何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

旧島崎藤村邸-(2) (大磯)

2024年07月26日 | 史跡探訪-日本編

【神奈川・中郡・大磯町】藤村は、昭和十六年(1941)に新杵が所有する貸別荘(邸宅?)を借り受け、翌年8月に購入し、終の棲家とした。 昭和十八年(1843)8月に永眠するまでの2年余、藤村はこの家を「静の草屋」と名付けて静子夫人と過ごした。 藤村の旧邸は表問、主屋、離れからなるが、離れは藤村亡き後の昭和二十年(1945)に静子夫人が建てた。

★建物の東側に小庭に面した居間兼寝室があり、東南側に一間幅の鉤形の広縁があるが、畳敷きで居間兼寝室よりも広い。 広縁の外側の建付けは希少な大正ガラス を入れた腰高格子戸で、燦燦と陽が差し込んでいる。 軒下に目を向けると、垂木を支える軒桁は製材(角材)ではなく丸太のまま使っている。 広縁の天井は平天井と化粧屋根裏の掛込天井とが半々で、掛込天井は軒先まで延びている。

△建物の南東側の広縁と明障子戸の居間・寝室

△居間・寝室の南面と東面に設けられた畳敷の広縁....両広縁前に沓脱石が置かれている

△八畳の敷の居間・寝室の南側は腰高明障子で、鴨居・内法長押の上に上部を緩く湾曲させた櫛型の格子欄間を設けている

△屋根の疎垂木を支える軒桁は製材(角材)ではなく丸太のまま/引き戸には希少な大正ガラス が使われているようだ

△南側の小庭から覗いた畳敷の広縁....右奥は東側広縁

△南側の広縁の天井は、平天井と化粧屋根裏の掛込天井(傾斜天井)....突き当りは廊下で、左手見えるのは書斎

△東側の小庭から見た鉤形の広縁と大正ガラスが入った腰高格子戸の引き戸を通してみた南側の小庭

△東側の広縁....南側と同じの平天井と化粧屋根裏の掛込天井(傾斜天井)

△掛込天井が軒先まで延びている....掛込天井は垂木が見える化粧屋根裏天井

△八畳の敷の居間・寝室の東側....南側と同じ造りの腰高明障子と櫛型の格子欄間

★東側広縁の北側の外に小さな濡れ縁があり、その脇の竹穂垣で仕切られた奥に厠がある。 濡れ縁の前には石組みらしきものがあるので、ここに蹲踞手水鉢が置かれていたと思う。 敷地内の南東に植栽に隠れるようにして離れが建つ。 離れは藤村亡き後に静子夫人が書庫として建てたが、立入禁止で敷地内から近づけずだ。 表門から道路に出て、割竹塀越しに離れを拝観した。

△東側広縁の北側に小さな濡れ縁があり、竹穂垣で仕切られた奥に厠がある/濡れ縁前に石組みがあるのでここに蹲踞手水鉢があったと思う

△建物の北東端にある厠....母屋と独立して疎垂木を支える丸太の軒桁、そして小さな庇と面格子を付けた窓がある

△西側の道路から眺めた桟瓦葺き屋根の旧島崎藤村邸....割竹塀に勝手口への両開き庭木戸、母屋の手前の本瓦風銅板葺き(と思う)屋根は玄関

△敷地内の南東に建つ離れ(立入禁止)

△竹垣越しに眺めた切妻造桟瓦葺の離れ

△離れは藤村亡き後の昭和二十年(1945)、静子夫人が書庫として建てた

△離れの南面....左側は雨戸がある小さな内縁か?




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旧島崎藤村邸-(1) (大磯)

2024年07月21日 | 史跡探訪-日本編

【神奈川・中郡・大磯町】旧島崎藤村邸は大正末期から昭和初期にかけて建築された建物で、菓子で有名な新杵が所有する貸別荘(邸宅?)だった。 藤村は昭和十六年(1941)1月、休養で湯河原町を訪れる途中、大磯の祭り「左義長」の見物に立ち寄った際、温暖なこの地を気に入り、大磯での生活を決意した。

★国道1号線から住宅地に入り、しばらく進むと割竹塀に囲まれた旧島崎藤村邸の前に着く。 教科書でしか知らない島崎藤村だが、晩年ここに住んでいたと思うと感慨深い。 竹穂垣を袖塀のように設けた表門を入る。 正面が建物の西側で砂利を敷いた中、飛石を配した奥に玄関があり、その手前に女中部屋の肘掛け窓がある。 建物内は立入禁止とのことで、表門脇の庭木戸から小庭に入る。

△穂垣造りの割竹塀に囲まれた旧島崎藤村邸....屋根は寄棟造桟瓦葺で、L字に配している(居間の東側の屋根の形は見えず)

△切妻造木皮葺の表門....袖塀のように両側に竹穂垣を配している

△表門から眺めた主屋西側の外観....砂利と飛石を敷いた奥に玄関がある....手前右は女中部屋の窓

△庇を設けた女中部屋の肘掛け窓

△肘掛け窓から覗いた和室六畳の女中部屋

玄関は引き違い格子戸で、上に連子入り欄間がある....外壁は下見板張り

△主屋北側の外観....手前から浴室、台所、納屋そして便所で、浴室と台所に勝手口がある

△表門の脇に小庭への小さな庭木戸がある/上部に菱格子を入れた庭木戸

★小庭に入ると直ぐ左手の濡れ縁がある小庭に面した部屋は藤村の書斎で、晩年の多くをこの部屋で過ごしたそうだ。 濡れ縁の東端に珍しい仕切り壁がある。 縦棒を入れた窓のある脇障子風の仕切り壁は小庭を眺めるのに邪魔な存在だと思うのだが、わざわざ設けたのは何故かな。
書斎の白壁にハギの枝を格子にして、アケビのつるを巻き付けた茶室風の下地窓があり、なかなか趣がある。 書斎東面の外壁側に回る。仕切り壁の外側と書斎の外壁はいずれも板壁に杉皮を張りつけた造りで、仕切り壁は縦張りなのに対し書斎外壁は横張りだ。

△庭木戸からみた濡れ縁がある書斎と庭で、濡れ縁側に銅板葺の庇を設けている....奥の木立に隠れた建物は離れ(立入禁止)

△書斎濡れ縁前の苔生した割竹垣に囲まれた小庭

△濡れ縁から覗いた床の間がある和室四畳半の書斎....奥の廊下の左が女中部屋で右手に内縁がある

△濡れ縁の東端に設けられた脇障子風の仕切り壁....縦棒を入れた窓がある(西端の仕切りに窓なし)....室内に掲げらている静子夫人筆による「明月」の扁額(レプリカ)

△東側の白壁に設けた萩の枝を格子のして作られた茶室風の下地窓....書斎の入口は茶室の躙り口を模しているらしい

△濡れ縁の脇障子風仕切りの外面と書斎の外壁は板壁に杉皮張り....仕切り壁は縦張りで書斎外壁は横張り

△庇を設け萩の木の格子を入れた下地窓の雨戸は下から上に跳ね上げる方式

△書斎の右後方に連なる居間・寝室....広縁(内縁)外側にガラス入り腰高格子戸

△書斎や居間から眺められる小さな飛石や石組みが配された割竹垣で囲まれた小庭

△小庭に置かれた飾手水鉢/小庭に置かれた「涼しい風だね」のオブジェ....永眠直前に藤村が残した言葉











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旧金子家住宅-(3) (横浜)

2024年07月16日 | 史跡探訪-日本編

【横浜・戸塚区】展示資料によると大正時代の初めころまで養蚕を行っていたようで、根太天井を用いていること、土間の梁組の上部がスノコ、そして兜造り屋根がそれを裏付けているようだ。 寄棟造茅葺の納屋には、昔の農機具などが展示されている。

★敷地内の西側に竹藪を背にして小棟造りの納屋が建つ。 屋根は正面平側の軒を長く伸ばし、妻側の軒の下部を切り落として片側だけ兜造りにして窓を設けた造りだ。 平側の長く伸ばした軒は、身舎の柱から腕木を出して丸太の出桁を乗せ、それを柱で支えて垂木を乗せている。 兜造り側の窓は天井裏の中二階のもの。
入口前の左右に「唐蓑」と「筵を編む道具」が、内部には足踏み脱穀機などの農機具や農具が所狭しと展示されている。

△敷地内の西側に竹藪を背にして建つ納屋

△寄棟造茅葺の納屋

△正面の軒を長く伸ばし,妻側下部を切り落とした軒で、半分だけ兜造りにした造り....壁は土壁と腰壁は下見板張り

△妻面に銅板葺きの庇を設け、薪や道具の置き場としている

△身舎の柱から腕木を出して丸太の出桁を乗せ、それを柱で支えて垂木を乗せている

△納屋正面左右の腰壁の前に置かれた農具

△風の力で穀物と藁・塵を選別する「唐蓑(とうみ)」....中国から伝わった道具だそうだ

△馬車の車輪前に置かれた筵を編む道具/ご丁寧に筵の編み方や編んでる状態の筵が掲示されている

△天井裏への階段....左手に農具/納屋に保管されている足踏み脱穀機などの農機具・農具群

△納屋の北面(妻面)側....中二階になっている天井裏に窓が配され、身舎に鋼板葺の庇を設けている

★主屋の東側に妻側と西側に鋼板葺の庇を設けた瓦葺きの水屋が建っている。 情報はないが、造りから母屋と納屋とは建築時期が異なると思われる。 古民家の敷地から出て公園北門近くにある水車小屋に向かう。 水車小屋は耕作体験田んぼ傍に建ち、建屋の北側に堅牢そうな水車がある。 案内によると中には米つき機があり、杵で米をつく方法のものと回転式のものとがあるようだが、小屋内に入れず残念。

△主屋の東側に建つ水屋....妻面(正面)と西面に鋼板葺の庇を設けている

△切妻造桟瓦葺の水屋....主屋側に縦格子を入れた腰高格子戸....壁は上が土壁で腰壁は下見板張り

△北門近くの園路脇で耕作体験田んぼ傍に建つ切妻造板葺の水車小屋

△江戸時代,水力で歯車を回して米をつく方法が考えられ水車が用いられた

△小屋内に米つき機があり、杵で米をつく方法と回転式がある

△水車は低いところから高いところへ水を揚げるためにも用いられ、江戸時代から明治時代に各地で使われた


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旧金子家住宅-(2) (横浜)

2024年07月11日 | 史跡探訪-日本編

【横浜・戸塚区】旧金子家住宅母屋の建築様式は木造平屋建て寄棟造茅葺で、東側の屋根は兜造り。 「整形四ツ間取り」と呼ばれる間取りで、8畳敷の部屋を4室田の字状に配置した構造。 間仕切りに壁がなく、すべて戸・障子が用いられていて開放的な造りは、江戸後期から明治初期にかけて座敷で蚕の飼育をしていた名残のようだ。

★土間に入ると二基のへっついの他、鍋が掛かった自在鉤そして壁側に農具類が置かれている。 土間の北側にウナギの寝床のような台所がある。 台所の流し台の前の窓は無双窓だ。 土間の天井を見上げると、梁の上に養蚕に使用されたスノコが張られている。 また、部屋の天井裏に二階と三階があってスノコが張られ、それぞれ梯子が掛けられている。 天井裏の二階と三階と土間の天井二階で養蚕が行われた俤を感じさせる。

△入り口からみたドマ(土間)....二基のへっつい(竃)と自在鉤がある....奥の部屋は台所

△土間に下がる鍋を掛けた自在鉤/自在鉤の傍の柱に牛蒡注連縄を乗せた棚....地神(祖霊、農神)の神棚だろうか?

△土間の東側壁の前に展示されている農具類

△ドマの北側にあるダイドコロ(台所)....手前に流し台、奥に大きな戸/台所の流し台,前の窓は無双窓

△上に何かの道具が置かれた樽 茶器などを収納した大きな戸棚

△土間の竈の壁裏に設けられた展示室

△桁行三間の土間の天井....梁組の上部がスノコ(簀子)になっていて、養蚕に使用されたもの

★土間と床上部の境に立つ重量感のある大黒柱に三方から差し鴨居が組まれている。 床上部に上がると板戸と格子戸で縦横十字に間仕切りされた八畳の部屋が田の字に四室並んでいて、典型的な整形四間取りの造りだ。 広間の差し鴨居の高い位置に、一間幅の棚がある。 腰高格子引違い戸が閉まっていて中が見えないが、神棚を祀っていると思われる。 居間だけが板張りの床で、少し大き目の囲炉裏がある。 自在鉤は竹の棒に取り付けられ、竹の棒は開けられた天井の上に這わせた梁から吊り下げられている。

△大黒柱の三方に差し鴨居が組まれている....土間から見上げた部屋の天井裏、二階と三階への梯子がそれぞれ掛けられている

△土間(ドマ・ニワ)から見た4つの部屋....整形四間取りで、8畳の部屋を4室田の字に配置

△土間から見たヒロマ(広間)とその奥はオク(奥)

△土間から見たイマ(居間・ザシキ)とその奥はナンド(納戸)

△広間に置かれた子供の遊具/広間の大きな差し鴨居部に設けられた腰高格子引戸、天井近くの中央に蟇股を配した戸棚

△奥から見た広間....左手は囲炉裏がある居間

△広間から見た囲炉裏のある居間

△納戸から見た居間....奥は土間/自在鉤は竹の棒に取り付けられ、竹の棒は開けられた天井の上に這わせた梁から吊り下げられている

△奥から見た納戸と右手は居間



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旧金子家住宅-(1) (横浜)

2024年07月06日 | 史跡探訪-日本編

【横浜・戸塚区】旧金子家住宅は、戸塚区舞岡町にある「舞岡公園」内に建つ古民家。 明治初期の建築とされる旧金子家住宅母屋(主屋)は戸塚区品濃町にあったが、開発事業のため現地での保存が困難となり横浜市に寄贈された。 横浜市は解体し、平成七年(1995)6月に納屋なども含めて舞岡公園内の「小谷戸の里」に移築し、復元した。 同年9月、母屋は横浜市歴史的建造物に認定された。

★バス停「京急ニュータウン」で下車し、舞岡公園の南門に向かう。 南門から賑やかな蝉の声を聞きながら濃い緑に覆われた園路を進み、古民家がある”小谷戸の里”に着く。 板張りの門扉が開いている入口から里の中に....左手に耕作管理棟その少し先に管理運営棟が建ち、明るい園路の奥には水屋と母屋の茅葺屋根が少しだけ見える。
園路を進むと急に開け、広い庭に裏山に生い茂る竹林を背にして茅葺の母屋と納屋が建つ。 母屋は寄棟造りだが、東側の妻の屋根は兜造りになっていて二階に窓を設けている。 母屋の東側三分の一が土間で、その上が二階になっていて養蚕が行われていたので、兜造りにして窓を設けたのは採光と風を取り入れるためだ。

△樹林に覆われた舞岡公園の南門

△蝉の声が賑やかな「南の丘」付近の園路

△園路脇に佇む星野富弘さんという方の詩碑

△古民家がある「小谷戸の里」の入口

△「小谷戸の里」の入口の右手にある小谷戸池

△古民家がある「小谷戸の里」の入口

△耕作管理棟の前から眺めた寄棟造桟瓦葺の管理運営棟と右に舞小谷戸屋....正面奥は水屋

△切妻造板葺の舞小谷戸屋....ボランティアの方々が作った民芸品風のものを販売

△住宅エリアの入り口から眺めた母屋(右)と納屋

△寄棟造茅葺の母屋....明治後期の建築(推)

△母屋は戸塚区品濃町から納屋なども含めて平成七年(1995)6月に小谷戸の里に移築・復元された

△母屋の東側(妻面側)に鋼板葺とみられる裳腰を設けている....屋根は兜造り

△兜造り部に設けられた窓は、土間の上で行われた養蚕のための採光と風を取り入れるためのもの

★西側の南側三分の二はヒロマ(広間)とオク(奥)で、両間一体の榑縁の縁側を設けているが、オク側が内縁なのに対し、ヒロマ側は外縁(濡れ縁)という異なる造りになっていて面白い。 母屋の南側は軒を長くせり出すためセガイ造り(出桁造り)になっていて、建物内から水平の梁を軒下に突き出して軒桁(丸桁)を支えて深い軒にしている。 母屋の北側に回ると、西側から内厠・ナンド(納戸)・イマ(居間)・台所が並んでいて、内厠から台所まで長い榑縁の廊下が延びているが、ナンドとイマ部の廊下は内縁だ。

△母屋の東面(妻面)側は腰壁が下見板張りの土壁

△母屋の右側桁行三間が土間で、左右の下見板張り腰壁の間に入口がある/南側は軒を伸ばす工夫の一種のセガイ造り(出桁造り)....建物内から水平に梁を軒下に突き出し,軒桁(丸桁)を支えている

△縁側を設けた腰高明障子が入った部屋は、右がヒロマ(広間)で左がオク(奥)....西側面(妻面)は全て土壁と下見板張りの腰壁

△オクとヒロマに一体の榑縁の縁側があるが、手前のオクが内縁右のヒロマは外縁で異なる造りの縁

△母屋の西面(妻面)側....左奥は切妻造産瓦葺の厠/母屋と切妻造桟瓦葺の厠が渡り廊下で繋がっている....厠は上半分が土壁で面格子を設けた窓、下の腰組は下見板張り

△瓦葺の厠の北側に廊下を挟んで鋼板葺の屋根を伸ばした造り

△母屋の北側の背面

△手前からナンド(納戸)、イマ(居間)で、奥の出っ張った部分は鋼板葺屋根の台所

△厠から台所まで廊下で、ナンドとイマ部分は内縁(榑縁)....内縁の上に大きい縦格子欄間を配している
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東漸寺-(2) (横須賀)

2024年07月01日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・横須賀市】本堂には寛正三年(1462)に造立された日金地蔵と呼ばれる木造地蔵菩薩半跏像が安置されている。 日金地蔵はもと鎌倉雪ノ下にあった源頼朝ゆかりの松源寺の本尊だったが、明治時代の神仏分離令により廃寺となった後、鎌倉長谷寺に移された。 その後幾つかの寺院を転々とし、昭和の初めころに横須賀東漸寺に安置されたようだ。

★本堂境内には他に堂宇らしきものはなく、鐘楼堂の基壇、本堂と社務所の間の塀に囲まれた御堂、簡素で小さな地蔵堂(?)、それに稲荷社があるだけだ。 本堂前に朱塗りの鳥居を構えた稲荷社は、神仏混淆時代の面影をとどめていて奇妙なコントラストをなしている。 約8年振りの再訪だが、 建て替えのため鐘楼堂が取り払われていて、梵鐘がブルーシートに包まれて天水桶傍に置かれている。 鐘楼堂の基壇の左隣に左手で幼児を抱く水子観音立像が鎮座しているが、その幼児の姿がまるでお乳を飲んでいるようにみえて微笑ましい....女性のお姿のような観音様に失礼か。 基壇の右手前の小さな地蔵堂に数体の地蔵石仏が鎮座しているが、そのうちの1体は子供を抱く地蔵尊で珍しい。

△堂宇境内の西側から眺めた本堂、稲荷社、東側に水子観音と鐘楼堂の基壇がある

△境内東側にある鐘楼堂の基壇と鎮座する水子観音像、そして右手に小さな地蔵堂がある

△鐘楼堂が建っていた基壇.....2016年の訪問時は建て直しのため解体していた/本堂前に置かれた梵鐘....昭和四十六年(1971)の鋳造

△解体前の切妻造桟瓦葺の鐘楼堂(NETから拝借)

△水子霊追善のために造立された青銅製水子観音像

△大きな円光を背負い慈悲に満ちた表情の水子観音立像....左手に幼児を抱き、足下の5人の幼児が手を差しだして観音様を見上げている/切妻造りの小さな地蔵堂(と思う)....中に数体の地蔵尊像が鎮座

△地蔵堂の格子壁の中に鎮座する三体の地蔵尊石仏

△左は珍しい幼児を抱く子育地蔵尊像     真ん中は右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵尊像

△格子壁の左前に鎮座する前垂れをし赤い帽子を被る地蔵尊像/右前に鎮座する舟光背型地蔵尊像

△合掌廟....屋根上の宝珠に寺紋をあしらっている/合掌廟の祭壇に鎮座する施無畏印と与願印の印相を結ぶ如来坐像石仏

★境内隅の植栽の前に、燦燦と陽をあびている馬頭観音、宝篋印塔そして五輪塔が並んで鎮座している。 馬頭観音はほとんどが明治期の造立だが、宝篋印塔と五輪塔はいずれもかなり摩滅が進んでいて古そう....江戸期以前のものと思う。 印象に残っているのは本堂の東脇に鎮座している供養塔で、正面に宝珠形に掘り窪めた中に半肉彫りの阿弥陀三尊像、側面に六字名号と梵字が刻まれている。 緻に彫られた阿弥陀如来は施無畏印と与願印を、宝冠をかぶる脇侍の両菩薩は胸前で両手を重ねているが....印相は?

△境内の隅に鎮座する石造物群....馬頭観音、宝篋印塔そして五輪塔

△手前四基中の手前三基はいずれも明治期造立の馬頭観世音....一番奥の板碑形は文字が削り取られ判読不能

△摩滅が進んだ二基の宝篋印塔と四基の五輪塔....一番奥は馬頭観世音

△関東型の宝篋印塔....塔身に輪郭をつけ、基礎の下に反花座を加えている/安政六年(1859)造立の箱型馬頭観世音

△箱型の六字名号石塔             苔生した笠の崩れかけた石燈籠

△本堂東脇に鎮座する供養塔....明治十五年(1882)の造立で、側面に六字名号が刻まれている

△正面の宝珠形に掘り窪められた中に彫られた阿弥陀三尊像、側面に六字名号の刻/施無畏印と与願印を結ぶ阿弥陀如来立像、脇侍の観音菩薩(右)と勢至菩薩像(左)の胸前で両手を重ねた印相は?

△近代的な建築の寺務所....平成十四年(2002)の建築....前庭に石造り五重塔が建つ




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