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何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

椿堂遍照院・善通寺椿大堂 (豊後高田)

2022年05月13日 | 寺社巡り-大分

【大分・豊後高田市】椿観音「善通寺椿大堂」と椿大師「椿堂遍照院」とが同じ境内に鎮座し、幾つかの堂宇を共用する寺院。 調べたが、善通寺と遍照院の創建時期だけでなく、両寺院の関係についても不詳。
椿大師縁起では、平安時代の延暦二十三年(804)に遣唐使の留学僧として唐国に渡った空海は、帰国後、九州に約2年間滞在したが、その際、宇佐神宮に勉学の御礼参りをした。 その折、故郷の四国を眺める為に此の地に巡錫し、本堂裏(奥の院)の岩窟で椿の錫杖によって霊水を湧き出されたことから椿大師「椿堂」と称され、一千二百年の歴史がある….とされているようだ。 また、奈良時代初期の養老年間(718年)開基の無動寺の境外仏堂だったとの記載もあることから、平安時代の創建とみられる。 宗旨は真言宗で、本尊は椿堂遍照院が釈迦如来・弘法大師、善通寺は十一面観音菩薩・弘法大師。 椿大師「椿堂遍照院」は豊後四国八十八ヶ所第四十九番札所、椿観音「善通寺椿大堂」は九州三十三観音第十二番札所、豊後四国八十八ヶ所総本山第四十八番札所。

●門前の道脇に、頂部が兜巾形の石柱に白地に両寺号等が墨書された寺号標石が立つ。 標石には寺号以外のことがゴチャゴチャと表記されていて、まるで飲食店の看板のようだ。 そこからいやでも目に飛び込んでくるのが、石垣の上に建つ珍しい形のコンクリート製台座の上の鐘楼だ。 鐘楼を見上げながら、石垣の間の石段を上って南面の山門に。 両側の石垣の上に鎮座する赤に彩色された猛炎を背負った数体の舟光背型不動明王石像が、鋭い眼光で迎えてくれる。
天衣を纏った小さな金剛力士石像に護られた山門、その左右の門柱に「豊後四国八十八所 総本山四十八番善通寺椿大堂」と「弘法大師ゆかりの名刹第四十九番椿堂」の大きな聯が掛けられているが、何故か遍照院の表記がない。

△門前から見上げた石垣の上の鐘楼堂と山門

△頂部が兜巾形で白く塗られた石柱は椿堂遍照院と善通寺椿大堂の寺号標石....石垣の上に建つ入母屋造桟瓦葺の鐘楼堂/四方に連子窓があるコンクリート製台座の上に建てられた鐘楼....台座の鉄製部分は赤く塗られ、台座上の周囲に擬宝珠高欄がある

△椿堂遍照院と善通寺椿大堂の共用の山門

△山門前の石垣の上に鎮座する舟光背型不動明王石像....赤に彩色された猛炎を背負う

△鐘楼の台座前に鎮座する舟光背型不動明王石像

△山門前の左右に鎮座する天衣を纏った阿形吽形の金剛力士像

△入母屋造桟瓦葺の山門....右の門柱に「豊後四国八十八所 総本山四十八番善通寺椿大堂」、左に「弘法大師ゆかりの名刹第四十九番椿堂」の聯が下がる

△四脚門の山門を通して眺めた境内....右の山手側に並ぶ建物が遍照院、奥正面の建物が遍照院

△二軒繁垂木で台輪の真ん中に出組を配....台輪上や木鼻に精緻な彫刻が施されている、木鼻の像は獅子・龍・象

△境内側から眺めた山門と台座上の鐘楼....左下の桟瓦葺の建物は地蔵堂で延命加持地蔵尊が鎮座

●山門横の階段を上って先ほど見上げた台座上に建つ鐘楼に....そこから境内を一望できるが、弘法大師ゆかりの名刹にしては狭いな~という印象だ。 鐘楼から西面で建つ「弘法大師椿観世音 総本山善通寺椿大堂」の木札が下がる椿大堂へ....身舎の正面の長押上の小壁に彩色された二頭の龍が描かれている。
椿大堂に対面して「しあわせ観世音像」が鎮座し、その南隣に「幸せを呼ぶ鐘」と呼ばれる梵鐘が下がる2つ目の鐘楼が建つ。 椿大堂に隣接して建つ二階建ての白壁の建物は、正面に「善通寺」の扁額が掲げられているが建物の造りから庫裡とみられるので、椿大堂が本堂だろう。
境内の奥に山門を向いて椿大師本堂が建つが、入母屋の素式の妻飾に扁額が掲げられ、また、正面の軒下の異様な光景に驚いだ。 近づいてみると、たくさんの黒髪やギブスが吊り下げられていて、少し不気味だ。 調べたら、願が叶った御礼として奉納されたものとのこと。
身舎の左に「椿堂・奥の院入口」の案内板があり、中に入り進むと椿堂の後方に菩薩像・不動明王像・地藏像・弘法大師像など真言宗にかかる尊名の石仏が整然と並んでいる。
椿堂から外に出て裏山の石階を上ると、山腹に椿大師発祥の岩窟を覆うように奥之院本堂と伏見稲荷とが鎮座している。 弘法大師が修行したこの岩窟には、霊水が絶えることなく湧き出ている。

△台座上の鐘楼から眺めた境内....奥正面が遍照院椿堂、右側に善通寺椿大堂と金剛閣が並び建つ

△善通寺椿大堂(椿観音本堂)と白壁の二階建ての建物の庫裡(と思う)とが繋がって建つ

△頂部に露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺の椿大堂....正面の長押の上の小壁に2頭の龍が描かれている

△獅子口が乗る入母屋破風の入り口に「善通寺」と墨書された扁額が掲げられている/蓮華座に鎮座する「しあわせ観世音立像」....「九州三十三観音霊場第十二番札所」とある....頂部に如来坐像を乗せ、足元に33観音像と地蔵蔵が鎮座

△「しあわせ観音像」の左手に建つ入母屋造桟瓦葺の鐘楼....梵鐘は幸せを呼ぶ鐘といわれる

△金剛閣....参拝者の休憩所、集会所などの多目的ホールになっている

△切妻造桟瓦葺でコンクリート製の十三仏堂(と思う)....雛壇状に十王の本地仏他が鎮座....身舎柱左右に「詔福十三仏」「栗島大明神」の聯

△片流屋根でコンクリート製の観音堂(と思う)...弘法大師坐像を中心に観音菩薩立像が鎮座....身舎柱に「南無大慈観世音」の聯

△入母屋造桟瓦葺で妻入の椿大師本堂(豊後四国八十八ヶ所第四十九番札所椿堂)....大棟端に獅子口、拝に蕪懸魚、妻飾は白壁の素式....軒下に吊るされているのは願が叶った御礼として奉納した黒髪やギブスなど

△椿堂内の雛壇に鎮座する様々な尊名の石造仏群

△雛壇に整然と鎮座する弘法大師坐像群....前と左右に様々な尊名の石仏が並ぶ

△椿大師のご霊水に鎮座する火焔光を背負う不動明王像群/椿大師のご霊水(ネットから拝借)

△様々な尊名の石仏に見守られた霊水の中に鎮座する「水かけ親子地蔵尊」/霊水の中に鎮座する法衣を纏ったように苔で覆われた親子地蔵尊像/「豊後四国八十八ヶ所霊場総本山」の石標前に鎮座する地蔵尊像....足元に六地蔵像

△明治九年(1876)造立とみられる石造物....「公認佛堂認可記念」の刻が読み取れる....上の穴は奥之院を示す?

△裏山の中腹に鎮座する第四十九番椿大堂の奥の院と稲荷社

△奥之院本殿のお救い堂....弘法大師修行の霊窟を取り囲むように建つ(椿大師発祥の地)

△お救い堂には様々な願い事を書いた沢山のシャモジが奉納....多くの弘法大師像の他諸仏像が安置....右手に霊水が湧き出ている

△奥之院境内の右手の山の傾斜地の鎮座する伏見稲荷/奥之院境内から鐘楼側に降る参道

△奥之院境内から眺めた善通寺椿大堂と鐘楼の屋根

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松島神社 (臼杵)

2021年06月06日 | 寺社巡り-大分

【大分・臼杵市】豊後国臼杵藩七代藩主・稲葉恒通公の時代の江戸時代宝永四年(1707)、稲葉藩船手組の鎮守神として住吉神四柱を勧請して創建され、明治四年(1871)に松島神社に改称されるまで住吉神社と号していた。 拝殿は享保七年(1722)、本殿は同八年(1723)に建立された。
明治四年(1871)の廃藩置県によって船手組を解散し、明治十二年(1879)、市浜京泊に鎮座する甑天神と戸室天神の分霊を合祀し、以来、市松村の産土神として松山神社と改称した。
この地は一名船島と呼ばれ、古来より臼杵七島(かつて臼杵湾内にあった臼杵七島と呼ばれる大小七つの島)の一つに数えられた名勝地で、藩政時代、稲葉藩船手組の舟道具置き場だった。 祭神は、海上安全を司る住吉の神の底筒男命、中筒男命、表筒男命そして神功皇后の四柱、そして学問の神様の菅原道真公。

◆畳屋町から臼杵川に架かる住吉橋を渡っていくと、川に浮かぶ松島の道路に面して両側に石燈籠を構えた松島神社の古びた石段がある。 松島神社は、臼杵川の河口に浮かぶ細長い形をした松島の南端(最上流側)に鎮座する。
石段を上って行くと、幹に注連縄が巻かれた御神木が聳え、境内入り口に「松島神社」の額が掲げられた石造りの明神鳥居が立ち、木立に囲まれて社殿が鎮座している。 鳥居を通して拝殿が見えるが、社殿は鳥居とは90度ずれたほぼ東面で建って いる。 いずれも江戸前期創建の瓦葺の拝殿と銅板葺の本殿が建ち、両殿間に小さな幣殿があり、一間春日造りの本殿の階段の両側に狛犬が鎮座している。 左の吽形は一角があるので雌の狛犬で、右の阿形は雄の獅子ということになる。
拝殿と本殿は、西に大きく傾いた太陽の光を燦燦と受けている。 境内の西端にいずれも宝珠部を失った3基の石燈籠が立ち、石燈籠の間から川辺に向かって石段がある。 裏参道になる石段を下っていくと、川辺に石造りの明神鳥居が立つが、転びが大きく柱下部に大きな藁座(根巻)を設けていて興味を引く。 境内は藩政時代に稲葉藩船手組の舟道具置き場だったので、川辺に設けられた石段は舟道具置き場の入り口だったであろうと思う。

△道路に面した入り口の石段前左右に佇む石燈籠は豊後国臼杵藩第11代藩主稲葉雍通公と第13代藩主稲葉幾通公の寄進(伝)

△石段の脇に聳えるご神木はシイノキ(と思う)....奥の建物は社務所

△石造り明神鳥居....額束に掲げられた「松島神社」の額のフレームに菅原家の家紋の梅鉢を配す....直ぐ右手の建物は裳腰を設けた寄棟造桟瓦葺の社務所で、奥正面は拝殿、その右に本殿

△石造り瑞垣に囲まれ玉砂利が敷かれた境内....左手に石造りの砲弾、祠、石碑が佇む/真ん中は境内社の寄棟造り石祠、台座に布袋尊像が鎮座

△入母屋造桟瓦葺の拝殿....享保七年(1722)の創建

△拝殿の軒廻りは一軒疎垂木で、組物は雲肘木....側面を含めて窓は全て雨戸が入っている、壁は全て板羽目板/中央間の扉は雨戸が入っていて分からず

△拝殿の大棟端に右三つ巴を入れた鳥衾付き鬼板、拝に蕪懸魚、妻飾は虹梁蟇股

△春日造銅板葺の本殿(神殿)....享保八年(1723)の創建、文政九年(1826)に改築し天保十三年(1842)に銅葺に葺き替えた/一間社春日造で大棟に外削ぎの千木と2つの堅魚木が乗る

△扉は連子を入れた桟唐戸で両脇は板の小脇羽目....扁額「松島神社」は第15代稲葉藩主久通公の自筆とされる/正面と側面に組高欄付き切目縁、側面奥に板張りの脇障子、縁を支える腰組は三手先

△本殿前の左右に鎮座する阿形吽形の狛犬....文化七年(1810)の造立で、左の吽形は頂部に一角があるので雌の狛犬、従い右の少し苔生した阿形は雄の獅

△傾いた西日を受ける拝殿と本殿、間の建物は幣殿(と思う)

△石燈籠越しに眺めた社殿

△境内の南西側に立つ3基の石燈籠....手前には裏参道への石段がある

△道路側の石燈籠と同時期の造立と推されるが、笠上の宝珠がいずれも失われている/この石段は裏参道になると思う

△裏参道石段の入り口の川辺に石造り明神鳥居と2基の石燈籠が立つ

△表の鳥居に比べて小型の明神鳥居は転びが大きく、柱下部に大きな藁座(根巻)を設けている(ちなみに表の鳥居は亀腹(饅頭))/石燈籠の前にある水口がない手水鉢

△稲葉藩船手組の舟道具置き場だったので、川辺のこの場所は入り口だったのではと思う
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宝陀寺 (杵築)

2020年08月29日 | 寺社巡り-大分

【大分・杵築市】石碑に刻まれた由緒では、『恒武天皇延暦二十三年伝教大師唐より帰朝后千手千眼の尊像を刻み一刀三礼の作 豊後国田原別府のこの山に安置す 寺を清水と号し僧坊六坊を置くこれ宝陀寺の前身である。 豊後国主大友氏泰の時その臣田原左近蔵人直平この地の領主たり……途中省略……寺を建て東福聖一国師法孫悟庵禅師を迎えて開山の祖となす これ即ち蟠龍護山宝陀寺なり 時に後醍醐天皇の元應二年三月十日なり』とある。
「延暦二十三年伝教大師唐より帰朝」とあるが、延暦二十三年(804)は最澄入唐の年であり、翌年帰朝したので、正しくは延暦二十四年(805)である。 また、宝陀寺の創建は、「豊後国主大友氏泰の時」で「後醍醐天皇の元応二年三月十日」とされるが、室町幕府で豊後・備前などの守護を務めた大友氏泰は、鎌倉末期元享元年(1321)の生誕なので、宝陀寺創建の元応二年(1320)にはまだ生まれておらず矛盾する。 他に「南北朝時代の正平六年(観応二年(1351))に田原直平が悟庵上人を開山に迎えて播龍山宝陀寺を現在地に創建した」という説もある。 更に、「平安時代の大同三年(808)創建の臨済宗の寺院」という説もあるようだが、寺院とは清水寺のことで、その創建が大同三年(808)なら臨済宗ではなく天台宗なはずだが....。
七堂伽藍を有す大寺で、寺勢が増すとともに末寺が増え、江戸中期には81ヶ寺を有して隆盛を誇った。 室町時代、江戸時代(前期)、明治期そして昭和期(本堂・庫裡を焼失)と4度の火災に遭ったが、その度に再興されて法灯を守り続けている。 宗旨は臨済宗(東福寺派)で、本尊は釈迦如来像。

一般道の参道を上っていくと道端に、室町時代造立の宝篋印塔が立ち、傍の石造り玉垣で囲まれた中に丸彫りの石仏4体が鎮座して参詣者を迎えている。 石仏はいずれも円頂なので地蔵尊像と思う。 石仏前から、宝陀寺境内の入口に立つ仁王像と堂宇の屋根が見える。
「禁葷酒」の戒壇石が立つ石段の上の左右に金剛力士像が露座し、険しい忿怒相で仏敵の侵入を防いでいる。 十数段の石段を上ると、眼前に水をたたえた大きな堀が現れ、堀を真ん中で二分するように山門に向かって参道が真っ直ぐ延びている。 そこから眺める光景はまるで城郭のようで、苔生した高い石垣の上に堂宇が建ち並んでいる。 二十数段の石段を上って江戸初期創建の山門へ。
山門は四脚門で、手前の飛貫の左右に小さなお堂が乗っていて、正面に『仁王像 石造りの大分県一小』の張り紙が。 金属の縦格子の隙間から中を覗くと、暗い中に小さな仁王像が鎮座している。 特に吽形の仁王像には、僅かであるが、造立時のものと思われる色彩が残っていて驚いた。
山門をくぐって切石敷の参道を進むと本堂の前庭に放生池があり、小さな石造り反橋が架かっている。 その先の東面で建つ本堂は、昭和後期建築の鉄筋コンクリート造りだが、古建築様式を殆ど取り入れておらずやや拍子抜け。
境内には珍しい形の石塔や石燈籠や石仏があるが、石塔は異なる石造物の部位を組合せて積み上げたもののようだ。 また本堂前には自然石の石塔と石仏2体が鎮座しているが、「阿弥陀三尊像」を表していると考えられる。 それは、真ん中の石塔の刻銘は「□明遍〇塔」と不明確ではあるが、「光明遍照塔」と彫られていると推察されるので、石塔が阿弥陀仏を表し、左右に鎮座する石仏は脇侍の勢至菩薩と観音菩薩ではと考えられるからだ。

△参道の右脇に佇む宝篋印塔と玉垣に囲まれて鎮座する石仏....宝篋印塔は室町時代の造立(推)で総高267cm、隅飾突起の一部が欠落

△苔生した石造り玉垣に囲まれて鎮座する丸彫りの石仏4体は、円頂から地蔵尊像だろう

△金剛力士像前の石段下に立つ石燈籠は昭和三十七年(1962)の造立、また傍に「禁葷酒」と彫られた小さな戒壇石が立つ

△境内入口の古い石段の上で仏敵の侵入を防いでいる阿形吽形の金剛力士像

△右側の阿形金剛力士像....金剛杵らしきものを振り上げて忿怒の相、上半身裸で頭髪は蔓を結んでいる

△宝陀寺の由緒を刻んだ石碑越しに眺めた石垣上の堂宇

△掘の真ん中に設けられた参道の先の石段の上に山門が建つ....苔生した石垣は城郭のようだ
 
△石垣の間の石の階の上に建つ趣のある山門/山門から見下ろした参道と掘

△入母屋造本瓦葺の山門(四脚門)....江戸時代寛永五年(1628)の建立....元文五年(1740)から6度の修築が行われた
 
△通用口を設けた簡素な袖塀を有す....梁上に脚間に彫刻を施した2つの本蟇股/軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で詰組、軒支輪がある....山門の左右の飛貫の上に小さなお堂が置かれている
 
△小さなお堂の中に大分県で最少の石造り仁王像が鎮座する(造立年及び像高は不明)/僅かに色彩が残る左側の吽形の仁王像
 
△切石敷参道の先に2基の石燈籠に佇み、放生池に架かる小さな石橋(反橋)がある/東面する本堂の正面三間は、中央間に格子戸、両脇間に連子窓

△入母屋造桟瓦葺の本堂....昭和六十二年(1987)再建の鉄筋コンクリート造りで、軒下や廻縁などは古建築の造りになっていない建築
 
△本堂左手前に佇む苔生した珍しい形の石造物....異なる石造物(五輪塔や石幢など)の部位を組合せて積み上げたもののようだ/本堂前に佇む「三尊供養之塔」と刻まれた石造物....石柱に異なる石造物の部位を乗せたもののようだ

△本堂前の石造物は「阿弥陀三尊像」と推察....中央の大きな自然石の刻銘は「〇明遍〇塔」と不明確だが、「光明遍照塔」と彫られているようなので阿弥陀仏を表し、左右の石仏は勢至菩薩と観音菩薩では

△境内南側に建つ握側面に裳腰を設けた観音堂と右奥に経蔵(と思う)

△入母屋造桟瓦葺で妻入りの観音堂.....拝に蕪懸魚、妻飾は狐格子、簡素な庇を設けた向拝....幟から本尊は千手観音菩薩像

△入母屋造桟瓦葺の経蔵....中央間は格子戸、両脇間は小脇羽目で白壁、周囲に切目縁
  
△観音堂の前に佇む天保十三年(1842)造立の石燈籠/苔生した舟型の飾手水鉢と石灯籠2基/球状の火袋を設けた装飾性の高い石燈籠
 
△舟型の飾手水鉢から眺めた切妻造桟瓦葺の鐘楼

△切妻造り桟瓦葺の庫裡....平成五年(1993)の再建
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安養寺 (臼杵)

2020年08月01日 | 寺社巡り-大分

【大分・臼杵市】創建や由緒などは不祥だが、安養寺に所蔵されている住持慶念が記した『朝鮮日々記』などから、安土桃山時代の創建とみられている。
『朝鮮日々記』は、安土桃山時代の慶長二年(1597)、時の住持・慶念和尚がこの年に入城した豊後臼杵城主太田一吉に仕え、太田一吉の命で医僧として豊臣秀吉の第二次朝鮮出兵「慶長の役」に62歳で従軍し、慶長二年6月から翌年2月までを記したもの。 また、資料には「安養寺の開基慶念の陣中日記」とある。 宗旨は浄土真宗(本願寺派)。

龍源寺側から市内を流れる臼杵川に架かる万里橋を渡って程無く、安養寺に着く。 墓所を分け入るように参道があり、参道奥に山門と本堂の屋根が重なって一体化しているように見える。 両側に墓石が整然と並ぶ参道を進むと、背の低い白壁の築地塀で囲まれた堂宇境内がある。
山門をくぐって境内に....正面に本堂が建つ境内は、真ん中に本堂に伸びる切石敷、左右に色と粗さが異なる砂利が敷かれている。 境内の北側、庫裏の傍に幼稚園が隣接していて、庫裡前にはカラフルに彩られた幾つかの遊具が置かれている。
境内の南側、鐘楼が建つ左側の砂利敷に石造物がぽつんと置かれていて、不思議な光景だ。 どうみても石橋(反橋)だが、推測するに、昔この場所にあった放生池が埋め立てられたが、架かっていた石橋がそのまま残されたのだろう。 超低い欄干付きの古びた石造りの反橋....趣がある遺構といえる。

△墓所内の参道の奥に鎮座する安養寺....境内に数本の銀杏の古木が聳える

△低い袖瓶を備えた山門は四脚門で、連子を入れた板扉を設けている....堂宇境内は低い白壁の土塀に囲まれている

△切妻造本瓦葺の山門(四脚門)....大棟端に鯱が乗る

△山門は一軒疎垂木で、柱間の梁に出組と脚間に彫刻を施した2つの板蟇股が乗る

△山門を通して眺めた本堂....境内は真ん中に切石敷、左右に色と粗さが異なる砂利が敷かれている

△入母屋造本瓦葺の本堂....中央間が広い正面五間

△正面五間は欄間を含めて全面がガラス戸....ガラスに山門の屋根が映っている

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は平三斗で中備に蟇股....正面と側面に擬宝珠高欄付き切目縁

△砂利が敷かれた本堂前の境内にある古そうな石造物

△石造物は太鼓橋(反橋)のようで、昔ここにあった放生池が埋められ石橋だけが残ったものか?
 
△境内の西側、石橋の先に昭和八年(1933)建立の石碑が立つ/「宣暢師報恩碑」と刻まれた石碑....安政六年(1859)誕生の宣暢師に関する銘が刻

△入母屋造桟瓦葺の鐘楼....二軒繁垂木で頭貫の柱間に出組が乗る
 
△大棟端に鯱を乗せた獅子口、拝に蕪懸魚、妻飾は狐格子(と思う)/禅宗様で礎盤の上に柱が立ち、頭貫上に台輪を配している

△梵鐘は格天井から吊り下げられている

△本堂に向かって右手に、新しいとみられる大玄関そして切妻造桟瓦葺の庫裡が連なる

△獅子口を乗せた唐破風の大玄関....兎毛通は鳳凰、妻飾は虹梁大瓶束、梁に脚間に龍の彫刻を施した本蟇股

△境内の北側に幼稚園が併設され、庫裡前に幾つかの遊具が置かれている
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普現寺 (臼杵)

2020年07月29日 | 寺社巡り-大分

【大分・臼杵市】鎌倉時代の永仁二年(1294)、大友氏第2代当主で幕府の御家人・大友親秀の五男・親直(野津五郎頼宗)が白象に乗った金色の普賢菩薩の霊夢を見たことが縁で、覚庵禅師を開山として創建された。
安土桃山時代の天正六年(1578)、島津氏の豊後侵攻で敗れた後に荒廃したが、江戸時代の正保四年(1647)、月桂寺四世大安和尚を開山として現在地に再興された。 寺号は「普賢」に同音の「普現」を当てたものとされる。 宗旨は臨済宗(妙心寺派)で、本尊は釈迦如来像。
普現寺は、大分県に伝承される”とんち話”の主人公「きっちょむ(吉四六)」のモデルとされる初代廣田吉右衛門の菩提寺で、墓所に吉右衛門や女房「おへま」さんらのお墓があり、寺内に位牌を安置している。 

紅葉が残る鬱蒼とした樹林の中に続く参道を上っていくと右手に墓所が広がり、「廣田吉右衛門之墓所」の標石が立つ覆屋に、初代吉四六さんこと初代吉右衛門を含めた4基の墓石が並んでいる。
参道を上りつめると、苔生した城壁のような高い石垣があり、まるで山城のような雰囲気の門前に着く。 静謐な空気が満ちている門前に続く緩やかな切石敷の参道を進んで山門に。
屋根に鯱を乗せた山門をくぐると、落ち着いた佇まいの境内が広がり、向拝がない古民家風の本堂が南面で建つ。 山門の直ぐ左手に谷積の高い台座があり、その上に牙のある象の背に乗った普賢菩薩坐像が本堂を向いて鎮座している。 普賢菩薩は瞑想しているようなお顔だ。
渡り廊下で本堂と連なる庫裡の前に、苔生した石造りの反橋が架かる放生池があり、その奥は一面苔に覆われた庭園になっている。 庭園の中に、笠が苔生した五層の石造り塔燈籠、丸彫りの石仏そして三間四方のお堂が建っている。 塔燈籠は頂部が欠落しているが、傍の地面に相輪が置かれているのでこれが塔燈籠の頂部か。 また、塔燈籠の脚間に合掌する小さな如来石仏が鎮座しているのが印象に残った。

△寺号標石越しに眺めた門前の参道....寺号標石は昭和七年(1932)の造立

△苔で覆われた城壁のような石垣、そして石垣に沿って続く緩やかな石段の奥に山門が建つ

△僅かに紅葉が残る深閑とした門前

△切妻造本瓦葺で山門....大棟端に鯱を乗せ、両側に桟瓦葺で板張りの小さな袖塀を設けている

△山門は四脚門で、唐草彫刻を施した梁の上いっぱいに精緻な龍の彫物がある

△山門の傍に建つ入母屋造本瓦葺の鐘楼

△鐘楼の軒廻りは吹寄垂木、大棟端に「三つ木」の紋を入れた獅子口、拝は蕪懸魚

△入母屋造本瓦葺の本堂....向拝がなく、身舎右側に大玄関がある....大棟端に獅子口、拝に蕪懸魚、妻飾は白壁の素式

△本堂の正面は全面が腰高格子戸で古民家風の造り

△軒廻りは二軒繁垂木で組物は舟肘木....向拝はないが切目縁の真ん中の前に石段が置かれ、鴨居に山号を記した扁額がある

△本堂の右端に設けられた唐破風の大玄関....隣接する建物は庫裡

△本瓦葺の唐破風大玄関....獅子口を乗せ、兎毛通は変形の猪目懸魚(と思う)、妻飾は虹梁大瓶束
 
△大玄関前に置かれた自然石を利用した飾手水鉢と石燈籠/本堂境内の隅に佇む弘化二年(1845)造立の石燈籠

△入母屋造桟瓦葺で妻入の庫裡....周囲に桟瓦葺の庇を設け、二階正面に高欄を設けた縁がある珍しい造り

△谷積の高い台座の上に本堂を向いて鎮座する普賢菩薩坐像
 
△牙のある象の背に鎮座する普賢菩薩坐像/台座前の苔生した笠の石燈籠(造立年を失念)の竿に「無尽燈」の刻....基礎の下に四脚を設けている

△白壁の築地塀の傍に佇む石造物群....中に地蔵石仏が鎮座する屋根と笠付の石造り仏龕2基、また3体の石仏(地蔵菩薩?)が鎮座(2体は坐像)
 
△身体が苔に覆われ、摩耗が激しい地蔵菩薩立像....錫杖がないが頭頂から地蔵菩薩/唐破風笠付きの三界萬霊塔

△庫裡前の放生池に架かる苔生した石造の太鼓橋....手前に苔生した庭園が広がる

△苔に覆われた欄干付き反橋(太鼓橋)
 
△反橋から眺めた苔生した庭園            笠が苔生した五層の石造塔燈籠

△塔燈籠の脚間に鎮座する合掌如来石仏
 
△欠落した塔燈籠の相輪部が地面に置かれている/珍しい台座の上に鎮座する石仏像....右手の錫杖が消失しているが地蔵菩薩立像と思う

△庭園内に建つ入母屋造銅板葺で三間四方のお堂(堂名不詳)....中央間に格子戸で脇間は両開きの桟唐戸(と思う)

△側面は二間の腰高明障子と羽目板....一軒繁垂木、拝に蕪懸魚、妻飾は狐格子

△参道脇の覆屋に「廣田吉右衛門之墓所」(左端が初代吉四六さんの墓碑)....大分県の代表的な民話の豊後の奇人「吉四六」こと広田吉右衛門や妻「おへま」らの墓石が立つ(普現寺に位牌あり)....吉右衛門は代々小庄屋を務め、名字・帯刀を許された由緒ある家柄
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三島神社 (臼杵)

2019年01月16日 | 寺社巡り-大分

【大分・臼杵市】鎌倉時代徳治二年(1307)、伊予国の豪族越智氏の流れを汲む河野六郎通有の嫡男・河野通忠が、西海の海賊退治のため伊予国大山祇神社の分霊を奉じて渡海し、着いた対岸の臼杵市若尾に仮殿を造りその分霊を祭祀。 翌徳治三元年(1308)、御託宣があって現在の宮地に遷座したのが三島神社の始まりとされる。
大山祇神社は、古来から武人たちの崇敬が厚く、戦国大名大友義鎮大友宗麟も臼杵城に入城して以来、崇敬した。 大友氏時代の臼杵五社の一つ。 文政十年(1827)、第十一代臼杵藩主稲葉雍通が老臣岡部隼人治方を遣わせて代拝、幣帛を奉献、安政六年(1859)には第十四代臼杵藩主稲葉観通が参拝した。 明治九年(1876)、臼杵市大字井村に鎮座していた4社(菅原神・大年神・豊受神(2柱))を合祀して井村神社に改称。 その後、さらに2社を合祀し、昭和二十八年(1953)、社号を三島神社に改称した。 主祭神は大山祇神だが、神社合祀により菅原神(2柱)、大年神(2柱)、豊受神(2柱)、品陀和気命、高龗神の神々を配祀する。

参道を横切る日豊本線の踏切の手前に「三島神社」の額が掲げられた大きな金属製の明神鳥居が立つが、笠木と島木が一体となった造りだ。 踏切を渡り両側に据燈籠が立ち並ぶ石段の参道を上っていくと、途中に二の鳥居の石造り明神鳥居が立つ。
石段を上り詰めると、異なる形の数基の石燈籠が立ち、奥に社殿や境内社が鎮座。 社殿は入母屋造の拝殿と流造の本殿が相ノ間を介して繋がっているが、拝殿と相ノ間の側面は同じ造りで、しかもガラス入り格子の引違い戸になっているので近年の再建だろう。
正面三間の拝殿の向拝の水引虹梁の上に、実に見事な龍の彫刻がある。 一間の向拝を埋める大きさで、まるで生きているかのような精緻な龍で、鋭い眼光で参詣者を迎えている。
本殿傍で面白いものを見つけた。 相ノ間の本殿側は、本殿の流造屋根の下に食い込んだ形の造りだが、食い込んだ部分の板壁に顔をくっつけるように獅子の狛犬が鎮座している。 多分、相ノ間を再建した後も、狛犬の位置を動かさなかったのだろう。 狛犬の後ろ姿を見ていて、達磨大師の「面壁九年」の故事が思い出された。
 
日豊本線が横切る参道の手前に立つ異形の金属製の明神鳥居(一の鳥居)/踏切手前の参道脇の大きな台座に立つ二基の石碑....右の台座は亀甲積

「社殿改築記念碑」が立つ石段参道の入り口

紅葉が僅かに残る石段参道の途中に立つ

二の鳥居の明神鳥居..江戸時代宝暦三年(1753)造立

石段参道上から眺めた境内全景....形の異なる石灯籠があるが造立年の確認を失念

参道脇に置かれ三角形状の飾手水鉢

石燈籠越しに眺めた社殿(拝殿)....右手の建物は社務所

入母屋造銅板葺で正面三間の拝殿

拝殿の中央間に扉がなく、両脇間は格子窓
 
拝殿前の三重基壇上に立つ石燈籠....狛犬は本殿近くに鎮座/水引虹梁にしめのこと紙垂をつけた注連縄....向拝柱の下に禅宗様の礎盤がある

一間の向拝の水引虹梁上に配された大きく精緻な龍の彫刻

拝殿と本殿の間には長い相ノ間....相ノ間は本殿の軒の下(階段下)まで設けている
 
本殿階段下に一対の獅子の狛犬が相ノ間の壁に向かって鎮座している/流造銅板葺の本殿....大棟に外削ぎの千木と3本の堅魚木が乗る

本殿の右に鎮座する境内社....祇園社(祭神・素盞嗚命、大己貴命、稲田姫命)か

本殿の左側に鎮座する境内社

流造銅板葺の社2棟...朱塗りの社が稲荷神社(祭神・保食命)で右は地主神社(祭神・軻遇突智命)と思う

脇障子を設けた右の社....跳高欄の縁を支える腰組は突き出た板に大斗肘木のようだ
 
寄棟造銅板葺の社務所                           境内にある「川邊亀蔵翁」像
 
切妻造銅板葺の手水舎                           切妻造銅板葺の手水舎            
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臼杵神社 (臼杵)

2019年01月12日 | 寺社巡り-大分

【大分・臼杵市】鎌倉時代文保二年(1318)、神の御託宣により「臼塚大明神」が創建され、享保十四年(1729)、「臼杵大明神」に改称された。 明治九年(1876)に稲田に鎮座していた天満社が併合された際、社号が「稲田神社」に改称された。 その後、大正十一年(1920)に氏子らによる社号復旧の動きが起こり「臼杵神社」に改称した。
古墳時代前期(五世紀前半)築造とされる臼塚古墳(前方後円墳)の全てを境内とし、社殿は後円部に鎮座している。 祭神は少彦名命・大己貴命・菅原神で、地元では「臼塚さま」と呼ばれている。
境内には、古墳から出土した「舟形石棺」2基と「石甲(短甲形石人)」2基がある。 (2015年3月15日投稿:「臼塚古墳(石甲)」)

「臼杵神社」の額が掲げられた明神鳥居の前の右手に「史跡 臼塚古墳」の標石が立つ。 鳥居をくぐると直ぐ右の覆屋に、珍しい形の石造物2基が鎮座。 甲冑を着けた武人(頭部なし)に似ているところから「石甲(短甲形石人)」と呼ばれるが、自分にはどうみても武人の姿にはみえない....想像力の不足か。
参道奥の石段を上りつめると注連縄が張られた御神木の樟の巨木が聳え立ち、右手に丸い目の狛犬が鎮座する社殿が建つ。 社殿は拝殿・幣殿・本殿が連なった構成だが、流造の本殿の軒先が幣殿の屋根に被さっていて、まるで幣殿が本殿に突き刺さったような造りだ。
本殿の基礎部も少し変わっていて、石積基壇の上に石の亀腹と近年築とみられる逆撥状の縁束が設けられている。 また、基壇傍の僅かな隙間に、正面を向いた狛犬が鎮座しているが、顔の前は縁束の壁がなので何故ここなのか....まるで壁に向かって禅修行をしているようだ。
本殿の右隣の覆屋に「舟形石棺」が置かれているが、初めて見る1500年以上も前の古墳時代の石棺があることに感動....当時の豪族がこの石棺に納められる様子を想像しながらが神社を後にした。

「臼杵神社」の額が掛る昭和二十七年(1952)造立の明神鳥居....注連縄にしめのこと紙垂が下がる

竿に「普明燈」と刻まれた重厚な2基の石燈籠は、右が文化十四年(1817)、左は文政七年(1824)の造立

参道右側に鎮座する2基の「石甲(短甲形石人)」(重文)....古墳のくびれた部分から出土したもの
 
「石甲」は大分県内では臼塚古墳にしかみられない/「石甲」の後方に鎮座する境内社の稲荷神社

転びのある朱塗りの神明鳥居と石灯籠を構えた稲荷神社
 
切妻造銅板葺の簡素な手水舎....2基の手水鉢があり、手前は珍しい円板形の鉢

参道石段下から見上げた社殿....社殿は古墳(前方後円墳)の上に鎮座

社殿境内に聳え立つ御神木の樟木....推定樹齢約700年で、幹回り6.64mの巨木

臼塚古墳の後円部の中心に鎮座する社殿(拝殿)
 
入母屋造銅板葺の拝殿....質素な造りの正面の扉の上にしめのこと紙垂を付けた太い注連縄が張られている
 
拝殿前に鎮座する狛犬....まるで可愛い猫のような姿形の阿形吽形獅子像

拝殿、弊殿(石の間?)、本殿が連なる社殿....拝殿と弊殿の壁は羽目板、拝殿は大棟端に鬼板、軒廻りは一軒繁垂木、拝に蕪懸魚、妻飾は狐格子、柱上に舟肘木

流造銅板葺の本殿.....軒先が幣殿の屋根の一部を覆いかぶさる様に延びている....大棟に外削ぎの千木と3本の堅魚木が乗る

本殿の基礎部....石積基壇の上に亀腹とコンクルート製の床束(縁束?)の造り....狛犬が何故こんなところに?
 
本殿の壁に超近接して鎮座する狛犬....多分、社殿改築後にもとの位置に置かれたのだろう/本殿右手の切妻造銅板葺の覆屋に舟形石棺を安置

2基の舟形石棺は大正時代に墳頂部から露出したもので、石棺内に人骨の他、舟載鏡、鉄剣、鉄刀などが納められていた

臼塚古墳は五世紀前後に造営された前方後円墳....後円部から出土した大小二基の舟形石棺
  
境内に佇む竿に天明八年(1788)造立の2基の石燈籠/注連縄が張られた鎌倉時代文保二年(1318)造立の石碑

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八坂神社 (国東)

2018年04月19日 | 寺社巡り-大分

【大分・国東市】武蔵町手野に鎮座する八坂神社....調べたが創建や由緒などは分からず。

一対の大小の石燈籠を従えた大きな一の鳥居から道を挟んで石段参道の途中に二の鳥居が立つ。 いずれも力強い造りの石造りの台輪鳥居だ。
二の鳥居の傍に柱が朱塗りの簡素な手水舎がある。 手水鉢の水口は見事な龍の彫刻だが、よく見ると龍の目線の先の手水鉢の縁に虎が浮き彫りされていて、互いに睨み合っている面白い構図だ。
石段を上り詰めると、緑の絨毯を敷いたような苔生した切石敷の参道が社殿まで続いている。 がっちりした体型の狛犬に迎えられながら、しめのこを吊り下げた注連縄を張った向拝に。 苔生した数基の石燈籠が立つ拝殿は吹き放ちのような開放的な造りで、拝殿を通して幣殿や本殿が少しだけ見える。
幣殿は朱塗りの柱と白壁での造りで、側面に擬宝珠高欄を設け、蔀戸がある。 大きな覆屋に鎮座する本殿は屋根部がよく見えないが、組高欄を設けた側縁に脇障子があるので春日造とみられる。 本殿は幣殿と同じ朱塗りの柱と白壁、そして正面は全面が格子戸で質素な造りだ。
拝殿左の楽の間を通して朱塗りの摂社が見え、幣殿左手の基壇上に7基の石祠が鎮座している。
道路に面した境内の木立の中に、擬宝珠高欄付き台座に立つ大きな石碑、一対の石造り仁王像、古そうな台輪鳥居そして朱塗りの随身門がある。 随身門に鎮座しているとみられる衣冠束帯に剣と弓を身につけた武官姿の随身像を撮るのを失念した。 随身門の直ぐ後方で仲良く並んで鎮座する一対の仁王像は、いずれも肉付きがよく、まるで相撲力士のようだ。

大きな常夜燈越しに眺めた二基の石造り明神鳥居..薄い台輪を付けた一の鳥居、道を隔てた奥の石段の上に二の鳥居がある

石段の途中に立つ二の鳥居の台輪鳥居
 
石段途中にある柱が朱塗りの切妻造屋根の手水舎..自然石を利用した苔生した手水鉢/龍の彫刻の口から清水が出てくると思う..龍の目線の先の鉢の縁に虎の彫刻がある

石段を上り詰めたところから眺めた境内..緑の絨毯を敷いたような苔生した切石敷参道が拝殿まで続く

社殿は権現造で、拝殿の両側に楽の間がある..向拝にはしめのこを吊り下げた注連縄が張られている

狛犬越しに眺めた拝殿..向拝の梁の上に見事な龍の彫刻
 
境内の中央に立つご神木は途中で切断された銀杏の老木

拝殿前に苔生しあた6基の石燈籠が立つ..向拝前の2基は竿下の台座に4頭の獅子彫刻が施されている

拝殿から眺めた幣殿と本殿..賽銭箱の上の梁に「神霊幽顕」の額が掛かる

拝殿後方に朱塗りの入母屋造桟瓦葺の幣殿、その奥の切妻造桟瓦葺の覆屋の中に本殿が鎮座
 
拝殿の左の楽の間を通して眺めた本殿の左に鎮座する摂社/切妻造桟瓦葺の朱塗りの摂社

拝殿の左手の基壇上に7基の石祠が鎮座
 
境内の左奥に建つ切妻造桟瓦葺の神楽殿、奥に神輿庫そして手前に簡素な覆屋に古井戸がある

手水舎がある境内の道路脇に建つ朱塗りの随身門

切妻造桟瓦葺の随身門..鎮座している衣冠束帯に剣と弓を身につけた武官姿の随身像を撮るのを失念

随身門の後方に並んで佇む石造り仁王像と奥に立派な台座上に石碑

阿形・吽形の仁王像が並んで鎮座している..右側の仁王像は右手に金剛杵を持つ
 
石造りの擬宝珠高欄を設けた台座に立つ石碑..後方に表参道に立つ鳥居と手水舎がみえる/苔生した裏参道に立つ石造りの第輪鳥居と石燈籠
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西光寺 (国東)

2018年04月17日 | 寺社巡り-大分

【大分・国東市】由来や開創年代は不詳だが、境内に佇む国東塔の造立元号(南北朝時代至徳四年(1387))以前の創建とみられる。 宗旨は臨済宗(妙心寺派)で、本尊は藤原時代作(平安時代)の阿弥陀如来坐像。

枯れた芝生で覆われた僅かな段差しかない緩やかな階を進むと、山門の前に鎮座するしなやかなお姿の観音菩薩と少し笑みを浮かべた地蔵菩薩が迎えてくれる。
薬医門の山門をくぐると、すぐ目の前に民家風の本堂が建ち、左手の基壇上に国東塔や無縫塔などの石塔が並んで佇んでいる。 案内板では、国東塔は「西光寺石造宝塔」と呼ぶようで、塔身の四方に地蔵尊像が半肉彫りされ、格狭間が彫られた基礎に造立目的の銘文が刻まれていて珍しい。
境内を囲む白壁の築地塀の角隅に鐘楼があるが、説明が難しいほどに変わった建て方と構造なのに驚いた。 鐘楼の2辺が塀の一部になっていて、また、柱の間が花頭窓のようになるように羽目板が張られた造りで趣がある。
国東塔の後方の石段を上ると、小高い丘の上に「天満宮」の額が掛かるどっしりとした台輪鳥居が立ち、鳥居と拝殿を通して天満宮が見える。 天満宮は向拝柱が設けられた立派な石造りの祠で、木鼻や懸魚などの細部を施したその荘厳さに感心させられた。

宗旨&宗派・山号・寺号が刻まれた門柱から眺めた境内
 
芝生の参道が山門まで続く..境内は低い石垣上の白壁塀に囲まれている

袖塀を設けた切妻造桟瓦葺の山門(薬医門)..袖塀前の両側に石仏が鎮座
 
救苦観世音菩薩像..持物は左手に水瓶、右手に羂索か?/延命地蔵尊像..二重反花座に立ち、左手に宝珠を持つ、右手は欠落している?

石積みの基壇上に建つ入母屋造本瓦葺の本堂
 
周囲に切目縁を巡らし、向拝のない質素な構えの本堂正面に「蓮臺山」の扁額が掛かる
 
本堂前左手に国東塔や無縫塔などが佇む、高台の上に天満宮の鳥居が見える

西光寺石造宝塔(国東塔)..南北朝時代至徳四年(1387)の造立..現世安隠後生善所のために造立された
 
国東塔は高さ3.21mで、基壇上に三重基礎を据え、最上重を二区分として輪郭を巻きその中に格狭間を刻、台座は蓮華座を欠き一重八弁の反花のみ/塔身四方に珍しい地蔵尊像が半肉彫りされ、格狭間に造立目的の銘文が刻

趣がある造りの入母屋造桟瓦葺の鐘楼

鐘楼門の1層部を取り払って基壇の上に置いたような姿だ!

白壁塀から擬宝珠高欄がはみ出している

露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺のこの御堂は?
 
石の形から金精神か?/境内の片隅に佇む五輪塔と6基の無縫塔..一部に享保二年(1717)の元号
 
境内高台に鎮座する天満宮への石段         石段下に置かれた手水鉢
 
御神燈と刻まれた石燈籠と強固そうな石造り台輪鳥居

入母屋造桟瓦葺の拝殿と石造りの本殿
 
流造の天満宮本殿の石祠..妻に蕪懸魚
 
高台に鎮座する石造物/稲荷大明神..神使の狐がおらず、らしからずの稲荷神社

八満宮がある高台から眺めた鐘楼と山門
  
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照恩寺 (国東)

2018年04月15日 | 寺社巡り-大分

【大分・国東市】室町時代の天文二年(1533)、証如上人により開創されたようだ。 南北朝時代、京都での戦いに敗れて西走して国東半島に上陸して足跡を残した足利尊氏の位牌や古文書を保管している。 宗旨は浄土真宗(本願寺派)で、本尊は阿弥陀如来像。
境内に佇む照恩寺国東塔(宝塔)は、鎌倉時代正和五年(1316)の造立。 明治二十二年(1889)に近くの椿八幡宮から移築されたもので、最も優れた国東塔の一つとして国の重要文化財に指定された。 この国東塔は明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈で倒され、椿八幡宮の池の中に放置されていた。

椿八幡宮拝観後、近くにある照恩寺を訪問すると、塀の外に「照恩寺国東塔」の看板が置かれている。 山門がなく門柱から境内に入る....直ぐ正面に、太い竿に「普照燈」と刻まれ、円板状の形をした笠の石燈籠を従えた本堂が建つ。 広くない境内に本堂・庫裡・経蔵・鐘楼が建つ。
鐘楼の脇に約700年前の鎌倉期に造立された「照恩寺国東塔」と呼ばれる宝塔が佇んでいる。 「照恩寺国東塔」は、数ある国東塔の中でトップを競う名品とされているようで、確かに均衡がとれた優美な姿をした宝塔であり、暫し見惚れてしまった。
鐘楼の傍に傷んだ幾つかの石造物が並べて置かれ、塀に「明治初年 廃仏稀釈の遺物」の看板が立てかけてある。 照恩寺国東塔も倒されて放置されていたものだが、廃仏稀釈の嵐で、どれほどの仏像や石造物が破壊されたのだろうかとあらためて想像させられた....合掌。

照恩寺の全景..門柱の両脇に葉を落とした銀杏が聳える

門柱前から眺めた境内..門柱から直ぐの所に本堂が建つ

入母屋造本瓦葺の本堂..本堂新築記念碑があることから再建後間もないようだ
 
正面は白壁とガラス張りの腰高格子戸で古民家風..新しそうな擬宝珠高欄を設けた切目縁を巡らす/質素な造りの流れ向拝..縁に半鐘が下がる

本堂の左奥に建つ入母屋造桟瓦葺の庫裏

鐘楼の傍に佇む照恩寺国東塔(宝塔)..鎌倉時代正和五年(1316)造立で、明治二十二年(1889)に近くの椿八幡宮より移築された(明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈で倒されて放置されていた)
 
国東塔の総高(除く基壇)は252cm、基壇上に三重の基礎、最上の基礎の四面は二区分で輪郭を巻き格狭間を刻/台座は一重複弁の反花よりなえい、塔身は茶壺型で刻銘
 
笠は軒口二重で、四面二区分で輪郭を巻いた露盤上に太い相輪そして火焔宝珠が乗る/非常に均衡がとれた美しい形で、数ある国東塔の中でトップを競う名品とされる
 
入母屋造桟瓦葺の鐘楼..礎石がなく基壇上に直接柱が立っている/本堂右手に建つ経蔵か?..扉に西六条下り藤とみられる寺紋
  
文化二年(1805)造立の石燈籠..蓮花を刻んだ円形中台と円板状の笠/「明治初年 廃仏毀釈の遺物」とある破壊された石造物群/幾つかの石造物のパーツを積み上げたものと思う
 
円錐状の飾手水鉢          苔むした方形状の手水鉢

照恩寺の駐車場から眺めた全景
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椿八幡神社 (国東)

2016年09月19日 | 寺社巡り-大分

【大分・国東市】社伝によると、奈良時代の天平神護元年(765)、ご神託により御在所山に宇佐神宮の分祠を鎮座した。 約260年の間に数度の野火に遭い、平安時代治安三年(1023)の火災を機に現在地に社殿を造営し、ご神体を安置した。 それ以来、宇佐神宮の末社の行幸会が六年に一度執行されたが、江戸時代元和二年(1616)頃に途絶えた。
鎌倉時代以降、領主の嵩敬が厚く、特に今市城主の武蔵田原氏は社殿の造営に意を注いだ。 御祭神は八幡大神(応神天皇)、比売大神、神功皇后の3神。

重厚な鳥居をくぐると直ぐ先に擬宝珠高欄を設けた古い石橋がある。 石橋を渡った直ぐ右手にご神木のクスノキが聳えるが、その幹の巨大な太さに吃驚した。 樹齢約990年と伝わる大分県指定の特別保護樹木だ。
その先に重厚な屋根に鯱を乗せた四脚門の神門が建ち、左右に白壁の低い築地塀が続く。 静謐な空気が漂う門前は、まるで寺院のようで趣があるが、神門を通して奥に社殿が見える。
神門をくぐって社殿境内に入ると、参道の脇や社殿の周りに苔生した笠が乗った多くの石燈籠が佇んでいる。 殆どの石燈籠は江戸時代造立のようだが、一部の火袋部には造立年を記した木札が目立たぬように取り付けられていて、椿八幡神社を守護する氏子たちの気配りを感じさせる。
神門の直ぐ右手に小さな朱塗りの神馬舎があり、社殿を向いて白い神馬像が鎮座....格子を通して見える神馬像に一礼して神門を出た。

道路から眺めた神社正面の全景

江戸時代宝永二年(1705)造立の石造り台輪鳥居..「八幡○○宮」の額が掛る

石橋の直ぐ右手に太い幹のクスノキが聳える..樹齢約990年と伝わる(大分県指定特別保護樹木)
 
門前を流れる小川に架かる擬宝珠高欄付の石造り太鼓橋/切妻造桟瓦葺で柱・貫が朱塗りの手水舎

入母屋造本瓦葺の神門(四脚門)..本柱は丸で控柱は角、棟に鯱を乗せている

境内には享保など江戸時代造立の多くの苔生した石燈籠が佇む

入母屋造桟瓦葺の拝殿..左右の部分は「楽の間」か

獅子口が乗る大きな千鳥破風の拝殿向拝
 
拝殿前に江戸時代前期の貞享元年(1682)造立の石燈籠..蕨手がない笠、請花が彫刻された中台、太い竿、反花座と2段基礎
 
向拝の梁上に2頭の龍の見事な彫刻..木鼻は獏のようだ

拝殿から眺めた擬宝珠高欄を設けた弊殿、奥に本殿..拝殿に「八幡宮」の額と額絵馬が掛る
 
入母屋造銅板葺の弊殿と向唐破風を設けた流造銅板葺の本殿/本殿大棟に男神を表す外削ぎの千木と5本の堅魚木を乗せている

社殿左手に立つ元文二年(1737)造立の台輪鳥居越しに眺めた境内

入母屋造桟瓦葺の神楽殿
 
神楽殿傍に佇む石燈籠..両側の大きな2基は享保十年(1725)造立/神楽殿傍に佇む石造祠

境内の左手に整然と立ち並ぶ石燈籠..元文造立が多く、左端の石燈籠は元文二年(1737)造立
 
社殿左手で四脚を設けた石燈籠を従えて鎮座する境内社
  
江戸時代初期寛永八年(1631)造立の石燈籠群/寛延三年(1750)造立の石燈籠/切妻造桟瓦葺の屋根で覆われた古井戸

自然石を利用した手水鉢..手前の擬宝珠石柱に宝暦七年(1757)の刻銘
 
手水鉢越しに見た神輿庫..手水鉢には元禄七年の刻(1694年造立)/神門右手の神馬舎..白い神馬像を安置

神門前の右奥に建つ裳腰をつけた建物は社務所と思う
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楽庭八幡社 (国東)

2016年09月16日 | 寺社巡り-大分

【大分・国東市】南北朝時代、大友氏から分かれた田原氏庶流の吉弘正堅が、吉広に入封した際に、豊後国一宮である柞原八幡宮の分霊を祀って創始されたと伝えられる。 ご祭神は、柞原八幡宮の主祭神の仲哀天皇、応神天皇、神功皇后の3神とみられる。
同時代、城主吉弘正賢公が領内繁栄・武運・五穀豊穣などを祈願して「吉弘楽」が始まったとされる。 その後、大友氏の滅亡により一旦は衰退するが、江戸時代元禄十年(1697)、杵築藩第2代藩主松平重栄が吉広から伝わり都甲松行に残っていた「吉弘楽」をこの地に復活させ、以来、連綿と伝統が受け継がれている。

境内を囲む石垣塀の切れ間から中に入ると、境内参道に石燈籠を従えた石造りの台輪鳥居が立つ。 少し小さめで重厚な造りの鳥居だが、笠木・島木・貫・柱のいずれも太くずんぐりむっくりとした形だ。
拝殿前に珍しい形の石燈籠が立つ。 阿形・吽形の仁王像が、火袋・笠部を社殿形とした石燈籠の竿を抱え持っている造形で、目を丸くして踏ん張っている仁王像の姿が印象的だ。
社殿左手に「吉弘楽」と刻まれた大きな石標が立つが、後で調べて、楽庭八幡社は大分県各地に分布する太鼓踊りの一種の「吉弘楽」が行われることで有名な神社であることを知った。

楽庭八幡社の正面の全景

比較的新しい石燈籠から眺めた境内..石造り鳥居の右手の傍に珍しい形の手水鉢がある

江戸時代文化九年(1812)建立で、小さい割には重厚な台輪鳥居..額束に架かる石額に「山神社」の刻
 
鳥居傍の注連縄が巻かれた珍しい形の手水鉢..鉢側面に請花の彫刻、竿部に刻があるが判読できず/四脚を設けた手水鉢
 
境内全景..左奥に太鼓踊りの「吉弘楽」の石標が立つ     境内左手に聳えるご神木

入母屋造桟瓦葺の拝殿

向拝の虹梁上に龍の彫刻、虹梁と繋虹梁に獅子の木鼻
 
珍しい形の石燈籠..屋根形の笠で、阿形吽形の仁王像が踏ん張って竿を持ち上げ抱えている
 
嘉永四年(1851)銘がある石燈籠越しに眺めた拝殿/拝殿内部に「楽庭八幡社Jの額と額絵馬が..

流造銅板葺の本殿..妻飾りの見事な彫刻、海老虹梁、擬宝珠の付いた組高欄

本殿右手に鎮座する3つの石祠

二重基壇上に鎮座する3つの石祠は、屋根の形がそれぞれ異なる

境内左手の台輪鳥居..宝暦四年(1754)銘で、「八幡宮 山神社」の額が掛る

「吉弘楽」(重要無形民族文化財)の石標..吉弘楽とは天下泰平・五穀豊穣・虫祈祷を祈願する太鼓踊り

切妻造桟瓦葺の神輿庫
 
石の祠と何かの献台..献台を囲む石柵に享和三年(1803)の刻がある

自然石を利用した苔生した手水鉢

境内の外に建てられた入母屋造桟瓦葺で裳腰を付けた社務所

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龍神社 (国東)

2016年09月13日 | 寺社巡り-大分

【大分・国東市】千燈寺前の道を隔てた反対側に鎮座する神社で、調べたが創建や由緒など分からず。

道路に平行して境内があり、参道に石造りの2つの台輪鳥居が立つ。 一の鳥居の亀腹の傍に、玉石に足を乗せた小さな狛犬が植木に隠れるように佇んで参詣者を迎えている。
参道を進み二の鳥居をくぐって社殿に....脇間から社殿後方の風景が透けて見える簡素な造りの拝殿の後方に幣殿と本殿が鎮座する。 社殿の右手に聳える御神木の巨木に隠れるかのように奥に十基ほどの石祠が整然と並んでいる。 苔生した石祠群は殆どが江戸時代後期の造立のようで、右側4つの石祠の前に小さな台輪鳥居があり、額束に「善神社、天神宮、稲荷社、〇〇社」と刻まれた額が掲げられている。
 
千燈寺前の県道を挟んで鎮座する龍神社            「龍神社」の額が掛る一の鳥居

一の鳥居と二の鳥居..いずれも石造りの台輪鳥居
 
一の鳥居の傍で玉石に足を乗せて鎮座する阿形と吽形の霊獣の狛犬
 
手水舎..棟門のような覆屋   一の鳥居から眺めた境内

笠に蕨手が無く、丸みを帯びた中台の石燈籠越しに眺めた社殿

入母屋造桟瓦葺の拝殿..左側の切妻造桟瓦葺の建物は神輿庫か

権現造の社殿..拝殿、弊殿そして流造銅板葺の本殿が建つ
 
「龍神社」の扁額が掛る拝殿               幣殿後方に鎮座する本殿
 
社殿右手の右手に聳える御神木(クスノキか)..奥に石祠が整然と鎮座している

石燈籠と整然と鎮座する11基の石造祠

「善神王」「天神宮」等の11基の石祠には寛延二年(1749)、文政十三年(1830)、天保四年(1833)などの銘が刻
 
天満宮や稲荷社など4社名が刻まれた小さな台輪鳥居の額/本殿右後方に佇む石燈籠(常夜燈)
 
神殿改築記念碑          台座に乗る苔生した手水鉢

境内の隅に佇む石燈籠..中台に装飾彫刻が施されている
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福良天満宮 (臼杵)

2016年08月26日 | 寺社巡り-大分

【大分・臼杵市】平安時代の延喜三年(903)、太宰府天満宮から山口県大畠町(現柳井市)付近に勧請され、天正年間(1590年頃)に豊臣秀吉全国征伐の難から逃れ、豊後国海部郡福良荘に勧請されたと伝える。 安土桃山時代末の慶長初期(1600年頃)、浄土宗の高僧円誉上人が臼杵の平清水に龍原寺を、また龍原寺の坊舎として福良村小野路(現在の場所)に称名寺(現在福良天満宮の前身)を開山。 菅原姓大畠氏の二男の第3世善知の時、称名寺に神殿を建てて菅原神を祀った。
江戸時代慶長十三年(1608)、臼杵稲葉藩主二代目典通公が鷹狩した際に愛鷹が行方不明となったため、称名寺に「呼鷹殿」と称す社殿を造営して菅原神に願を掛けた。 明治維新の神仏分離令によって呼鷹殿が天満神社に改称され、昭和時代に福良天満宮と改められ現在に至る。 御祭神は正一位太政大臣菅原道真公。 境内社として瑜伽神社と愛宕神社が鎮座、また、平成十一年に建立された明治初期に活躍した臼杵商人の魂を祀る赤猫社がある。

参道入口の大きな石柱の脇の「福招き 赤猫」の垂れ幕に描かれた赤い猫に迎えられる。 参道を進むと一の鳥居に大き過ぎてバランスが悪そうな額が掲げられている。 石段を上り詰めると三の鳥居が立ち、少し奥の正面に社殿が鎮座している。
拝殿前に狛犬がなく、代わりに「飛龍梅」が両側に植えられていて珍しい。 唐破風の向拝には牛蒡注連縄が張られ、注連縄に紙四手のように垂れ下がるのは払子といったか。
拝殿前の右手には、「赤猫社」の額が掲げられた鮮やかな朱塗りの鳥居が立ち、数本の「赤猫 福まねき」の赤い幟の奥に千木と堅魚木を乗せた朱塗りのお社が鎮座している。 その左隣の覆屋には「福猫たまりの井戸」があり、井戸の周りには赤い猫を模ったたくさんの石や人形が賑やかに置かれている。 招福を願って参拝したが....。

大きな石柱が立つ表参道の入口

一の鳥居の明神鳥居と社号石標..鳥居に大き過ぎる額が掲げられている

三の鳥居の明神鳥居..額束に「天満宮」の額

三の鳥居から眺めた境内の全景
 
拝殿前に狛犬が鎮座しておらず、代わりに両側に「飛龍梅」が植えられている/「飛龍梅」

入母屋造銅板葺の拝殿..獅子口が乗る千鳥破風と向拝の唐破風
 
向拝に張られた牛蒡注連の注連縄..紙四手のように垂れ下がるのは払子かな

社殿の全景..拝殿の周りには擬宝珠勾欄を設けた切目縁を廻らす

幣殿と本殿..本殿の前脇に狛犬と石燈籠が鎮座
 
流造銅板葺の本殿..大棟と千鳥破風に計3個の外削ぎの千木と堅魚木が乗る
 
入母屋造銅板葺で鬼板・蕪懸魚の神楽殿と「茅の輪」     神楽殿
 
明治時代初期に活躍した臼杵商人の魂を祀る赤猫社、傍に「招霊の木」が聳える/切妻造桟瓦葺の覆屋の「福猫たまりの井戸」..29体の赤猫石や招き猫等が祀られている

流造桟瓦葺の愛宕神社(左)と瑜伽神社(右)..愛宕神社は延宝四年(1676)に勧請された
 
愛宕神社は火産霊大神と保食大神を祀る      瑜伽神社は天手力男神と白太夫神を祀る
 
祖霊社                                 天神様の神使の神牛
 
切妻造銅板葺の手水舎                       境内に聳えるご神木の杉

社務所
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日吉神社 (臼杵)

2016年08月20日 | 寺社巡り-大分

【大分・臼杵市】小倉山満月寺の鎮守の杜として創祀されたといわれるが、天正年間(1573~1592)、大友宗麟公の破却により記録などが焼失したため創立などは不詳。
御祭神は大山咋神・大山祇神・菅原神・水分神の四神。 大山咋神は村落の守護神、大山祇神は山林・国土を守護、菅原神は広く学問の神、そして水分神は雨水を分配して五穀豊穣をなす灌漑を司る神。

臼杵磨崖石仏拝観の途中、3体の如来像が鎮座する「山王山石仏」の脇から続く裏参道から日吉神社に向かう。 木造の鳥居をくぐって林の中の参道を上っていくと、丘陵の開けたところの狭い境内に社殿が鎮座。 拝殿脇に大きな覆屋があり、床にシートが被せられているが相撲の土俵と思う。
境内には表参道へと山中へ向かう2基の鳥居が立ち、鳥居をくぐり山中に向かうと木立の中に小さな石祠と強固な石柵で囲まれた石造五輪塔が佇む。 約850年前に造立とされる五輪塔は、表面に削った跡が残り、風輪が大きくて笠(火輪)が小さくバランスが悪そうな造りだ。 地輪がほぼ土中に埋まっている。 この五輪塔は、約850年の間、丘陵から深田の里に暮す人々を見守ってきたのだろう。
「山王山石仏」に戻り、山裾を進んで「古園石仏」に向かうが、途中、日吉神社の表参道の急峻で苔むした狭い石段があり、その前に深田の里を向いて古びた石燈籠と石造明神鳥居が立つ。 額束に破損している石額があり「山王宮」の「宮」の字だけが確認できる。
 
国宝臼杵石仏の山王山石仏近くの参道に立つ木造鳥居(鹿島鳥居か)/裏参道側から眺めた社殿全景

本殿と切妻造桟瓦葺の拝殿で構成される社殿

質素な造りの拝殿の近景
 
拝殿内に「山王宮」の額が掲げられている/本殿前には赤色の狛犬の霊獣が鎮座し神様を守護している

流造銅板葺の本殿の大棟に外削ぎの千木と5個の堅魚木が乗る

本殿の左に3基の石祠が佇む
 
本殿左に佇む3基の石祠..左の1基も祠と思うが珍しい形だ

平成七年(1995)造立の石造明神鳥居越しに眺めた境内..入母屋造りの覆屋がある相撲の土俵(と思う)
 
境内に立つ2基の石造明神鳥居..左は古園石仏側の表参道石段に、右は石造五輪塔に続く/2基の鳥居の傍に社殿を向いて佇む石祠
 
雑木林の中に佇む石造五輪塔..近くの石祠に石仏が鎮座/蓮華座に鎮座する半跏趺坐の石仏..尊名は分からず

石造五輪塔は平安末期から鎌倉初期に造立されたとされる

五輪塔..不安定な形状であり、地輪がほぼ土中に埋もれている(地上に出ている部分の高さは1.05m)
 
空輪の宝珠を請ける風輪が大ぶりの造りで、小さめの笠(火輪)を請ける水輪が楕円形状に彫り出されている

日吉神社の表参道側に立つ古びた石燈籠と石造明神鳥居..鳥居は江戸時代天明五年(1785)の造立
 
苔むした「山王宮」表参道の急峻な狭い石段/額束の石額が破損していて「山王宮」の「宮」の字だけが判読できる
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