何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

興国寺-(1) (日高)

2020年03月29日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・日高郡】建保七年(1219)に暗殺された鎌倉幕府3代将軍・源実朝の菩提を弔うため、安貞元年(1227)、家臣の葛山景倫が創建した真言宗寺院「西方寺」が始まり。
景倫は博多で宋への渡航を準備していたが、実朝暗殺の報を受けたことで取りやめ、剃髪して「願性」と称して高野山に入った。 この出家を知った実朝の生母・北条政子から日高郡の由良荘の地頭職を任命された景倫は、荘内に西方寺を創建した。 その後、願生は正嘉二年(1258)、宋から帰国した親交のあった臨済宗の僧・心地覚心を西方寺の住持として迎え、開山とした。
覚心は臨済宗に改宗して禅宗寺院とし、「関南第一禅林」として多くの高名な僧を輩出し、末寺143カ寺を有す臨済宗法燈派の大本山として興隆した。 覚心は永仁六年(1298)に示寂、その後、諡号「法燈国師」を授かった。 宗旨は臨済宗(妙心寺派)で、本尊は釈迦如来坐像。 紀伊之国十三仏霊場第8番札所。

門前の道路脇に寺号標石が立ち、道路を挟んだ向かいの民家の山茶花の生垣越しに大門を眺める。 大門をくぐると、両側に縁石がある石畳の参道が樹林の中に消えるように真っ直ぐ延びている。
緩い勾配の参道を上っていくとほどなく砂利敷となり、脇に、岩倉具視の欧米視察団の一員として渡航した由良守應の墓標と顕彰碑、八大龍王を祀る龍王社、そして散在していた無縁墓碑を集めたとみられる墓所があり、たくさんの宝篋印塔・五輪塔・板碑などの様々な形の古墓石が整然と並んでいる。
洗心池に架かる幅の広い石橋を渡ると、少し先に、堂宇境内への石段があり、その左右に高い石垣がありまるで城壁のようだ。 石段の上に立派な袖塀を設けた山門が建ち、門前の紅葉が山門を引きたてている。 石段を上りつめると、山門を通して豪壮な構えの法堂が見えるが、まるで額に入れた絵のようだ。
山門をくぐって森閑とした境内に....日高の山々に囲まれるように古色蒼然とした伽藍が建ち並ぶ光景は、「関南第一禅林」の威厳をいまに誇っている。 正面には、圧倒的な存在感がある法堂(本堂)が鎮座。 千鳥破風を乗せた禅宗様式の法堂は、威厳に満ちていて、堂々たる偉容を放っている。 内陣の須弥壇には諸仏が鎮座....中央の金色の釈迦如来坐像は本尊で、左右の四天王像に守られている。
法堂後方に、吹き放ちの渡り廊下で繋がった禅堂が建ち、窓のない正面の柱に雲版が下がっている。 真ん中が摩耗して木地が見える雲版を見ていると、薄暗い禅堂で、雲版を叩く合図で修行を始める雲水の姿が目に浮かんでくる。
 
△門前の道脇に立つ「鷲峰山興國禅寺」と刻まれた寺号標石/門前の民家の生垣の山茶花越しに眺めた大門

△樹林を背にして建つ大門....山門後方の樹林の中に消えるように石畳の参道がある

△切妻造本瓦葺で二軒繁垂木の大門(四脚門)

△虹梁と側面の頭貫の木鼻はいずれも精緻な牡丹の彫刻

△彫刻が施された虹梁、中央の上に精緻な龍の彫刻....境内側の虹梁に「関南第一禅林」の扁額
 
△由良守應の墓所に立つ「由良守應翁顕彰碑」....案内板に「陸上交通の先駆者」で「幕末の志士で,明治新政府に仕え、岩倉具視の欧米視察団の一員として渡航」とある/参道脇に鎮座する龍王社....雨乞い、農業神の八大龍王を祀っているが創建は不詳....江戸時代の文化四年(1807)の「興国寺古文書」に記載されているとか

△色づいた木々が残る砂利の参道が続く

△石橋手前の参道の左側にある墓所....散在していた無縁墓碑をこの地に集めたものと思う

△多くの宝篋印塔、五輪塔、板碑、石仏そして様々な形の墓石が整然と並んでいる

△風化が進んでいる宝篋印塔や五輪塔が寄り添うように並んでいる

△洗心池に架かる石造り反橋の廣度橋....その先の切石敷参道の奥に堂宇境内への石段がある

△堂宇境内への石段の左右は、城壁のような高い石垣になっている

△切妻造本瓦葺の山門(四脚門)....昭和後半の建立

△軒廻りは二軒繁垂木、垂木、組物、木鼻などに胡粉が施されている....左右の袖塀は本瓦葺きで白壁の築地塀

△山門を通して眺めた法堂(本堂)....親柱上の梁に山号「鷲峰山」の扁額がある

△堂宇境内....法堂の右側に庫裡、玄関、方丈そして書院が建ち並ぶ

△山門から眺めた境内....正面は荘厳な法堂(本堂)、渡り廊下で繋がる右手に書院、左手に位牌堂

△入母屋造本瓦葺で裳腰付の法堂(本堂)....寛政九年(1797)の再建で、身舎は三間四方、裳腰を加えると五間四方

△軒廻りは身舎・裳腰いずれも二軒繁垂木だが、組物は身舎が出組、裳腰は出三斗で、中備はいずれも詰組
 
△身舎の屋根に千鳥破風と軒唐破風がある....身舎に「関南第一禅林」の扁額が掲げられている/法堂須弥壇に祀られている古舟形挙身光を背負う本尊釈迦如来坐像と左右に四天王

△裳腰正面の中央三間は両折両開の桟唐戸、両脇間は花頭窓、側面は桟唐戸と3つの花頭窓そして小脇羽目

△法堂後方に禅堂そして一段高い位置に開山堂が建つ

△法堂(右)と禅堂とを繋ぐ本瓦葺で吹き放ちの渡り廊下

△入母屋造本瓦葺の禅堂....二軒繁垂木で組物は舟肘木....僧侶や雲水が坐禅修行する御堂で、壁の柱に雲版が下がる

△禅堂後方の斜めの渡り廊下の上に開山堂が建つ

△T字形構造の禅堂....正面は連子を入れた桟唐戸のみで側面に1つの花頭窓と2つの連子窓があるだけ






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤白神社-(2) (海南)

2020年03月25日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・海南市】平安時代から鎌倉時代にかけて熊野信仰が高まる中、熊野一の鳥居として熊野九十九王子中最も格式の高い五躰王子の一となり、熊野聖域への入口として祓戸王子(「王子」は熊野詣の礼拝所)を鳥居の近くに設けた。 また、熊野聖域への入口に柳屋旅館跡があるが、小栗街道と称したこの地には数軒の宿や茶屋が並び、熊野詣する人たちで賑わっていた。
戦国時代の兵乱で本殿や神宮寺を失ったが、寛文六年(1666)、江戸初期の紀州藩初代藩主徳川頼宜(徳川家康の十男)により社殿が造営されて再建され、現在までその姿を留めている。
藤白神社が「鈴木姓発祥の地」とされる由縁は、屋敷を構えて代々神官を務めた熊野三党(榎本、宇井、鈴木)のひとつ藤白鈴木氏の発祥の地による。 境内に鎮座する有間皇子神社は、大化の改新を行った孝徳天皇(第36代)の皇子・有間皇子を祀るが、皇子は政敵だった中大兄皇子の罠に掛って捕えられ、謀反を図ったとされて藤白坂で処刑された。

境内には樹齢1000年以上とされる大楠が数本聳える。 その中でひときわ巨大な楠には熊野の神様が籠っているとされ、「籠り⇒子守」から傍に「子守楠神社」が鎮座する。
旧社務所に対面するように白壁の築地塀と門に囲まれた一角に「聖皇三代重石」がある。 門の格子戸から中を覗くと、大楠の根元に風化がかなり進んだ2基の石塔(重石)が立つ。 宇多・花山・白河の三上皇の熊野御幸を祈念して平安時代に造立されたものだが、1基は消失したようだ。 境内の中央に湧き出ている清水は「宮水」で紫の水と呼ばれ、地元では酒醸造に利用されているとか。
拝殿の右手奥に進むと、熊野路で唯一、熊野三所権現等の本地仏を祀る藤白王子権現本堂が建つ。 扉の隙間から覗くと、内陣にいずれも平安時代末に造立された六躰の仏像が鎮座。 中央に鎮座する舟形光背を背にした金色に輝く三体の坐像は熊野三所権現の本地仏で、薬師如来像像(速玉)、阿弥陀如来像(本宮)、千手観音像(那智)だ。 これらの仏像は、「藤代五躰王子」の神宮寺だった中道寺に祀られていたもので、神仏習合の名残を現代に留めている。
境内の藤白坂側に有間皇子神社がひっそりと鎮座....皇位継承をめぐる複雑な争いの中、この地で、19歳という若さで散った悲運の皇子にそっと手を合わせた。

△熊野の神(熊野杼樟日命)が藤白の大楠に籠る(子守る)「子守楠神社」

△入母屋造(前方)と切妻造(後方)をT字型に組んだ桟瓦葺の拝殿....本殿は切妻造板葺
 
△拝殿前に家型笠の石燈籠と「宗忠鳥居」風の鳥居を構える....「宗忠鳥居」は鹿島鳥居に額束をつけ貫に楔を打ち込んだ形/樹齢1000年以上とされる楠の巨木が境内に数本あり、神様が宿るご神木

△白壁の築地塀で囲まれた中に「聖皇三代重石」が鎮座

△重石は平安朝時代、宇多・花山・白河三上皇の熊野御幸を祈念して造立された(現存2塔のみ?)
 
△「聖皇三代重石」前には、狛犬と石碑「〇園社拝〇」「建仁行幸 御歌塚」が....後者には鎌倉時代建仁元年(1201)に後鳥羽上皇が熊野御幸の際に催された藤白王子和歌会の熊野懐紙が収められている
 
△「後鳥羽上皇院宸筆」と記された歌碑....建仁元年(1201)、後鳥羽上皇の熊野御幸の際に催された藤白王子和歌会の熊野懐紙を収納/芭蕉翁藤塚

△境内の中央に木の柵で囲まれた「宮水」は紫の水と呼ばれる
 
△湧き出る清水は宮水の源泉と称される/清水が注がれる手水鉢

△拝殿前の右手の熊野聖域への入口に立つ石造り明神鳥居

△寄棟造本瓦葺の藤白王子権現本堂....熊野古道九十九王子の中で神仏分離令を免れて仏像が残ったのは藤白神社のみ

△本堂には「藤代五躰王子」の神宮寺だった中道寺の熊野三所権現の本地仏と藤代若一王子の本地仏の十一面観音菩薩立像(右の柱に隠れている)、他に明王像などが鎮座

△中央三躰は熊野三所権現の本地仏....平安末造立で央の三躰は本地仏、左から熊野那智の千手観音坐像、熊野本宮の阿弥陀如来坐像、熊野速玉の薬師如来坐像

△小棟造りの本堂の正面は格子戸で脇間に窓がなく小壁と羽目板の造り、大棟に鯱が乗る....向拝は大きな唐破風
 
△向拝に「藤巴」紋入りの幕が張られ、「藤白王子権現」と書された提灯が下がる/向拝の唐破風屋根に龍像を施した鬼瓦,兎毛通は鳳凰(と思う)の彫刻

△明神鳥居を構えた有間皇子神社....祭神・有間皇子は19歳の若さで藤白坂で処刑された悲運の万葉の貴公子

△石燈籠越しに眺めた切妻造で簡素な拝殿と奥に鎮座する有間皇子神社
 
△切妻造銅板葺の有間皇子神社社殿/有間皇子神社前の石燈籠は享和二年(1802)の造立

△熊野聖域への入口に立つ「熊野古道」標石....この地は藤白坂の麓で、平安時代から鎌倉時代に盛んだった熊野三山詣巡礼路の入口
 
△昭和五十三年(1978)造立の「熊野古道」標石/.「熊野古道」標石の向かい側の空き地は熊野三山参詣者の宿泊した柳屋旅館の跡


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤白神社-(1) (海南)

2020年03月21日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・海南市】記紀で、日本武尊の父の景行天皇(第12代)時代の景行天皇五年の鎮座に始まり、女帝・斉明天皇(第37代)が斉明天皇四年(658)に牟婁の温湯(現在の白浜温泉)に行幸した際に創建されたと伝える。
奈良時代の神亀元年(724)、聖武天皇(第45代)が玉津島行幸に際し、僧・行基(百済系の渡来人)を藤白神社に詣らせ、熊野三山に皇子誕生を祈らせたところ高野皇女が誕生。 これにより光明皇后は神域を広め整え、熊野三山の御祭神を勧請し、藤白神社を末代皇妃夫人の熊野遥拝所と定めた。
聖武天皇の第2皇女である孝謙天皇(第46代)が玉津島行幸の際、供養した熊野広浜が藤白神社に詣でて「日本霊験根本熊野山若一王子三所権現社」と号した。 以来、「藤白王子」あるいは「藤白若一王子権現社」と呼ばれて、篤い信仰を集めた。 主祭神は櫛玉饒速日命(配祀神、藤白鈴木氏の氏神)。 神仏霊場巡拝の道第7番(和歌山第7番)。

紀勢本線の高架下を通る道路を進むと、直ぐの道路脇に「鈴木姓のふるさと海南」の幟が立つ急な石段がある。 上っていくと踊り場から石造の一ノ鳥居が見える。 一ノ鳥居をくぐると、一の鳥居境内と社殿境内の間を一般道が横切っていて、境内を分断している。
玉垣に囲まれた社殿境内の入り口に、笠木の上に銅葺屋根を設けた木造の二ノ鳥居が立つ。 鳥居をくぐると、低い台座に鎮座する愛嬌のある顔の狛犬が迎えてくれる。 正面に真ん中に社殿への通路を設けた旧社務所が建ち、その奥の一段高い所に樹林を背にして社殿が鎮座。 拝殿は桟瓦葺だが、向拝は本瓦を葺いた大きな唐破風だ。 拝殿前には江戸中期造立の珍しい家型石燈籠が佇む。
社殿前を左に進むと、それぞれ玉垣に囲まれた境内社2社と、長屋風の覆屋に末社4社そして神馬が横一列に並んで鎮座している。
 
△「鈴木姓のふるさと海南」の幟が立つ急な石段参道/石段の踊り場から見上げた一ノ鳥居の明神鳥居

△天保年間(1830~1844)造立とみられる石燈籠越しに眺めた境内

△一ノ鳥居の石造り明神鳥居....右側は社務所か? 石燈籠は天保八年(1837)の造立

△一ノ鳥居から一般道を挟んだ一段高い位置にある藤白神社境内

△笠木の上に銅葺の屋根を設けた二ノ鳥居の木造明神鳥居
 
△小さな台座の上に、低い姿勢で鎮座する阿形吽形の獅子の狛犬

△入母屋造本瓦葺の旧社務所....真ん中は本殿への通路になっている....手前に「宮水」紫の水が湧き出ている

△旧社務所後方の一段高い位置に鎮座する社殿

△入母屋造桟瓦葺で簡素な造りの拝殿....一軒疎垂木で組物は舟肘木、中央間は格子戸で、脇間も大きな格子の硝子入り格子戸

△本瓦葺で大きな唐破風の向拝....水引虹梁の上に蟇股、その上の梁に笈形付き大瓶束
  
△「藤巴」の神紋が入った獅子口、兎毛通は空飛ぶ鶴の彫刻のようだ/延享年間(1744~1748)造立とみられる石燈籠/寛延四年(1751)造立の家型石燈籠
 
△樹林の中に隠れるように鎮座する本殿.....流造銅板葺の社殿ようで、三間の向拝、組高欄付縁の側縁の奥に彫刻を施した脇障子

△本殿の左手に玉垣に囲まれて鎮座する恵比寿神社(右)と已神社
 
△切妻造板葺(と思う)の覆屋に鎮座する恵比寿神社/流造銅板葺の恵比寿神社の社殿
 
△切妻造銅板葺の已神社...「藤巴」の神紋を入れた幕が下がる/已神社境内に鎮座する「円座石」(亀石とも)....昔、藤白浜のあったもので、藤白王子の御旅所といわれていたようだ

△左右に瓦屋根がある長屋風板葺の覆屋に4つの末社が鎮座

△左から塩竈神社、住吉神社、秋葉神社そして祇園神社
 
△切妻造板葺の塩竈神社....妻に庇を付けて向拝を設けている/流造板葺の住吉神社...大棟からキT字型に棟を伸ばして大きな千鳥破風を設けている

△流造銅板葺(と思う)の秋葉神社....屋根に小さな千鳥破風を設けている....左の乗馬する甲冑武士は?

△秋葉神社の右手の鎮座する木造の神馬と後方に流造板葺の社殿

△流造板葺の祇園神社...住吉神社と同じ造りだが、脇障子がない
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高台寺の時雨亭

2020年03月17日 | 最古・唯一などの遺構

【京都・東山区】日本唯一の二階建て茶室。
安土桃山時代、豊臣秀吉が築城した伏見城の城内に建てられた茶室「傘亭・時雨亭」が、高台寺創建時に移築された。
茶室は、江戸時代初期の慶長十一年(1606)、豊臣秀吉の妻・北政所(ねね)が秀吉の菩提を弔うために創建した高台寺の境内の東奥の小高い丘の上に建ち、重要文化財に指定されている。 高台寺は度重なる火災に遭って大半の堂宇を焼失したが、茶室は焼失を逃れた幾つかの遺構の一つで、桃山の面影を色濃く漂わせている。
小堀遠州の意匠という屋根付きの土間廊下(移転時の築)で「傘亭」と繋がっている「時雨亭」は、日本で唯一の総二階建ての茶室として珍しい。 入母屋造茅葺の「時雨亭」....二階の西側半分は眺望がよい「上段の間」で”貴人席”とよばれ、伏見城内にあったとき秀吉はここでお茶を嗜んだそうだ。 「上段の間」で、京の都を眺めながらお茶を嗜む秀吉の姿を想像しながら拝観。
宝形造茅葺の「傘亭」は、草庵の風情が感じられる素朴な建物で、正式名称は「安閉窟」という。 傘亭の天井は、自然木の梁に束を立て、放射状に丸竹の垂木を組んだ美しい化粧屋根裏で、その形が唐傘に似ていることから「傘亭」の名が付いたようだ。 ちなみに、「時雨亭」の名は、秀吉が時雨のように不意に訪れたことに由来するらしい。
茶室を眺めていると、伏見城内にあったこの茶室でお茶を楽しむ秀吉とねねの様子が想像され....侘びた茅葺の茶屋に浪漫を駆り立てられた。 (拝観は2009年5月)

△高台寺境内の東奥の一番高い所に建つ茶屋「時雨亭」(手前・南側)と「傘亭」(奥・北側)....桃山時代に伏見城内に建立されたもので、高台寺創建時に移築された....両茶屋は屋根付きの土間廊下(後世の築)で繋がっている

△入母屋造茅葺で総二階建ての「時雨亭」(重文)....二階の右半分(西側)が「上段の間」で”貴人席”と呼ばれ、秀吉はここでお茶を嗜んだとされる....左半分(東側)は下段の間で板張りの涼みの間....手前は切妻造杉皮葺で吹き放し構造の土間廊下で、支える柱は皮付丸太
 
△一階は土間で竈を付けた勝手の場....土間から木の階段で二階に上がる構造/二階の東側は窓が少ない「下段の間」....丸窓は床の間の壁に開けられていて、丸窓を通して外の景色を掛け軸とした趣向になっている

△二階の西側(右半分)は「上段の間」で、南北西の三方に低い腰板を周して上から突き上げ窓を吊るした開放的な構造で、非常に眺望がいい (写真はNETから借用)

△「時雨亭」の天井は自然木の梁に束を立てて丸竹の垂木を組んだ化粧屋根裏

△宝形造風茅葺の「傘亭」(重文)....「時雨亭」の北側に建ち、切妻造杉皮葺の土間廊下(移築時の建築)で繋がっている

△窓が多い造りで、四方に大きさが異なる中連子窓が10ヵ所ほど設けられている
△侘びた「傘亭」は素朴で草庵の風情が感じられる

△「傘亭」の天井は自然木の梁に束を立て、放射状に丸竹の垂木を組んだ化粧屋根裏
 
△「傘亭」は周囲には跳ね上げ窓、跳ね上げ板付の連子窓風や格子窓風など異なる窓を備える開放的な茶屋....天井に「安閉窟」の扁額が掲げられている/北面の跳ね上げ窓と西面の跳ね上げ板を設けた連子窓風や格子窓風の窓....連子窓風窓には丸竹を連子子として用いている
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八剣宮 (名古屋)

2020年03月13日 | 寺社巡り-愛知

【名古屋・昭和区】熱田神宮の別宮である八剣宮は、社伝では、元明天皇和銅元年(708)、朝廷から熱田神宮に派遣された勅使とともに西夷降伏の祈願が行われ、その際、新造の宝剣が奉納されて八剣宮が創建されたとされる。 安時代、醍醐天皇の勅令で編集され延長五年(927)に完成した法令集「延喜式」の延喜神名帳に「八剱神社」として記されているので、本宮と同時期の創建とみられる。
建築様式と社殿配置は本宮と同形式で、神明造の拝殿(外玉垣御門)・中重鳥居・内玉垣御門・瑞垣御門・幄舎そして本殿で構成されている。 近世に入って武士の信仰に篤く、織田信長、徳川家康、徳川綱吉(第5代将軍)らによって社殿等の造営・修築が行われた。 主祭神は本宮と同じ熱田大神。

上知我麻神社と境内を同じくし、境内北側に広がる神々しい空間に、白鳳時代に創建された八剣宮が南面で鎮座している。 八剣宮の社殿の配置は本宮と殆ど同じで、幾つかの社殿が一直線に並んでいる。
八剣宮は外玉垣御門の拝殿と背の低い外玉垣に囲まれていて、外玉垣越しに中を眺めるが本宮と同じで、内玉垣御門と背の高い内玉垣に遮られて並び建つ社殿の神明造り屋根しか見えない。
社殿などの造営や修築に寄与した織田信長や徳川家康らが参詣したという情報はないようだ....が、八剣宮を訪れていたと想像すると感慨深い面持ちになる。

△上知我麻神社と同じ境内の北側に南面で鎮座する熱田神宮別宮の八剣宮....白鳳時代の元明天皇和銅元年(708)の創建で、本宮と同じ熱田大神を祀る....ご神体は草薙神剣(草薙剣)

△八剣宮は武士の信仰が篤く、織田信長、徳川家康、徳川綱吉らにより社殿等の造営・修築が行われてきた

△本宮とほぼ同形式で、拝殿(外玉垣御門)・中重鳥居・内玉垣御門・瑞垣御門・幄舎・本殿で構成....現在の社殿は明治二十六年(1893)に尾張造から神明造に改造された

△神明造銅板葺の拝殿(外玉垣御門)....大棟に内削ぎの千木(置千木風)と4本の堅魚木が乗る

△拝殿は三間一戸の八脚門....中央間は布を張った扉(?)で脇間は横羽目板....拝殿を通して社殿境内が見えない

△神明造で妻面の破風の拝の破風板に8本の鞭懸(小狭小舞)はあるが、棟持柱はない

△拝殿後方に並び建つ伊勢鳥居の中重鳥居、内玉垣御門、瑞垣御門、幄舎、本殿....幄舎以外は神明造

△神明造銅板葺の内玉垣御門....大棟に内削ぎの千木(置千木風)と4本の堅魚木が乗る/金色の装飾金具が施された内玉垣御門の板扉

△内玉垣御門と瑞垣御門は拝殿(外玉垣御門)と同じ造り

△拝殿(外玉垣御門)の内側に並び建つ内玉垣御門、瑞垣御門、幄舎そして本殿

△オレンジ色屋根の本殿....大棟に内削ぎの千木と8本の堅魚木を乗せている

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上知我麻神社 (名古屋)

2020年03月09日 | 寺社巡り-愛知

【名古屋・昭和区】上知我麻神社は熱田神宮の摂社で、別宮八剣宮の境内に鎮座する。 天武天皇年間(673~686)の創建とされるが、正確な創建年や縁起は不詳。
昭和二十四年(1949)、境外から熱田神宮の八剣宮境内に移築され、昭和四十年(1965)の社殿建立によって遷座した。 拝殿前の左右に大黒天を祀る大国主社と恵比寿を祀る事代主社が鎮座する。 祭神は熱田の地主神である乎止與命。

熱田神宮の正門(南門)の左手に、同じ境内に鎮座する上知我麻神社と八剣宮への伊勢鳥居が立ち、鳥居の中に上知我麻神社の拝殿が見える。 鳥居をくぐって玉砂利の参道を進むと、厳かな空間が広がり、正面に上知我麻神社、左手に社務所、そして右手奥に八剣宮が鎮座する。
熱田の地主神とされる上知我麻神社は、古代の天武天皇年間の創建とされて歴史は古いが、遷座したのは社殿が建立された昭和四十年....新しく簡素な社殿だが、落ち着いた雰囲気が漂う。 拝殿前の左右に、流造りの事代主社と大国主社が鎮座、それぞれありがたい恵比寿と大黒天を祀っている。

△熱田神宮の正門(南門)の左手の上知我麻神社&別宮八剣宮への参道

△玉砂利の参道に立つ伊勢鳥居....五角形の笠木、角柱の貫そして笠木端に襷墨がある....両側に家型の据燈篭が佇む/境内側から眺めた伊勢鳥居....奥の鳥居は熱田神宮の正門(南門)

△熱田神宮境内鎮座する摂社・上知我麻神社....昭和二十四年(1949)にこの地に移築

△切妻造銅板葺の手水舎....見事な円柱に支えられ、直線的な屋根は社殿を思わせる

△手水舎から眺めた樹林に囲まれた上知我麻神社と社務所(左)

△上知我麻神社は天武天皇年間(673~686)の創建とされるが、創建年や縁起は不詳

△上知我麻神社と拝殿前の左右に大国主社と事代主社が鎮座

△入母屋造銅板葺の上知我麻神社の拝殿....社殿は昭和四十年(1965)の建立により遷座....熱田の地主神であるご祭神・乎止與命を祀る

△唐破風の向拝の軒下....組物、木鼻、蟇股、兎毛通などに胡塗が施されている/唐破風に「五七桐竹紋」を配した鬼板、拝の兎毛通は猪目懸魚、奥の虹梁に装飾を施した笈形(と思う)

△左手に鎮座する流造銅板葺の事代主社(恵比寿を祀る)/右手に鎮座する流造銅板葺の大国主社(大黒天を祀る)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熱田神宮-(2) (名古屋)

2020年03月05日 | 寺社巡り-愛知

【名古屋・昭和区】中世に入り、建久元年(1190)に源頼朝が、また、建武二年(1335)に足利尊氏がそれぞれ御剣を奉納、その後も足利将軍家から剣、馬、鏡、法華経などが奉納された。 近世に入ると豊臣秀吉や徳川家康らが参詣している。 明治四年(1871)の近代社格制度の制定によって官幣大社に列格したが、「三種の神器」の1つ「草薙剣」を祀っていることから明治二十三年(1890)、伊勢神宮と同格にする旨の勅令案が政府に提出されたが否決された。
社殿は当初、尾張造という尾張地方独特の建築様式で建てられていたが、明治二十二年(1889)、伊勢神宮と同じ神明造による造営が計画され、明治二十六年(1893)に竣工した。 太平洋戦争の空襲により焼失したが、昭和三十年(1955)、伊勢神宮の式年遷宮の際に出た木材を譲り受け、ほぼ同じ社殿に再建された。

本宮境内に一番近い鳥居をくぐり、木々に隠れるかのように建つ拝殿に向かう。 早い時間帯の訪問だったが、拝殿にはすでに10名程の参拝者がいた。 参拝後、東西翼廊に移動して一直線に配置された社殿にカメラを向けたが、玉砂利が敷き詰められた拝殿の奥は、内玉垣御門と内玉垣で囲まれていて、内玉垣の上に瑞垣御門、東宝殿そして本殿の神明造り屋根が見えるだけだ。
授与所の前を通って神楽殿に。 神楽殿は直線的な意匠の神明造り風の豪壮な建物で、大きな屋根はどっしりとした重量感を漂わせる。 神楽殿の右脇を通って樹林の中に鎮座する境内社に向かう。 幾つかの神明造りの摂社・末社の他、室町幕府第10第将軍足利義稙が造営した流造りの土用殿が建つが、土用殿には明治二十六年の社殿改造までご神体の「神剱」が奉安されていたそうだ。 また、水を司る神様を祀る清水社の後方に「お清水」という湧き水の水溜まりがあり、その中の水面に突き出た小さな岩は中国唐代の「楊貴妃」の墓ではとされているそうだ。
清水社から神楽殿境内の南隅に建つ西楽所に....檜皮葺の西楽所は、貞享三年(1686)に徳川第五代将軍綱吉によって再建された建物で、江戸初期の風情を色濃く残していて趣がある。 境内の東側に鎮座する幾つかの末社を拝観しながら、宝物殿の前を通って東門に向かった。
【拝観:拝殿(外玉垣御門)⇒祈祷殿⇒授与所⇒神楽殿⇒斎館・勅使館⇒西楽所⇒龍神社⇒御田神社⇒土用殿⇒清水社⇒内天神社⇒六末社⇒文化殿(宝物殿)⇒東門】

△本宮境内の入り口の参道に立つ伊勢鳥居....奥に見えるのは拝殿

△樹林に囲まれた拝殿前の境内....左手に祈祷殿、右手に授与所、神楽殿等が建つ

△神明造銅葺の拝殿....拝殿は外玉垣御門を中心に東西翼廊と四尋殿が連接した建物

△拝殿大棟に内削ぎの千木と10本の堅魚木が乗る

△参詣者は外玉垣御門前で参拝

△重厚な軒下構造....妻面の破風の拝に鞭懸(小狭小舞)があるが、棟持柱はない

△拝殿の前方の四尋殿....吹き放ち構造で、格天井になっている

△四尋殿を通して眺めた中重鳥居の柱と内玉垣御門

△伊勢神宮とほぼ同じ社殿配置....翼廊から眺めた四尋殿、その先に鎮座する中重鳥居・内玉垣御門・瑞垣御門・幄舎そして本殿

△鳥居の次は内削ぎの千木と6本の堅魚木が乗る内玉垣御門、その先に小さな瑞垣御門そして本殿....幄舎は見えず、また玉垣に東掖御門がある

△小さな瑞垣御門の奥に内削ぎの千木と10本の堅魚木が乗る本殿....東掖御門の奥は本殿の右に鎮座する内削ぎの千木と6本の堅魚木が乗る東宝殿

△拝殿の左奥に立つ祈祷殿 (結婚式場と車祓い)

△大きな造りの授与所(早い時間帯の訪問で参詣者はまだ少ない)

△授与所は神楽・祈祷の受付

△授与所の右手に鎮座する神明造風の神楽殿

△「五七桐竹紋」を配した神幕が張られた神楽殿の正面

△神楽殿境内に建つ斎館・勅使館

△切妻造り照り屋根の玄関....梁上の小壁に脚間に「五七桐竹紋」を配した蟇股

△神明造板葺の龍神社(摂社)....祭神・吉備武彦命と大伴武日命を祀る

△大棟に内削ぎの千木と6本の堅魚木、妻面の破風の拝に鞭懸(小狭小舞)、棟持柱がある

△神明造板葺の御田神社(摂社)....神文と瑞垣に囲まれて建ち、祭神・大歳神を祀る

△大棟に内削ぎの千木と6本の堅魚木が乗る/妻面の破風の拝に鞭懸(小狭小舞)、棟持柱が立つ

△流造板葺の土用殿....永正十四年(1517)、将軍足利義稙の造営が創建で、神剣が明治二十六年(1893)の御社殿改造まで奉安されていた御殿

△冠木門と透塀に囲まれて建つ土用殿....旧殿は先の大戦で焼失したが、昭和四十六年(1971)、元の位置に宝庫造で復元された

△神明造板葺の清水社(末社)....祭神は罔象女神で水を司り、古くから「お清水さま」と称される

△大棟に内削ぎの千木と6本の堅魚木が乗り、妻面の破風の拝に鞭懸(小狭小舞)、斜めの棟持柱がある

△清水社後方の「お清水」....湧き水の水溜まり中の石は室町時代の「熱田神宮古絵図」(享禄古図写)に描かれている石で、中国唐代の「楊貴妃」の墓ではないかとされる

△切妻造檜皮葺の西楽所....貞享三年(1686)、将軍徳川綱吉による再建で、神宮において数少ない明治以前の建造物

△神明造板葺の大幸田神社(末社)...祭神・宇迦之御魂神を祀る

△大棟に内削ぎの千木と6本の堅魚木が乗る....妻面破風の拝に鞭懸(小狭小舞)、太い棟持柱が立つ

△神門と玉垣に囲まれた内天神社(末社)....神門と瑞垣に囲まれているが社殿がなく、楠の木が自生 (楠の木が寄り代?)

△内天神社越しに眺めた整然と鎮座する六末社

△神明造銅板葺の六末社....祭神は素盞嗚尊・建稲種命・弟橘媛命など6柱を祀る

△文化殿(宝物殿)....奉納された450振りの太刀を展示、その中に戦国時代に越前国の朝倉家の家臣・真柄直隆が使用したとされる「太郎太刀」(長さ2メートル以上あり)が有名だそうだ

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熱田神宮-(1) (名古屋)

2020年03月01日 | 寺社巡り-愛知

【名古屋・昭和区】諸説あるようだが、熱田社の創建は仲哀天皇元年あるいは大化二年(646)と伝えられる。 記紀で仲哀天皇は第14代天皇で、大和武尊の第2王子。 また、熱田神宮が平成二十五年(2013)に「創祀千九百年大祭」を執行していることから、景行天皇四十三年(景行天皇は記紀で第12代天皇)を創祀年としているようだ。 平安時代の延喜七年(907)、 延喜式名神大社に加列された。
明治以前には熱田神社と称したが、慶応四年(1868-明治元年)に神宮号が宣下されたため、社号を熱田神宮に改めた。 主祭神の熱田大神は伊勢神宮と同じ天照大神だが、お姿(神体)が異なり、剱(草薙剣)に宿られた天照大神。(伊勢神宮は「八咫の鏡」に宿られた天照大神) 相殿神として天照大神・素盞嗚尊・日本武尊など5柱を祀る。 熱田神宮はまた、「三種の神器」の一つである草薙神剣(草薙剣)をご神体として祀っている。

神宮前駅から「熱田の杜」に沿って南下し、正門である南門に向かう。
伊勢神宮に次ぐ高い格式の熱田神宮だが、南門は樹林に覆われた参道入口に木造の鳥居が立つだけで、格式が感じられない雰囲気だ。 南門の左手奥に鎮座する上知我麻神社と八剣宮をを最初に拝観したが、先に熱田神宮について投稿する。
笠木が五角形の伊勢鳥居と呼ばれる南門をくぐり、神々しい雰囲気が漂う参道を進む。 朝の早い時間帯の訪問だったので、参詣者はまだ少なく、樹林に覆われた熱田の杜は清々しく静寂に包まれていた。 本宮までの参道の両側の樹林の中に、幾つかの摂社や末社が鎮座する。 社殿は流造か神明造で、神明造の社殿にはいずれも大棟に内削ぎの千木と6本の堅魚木が乗り、神明造の特徴である妻面破風の拝に鞭懸(小狭小舞)がありそして棟持柱が立っている。
境内には空海のお手植とされる樹齢千年以上の大楠や織田信長が寄進した「信長の塀」という土塀などもあって興味深い。 摂社の南新宮社に向かっていた時、木々の間から朝陽が射し込む幻想的な光景に出くわし、その斜光が神々しい雰囲気を醸し出していて印象的だった。
【拝観:東門⇒正門(南門)⇒孫若御子社⇒楠御前社⇒南新宮社⇒清雪門⇒徹社⇒佐久間燈籠⇒西門⇒菅原社⇒手水舎⇒大楠⇒四八百萬神社】

△名鉄神宮前駅前の道路に面し、朝陽を浴びて立つ東門/正門の南門....いずれも五角形の笠木、角柱の貫、襷墨があるので「伊勢鳥居」と呼ばれる

△明治二十七年(1894)造立の石燈籠越しに眺めた正門....鳥居奥の樹林の中に玉砂利の参道が続く

△正門近くに神門と瑞垣に囲まれて鎮座する孫若御子社(摂社)....祭神・天火明命は尾張氏の始祖で、天照国照火明命あるいは天照玉命とも称される

△流造銅板葺の社殿と切妻造銅板葺の神門....明治初年に海蔵門内の西側からこの地に遷座した

△正門近くから眺めた樹林の中に続く玉砂利を敷いた広い参道

△楠御前社と南新宮社境内の入口に佇む竿が方形の石燈籠....明治十五年(1882)の造立

△楠御前社と南新宮社境内の入口に立つ伊勢鳥居

△伊勢鳥居を構えた楠御前社(末社)....祭神は伊弉諾尊と伊弉冊尊で、安産・縁結び・病気平癒のご利益がある

△瑞垣と神門に囲まれた楠御前社/江戸中期の熱田社問答雑録に「社の神也、古楠樹を主とす」とあり、社殿はなく瑞垣の内に古楠が祀られている

△南新宮社境内に朝陽が射し込み幻想的な雰囲気を醸し出している

△境内唯一の朱塗りの南新宮社と2つの小社が鎮座

△朱塗りの瑞垣に囲まれて建つ南新宮社(摂社)....祭神は素戔嗚命

△流造柿葺の社殿....組高欄付き切目縁、側縁奥に羽目板の脇障子

△両側に瓦屋根を乗せた土塀を従えた切妻造柿葺の清雪門....本宮の北門と伝わり、俗に不開門と言われる

△門が固く閉ざされているのは故事による....天智天皇七年(668)、新羅の僧がこの門を通って持ち出した神剣が、朱鳥元年(686)に再度熱田神宮に納められ、二度と御動座なきよう閉門したとある

△神明造板葺の徹社(末社)....切妻屋根の神門と瑞垣に囲まれて鎮座する

△社殿の大棟に内削ぎの千木と4本の堅魚木が乗り、妻面の破風の拝に鞭懸(小狭小舞)、棟持柱が見える

△正門と東門の参道が交差する路傍の植栽に佇む高さ約8メートルの巨大石燈籠は「佐久間燈籠」と呼ばれる/寛永七年(1630)、尾張国御器所の佐久間大膳亮之よる寄進....日本三大燈籠として名高い

△「佐久間燈籠」近くの参道から眺めた東門

△西門の伊勢鳥居          西門の近くに鎮座する菅原社(末社)....祭神・菅原道真を祀る

△瑞垣に多くの祈願絵馬が掛けられた菅原社....手前の石燈籠は大正三年(1914)の造立

△切妻造総板葺の神門と流造の社殿....享禄(1529年頃)の古図に描かれていて、天満天神社および外天神と称されていた

△手水舎傍の参道に立つ伊勢鳥居

△神明造風銅板葺の大きな手水舎

△弘法大師空海のお手植と伝わる樹齢千年以上の大楠

△境内案内図に記載のない四八百萬神社(祭神?)....右の塀は「信長の塀」で永禄三年(1560)、桶狭間出陣の際に願文を秦し、勝利のお礼として奉納された

△神明造板葺の四八百萬神社(末社?)....大棟に内削ぎの千木と6本の堅魚木、妻面の破風の拝に鞭懸(小狭小舞)、棟持柱がある、また床位置が高い








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする