何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

川にクジラ現る....?

2017年04月30日 | 街角スナップ

【神奈川・横須賀市】曇天の某日、平作川沿いに久里浜に向かう途中、川面から頭を大きく突き出したクジラを発見した。 と、思ったが、それは破損して船首をもたげたブレジャーボートの黒ずんだ船底だった。 その光景は、クジラが小魚を捕食するために口を大きく開けて海中から頭を突き出す光景に似ていた。
護岸には約20mおきに「係留禁止」の表示が掲示されている。 川の両側に数知れずのブレジャーボートが連なって係留されているが、違法係留なのに何故野放しなのだろうかと思いながら歩を急がせた。
 
護岸に「保留禁止」の表示があるが..
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法起院 (桜井)

2017年04月26日 | 寺社巡り-奈良

【奈良・桜井市】奈良時代の天平七年(735)に徳道上人により創建された。 徳道上人は道明上人について仏道を研修し、道明上人とともに長谷寺の開基となった。
徳道上人は晩年、境内の松の木の上から法起菩薩となって入滅したと言われ、それが寺号の名称の由来。 また、天平七年に西国三十三所を創始したと伝えられる。 江戸時代元禄八年(1695)、長谷寺化主の英岳僧正が再建し、長谷寺開山堂とした。
真言宗豊山派で本尊は徳道上人像。 西国三十三所番外札所。

素盞雄神社参拝後、近鉄長谷寺駅に戻る途中、門前町の一角に建ち徳道上人御廟の十三重石塔がある法起院に立ち寄った。
入り口の両側に「長谷寺開山徳道聖人廟塔」と二仏を薄肉彫りした石柱が立つ狭い参道を進んで門前に....。 白い筋塀に挟まれた山門をくぐると、直ぐ正面に小棟造りの小さな本堂が建つ。 長谷寺の方向であるほぼ北向きで建てられた開山堂だ。 向拝に近づくと、厨子の中に鎮座する徳道上人像が金色の光の中に浮かんでいる。
徳道上人像に合掌した後、開山堂の左手の奥にある徳道上人御廟に....築地塀で囲まれた御廟の棟門をくぐると、中央の大きな基壇の上に徳道上人の供養塔の十三重石塔がひっそりと立つ。
後で知ったのだが、開山堂の棟の左側の鬼瓦が衝立のような瓦板で隠されている。 棟の左側は北向きであり、長谷寺と近くに鎮座する輿喜天満神社の方向であるため鬼の顔を隠しているとのこと。
 
参道入り口に立つ「長谷寺開山徳道聖人廟塔」..向かい側に二仏を薄肉彫りした石柱が立つ/5本の筋塀の中に山門があり「法起院」の社号標石が立つ

切妻造本瓦葺の山門..社号標石には西国三十三所開基徳道上人御廟所の刻

境内正面に本堂、右手に納経所、左手奥に徳道上人御廟がある

寄棟造本瓦葺の本堂(開山堂)..長谷寺がある北向きで建ち、本尊の徳道上人像を祀る
 
内陣の厨子に鎮座する徳道上人坐像/本堂の縁は榑縁

本堂左手の境内..奥が徳道上人御廟

簡素な切妻造銅板葺の棟門の奥の築地塀で囲まれた徳道上人御廟
 
大きな基壇の上に立つ徳道上人供養塔の十三重石塔..初層軸部に四方仏の種子が刻/周囲に西国霊場各寺院の御砂が納められている

稲荷大明神と地蔵尊像群
  
青面金剛像を祀る庚申堂/弘法大師と馬頭観音を祀る御堂/弁才天堂

本堂右手の納経所..寄棟造桟瓦葺で裳腰を設けている、弁才天堂前に慈抱観音像が鎮座
  
上人が法起菩薩と化されて松の木に登られた時の天竺招来「仏足石」/徳道上人の「沓脱の石」/駒形の三界萬霊塔

本堂屋根の棟の隠鬼瓦..長谷寺本尊に対面して北向きで建立、また与喜天満宮に面するため隠されている
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素盞雄神社 (桜井)

2017年04月23日 | 寺社巡り-奈良

【奈良・桜井市】社伝では、平安時代天暦二年(948)、神殿大夫武麿が菅原道真公の御霊を迎えて與喜天満宮を創建した際、與喜山は天照大神が降臨した山と考え、麓に社殿を建て弟神の素盞雄命を祀ったのが創祀とされる。 その後、全国的な祇園信仰の高まりにより神護寺が置かれ、祇園精舎の守護神の牛頭天王が祀られた。
明治四十一年(1908)、與喜天満宮境内にあった鍋倉神社(祭神・大倉比売命)が合祀され、地元の産土神として今日に至る。 境内社の秋葉神社は、明治四十一年の鍋倉神社遷座の時、鍋倉神社の末社・秋葉社を合祀したもの。 祭神は素盞雄命と大倉比売命の二座。

長谷寺拝観後、陽がかなり傾いてきていたので急いで素盞雄神社に向かった。 初瀬川に沿って道を少し上流に進むと、鮮やかな朱塗りの連歌橋が見えてくる。 橋を渡って路地を進んだ先の石段を上り、左に折れると参道だ。 
参道奥に白い明神鳥居が立ち、その少し先に大きな銀杏の老木が聳えている。 手水舎前から鳥居を通して境内を眺めると、正面奥に可愛いポーズで鎮座する狛犬をしたがえた拝殿が、そして右手の山裾に境内社や苔むした石造物がひっそりと佇む。 山麓に造営されたこじんまりとした境内だが、厳かな空気が漂っている雰囲気だ。 慌ただしく拝観したせいか、本殿の撮影を失念してしまった。

初瀬川に架かる擬宝珠高欄の朱塗りの連歌橋..路地奥の最初の石段を上がって左手が素盞雄神社への参道
 
参道の奥に白い明神鳥居、手水舎そして「玉髪の大銀杏」と呼ばれる県下最大の銀杏の巨樹(樹高約40m)が聳え立つ/切妻造銅板葺の手水舎

切妻造銅板葺の手水舎と推定樹齢800年とされる「玉髪の大銀杏」..銀杏の幹周りは約7mと意外に太い

明神鳥居に「素盞雄神社」の額、鳥居傍に素盞雄神社の社号標石が立つ

境内奥に可愛いポーズの阿形吽形の獅子の狛犬をしたがえて社殿が鎮座..石灯籠に「牛頭天王」の刻

切妻造桟瓦葺の拝殿..切妻屋根で質素な造りの向拝..拝殿から後方の朱塗りの本殿が僅かに透けて見える
 
古い石造物が神々しさを醸し出している境内/初層軸部に四方仏の種子を刻んだ十三重石塔..見えている種子は阿弥陀如来のようだ
 
鎌倉時代後期造立の十三重石塔..総高約4m/笠が苔むした2基の石燈籠と石塔..石燈籠は正徳三年(1713)と寛延三年(1750)の造立

山裾に建つ境内社は切妻造桟瓦葺の秋葉神社..妻面に庇を設けて向拝
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長谷寺-(5) (桜井)

2017年04月20日 | 寺社巡り-奈良

【奈良・桜井市】長谷寺は四季を通じて「花の御寺」として知られ、春は桜とボタン、夏は紫陽花、秋は紅葉、冬は寒牡丹と四季折々の花を満喫できる。 特に4月下旬~5月上旬に登廊の両側などの境内に約7000株・150種の牡丹が咲き乱れる美しい景色は有名だ。

五重塔から石段を下って六角堂に向かう。 六角堂がある境内への門が閉ざされているため格子柵の間からを御堂を拝観したが、「写経殿」の扁額が掲げられた六角堂は校倉造りで巧まざる風格を漂わせていた。 六角堂から狭い参道を上って新義真言宗の開祖・興教大師が祀られている奥の院へ向かう。
奥の院には興教大師を祀る菩提院が建ち、礼堂(陀羅尼堂)と正堂(興教大師堂)の2棟からなる。 趣がある和様建築の正堂の後方に歴代住持の墓所があり、多くの五輪塔や石塔等の墓碑が整然と並んでいる。 墓所には真言宗豊山派・派祖の専誉僧正廟塔や豊臣秀吉の弟の豊臣秀長公供養塔があるとのことで探したが....。
参道を下って本坊の中雀門に着く。 中雀門は江戸中期の建立で、簡素だが風格を漂わせる山門で古寺の面影を感じさせる。 中雀門から本坊を眺める....檜皮葺唐破風の優雅な大玄関とその左に大講堂、右に煙出しのある庫裏が連なって建ち、いずれも大正時代の再建だが堂々たる構えだ。
境内北側に建つ護摩堂の前に趣きのある檜皮葺の回廊と唐門があるが、回廊とその前で枝を広げた松の緑とのコントラストが清楚な雰囲気を醸し出している。 回廊傍に放生池とみられる小さな方形の池があるが、その縁に池を見守るように2つの鬼瓦が鎮座していて印象に残った。

露盤宝珠を載せた本瓦葺の六角堂(写経殿)

六角堂境内への切妻造本瓦葺の門

「写経殿」の扁額が掲げられた校倉造りの六角堂..擬宝珠高欄を設けた切目縁を巡らせている

奥之院に建つ切妻造本瓦葺の陀羅尼堂..長谷寺の塔頭寺院
 
切妻造桟瓦葺の礼堂(陀羅尼堂)..後方に建つ正堂(興教大師堂)と併せて菩提院と称す

「菩提院」の扁額がある礼堂..興教大師(覚鎫)は平安時代の僧で新義真言宗の開祖

陀羅尼堂(礼堂)後方に建つ露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の正堂(興教大師祖師堂)

正堂に「興教大師堂」の扁額が掲げられている..脇間は蔀戸

正堂(興教大師堂)後方にある歴代能化(住持)墓所

墓所内の五輪塔墓碑群..真言宗豊山派派祖専誉僧正廟塔や豊臣秀吉の弟豊臣秀長公供養塔等がある
 
墓所内に佇む十三重石塔..初層軸部の月輪に四方仏の種子が刻/苔生した五輪塔の基壇・基礎・地輪

本坊への参道..傍に礎石らしき石が置かれた5本の筋が入った筋塀(築地塀)と先に中雀門

明和三年(1766)建立の切妻造本瓦葺の中雀門..袖塀を設けた薬医門

中雀門から眺めた本坊境内..本坊の創建は室町時代天正十六年(1588)とされ、明治四十四年(1911)に焼失、間も無く再建された

大正八年(1919)建立の大講堂(左)と大正十二年(1923)建立の大玄関及び庫裡
 
入母屋造本瓦葺の大講堂/大講堂の妻飾り..二重虹梁蟇股式に結綿付大瓶束を設けている
 
獅子口を乗せた檜皮葺唐破風の大玄関..虹梁上に特徴のある蟇股/入母屋造本瓦葺の庫裏..妻飾りは豕叉首式と二重虹梁蟇股式を組合わせた造り、懸魚は猪目懸魚、屋根上に煙出し

境内の北側(大講堂の前)に建つ護摩堂

大正十二年(1923)建立で宝形造本瓦葺の護摩堂..手前に檜皮葺で連子窓がある回廊と唐門(勅使門)
 
回廊傍の池は放生池か/池の縁に鎮座する2つの鬼瓦は池を護っているようだ

本坊から眺めた長谷寺全景..右奥が本堂、左が中雀門、中央奥に五重塔
 
本坊から眺めた本堂、中登廊、上登廊そして鐘楼門

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長谷寺-(4) (桜井)

2017年04月17日 | 寺社巡り-奈良

【奈良・桜井市】長谷寺は明治三十三年(1900)から真言宗豊山派総本山となった。 明治に三重塔・仁王門・大講堂を相次いで焼失するが、五重塔をはじめとして昭和に順次再建された。
長谷寺は関係寺院三千ケ寺を擁し、西国三十三所観音霊場第八番札所として多くの人々の信仰をあつめている。 壇信徒は約200万人とされる。

開山堂から先ほど下ってきた石段を登り、一番奥の山腹に建つ弘法大師御影堂に向かう。 弘法大師御影堂は昭和後期の建立だが、堂前には古そうな三躰の石造り弘法大師坐像が三鈷杵と数珠を持って鎮座している。
御影堂前から初瀬山の西の岡の方を眺めると、山裾の参道脇に整然と石塔群が立ち並び、その先に本長谷寺と五重塔とが重なって見える。 右手の高台に禅宗様建築の一切経蔵が広い境内を見下ろすように建っている。 長谷寺草創の建物とされる和様建築の本長谷寺....約1330年前に天武天皇の勅願で建てられたもので、趣があり歴史を感じさせる。
本長谷寺の先に昭和中期に建てられた純和様式の五重塔が立ち、そのすぐ傍に自然石の礎石が残された三重塔の跡がある。 堂々と聳え立つ五重塔は約60年前に建てられたものが、檜皮葺屋根の褐色と塔身の丹色とが調和していて趣があり、その偉容は往時の威厳を感じさせる。

御影堂への参道から眺めた本堂と大黒堂

露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の弘法大師御影堂..昭和五十九年(1984)建立
  
御影堂前で三鈷杵と数珠を持って鎮座する3躰の石造弘法大師坐像/右は角柱に宝珠形に彫り窪めて薄肉彫りした弘法大師像

御影堂前に立つ石燈籠は延享二年(1745)造立

御影堂前から眺めたと石塔群..その先に一切経蔵、本長谷寺そして五重塔が建つ

参道脇に鎮座している宝篋印塔と多宝塔群
 
宝篋印塔は塔身の月輪に種子を刻む、先の石柱に「及至法界 平等利益」の銘/相輪の宝珠、請花、露盤そして上下の笠が鮮やかに苔生した多宝塔
 
本長谷寺と五重塔..右手の石段の上に建つ一切経蔵

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の一切経蔵
 
花頭窓、桟唐戸、波連子欄間、木鼻、中備は蟇股の禅宗様建築

一切経蔵境内から眺めた本長谷寺の屋根と五重塔

入母屋造本瓦葺の本長谷寺..奈良時代朱鳥元年(686)の建立で、天武天皇の勅願により道明上人が精舎を造営したことから長谷寺草創の建物
 
歴史を感じさせる和様建築の本長谷寺..一軒、向拝柱上に連三ツ斗、象の木鼻..虹梁上の蟇股に卍模様がある

本長谷寺には天武天皇病気平癒のため千仏多宝塔銅盤(国宝)を鋳造して祀っていた

高台に建つ一切経蔵境内から眺めた五重塔

昭和二十九年(1954)建立の五重塔..戦後日本で初めて建立され「昭和の名塔」と呼ばれる
 
純和様式で建立された檜皮葺屋根で丹色の五重塔/自然石の礎石が残る三重塔跡から眺めた五重塔

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の納骨堂..和様建築様式で建てられている
 
納骨堂前から眺めた五重塔
 
納骨堂奥に整然と並ぶ古い様々な形の墓標群/墓標群の中央の苔生した石段上に立つ三界萬霊塔
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長谷寺-(3) (桜井)

2017年04月14日 | 寺社巡り-奈良

【奈良・桜井市】長谷寺は創建以来10回ほど火災と復興を繰り返し、多くの建築物や寺宝などが焼失した。 現在の本尊・十一面観世音菩薩像は室町時代後期の天文七年(1538)に造立されたもので、東大寺の仏生院実清良学作と伝えられ、両脇に灘陀龍王と雨宝童子が仕えている。
江戸時代に入って徳川将軍家の庇護を受けて本堂が再建され、諸堂も復興された。

「無垢泉」の額が掲げられた手水舎の傍を進んで、鐘楼門と本堂を繋いでいる回廊から本堂に....。
本堂は正堂と礼堂からなる双堂形式の建物で、礼堂は断崖絶壁に懸造りされた舞台になっていて、絶好の撮影ポイントだ。 礼堂の正面には「大悲閣」と大書された横一間の長さの大きな扁額が掲げられている。 擬宝珠高欄を巡らした舞台からは境内が一望でき、特に初瀬山の西の岡に建つ五重塔の眺めがいい。
賓頭盧尊者が鎮座する西側から本堂に入る。 正堂と礼堂の間は石敷の土間で仕切られ、正堂と礼堂の間は石敷の土間で仕切られ、丸太柱が林立する空間は荘厳な雰囲気が漂っている。
正堂の西側の一角に鎮座する地蔵尊像を拝観した後、本堂後方にある石造物に....石仏などが佇む中で、十三仏の種子が刻まれた十三仏塔に興味を引かれた。
本堂の左手に大黒堂が建ち、打ち出の小槌を持ち袋を肩に担ぐ持つ大きな大黒天像が安置されている。 本堂左の石段を下っていくと正面軒下に五色幕を垂らした開山堂が建つ。

慶安三年(1650)に徳川家光により再建された本堂(国宝)..入母屋造本瓦葺の正堂と礼堂からなる双堂形式

本堂の東側入口..鐘楼門から続く回廊と回廊傍に建つ切妻造桟瓦葺の手水舎
 
「無垢泉」の額が掲げられた手水舎..蓮花を模した水鉢/東側入口前の鐘楼門から続く渡り廊下から眺めた本堂..「国寶 本堂」の木札が掛かっている

本堂の上登廊側の縁から眺めた鐘楼門、千木と堅魚木を乗せた三百余社そして切妻造本瓦葺の渡り廊下

断崖絶壁に建つ本堂の前面(南面)に懸造りの舞台が付いている

本堂に大きな「大悲閣」の扁額が掲げられている..二軒繁垂木、組物は出三斗、中備は間斗束

小初瀬山の中腹に張り出した本堂の舞台から眺めた境内..中央に聳えるのは天狗杉、左奥は本坊

擬宝珠高欄を廻らした懸造りの舞台

舞台から眺めた西の岡に建つ丹塗りの五重塔
  
舞台から眺めた初瀬山の西の岡に建つ五重塔

東側から眺めた本堂内..外陣(礼堂)は正堂よりやや低く、桁行(間口)は柱間九間、梁間(奥行)は柱間四間
 
礼堂の西側で本尊を向いて鎮座する第一尊者の賓頭盧尊者/本堂内陣(正堂)は桁行は柱間九間、梁間は柱間五間

丸太柱で支えられた正堂(内陣)と礼堂(外陣)の間に石敷の土間(拝所)を設けている

開放的だが重厚な造りの礼堂(内陣)
 
本堂(正堂)西側に鎮座する地蔵尊像..赤い「地蔵菩薩」の提灯が下がる/柱に「蘇我地蔵尊」の木札

本堂後方で本堂に向かって佇む地蔵菩薩石仏

本堂左後方の弘法大師御影堂への参道脇に佇む石仏と石柱
 
造立年号不明の観音菩薩文字塔と与願印で蓮花を持つ舟形光背の半肉彫り観音菩薩石仏..光背に諸仏の種子が刻/最上にタラーク(虚空蔵)種子を刻んだ十三仏塔(左)と宝暦十一年(1761)造立の六字名号塔

寄棟造本瓦葺の大黒堂..「長谷大黒天」の赤い幟が目立つ
 
ガラス越しに眺めた大黒天像           本堂に向かって建つ大黒堂

本堂左手石段下の境内に建つ開山堂から見上げた懸造りの本堂..礼堂と舞台の部分が懸け造り

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の開山堂..徳道上人像を祀る

開山堂には西国三十三所各霊場の本尊を祀っている
  
開山堂の傍に鎮座する眼力不動妙尾像/錫杖と蓮華を持つ舟形光背十一面観音菩薩像..光背の月輪に十二仏の種子が刻/笠塔婆に忠霊塔の刻
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長谷寺-(2) (桜井)

2017年04月11日 | 寺社巡り-奈良

【奈良・桜井市】徳道上人は観音信仰に篤く、西国三十三所観音霊場を開いた大徳として知られ、長谷寺はその根本道場とも呼ばれる。 平安時代には観音信仰が盛んになり、貴族の間で長谷寺詣でが流行した。 平安時代以来長い間、法相宗大本山の興福寺大乗院の下にあったが、安土桃山時代の天正十六年(1588)に根来寺の専誉僧正が入山して新義真言宗となった。

繫屋から左手に石燈籠が整然と並ぶ中登廊を上ると、蔵王権現を祀る蔵王堂が建ち、向拝に蔵王権現が持つ大きな三鈷杵が置かれている。 蔵王堂の傍に「貫之故里の梅」があり、傍に初瀬詣の時に詠んだ紀貫之の歌碑と小林一茶の句碑が立つ。 そこから江戸時代再建の上登廊を上り詰めると突っ支い棒で支えられた鐘楼門があり、鐘楼門をくぐると本堂が建つ境内だ。
正面の一段高い所に愛染明王を祀る愛染堂があり、巡らした鮮やかな朱色の幕が目を引く。 愛染堂の右手の石段の上に明神鳥居が立ち、その右奥に徳川家光が再建した春日造りの三社権現(瀧蔵三社)が鎮座している。 約370年の風雪に耐えてきた三社権現には傷みがみられ、歴史を感じさせる。
本堂境内の東側の奥に開運招福・諸願成就の霊験があらたかな日限地蔵菩薩と不動明王を祀る能満院があり、境内に珍しい石仏や宝篋印塔や五輪塔など多くの石造物が佇んでいて興味深い。

繋屋から眺めた中登廊..中登廊は明治二十七年(1894)再建
 
中登廊の脇に整然と佇む石燈籠群..登廊には風雅な長谷型燈籠を吊るしている

中登廊上に建つ寄棟造本瓦葺の蔵王堂..慶安三年(1650)徳川家光命で再建
 
天正五年(1577)作の蔵王権現を祀る蔵王堂..向拝に蔵王権現が持つ巨大な三鈷杵が置かれている/紀貫之の故里の梅..紀貫之の歌碑と小林一茶の句碑が立つ

蔵王堂から眺めた上登廊..江戸時代の再建

上登廊の左側に整然と佇む宝篋印塔と石燈籠

上登廊の右側に鎮座するお社..一番左が馬頭夫人社
 
上登廊の上部左側に鎮座する春日造りの三百余社/大きな庇の向拝に登高蘭、棟に外削ぎの千木と2本の堅魚木が乗る

上登廊の最上部に建つ入母屋造本瓦葺の鐘楼(鐘楼門)
 
和様の組高欄付き回縁を回らし、回縁下の組物は三手先/上層に吊られた梵鐘は寛仁三年(1019)鋳造で「尾上の鐘」と呼ばれる
 
本堂境内の一段高い所に建つ寄棟造本瓦葺の愛染堂..天正十六年(1588)建立で愛染明王を祀る
 
本堂境内の一段高い石段の上に2基の鳥居が立ち、その右奥に春日造銅板葺の三社権現(瀧蔵三社)が鎮座..慶安三年(1650)、徳川三代将軍家光再建

三社権現は奈良時代の天平五年(733)、聖武天皇の勅命で徳道上人が創建..東社は石蔵権現(地蔵菩薩)、中社は瀧蔵権現(虚空蔵菩薩)、西社は新宮権現(薬師如来)

能満院と地蔵堂が建つ東奥の境内..子育地蔵尊像と子供を抱いた黄金の聖観音像が迎えてくれる

弘法大師修行像の先に露盤宝珠を乗せた宝形地蔵堂とその奥に入母屋造桟瓦葺の能満院が建つ
 
能満院の向拝..「日限地蔵」と「不動明王」の扁額、上に額絵馬が掲げられている

能満院の向拝から眺めた本堂
 
地蔵堂と能満院の間に鎮座する石仏・石塔/石柱の上部を丸く彫り窪めた中に錫杖と宝珠を持つ地蔵菩薩坐像は半肉彫り

能満院の奥に整然と鎮座する石仏・石塔
 
舟形に彫り窪めた中に錫杖と蓮華を持つ十一面観音菩薩像が半彫り/五輪塔の地輪に錫杖と宝珠を持つ苔生した半肉彫りの地蔵尊像が鎮座
 
大小の宝篋印塔・宝塔・五輪塔が鎮座している
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長谷寺-(1) (桜井)

2017年04月08日 | 寺社巡り-奈良

【奈良・桜井市】草創は諸説あるが、寺伝では、白鳳時代の朱鳥元年(686)に川原寺の僧道明が、天武天皇の病気平癒を祈って初瀬山の西の岡(現在の五重塔近く)に三重塔を建て、「銅板法華説相図」を祀ったことに始まる。 これを本長谷寺という。
奈良時代の神亀四年(727)、徳道上人が聖武天皇の勅によって寺院の建立を発願し、いまの本堂がある東の岡に十一面観音菩薩を祀って行基が開眼したのが今の長谷寺の始まり。 真言宗豊山派総本山で、本尊は室町時代作の十一面観音菩薩像。

近鉄長谷寺駅から階段を下って初瀬川に架かる参急橋を渡ると、初瀬川に沿って古い門前町の趣きが漂う参道が続いている。 門前町の一角に徳道上人廟がある法起院が鎮座し、山門前で合掌してから長谷寺に向かう。 L字に曲がる門前町を進むと、参道奥の先に何か四角状のテントが見えてきて嫌な予感が....案の定、保存修理中の仁王門がすっぽり覆われていた。
門前町を抜けると、鮮やかな朱色の高欄を設けた石段の傍に石燈籠と自然石を舟形に彫り窪めた中に薄肉彫りされた「石観音」が佇む。 長谷寺の寺号標石が立つ参道を少し進むと右手に普門院....普門院不動堂に立ち寄って不動明王に参拝して仁王門に向かった。
テントにすっぽりと覆われた仁王門の石段を上って両側に鎮座する仁王像を拝観....拝観後、仁王門から扁平した球形の釣燈籠が等間隔で吊り下げられた下登廊を見上げる。
下登廊を上り始めて直ぐ右手に苔生した七重石塔が佇み、「道明上人の御廟」の標石が立つ。 左右に宗宝蔵や六坊の内の4つの坊が建つ下登廊を上り詰めると繋屋に着く。
繫屋の少し高い所の木立の中に長谷寺の鎮守である三部権現社が鎮座。 登廊は上中下の3つの回廊に分かれて折れ曲がって延び、399段(全長約200メートル)の石段が山腹に建つ国宝の本堂まで続く。

初瀬川沿いに延びる参道..古い門前町の趣きがある
 
総受付の建物の前から眺めた境内参道..「総本山長谷寺」の寺号標石、正面奥は保存修理中の仁王門/総受付の建物内に鎮座する秋葉山三尺坊大権現像
 
朱色の高欄がある石段横に佇む石燈籠と「石観音」..石燈籠は文化十三年(1816)造立/自然石を舟形に彫り窪めた中に薄肉彫りされた観音菩薩像

境内参道の脇に建つ普門院..入母屋造桟瓦葺の普門院不動堂
 
大きな唐破風の向拝..向拝の虹梁上の大きな蟇股に「大聖不動明王」の扁額/左右に分かれた昇高欄
 
不動堂境内に佇む石造物..塔身に種子が刻まれた宝篋印塔、苔生した五輪塔、板碑など/不動堂前の休憩所傍に立つ「百度石」
 
不動堂境内にある露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の御堂/御堂内に安置されている不動明王像と五鈷杵を持つ空海像
 
仁王門前の左手に立つ中台と笠が円形の大きな石燈籠..前に「輪廻塔」が立つ/明治十八年(1885)再建の楼造りの仁王門(重文)は保存修理中で全容は拝観できず!
 
左側の仁王像(蜜迹金剛)            右側の仁王像(那羅延金剛)

仁王門から眺めた登廊(重文)....最初に造られたのは平安時代長暦三年(1039)、百八間で三九九段の回廊は上中下の三廊からなる
 
仁王門近くの登廊右脇にある道明上人御廟塔..苔生した七重石塔(上層部が破損した九重石塔の説も)
 
長谷型燈籠よ呼ばれる扁平な球形の釣燈籠が下がる一番長い下登廊は明治時代の再建/下登廊脇から登廊越しに眺めた本堂..登廊右手は宗宝蔵

下登廊途中の右側に建つ宗宝蔵..長谷寺六坊の一つで天和二年(1682)建立の慈心院が明治に清淨院と改称され、その跡地に建つ

宗宝蔵の上に建つ月輪院

下登廊途中の左側に建つ梅心院..長谷寺六坊の一つで慶長初期(1603年頃)徳川家康命で建立

下登廊途中の左側に建つ慈眼院..長谷寺六坊の一つで寛文五年(1665)建立
 
下登廊から中登廊への途中にある繋屋/繋屋近くに聳える天狗杉
  
繋屋から眺めた下登廊/繋屋の傍に建つ切妻造本瓦葺の手水舎/繋屋の傍に立つ宝篋印塔と下登廊に向かって合掌する地蔵尊像

三部権現社境内から眺めた切妻造桟瓦葺の繋屋..右が下登廊、左が中登廊で上に蔵王堂が建つ

三部権現社..鎮守として寛永六年(1666)に勧請され建立
 
三部権現社境に立つ丸形の笠の石燈籠と「忠霊塔参道」と刻まれた石柱/三部権現社境内の左手に建つ金蓮院..長谷寺六坊の一つで承応二年(1653)建立
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豪徳寺-(2) (東京)

2017年04月05日 | 寺社巡り-東京

【東京・世田谷区】江戸時代の寛永十年(1633)、近江国彦根藩2代藩主・井伊直孝が堂宇を整備し、井伊家の菩提寺として再興。 万治ニ年(1659)に没した直孝がこの寺に葬られ、直孝の戒名「久昌院殿豪徳天英居士」にちなんで寺号を豪徳寺に改めた。
豪徳寺には猫に関わる伝説があり、井伊直孝がこのさびれた寺の門前で雨宿りしていたとき、1匹の猫の手招きによりその場を離れたことで雷雨の難を免れたという。 それから、直孝は猫を仏の使いとして大切にし、「招福猫児」として招福観音堂に祀られた。 豪徳寺は招き猫発祥の地とする説があるようだが....。 彦根藩の菩提寺はこの豪徳寺と彦根の清涼寺で、豪徳寺の井伊家の墓所には2代直孝、6代直恒、10代直禔らが眠る。

仏殿の後方に大きな屋根の本堂が建ち、仏殿との間に1基の火焔宝珠を乗せた銅製の八角燈籠が立つ。 本堂は和様建築のようで荘厳さを感じさせる建物だが、コンクリート製なのが少し残念だった。
仏殿に戻り、殿前から左に進むと右手に建つ門の奥に招福観音堂が建つ。 門をくぐると観音堂の左に小祠が鎮座し、その周りにはおびただしい数の大小の招き猫が....。 招き猫はみな右手を上げて福を呼んでくれていたが、その後方には招き猫たちを見守るように頬杖をついた如意輪観音像が鎮座....可愛い(失礼)お顔が印象的だ。
先に進むと彦根藩主井伊家の墓所があり、その前に大きな石燈籠が立ち、鮮やかな赤の帽子と涎掛けをした六地蔵が鎮座し、参詣者を迎えている。
緑に包まれた墓所にはいると、木立の間から整然と立ち並ぶ多くの唐破風笠付墓碑が見える。 案内板に従って彦根藩の各代藩主や正室や側室の墓碑の間を進み、西南側の奥にある13代藩主で幕末の大老の井伊直弼の墓碑に。 桜田門外の変で殺された歴史上の有名な人物が目の前に眠っていると思うと、感慨深い気持ちになった....合掌。

仏殿の後方に建つ大きな屋根の本堂

入母屋造銅板葺のコンクリート製の本堂
 
火焔宝珠を乗せた銅製の八角燈籠/「豪徳禅寺」の扁額が掲げられている

禅寺だが本堂の連子窓、長押、斗束、蟇股などから和様建築様式で建立されたようだ

荘厳な本堂

本堂左手に建つ八角のお堂
 
経蔵とみられる近代的なコンクリート製の八角堂

仏殿の左後方に建つ建物の丹塗の切妻造桟瓦葺の高麗門..建物は旧塔頭か

「招福庵」の扁額が掛かる切妻造桟瓦葺の門..小さな袖塀をもうけてある

門を通して眺めた招福観音堂
 
招福観音堂..招猫観音(招福観世音菩薩、招福猫児はその眷属)を祀る

入母屋造桟瓦葺の招福観音堂

招福観音堂の脇の小祠に奉納されているたくさんの招き猫

豪徳寺では招き猫のことを「招福猫児」と称す
 
これだけの数の招き猫が並ぶと壮観だ!/招き猫の後方で如意輪観音像が見守っている

彦根藩主井伊家墓所の入口前に立つ大きな石燈籠、その先に六地蔵が鎮座
 
覆屋で赤い帽子と涎掛けをして鎮座する六地蔵尊像/戦士慰霊記念碑

入口から眺めた緑に包まれた彦根藩主井伊家の墓所

唐破風笠付位牌型の堂々たる墓碑が並ぶ

彦根藩13代藩主で幕末の大老・井伊直弼(宗観院殿)の墓碑
 
唐破風笠付の墓碑..万延元年(1860)4月10日に豪徳寺に葬られた
  
左は確か6代藩主井伊直恒の墓碑/中と右は2代藩主直考と9代藩主直禔いずれかの墓碑のようだ
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豪徳寺-(1) (東京)

2017年04月01日 | 寺社巡り-東京

【東京・世田谷区】室町時代の文明十二年(1480)、世田谷城主であった吉良政忠が伯母弘徳院の菩提を弔うために「弘徳院」と称する小さなお堂(祠)を建てたのが始まり。 
世田谷城主吉良氏は、室町時代初期には第3位(鎌倉公方の足利氏、関東管領の上杉氏に次ぐ)の高い地位であったが、小田原の北条氏の台頭により、吉良頼康が北条氏から妻を、また、頼康の死後は北条氏を養子にするなどして世田谷城は北条氏の出城に.....。
安土桃山時代の天正十八年(1590)、豊臣秀吉によって北条氏が滅亡されると世田谷城が廃城となり、「弘徳院」も衰退していった。 創建当時は臨済宗だったが天正十二年(1584)に曹洞宗に転じた。 本尊は釈迦如来像。 東京三十三観音霊場11番札所。

まるで合掌してるかのような松並木を抜けると、通用門のある大きな屋根の袖塀を設けた四脚門に着く。
山門をくぐって境内に入ると、豊かな木々の緑に覆われていて静寂が漂う。 境内参道の真ん中に大きな黒い常香炉が置かれ、香炉上に鎮座する獅子像がこちらを睨みつけている。
参道からはよく見えないが、正面の木立の奥に身舎に裳腰を設けた中国禅寺の大雄宝殿のような仏殿が....そして、左手に三重塔、右手には江戸初期鋳造の梵鐘が下がる鐘楼が建つ。 三世仏を祀る仏殿の側面に「選仏場」の額が掛っているので、仏殿は雲水が座禅をする道場(禅堂)を兼ねているようだ。

参道の見事な松並木と奥に建つ山門
切妻造銅板葺で大きな通用門のある袖塀を設けた山門(四脚門)

袖塀は5本の筋があるので筋塀か..門前に「井伊直弼墓」の標石が立つ
 
たくさんの千社札が貼られた山門を通して眺めた境内/山門から眺めた境内..緑の木々に覆われていて堂宇が見えない

参道の真ん中に大きな黒い香炉が置かれ、香炉上の獅子像が参詣者を睨んでいる

入母屋造銅版葺の仏殿..中国禅寺の大雄宝殿のようだ

仏殿は江戸時代の延宝五年(1677)建立..彦根藩3代井伊直澄の菩提を弔うため、直澄の母・春光院と姉の掃雲院が建立
 
仏殿は身舎に裳腰を設け、裳階の下は吹き放しの回廊に/仏殿前の両側に佇む石燈籠..中台の下は竿と基礎、基壇を一体化した珍しい形

仏殿には過去・現在・未来を象徴する釈迦如来・阿弥陀如来・弥勒菩薩の三世仏坐像を祀る
 
「弎世仏」と「大谿山」の青字の扁額が掲げられている/前面は一面が腰高の格子戸になっている
 
三重塔と仏殿..仏殿の右側面の入口に「選仏場」の額が掛る(座禅道場を兼ねているようだ)

平成十八年(2006)建立の三重塔
 
和様式建築で、板唐戸、連子窓、柱間は蟇股と間斗束、組物は三手先

寄棟造本瓦葺風で銅板葺の鐘楼..区内現存最古の梵鐘が下がる
 
梵鐘..江戸時代初期延宝七年(1679)鋳造..工芸的に優れ、完成度が高い梵鐘とされる

鐘楼越しに眺めた仏殿の屋根

仏殿から眺めた書院

唐破風の大玄関と書院前に立つ5重層塔..右手は庫裏かな
 
大玄関がある寄棟造桟瓦葺の書院/大玄関の左手の小さな松の庭園に佇む石燈籠

仏殿の後方に建つ大きな屋根の本堂

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