香炉が置かれている/向拝に「牛込山」の扁額が掲げられ、鰐口が下がる
  
「この寺の起立 室町時代享禄元年(1528)」の札が掛かる/向拝の海老虹梁に下がる半鐘/隣の庫裡に「淨心庵」の額が掲げられている
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三樹院の庚申塔

2017年01月03日 | 石仏巡り

【神奈川・三浦市】三樹院前の道路に面した台石の上に、10基の庚申塔と2体の石仏が陽を燦々と浴びて鎮座している。 一番大きな笠付型青面金剛庚申塔は、笠部に卍が彫られ、両側面に童子が半浮き彫りされていて珍しい。 さらにこの庚申塔で興味を引いたのは青面金剛の衲衣の裾に僅かに残る赤い色彩で、この色彩が造立当時のものなら凄いことだが....。 造立年号などを調べていたら、地元のご年配の方が近づいてきて「取材ですか?」と声をかけられ、その後、三樹院や庚申塔について話が弾んだ。

三樹院前の台石に整然と鎮座する10基の庚申塔と2体の石仏

右側5基の庚申塔
 
右端の造立年号不明の笠付型青面金剛庚申塔(日月瑞雲、邪鬼、3猿)..笠に卍の刻は珍しいかな? 人の髪の毛を掴んで下げている

造立年号不明の庚申塔の邪鬼と三猿..青面金剛の条帛の裾に赤い色彩が残っている?
  
造立年号不明の庚申塔の両側面に童子像が半浮き彫りされている/庚申塔群の右手に鎮座する地蔵尊像2体のひとつ
 
右端から2基目の文政十三年(1830)造立の唐破風付青面金剛庚申塔(日月瑞雲、邪鬼、3猿)..人の髪の毛を掴んで下げている

文政十三年庚申塔の鬼と三猿..鬼は顔を踏まれている
 
右端から3基目の造立年号不明の笠付型青面金剛庚申塔(3猿)
 
造立年号不明庚申塔の三猿/右端から4基目の文化八年(1811)造立の駒型庚申供養塔 
 
右端から5基目の文化七年(1810)造立の唐破風付青面金剛庚申塔(日月瑞雲、邪鬼、3猿)..人の髪の毛を掴んで下げている

文化七年庚申塔の頭を踏まれた邪鬼と三猿

左側5基の庚申塔

左側5基の右3基の青面金剛刻像塔
 
右端から6基目の文化十一年(1814)造立の駒型青色金剛庚申塔(日月瑞雲、邪鬼、3猿)..人の髪の毛を掴んで下げている

文化十一年庚申塔の邪鬼と正座する三猿..鬼の頭はパーマを掛けたよう
 
右から7基目の文政五年(1822)造立の唐破風付青面金剛庚申塔(日月瑞雲、邪鬼、3猿)..人の髪の毛を掴んで下げている

文政五年庚申塔の鬼と三猿
 
右端から8基目の宝暦七年(1757)造立の丸肩板状角柱青面金剛庚申塔(日月瑞雲、邪鬼、3猿)..人の髪の毛を掴んで下げている
  
右端から9基目の嘉永二年(1849)造立の駒型青面金剛塔(日月瑞雲、3猿)/右端から10基目(左端)の寛政十二年(1800)造立の駒型青面金剛塔(日月瑞雲)/庚申塔の左側の龕に鎮座する地蔵菩薩像
 
道路に面してある舟形光背石仏を積み上げた「無縁法界塔」..石仏に貞享、元禄、宝永、正徳、享保、宝暦などの年号が刻まれている
   
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三樹院 (三浦)

2017年01月01日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・三浦市】創建年は不詳だが、十劫寺の子院であったことから江戸時代前期の建立だろう。
宗派は浄土宗。 本尊の應行作の十一面観音菩薩立像は、宝永五年(1709)に江戸芝増上寺遍誉了海上人より寄贈されたもので、「今井の観音さま」と呼ばれ広く親しまれている。 三浦観音十番札所。 堂内には延命地蔵尊が安置されていて、三浦地蔵尊第十番札所となっている。
境内には往時の三浦五井の一つの「今井の井戸」があり、いまも墓参の閼伽水として使われている。

京浜急行線の沿線に建つお寺で、訪問中本堂の後方を走る赤い電車の音が何度も境内に響いていた。
生活道に面した覆屋に鎮座する園児のような帽子を被り涎掛けをした六地蔵尊像に迎えられる。 門前に枝が掃われた2本の銀杏が立ち、門前左手の石台に10基の庚申塔が並んでいる。
門前に立つ濃緑色の観音菩薩立像から、両側に墓石が林立する境内参道を本堂に向かって進む。 境内正面奥の一段高いところに堂宇境内があり、現代風のモダンな造りの本堂が建つ。
本堂境内は手入れが行き届いていて気持ちがいい。 前庭には、初層軸部に四方仏が半浮き彫りされた九重層塔、半跏倚坐で鎮座する濃茶色の賓頭盧尊者像、火袋部の火口以外の7面に種子が刻まれた石燈籠、そして本堂を見つめる大きな目のカエルの置物などがある。
本堂の右手にある利休信楽の甕が水琴窟になっていて、空洞内から聞こえる琴のような音をしばし傾聴....何とも言えない音の響きに癒された。

三樹院の明るい全景..門前に枝を掃った銀杏が聳える..門前左手の石台に庚申塔が並んでいる

正面奥にモダンな本堂が建ち、参道両側が墓所に広がる
 
門前の基台上に佇む濃緑色の今井観音菩薩像/道路に面する覆屋に鎮座する六地蔵尊像..園児のような帽子を被り、可愛い涎掛けをしている
 
露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の寂光堂/「今井の井戸」..往時の三浦五井のひとつで、現在も清水が清水が滾々と湧いている
 
大正七年(1918)建立の観音菩薩報恩記念碑..明治時代3度の災難から逃れた房州屋の長島ハツさんという方が、観音様の御利益に報いるため建立/墓所内に鎮座する如意輪観音像墓石..元文三年(1738)造立

石段下から見上げた堂宇..左は平唐門のような屋根の手水舎

まさに現代風のモダンな造りの本堂..向拝は本堂から離れた鉄筋構造
 
本堂正面に蟇股のような形の「観世音」の扁額

本堂前庭の九重層塔越しに眺めた本堂

手入れが行き届いた境内..本堂前庭に九重層塔、賓頭盧尊者像、石燈籠などがある
 
九重層塔..塔身の初層軸に四方仏が半浮き彫り/半跏倚坐の賓頭盧尊者像..釈迦の死後、仏法を守るよう命じられた十六羅漢の中の第1尊者
 
石燈籠..火袋の火口以外の7面に種子が刻/水琴窟..利休信楽の甕の底に溜まった水面に落ちる水滴の音が空洞と共鳴して琴のような音を響かせる
  
僧源空の説法碑/手水舎と手水鉢..手水鉢は江戸時代正徳六年(1716)造立で、この地域に残る手水鉢で最古

本堂前庭で本堂を見つめる大きな目のカエル
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