何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

旧萩野家住宅-(1) (町田)

2024年08月26日 | 史跡探訪-日本編

【東京・町田市】旧萩野家住宅は江戸時代末期、町田市三輪町に医院を兼ねて建てられた住宅。 萩野家より町田市に寄贈され、昭和四十九年(1974)に薬師池公園の現在地に移築・復元された。 萩野家は江戸時代に常陸国茨城郡笠間に存在した笠間藩の医家を出自とし、町田の街道沿いに転居してきて幕末まで開業していた医家だった。 明治期に転業し、三代目より農業を専業としていた家柄。昭和四十九年(1974)に薬師池公園の現在地に移築・復元された。 建物は当時の一般農家と違って妻入りで、近世の古民家では珍しく正面と背面の二か所に土間がある。

★袖塀を備えた瓦葺きの薬医門をくぐると、赤く染まった春紅葉に隠れるように茅葺屋根が見える。 春紅葉が混じる深い緑に囲まれて旧萩野家住宅が東面で建つ。 入母屋造りでバランスのとれた佇まいや、しっかりした船枻造りの軒下などから、格式の高さを感じさせる外観だ。 
船枻造りは正面の東側と南面そして北側の一部(チョーゴザシキ部)の軒下。 珍しい妻入りで、前ダイドコロ出入口の左右の板戸は、町屋でみられる上下2段に分かれた揚げ戸になっている。

△旧萩野家住宅の入口に建つ薬医門....もと下鶴間の瀬沼靖木枝家の門で、市が寄贈を受け、旧萩野家住宅と同時期に公園内に移築された

△瓦葺きの袖塀を備えた切妻造桟瓦葺の薬医門....昭和十二年(1937)の建築

△拝に鶴の彫刻が施されている

△門から眺めた赤く染まった春紅葉と奥に茅葺屋根の古民家

△古民家と後方に板倉が見える

△入母屋造茅葺で妻入りの旧萩野家主屋....江戸時代末期建立の医院の住宅

△東側の妻面に出入口があり、南側面するツギノマとオクザシキには鉤形(L字形)の内縁がある

△東側と南側の軒下は太い材木を使った頑丈な船枻造り

△妻側が正面で、前ダイドコロ入口の左右の板戸は上下2段に分かれた揚戸

△正面側に前ダイドコロ(台所)と入口右に細かな格子窓が嵌められたチョーゴザシキの二間があり町屋風の構え

★中に入ると広い土間で前ダイドコロと称するのだが、天井が低く、竈などはなく炊事場の雰囲気がまったくない。 左右に差し鴨居が組まれた大黒柱があり、左側は縁側がある南面で畳敷きのツギノマとオクザシキとが連なっている。 ツギノマとオクザシキは襖で仕切られ、上に菱格子欄間を設けている。
奥のオクザシキの西壁側に床の間と天袋と地袋のある棚が設けられ、床の間の左は付書院のような造りになっている。 前ダイドコロに入って直ぐ右側の長式台があり明障子を入れた板戸の部屋は畳敷きのチョーゴザシキ(調合座敷)で、部屋の北壁側に薬や医療機器等を収納する薬戸棚がある。 外に出てツギノマとオクザシキに面して縁側がある南面側に。 前ダイドコロの土間と床上の境の出っ張った白壁の先が縁側で、境部の外に屋根を乗せ窓を設けた衝立のような珍しい仕切りが立っている。

△低い天井がある前ダイドコロ正面の左の腰高明障子戸は六畳敷のツギノマ、奥に十畳敷のオクザシキの二間続き、右の長式台がある腰高明障子戸は九畳敷のナカザシキ....真ん中に大黒柱があり左右に差し鴨居が組まれている

△手前のツギノマを通して眺めたオクザシキ

△ツギノマとオクザシキが襖で仕切られ、上に菱格子欄間が配されている

△オクザシキの西壁側に床の間と天袋と地袋の棚....床の間の左は付書院のような造りだが....

△土間右側の長式台があり明障子を入れた板戸はチョーゴザシキ....左の腰高明障子戸はナカザシキ

△六畳敷のチョーゴザシキ(調合座敷)....部屋の北壁側に薬や医療機器等を収納する薬戸棚がある

△前ダイドコロ(土間)の南側側面からも出入りできる造り....雨戸が入った所は縁側でツギノマとオクザシキに面している

△出っ張った白壁部は縁側部分で、土間と座敷の境の外に屋根を乗せ窓を設けた衝立のような仕切りが立つ/土間の白壁の上部に明り取りの障子窓がある

△建物の南側側面....雨戸部分はツギノマとオクザシキの縁側

△縁側から覗いたオクザシキ....オクザシキと榑縁の縁側は明障子戸で仕切られている/ツギノマの縁側から覗いた前ダイドコロの土間(右)、奥の大黒柱の左右にナカザシキとチョーグザシキ....土間側の見事な差し鴨居
















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薬師池公園を散策!

2024年08月21日 | ひとり言

【東京・町田市】安土桃山時代の天正十八年(1590)、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・北条氏照の命により、多摩丘陵の南部の起伏の激しいこの地に水田用水池として福王寺溜池(現在の薬師池の原形)が造られたのが始まり。 江戸時代の宝永五年(1708)と文化十四年(1817)に泥砂で埋まって渇水状態となったが、日照り喘ぐ七町余歩(約7ヘクタール)の水田の水を得るため地域の村人によって溜池が掘り直された。
昭和三十六年(1961)、町田市は野津田町の暖沢地域にある薬師池公園などを都市計画公園にすることを決め、自然の地形を生かした造園がスタート。 江戸時代の古民家として、昭和四十九年(1974)に旧荻野家住宅、 翌年、旧永井家住宅(国指定重要文化財)が園内に移築され、昭和五十一年(1976)に日本の原風景を感じさせる「薬師池公園」が開園。 平成十九年(2007)に「日本の歴史公園100選」に選定され、薬師池の周りの四季折々の彩が訪れる人々を楽しませてくれる。

★鎌倉街道のバス停「薬師池」で下車し、街道の西側に広がる薬師池公園に向かう。 坂を下って行くと太鼓橋が架かる薬師池の辺に「新東京百景 薬師池」の標石が建つ。 空が広くて明るい薬師池公園は、鮮やかな樹林と植栽などに囲まれていて里山を感じさせる。 池を南北に分けるように架かるジグザク橋のような2つのタイコ橋を北側から渡る。 橋上から南側の池を眺めると、池の真ん中に小さな寄棟屋根の建物が浮かび、穏やかな水面には、白い雲が浮かぶ青空と樹林の鮮やかな緑が映っている。 タイコ橋を渡り、薬師池の周囲を時計回りに進んで、園内の諸施設を見学。 藤棚、水車小屋、薬医門、旧萩野家住宅(医家)、旧永井家住宅、福王寺王寺薬師堂などがあり、古建築・古民家好きにはなかなかの歴史公園だ。

△薬師池の北の辺に建つ平成七年(1995)建立の「新東京百景 薬師池」の標石

△薬師池の北側の辺からから眺めた池に架かるタイコ橋

△ジグザグ橋のように繋がれている2つのタイコ橋

△タイコ橋から眺めた南側の薬師池....穏やかな水面に映る白い雲が浮かぶ青空と樹林の鮮やかな緑

△タイコ橋から眺めた池に浮かぶ小さな寄棟屋根の建物と奥に藤棚

△手前(池側)の藤棚....咲き誇る藤の花は美しいが、金属製パイプの棚が気になる

△奥側の丸太の藤棚の藤は品種が異なるようでまだ満開ではないようだ

△花菖蒲田に架かるジグザク橋は九曲橋か?

△赤く染まった春もみじの間から眺めた寄棟屋根の水車小屋

△水車小屋の北側にある古井戸跡?....井戸枠に釣瓶が置かれている

△第2水流溝の水が水車に利用されている

△上掛け式の水車

△花菖蒲田の南側奥に建つ宝形屋根の東屋

△旧萩野家住宅への参道に建つ切妻造桟瓦葺きの薬医門

△江戸時代末期建立の入母屋造茅葺で妻入りの旧萩野家主屋....医院の住宅

△第1水流溝の大滝

△江戸時代中期建立の寄棟造茅葺の旧永井家主屋(国指定重要文化財)....東京都下で最古に属する農家建物

△薬師池公園の西側に鎮座する入母屋造本瓦葺の福王寺薬師堂(野津田薬師堂)

△薬師池の北側に広がる芝生広場、奥の建物は町田フォトサロン

△薬師池公園の案内板....園内の見どころがよくわかる















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企画展「江戸当世 図上旅行」を鑑賞!-(2)

2024年08月16日 | ひとり言

【横浜・金沢区】奥の展示室には川崎宿・保土ヶ谷宿・藤沢宿・小田原宿・箱根宿・洗馬宿・大月宿のそれぞれの旅先の様子が描かれた絵図が展示されている。

★「諸国巡覧 懐宝道中図鑑」は先の「大日本道中細見絵図」と同様、各宿駅の名所や脇街道の入り口の案内、次の駅までの距離、駄賃(馬を使った人や荷物の輸送費)などを表と挿絵で案内した書物で、なかなか面白い。

△「東海道名所図絵」....嘉永二年(1846)歌川博家画....日本橋~境木(横浜市戸塚区)までの名所を紹介する狂歌本

△「諸国巡覧 懐宝道中図鑑」....各宿駅の名所や脇街道の入り口の案内、次駅までの距離、駄賃などを表と文で案内した書物

△「諸国巡覧 懐宝道中図鑑」の表面で、東海道や伊勢参りの案内図....秋葉山、鳳来寺(愛知県新庄市に鎮座する寺院)などが読み取れる

△「大師河原開帳ノ図」....江戸時代後期歌川国貞画、江戸時代の川崎大師(平間寺)の開帳には「出開帳」と「居開帳」があった....「大師河原開帳ノ図」には人物に歌舞伎役者の名札が付されている

△「大師河原厄除 弘法大師御開帳奉納物番附」....天保十年(1839)作で、天保十年6月17日から行われた「弘法大師御開帳」で奉納された供物の番付

△「大師河原厄除 弘法大師御開帳奉納物番附」での最高額は大傳馬丁の鰐口講中と通油町の魚重が布施した金百両

△「西湖之八景武之金沢模写図」....文政十年(1827)頃北尾重政(2代目)画で、光傳寺(金沢区六浦)が文政十年に並木天満宮を再建した記念に開版した金沢八景の一覧図

△「西湖之八景武之金沢模写図」には金沢きっての旅亭の東屋(生簀の描写もあり)と千代松が描かれている

△「東海道七 五十三次 藤沢」....嘉永年間(1848~54)歌川広重画で、「東海道五十三次」シリーズのうち、東海道を隷書で記した「隷書東海道」の夕刻の藤沢宿の様子を描いたもの

△「相州江之島弁財天開帳参詣群集之図」....嘉永四年(1851)歌川広重画で、江之島神社のシンボル「弁天様」(日本三大弁財天)参詣のため江之島に向かって先頭を歩く女性たち

△「相州江之島弁財天開帳参詣群集之図」の先頭の桃色の傘は「三本の杵」の模様、次の黄色の傘は「菱に三つの柏」模様、その次は赤色の傘は「角木瓜」の模様が描かれている

△「東海道箱根山中図」....文久三年(1863)歌川貞秀画で、箱根山中の大名行列を描く大判3枚続きの浮世絵

△「東海道箱根山中図」は鉄砲を担いだ物物しい姿の従者で構成された行列で、東海道を西に進み京に向かっている

★「富岳絶頂俯望図」は富士山頂上の上空から見下ろしたように描かれた俯瞰図(鳥瞰図)で、大きな火口付近に大日堂が鎮座し、大日堂への参拝道4本が描かれている。
旅路の双六が2紙ある。 日本橋をでて鎌倉・江之島・大仙を巡って日本橋に戻る葛飾北斎画の「鎌倉江ノ嶋大山新板往来双六」と、江戸日本橋を振り出しとし、東海道五十三次の宿駅のほか名所・旧跡を巡って京都三条大橋を上がりとした初代歌川広重画の「東海駅路狂歌寿娯録」で、双六ではなく「寿娯録」と記されている。
資料の中に八隅芦庵という旅好きの一般人が著した「旅行用心集」といういわゆる旅行ガイドブックがある。 旅の心得の他、旅に関するあらゆる情報を網羅したマニュアルで、旅行の際に気を付けることを「道中六十一ヶ条」にまとめている。 ネットで「旅行用心集」の現代語訳を読んでみたが、まさに微に入り細を穿った旅のハウツー本であり、現代の旅人にも役に立つことが満載で大いに感心した。

△「富岳絶頂俯望図」....寛政元年(1789)、和爾部信胤彦著で、富士山頂上の上空から眺めたように描かれた俯瞰図....山頂に鎮座する大日堂八葉内院への4本の参拝道が絵地図で案内されている

△「富岳絶頂俯望図」の山頂図で、火口脇に鎮座する大日堂が描かれている

△「鎌倉江ノ嶋大山新板往来髞双六」....天保二年(1831)初版、葛飾北斎の画と柳亭種彦の詞書で日本橋を出発して鎌倉・江之島・大仙を巡って日本橋に戻る旅路の双六

△「東海駅路狂歌寿娯録」....弘化~嘉永年間(1844~54)頃、歌川広重の絵と檜園梅明の狂歌で、東海道の宿駅・名所を巡る双六....日本橋を振り出しとし京の三条大橋を上がりとしている

△振り出しの日本橋そして品川、川崎と続く....枠外に「禁賣買」と記されている

△上がりの京の三条大橋、一つ手前に大津

△「旅行用心集」....文化七年(1810)八隅蘆庵著で、旅の心得を記した書....旅に関するあらゆる情報を網羅した案内書

△「大山巡富士詣」....文政五年(1822)十返舎一九著で、念願の富士参詣のため知人と江戸出発から始まる滑稽本....小田原宿から足柄峠を越え、須走から富士山頂に登った

△「滑稽江之嶋土産」....文化七年(1810)十返舎一九著で、長編滑稽本「東海道中膝栗毛」の人気を受けて著した滑稽道中記の一つ....とぼけ役の頓太郎と女好きの弥助が鎌倉・江之嶋を巡る「滑稽江之嶋土産」全3編の内の第3編

△「 箱根山七温泉江之島鎌倉廻 金草鞋」....天保四年(1833)歌川国安画で、十返舎一九著の長編滑稽本「東海道中膝栗毛」と並行して著した滑稽道中記

△「扶蘇名所名物集 武蔵国」....安政六年(1859)歌川芳虎画で、安政四年~七年(1857~60)に開版された全19冊の狂歌集











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企画展「江戸当世 図上旅行」を鑑賞!-(1)

2024年08月11日 | ひとり言

【横浜・金沢区】5月24日~7月21日(2024年)に県立金沢文庫で開催された企画展『江戸当世 図上旅行』を鑑賞した。 企画展の散らしによると、「江戸時代、全国に53カ所の関所があり、手形を持たずに関所を避けて通ろうとする「関所破り」は死罪だったので、自由な旅が難しかった庶民は、旅本や絵地図の上での気ままな旅路を楽しんだとものと推される」とある。 この展示では、県立金沢文庫が所蔵する草双紙や絵地図を通して江戸時代の旅の楽しみ方を追体験する…と記されている。
散らしの中に「写真撮影を解禁」の文字を見つけて嬉しくなった。 一般に展示物の撮影はNGなのだが、「本展示期間限定で展示室内の写真撮影を解禁、広報担当としてSNSで投稿を....」と記載されていたのだ。 県立金沢文庫で展示物を撮影するのは、2020年の企画展「江戸刷リ物品定メ」(2020年10月29日投稿)以来で2度目だ。 二階の展示室には江戸時代の資料54点が展示されていたが、当ブログには興味を引いた草双紙や面白い絵地図などに絞って掲載したが、少々天こ盛りのきらいがある....かも。

★開館早々の訪問だったが、二階の展示室に上がると来館者はまだご婦人一人だった。 階段を上がった所の展示室の直ぐ右手に「関所手形」と「往来切手」が展示されている。 「往来切手」とは番所を通るための通行証で、「切手」とは切符手形の意だそうだ。 次の展示は1700年代前半に作製された絵地図。 その一つの「日本道中行程記」は折り畳んで持ち歩く陸・海行程図で、朝鮮半島の釜山港から蝦夷にいたる道中の宿駅名と各駅・船着場の距離とが記されていて素晴らしい。

△称名寺境内と繋がるトンネルの中から眺めた県立金沢文庫

△県立金沢文庫の正面入口

△二階展示室の階段上の壁に掲示されている「江戸当世 図上旅行」のポスター

△ポスター前から見た二階展示室....多くの「江戸時代の旅の必需品」が展示されている

△最初の.展示は関所を通るための「関所手形」(4通)と番所を通るための「往来切手」(1通)....参考として壁に「長介身元請状」と「おもよ身元請状」が

△「箱根関所手形」(複製)....嘉永五年(1852)、伊勢神宮を参詣する百姓9人に発行されたもの

△「箱根関所手」(複製)....(推)嘉永七年(1854)、江戸留守居役・益田伊豆が家来4人を江戸から長門国に赴かせるため発行したもの/「往来切手」....江戸留守居役・志波左転太が主従3人の赴任のため発行したもの

△「東海道分間之図 巻1」....元禄十六年(1703)作で、巻1は日本橋から小田原までの分間絵図....日本橋~京までの道程を描いた絵地図は巻5まである....「分間」とは3分(約1cm)を1町(約110m)とする縮尺の意

△「日本道中行程記」....享保九年(1724)作で、懐中用の陸・海行程図....「西ハ従朝鮮釜山海對馬壱岐五島平戸」、「東ハ到奥仙臺森〇弘前松前蝦夷ノトロ」の記

△「日本道中行程記」の西端に五嶋、平戸、長崎、諫早などの地名が読み取れる

△「日本道中行程記」の東端に記されている江戸日本橋

△「東海道名所画帖」....嘉永四年(1851)歌川広重画、東海道の名所を絵と俳諧で巡る句集

★葛飾北斎画の「東海道名所一覧」は鳥瞰図で、江戸日本橋から京都への東海道を1面に詳細に描いていて流石だ。 神奈川県の現地名が江戸時代の絵図の中にあって嬉しくなった。 また、列島全体を記した「大日本道中細見記」と「大日本道中細見絵図」では、前者は諸街道の宿駅や名所・旧跡を、後者ではさらに御城下・名取寺社・宿名・國名・御関所・御番所・七道などが事細かく記され、また、海路運賃表まで示していて驚いた。

△「東海道名所一覧」....文政元年(1818)葛飾北斎画で、江戸から京都への東海道を1面に描いた鳥瞰図

△「東海道名所一覧」の右下に「葛飾前北斎」と記されている

△「東海道名所一覧」の横浜周辺と三浦半島の絵図....図中に金沢村、能見堂、浦賀、燈明堂、走水などが読み取れる

△「東海道名所一覧」の鎌倉周辺の絵図....図中に光明寺、由比ガ浜、鎌倉、長谷、藤沢などの地名が確認できる

△「東海道名所一覧」の富士山南部の絵図....図中に田子浦、三保松原、久能山、あべ川(安倍川)などが読み取れる

△「大日本道中細見記」....江戸時代友鳴松旭画で、松前(北海道)~五島列島までの諸街道の宿駅や名所・旧跡を記した絵図....宿駅は黄色い丸、名所・旧跡は赤い丸で図示

△「大日本道中細見記」の江戸~沼津までの絵図....図中に金澤、鎌倉、小田原、伊豆、沼津の地名が読み取れる

△「大日本道中細見記」の京都、大坂付近の絵図....図中に伊賀、近江、京、大坂、淡路などの地名が読み取れる

△「大日本道中細見記」の四国、九州そして對馬・壱岐の図....図中に高松、今治、高知、宇和嶋、福岡、長崎、臼杵、熊本などの地名が読み取れる

△「大日本道中細見絵図」....弘化四年(1847)作で、折り畳み式の懐中用の絵地図....北は箱館(函館)、南は八丈島、西は五島列島までの陸・海路図....右端下に海路運賃表を標記

△「大日本道中細見絵図」の上総・下総、江戸から掛川までの絵地図....図中に金澤、小田原、沼津、伊豆などが読み取れる

△「大日本道中細見絵図」の京、大坂、なら(奈良)付近の絵地図....図中に近江、伊賀、高槻などが読み取れる

△「総房海陸景勝奇覧」....江戸後期作葛飾北斎画、空から眺めたように描いた鳥瞰図で、江戸内海(東京湾)を挟んで三浦半島を房総半島が囲むように描かれている

△「総房海陸景勝奇覧」の三浦半島の東側半分の絵図

△「総房海陸景勝奇覧」の東端(東京湾側)にのじま(野島)、申しま(猿島)、六ツ浦、走り水、燈明堂などが読み取れる

△「日本沿岸海路図」....文政十三年(1830)作で、本州と四国は旧国名や国境線がなく、色分けは沿岸部のみ国が制していることを示す(九州は国名があり、沿岸部の浦や港名が記されている)

△「日本沿岸海路図」の関東地区で房総半島、江戸、三浦半島、伊豆半島が色分けされている












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等覚院-(2) (川崎)

2024年08月06日 | 寺社巡り-神奈川

【川崎・宮前区】等覚院は通称「つつじ寺」と呼ばれる。手入れが行き届いた庭園に約2,000株のツツジが植栽され、「神奈川花の100選」に選定されている。 見頃の時期は4月中旬から5月上旬。

★仁王門をくぐると傾斜地一面に植栽されたツツジのこんもりとした緑が美しい。 ツツジの中の石段を上り詰めると、側壁に法輪を配した箱棟を乗せた屋根の本堂が建ち、右側に客殿と庫裡が連なっている。 まずは唐破風の向拝に下がる鰐口が鳴らしてご本尊に参拝する。 向拝の天井を見上げると、水引虹梁上に精緻な龍、その上の梁に二羽の鶴、兎毛通は鳳凰そして迫力がある唐獅子の木鼻などどれも見事だ。 中央間の梁に山号の「神木山」の扁額が掲げられているが、「山」の字が「王」にしか見えない。 堂内に入ると、外陣と内陣とが格子壁で仕切られ、内陣に地蔵尊像と最澄坐像そして猛煙を背負い憤怒の形相の不動明王坐像が鎮座し、参拝する人を見守っている。 撮影禁止の表示がなかったので、これらの尊像を撮らせていただいた。

△仁王門を通して眺めた境内....傾斜地に見事なツツジの植栽、真ん中に本堂への石段

△仁王門から本堂境内の間の傾斜地に植栽されたツツジと真ん中に本堂への石段がある....ツツジは境内に約2,000株植えられているとか

△石段を上り詰めた所から眺めた境内の本堂と客殿(右隣)....堂前の松の剪定が行われていた

△宝形造銅板葺の本堂....安政六年(1859)の再建

△屋根頂部に法輪を配した箱棟、向拝の唐破風屋根に鳥衾付き鬼板....鬼板と破風に菊の紋を配す、兎毛通は鳳凰の彫刻

△唐破風の彫刻....小壁に鳳凰や松、水引虹梁の上に龍

△迫力がある唐獅子の木鼻....身舎と向拝柱を繋ぐ海老虹梁は途中で丸桁を支えている

△渦文と植物彫刻の手挟....海老虹梁の途中で彫刻を設けた斗栱を乗せて丸桁を支えている

△正面は五間で中央間に両折両開の桟唐戸、両脇間は両折両開の桟唐戸と連子窓

△中央間の梁の上に掛けられた「神木山」の扁額....向拝に鰐口が下がる

△格子で仕切られた内陣に向かって外陣左側に鎮座する不動明王坐像....天台宗開宗千二百年を慶讃して造立された(総丈3.6メートル)....平成十九年(2007)4月に入仏開眼法要が執り行われた

△外陣右側に鎮座する地蔵尊坐像と伝教大師(最澄)坐像

★本堂前では三人の庭師による松の木の剪定が行われていた。 向拝の脇に「奉納 百度」と彫られた飾り手水鉢が置かれている。 堂前参道脇に二基の石燈籠が立つが、火袋に法輪を配し、竿や脚など装飾性の高い造りだ。 本堂前の境内に建つ手水舎には、精緻な四体の邪鬼の脚に支えられた手水鉢がある。 手水舎の近くに植栽に囲まれて「管仕房」の額が掲げられた建物がある。 ”管仕”は初めて知る語だが、調べたら”ツツジ”と読み、ツツジ科ツツジ属の常緑・落葉低木の総称とあるので、「管仕房」は境内に2,000株あるツツジを専門に手入れする庭師の住まいだと思うが....。 調べたら、ツツジは”躑躅”と書く。

△本堂前の高い基壇の上に立つ石燈籠、その先に手水舎が建つ

△明治三十二年(1899)造立の装飾性が高い石燈籠/明治二十年(1887)造立の「奉納 百度」と彫られた石柱

△切妻造銅板葺の手水舎....剪定作業の梯子が無造作に立てかけられている

△両妻側は唐破風のように湾曲している

△安政七年(1860)造立の手水鉢....「無垢水」と彫られた手水鉢は川崎市地域文化財

△手水鉢の四脚は精緻な邪鬼の彫り物

△切妻造桟瓦葺の管仕房....境内のツツジを世話をする植木職人の住まいか?

△引き戸の上に「管仕房」の額....”管仕”はツツジと読み、ツツジ科ツツジ属の常緑・落葉低木の総称とある

△本堂の右手に連なる客殿と庫裡

△入母屋造桟瓦葺で裳腰を設けた客殿....境内側に高欄付き縁がある

△本堂に連なって建つ客殿と庫裡

△入母屋造桟瓦葺の庫裡....昭和五十七年(1982)の再建

△万福稲荷堂....令和二年(2020)に移設建立された

△箱棟を乗せた切妻造銅板葺の稲荷堂....堂傍に令和二年(2020)造立の「全ての法(現象)は本質的に一つである」とする萬法一如と彫られた石碑が建つ








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等覚院-(1) (川崎)

2024年08月01日 | 寺社巡り-神奈川

【川崎・宮前区】創建年や縁起、開山が不詳の天台宗の寺院で、寺号は長徳寺。 江戸時代の文化・文政期(1804~1830年)に編纂された「新編武蔵風土記稿」の長尾村の頁に「等覺院」の記録がある。 秘仏本尊の不動明王立像が納められている厨子の前に安置されている木造薬師如来坐像(もと江戸茅場町にある智泉院の本尊、寄木造で玉眼)は、近年の解体修理で室町時代の造立とされた。 宗旨は天台宗で、本尊は不動明王立像。関東三十六不動霊場第6番札所。

★バス停「神木不動」から坂道を上っていくと、石を積み上げた垣の上に寺号標石が建ち、道が左右に分かれている。 右は堂宇境内への参道で、左は一般道で少し先に楼門が見える。 道に面した楼門は仁王門で、すり鉢の底のようなところに建つ。 楼門右手と背後の傾斜地に植栽されたこんもりした緑のツツジ(躑躅)が鮮やかだ。
仁王門は約40年前の明治期の建立だが、古びた佇まいで趣を感じさせる。 四方方の台輪の上に、脚間に十二支の彫刻を配した中備の蟇股があり、自分の干支を見つけて口元がついほころんだ。 両側の金剛柵の金網の中に鎮座する躰に天衣をまとった仁王像を拝観するが、違和感を感じた。 それは通常向かって右側が阿形像なのだが、ここでは何故か逆....この配置を目にしたのは初めてだと思う。

△等覚院への参道....右は本堂境内への参道で左は一般道....奥に仁王門が建つ

△「神木山 等覚院」と彫られた寺号標石....平成二十五年(2013)の造立

△一般道に面して建つ豪壮な楼門の仁王門

△入母屋造銅板葺の仁王門....明治十五年(1882)の建立

△上層に擬宝珠高欄付き回縁....後方の傾斜地の植栽のツツジが見事

△二間の側壁は下層・上層いずれも横羽目板   屋根の入母屋破風の拝に配された鶴の彫刻

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手目と三手目が尾垂木の三手先、中備は蟇股....上層の正面と背面は中央に桟唐戸、両側に連子窓を配す

△回縁を支える腰組は三手先....腰組間の台輪の上に蟇股を配す

△木鼻は角は唐獅子で真ん中は象

△台輪上の蟇股の脚間に十二支の彫刻を配している

△仁王門の両側の金剛柵の奥に仁王像が鎮座

△天衣を纏った仁王像は左に阿形、右に吽形....一般に阿形は右側に鎮座するが、ここでは何故か逆だ

△戸口の通路側一部に金網がなく、そこから見上げた仁王像

△楼門の戸口の2枚の天井絵は迦陵頻伽

△迦陵頻伽は上半身が人間で、下半身が鳥という仏教における想像上の生物

★仁王門の周りには絵馬堂が建ち、数体の石仏が鎮座し、一基の石燈籠が佇んでいる。 また、仁王門の背面には白砂が敷かれていて、その中に石組が配されているのでまるで小さな枯山水庭園のようだ....そうなのかな? 仁王門の戸口に入ると、天井に鮮やかな2枚の飛天のような絵が描かれている。 後で調べて知ったのだが、”迦陵頻伽”という仏教における想像上の生物だそうで、上半身が人間、下半身が鳥というお姿だ。

△仁王門右側の植栽傍に鎮座する三基の石造物....奥の傾斜地に植栽されたツツジと高台に建つ庫裡....直裁前の白砂と石組は枯山水庭園か?

△右手に鎮座する石造物は巡拝塔(左端)と二基の石仏....巡拝塔は昭和五年(1930)の造立で、「四国・西國・秩父・坂東の参拝記念塔」と彫られている

△駒型青面金剛庚申塔(日月瑞雲、3猿).....正徳四年(1714)の造立とみられる/舟型石仏は観音菩薩とみられる....造立年は建長三年(1251)か?

△二王門の左手に建つ絵馬堂と石燈籠

△寄棟造銅板葺の絵馬堂....平成六年(1994)の再建で、「冥顕」(冥界と顕界)の額が掲げられている

△吹き放ちの造りで、絵馬を掛ける壁の三面と梁の上に額絵馬が掲げられている

△延寶九年(1681)造立の重厚な石燈籠   絵馬堂の脇に佇む「不動尊」と彫られた石仏

△「つつじ寺」と呼ばれる等覚院の境内に咲き誇るツツジ群(NETから拝借)












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旧島崎藤村邸-(2) (大磯)

2024年07月26日 | 史跡探訪-日本編

【神奈川・中郡・大磯町】藤村は、昭和十六年(1941)に新杵が所有する貸別荘(邸宅?)を借り受け、翌年8月に購入し、終の棲家とした。 昭和十八年(1843)8月に永眠するまでの2年余、藤村はこの家を「静の草屋」と名付けて静子夫人と過ごした。 藤村の旧邸は表問、主屋、離れからなるが、離れは藤村亡き後の昭和二十年(1945)に静子夫人が建てた。

★建物の東側に小庭に面した居間兼寝室があり、東南側に一間幅の鉤形の広縁があるが、畳敷きで居間兼寝室よりも広い。 広縁の外側の建付けは希少な大正ガラス を入れた腰高格子戸で、燦燦と陽が差し込んでいる。 軒下に目を向けると、垂木を支える軒桁は製材(角材)ではなく丸太のまま使っている。 広縁の天井は平天井と化粧屋根裏の掛込天井とが半々で、掛込天井は軒先まで延びている。

△建物の南東側の広縁と明障子戸の居間・寝室

△居間・寝室の南面と東面に設けられた畳敷の広縁....両広縁前に沓脱石が置かれている

△八畳の敷の居間・寝室の南側は腰高明障子で、鴨居・内法長押の上に上部を緩く湾曲させた櫛型の格子欄間を設けている

△屋根の疎垂木を支える軒桁は製材(角材)ではなく丸太のまま/引き戸には希少な大正ガラス が使われているようだ

△南側の小庭から覗いた畳敷の広縁....右奥は東側広縁

△南側の広縁の天井は、平天井と化粧屋根裏の掛込天井(傾斜天井)....突き当りは廊下で、左手見えるのは書斎

△東側の小庭から見た鉤形の広縁と大正ガラスが入った腰高格子戸の引き戸を通してみた南側の小庭

△東側の広縁....南側と同じの平天井と化粧屋根裏の掛込天井(傾斜天井)

△掛込天井が軒先まで延びている....掛込天井は垂木が見える化粧屋根裏天井

△八畳の敷の居間・寝室の東側....南側と同じ造りの腰高明障子と櫛型の格子欄間

★東側広縁の北側の外に小さな濡れ縁があり、その脇の竹穂垣で仕切られた奥に厠がある。 濡れ縁の前には石組みらしきものがあるので、ここに蹲踞手水鉢が置かれていたと思う。 敷地内の南東に植栽に隠れるようにして離れが建つ。 離れは藤村亡き後に静子夫人が書庫として建てたが、立入禁止で敷地内から近づけずだ。 表門から道路に出て、割竹塀越しに離れを拝観した。

△東側広縁の北側に小さな濡れ縁があり、竹穂垣で仕切られた奥に厠がある/濡れ縁前に石組みがあるのでここに蹲踞手水鉢があったと思う

△建物の北東端にある厠....母屋と独立して疎垂木を支える丸太の軒桁、そして小さな庇と面格子を付けた窓がある

△西側の道路から眺めた桟瓦葺き屋根の旧島崎藤村邸....割竹塀に勝手口への両開き庭木戸、母屋の手前の本瓦風銅板葺き(と思う)屋根は玄関

△敷地内の南東に建つ離れ(立入禁止)

△竹垣越しに眺めた切妻造桟瓦葺の離れ

△離れは藤村亡き後の昭和二十年(1945)、静子夫人が書庫として建てた

△離れの南面....左側は雨戸がある小さな内縁か?




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旧島崎藤村邸-(1) (大磯)

2024年07月21日 | 史跡探訪-日本編

【神奈川・中郡・大磯町】旧島崎藤村邸は大正末期から昭和初期にかけて建築された建物で、菓子で有名な新杵が所有する貸別荘(邸宅?)だった。 藤村は昭和十六年(1941)1月、休養で湯河原町を訪れる途中、大磯の祭り「左義長」の見物に立ち寄った際、温暖なこの地を気に入り、大磯での生活を決意した。

★国道1号線から住宅地に入り、しばらく進むと割竹塀に囲まれた旧島崎藤村邸の前に着く。 教科書でしか知らない島崎藤村だが、晩年ここに住んでいたと思うと感慨深い。 竹穂垣を袖塀のように設けた表門を入る。 正面が建物の西側で砂利を敷いた中、飛石を配した奥に玄関があり、その手前に女中部屋の肘掛け窓がある。 建物内は立入禁止とのことで、表門脇の庭木戸から小庭に入る。

△穂垣造りの割竹塀に囲まれた旧島崎藤村邸....屋根は寄棟造桟瓦葺で、L字に配している(居間の東側の屋根の形は見えず)

△切妻造木皮葺の表門....袖塀のように両側に竹穂垣を配している

△表門から眺めた主屋西側の外観....砂利と飛石を敷いた奥に玄関がある....手前右は女中部屋の窓

△庇を設けた女中部屋の肘掛け窓

△肘掛け窓から覗いた和室六畳の女中部屋

玄関は引き違い格子戸で、上に連子入り欄間がある....外壁は下見板張り

△主屋北側の外観....手前から浴室、台所、納屋そして便所で、浴室と台所に勝手口がある

△表門の脇に小庭への小さな庭木戸がある/上部に菱格子を入れた庭木戸

★小庭に入ると直ぐ左手の濡れ縁がある小庭に面した部屋は藤村の書斎で、晩年の多くをこの部屋で過ごしたそうだ。 濡れ縁の東端に珍しい仕切り壁がある。 縦棒を入れた窓のある脇障子風の仕切り壁は小庭を眺めるのに邪魔な存在だと思うのだが、わざわざ設けたのは何故かな。
書斎の白壁にハギの枝を格子にして、アケビのつるを巻き付けた茶室風の下地窓があり、なかなか趣がある。 書斎東面の外壁側に回る。仕切り壁の外側と書斎の外壁はいずれも板壁に杉皮を張りつけた造りで、仕切り壁は縦張りなのに対し書斎外壁は横張りだ。

△庭木戸からみた濡れ縁がある書斎と庭で、濡れ縁側に銅板葺の庇を設けている....奥の木立に隠れた建物は離れ(立入禁止)

△書斎濡れ縁前の苔生した割竹垣に囲まれた小庭

△濡れ縁から覗いた床の間がある和室四畳半の書斎....奥の廊下の左が女中部屋で右手に内縁がある

△濡れ縁の東端に設けられた脇障子風の仕切り壁....縦棒を入れた窓がある(西端の仕切りに窓なし)....室内に掲げらている静子夫人筆による「明月」の扁額(レプリカ)

△東側の白壁に設けた萩の枝を格子のして作られた茶室風の下地窓....書斎の入口は茶室の躙り口を模しているらしい

△濡れ縁の脇障子風仕切りの外面と書斎の外壁は板壁に杉皮張り....仕切り壁は縦張りで書斎外壁は横張り

△庇を設け萩の木の格子を入れた下地窓の雨戸は下から上に跳ね上げる方式

△書斎の右後方に連なる居間・寝室....広縁(内縁)外側にガラス入り腰高格子戸

△書斎や居間から眺められる小さな飛石や石組みが配された割竹垣で囲まれた小庭

△小庭に置かれた飾手水鉢/小庭に置かれた「涼しい風だね」のオブジェ....永眠直前に藤村が残した言葉











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旧金子家住宅-(3) (横浜)

2024年07月16日 | 史跡探訪-日本編

【横浜・戸塚区】展示資料によると大正時代の初めころまで養蚕を行っていたようで、根太天井を用いていること、土間の梁組の上部がスノコ、そして兜造り屋根がそれを裏付けているようだ。 寄棟造茅葺の納屋には、昔の農機具などが展示されている。

★敷地内の西側に竹藪を背にして小棟造りの納屋が建つ。 屋根は正面平側の軒を長く伸ばし、妻側の軒の下部を切り落として片側だけ兜造りにして窓を設けた造りだ。 平側の長く伸ばした軒は、身舎の柱から腕木を出して丸太の出桁を乗せ、それを柱で支えて垂木を乗せている。 兜造り側の窓は天井裏の中二階のもの。
入口前の左右に「唐蓑」と「筵を編む道具」が、内部には足踏み脱穀機などの農機具や農具が所狭しと展示されている。

△敷地内の西側に竹藪を背にして建つ納屋

△寄棟造茅葺の納屋

△正面の軒を長く伸ばし,妻側下部を切り落とした軒で、半分だけ兜造りにした造り....壁は土壁と腰壁は下見板張り

△妻面に銅板葺きの庇を設け、薪や道具の置き場としている

△身舎の柱から腕木を出して丸太の出桁を乗せ、それを柱で支えて垂木を乗せている

△納屋正面左右の腰壁の前に置かれた農具

△風の力で穀物と藁・塵を選別する「唐蓑(とうみ)」....中国から伝わった道具だそうだ

△馬車の車輪前に置かれた筵を編む道具/ご丁寧に筵の編み方や編んでる状態の筵が掲示されている

△天井裏への階段....左手に農具/納屋に保管されている足踏み脱穀機などの農機具・農具群

△納屋の北面(妻面)側....中二階になっている天井裏に窓が配され、身舎に鋼板葺の庇を設けている

★主屋の東側に妻側と西側に鋼板葺の庇を設けた瓦葺きの水屋が建っている。 情報はないが、造りから母屋と納屋とは建築時期が異なると思われる。 古民家の敷地から出て公園北門近くにある水車小屋に向かう。 水車小屋は耕作体験田んぼ傍に建ち、建屋の北側に堅牢そうな水車がある。 案内によると中には米つき機があり、杵で米をつく方法のものと回転式のものとがあるようだが、小屋内に入れず残念。

△主屋の東側に建つ水屋....妻面(正面)と西面に鋼板葺の庇を設けている

△切妻造桟瓦葺の水屋....主屋側に縦格子を入れた腰高格子戸....壁は上が土壁で腰壁は下見板張り

△北門近くの園路脇で耕作体験田んぼ傍に建つ切妻造板葺の水車小屋

△江戸時代,水力で歯車を回して米をつく方法が考えられ水車が用いられた

△小屋内に米つき機があり、杵で米をつく方法と回転式がある

△水車は低いところから高いところへ水を揚げるためにも用いられ、江戸時代から明治時代に各地で使われた


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旧金子家住宅-(2) (横浜)

2024年07月11日 | 史跡探訪-日本編

【横浜・戸塚区】旧金子家住宅母屋の建築様式は木造平屋建て寄棟造茅葺で、東側の屋根は兜造り。 「整形四ツ間取り」と呼ばれる間取りで、8畳敷の部屋を4室田の字状に配置した構造。 間仕切りに壁がなく、すべて戸・障子が用いられていて開放的な造りは、江戸後期から明治初期にかけて座敷で蚕の飼育をしていた名残のようだ。

★土間に入ると二基のへっついの他、鍋が掛かった自在鉤そして壁側に農具類が置かれている。 土間の北側にウナギの寝床のような台所がある。 台所の流し台の前の窓は無双窓だ。 土間の天井を見上げると、梁の上に養蚕に使用されたスノコが張られている。 また、部屋の天井裏に二階と三階があってスノコが張られ、それぞれ梯子が掛けられている。 天井裏の二階と三階と土間の天井二階で養蚕が行われた俤を感じさせる。

△入り口からみたドマ(土間)....二基のへっつい(竃)と自在鉤がある....奥の部屋は台所

△土間に下がる鍋を掛けた自在鉤/自在鉤の傍の柱に牛蒡注連縄を乗せた棚....地神(祖霊、農神)の神棚だろうか?

△土間の東側壁の前に展示されている農具類

△ドマの北側にあるダイドコロ(台所)....手前に流し台、奥に大きな戸/台所の流し台,前の窓は無双窓

△上に何かの道具が置かれた樽 茶器などを収納した大きな戸棚

△土間の竈の壁裏に設けられた展示室

△桁行三間の土間の天井....梁組の上部がスノコ(簀子)になっていて、養蚕に使用されたもの

★土間と床上部の境に立つ重量感のある大黒柱に三方から差し鴨居が組まれている。 床上部に上がると板戸と格子戸で縦横十字に間仕切りされた八畳の部屋が田の字に四室並んでいて、典型的な整形四間取りの造りだ。 広間の差し鴨居の高い位置に、一間幅の棚がある。 腰高格子引違い戸が閉まっていて中が見えないが、神棚を祀っていると思われる。 居間だけが板張りの床で、少し大き目の囲炉裏がある。 自在鉤は竹の棒に取り付けられ、竹の棒は開けられた天井の上に這わせた梁から吊り下げられている。

△大黒柱の三方に差し鴨居が組まれている....土間から見上げた部屋の天井裏、二階と三階への梯子がそれぞれ掛けられている

△土間(ドマ・ニワ)から見た4つの部屋....整形四間取りで、8畳の部屋を4室田の字に配置

△土間から見たヒロマ(広間)とその奥はオク(奥)

△土間から見たイマ(居間・ザシキ)とその奥はナンド(納戸)

△広間に置かれた子供の遊具/広間の大きな差し鴨居部に設けられた腰高格子引戸、天井近くの中央に蟇股を配した戸棚

△奥から見た広間....左手は囲炉裏がある居間

△広間から見た囲炉裏のある居間

△納戸から見た居間....奥は土間/自在鉤は竹の棒に取り付けられ、竹の棒は開けられた天井の上に這わせた梁から吊り下げられている

△奥から見た納戸と右手は居間



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