何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

手塚八幡社 (上田)

2022年10月07日 | 寺社巡り-長野

【長野・上田市】平安時代の貞観八年(866)に山城国八幡宮より分霊を勧請して建立されたようだが、創建や由緒の詳細については不詳。 鎌倉末期の元徳二年(1330)に野火により社殿を焼失したが、安土桃山時代天正八年(1580)に現在地に再建されたようだ。 祭神は、八幡宮の祭紳である誉田別命(記紀で第15代天皇の応神天皇)とみられる。

●塩田平の南部の溜め池が点在する田園地帯を走る道の脇に、銅板を巻いた外宮鳥居風の鳥居が建つ。 鳥居は道に並行して延びる参道を跨いでいて、その先に小さな社号標石が立ち、そこから緩やかな石段が木立ちの中に続いている。 木立ちの中に「八幡宮」の額が掲げられた丹塗りの鳥居が立つが、神仏習合の神社によくみられる両部鳥居だ。                                       両部鳥居を通して木々に挟まれたような社殿が見える。 城壁のような石垣の上に社殿が鎮座しているが、まるで堅牢な山城のようだ。 石垣の間の石段を上ると直ぐ前に拝殿が建つが、正面全てが腰高格子戸の簡素な造りだ。 拝殿後方の石造りの瑞垣の中に2つの切妻屋根の覆屋が建ち、それぞれに杮葺の本殿と摂社とが鎮座している。 本殿は三間社流造、右隣の摂社は千鳥破風を乗せ正面に軒唐破風を設けた一間社流造だが、本殿は覆屋の柱や梁などに隠れるように鎮座しておりしかも少し暗いので、外観がよく見えずだ。

△参道入口に立つ銅板を巻いた外宮鳥居風の屋根を乗せた鳥居....木鼻や額束が無く、台石と根巻(藁座)がある

△参道入口の石段左右に「手塚八幡社」の社号標石と石燈籠が佇む

△明治二十七年(1894)造立の石燈籠/樹林の中の石段の参道に立つ朱塗りの鳥居は、神仏習合の神社にみられる両部鳥居

△額束に「八幡宮」の額が掲げられた両部鳥居....笠木の上に屋根を被せ、柱頭に台輪を乗せ、本柱の前後に控柱(稚児柱)を設け、本柱と両控柱とを二本の控貫で繋いでいる

△城壁のような高い石垣の上に鎮座する社殿....石垣の下に手水鉢が置かれ石燈籠が佇む

△安永四年(1775)造立の手水鉢と石燈籠

△石垣の間の石段の下から見上げた南面の拝殿

△寄棟造銅瓦葺の拝殿....正面三間は全て腰高格子戸((引戸)、小壁は全て白壁....屋根の形から茅葺屋根を銅板で覆ったものでは?

△拝殿側面は二間で、白壁の小壁と縦羽目板....中央間の正面に小さな切目縁を設けている

△拝殿後方の石造り瑞垣に囲まれて、切妻造桟瓦葺の覆屋に本殿と摂社(と思う)が鎮座

△覆屋に鎮座する杮葺の三間社流造の本殿....側面二間は横羽目板、正面と側面に組高欄付き切目縁

△本殿脇の覆屋に鎮座する屋根に千鳥破風を乗せている一間社流造の摂社(と思う)

.△本殿正面の三間はいずれも観音開きの板扉、前縁に御幣が置かれている/杮葺の摂社....二軒繁垂木、扉は桟唐戸、組高欄付き切目縁で側面奥の縁に透かし彫り彫刻を配した脇障子、軒唐破風を設け兎毛通しは蕪懸魚、台座上に浜床

●本殿左手の覆屋に小さな社が鎮座し、向拝の虹梁の上に透かし彫りの彫刻がびっしりと配されている。 彫刻は老人が何かを引っ張っている構図にみえるが、多分、故事に由来するものだろう。                                          境内東側の裏参道脇の傾斜地に、転びのある柱の覆屋の中に珍しい鹿島鳥居風の鳥居を構えた丹塗りの稲荷社が鎮座している。 稲荷社近くに石祠と石燈籠が立ち、石燈籠の球状の火袋にハ-ト型の火口窓が彫られている。 さらに少し下った参道脇に手造り感いっぱいの石燈籠が立ち、倒れかけている木造の社が鎮座する。 見ると社は周囲に茣蓙を張った粗末な造り…祀られている神様が少し気の毒に思えた。

△西側から眺めた社殿....瑞垣の中の2本の杉の根元に境内社が建つ

△切妻造桟瓦葺の覆屋に鎮座する社/柿葺の一間社流造りの社....向拝の水引虹梁の上に多分故事に因んだ彫刻を配している....向拝の水引虹梁の上いっぱいに多分故事に因んだ透かし彫りの彫刻を配している

△社殿に向かって左手の愛宕社への参道入口に立つ鳥居....黒木鳥居風で柱に転びのある鳥居、「愛宕社参道」の木札が立つ

△境内の東側から眺めた社殿....左奥に愛宕社への丹塗りの鳥居が見える

△境内東側の傾斜地に鎮座する鹿島鳥居風鳥居を構えた稲荷社

 △転びのある柱の切妻造板葺の覆屋に鎮座する稲荷社/流造板葺の社殿....正面の縁に白狐像が置かれている/側縁に脇障子がある

△境内東側の傾斜地に鎮座する流造屋根の石祠と簡素な石燈籠/ハ-ト型の火口窓が彫られた球状の火袋....火袋以外は自然石を用いている

△裏参道の脇に佇む石燈籠と粗末な社

△立方体に石が組まれた火袋、中台は四角状で、竿は自然石をそのまま用いたように見える/崩れかけて傾いた切妻造りの社....周囲に茣蓙を巻いている

 

 

 

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科野大宮社 (上田)

2021年10月13日 | 寺社巡り-長野

【長野・上田市】社伝で、記紀で第10代に数えられる崇神天皇の時代、信濃国造として任命されていた神八井耳命の孫・建五百連命が信濃国総社として創建したとされる。
南北朝時代の康安二年(正平十七年/1362)、当時凶兆と恐れられた彗星が出現したため、関東管領足利基氏(初代の鎌倉公方)が天下安寧のため科野大宮社に願文(現存)を奉った。
戦国時代には大宮諏訪明神と称し、安土桃山時代の武将・真田昌幸が上田城を築城して以来、城の鎮守として祀られた。 寛文九年(1669)頃の城下町古地図に「常田村大宮」と記されているが、明治の近代社格制度において県社に列せられ、社号を「科野大宮社」に改めた。 主祭神は大己貴命と事代主命で、相殿神は建御名方富命。

◆科野大宮社は、JR上田駅から東へ約1キロメートルの距離、旧北国街道と県道79号線が交わるところに鎮座している。 旧北国街道の北側に広がる境内には、太い幹に注連縄を巻いた3本の欅の巨木が聳えている。 欅は樹齢700年以上の老木で、まさに神々しい古社を感じさせる。
大きく傾いた西日が、正面の石鳥居や社殿を照らしている。 鳥居は柱頭に台輪が乗る台輪鳥居で、額束には「科墅大宮社」と彫られた石額が掲げられている。
鳥居をくぐり少し進むと、右手に石鳥居を構え「子安寶大明神」の扁額が掲げられた丹塗の覆屋の中に子安社が鎮座。 石鳥居は台輪鳥居で左側の貫が欠落している。 覆屋の扉の格子の隙間から社殿を拝観すると、向拝の水引虹梁の上いっぱいの松と鶴、側縁の脇障子の亀の彫刻が実に見事。
「丸に梶の葉」の神紋を入れた白地の神幕を張った拝殿に進み参拝。 拝殿の左側を後方に進むと、朱塗りの透き塀に囲まれて本殿が鎮座している。
社殿の西側に、鮮やかな朱塗りの両部鳥居が旧街道に面して立つが、「正一稲荷大明神」の屋根付き額が掛かる城中稲荷社の鳥居だ。 鳥居の傍でなびいている赤地に六文銭の家紋を入れた幟が、鳥居を引き立てている。 両部鳥居の間から、奥の正面に燦燦と西日を浴びて鎮座する朱塗りの城中稲荷社が見える。 城中稲荷社の社頭の左右に江戸中期造立の石燈籠を構え、高い台座の上に巻物と宝珠を咥えた二匹の狐が鎮座している。 石造りの狐像は歴史ある貴重なもののようで、金網でしっかり保護されている。

△旧北国街道が参道を横切っていて、街道の手前に参道が続いている....旧街道に沿って赤地に六文銭の家紋を入れた幟が並んでいるゆったりとなびいている

△旧北国街道沿いに立つ石造りの台輪鳥居、額束に「科墅大宮社」と記された額

△石鳥居の脇に佇む慶應四年(1868)造立の石燈籠....笠の軒に垂木を設け、台座や中台に彫刻を施し、四脚の竿など装飾性が高い/拝殿前の右手に建つ切妻造銅板葺の手水舎(流造に見える)

△石鳥居を構えた子安社....石鳥居は左側の貫が欠落した台輪鳥居(柱頭に台輪が乗る、稲荷鳥居とも称す)

△切妻造で丹塗の覆屋の中に鎮座する子安社....嘉永五年(1852)創建で、祭神木花咲耶比売命を祀る

△格子入桟唐戸の覆屋入口に「子安寶大明神」の扁額/流造(と思う)社殿の水引向拝の上いっぱいに鶴と松、脇障子に亀の精緻な彫刻が施されている....木鼻の獅子と獏の彫刻も見事

△入母屋造桟瓦葺の社殿....万延元年(1860)、上田城主松平忠礼による再建

△正面に「丸に梶の葉」の神紋を入れた神幕を張り、向拝前両脇には胴部に「丸に梶の葉」の神紋を配した天水桶が置かれているが鎖樋がない

△大棟は箱棟で側部に3つの「五三桐」の神紋が施されている/向拝柱の上に見事な彫刻の手挟みがある

△向拝の唐破風屋根の棟に「丸に梶の葉」の神紋を入れた獅子口、兎毛通は亀の透かし彫り

△昭和八年(1933)造立の狛犬越しに眺めた拝殿

△拝殿の軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組、中備は蟇股(のようだ)....周囲に組高欄付き切目縁を巡らす

△拝殿の大棟端に「五三桐」の神紋を入れた獅子口、拝に三つ花懸魚、妻飾は虹梁大瓶束

△透き塀に囲まれて鎮座する本殿は拝殿に比べてかなり小さい

△流造銅板葺の本殿....組高欄、側縁に脇障子を設けている

△箱棟の上に内削ぎの千木と5本の堅魚木が乗っている

△境内に聳える老木は樹齢700年以上と云われる欅の木

△旧北国街道に面して立つ城中稲荷社の鮮やかな朱色の両部鳥居....鳥居の傍で赤地に六文銭の家紋を入れた幟がなびいている

△両部鳥居の額束に「正一稲荷大明神」の屋根付きの額が掛かる/宝永七年(1710)造立の手水鉢、側面に「手水石」の刻

△天神社、駒形稲荷社、城中稲荷社、神明社....城中稲荷社前の石燈籠は寛延二年((1749)の造立

△流造桟瓦葺の城中稲荷社/「手洗石」と刻まれた自然石型飾手洗鉢越しに眺めた城中稲荷社

△城中稲荷社の右前に鎮座する狛狐....左は神の言葉を示す巻物、右は霊の力を示す球(宝珠)を咥えている

△一つの覆屋に鎮座する天神社(左)と駒形稲荷社....手前の石燈籠は正徳四年(1714)の造立

△左に鎮座する天神社             右に鎮座する駒形稲荷社

△城中稲荷社の右手に鎮座する神明社/拝殿前に植えられた御神紋の「穀ノ木」....案内板に「諏訪大社本宮より寄贈されたもので、古代から神に捧げる神木として尊ばれた」とある

△社殿に向かって右手に建つ科野大宮社社務所

△切妻造瓦葺の収蔵庫        
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海禅寺 (上田)

2021年07月14日 | 寺社巡り-長野

【長野・上田市】草創は平安初期の貞観年中(859~876)に遡ると推定されている。 平安時代承平五年(935)、清和天皇(第56代)の第五子慈野貞元を開基として「開善寺」が建立されたとされる。 開善寺は、真田氏の祖先され古くから皇室と縁の深かった滋野氏や滋野氏の後裔とされる海野氏から庇護をうけて隆盛し、海野氏の祈願寺として六百余年にわたって栄えてきた。
戦国時代の天文十年(1541)、甲斐の武田信虎が信州佐久郡に攻め込んのを機に、長年海野氏と勢力を争ってきた葛尾城主村上義清と諏訪領主の諏訪頼重が武田軍と策応して海野氏を攻め、大合戦場となった海野平で敗れ、海野城とともに開善寺も焼失したとみられる。 その後、海野氏の支族である真田一徳斎が武田信玄に帰属し、海野氏の遺族も武田氏に仕えたため旧所領が与えられ、その時に開善寺が復興され、天文年間(1532~1555)に再建された。 開善寺は天正十一年(1583)、真田昌幸が上田城を築城するにあたって城の鬼門除けのため大手東北の現在地に移され、「海善寺」と改称され、上田城下町鎮護の寺となった。
江戸時代の元和八年(1622)、松代への移封を命じられた真田家は、海善寺も松代城外西条に移すことにしたが、真田信之公が真田氏由緒の上田城の護りには一寺が必要として寺号を「海禅寺」に改めて残した。宗旨は真言宗(智山派)で、本尊は大日如来像。

◆陽が沈みかけた時間帯に訪問した。 道路に面して石造りの冠木門と瑞垣とが繋がって立つ。 緩やかな階段状になった切石敷の参道を進むと、参道脇に鎮座する修行姿の空海像と文字道祖神に迎えられる。
木立の中に続く参道の奥の石段の上に、明かりを灯した山門が建つ。 門前の左右には2基の石燈籠と赤い帽子を被り赤い前垂れをした六地蔵尊石像が鎮座。 山門をくぐると直ぐ左脇に柱6本で屋根を支えた水屋があるが、手水は境内に湧き出る清水を用いているそうだ。 正面に本堂、本堂左隣に不動堂、少し離れて聖天堂、右隣に庫裡が建ち並ぶ。 大寺ではないが真田昌幸築城の上田城の鬼門除けの寺らしく堂々たる構えだ。
本堂の大棟に海野氏の洲浜と真田家の六文銭の家紋を配し、向拝唐破風の鬼板そして天水桶に六文銭を配している。 不動堂と起り屋根の聖天堂の大棟の鬼瓦にも六文銭を配している。 境内の南西の一角に雪見燈籠が佇む坪庭があるが、石組を巧みに配した趣のある石庭で印象的だ。

△道路に面した瑞垣の間に立つ石造り冠木門....境内に「海禅寺」の寺号標石が立ち、切石敷の参道が続く

△境内参道脇に鎮座する弘法大師空海の「修行大師尊像」と注連縄が張られた自然石型文字道祖神

△木立の中の緩やかな階段の参道から眺めた山門と白壁の築地塀/門前に石燈籠が立ち六地蔵尊像が鎮座

△門前の左右の基壇上に立つ明治十三年(1880)造立の石燈籠と鎮座する赤い帽子を被り前垂れをした六地蔵尊像/一段高くなった所に堂宇境内がある....山門の大棟に真田家の紋「六文銭」が配されている

△.切妻造本瓦風銅板葺の山門、両側に白壁で屋根下に垂木を設けた銅板葺屋根の袖塀、そして築地塀が延びる

△軒廻りは二軒繁垂木....右の袖塀に設けられた潜り戸に八双金具を打ち付けた板扉

△山門から眺めた境内

△切妻造銅板葺の水屋(手水舎)....6本の角柱で照り屋根を支える、清水は境内の井戸からポンプで水を汲み上げている/笠と火袋と中台相に装飾彫刻が施された石燈籠越しに眺めた水屋

△寄棟造銅板葺の本堂....大棟に海野氏と真田家の家紋「州浜と六文銭」を配している

△向拝の唐破風に鳥衾を乗せた六文銭を配した鬼板、兎毛通は猪目懸魚

△唐破風屋根の軒端から下がる鎖樋と、下に六文銭を配した蓮型の天水桶/本堂前に佇む2基の石柱....右は天保六年(1835)造立の「弘法大師 一千年御遠忌塔]、左は八重桜を謳った歌碑か

△本堂の左隣に不動明王像を安置した不動堂が建つ

△入母屋造桟瓦葺で妻入の不動堂....周囲に擬宝珠高欄付き切目縁、左縁奥に脇障子....大棟端に六文銭を入れた獅子口、拝は猪目懸魚、妻飾は白壁の素式

△軒廻りは二軒疎垂木、組物は舟肘木....中央間に腰高格子戸、脇間は小壁羽目で連子入りの欄間を設けている

△寄棟造銅板葺で妻入の聖天堂....平成二十一年(2009)改修落慶、聖天像と十一面観音像を安置

△起り屋根の聖天堂の正面中央間は腰高格子戸、脇間は小壁羽目....他は白壁の小壁と小壁羽目で窓がない

△庭園から眺めた聖天堂と不動堂

△堂宇境内の南西に造営された庭園は坪庭(石庭か?)

△庭園内に佇む大きな雪見燈籠/笠・火袋・中台相に装飾彫刻が施された太い竿の石燈籠

△本堂の右隣に建つ切妻造銅板葺の庫裡

△本堂と庫裡の間に唐破風の玄関がある/大棟は屋根を乗せた箱棟

△堂宇境内から山門を通して眺めた切石敷の参道
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龍光院 (上田)

2021年02月06日 | 寺社巡り-長野

【長野・上田市】創建は鎌倉時代の弘安五年(1282)、塩田北条氏二代で 鎌倉幕府の重臣だった北条国時が、父・義政の菩提を弔う為、月湲和尚を招いて開山した仙乗寺が始まりとされ、鎌倉建長寺(臨済宗)の末寺となった。 初代北条義政は、鎌倉幕府三代執権北条泰時の弟・重時の第三子で、建治三年(1277)に出家して塩田に閑居したが、僅か四年後に没した。 塩田北条氏は三代に渡って五十余年この地で栄え、また、仙乗寺は塩田北条氏の菩提寺として庇護を受け、「信州の鎌倉」とも言われた文化の中心的寺院として隆盛した。
鎌倉末期元弘三年(1333)、新田義貞の鎌倉攻めの際、塩田北条氏は幕府側として一族を挙げ応戦に馳せ参じたが甲斐なく最期を遂げた。 塩田北条氏一族が滅びた後、仙乗寺は庇護者を失って衰退した。 塩田北条氏滅後、二百余年を経た慶長六年(1601)、萬照寺(旧更埴市、元千曲市)六世の瑞応が中興開山し、寺号を仙乗寺から龍光院に改め、臨済宗から曹洞宗に改宗、萬照寺の末寺となった。 享保十七年(1732)の火災で堂宇の多くを焼失したが、享保二十年(1735)に再建され現在に至る。 宗旨は曹洞宗で、本尊は釈迦牟尼像。 信濃乃國塩田平札所霊場第9番札所。

◆塩野神社から自転車を走らせ、塩田の館の近くの欅と杉の老木が聳え、「山門禁葷酒」の戒壇石が立つ門前に着く。 欅は樹齢600年とされ、樹高26メートル、幹周囲約7メートルの巨木だ。
欅と杉の老木の間の少し後方に、簡素なれど味わいのある黒門が建つ。 黒門は享保十七年の火災を逃れた唯一の建物。 左右の袖塀の前に赤い帽子を被った一対の地蔵尊石仏が鎮座していて、まるで仁王門の仁王像のようだ。
黒門をくぐると左右に鎮座する六地蔵尊像に迎えられ、両側に緑の植栽が茂る緩やかな階を上りつめると、鎮守社が鎮座する堂宇境内の広い門前に出る。 傍らに「塩田北条氏菩提処」の石碑が立つ山門をくぐって堂宇境内に....直ぐ右手に六注屋根の羅漢堂、左手の少し高くなった所に宝形造りで二軒扇垂木の観世音堂が建つ。 羅漢堂には釈迦如来像を中心にして十六羅漢像と四天王像が鎮座している。
山門から真っ直ぐ延びる参道の奥に小棟造りの本堂が建つが、少し右にズレている。 本堂は正面十間で、左から四間目が扁額が掲げられた中央間、左脇間が三間、右脇間が六間の造りだ。 中央間の腰高格子戸の両側に一対の花頭窓、他は全て縦板張の腰壁の上に格子窓が並んでいる。 長押の上は全て真壁造りで、白漆喰仕上げの小壁が美しい。 小棟造りの屋根を見上げると、屋根付きの箱棟に金色の北条氏の家紋「三ツ鱗」を3つ配していて印象的だ。
右手に連なる庫裡も本堂と同じ屋根の造りだが、裳腰のような庇の上に中二階とみられる窓を設けていて珍しい。 本堂に向かって左手に座禅堂が建つが、「選佛場」の扁額を見ていると、堂内で雲水が座禅修行をしている光景が浮かんだ。
座禅堂から山門に向かうと、境内南側の石垣の上に観世音堂、磨崖仏のような延命地蔵尊像そして干支地蔵尊を祀る地蔵堂が並んでいる。 腰高格子戸が半開きになっている観世音堂の中を覗くと、左手に未開蓮らしきものを持つ聖観世音菩薩像が鎮座している。
後で知ったのだが、龍光禅院では予約すると精進料理の山菜膳を賞味できるようだ。

△黒門前に幹周り約7メートルの欅(右)と幹周り約3メートルの杉の老木が聳える....門前に「山門禁葷酒」の戒壇石が立つ

△切妻造銅板葺の黒門....茅葺屋根の上に銅板を葺いた造りの薬医門で、銅板葺で板壁の袖塀を設けている

△黒門の天井は化粧屋根裏天井風の造り....袖塀前に向かい合って鎮座する一対の合掌地蔵尊像/黒門をくぐった参道の両脇に、赤い帽子と前垂れをした六地蔵尊が3体ずつ向かい合って鎮座している

△植栽に挟まれて続く石段の狭い参道/上り詰めた石段参道の傍らに佇む石灯籠越しに眺めた伽藍

△門前に鎮座する龍天護法大善神を祀る流造銅板葺の鎮守社/門前に佇む文化二年(1805)造立の石燈籠

△龍光院に向かって門前に鎮座する鎮守社から眺めた伽藍

△切妻造銅板葺の山門....二軒繁垂木.左右に小さな袖塀がある

△門前に昭和五十八年(1983)造立の「塩田北条氏菩提処」の石碑が立つ

△露盤宝珠を乗せた六注造り銅板葺の羅漢堂....桟唐戸の扉の上に龍の彫刻、虹梁上に「應供尊」の扁額

△二軒繁垂木、組物は実肘木を乗せた出組、柱間に詰組、周囲に連子窓

△羅漢堂内部....正面に釈迦如来像、周りに十六羅漢像と四天王像が居並ぶ

△羅漢堂に舟形光背を背負って鎮座する釈迦如来坐像/明治三十六年(1903)造立のマニ車....傍に「平和餘韻之鐘」と刻まれた石碑が立つ

△山門から眺めた境内....正面奥に本堂、左手に座禅堂、手前右手に鐘楼、右奥に庫裡が建つ

△入母屋造桟瓦葺の鐘楼....大棟端に鯱が乗る

△鐘楼越しに眺めた本堂と座禅堂

△寄棟造堂太葺の本堂....大棟は屋根付きの箱棟で、北条氏の紋「三ツ鱗」が寺紋として3つ配されている

△正面十間で長押の上は全て小壁....本堂前に回向柱が立つ

△軒廻りは一軒疎垂木で、堂内の梁が突き出た肘木、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ....左寄りの中央間に腰高格子戸で、脇間は腰高格子戸両側に格子入り花頭窓、他の七間は全て格子窓、腰壁は縦板張

△中央間に掲げられた「龍光禅院」の扁額/庫裡の前に建つ切妻造銅板葺の手水舎

△庫裡の屋根は本堂と同じだが、裳腰風の庇を設け、正面の庇の上に中二階(と思う)の窓が並ぶ

△入母屋造桟瓦葺の座禅堂....正面九間で中央間に腰高格子戸、両脇間に2つの格子戸と2つの白壁小脇羽目

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で軒支輪がある/格子戸上の欄間に龍の彫刻、その上に「選佛場」の扁額を掲げている

△山門をくぐった左側(境内南側)の一段高い所に鎮座する観世音堂

△宝形造桟瓦葺の観世音堂....三間四方で軒廻りは禅宗様の二軒扇垂木、組物は平三斗で詰組....正面は格子戸と小脇羽目、側面に花頭窓と小脇羽目

△入口に鰐口が下がる/観世音堂内に鎮座する左手に未開蓮(と思う)を持つ聖観世音菩薩立像/観世音堂の右手に佇む七重石塔

△境内南側の石垣の上に鎮座する延命地蔵尊像と地蔵堂

△舟光背型石仏の延命地蔵尊像             干支地蔵尊を祀る入母屋造風銅板葺の地蔵堂





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向源寺 (上田)

2021年02月01日 | 寺社巡り-長野

【長野・上田市】室町時代の永正十七年(1520)、向源寺前身寺院の住職家の入り婿となった浄空が、上田原の地に阿弥陀堂を創建したのが始まり。 江戸時代初期の寛永三年(1626)、支坊があった現在地に移転し再建され、宝暦六年(1756)に伽藍が整い現在に至る。
向源寺は戦国時代、信濃各地を制圧するために進出してきた武田信玄(晴信)の影響下に入り、天文十七年(1548)、信濃の葛尾城を居城にしていた猛将・村上義清との上田原での戦いの際に武田軍の本陣とされた。 しかし、信玄は永禄九年(1566)、制圧した地域の宗教施設を保護するため、寺院境内で陣をとることを禁じた朱印状を出した。
江戸時代後期、信濃の俳人小林一茶は江戸に赴く前の数年間を向源寺で過ごしたとされ、俳諧交遊録、短冊、手紙などが遣っている。 宗旨は浄土真宗(大谷派)で、本尊は阿弥陀如来像。

◆住宅地を通る狭い参道に冠木門と丸型石燈籠が立ち、冠木門の間から山門と本堂の屋根が重なって見える。 冠木門をくぐって参道を進むと、矢出沢川に丹塗りの欄干がある平橋の向源寺橋が架かり、その先に伽藍が広がる。
山門は薬医門で、門前左右に大きな宝珠を乗せた四角型石燈籠が立ち、格天井に大きな釣燈籠が下がる。 山門をくぐって境内に....参道に大きく枝を張り出した松の老木の奥に本堂が建つ。 本堂の前庭に立つ修行姿の親鸞聖人と蓮如上人の像に迎えられる。 本堂に連なって右手に大きな唐破風の玄関を構えた西面の太子殿があり、更に庫裡に繋がっている。 境内の西側には鐘楼と2棟の白壁の堂舎が建つが、1棟は脇間に彫刻を配した建物で経蔵とみられる。

△住宅地を通る参道に立つ冠木門と丸型石燈籠/造立年不詳だが、丸みを帯びた独特の形をしている

△門前を流れる矢出沢川に架かる丹塗り欄干付きの向源寺橋

△切妻造桟瓦葺の山門(薬医門)....両側の袖塀にくぐり戸を設けている

△山門の格天井から下がる平面六角形の大きな釣燈篭/門前に立つ江戸後期造立とみられる四角型石燈籠....笠の先が尖っていて、宝珠の請花が大きく開いている

△山門から眺めた境内....境内参道に枝を張り出した松の奥に本堂、右手に庫裏が連なって建つ

△入母屋造銅板葺の本堂

△本堂前庭の左手に鎮座する蓮如上人像       本堂前庭の右手に鎮座する笠を被った親鸞聖人像

△親鸞聖人像越しに眺めた本堂/5重の多層塔は塔燈籠か? 頂部の宝珠が消失している?

△正面七間で広い中央間はガラス張りの格子引戸、脇間三間の内の二間はガラス張りの格子窓、長押の上は全て小壁

△軒廻りは一軒繁垂木、組物は舟肘木

△本堂に連なる入母屋造堂板葺の太子殿(客殿か)....大棟端に獅子口、拝は蕪懸魚、妻飾は狐格子

△獅子口が乗る大きな唐破風玄関の太子殿

△切妻造桟瓦葺の簡素な手水舎            自然石に水穴を彫った手水鉢,水口は獅子像

△境内に立つ大きく枝を広げた松の老木

△入母屋造銅板葺の鐘楼....厚みのある軒、頭貫の真ん中に蓑束を配す....後方に2棟の白壁の堂舎が建

△六字名号がある梵鐘                  鐘楼の後方に建つ宝形造りで白壁の堂舎

△寄棟造桟瓦葺の経蔵(と思う)....三間四方で正面の脇間に彫刻が施されている

△大棟端に乗る鬼板は異形のようだ....玄関の入母屋屋根に鬼板が乗るが、大棟と同様に異形だ/入母屋破風屋根の入口....中央間に腰高明障子

△脇間に施された彫刻は寺紋と花のようだ

△入母屋造桟瓦葺の庫裡....平入だが、低い二階と玄関の2つの入母屋破風が重なる
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大輪寺 (上田)

2020年05月01日 | 寺社巡り-長野

【長野・上田市】安土桃山時代の天正年間(1573~1592)、上田城主で武田信玄・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた真田昌幸の夫人・寒松院を開基として創建された。 寺伝では、大輪寺はもともと砥石城(旧神科村)近隣の畑山にあったが、真田昌幸が上田城を築いた天正十一年(1583)、正室の山手殿の発願により上田城の鬼門(北東)にあたる現在地に移築され、禅寺として再建された。
山手殿は昌幸死去後に出家し、寒松院として大輪寺で生活を送ったが、慶長十八年(1613)に死去し葬られた。 その後は、関ヶ原の戦いで徳川家康方についた真田信之(父真田と弟幸村は石田三成方についた)の庇護を受けた。 信之が松代藩に移封した後、一時衰退したが、貞享元年(1684)に信濃上田藩3代藩主仙石政明が初代藩主仙石忠政の位牌を収め、供養料として毎年籾10俵を寄進。 現在の堂宇は宝永二年(1705)に再建されたが、この時、長野善光寺の再建用木材の一部を払い下げ使用された。 宗旨は曹洞宗で、本尊は釈迦如来像。

一般道に面して木柵に屋根を乗せたような袖塀を設けた冠木門があり、中の直ぐ正面に玉垣に囲まれて三界萬霊塔が鎮座。 三界萬霊塔は約500年前の激動の戦国時代に造立されたものだ。
冠木門をくぐって玉垣前を少し右に進むと、そこから老杉の並木の切石敷の参道が延び、奥に中門が見える。 通用口を設けた白壁の袖塀がある中門の門前に、赤い帽子と前垂れをした六地蔵尊像が鎮座して参詣者を迎えている。 中門をくぐって進むと、石垣の上に、左右に長い回廊が連なる山門が建つ。 堂々たる姿の山門は、一間一戸の楼門式で趣がある。 回廊前には堀が設けられていて、まるで城郭のような構えだ。
門前の堀に架かる石橋を渡り、広い石段を上って山門に....山門を通して茶色の芝生の境内に建つ本堂が見えるが、本堂の中心が少し右にズレていて、山門の正面には緑字で「大輪禅寺」と書された扁額が掲げられた入口がある。 本堂は古民家風の佇まいだが、鯱が乗る大棟に真田氏の家紋・六文銭が配されていて、真田家ゆかりの寺であることを主張しているようだ。
回廊傍に優雅な屋根の鐘楼が建つが、大棟が煙出しのような家形になっていて印象に残った。 真田昌幸の夫人・寒松院が眠っているお寺で、本堂裏山の墓所の一角に寒松院の墓碑の宝篋印塔が鎮座しているのだが、失念した....合掌。

△境内入口に立つ冠木門.....直ぐ正面に、玉垣に囲まれて三界萬霊塔が鎮座

△明治二十七年(1894)造立の石燈籠越しに眺めた三界萬霊塔
 
△永正四年(1507)造立の「三界萬霊位」と刻まれた三界萬霊塔/寛政十二年(1800)造立の石燈籠

△老杉の並木の中に続く切石敷の参道

△切妻造桟瓦葺の中門....白壁の脇塀に通用口がある....門前の左右に六地蔵尊坐像が鎮座している
 
△中門は「天照山」の扁額が掲げられた四脚門....二軒繁垂木、柱頭に蓮三斗、虹梁上に脚間に松の彫刻を配した本蟇股、禅宗様の木鼻....扁額の書は松代藩八代藩主真田幸貫による/大棟端に鬼瓦、拝に蕪懸魚
  
△妻飾は見事な彫刻笈形を設けた大瓶束/中門の傍に鎮座する稲荷社と「山門禁葷酒」と刻まれた戒壇石

△中門から老杉越しに眺めた参道奥に建つ楼門形式の山門

△入母屋造桟瓦葺で一間一戸の山門....上層に擬宝珠高欄付き廻縁、左右に桟瓦葺の回廊が延びる

△門前に堀に架かる平橋の石橋、手前の石燈籠は安政七年(1860)の造立

△下層の虹梁から上層まで保護ネットで覆われている....軒廻りは二軒繁垂木と思うが、組物などは見えない....上層は三間で中央間に板扉、脇間に花頭というより宝珠曲線の格子窓
 
△長い回廊と門前に堀を設けているのは仏敵の侵入を防ぐためのものか?(放生池にもみえるが)/山門前の堀に架かる石橋と広い石段

△趣のある門前から眺めた風景....ひときわ目立つ山門の屋根に本堂、庫裡そして鐘楼の屋根が重なる

△山門を通して眺めた堂宇境内.....現在の堂宇は宝永二年(1705)の再建

△入母屋造桟瓦葺の本堂....宝永二年(1705)の再建

△桁行九間で左から三間目に入口、右端に花頭窓がある他は全て格子窓
 
△簡素な造りの本堂の入口は腰高格子戸で、上に緑字で「大輪禅寺」と書された扁額/軒廻りは二軒繁垂木、組物は雲肘木(?)で中備なし....大棟に真田家の家紋の六文銭、大棟端に鯱が配されている

△本堂と庫裡を繋ぐ建物に設けられたから破風の玄関

△切妻造銅板葺の庫裡....本堂と同じ宝永二年の再建で、流向拝のような庇のある玄関を設けている

△回廊の傍に建つ入母屋造銅板葺の鐘楼....大棟に煙出しのようなものが乗る
 
△切妻造本瓦風の屋根に煙出し風の箱棟(?)/鐘楼に吊られた梵鐘

△境内西側に建つ回廊で繋がる禅堂(?)....禅堂前に石仏、宝篋印塔などの石造物が整然と並ぶ
  
△享保四年(1719)造立の宝篋印塔/天保六年(1835)造立の石碑/円光を背負った學護地蔵尊像




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安曽神社 (上田)

2020年04月29日 | 寺社巡り-長野

【長野・上田市】創建年代は不詳。 社伝では、崇神天皇(記紀で第10代)の御代に各地に天社・国社が建てられた時、宸筆の「阿曾山舎社阿曾大明神」の勅額が奉納された古社。 鈴子、石神、柳沢、旧三ケ村の産土神として独鈷山の麓の古安曽に鎮座。
平安時代の貞観年間(859~877)の860年頃、信濃権守岑嗣が阿曽山舎社として再建、仁和四年(888)に光孝天皇宸筆の「阿曾大明神」の勅額が奉納された。 その後、衰退していたが、鎌倉初期の文治元年(1185)頃に源頼朝が諸国の神社を修理させた時、当地の地頭・芳沢民部介光綱が石上布留社境内に阿曽社を建立し、阿曾大明神を遷座した。 石上布留社は現在、境内社として拝殿の右手に祀られている。 主祭神は大己貴命(大国主命)、建南方命(諏訪大社上社の祭神)、八坂刀売命(諏訪大社下社の祭神)の3柱。

塩田平を走る県道82号線の脇に、杉林を背にして両部鳥居が東面で立っている。
杉林の参道を進むと隨身門がひそやかに佇み、奥に静寂で神々しい空間が広がる。 風格を漂わせる隨身門は三間一戸の楼門で、正面の両脇間に衣冠束帯に剣と弓矢を身に着けた武官姿の随身像が、背面には社殿を向いて白い神馬が鎮座している。 入母屋屋根の軒下を見上げると、なんと二軒垂木が禅宗様の扇垂木になっていて驚いた。
随身門をくぐると西奥に、左右に屋根が一段低い翼拝殿を設けた横長形式の拝殿が建ち、拝殿入口は腰高格子戸で翼拝殿は全て格子窓になっている。 翼拝殿の横を回ると、透塀で囲まれた中に外削ぎの千木と5本の堅魚木を乗せた流造の本殿が鎮座する。
拝殿の左手に安産と育児の神を祀る子安社、右手に当地の地主神である石上布留社が鎮座。 社殿後方に広がる木立の中に、天照大神を養蚕の神として祀る蚕影社の他、神明社、男石社、天神社、三峯社などの境内社が鎮座している。 境内北側に屋根に特徴のある神門が建ち、その先に裏参道が延びている。 神門は四脚門でいう本柱がない柱4本で建ち、また、大棟にもう一つの本瓦風屋根を乗せた造りで珍しい。

△表参道の入口に立つ二基の石灯籠と金属板を張った木造の両部鳥居
  
△両部鳥居は四脚の稚児柱をつけ、柱頭に台輪をのせている両部鳥居/蕨手がない大きな笠、宝珠の請花が大きく開いているのが特徴/屋根付きの笠木、額束に掲げられた「安曽神社」の額に庇を設けている....杉林の参道奥に随身門が建つ

△入母屋造桟瓦葺の随身門....文政七年(1824)の建立、楼門形式で上層は中央間に板扉、脇間に連子窓、周囲に擬宝珠高欄付き切目縁を設けている

△軒廻りは二軒扇垂木、組物は出組で中備は蓑束
  
△正面両脇間の格子窓の中に随身像が鎮座....彫刻が施された虹梁の中央上に「立梶の葉」の社紋が乗る/随身門の左右脇間に鎮座する随身像....武官姿の随身像は衣冠束帯に剣と弓矢を身に着けている
 
△随身門背面の両脇間の格子窓の中に鎮座する白い神馬/社殿を向き祭神を見守るように鎮座する白馬

△切妻造桟瓦葺の拝殿....左右に翼拝殿を設けた横長形式の拝殿

△正面中央は腰高格子戸で脇間は羽目板....翼拝殿は格子窓
 
△軒廻りは拝殿は一軒繁垂木で翼廊が一軒疎垂木....翼拝殿の組物は平三斗で中備はない

△家型据燈籠は左が宝暦十三年(1763)、右が宝暦元年(1751)の造立....家形火袋は後補だろう....石柱は左が明治三十三年(1900)、右は大正四年(1915)の造立

△透塀越しに横から眺めた社殿全景....拝殿後方の張り出した切妻造桟瓦葺は幣殿....幣殿と本殿は吹き放ちの廊下で結ばれている
 
△流造銅板葺の本殿....正徳四年(1714)の再建で、両側に銅板葺の庇を設け、大棟に外削ぎの千木と5本の堅魚木が乗る
  
△切妻造桟瓦葺手水舎....手水鉢は明和元年(1764)造立/社殿の左手に鎮座する子安社....安産と育児の神・木花咲耶姫命を祀る/切妻造桟瓦葺で白壁の神庫

△社殿の右手に鎮座する石上布留社....祭神布留御魂剣は安曽神社の地主神で、郷土を鎮め護る神

△蚕影社..養蚕の神の保食神を祀る
 
△男石社....祭神は伊弉諾尊で立派な男児を授かることを祈願して祀る/金精神(男石社内に鎮座だった?)

△神明社....祭神は天照大神....傍に佇む石燈籠は文久二年(1862)造立
  
△神明社               天神社....祭神菅原道真公を祀る 三峰社
 
△入母屋造銅板葺の神楽殿(社務所を兼ねる?)
 
△境内北側の裏参道に向いて建つ切妻造銅板葺の神門/本柱がなく控柱4で建つ構造で、大棟に本瓦葺風の切妻屋根を乗せている

△北側の裏参道の入口に立つ木造の両部鳥居....表参道と同じ鳥居だが金属板を張っていない

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芳泉寺-(2) (上田)

2019年09月27日 | 寺社巡り-長野

【長野・上田市】江戸時代には浄土宗の総本山・知恩院の末寺として、上田藩領内の配下の寺院からの訴願を奉行に伝える触頭の役割を担っていた。 仙谷氏の霊廟には、真田信之の正室・小松姫の宝篋印塔、仙石家2代上田藩主・仙石政俊の五輪塔そして小諸城主だった正俊の祖父仙石秀久の板碑型石塔がある。

大きな唐破風の向拝の本堂はの大棟や獅子口、中央間の幅広い腰高ガラス戸、そして向拝前に置かれた賽銭箱を囲む品格ある柵などに「三つ葉葵」「六文銭」「月影杏葉」そして「永楽銭」の金色の家紋を配していて、山門と同様、格調の高さを感じさせる。
賽銭箱の前で合掌した後、本堂の後方にある上田城主仙谷氏の霊廟に向かう。 霊廟は白壁の築地塀で囲まれ、中は築地塀で2つに区画されていて、それぞれに家紋を配した板扉の薬医門が設けられている。 板扉に「三つ葉葵」と「六文銭」の家紋を配した左側が小松姫の墓所で、自然石を敷き並べた基壇の上に、大きな相輪の宝篋印塔がひっそりと立っている。 宝篋印塔の傍に、竿に天桂院殿と刻まれた石燈籠があるが、石燈籠形墓碑とみられる。
板扉に「永楽銭」と「月影杏葉」の家紋を配した右側は、二代城主仙谷政俊らの仙石家の霊廟で、2棟ある桟瓦葺の覆屋にはそれぞれ政俊の五輪塔と正俊の祖父の仙石秀久の板碑型墓碑が鎮座している。 五輪塔と板碑型墓碑いずれもほとんど損傷がないことから、造立当時の姿のままでいまに至っている。 他に秀久の側室や長男の墓碑があり、また、政俊の霊廟の周りには五輪塔造立時に家臣が献上した石燈籠18基が立ち並んでいて、政俊をじっと見守っているかのようだ。

入母屋造桟瓦葺の本堂

正面五間で広い中央間には三つ葉葵と六文銭と松の木を入れた低い腰高のガラス戸....脇間に硝子戸と花頭曲線の窓、周囲に擬宝珠高欄付切目縁を巡らす

三つ葉葵を入れた獅子口を乗せた大唐破風の向拝....兎毛通は蕪懸魚、頭貫の上の小壁に脚間に松の彫刻を入れた蟇股、頭貫と虹梁の間に2つの蟇股と平三斗

軒廻りは二軒繁垂木、大棟端に三つ葉葵を入れた獅子口、拝に梅鉢懸魚、妻飾りは狐格子
 
向拝の階段前に置かれた賽銭箱....親柱に擬宝珠を乗せた柵と三つ葉葵、六文銭、月影杏葉の紋が配された花頭曲線の柵に囲まれている

白壁の築地塀に囲まれた上田城主仙谷氏の霊廟....2区画されていて、左奥の門の中に真田信之の正室・小松姫の墓がある

小松姫の墓所の門の板扉に真田家「六文銭」と徳川家「三つ葉葵」の家紋

小l松姫の墓所....小松姫は徳川家康の幼女で、上田藩祖真田信之(信幸)の正室大蓮院殿
 
小松姫の墓の宝篋印塔....元和七年(1621)の造立で、高さ約3m、塔身と基礎に姫の経歴が刻まれている/真田信吉寄進の石燈籠(石燈籠形墓碑かな)....「天桂院殿」の刻

仙谷氏霊廟....切妻造桟瓦葺の薬医門で、門左右の築地塀にくぐり戸がある

薬医門の板扉に永楽銭と影杏葉の紋が配されている....霊廟には家臣が献上した石燈籠18基が立ち並ぶ、殆ど延宝二年(1674)造立のようだ

露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺の2棟の覆屋(御廟)

右の門正面の覆屋は二代城主仙谷政俊の御廟

仙谷政俊の墓の五輪塔....総高188cmmでやや大型
 
地輪に「松翁院殿....」と刻まれている/延宝二年(1674)造立の石燈籠型墓碑....右は秀久の長男・久忠の変形五輪塔

左に建つのは小諸城主だった正俊の祖父仙石秀久の御廟
 
仙石秀久の板碑型墓碑....慶長十九年(1614)の造立で、総高202cm、頂部(山形)に仙谷家家紋の永楽銭が刻まれている/慶安元年(1648)造立の秀久の側室・慶宗院の板碑型墓碑
 
明神鳥居を構えた稲荷神社....切妻造銅板葺の丹塗りの覆屋内に祠が鎮座/流造銅板葺の祠....正面に龍の彫刻、中に御幣が鎮座し、神使の狐像が置かれている

本堂に向かって右手に建つ寄棟造銅板葺の庫裡

大棟に桟瓦葺の二層の越屋根が乗る
 
境内に佇む自然石型文字庚申塔....「猿田彦大神」の刻/三界萬霊香華奉納塔の上に鎮座する誕生仏
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芳泉寺-(1) (上田)

2019年09月21日 | 寺社巡り-長野

【長野・上田市】創建は不詳だが、古くから千曲川右岸に境内を構えていた常福寺が前身とされる。その後、真田家の祈願所として庇護され、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの終結後、上田城城主となった昌幸の嫡男・真田信之が常福寺を現在地に移し、全称庵主含霊を招いて真田家の菩提寺とした。
江戸時代初期の元和六年(1620)、信之の正室・小松姫(本多忠勝の娘で徳川家康の養女)が死去すると、常福寺を含む三か寺にそれぞれ分骨され墓碑(宝篋印塔)が建立された。 元和八年(1622)に真田信之が松代に移封した後、代わって上田城城主となった小諸藩主・仙石忠政が、小諸にあった仙石氏の菩提寺の宝仙寺をこの地に移し、常福寺を修築し、宝仙寺を芳泉寺に改称した。 真田氏の庇護にあった常福寺は元の地の小県郡に戻された。 宗旨は浄土宗(鎮西派)で、本尊は阿弥陀如来像。

「北向観世音道」と刻まれた道しるべが立つ道を進んで芳泉寺に向かう。 路傍の低い石垣の上に石の野仏3基(庚申塔、馬頭観世音、二十三夜塔)がひっそりと佇んでいる。
道に平行した10段の階を上がると筋塀の先に山門が建ち、門前に「不見の岩」など仏法に係る石が配されている。 山門の板扉に「三つ葉葵」と「月影杏葉」の紋、袖塀のくぐり戸に「六文銭」と「永楽銭」の紋が金色に輝いている。 また、山門は珍しい格天井になっていて、格子の中に「菊花」「三つ葉葵」「永楽銭」そして「六文銭」がびっしりと描かれていて、格調の高い寺であることをこれでもかと主張しているかのようだ。
山門をくぐると、切石敷の参道の先に本堂が建ち、広い前庭には石造物、仏像、石、祠、動物のオブジェなどが点在しているが、ごちゃごちゃしていて何となく落ち着かない。
境内西側には燦燦と西日を浴びて、白壁の法輪閣と擬宝珠高欄を設けた銅板葺袴腰の鐘楼が建つ。 白壁の築地塀の傍には、石造り玉垣で囲まれた中に珍しい形の石塔が鎮座、また、五輪塔などの石造物のほか石造りの祠や鶴亀像がひっそりと鎮座している。

芳泉寺への路傍に佇む道しるべ....「北向観世音道」と刻まれている

芳泉寺への路傍に佇む3基の野仏
  
自然石型文字庚申塔/櫛型馬頭観世音/自然石型月待塔....「二十三夜塔」の刻

門前への石段上に寺号標石を兼ねた門柱が立ち、奥に3本の定規筋が入った築地塀と山門が建つ
 
門前にある「不見の岩」(別称「天狗の岩」)/門前に鎮座する平成五年(1993)造立の十一面観音菩薩立像

切妻造本瓦葺の山門....四脚門で、白壁の袖塀に設けられた通用口(くぐり戸)に六文銭と永楽銭の紋章を配している
  
山号「松翁山」の扁額が掲げられ、板唐戸に八双金具と9個の装飾金具がうってある/山門の板唐戸に三つ葉葵と月影杏葉の家紋が配されている....珍しい格天井になっていて、菊花、三つ葉葵、永楽銭そして六文銭が描かれている

山門を通して眺めた境内....切石敷参道の奥に本堂が鎮座
 
「南無阿弥陀仏」と刻まれた自然石の六字名号塔/本堂前庭に配された種々の石造物、仏像、祠、回向柱、石そして動物のオブジェ等

宝形造桟瓦葺の法輪閣....頂上の露盤宝珠の露盤に設けた格狭間に永楽銭や六文銭がある
 
軒下は二軒繁垂木風の造りで、四隅に風鐸が下がる....入口は幅広の腰高格子戸/前庭の木は根元から幹が数本に分かれた「眼識九縁松」

入母屋造桟瓦葺の袴腰鐘楼....袴腰は銅板張りで、上に擬宝珠高欄付き縁を巡らす

軒廻りは二軒繁垂木....格天井になっていて三つ葉葵や六文銭等が描かれている

獅子と像の木鼻を設けた飛貫に葵の御紋、文銭、永楽銭、貫上の蟇股に月影杏葉をそれぞれ配している
 
袴腰の傍に鎮座する像に乗った普賢菩薩像....平成十八年(2006)の造立/境内西側の築地塀傍の石造り玉垣内に鎮座する珍しい形の石塔
 
築地塀傍の古い基壇上に置かれた石祠や石造物(五輪塔、石燈籠、鶴亀像など)/「弁天池 羽衣の松」と称される松の木



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生島足島神社-(2) (上田)

2019年07月07日 | 寺社巡り-長野

【長野・上田市】戦国時代の武将・武田信玄の寄進や、安土桃山時代の武将・真田昌幸やその長男・信之ら信濃上田城主から崇敬され、神領の寄進を受け、社殿の修築がなされた。
天皇が都を定める時は生島・足島の二神をその地に鎮祭されるのが通例で、近くは明治二年(1869)に宮中にこの二柱の大神が親祭された。 中世以降、社号は「下之郷大明神」「諏方法性大明神」「下之郷上下宮」等と呼称されていたが、江戸時代寛政十一年(1799)、京都吉田家により「生島足島神社」に改称され、明治二十三年(1890)、近代社格制度において国幣中社に列せられた。
境内の歌舞伎舞台には信玄や昌幸らの願文・朱印状や武田家武将の起清文などが展示されている。

西の両部鳥居から神池の西岸を南に少し進むと、神島に向かって御歳代御仮殿が鎮座。 そこから少し先に八幡神社の両部鳥居が立ち、鳥居から少し離れた木立の中に小さな拝殿と本殿が並ぶ八幡神社が西面で鎮座している。 八幡神社の右手に秋葉社の石造り祠、後方の玉垣に囲まれた中に本宮を向いて荒魂社が鎮座しているが、玉垣の中に頭部に注連縄が張られたキノコ形の石塔が佇む。
参道に戻り、西御門をくぐって社殿境内に....。 直ぐ右手に江戸期の農村歌舞伎舞台の姿を今に伝えているとされる歌舞伎舞台が建つ。 歌舞伎舞台に入ると、川中島合戦の二年前に奉納された武田信玄直筆の「戦勝祈願文」や武田家臣団武将に忠誠を誓わせた文書「武田家臣団起請文」などがずらりと展示されていて、文書の中に武田信玄の名をみつける度に感動を覚えた。
本社に向かって諏訪神社の旧拝殿だった神楽殿が建ち、後方に真田信幸が寄進した摂社・諏訪神社(下宮)が鎮座している。 一間社流造の本殿は1本の大木で造営されたようだ。 諏訪神社前の東西に夫婦欅と呼ばれる2本の老木が聳え、西側の夫婦欅の根元が空洞になっていて、洞内に男女を象徴する造形があるらしい....が、撮影を失念した。

東西を貫く参道の西側に立つ両部鳥居の西鳥居
 
御本社(上宮)が鎮座する神島の後方に数社の境内社が鎮座/切妻造銅板葺の御歳代御仮殿....七柱の御祭神を祀る

四脚の控柱(稚児柱)がある八幡社の両部鳥居
 
八幡社の切妻造桟瓦葺の拝殿と本殿....祭神誉田別命、玉依比売命、伊弉冉尊を祀る/拝殿と本殿が少し離れて建つ
  
拝殿を通して眺めた本殿/安永七年(1778)造立の石燈籠/安永七年(1778)造立の石燈籠....竿に「秋葉大権現」の刻
 
八幡社の右奥に鎮座する流造石祠の秋葉社

玉垣の囲まれ北面で鎮座する荒魂社....生島大神・足島大神の荒魂を祀る
  
流造銅板葺の荒魂社        玉垣の中に佇む石塔        「上ノ宮一之柱」
 
寄棟造桟瓦葺の歌舞伎舞台....明治元年(1868)建築と伝わる....間口九間、奥行七間で農村歌舞伎舞台の中で最大規模.....武田信玄の「必勝祈願文」等の古文書を展示/下神井様....諏訪神社井戸神

摂社諏訪神社の拝殿として建てられた入母屋造桟瓦葺の神楽殿

摂社諏訪神社(下宮)....社殿は慶長十五年(1610)、上田藩主真田信幸の寄進で再建....祭神は建御名方富命、八重事代主命、八坂刀売命の3柱
  
切妻造で中央の千鳥破風を乗せた本殿前の御門....本殿と同時期の建立とみられる/御門に「諏訪大明神」の扁額が掲げられているここで拝観する/神門を通して眺めた本殿
 
一間社流造で銅板葺の本殿....軒廻りは二軒繁垂木....大棟に外削ぎの千木と3本の堅魚木が乗る/諏訪神社の本殿には祭神の建御名方富命、八重事代主命、八坂刀売命を祀る
 
諏訪神社前に聳える御神木の夫婦欅....東西左右2本で夫婦....推定樹齢800~1200年で、延命寿命、夫婦円満の樹/西側の夫婦欅の根元の空洞の中が男女を象徴する造形がある
 
千鳥破風を乗せた入母屋造銅板葺の社務所             北側の参道に立つ両部鳥居の北鳥居

鎌倉時代建治年間(1275~1278)建立の袴腰付鐘楼....塩田陸奥守(北條国徳)寄進で、明治の廃仏毀釈で境内からこの地に移動された

鐘楼近くの路傍に佇む2基の石仏....左は風化が激しいが如意輪観音像を浮き彫りした石仏、右は自然石型の道祖神
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生島足島神社-(1) (上田)

2019年07月04日 | 寺社巡り-長野

【長野・上田市】創建年は不詳。 歴代天皇の崇敬厚く、平安時代の大同元年(806)に神戸(封戸)として信濃国から1戸が寄進され、延喜五年(905)に醍醐天皇(第60代)の勅によって編集された「延喜式」(延長五年(927)完成)の神名帳に生島神・足島神が記されていることから、千年以上の歴史を持つ信濃屈指の由緒ある古社。
鎌倉時代に入っても皇室や武将の崇敬が篤く、建治年間(1275~1278)には武将・北条国時(陸奥守入道)によって社殿が営繕され、地頭の領家(荘園領主)から祭祀料の田地の寄進を受けた。 主祭神は生島大神(万物を生み育て生命力を与える)と足島大神(国中を満ち足らしめる)。

東の参道の入口に立つ紙垂としめのこを付けた注連縄が張られた朱塗りの両部鳥居をくぐり、大きな神池に沿って参道を進む。 神池に浮かぶ神島の木立の中に鎮座している社殿が見える。
参道の先に東御門と称す神門があり、門前の手水舎の前に立てられた高札に「手水で身体を清めてから参拝を....」と書かれている。 禊を行って身を清めた後、東御門をくぐって社殿境内に....。 東西を貫く参道の南側(左手)に、神池に架かるいずれも反り橋の石造り参橋と朱塗りの神橋があり、神島の老樹の中に上宮である本社が鎮座しているが、正面からは社殿がよく見えない。
正面と後方に唐破風の屋根を乗せた風格のある神橋(太鼓橋)は通行できないので、隣の参橋を渡って本社へ。 拝殿の右前には祭りに際して神様が降臨する「磐座 磐境」があり、白い玉砂利が敷かれた中に注連縄が張られた4つの岩が鎮座している。
本殿には御室と呼ばれる土間の内殿があり、大地そのものが御神体として祀られているそうだ。 本社で参拝した後、本社横の十三社と本社前に鎮座する子安社を参拝して参道に戻り、西御門をくぐって神池の南側の境内に鎮座する末社に向かう。

東参道の入口に立つ社号標石と両部鳥居の東鳥居....社号標石は明治四十一年(1908)造立で「国幣中社 生島足島神社」の刻

紙垂としめのこを付きの注連縄を張った朱塗りの両部鳥居....鳥居前の石燈籠は文化十年(1813)の造立

東参道から眺めた神池....池に浮かぶ神島の木立の中に本社(上宮)の社殿が鎮座している
 
切妻造銅板葺の東御門....門前右手に切妻造銅板葺の東手水舎

東御門から眺めた境内、右奥に屋根付神橋、手前に石造り参橋(反橋)、中央に本社拝殿、左に子安社

天保十一年(1840)造立の石燈籠越しに眺めた御神橋と拝殿

切妻を唐破風にした銅板葺屋根の御神橋

朱塗りの御神橋は太鼓橋(反橋)

神島の拝殿前から眺めた御神橋....後方右は神楽殿、左は西御門

池心宮園地の神島に鎮座する本社(上宮)の入母屋造銅板葺の拝殿....社殿は慶長十五年(1610)、上田藩主・真田信之の寄進で再建
 
拝殿向拝に紙垂としめのこを付けた大根注連の注連縄が張られ、水引虹梁の中央に脚間に彩色された巴文様風彫刻を配し2つの斗を乗せた大きな本蟇股がある/本殿には御室と呼ばれる室町時代建立の一間の内殿があり、床板がなく土間になっていてそこがご御神体(御霊代)になっている
 
注連縄が張られた4つの岩がある場所は「盤座 盤境」と称し、祭りの際に神様がここに降臨する/拝殿の右に繋がった御龍殿と手前の小さな建物は上神井様

流造銅板葺の子安社....手前の中台から上がない石燈籠は享保三年(1718)造立
 
子安社の左脇に佇む2基の石燈籠....手前は文政十三年(1830)、奥は享保四年(1719)の造立

流造銅板葺の十三社....祓戸神十三柱を祀る

横から眺めた神池に架かる神島への神橋

西御門近くから眺めた新橋と社殿

西御門の門前に立つ大小2基の石燈籠....大きい方は嘉永元年(1848)、小さい方は明治二十九年(1896)の造立
 
切妻造銅板葺の西御門....門を通して東御門が見える/西御門の手前左手に切妻造銅板葺の西手水舎

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宗吽寺 (上田)

2019年01月21日 | 寺社巡り-長野

【長野・上田市】創建年は不詳だが、什慶が開山とされる。 初めは上田城付近にあったが、上田城築城の際に真田昌幸が現在地に移し、慶英法印によって中興された。
江戸初期の元和八年(1622)、真田氏に代わって上田藩主となった仙谷氏、宝永三年(1706)から上田藩主となった松平氏の時代を通して上田藩主の祈願所として庇護された。 特に、松平氏が藩主の時代、参勤交代の際に宗吽寺が命を受けて出立の吉日を決めていた。
境内には南北朝時代の正平四年(1349)に造立された珍しい石幢がある。 「正平」は南朝の元号。 石幢は、一般的な幢身六面の石幢(笠を乗せた六角形の幢身に六地蔵像を浮彫)とは異なり、切妻屋根の家型の石幢。 中央の前後に長方形そして両側面に「日」と「月」の形の窓を設け、正面と両側面に各2体づつの六地蔵尊が浮き彫りされている。 宗派は真言宗(智山派)で、本尊は阿弥陀如来像。

宗吽寺は、真田氏の祖とされる海野幸義ゆかりの日輪寺の隣に建つ。 道路脇に寺号標石を兼ねた門柱が立ち、切石敷の参道の奥に威厳を感じさせる鐘楼門が見える。
鐘楼門をくぐると、手入れが行き届いた玉砂利を敷いた境内が広がる。 本堂前で合掌し、事前に調べておいた「石幢」に。 本堂前の金属製の柵の中に、多くみられる幢身六面の石幢ではなく家型のもので、正面と両側面にそれぞれ2体づつ六地蔵像が浮彫りされている。 また、四方に窓を設けていて石灯籠として使われていたようだ。 側面の窓は日形と月形だが、3体の地蔵像を削り取るように設けているので後人の手によるものだろう。 また、石幢は四脚を設けた異形の台座にのっているが、材質が異なるので後補だろう。 特に、後世の人による石幢本体の加工は残念に思う。 2体の弘法大師像を安置する清凉大師堂の前に、手の形のオブジェが置かれているが、何か弘法大師が腕を広げて迎えてくれているかのるようだ。
 
街中に立つ門柱を兼ねた寺号標石/切石敷の参道の奥に威厳を感じさせる大きな屋根の楼門が建つ

入母屋造銅板葺の鐘楼門....通用口があるL字形袖塀を設け、「海堂山」の額が掲げられている

軒廻りは一軒繁垂木、組物は出組で中備に蟇股...上層に擬宝珠高欄付き回縁があり、縁を支える腰組は出組

鐘楼門から眺めた手入れが行き届いている境内....玉砂利を敷いた境内に各堂宇への切石敷の参道

入母屋造桟瓦葺の本堂....正面七間で、広い一軒の簡素な向拝

軒下は全て小壁、中央間二間に連子入り桟唐戸、両脇間三間中の二間に格子窓と腰羽目
  
本堂前の柵の中に佇む珍しい石幢/初層軸部の月輪の中に梵字、輪郭を巻いた基礎に格狭間が彫られた十一重石塔/確か無縁墓の上に鎮座する宝冠をいただいた菩薩像

南北朝時代の南朝正平四年(1349)造立の珍しい石幢

切妻屋根の家型の石幢....正面と両側面に各2体の地蔵像が浮彫りされている
 
中央の前後に長方形、両側面に日月形の窓を設けている/側面の地蔵像から日月形窓は後人の改造、また石幢に似合わない四脚の台座も後補

本堂前に佇む弘法大師修行像と乱積台座上の石燈籠
  
昭和五十九年(1984)造立の修行大師御尊像/昭和八年(1933)造立の石燈籠/庫裡傍に置かれた大黒天像

境内の左側に建つ清涼大師堂、庫裡&客殿そして覆屋に井戸....清涼大師堂前に手形のオブジェ
  
切妻造瓦葺で起り屋根の清涼大師堂....堂内に2体の弘法大師空海像を安置/清涼大師堂前に下がる「念珠回し」....煩悩の数と同じ108個の珠がある....上部の板の梵字は「日天子」か/切妻造鉄板葺の覆屋に井戸

宝形造桟瓦葺の不動堂....祀られている不動明王像は成田山の本尊の分身とされる
  
不動堂に下がる大きな鰐口と入口に掲げられた額絵馬/不動堂向拝の屋根上に掲げられた「成田山」の書の額/不動堂前左手に鎮座する石造り稲荷神社....大棟に外削ぎの千木と3つの堅魚木が乗る
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無量寺 (上田)

2019年01月18日 | 寺社巡り-長野

【長野・上田市】戦国時代の弘治元年(1555)、地頭の福沢左京進が建立し、千葉佐倉の僧岌泉を初代の住持とした。 その後、領主・仙石忠政の家臣・奥田政勝から寺領が寄進された。
伝説では、弘法大師空海がこの地を訪れた際、沢山の柳の木に霊力を感じ、根元の部分で地蔵菩薩、末の部分で薬師如来を彫ったとされ、地蔵堂に安置されている地蔵菩薩像は「元木の地蔵」と呼ばれる。宗旨は浄土宗で、本尊は阿弥陀如来像。

傍に地蔵石仏と六字名号塔が佇む袖塀付き門柱を通って参道を進むと、左右に三体ずつ鎮座する六地蔵尊像が迎えてくれる。 参道の奥に本堂が建ち、堂前に「…元祖法然上人八百年大御忌法要…」と記された回向柱が立つ。
本堂の左手に白壁の地蔵堂が鎮座、中央間の頭貫の上に配された蟇股に乗っかるように「願王宝殿」と書された額が掲げられている。 地蔵堂には弘法大師空海作とされる地蔵菩薩像が安置されているが、伝説では、この地を訪れた弘法大師が柳の木に霊力を感じ、その木の根元の部分で地蔵菩薩を彫ったということから「元木の地蔵」と呼ばれているとのこと。
地蔵堂の前に小振りの鐘楼があるが、みると基礎の周囲に羽目板を張ったもので、基礎が木造なのは珍しいと思う。
 
参道に袖塀を設けた門柱/門柱手前の参道脇に佇む地蔵尊像と六字名号塔(造立年不明)

参道脇で参詣者を迎える帽子を被り前垂れをした六地蔵尊像

入母屋造桟瓦葺の本堂....正面に「…元祖法然上人八百年大御忌法要…」と記された回向柱が立つ
 
ゆったりとした造りの簡素な向拝/本堂の軒廻りは二軒繁垂木で組物は繰形の舟肘木(だったと思う)

本堂左手の境内に地蔵堂、鐘楼、石塔、社などが鎮座

石造物は十三重石塔と石燈籠、建物は鐘楼と地蔵堂....地蔵堂には「元木の地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩を安置している

宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺の地蔵堂....蟇股に乗る扁額に「願王寶殿」の書

露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺の鐘楼....羽目板を張った木造の基礎の上に建つ
 
降棟の下端の四隅に獅子口を設けている/鐘楼を通して眺めた石造物と本堂
 
本堂の左手に鎮座する小さな流造の社(2社)と享保二年(1717)造立の兜巾型石搭....石塔は「三界万霊搭」のようだ
 
十三重石塔と石燈籠....十三重石塔は初重塔身の月輪に梵字、基礎に格狭間..石燈籠は享保六年(1721)の造立/十三重石塔と石燈籠の間から眺めた本堂
 
地蔵堂の脇に佇む自然石型「三界萬霊搭」(造立年不明)/地蔵堂の脇に置かれた四基の墓碑....板碑型1基と箱型3基で、左端は文政四年(1821)、右端は安永四年(1775)の造立
 
本堂右手に立つ入母屋造桟瓦葺の客殿兼庫裡....現代的な屋根の客殿玄関/境内に佇む重厚な石燈籠(造立年不明)


 
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満願寺 (上田)

2018年09月27日 | 寺社巡り-長野

【長野・上田市】創建年や縁起は不詳だが、前山寺の末寺として約五百年前の室町時代(戦国時代)に創建されたといわれている。 最近までの十五年間は無住だったので境内が荒れていたが、檀信徒らにより復興が進められたとのこと。 境内の御堂に作者・造立年代不詳の石造り十王仏が鎮座。
宗旨は真言宗(智山派)で、本尊は薬師如来像。  中部四十九薬師霊場(番外)。  

追開沢川沿いの狭い参道を進むと、不動明王と眷属の像が見守る満願寺の駐車場に着く。
石段の参道を上っていくと、両側に庚申搭・重制石幢・巡拝塔などの石造物が鎮座している。 石段を上り詰めると、両側に銀杏の老木が聳え、正面に五色幕が張られた本堂が建つ。 箱棟を乗せた小棟造りの本堂は、茅葺屋根の上に鉄板か銅板を葺いた造りで、向拝がなく古民家のような風情だ。
境内の右手には、十王などの石仏を安置した簡素な御堂と、神使の狐が見当たらない福寿稲荷社が建つ。 御堂には、忿怒の形相の十王のほか閻魔王の妹の奪衣婆、そして閻魔王の本地仏である地蔵菩薩などが本堂を向いて整然と並んでいる。 (満願寺の石仏については別途投稿)
本堂の前庭で珍しい石造物を見つけた。 「四方仏形手水鉢」と「三光燈籠」だ。 側面龕部に仏像が浮き彫りされた四方仏形手水鉢は、通常は飾手水鉢だが、ここでは清水が注がれ実用されている。 三光燈籠は初めて見る石燈籠で、火袋部分だけを地面に置いたような姿がすごく印象的だ。

石段参道の途中の左右に石造物が整然と並ぶ

参道右側に並ぶ石造物....石段上に五色幕を巡らした本堂が建つ
  
宝暦三年(1753)造立の巡拝塔の兜巾型百番供養塔/明和六年(1769)造立の巡拝塔は櫛型百番供養塔/明和六年(1769)造立の駒型巡拝搭....「善光寺三十三度参供養塔」と刻まれている

参道右側に並ぶ舟形青面金剛庚申搭や重制石幢等の石造物....石幢の六角形龕部に六地蔵が浮き彫り....青面金剛庚申搭以外は風化で造立年等不明

参道左手に並ぶ2基の巡拝塔と右は重制石幢....石幢は風化が激しいが六角形龕部に六地蔵の浮き彫り
  
造立年失念の巡拝塔....「秩父坂東西国順□□」の刻/造立年不詳の巡拝塔..「西国秩父坂東供養塔」の刻/蹲踞の傍にある造立年不詳の織部型石燈籠(切支丹燈籠とも呼ばれる)....竿の下部が地中に埋められて立っている

両側に銀杏の老木が聳える境内に建つ本堂

寄棟造銅板葺の本堂....茅葺屋根の上に銅板を葺いた造り
 
大棟に瓦屋根付箱棟を乗せ、軒廻りは一軒疎垂木、柱上に雲肘木か....切目縁に簡素な擬宝珠風勾欄を設置/正面は全て腰高格子戸
 
境内右手に「十王仏」等の石仏を祀る御堂が建ち、石仏が参詣者を迎えている

切妻造桟瓦葺の簡素な御堂(覆屋?)に鎮座する「十王仏」....作者・造立年代は不詳

閻魔大王像を中心に左右に十王仏、奪衣婆像、地蔵尊像などの石仏が並んで鎮座

十王は冥界にあって死者の罪行を裁判する10人の王....冠をつけ、道服を着て笏を持つ

境内に鎮座する切妻造桟瓦葺の福寿稲荷社

簡素な稲荷社なれど神使の狐の狛犬が不在

本堂前庭に佇む石燈籠と手水鉢....手水鉢の前に役石が置かれている
 
側面四方の龕部に仏像が浮き彫りされた四方仏形手水鉢/本堂前庭に置かれている珍しい三光燈籠

庫裏の玄関
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中禅寺 (上田)

2018年09月25日 | 寺社巡り-長野

【長野・上田市】平安時代の天長年間(824~834)、弘法大師空海が雨乞い祈祷の為、独鈷山に草庵を結んだのが始まりと伝えるが、山麓に伽藍が整備されたのは平安末期~鎌倉初期とされる。
鎌倉時代、初代将軍・源頼朝や幕府の執権職を世襲した北条氏の一門の塩田北条氏らの庇護を受けて隆盛。 室町時代の永享年間(1429~1441)、江戸時代の寛文五年(1665)と享保五年(1720)の度重なる火災に遭って諸堂及び記録を焼失したが、享保十九年(1734)、祐精法印が中興開山し、現在の本堂が建立された。 宗旨は真言宗(智山派)で、本尊は地蔵菩薩。 塩田平四國霊場第十番札所。
鎌倉初期建立の薬師堂は方三間の阿弥陀堂形式で、中部日本最古の木造建築物。

独鈷山に向かって延びる明るい参道を進むと、右側に堂宇、左側に枯山水の庭が広がる。 境内の真ん中に高い木が3本あるだけなので、境内に陽が燦燦と降り注いでいて明るい。
仏像や石造物が点在する前庭がある小棟造りの本堂で参拝した後、いったん参道に戻って仁王門へ。
躍動的な金剛力士像に迎えられ、仁王門を通し、味わいのある茅葺の薬師堂をしばし眺める。 鎌倉時代の風情を色濃く残す薬師堂....古色蒼然たる佇まいで歴史を感じさせる。 中央の板扉が開いているので、内側の格子戸の大きな隙間から、不思議な形の台座に鎮座する薬師如来坐像を撮らせていただいた....合掌。

独鈷山の麓に鎮座する中禅寺への参道脇に立つ寺号標石と伽藍配置案内板

六地蔵が鎮座する切石敷の参道の正面に建つ本堂

寄棟造銅板葺の本堂....享保十九年(1734)、中興開山祐精法印により建立

鯱付き箱棟を乗せた小棟造り、組物が無い....入口に「龍王山中禅寺」の扁額、柱に「信濃の國 塩田平四國霊場第十番札所」の聯

本堂前庭に立つ仏像と石碑
  
大日如来三尊の一つ「報身(胎蔵界大日)真言」が梵字で刻まれた石碑/弘法大師空海修行像/本堂を向いて立つ水子子育地蔵尊像

境内に佇む3基の庚申塔....左は笠付角柱型青面金剛庚申塔で風化が激しく像容や三猿などが不鮮明....右の2基は「庚申」と刻まれた自然石型文字庚申塔

薬師堂前に建つ切妻造桟瓦葺の仁王門

簡素な造りの仁王門に「中部四十九薬師霊場第三番札所」の聯
 
平安時代末期~鎌倉時代初期(12世紀末)作とされる阿形吽形の木造金剛力士像

仁王門を通して眺める長野県(信州)最古の木造建築

露盤宝珠を乗せた宝形造茅葺の薬師堂(重文)....鎌倉時代初期の建立とされる

三間四方の仏堂で周囲に切目縁を巡らす

周囲に低い石の柵を巡らせた乱積の基壇上に鎮座する薬師堂
 
薬師堂の本尊の二重円光を背負う木造薬師如来坐像(重文)....鎌倉時代初期(13世紀)造立、寄木造りで像高97.8cm/正面三間はいずれも板扉で内側に格子戸

薬師堂の左手と後方に墓所が広がる
 
軒廻りは一軒繁垂木、柱上に舟肘木で中備なし....側面は一軒の板扉と二軒の羽目板壁/薬師堂背後の墓所傍に佇む五輪塔....笠石(火輪)は軒厚で四隅を直線で切っているので鎌倉時代作か、搭身(水輪)には月輪に梵字が刻(薬師如来の「バイ」か)

薬師堂前の参道を挟んだ向かい側に広がる枯山水の庭....庭前に起り屋根の門

本堂と庫裡とを結ぶ廊下に大玄関
 
「本坊大玄関」の額が掲げられた大玄関/寄棟造銅板葺の庫裏....箱棟を乗せ、屋根の途中で区切っているので錣屋根にみえる
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