何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

小山寺-(3) (桜川)

2022年02月25日 | 寺社巡り-茨城

【茨城・桜川市】山形県寒河江市慈恩寺の大日如来坐像の胎内から発見された経文の奥書に「常陸国笠間郡小山寺、大檀那長門守藤原朝臣時朝」と記されていたことから、当時の笠間城の城主藤原時朝が弘長三年(1263)に木造大日如来坐像を小山寺に寄進したことが分かった(時朝寄進の大日如来像が小山寺から慈恩寺に移された)。 安土桃山時代、江戸時代の領主から二十石の御朱印を受け、明治維新まで寺勢が続いた。 地元では「富谷観音」の愛称で親しまれている。

●境内の西側に建つ三重塔に向かう。 本堂の左隣に水子地藏尊像が鎮座し、傍に「傳教大師報恩塔」と「出征軍馬〇〇」(供養塔と思う)、そして兜巾型石柱に「忠霊塔」と刻まれた3基の石碑が立つ。
「大杉」の傍に建つ鐘楼に。 鐘楼は基壇の上ではなく、地面に置いた切石の礎石の上に柱を立てて建てられた建築で珍しい。 また、格天井や妻飾などを設けていてなかなか味わいがある。
水子地藏尊像の西隣に百番札所を設けた赤い屋根の民家のような百観音堂が建ち、その左手に樹林に包まれるように古刹を感じさせる三重塔が建つ。 三重塔は室町時代の建立で趣があり、和様形式を基調として細部に禅宗様を加えた建築。 相輪が短く逓減率が小さい少し寸胴形だが、飾り気がないバランスのとれた塔で、古色蒼然たるたたずまいだ。

△本堂と百観音堂の間に鎮座する水子地蔵尊立像と縁結地蔵

△水子地藏尊の左側に立つ2基の石碑は「傳教大師報恩塔」(右)と「出征軍馬....」(供養塔と思)/水子地藏尊の右隣に立つ兜巾型石碑の「忠霊塔」....第二次大戦戦没冨谷区英霊と刻まれている

△切妻造桟瓦葺の鐘楼....享保十七年間(1732)の建立....四方転びの柱の上に枠肘木を置き切妻屋根をのせた形式

△鐘楼の傍に立つ石燈籠....太い角柱の竿と笠軒下に設けた二軒垂木が特徴/基壇の上ではなく、地面に直接切石の礎石を置き、礎石上に円柱を立てて建てられた鐘楼

△天井を設けているので塞がれた妻面があり装飾が施されている/鐘楼の真ん中の桁に下がる梵鐘....鐘楼の天井は格天井になっていて、格間には中央に卍を入れた法輪(と思う)が描かれている

△大棟端に鳥衾を乗せた小さな鬼板、拝には猪目懸魚、妻飾は虹梁蟇股式....垂木や組物や蟇股などが丹塗りされている

△本堂境内の西端に樹林を背にして聳える三重塔....右が百観音堂、左は鐘楼

△三重塔は和様形式を基調とし、禅宗(唐)様を加えた中世の建築....塔高は約21メートル

△寄棟造鉄板葺の百観音堂...正面に庇を設けて百番札所としている

△小山寺の三重塔は関東以北で建てられた最古の三重塔(国内の三重塔の中で31番目に古いとされる)

△杮葺の三重塔(重文)....室町時代寛正六年(1465)の創建で、塔内の須弥壇に釈迦三尊を安置している

△初層に親柱に逆蓮頭を乗せた切目縁を巡らす

△初層の中央間は板唐戸、脇間は菱格子窓....中央間の組物間に牡丹唐草彫刻を配した鎌倉室町風の本蟇股

△初層の組物は三手目が尾垂木の三手先、中備は中央間が脚間に透かし彫りの牡丹彫刻を配した本蟇股、脇間は蓑束

△軒廻りは各層いずれも二軒繁垂木で軒(蛇腹)支輪と軒天井がある

△二層と三層の組物はいずれも三手目が尾垂木の三手先、中備は中央間と脇間いずれも撥束....周囲に組高欄付き縁を巡らす

△歴史を感じさせる優美で荘厳な三重塔....一部の水煙が欠けた相輪の宝珠の刻銘に建築年号と造営者(大旦那賀谷朝経・大工棟梁 宗阿弥家吉等)が記されている
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小山寺-(2) (桜川)

2022年02月19日 | 寺社巡り-茨城

【茨城・桜川市】平安時代初期、天台宗の僧・慈覚大師円仁が東北遊化の際、自刻の不動明王と運慶作とされる多聞天とを脇侍として七堂伽藍を整えたと伝えられる。
平安末期の久寿二年(1155)から鎌倉時代の暦仁元年(1238)にかけてこの地方を支配していた下野国の小山下野守朝政が帰依して庇護し、その折、寺号を「長福禅寺」から「小山寺」に改められた。

●急峻な石階を上りつめると、樹林に囲まれた山寺の風情が漂う長閑な佇まいの本堂の境内が広がる。 直ぐ右手に「大杉」の巨木、左手に鐘楼が建つ。
まずは陽を燦燦と浴びている丹塗の本堂に行き、秘仏の本尊十一面観世音菩薩像を参拝。 向拝の水引虹梁の上に、鏝絵のような白色に彩色された精緻で大きな3つ爪の龍の彫刻があり、鋭い眼光でいまにも飛び掛かってきそうな勢いを感じさせる。 本堂は丹塗りの和風建築だが、軒天井や内法長押そして扉・窓に墨色、垂木端に胡粉を施していて優美な表情を見せている。 しかし、墨色の内法長押の上に掲げられている大きな額絵馬が少々うるさく、優美さを半減させている。
本堂東側の崖の裾に枯渇した弁天池があり、石を積んだ中島に弁天様を祀る祠が鎮座している。 その右手の少し山を上った処に、朱塗りの大黒天堂と尊名不明な石祠が立派な二段基壇の上に建つ。

△石階の上部から見上げた石燈籠と鐘楼....太い角型竿の石燈籠(造立年分からず)は笠の軒下に垂木を設けている/石階の上部から見上げた御神木の「大杉」と呼ばれる巨木と奥に鮮やかな朱塗りの本堂....杉の巨木は樹齢約700年で市指定記念樹

△石燈籠と市指定記念樹「大杉」の間から眺めた丹塗りの本堂

△寄棟造鉄板葺(下地は茅葺)の本堂....江戸時代 元禄九年(1696)の再建....本尊の十一面観世音菩薩坐像は行基作、脇侍不動尊は慈覚大師(円仁)作、多聞天は運慶作と伝えられる

△五間四方で真壁造りの和風建築....周囲に擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす

△向拝には鏝絵のような白に彩色された彫刻が施されている....身舎の丸柱に対し向拝柱は角柱

△向拝唐破風屋根の箱棟端に鬼瓦、兎毛通は花彫刻(と思う)

△水引虹梁の上前面に精緻な龍の彫刻....木鼻は正面が獅子鼻で横が獏鼻(と思う)

△向拝の大きな手挟が牡丹の彫刻、桁隠(降懸魚)も草花の彫刻/正面中央間は卍を入れた格狭間のある両折両開の桟唐戸....山号「施無畏山」の扁額

△正面と側面の墨色の内法長押の上に大きな額絵馬が掲げられている

△正面の脇間二間は墨色の蔀戸と墨色の組子を配した連子窓

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は三手目が尾垂木の三手先、中備は脚間に白く彩色された彫刻を施した本蟇股....内法長押と軒天井は墨色

△本堂は五間四方の仏堂で、和様を主に一部唐様を加えた建築....総体に丹・墨・胡紛による塗装を施している

△本堂前にある簡素な切妻造桟瓦葺の手水舎....2本の柱を控柱で支えている....手水鉢は元治二年(1865)の造立

△本堂の東側にある渇水した弁天池と中島に鎮座する祠

△弁財天を祀る流造銅板葺の祠

△境内の東側に建つ大黒天堂から眺めた本堂

△境内東側の傾斜地に鎮座する切妻造桟瓦葺の大黒天堂

△軒廻りは一軒疎垂木、拝は変形の蕪懸魚(と思う)、妻飾は粗い狐格子....小脇羽目と側面は横板の羽目

△大黒天堂の中央間は腰高格子戸、脇間は小脇羽目/大黒天堂の右隣りの基壇上に鎮座する石祠
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小山寺-(1) (桜川)

2022年02月13日 | 寺社巡り-茨城

【茨城・桜川市】奈良時代の天平七年(735)、仏教を保護し、東大寺の他諸国に国分寺及び国分尼寺を建立した聖武天皇(第45代)の勅願により、百済系の渡来人で奈良の僧・行基が富谷山(施無畏山)に開創し、自刻の一文六尺の鉈彫十一面観世音菩薩像を本尊としたと伝えられる。 創建時は「施無畏山宝樹院長福禅寺」と号した。
その後、釈迦院、文殊院、不動院など三十六院が整備され、多くの僧坊や諸堂宇が建ち並び、三重塔と本堂を中心に一山形式をとり富谷山全体が聖地霊山にされたと伝えられ、大和朝廷より主田千百余町歩を賜り勅願寺となった。 宗旨は天台宗で、本尊は十一面観世音菩薩像。

●JR水戸線岩瀬駅からタクシーで「小山寺」に向かい、左右の門柱に「小山寺」・「富谷観音」と記された門前に着く。 ここは裏参道のようで、標高200メールの中腹に位置する。
境内参道を少し進むと、左手に聳える杉の巨木の根元に宝生如来とみられる石仏、その後方に建つ覆屋に水神様がそれぞれ鎮座している。 水神様から本堂境内がある高台を見上げると、樹林の間に三重塔が見える。
更に参道を進むと、丹塗りの仁王門があり、季節外れの紅葉が彩を添えている。 偉容を見せて聳え立つ仁王門は室町時代の再建で、風雅な佇まいだ。 筋骨隆々というより浮き出た肋骨が目立つ栄養不足のような仁王像に迎えられる。
仁王門をくぐると本堂境内への急峻な石階がある。 石階下の左手に、不動明王の化身とされる利剣に巻き付いた倶利伽羅竜王石像、右手に半跏姿の地蔵尊石仏が鎮座している。

△「小山寺」「富谷観音」と表記された門柱が立つ入口....仁王門の正面に表参道の長い石段がある

△参道脇の傾斜地にある水神様を祀る古井戸....切妻造桟瓦葺の覆屋に鎮座する水神様の社

△湧水の傍に鎮座する水神様を祀る流造りの社....「太古水又は体護水といわれ,古来より當山の飲水として又仏事等に使われた」とある/杉の巨木の根元に鎮座する舟光背形石仏....享保十六年(1731)造立で、上部に刻まれた梵字と像容から未開蓮を持つ宝生如来か虚空蔵菩薩のようだ

△水神様から見上げた三重塔

△崖下に造営された懸け造り風の参道/参道奥に建つ丹塗りの仁王門....その先の奥に客殿(庫裡)が建つ

△紅葉が仁王門に彩を添えている....箱棟の端に武田菱の紋を入れた鬼板、拝に猪目懸魚、妻飾は虹梁蟇股(と思う)

△入母屋造葺型銅板葺の仁王門(重文)....室町時代寛正六年(1465)の創建で、江戸時代享保十六年(1731)の再建

△仁王門の正面に急峻な下りの石階がありこちらが表参道....標高約100mの所から石段が始まり、標高差100mに渡って続いている

△仁王門境内立つ七重石塔越しに眺めた仁王門....上層に毘沙門天像と不動明王像を安置

△下層の左右に鎮座する細身の阿形吽形の仁王像....筋骨隆々というより胸に肋骨が浮き出ている

△仁王門は正面三間側面二間で、軒廻りは二軒繁垂木

△上層周囲に擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす

△組物は三手目が尾垂木の三手先で、中備は脚間に「左三つ巴」の紋を配した蟇股....「施無畏山」の扁額が掲げられている

△軒支輪と軒天井がある....腰組は三手先で、組物間には牡丹彫刻を施した間斗束を配す

△通路は格天井で、天井絵は東洋的色調の花葉....中央の横梁の上に脚間に菊の彫刻を施した蟇股

△仁王門の左後方の崖下に手水鉢と石像が鎮座....石像は像容から利剣に巻き付いた倶利伽羅不動とみられ、不動明王の化身として崇められている(小山寺の守護神)....手水鉢の水は体護水又は延命水とも云われる

△仁王門から本堂境内への石段の下に鎮座する舟光背型地蔵石仏/蓮台に右膝を立てた半跏の姿で鎮座する地蔵尊坐像....右手に柄の曲がった錫杖、左手に宝珠を持つ

△石段の途中から眺めた仁王門の背面....上層の脇間に連子窓がある

△石階の途中から眺めた入母屋造桟瓦葺の客殿(庫裡)....妻飾は白壁の素式

△本堂境内への急峻な石階の上部から眺めた仁王門....大棟に3つの「武田菱」紋を配している
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高勝寺-(3) (栃木)

2022年02月08日 | 寺社巡り-栃木

【栃木・栃木市】高勝寺の表参道は、岩船山の南側(JR岩舟駅側)斜面に造られた600段の石階。 石階の途中の脇に高勝寺地藏結縁の地があり、岩窟を仏龕にあつらえた地蔵堂が建っていて「坂中地蔵」が鎮座している。

●奥の院から本堂に戻る途中に孫太郎尊本殿への石段の参道がある。 参道の山手側に、本堂を向いて鎮座する百観音石仏が孫太郎尊拝殿まで立ち並んでいる。 孫太郎尊本殿は山頂にあるが、孫太郎尊拝殿は参道途中の山腹の樹林の中に建つ。 拝殿中央間の腰高格子戸の上に天狗面の扁額が掲げられている。 格子戸通して殿内を除くと、利剣と羂索を持つ烏天狗と両脇に団扇を持つ3体の天狗像が鎮座….烏天狗の凄むような鋭い目と目が合ってドキッとした。 拝殿から更に続く石段を上りつめると、山頂の開けたところに石燈籠を構えた孫太郎尊本殿が建つ。
孫太郎尊本殿から百観音石仏が鎮座する山中の霊場の中の参道を下って三重塔に向かう。 境内南側の山腹に、江戸中期創建の丹塗りの三重塔が悠然と建っている。 初層の窓部、中備の蟇股そして軒支輪部に鮮やかに彩色された彫刻が施されている。 初層窓部の彫刻は中国故事を題材としたものだ。
三重塔から仁王門に対面して東側の高台に建つ「西院の河原堂」に向かう。 賽の河原に沿って設けられた苔生した石段を上りつめると、樹林に囲まれて古色蒼然たる佇まいの西院の河原堂が建つ。 三間四方の外壁は真壁造り板張り、また、身舎の小壁の彫刻や鏝絵のような木鼻や手挟などは白っぽいので漆喰造りか? 中央一間の向拝に、向拝とは真壁造り板張り、また、身舎の小壁の彫刻や鏝絵のような木鼻や手挟などは白っぽいので漆喰造りか? 中央一間の向拝に、向拝とほぼ同じ幅の大きな賽銭箱が置かれ、その両側一間に切目縁への階段が設けられている珍しい造りだ。
岩船山の境内から岩舟町の美しい風景を暫く遠望した後、600段ある石造り階の表参道を下っていく。 途中の参道脇に岩窟を仏龕にあつらえて岩窟から突き出た地蔵堂に「坂中地蔵」が鎮座している。 鎮座するこの地は、高勝寺開山の草庵があったところで、ご本尊の「生身の地藏尊」の結縁の地とされている。 坂中地蔵からさらに少し石段を下って下界に….寺号標石が立つ参道を抜け、県道133号線を進んでJR岩舟駅に。

△孫太郎尊拝殿と本殿への石段参道の入口....石段脇に百観音石仏が鎮座している

△石段の上は真ん中が切石敷の参道で、山手側に本堂を向いた百観音石仏が鎮座

△孫太郎尊本殿への参道の途中に建つ拝殿....孫太郎は後北条氏の家臣・松田康郷の別名で、臼井城の戦いで上杉謙信の軍を撃破して軍神と呼ばれた

△入母屋造銅板葺の孫太郎尊拝殿....水引虹梁と梁の間に「孫太郎〇〇」の扁額が掲げられている

△中央間に腰高格子戸、脇間は白壁の羽目小壁、小壁も白壁....格子戸画の小壁に赤い天狗の面を配した額....臼井城の戦いで康郷が赤色が目立つ装備だったため松田の赤鬼の異名が広まった、また、もともと岩船山には赤鬼の伝説があったことに由来/軒廻りは一軒疎垂木、組物は舟肘木....白壁の小壁に連子欄間を設けている

△利剣と羂索を持つ烏天狗を中心に3体の天狗像が鎮座....天狗山の神様として信仰を集めている

△樹林の中に続く孫太郎尊本殿への上の石造り階の参道から眺めた孫太郎尊拝殿と百観音石仏

△参道を上りつめた岩船山山頂の平地に鎮座する孫太郎尊本殿....2基の石燈籠が何故か柵外に立つ

△切妻造銅板葺の孫太郎尊本殿....北条氏の家臣・松田康郷(別名孫太郎)を祀る

△雑草が生えた境内に鎮座する孫太郎尊本殿と石燈籠

△境内南側の山腹に北面で建つ高さ19メートルの三重塔/塔内には四天柱、須弥壇があり四方仏を安置

△銅板葺の三重塔....寛延四年(1751)の建立

△軒廻りは初層と2層目が二軒繁垂木で3層目は扇垂木、組物は各層いずれも三手目が尾垂木の三手先....初層高欄の無い切目縁、2層目と3層目に組高欄を巡らす

△中備は3層目が中央間のみに蓑束、2層目は各組物間に蓑束....支輪部分に彩色された彫刻を配し、軒天井がある....2層目と3層目の腰組はいずれも出三ッ斗

△初層の中央間に桟唐戸、脇間に中国故事を題材とした彩色された立体彫刻を配す

△各組物間に脚間に彩色された十二支の彫刻を配した本蟇股....軒天井上の支輪の位置を彩色された波と花の彫刻で埋めている

△仁王門に対面して東側の高台に鎮座する西院の河原堂への石段....苔生した石段左側が「賽の河原」/石段最上段近くから眺めた三間四方の西院の河原堂(賽の河原堂)....正面の向拝に大きな賽銭箱が置かれ、左右の脇間の位置にそれぞれ階段を設けている

△入母屋造桟瓦葺の西院の河原堂....正面は中央間に腰高格子戸、脇間に舞良戸

△向拝の水引虹梁の上に白い龍像、木鼻い白い獅子像を配しているが、漆喰で制作したものだろうか?

△西院の河原堂の外壁は真壁造り板張りで側面は横羽目板....周囲に高欄なしの切目縁を巡らす

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手目と三手目が尾垂木の三手先、中備は正面中央間のみ本蟇股、脇間と側面は全て蓑束....身舎の小壁の彫刻,向拝の手挟なども白いので漆喰造りか?

△岩船山の高勝寺境内近くから遠望した栃木市岩舟町....ここから下界迄の長い石造りの階が続く

△石段の表参道の途中の高勝寺開山(草庵があった)と本尊の「生身の地藏尊」の結縁の地に鎮座する「坂中地蔵」

△岩窟を仏龕にあつらえて岩窟から突き出た千鳥破風を乗せた銅板葺屋根の地蔵堂....4体の地蔵尊石仏が鎮座

△中央奥の基台上に円光を背負い宝珠を持つ地蔵尊が鎮座/手前に舟に乗った舟光背型地蔵尊が鎮座

△地蔵堂の左側の基台の上に並んで鎮座する六地蔵尊像

△石段の表参道を跨いで建つ簡素な切妻屋根の棟門

△JR岩舟駅側の石段の表参道の入り口に佇む石燈籠

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高勝寺-(2) (栃木)

2022年02月01日 | 寺社巡り-栃木

【栃木・栃木市】江戸時代に入ると歴代将軍によって庇護された。 三代将軍徳川家光の側室・宝樹院は高勝寺に帰依していたとされ、また、四代将軍徳川家綱は「岩舟地蔵の申し子」と言われていた。
享保年間(1716~1736)に諸堂の大改修が行われ、寛延四年(1751)に三重塔が建てられた。 この頃、岩船節といわれる念仏が関東一円に流行し、昭和十七年(1942)頃まであったとされ。 踊り念仏はその名残りといわれている。

●本堂に向かって右手(北側)に、本堂と高床の渡り廊下で繋がる宝形造りで三間四方の護摩堂が建つ。 本堂境内の南側に江戸中期創建とされる袴腰付きの鐘楼が建つが、羽目は石積みで石の境目を漆喰で隠していて、まるで城壁のように見えて趣がある。
鐘楼の西側の山裾に「血の池」と称される小さな池がある。 傍に赤字で「血の池」と彫られた石碑があり、池の中の基壇上に合掌する地蔵尊像が鎮座している。 血生臭い名前の池だが、調べたが名前の由来は分からなかった。
本堂と護摩堂を結ぶ渡り廊下の下をくぐって奥の院に向かう。 樹林の中に続く落ち葉に覆われた奥の院への参道を進むと、道脇に百観音菩薩石仏が整然と並んでいる。 途中から奥の院まで自然石を並べた階になっていて、山頂に近い開けた平地に奥の院が….しかし、御堂らしき建物はなく、舟形に並べた石組の上に2体の石仏が鎮座しているだけだ。 調べたら、平成二十三年(2011)の東日本大震災で山体の一部が崩壊し、奥の院へ行く道が寸断したため、現在地に奥の院が遷されたようだ。

△賓頭盧尊者が鎮座する本堂の向拝から眺めた護摩堂への渡り廊下

△護摩堂前から眺めた本堂と高床式の渡り廊下

△宝暦十三年(1763)造立の金銅製燈籠越しに眺めた護摩堂

△宝形造桟瓦葺の護摩堂....三軒四方で正面は中央間に格子戸、脇間は白壁の小壁羽目

△三間四方で、周囲に高欄のない切目縁を巡らす

△軒廻りは一軒繁垂木、組物は木鼻付き平三つ斗で中備なし/賽銭箱が置かれた向拝に鰐口が下がる

△入母屋造銅板葺の袴腰鐘楼....江戸中期の寛保二年(1742)の建立とされる

△羽目の袴腰は石積のようだが、石の境目を漆喰を施して隠している....漆喰が剥がれた部分に石積みの境目が見える/周囲に組高欄付き切目縁を設けている

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手先で中備なし....廻縁を支える腰組は出組

△蛇腹支輪がり、廻縁下と軒下の白壁の小壁に楕円形の空間の意匠を設けている

△境内南側の山裾にある「血の池」....調べたが由来わからず

△「血の池」に鎮座する地蔵尊石仏、手前に宝篋印塔が立つ

△江戸中期の正徳二年(1712)造立の宝篋印塔/.「血の池」の中に鎮座する丸彫りの合掌する地蔵菩薩立像

△切妻造銅板葺の手水舎に何故か梵鐘が下がる....傍の宝形造銅板葺の覆屋に三脚の常香炉が置かれている/山裾に立つ石造りの宝篋印塔と三重石塔....いずれも塔身の月輪に梵字が刻まれている、宝篋印塔は胎蔵五仏の梵字ようだ

.△「血の池」の左右の山裾と傾斜地に立ち並ぶ石造物群

△奥の院への参道....脇に鎮座する百観音菩薩石仏

△奥の院参道脇に鎮座する舟光背型百観音菩薩石仏

△千手観音菩薩立像....風化により頂上の十一面と顔の一部が摩滅し剥離している/十一面観音菩薩坐像....頂上の十一面は摩滅しているが存在は分かる、右手は与願印を結び左手に開蓮を持つ/「秩父五番」と刻まれているので准胝観世音菩薩立像(と思う)

△奥の院の参道途中に鎮座する石祠

△奥の院は開山弘誓坊明願が満願の日,岩に立った草庵の主が金色燦然たる地蔵尊の姿になった縁の地....舟形石組の上に2体の石仏が鎮座

△前垂れをし、帽子をスッポリ被った地蔵尊立像/お顔が摩滅・剥離していて笑っているようにみえる地蔵尊立像
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