【茨城・桜川市】山形県寒河江市慈恩寺の大日如来坐像の胎内から発見された経文の奥書に「常陸国笠間郡小山寺、大檀那長門守藤原朝臣時朝」と記されていたことから、当時の笠間城の城主藤原時朝が弘長三年(1263)に木造大日如来坐像を小山寺に寄進したことが分かった(時朝寄進の大日如来像が小山寺から慈恩寺に移された)。 安土桃山時代、江戸時代の領主から二十石の御朱印を受け、明治維新まで寺勢が続いた。 地元では「富谷観音」の愛称で親しまれている。
●境内の西側に建つ三重塔に向かう。 本堂の左隣に水子地藏尊像が鎮座し、傍に「傳教大師報恩塔」と「出征軍馬〇〇」(供養塔と思う)、そして兜巾型石柱に「忠霊塔」と刻まれた3基の石碑が立つ。
「大杉」の傍に建つ鐘楼に。 鐘楼は基壇の上ではなく、地面に置いた切石の礎石の上に柱を立てて建てられた建築で珍しい。 また、格天井や妻飾などを設けていてなかなか味わいがある。
水子地藏尊像の西隣に百番札所を設けた赤い屋根の民家のような百観音堂が建ち、その左手に樹林に包まれるように古刹を感じさせる三重塔が建つ。 三重塔は室町時代の建立で趣があり、和様形式を基調として細部に禅宗様を加えた建築。 相輪が短く逓減率が小さい少し寸胴形だが、飾り気がないバランスのとれた塔で、古色蒼然たるたたずまいだ。
△本堂と百観音堂の間に鎮座する水子地蔵尊立像と縁結地蔵
△水子地藏尊の左側に立つ2基の石碑は「傳教大師報恩塔」(右)と「出征軍馬....」(供養塔と思)/水子地藏尊の右隣に立つ兜巾型石碑の「忠霊塔」....第二次大戦戦没冨谷区英霊と刻まれている
△切妻造桟瓦葺の鐘楼....享保十七年間(1732)の建立....四方転びの柱の上に枠肘木を置き切妻屋根をのせた形式
△鐘楼の傍に立つ石燈籠....太い角柱の竿と笠軒下に設けた二軒垂木が特徴/基壇の上ではなく、地面に直接切石の礎石を置き、礎石上に円柱を立てて建てられた鐘楼
△天井を設けているので塞がれた妻面があり装飾が施されている/鐘楼の真ん中の桁に下がる梵鐘....鐘楼の天井は格天井になっていて、格間には中央に卍を入れた法輪(と思う)が描かれている
△大棟端に鳥衾を乗せた小さな鬼板、拝には猪目懸魚、妻飾は虹梁蟇股式....垂木や組物や蟇股などが丹塗りされている
△本堂境内の西端に樹林を背にして聳える三重塔....右が百観音堂、左は鐘楼
△三重塔は和様形式を基調とし、禅宗(唐)様を加えた中世の建築....塔高は約21メートル
△寄棟造鉄板葺の百観音堂...正面に庇を設けて百番札所としている
△小山寺の三重塔は関東以北で建てられた最古の三重塔(国内の三重塔の中で31番目に古いとされる)
△杮葺の三重塔(重文)....室町時代寛正六年(1465)の創建で、塔内の須弥壇に釈迦三尊を安置している
△初層に親柱に逆蓮頭を乗せた切目縁を巡らす
△初層の中央間は板唐戸、脇間は菱格子窓....中央間の組物間に牡丹唐草彫刻を配した鎌倉室町風の本蟇股
△初層の組物は三手目が尾垂木の三手先、中備は中央間が脚間に透かし彫りの牡丹彫刻を配した本蟇股、脇間は蓑束
△軒廻りは各層いずれも二軒繁垂木で軒(蛇腹)支輪と軒天井がある
△二層と三層の組物はいずれも三手目が尾垂木の三手先、中備は中央間と脇間いずれも撥束....周囲に組高欄付き縁を巡らす
△歴史を感じさせる優美で荘厳な三重塔....一部の水煙が欠けた相輪の宝珠の刻銘に建築年号と造営者(大旦那賀谷朝経・大工棟梁 宗阿弥家吉等)が記されている