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何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

池上本門寺の五重塔

2025年08月01日 | 最古・唯一などの遺構
今回をもってgooブログへの投稿を終了します。  いままで訪問してくださった方々に感謝いたします。 なお、近日中に他ブログサービスにて新規に開設する予定です。

【お知らせ】8月11日(月)、 アメーバブログ にて「何気ない風景と独り言」を開設いたしました。 ご訪問をお待ちしております。


【東京・大田区】関東に現存する最古最大の五重塔。
鎌倉時代弘安五年(1282)に創建された池上本門寺(開山は日蓮聖人)の境内に聳える五重塔で、第2代将軍徳川秀忠の病気平癒祈願が成就したため、慶長十三年(1608)、江戸幕府によって建てられた。 明治四十四年(1911)、国指定重要文化財に。 関東には江戸時代に建立された五重塔が四基現存するが、塔高約29メートル、初重のみが和様、二重以上が禅宗様(唐様)で、両様式を混用した建築様式が特徴。 江戸時代建立の五重塔は、池上本門寺以外では法華経寺、旧寛永寺そして日光東昭宮にある。
軒廻りは各重いずれも二軒だが、初重は繁垂木で二重以上は扇垂木。 組物は各重いずれも三手先だが、初重は三手目だけが尾垂木で二重以上は二手目と三手目が尾垂木。 中備は初重が脚間に十二支を配した彩色された蟇股で、二重以上は間斗束(蓑束?)。 二重目の円柱の上に粽が確認できるので、三重以上も同様と思われる。 また二重以上には逆連柱高欄の廻縁があり、出三つ斗の腰組で支えられている。 上層への逓減率が少なく、短い相輪、さらに心柱が初層天井の梁上に立つなどの特徴があり、極めて貴重な塔建築。

△慶長十三年(1608)建立の五重塔....徳川二代将軍秀忠の乳母・正心院日幸尼(岡部局)が秀忠の病気平癒を願って建立された....塔内には一塔両尊像と四菩薩像を安置

△方三間で、塔高(基壇から相輪先端まで)は約29m、屋根は初重と二重が本瓦葺で三重以上は銅板瓦葺、建築様式は初重が和様で二重以上は禅宗様

△初重は高欄無しの切目縁、二重以上は逆連頭の禅宗様高欄を設けた切目縁、また二重以上の中備は詰組ではなく間斗束のようだ、腰組は出三ツ斗/軒廻りは各重二軒で、初重は繁垂木、二重以上は禅宗様の扇垂木....組物は初重が三手目が尾垂木の三手先、二重以上は二手目と三手目が尾垂木の三手先

△初重各面は中央に桟唐戸、両脇間は連子窓ではなく羽目板に格狭間形の装飾を施している....二重目の円柱に粽が確認できる(二重以上は全部にある?)

△初重に蛇腹軒支輪を設けている....中備は彩色が施された透蟇股で、脚間に十二支の彫刻

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山手234番館 (横浜)

2025年07月26日 | 史跡探訪-日本編

【横浜・中区】「山手234番館」は”横浜山手西洋館”の一つで、昭和二年(1927)頃、外国人向けの集合住宅(アパートメントハウス)として現在地に民間業者によって建てられた。 民間の事業ではあるが、大正十二年(1923)の関東大震災で壊滅した横浜の復興事業の一つとして、震災で横浜を離れた外国人に戻ってきてもらうために建てられとされる。
第二次世界大戦後の占領軍による接収を経て、昭和五十年代頃まで外国人向けアパートメントとして使用された。 平成元年(1989)、横浜市が歴史的景観の保全を目的に取得し、保全改修工事を行って平成十一年(1999)から一般公開された。 建設当時は、3LDKで同じ間取りの4世帯の住宅で、中央の玄関ポーチを挟んで対照的に向かい合い、上下に重なった造り。

◆エリスマン邸を見学した後、斜め前の山手本通り沿いに建つ山手234番館に。 正面の間口全体に設けられたバルコニーを支える石柱群は、まるで神殿に立ち並ぶ円柱のようだ。 一部の柱は、中ほどがふくだんだエンタシスのように見えるが....。
大きく「234」と彫られた門柱から入り、石柱が建ち並ぶテラスに。 テラス中央の玄関ポーチに4つのドアがコの字に接近して配置されていて、まさに四世帯の集合住宅だったことを感じさせる。 中に入ると、居間で数人の人が慌ただしく何かの準備を行っていた。 それは某テレビ局の撮影隊で、機材が置かれた居間は落ち着かないので、居間の奥隣の台所から見学を始めた。

△昭和二年(1927)頃に外国人向けに民間業者によって建てられた4世帯の集合住宅(創建当時想像再建)

△正面の間口全体に設けられたバルコニーとテラス....バルコニーを支える石柱群はまるで神殿に立ち並ぶ円柱のようだ

△身舎正面のテラスに林立する石柱の一部は、中ほどがふくだんだエンタシスのように見えるが....気のせいか

△縦格子の装飾が施されたバルコニー.は計10本の石柱で支えられている....柱上に台輪のようなものがある

△建物の左側面(北側)....全て上げ下げ窓で、一階の窓には緑に塗られた鎧戸が備えられている

△バルコニーは展示室の創建当時想像模型では中央の玄関前だけだ

△建物の右側面(南側)....左右両側面に壁に這わせた煙突がある

△テラス中央の玄関ポーチに4つのドアが配置....四世帯の集合住宅として建てられた名残

◆台所に入ると直ぐに流し台に置かれた珍しい調理器具が目に留まった。 大型のアラジンのランプを思わせるような外観で、調べたらロシア製の「湯沸かし器」とのこと。 かなり貴重なものらしい。

△居間の奥隣の台所

△流し台に置かれている電気ポットとロシア製の湯沸し器(サモワール)

◆台所の奥に2つの個室があり、手前はパンフに個室と記されているが「旧婦人の間」で、箪笥、三面鏡ドレッサーなどが...。 奥の展示室には創建当時想像模型などが展示されている。
居間に戻ると撮影隊の機材が片付いていたので見学。 パンフでは居間とされているが、居間兼ダイニングのようで、両者を仕切りように2本の柱を繋ぐアーチがある。 居間側には暖炉やスチーム暖房が備えられ、米国製と日本製の2つの蓄音器そして大きな棚がある。 日本製の蓄音器は大正中期のもので、菊花デザインの9枚のパネルからなるオーク材のホーンは趣がある。 見学できた内部は一部だが、集合住宅時代の生活感が全く感じられず残念。 創建当時を想像しての復元なので仕方ないか....。

△台所の隣の個室(旧婦人の間)....上げ下げ窓

△重厚そうな整理ダンス                 丸い鏡で楕円形の三面鏡ドレッサー
     
△左奥の個室(展示室)

△展示室の中央に創建当時の想像模型が置かれている

△創建当時の想像模型....セメント瓦が葺かれた屋根の形や間取りがよくわかる

△昭和七年(1932)製造の米国シンガー社製ミシン

△玄関を入って直ぐ左手の居間兼ダイニング....テラス側にスチーム暖房を設備

△フローリング床の居間

△壁に設けられた暖炉....左は米国製蓄音器で、1928年製の「ビクトローラVV8-9型蓄音器」....彫刻飾りがあるオーク材製キャビネットの扉を開けると下部にレコード収納棚

△居間とダイニングを仕切るように20cm幅のアーチが2本の柱を繋げている....奥隣は台所

△居間の通路側に置かれた大きな棚と蓄音器

△棚に展示されているコーヒカップや絵皿など/蓄音器は大正中期製の「ニッポノフォン35号」(日本蓄音器商会製)....ホーンはオーク材で、菊花デザインの9枚のパネルからなる

△明治期の横浜を描いた絵皿




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貞昌寺-(2) (横須賀)

2025年07月21日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・横須賀市】貞昌寺と寺号を改めて堂宇を再建した向井将監正方は江戸幕府の旗本で、南朝水軍の将を祖とし、徳川家の直臣として御船手奉行、御召船奉行のほか走水・三崎奉行などを歴任し、三浦・伊豆の海防の任にあたった。 境内墓所には向井将監正方と妻の墓碑の宝塔が建つ。宝塔の総高は三段台座を含めて約3m余で、笠石下面には墓誌銘文が刻まれている。

◆本堂の外陣と内陣を仕切る虹梁の上の欄間に、笛吹き天女と羯鼓(鞨鼓)を打つ天女の飛天像の透かし彫り彫刻が施されている。 内陣中央に本尊を安置した厨子あり、左右の棚の上に数体の仏像と数柱の位牌が本尊を見守るように鎮座している。

△身舎と向拝の軒先で受けた雨水を流す円筒状の樋は、何故か蓮型天水桶に注いでいない

△引き違いの腰高格子戸からみた外陣と内陣(堂内撮影可)

△外陣と内陣を仕切る眉を切り絵様を彫った虹梁の上欄間に施された精緻な飛天像の透かし彫り彫刻

△右側の飛天像は笛吹き天女

△左側の飛天像は羯鼓(鞨鼓)を打つ天女

△厨子が置かれた内陣....中央に厨子、左右の棚の上に仏像と位牌が安置されている

△本尊が収納されている厨子....御開帳は12年毎の卯年に....脇に小さな如来坐像が鎮座/円光を背負った本尊の延命地蔵尊立像(堂内掲示額写真から拝借)

△厨子に向かって右手に鎮座する数体の仏像

△法界定印(禅定印)を結んで坐す初祖菩提達磨圓覚大師大和尚像/表記が無く不明だが開山僧の坐像か?

△左腕が欠落した如来立像....右手が説法印(上品中生)なので、転法輪印を結んだ印相と推測/厨子に向かって左側に鎮座する仏像3体....円光を背負う地蔵尊立像と2体の如来坐像で、如来像は手が損傷しているようで印相不明

◆格天井の外陣の3方の差し鴨居の上に格子欄間を配している。 東側の下屋は畳敷の廊下で、天井は身舎側は平天井、右半分が垂木現し勾配天井になっている。

△外陣天井は格天井....差し鴨居の上3方向に格子欄間を配している

△東側から見た外陣/東側の下屋は畳敷きの廊下で、天井は身舎側は平天井、右半分は垂木現し勾配天井になっている

◆墓所に江戸幕府の御船奉行などを歴任した向井将監正方とその妻の墓碑である宝塔が並んで建つ。 宝塔はいずれも基壇を含めた塔高が約3mで、ひときは存在感を放っている。 両宝塔の笠石の下面に墓誌銘文が刻まれ、また、夫人の宝塔の正方墓碑側の側面に如意輪観音半跏像が陽刻されているが、まるで正方を見守っているかのようだ。

△墓所入り口の左手に建つ瓦葺き地蔵堂に赤い前垂れをした六地蔵尊像が鎮座....地蔵堂左奥にも4体の石仏が鎮座している

△墓所に建つ向井将監正方夫妻の墓碑の宝塔....正方は幕府船手頭、御召船奉行、走水・三崎奉行などを歴任した江戸幕府の旗本

△左は正方夫人の宝塔....寛文拾年(1670)の造立で、総高は約3.3mで、正面中央に「霊徳院心鑑自照大姉」の刻/△右の向井正方の宝塔....延宝二年(1674)の造立で、基壇を含めた総高は約2.7m....正面中央に「大通院義山浄節居士」の刻

△正方夫人の宝塔の塔身右側面に陽刻された如意輪観音半跏像....笠石下面に墓誌銘文が刻まれている(正方の宝塔にも刻まれている)/蓮華座に鎮座する如意輪観音半跏像....宝冠を頂き、右膝を立て、右手を頬のあたりに添える「思惟」の相、左手は与願印
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貞昌寺-(1) (横須賀)

2025年07月16日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・横須賀市】南北朝時代の建武二年(1335)、鎌倉円覚寺の11世・南山士雲禅師が開山したと伝える。 江戸時代の寛文三年(1663)、幕府の御船奉行・向井将監正方が、母・貞昌院の菩提を弔うため竹沢の里(谷戸)の奥にあった吸江庵を、貞昌寺と改めて堂宇を再建。 安政三年(1774)、正方の子孫の向井家八代・政香の時に現在地に移設された。
宗旨は臨済宗(円覚寺派)で、本尊の延命地蔵菩薩立像は運慶作と伝わる。三浦地蔵尊三十八霊場第二十八番札所。

◆門前に着くと石段右の雛壇に整然と鎮座する52基の庚申塔が迎えてくれる。 <2025年5月21日投稿「貞昌寺の庚申塔群」> 白壁の袖塀を備えた山門は薬医門形式で、門前脇に「地蔵尊三浦札所 第廿八番霊場」と刻まれた古い石柱が建つ。 山門の親柱に金属製の門扉が直付けされていて違和感を覚えた。 門前に置かれる柵は普通、据え置き式和風人止柵なのだが....。
門扉が閉まっているので、右手の庫裡側から境内に。 手入れが行き届いた境内の切石敷の参道を進んで本堂に。 小棟造りの本堂の外観はほぼ白壁で簡素な建築だが、両脇間の白壁に花頭窓があって少し趣を感じさせる。 向拝の屋根は身舎壁から張り出した銅板葺きの薄い板状の庇で、一見しただけでは向拝だと思わない造りだ。

△一般道に面して石垣の上に鎮座する堂宇....石階の上に建つ山門の前の雛壇に整然と鎮座する庚申塔群 <2025年5月21日投稿「貞昌寺の庚申塔群」>

△切妻造本瓦葺の山門....袖塀は白壁の築地塀で、門前に「地蔵尊三浦札所 第廿八番霊場」と刻まれた石柱が建つ

△薬医門形式で一軒疎垂木....扉が無く、金属製の門扉が親柱に直付けされている

△本柱上の冠木に3組の男木と女木を乗せている/本柱と控柱の間に2本の貫

△山門の門扉越しに眺めた簡素な造りの本堂

△本堂に連なって客殿、玄関及び庫裡が建つ

△庫裡の前に門柱があり、入山可なのでこちらから境内に

△寄棟造り二階建ての庫裡....正面に桟瓦葺の裳腰

△堂宇前庭の手入れが行き届いた植栽が美しい

△隅々まで手入れが行き届いている境内....散策していて気持ちがいい

△右は庫裡と本堂の間の玄関....奥に客殿があると思う

△寄棟造銅板葺の本堂....正面五間で、中央間は腰高格子戸の引きい戸、両脇間は腰高格子戸の引き違い戸と花頭窓

△昭和五十年(1975)造立の天水桶....鎖樋がない/青銅仕上げと思われる蓮型天水桶

◆正面中央間は腰高格子戸で、眉を切り絵様を彫った虹梁の敷居に「貞昌禅寺」の扁額が掲げられている。 向拝や身舎には装飾的な意匠がほとんどなく、両脇間の白壁に花頭窓と引き違い腰高格子戸があるだけでシンプルだ。 左側切目縁の奥に、面格子を施した窓のある白壁の下屋が張り出ているが、一見すると縁の上に置かれた下屋のように見える。

△中央間は腰高格子戸の引き違い戸で、眉を切り文様を彫った虹梁の上に掲げられた「貞昌禅寺」の扁額

△両脇間には花頭窓と引き違い腰高格子戸を建て付けている....正面と側面一部に高欄無し切目縁を設け、正面切目縁の庇に喚鐘が下がる

△本堂左側面の切目縁の奥に白壁の下屋が突き出ている....下屋には面格子を施した窓がある/柱の途中に変形の梁(貫?)を渡し、そこから庇を設けている

△軒廻りは二軒半繁垂木で木口に胡粉を施す....組物は舟肘木、向拝の屋根は身舎の壁から張り出した庇/鬼瓦を乗せた大棟端は入母屋造風の造り....拝は猪目懸魚だが金属製の材質とみられる

△墓所側(西側)から眺めた境内と山門

△大棟端に鬼瓦が乗り、拝は目が1つの猪の目懸魚/山門の袖塀はL字に設けられている

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安養院-(2) (鎌倉)

2025年07月11日 | 何気ない風景

【神奈川・鎌倉市】鎌倉末期に善導寺の跡に長楽寺を移し、政子の法名「安養院殿」から安養院を院号とした。 その後、源頼朝に仕えた田代信綱が、建久三年(1129)に建立した田代寺の観音堂を移して安養院が再建された。 この歴史が安養院が祇園山安養院田代寺と呼ばれる由縁。
江戸時代になって田代寺は安養院に統合された。 境内には安養院に合併された善導寺の開山・良弁尊観上人の墓と、安養院を創建した北条政子の供養塔の宝篋印塔がある。 良弁尊観上人の宝篋印塔は鎌倉最古の石塔。

◆境内に聳える太い幹の槇の老木は樹齢約700年で、長楽寺開山の願行上人の御手植えとされる。 本堂の前庭の植栽の中に、初層軸部に仏像が浮き彫りさた十三重石塔が据えられ、その右手に宝形造りの客殿が庫裡と連なって建つ。

△境内に聳え立つ槇の木....奥の建物は山門と地蔵堂

△本堂前庭の植栽の中に置かれた仏足石/槇の木は樹齢700年で、長楽寺開山の願行上人の御手植え(伝)....善導寺開山の尊観上人の御手植えとの説も

△境内から見た山門....扉は6枚の縦板を並べた板戸

△本堂と庫裡の間に建つ宝形造りの建物は客殿か

△客殿の軒廻りは二軒疎垂木、組物は舟肘木....客殿と庫裡の間の玄関の屋根は二層のように見える、また、軒端に鎖樋が下がる

△前庭の植栽の中に建つ十三重石塔....初層軸部の方形に縁取りした中に仏坐像を浮彫りしている

△十三重石塔越しに眺めた本堂の銅板葺き屋根

◆本堂の西側の脇を通り、裏手に建つ鎌倉最古の石塔の宝篋印塔に向かう。 途中、本堂を向いて円光を背負う3体の舟光背型地蔵石仏と、平景清の娘の墓の小さな五輪塔が鎮座している。 地蔵石仏の内の1体は一石二仏で珍しい。 まるで最古の宝篋印塔へと誘うかのように参道脇に様々な石造物が並んでいる。 参道の突き当りに二基の関東型宝篋印塔が鎮座....右が鎌倉最古の石塔で、善導寺(戦火で焼失)開山・良弁尊観上人の墓と伝える。 左の少し小さな宝篋印塔は、安養院を創建した北条政子の供養塔だ。  <2025年4月6日投稿「安養院の宝筐印塔」>

△境内の西側に並んで鎮座する3体の石仏

△3体の石仏はいずれも円光を背負う舟光背型地蔵石仏....右端は一石二仏、真ん中は合掌地蔵尊、左端は子を抱く地蔵尊

△境内の北西側にある人丸墓....人丸は猛将平景清(藤原景清)の娘

△本堂の裏手(北側)に並んで鎮座する石造物群....丸彫り石仏、無縫塔、宝篋印塔、庚申塔、石祠など

△本堂裏手に並ぶ二基の宝篋印塔....右は鎌倉幕府滅亡の際に戦火で焼失した善導寺開山の良弁尊観上人の墓(伝)、左は安養院を創建した北条政子の供養塔で、笹目ケ谷の「安養院」(元・長楽寺)より移転(伝)

△左は嘉禄元年(1225)に逝去した北条政子の供養塔....基礎の下に反花座がある関東型供養塔

△右の良弁尊観上人の墓(伝)....鎌倉後期徳治三年(1308)造立の関東型宝篋印塔....鎌倉に現存する最古の石塔の宝篋印塔

△本堂後方に鎮座する石造り涅槃仏

△涅槃の「身代り地蔵」で、穏やかな顔は宝篋印塔を向いている

△不動明王を祀る祠がある裏山の祇園山の崖....度重なる災害で崩れたが、山中や周囲に多くの尊像が祀られていたとのこと
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安養院-(1) (鎌倉)

2025年07月06日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・鎌倉市】安養院は祇園山安養院田代寺といい、鎌倉時代嘉禄元年(1225)に北条政子が夫・源頼朝の菩提寺として建てた長楽寺が創建とされる。 安養院の歴史には、長楽寺・善導寺・田代寺という3寺院が前身として関わっている。 この地には良弁尊観が開いた浄土宗名越派の善導寺があったが、元弘三年(1333)、鎌倉幕府滅亡の際の戦火で焼失した。 願行上人が開山した長楽寺も幕府滅亡とともに焼失したため、この地に移って善導寺に統合され安養院長楽寺と号したが、延宝八年(1680)、再び全焼した。 宗旨は浄土宗で、本尊は阿弥陀如来像。 坂東三十三観音霊場第三番札所。鎌倉三十三観音霊場第三番札所。

◆参道の入口に、正面に「坂東第三番田代観音」「安養院」、側面に「浄土宗名越派根本霊場」と彫られた寺号標石が建つ。 標石後方の緩やかな坂の上に山門が建ち、山門を通して鮮やかな緑の奥に本堂が見える。 門前はオムラサキツツジが咲き誇ることで知られる。 山門をくぐると左手に地蔵堂が建ち、こちらを向いて鎮座する舟光背型石仏の日限地蔵尊坐像が迎えてくれる。

△大町通りに面して建つ寺号標石....正面に「坂東第三番田代観音」と台座に「安養院」、側面に「浄土宗名越派根本霊場」と彫られている

△標石の少し後方の石段の上に建つ山門....桟瓦葺の袖塀は白壁の築地塀

△切妻造本瓦葺の山門(四脚門)

△軒廻りは二軒繁垂木....親柱の間に冠木を乗せ、前後の控柱はそれぞれ頭貫で結合

△前後の控柱に渡した腕木の中央に舟肘木を置き上の梁を支えている/梁の中央に置かおれた蟇股で棟木を支えている

△山門を通して眺めた境内....植栽の奥に本堂が建つ

△山門を入って左手に建つ地蔵堂

△露盤宝珠を乗せた宝形造木皮葺の地蔵堂....一間四方で正面は腰高格子戸と白壁の小脇羽目

△堂内に安置されている錫杖と宝珠を持つ舟形光背石仏は日限地蔵尊坐像....鎌倉時代末期から南北朝時代に造立されたとされる/軒廻りは一軒半繁垂木、長押の上は白壁の小壁

◆切石敷の参道を進んで本堂へ。 入母屋造りの平側に出っ張らせた正面三間側面二間の建物の前に向拝がある。 正面三軒は白壁で、中央間は扉が無く、両脇間に大きめの花頭窓を設けている。 水引虹梁の上に精緻な3本爪の龍、その上の梁上に鶴(と思う)、唐破風の拝に鳳凰、木鼻に唐獅子の像彫刻を配している。 身舎左右の裳腰の二間には、幅の狭い擬宝珠高欄付き切目縁そして一間まるまるの大きさの花頭窓を建付けている。 花頭窓を通して見える堂内の柱の並びから、花頭窓の直ぐ内側は内縁だと思う。

△境内参道から眺めた本堂(観音堂)....本尊の阿弥陀如来坐像(室町時代作)と背後に札所本尊の千手観音立像を安置

△江戸時代貞享五年(1688)造立の寺社形手水鉢....何故か水口が見当たらない?

入母屋造銅板葺の本堂....身舎から出っ張らせた正面三間、側面二間の部分に向拝を設けた造りで、屋根に軒唐破風がある

△正面は三間で、開放の中央間そして両脇間の白壁に花頭窓....長押の上は全て白壁の小壁

△軒唐破風に鳥衾を乗せ寺紋 ”笹龍胆” を入れた鬼板、眉を切り絵様が彫られた水引虹梁の木鼻は唐獅子像....入り口に「祇園山」の扁額が掛かる

△軒唐破風の拝に鳳凰の彫刻、水引虹梁の上に3本爪の龍の彫刻

△軒廻りは一軒半繁垂木、組物は木鼻付き平三ツ斗で中備なし

△絵様が彫られた大きな手挟と眉を切り絵様が彫られた海老虹梁

△正面の左右に裳腰を設け、狭い擬宝珠高欄付き切目縁、二間に大きな花頭風窓枠のガラス戸(中は内縁になっているようだ)

△正面右側は庫裡と白壁の渡り廊下で繋がっている

△屋根にクロスさせて入母屋破風を乗せ、平側に出っ張らせた部分(正面三間、側面二間)の前に向拝....身舎側面に縁なし









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備中国分寺の五重塔

2025年07月01日 | 最古・唯一などの遺構

【岡山・総社市】岡山県内で最古で唯一の五重塔。
江戸時代末期の弘化元二年(1844)に再建された備中国分寺の境内に聳える五重塔で、国の重要文化財に指定されている。 備中国分寺は奈良時代に聖武天皇(第45代)が仏教の力で天災や飢饉から国家を護るため国ごとに建立した国分寺のひとつ。
創建時は高さ約50m(推定)の七重塔を擁していた七堂伽藍の大寺院だったが、兵火で消失して廃寺となった。 安土桃山時代の天正年間(1573~1592)に備中高松城主・清水宗治が再興したものの衰微し、江戸中期の宝永年間(1704~1711)に再建された。 五重塔は江戸後期の弘化元年(1844)、七重塔跡ではなく位置を変えて再建された。 初層の塔内中央に大日如来とする心柱が立ち、四方の四天柱の内側の仏壇の中に四如来像を安置している(五智如来)。

◆レンタサイクルで ”吉備路自転車道” を備中国分寺に向かって進むと、アカマツの丘陵の緑樹の中に聳える五重塔が見えてくる。 澄み切った青空の下、アカマツ林の中に黒々と聳え建つ五重塔はまさに総社、吉備路のシンボルだ。
五重塔は全ての屋根がほぼ同じ大きさの寸胴型、また相輪が短い。 初層の中央間は桟唐戸、両脇間は盲連子窓。 軒廻りは各層とも二軒繁垂木で、初層と二層目に蛇腹支輪と軒天井(三層以上は軒天井のみか)がある。 組物は各層とも三手目が尾垂木の三手先で、初層の組物間(中備位置)に十二支とみられる彫刻を配した本蟇股。

△南門跡の参道から眺めた備中国分寺の五重塔....白壁の築地塀の中の入母屋瓦屋根は鐘楼

△五重塔は岡山県内唯一のもので、江戸時代弘化元年(1844)の再建....再建計画では三重塔だったが変更された/塔高は約34m、全ての屋根はほぼ同じ大きさ....建材は三層層までがケヤキ材、四&五層はマツ材が主体

△初層内陣には心柱を大日如来とする五智如来(阿閦、阿弥陀、宝生、不空成就)を安置/全ての層に擬宝珠高欄付廻縁を設け、腰組は平三斗

△二層以上の塔身の中央間は格狭間入れた桟唐戸、両脇間は板張りの窓のようだ

△全層とも軒廻りは二軒繁垂木、組物は三手目が尾垂木の三手先....初層と二層目のみに蛇腹支輪と軒天井がある/各層の四方の軒下に風鐸がさがる

△初層の中央間は桟唐戸、両脇間は盲連子窓....組物間の中備に十二支の彫刻を施した本蟇股

△初層と二層目の蛇腹支輪と軒天井....二層以上の中備は撥束

△田園風景の中に聳え建つ五重塔は吉備路のシンボル的存在


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瑞泉寺-(3) (鎌倉)

2025年06月26日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・鎌倉市】南北朝時代、後醍醐天皇(第96代)や足利尊氏に帰依された臨済宗の僧・夢窓疎石(夢窓国師)は、瑞泉寺の作庭に力を注いだ。 本堂裏に発掘復元された庭園は、疎石によって作庭された禅宗様庭園で、岩盤を削り出して作られ”岩庭”とも称される。 岩庭は池泉鑑賞式庭園で、書院庭園の起源となった。 疎石は後に、京都の西芳寺、天龍寺の庭園も手がけた。

◆参道脇に立つ「名勝瑞泉寺庭園」標石から大きな洞窟が植栽の間に垣間見える。 植栽を抜けると、本堂の裏に岩だらけの開けた空間が現れる。 そこは夢窓疎石が自然の地形を利用して作った庭園で、岩壁がそそり立つ岩と池の庭はまさに”岩庭”だ。 いままで鑑賞してきた庭園とまるで違っていて思わず息をのむ。 岩壁を削って造られた大きな洞は”天女洞”と呼ばれ、その横に坐禅を行った所とされる”葆光窟”が、また、”天女洞”の上に3つの仏龕らしき洞がある。
岩庭から本堂の背面をみると、庇を設けた高欄のない榑縁があり、庇の上の梁に「侍真」の額が掲げられている。

△地蔵堂前の庭園入り口に立つ「名勝 瑞泉寺庭園」の標石、参道奥に庭園の”やぐら”のような岩窟が見える

△鎌倉に残る鎌倉時代唯一の庭園....鎌倉時代から室町時代初期を代表する禅僧の夢窓疎石(無窓國師)による作庭

△”岩庭”と呼ばれる庭園は自然の地形を利用し、岩壁を削って作庭された池泉鑑賞式庭園

△岩壁を登るために池に架けられた2本の橋....岩壁には錦屏山の山頂に続く急な登坂路がある

△池に架けられた平橋と反橋/ 岩壁の登坂路に設けられた屋根付きの桟を組んだ格子状バタ戸

△岩壁を削って造られた大きな洞は「天女洞」....「天女洞」上の岩壁に3つの仏龕らしき小さな洞....天女洞右の洞は坐禅を行う「葆光窟」

△天女洞の中には棚らしきものが彫られ、その上に激しく風化した石造物らしきものが置かれているように見える

△天女洞の前の池は「貯清池」で、中央に島が彫り残されている

△岩庭から眺めた本堂の背面....左側裳腰の後方に切妻屋根の御堂を設けている....奥の寄棟造桟瓦葺の建物は方丈(書院と思う)

△本堂の背面には庇を設けた高欄のない榑縁があり、庇の上にの梁に「侍真」の額が掲げられている

◆庭園から本堂前を通って庫裡に。境内図には庫裡と方丈しか示されていないが、庫裡のほかに客殿と書院がある。 書院は方丈だと思う。 煙出しのある庫裡から本堂側に出張っている穂垣で囲まれた建物は客殿と思う。 庭側の縁先に二段の沓脱石が置かれ、庫裡側の縁先に縁先手水鉢と石燈籠が置かれている。 庫裡の入り口の中を覗くと、式台の奥に玄関座敷がある。
3棟ある茶室のひとつの南芳庵が、庫裡前の参道に面して建つ。 正面に犬走りがあり、茶色の土壁に八角窓、丸窓そして無双窓(と思う)の異なる窓があって風情がある。

△岩庭への参道から眺めた客殿(と思う)....奥の煙出しがある建物は庫裡

△庫裡から本堂側に突き出て穂垣で囲まれてる建物は客殿

△境内参道から客殿越しに眺めた本堂

△客殿は内縁を設けた造りで、庭側の縁先に二段の沓脱石が置かれている

△客殿の庫裡側縁先に置かれた縁先手水鉢と石燈籠.....庫裡の腰壁は下見板張

△切妻造銅板葺で妻入りの庫裡....大棟端に鬼板、拝は三つ花と蕪を合わせたような懸魚、妻面は白壁の小壁で格子入の窓がある

△庫裡入口から見た式台と四畳敷の玄関座敷

△庫裡に向かって参道の右側に建つ南芳庵(庫裡側)...3棟ある茶室のひとつで、切妻造の建物2棟が連なって縦に並んでいる

△南芳案の山門側の裳腰と庇を設けた建物....屋根はいずれも銅板葺の上に桟瓦を敷き詰めたような造り

△茶色の土壁で明障子窓、八角窓、丸窓、引き違い明障子戸がある

△南芳庵の2棟の間の通路....奥には茶室庭園があり、茶室・吉祥斉が建つ/正面は犬走になっていて、垂木の庇を支柱で支えている

△八角格子窓と菱格子を入れた丸窓、他に無双窓(と思う)がある

△南芳庵の南東側に庭園が広がり石燈籠が佇む/火袋に彫刻を配した石燈籠















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瑞泉寺-(2) (鎌倉)

2025年06月21日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・鎌倉市】瑞泉寺は室町時代の至徳四年(1387)、関東十刹第一位に列せられて格式を誇った。 永享十年(1438)、瑞泉寺は公方家四代足利持氏が将軍足利義教に対して起こした反乱「永享の乱」で衰亡した。 本堂には水戸藩主の徳川光圀が寄進した木造千十観音坐像のほか、釈迦牟尼像、夢窓疎石像(国重文)が祀られている。

◆堂宇の前に梅林の庭園が広がり、美しい屋根の本堂などが紅梅・白梅・黄梅の植栽の中に溶け込むように調和して建つ。 宝形造銅板葺で裳腰付きの禅宗様の本堂は、屋根の反りが大きく軒が跳ね上がっていて優美で風格が漂っている。 本堂正面は五間で、中央間に桟唐戸、両脇間には花頭枠の桟唐戸と花頭窓が建て付けられ、五間全ての頭貫の上に波欄間、そして礎盤上に立つ円柱の上部には粽が施されていて、禅宗建築の特徴が随所にみられる。 桟唐戸内戸の腰高明障子が少し開いていて、内陣に鎮座する本尊釈迦牟尼仏坐像が見える。 堂前に撮影禁止などの表示がなかったので、本尊を撮らせていただいた....合掌。

△山門から眺めた境内には庭園が広がり本堂や開山堂、地蔵堂、書院などの堂宇が建ち並ぶ....梅の名所として名高く、本堂前庭の梅林には紅梅・白梅・黄梅などがある

△本堂には本尊釈迦牟尼仏の他、徳川光圀寄進の木造千手観音菩薩坐像、開山夢窓国師坐像を安置

△露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺で裳腰を設けた本堂(仏殿、大雄宝殿)....昭和五十年(1975)の再建で、禅宗様建築

△落ち着いた雰囲気の本堂正面

△正面五間で中央間は桟唐戸、脇間は花頭枠の桟唐戸と花頭窓、柱の上部に粽がある

△正面の左脇間....花頭枠に上部に連子を配した桟唐戸、花頭窓の下の腰板は縦羽目板/右脇間の桟唐戸と花頭窓

△五間全ての頭貫の上に波欄間を配す....中央間の波欄間の真ん中に宝珠の彫刻

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手目が尾垂木の二手先で詰組を配す....裳腰は一軒繁垂木、台輪上に組物が出三ツ斗で中備は2つの平三ツ斗

△桟唐戸の内側に腰高明障子....撮影禁止の表示がなかったので、開ていた腰高明障子の隙間から本尊の本尊釈迦牟尼仏坐像を撮らせていただいた/二重円光を背にして鎮座する本尊釈迦牟尼仏坐像

◆本堂の直ぐ右手に銅板葺唐破風の大玄関、その奥に客殿、書院、庫裡等が建つが、立入禁止のため近づいての拝観ができない。 本堂左手の植栽の中の切石敷の参道を進むと、開山堂の参拝を拒むかのように銅板葺屋根で扉板に五七桐紋を配した棟門がある。 棟門に隠れるようにして建つ開山堂には、国指定重要文化財の木造夢窓国師坐像を安置。 更に少し奥に進むと、本堂を向いて地蔵堂が建ち、堂前の左右に優しい笑顔の大黒天像と恵比寿像が鎮座し、参詣者を迎えている。 開いている桟唐戸から中を覗くと、”どこも苦地蔵”とよばれる地蔵菩薩立像が鎮座している。

△本堂に向かって右手に大玄関がある....その奥に客殿,書院,庫裡等がある

△本堂右手の獅子口付きで”五七桐紋”を配した鬼瓦を乗せた銅板葺唐破風の大玄関

△本堂に向かって左手に開山堂と地蔵堂が建つ

△露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺の開山堂....木造夢窓国師坐像(国重文)を安置

△開山堂の前に建つ銅板葺屋根の棟門....扉板に”五七桐紋”を配している

△開山堂はコンクリート造りとみられる....周囲の縁に組高欄を巡らす

△露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺の地蔵堂....正面三間、側面二間

△軒廻りは一軒疎垂木、組物は柱上に舟肘木

△正面中央間は両折両開の桟唐戸、脇間は板張りの小脇羽目....堂前左右に笑顔の大黒天像と恵比寿像とが鎮座

△地蔵堂に安置の地蔵菩薩立像....鎌倉時代後期の造立(推)....貞享の頃(1684~87年)に鶴岡八幡宮の正覚院へ移され、大正五年(1916)、瑞泉寺に移された/円光を背負い、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ....”どこも苦地蔵”とよばれる

△側面二間の壁は縦羽目板で、正面側に大きな花頭窓

△植栽に囲まれて鎮座する地蔵堂









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瑞泉寺-(1) (鎌倉)

2025年06月16日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・鎌倉市】鎌倉時代末期の嘉暦二年(1327)、鎌倉幕府幕臣の二階堂道蘊が、臨済宗の僧・夢窓疎石(夢窓国師)を開山とし、夢窓が禅院相応の勝地としてこの地を選んで創建し、瑞泉院と号した。 初代関東管領として鎌倉入りし初代の鎌倉公方となった足利尊氏の子・基氏は夢窓国師に帰依し、寺号を瑞泉寺と改めて中興し、以後鎌倉公方代々の菩提寺になった。 夢窓国師は円覚寺開山仏光国師の孫弟子で、鎌倉時代から南北朝時代にかけて円覚寺、南禅寺、浄智寺など五山の住持に就いた。
宗旨は臨済宗(円覚寺派)で、本尊は釈迦牟尼仏。 鎌倉三十三観音霊場第6番札所、鎌倉二十四地蔵霊場第7番霊場。 境内は国の史跡に、庭園は国の名勝に指定されている。   

◆谷戸の静かな住宅地に入ると狭い参道の脇に寺号標石が立ち、その奥に惣門が小さく見える。 総門は参道を半分塞ぐようにして建つ。 総門から暫く進むと山の深い樹林を背にして受付棟が建ち、切石敷の参道が樹林の中に消えるように続く。
参道脇に史跡名勝標石と「無窓國師古道場」と彫られた石柱がひっりと立ち、その先に堂宇境内への2つの石段がある。 左の不揃いの石段が男坂で、苔生した石段と上まで両側に茂る鮮やかな緑のシダが風情を引き立たせている。

△瑞泉寺に向かう道端に佇む二基の石造物....三方に三猿が彫られた唐破風付き(宝珠が欠落)合掌観音庚申塔と「三社大権現」と彫られた兜巾型石柱

△参道入り口に建つ寺号標石

△車も通る参道を半分塞ぐように建つ切妻造本瓦葺の惣門

△惣門四脚門で大棟端に鳥衾を乗せた鬼瓦、拝は梅鉢懸魚/親柱の上に冠木を乗せ、虹梁の上に板蟇股を置いている

△受付棟が建つ境内入口....真ん中に切石敷の参道が続く

△切石敷参道の先に建つ史跡名勝標石と「無窓國師古道場」と彫られた石柱

△左の男坂(表参道)と右の女坂の分岐点から眺めた景色

△男坂の苔生した石段と両側に茂る緑のシダのコラボは風情があり古刹を感じさせる

◆石段を上りつめると正面に筋塀と山門が現れる。 直ぐ左手に、何故か名前を先に刻んだ「松陰吉田先生留跡碑」がひっそりと佇んでいるが、見過ごしそうだ。 山門前の参道脇の飛石を敷かれた先の雑草の中に地中に埋め込まれた手水鉢があり、清水が注がれている。 その前の草むらに苔生した青面金剛庚申塔が隠れるように鎮座、事前に調べていたので、草をかき分けて撮影した。
山門は簡素な造りの四脚門で、正面に「瑞泉蘭若」の扁額が掲げられている。 ”蘭若”とは”適当な距離にある修行に適した所”との意味らしいが….。

△男坂を上りつめた直ぐ左手に建つ「松陰吉田先生留跡碑」....名前が先の石碑は珍しい

△「松陰吉田先生留跡碑」の前から眺めた長い袖塀(筋塀)を備えた山門....左側袖塀前の植栽の中に建つ石碑は吉野秀雄の歌碑

△参道を上り詰めた山門前の飛び石が敷かれた奥に手水鉢、手前の笹薮の中に駒型庚申塔が隠れるようにして鎮座

△地中に埋め込まれた手水鉢に湧き水が注がれている....奥に参詣者を見守る舟光背型石仏が鎮座/草むらの中に鎮座する駒型青面金剛庚申塔(瑞雲日月、2童子、邪鬼、3猿)....享保八年(1723)の造立で、左手にショケラをぶら下げている

△切妻造本瓦葺の山門....両側に本瓦葺の築地塀が続く、築地塀は5本の筋が入った筋塀

△懸魚がない山門は簡素な造りの四脚門

△親柱上に冠木を乗せ女梁とともに大斗で男梁を支え、虹梁の上に蟇股を配して棟木を支えている....屋根裏に垂木は無く板を張っている

△門に掲げられた「瑞泉蘭若」の額

◆山門をくぐると左手奥に鐘楼が見える。 鐘楼の傍に半跏倚坐の地蔵尊坐像、火袋に6体の石像が肉彫りされた石燈籠、そして縦長地輪の五輪塔がある。 基壇の上に転びが大きい柱の鐘楼が建ち、鐘撞き棒側の石階の両側に白い象像が鎮座している。 鐘楼ノ左後方に「むじな塚」があり、数基の石仏を従えるようにして ”むじな石像” が鎮座している。 ”むじな”はアナグマのことだが、どうみてもタヌキに見える。 それにしても、 ”むじな” が石仏の仲間入りをしているのは驚きだ。

△堂宇境内から見た山門....扉は裏に桟を張った板戸、出八双と乳金具(釘隠)を施す

△山門をくぐった左手奥に鐘楼が建つ

△鐘楼の周りに二基の石造物と地蔵尊像....縦長の地輪に「安國利生塔」と四方に梵字が彫られた五輪塔は昭和五十四年(1979)の造立

△鐘楼傍に佇む石燈籠と鎮座する地蔵尊坐像

△六角の火袋の角に六地蔵と思われる仏像を肉彫りされている/右足を左膝の上にのせていないが半跏倚坐の地蔵石仏....左手に宝珠,右手は錫杖を握っていた?

△基壇の上に建つ切妻造桟瓦葺の鐘楼....石階の下の両脇に白象が鎮座

△軒廻りは一軒半繁垂木....礎盤に乗る柱は転びが大きい、吊り下がる梵鐘は「錦屏晩鐘」と呼ばれる

△鐘楼の左後方にある「むじな塚」

△「むじな塚」の手前に立つ「錦屏晩鐘」の碑/「むじな塚」に立つ三重石塔....塔身四方に合掌仏が彫られている

△石塔と石仏が鎮座する「むじな塚」....”むじな” には善行むじなと悪戯むじなの2つの伝説があるそうな

△”むじな” は主にアナグマのことだが、タヌキに見える....時代や地方によっては ”むじな” はタヌキやハクビシンを指すそうだ









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