何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

佐竹寺-(2) (常陸太田)

2022年04月26日 | 寺社巡り-茨城

【茨城・常陸太田市】戦国時代の天文十二年(1543)、兵火により全山を焼失するが、同十五年(1546)に佐竹氏18代佐竹義昭が居城である佐竹城(太田城)の裏鬼門除けとして現在地に再建した。 安土桃山時代の天正十八年(1590)には六支院と3ヶ坊を要する大寺として隆盛を極めたが、関ヶ原の合戦で反徳川方となった佐竹氏は江戸初期の慶長七年(1602)に出羽に移封されたため、佐竹寺も次第に衰退した。
江戸時代には水戸藩から寺領の寄進など庇護され、坂東三十三観音霊場22番札所だったことと、江戸中期に選定された領内(水戸藩)三十三観音霊場第11番札所だったことなどから広く信仰を集めた。 明治維新の神仏判然令により吹き荒れた廃仏毀釈運動により荒廃し、昭和二十四年(1949)まで無住寺だったが再興された。

●どこまでが「撮影禁止」なのかを確かめたかったが、早朝の訪問だったせいか仁王門傍に建つ寺務所兼納経所はまだ開いていなかった。 開放的な境内なので「10メートル以上離れた所からの撮影なら許されるだろう」と勝手に決めて、拝観しながら撮影を行った。 本堂の周りに板柵が巡らされているが、「撮影禁止」の標識とあいまって、人が近づくのを拒んでいるように思えたのは考え過ぎか。
約480年前の室町時代に建立された「観音堂」と呼ばれる桃山建築様式の本堂は、苔生した小棟造りの茅葺屋根で古色蒼然たる佇まいだ。 しかし、特に屋根の傷みがかなり進んでいて、中央が波打つように歪み、軒先の線が乱れ、隅降棟の茅の一部が剥がれている。 身舎四方に杮葺の裳腰を設けて吹き放しの板縁とし、正面の裳腰に一間の唐破風の向拝があり、しみじみとした味わいを感じさせる。

△銀杏の巨木から散り落ちた黄色い葉の絨毯から眺めた本堂(観音堂という)

△境内のほぼ中央に枝を広げて聳え立つ銀杏の古木....周囲に散り落ちた黄色い葉が鮮やかな絨毯のようだ

△寄棟造茅葺で杮葺の裳腰を設けた本堂(重文)....室町時代の天文十五年(1546)、佐竹義昭による再建

△豪壮な構えだが荘厳な佇まいの本堂(観音堂).....桃山時代建築物の先駆といえる遺構を残している

△苔生した屋根は傷みが進んでいるようで、中央が波打つように歪んで軒先の線が乱れ、右側の隅降棟の上部の茅が一部剥がれている

△桁行五間梁間五間で、身舎四方に杮葺の裳腰を設けて吹き放しの板縁、正面の裳腰中央に一間の杮葺唐破風の向拝

●本堂に近づいて驚いた。 正面の至る所に貼られた千社札だ。 最初は何かの模様か意匠かなと思ったが、よく見ると、身舎の壁、柱、貫、窓そして向拝天井、虹梁など所狭しと張られているのだ。 また、趣のある桟唐戸に「撮影禁止」の標識が貼られているが、どちらも趣のある古建築の風情を大きく損ねていて残念だった。 いままで多くの国宝や国指定重要文化財の建造物を拝観してきたが、多くは堂内の撮影禁止はあっても外観はOKなので、本堂の「撮影禁止」には失望した。 確か、鎌倉の某寺では本堂どころか境内さえ撮影禁止だったと記憶してはいるが....。
帰宅後、ネットで「佐竹寺」について調べたら、理由は分からないが2018年~2019年の間に「撮影禁止」となったようだ。 茅葺屋根の本堂は今年(令和四年)改修が行われるそうだが、萎びた風情を色濃く残す改修前の本堂の姿が見られてラッキーだった。

△境内参道から望遠で撮影した裳腰に設けられた裳腰の唐破風....身舎正面の中央間三間は桟唐戸、両側に花頭窓....中央の桟唐戸は連子と格子入り、その両脇は連子入り(所狭しと千社札が貼られている)

△軒廻りは一軒疎垂木、組物は出組で中備は台輪の上に蓑束....四方の杮葺裳腰は吹き放しの造り

△境内の紅葉が本堂の荘厳さを引き立てている

.△放生地越しに眺めた苔生した茅葺小棟屋根の本堂

△本堂は傷みが激しいため、今年(令和四年)に改修が行われるようだ

△仁王門の傍に建つ切妻造桟瓦葺の寺務所兼納経所....帰路に就く間際に人影が見えた

△社務所の左側の源氏塀(と思う)の奥に建つ切妻造桟瓦葺の庫裡

△庫裡前から眺めた源氏塀、寺務所(納経所)そして仁王門

△門前の駐車場から眺めた庫裡....切妻造銅板葺で起り屋根の棟門を設けた源氏塀に囲まれている
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佐竹寺-(1) (常陸太田)

2022年04月20日 | 寺社巡り-茨城

【茨城・常陸太田市】平安時代の寛和元年(985)、花山天皇(第65代)の勅願で、天皇が護持していた聖徳太子作の十一面観音像を与えられた元密上人が開山したとされる。 創建当時は観音寺と呼ばれ、現在地より西北西に約700メートル離れた鶴ヶ池の北に位置する洞崎の観音山に建てられた。
元密上人は、花山天皇の板東巡礼に随行した一行八人の中の一人。平安時代の保延六年(1140)、観賢上人に帰依した初代佐竹昌義(鎌倉幕府第2代将軍源頼家の子源義光の孫)が佐竹寺を代々の祈願所と定め、寺領300貫を寄進するなど庇護した。 宗旨は真言宗(豊山派)で、本尊は十一面観音菩薩像。 坂東三十三観音霊場二十二番札所。

●11月後半の早朝、JR常陸太田駅からタクシーで佐竹寺に向かうと、7~8分ほどで県道61号線に沿って建つ佐竹寺の門前に着く。 朝陽を燦燦と浴びている仁王門が建ち、仁王門を通して本堂向拝が小さく見える。 門前に上部に佐竹氏の家紋を入れ「坂東廿二番霊場 佐竹寺」と彫られた寺号標石が立ち、傍に明治~昭和期に造立された4基の馬頭観音石仏が鎮座している。
仁王門は古びた感じのする丹塗の身舎に新しい桟瓦葺屋根を乗せたようで、少々違和感がある。 門の左右に仏法を護る現代風の像容の仁王像が鎮座している。 後日、ネットで調べたら、平成期に修復されたとのことだが、修復前の像容とは大きく違っていて驚いた。 仁王門の上層に山号「妙福山」の扁額と佐竹氏の家紋「日の丸扇」が掲げられている。

△左側を走る県道61号線に沿って、鬼門の北東を向いて建つ仁王門と奥に本堂

△仁王門前に立つ佐竹氏の家紋を入れた大正四年(1915)造立の寺号標石と傍に鎮座する馬頭観音石仏が鎮座/寺号標石の上部に佐竹氏の家紋「日の丸扇」を入れ、「坂東廿二番霊場 佐竹寺」の刻

寺号標石の傍に鎮座する自然石を用いた大小4基の馬頭観音石仏

△左側の2基の馬頭観音石仏....後方は造立年不詳、手前は昭和十八年(1943)の造立/右側の2基の馬頭観音石仏....後方は明治三十六年(1903)の造立で「馬力神」の陰刻、手前は大正十一年(1922)の造立

△入母屋造桟瓦葺の仁王門(楼門)....江戸時代宝永五年(1708)の創建で、昭和十五年(1940)に再建された

△軒廻りは一軒疎垂木、組物は柱上の台輪に舟肘木が乗る、中備なし....下層左右の金剛柵の中に阿形吽形の仁王像が鎮座

△仁王像は宝永五年(1708)の造立だが、平成二十八年(2016)に修復されたようだ....修復前後の像容はかなり違う気がする

△修復前の仁王像(NETから拝借)....修復後とは頭部や体型など像容がかなり違うようだが….

△上層中央に「妙福山」の扁額と佐竹氏の家紋「日の丸扇」(金色の地)の扇が掲げられている/柱頂部に禅宗様式の粽が施されている

△大棟端に佐竹氏の家紋を入れた獅子口、拝は破損しているが蕪懸魚(と思う)、妻飾は目の粗い狐格子/上層周囲に擬宝珠高欄付き切目縁

△仁王門の背面に置かれた獅子口....「昭和壱拾五年 仁王門再建時の鬼瓦」とあるが、佐竹氏の家紋を入れた獅子口

●家紋を入れた暖簾が下がる仁王門をくぐって本堂に進むと、境内のほぼ中央に銀杏の古木が聳え、その周りに散り落ちた黄色い葉がまるで絨毯を敷いたようだ。
本堂に近づいて驚いた。 何と、堂前の柵と身舎の桟唐戸に「撮影禁止」の標識が貼られているのだ。 本堂を拝観する前に、まずは、本堂前の境内に鎮座する巡拝塔などを先に拝観した。

△佐竹氏の家紋を入れた暖簾が下がる仁王門を通して眺めた境内....本堂と手前に手水舎

△寄棟造茅葺の本堂を囲む板柵と身舎の桟唐戸に「撮影禁止」の標識が掲げられている

△境内参道脇に建つて簡素な手水舎....境内に石碑、石仏、稲荷神社などが鎮座している

△切妻造銅板葺の水屋(手水舎)....新型コロナが終息するまで水屋の使用中止とある/手水鉢は文政三年(1820)の造立

△本堂脇に鎮座する境内社の稲荷神社....切妻造桟瓦葺の覆屋の中に社殿がある

△紅葉のある参道に神明鳥居を構えた稲荷神社....左側に県道61号線が走っている/扉の連子窓から覗いた流造杮葺の稲荷神社社殿....多くの神使の狐に護られている

△境内に鎮座する浮彫りの布袋尊像....七福神の中で唯一中国で実在した僧侶また後世布袋尊は弥勒菩薩の化身といわれるようになった

△境内に鎮座する巡拝塔の六十六部供養塔....刻字の摩滅が激しいが「大乗妙典」「六十六部」など、そして宝暦の年号が確認できる

△いずれの巡拝塔も摩滅が激しく造立年が分からない/宝暦の造立とみられる巡拝塔
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菩提禅寺 (湖南)

2022年04月14日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・湖南市】江戸時代の享保八年(1723)、黄檗宗の宗祖隠元の法孫である寂門道律を開基として建立された「正禅庵」が始まりとされる。 「正禅庵」は蒲生郡日野の商家島崎家の先祖光岳と当地の伊地知氏・真野氏が建てた精舎。
聖徳太子創建と伝えられる近江正明寺に住していた寂門道律禅師は、江戸時代前期に戒律復興運動を推進した黄檗宗の律僧・妙幢浄慧が依止した律僧で、龍渓性潜の高弟。
正禅庵はもとは歴代天皇の祈願所であった大般若院少菩提寺の阿弥陀堂だったが、室町時代元亀元年(1570)の兵火ですべて灰燼と化した。 江戸時代に再興されて後水尾天皇(第108代)の勅願寺となり、江戸時代享保八年(1723)に黄檗宗となって黄檗禅の中本山の寺格を備えた。 昭和元年(1926)に寺号が菩提禅寺に改称された。 宗旨は黄檗宗で、本尊は平安時代作とされる木造阿弥陀如来立像。  <2020年6月9日投稿の「菩提寺」(削除済み)の改訂版>
なお、大般若院少菩提寺は奈良時代天平三年(731)に創建された興福寺の別院で、最盛期に七堂伽藍と37坊を擁する大寺院だったが、7元亀元年(150)、織田軍と武家・六角氏の戦渦に巻き込まれて全山を焼失、以後、復興されず廃寺となった。

●石部駅で借りたレンタサイクルで野洲川に架かる石部大橋を渡り、県道27号線の野洲甲西線を東に進んで菩提禅寺に向かう。
菩提寺集落の道に入り、山側に上っていくと石段の参道の入り口に菩提禅寺の寺号標石が立つ。 石段の上の植栽の上に本堂の屋根と石塔の上層が見える。 S字状に曲がった石階を上りつめると正面に庫裡が建ち、砂利が敷き詰められた境内の左手の奥の基壇の上に本堂が鎮座。
中央間の腰高格子戸の前の切目縁に、「脚下照顧」と浮彫りされた駒形木札が置かれていて禅宗寺院らしい。

△「黄檗宗 圓満山菩提禅寺」と彫られた寺号標石が立つ参道入り口から山岳寺院のような石の階が続いている

石階下から眺めると、繁った植栽の上に石塔の上層部が頭を出している/S字状に曲がった石段参道を上ると正面に庫裡が建つ

△山腹の境内には砂利が敷き詰められ、石段から本堂に向かって切石敷の参道が延びている....右手の建物は庫裏

△入母屋造桟瓦葺の本堂....基壇の上に建ち、周囲に高欄のない切目縁を巡らす

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は柱上に舟肘木があるだけ

△大棟端に鯱、中央に露盤宝珠を配している....正面三間は全て引き戸式の腰高格子戸

△長押の上は白壁の小壁....中央間に「菩提禅寺」の扁額が掲げられている/基壇上に建つが床下に亀腹を設けている

△大棟端に鳥衾付鬼板、拝に猪目懸魚、妻飾は虹梁大瓶束

△本堂正面の縁に置かれた「脚下照顧」の駒形木札/「脚下照顧」とは禅家の語で、自分の足元をよく見よという意

△向拝の両側に設けられた石造り天水桶....向拝軒先から吊り下がる円柱の樋を通して雨水を受ける/境内の隅に置かれた唐獅子瓦....邪気や邪鬼を祓い除けや火除けの縁起物で屋根に乗せる

●本堂に向かって左手前に、室町後期に造立された地藏菩薩石像が低い基壇上に鎮座。 輪郭を巻いた舟形光背に半肉彫りされたこの石像は、廃寺となった大寺院・大般若院少菩提寺の遺仏とされ、まさに、少菩提寺の栄枯盛衰の歴史をしっかりと目に焼き付けてきた石仏だ。
地藏菩薩石像の前にある基壇の上に、野洲川の川向の石部の町並みを遠望するように江戸時代享保八年に造立の三重石塔が立つ。 相輪を乗せた三重石塔の初層軸部の輪郭を巻いた中に「法華塔」と彫られている。 この塔は建立時は山頂に聳えていて、信仰厚く多くの人々が参拝したらしいが、いまは参拝する人はないとのこと.…合掌。

△本堂前に野洲川や石部の町並みを遠望するように石塔や石仏などの石造物が並んでいる

△基壇上に鎮座する室町時代永正十六年(1519)造立の地蔵石仏....少菩提寺の遺品(伝)で、像高114cm

△輪郭を巻いた舟形光背に半肉彫りされた地蔵菩薩像....像右に「三界万霊 法界衆生」の刻/軒付舟形の龕部に二仏が浮き彫り

△銀杏の根元の基壇上に鎮座する墓碑の石造物群....中央付近に頭部をもぎ取られた坐像を乗せた墓碑がある

△3基あるうちの2つの五輪塔だが、右側は五輪塔の上に別の五輪塔の火輪から上を積み重ねたようだ/左は頭部のない坐像を乗せた墓碑、右は2つの五輪塔が浮き彫りされた屋根付き墓碑

△地蔵菩薩造の前に佇む三重石塔....享保八年(1723)の造立で、建立時は山頂に聳えていたのを境内に移転

△相輪を乗せた三重石塔....初層軸部に輪郭を巻いた中に「法華塔」の刻

△境内から眺めた野洲川の向こう岸側の湖南市石部の町並み

△二重円光の光背を背負い、赤い前垂れをした地蔵尊立像/地蔵石仏の傍に置かれた一石造り(と思う)の五輪塔

△入母屋造桟瓦葺で裳腰付の庫裡

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宇佐八幡宮-(2) (大津)

2022年04月07日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・大津市】此の地(錦織荘)の山腹に宇佐八幡宮が鎮座したことで、この山を宇佐山と呼ぶようになったとされる。 鎮座して以来、宇佐八幡宮は土地の産土神として崇拝され、子供の守神「むし八幡」として親しまれてきた。
宇佐山は戦国時代、織田信長の近江攻略のための前線基地のような地だった。 境内の御由緒碑によると、織田信長が宇佐山の山頂に宇佐山城を築城したが、戦乱の中で落城し、その戦火により社殿が悉く焼失したとあり、荘厳な往時の様子はいまに語り継がれているとある。
宇佐山の麓には天智天皇を祭神として皇紀2600年を記念して昭和十五年(1940)に創祀された近江神宮が鎮座しているが、歴史と由緒ある宇佐八幡宮はそこから僅か数百メートルしか離れていない樹林の山中に鎮座しているにもかかわらず、近江神宮に比べて参詣者が少ない。

●左三つ巴紋を入れた暖簾が張られた神門をくぐると、掃き清められた境内に厳かな空気が流れる。 神門の左右に壁に菱狭間窓を入れた小さな回廊があり、神門から本殿へも長押の上の小壁に額が掲げられた廊が延びている。 廊は本殿の庇と繋がっていて、本殿の傍らにはずんぐり体型だが精悍な姿の阿形・吽形の狛犬が鎮座。
本殿は一間社流造で、向拝を隠すように「対い鳩紋」を入れた鮮やかな紫色の神幕が張られ、軒下に4基の金色の釣燈籠が吊り下げられている。

△左三つ巴の紋を入れた暖簾が張られている神門を通して眺めた本殿

△神門(中門)の左右に延びる菱狭間窓を入れた切妻造銅板葺の回廊

△神門と本殿が屋根付き廊で繋がり、廊の先に鈴が下がり賽銭箱が置かれている

△長押の上に様々な額が掲げられた廊の本殿近くの左右に狛犬が鎮座、本殿の左右の境内に各2社の境内社が鎮座している

△魔よけの力があるとされる阿形・吽形の狛犬

△長押の上は白壁の小壁で丸桁を支える舟肘木....屋根付き廊が本殿と繋がり、左右に石燈籠と狛犬が鎮座

△流造銅板葺の本殿(一間社流造)....全ての柱が土台の上に立ち、正面左右に組高欄付縁、側面縁奥に板張りの脇障子

△白い「対い鳩紋」を入れた紫色の神幕が張られた本殿....左右の軒に釣燈籠が下がる

△本殿前の賽銭箱の上に下がる紅白の紐と大きな鈴/本殿の正面は菱格子扉

●本殿の左右の縁下に、沢山の青い土鳩がびっしりと雛壇状に並んでいる。 調べたら、八幡様の神使である鳩は、子供の健やかな成長を祈る土鳩信仰によって奉納されたものとのこと。 広くない境内には、本殿の左右にそれぞれ二社の境内社が石を積んだ基壇の上に鎮座している。
境内の隅に、約960年前に源頼義が創設した宇佐八幡宮の柱石の一部が置かれている。 神門付近で発掘されたそうだが、礎石の表面が焼け爛れているので、宇佐山城の戦火で八幡宮も焼失したことを裏付けているようだ。
険しい参道を下り、麓の住宅地に延びる参道を進むと宇佐八幡宮の遥拝所がある。 遥拝所で参拝しながら、宇佐山の麓に鎮座する昭和十五年(1940)に創祀された近江神宮に比べて宇佐八幡宮への参詣者が少ない理由が分かった気がした。 体力に自信のない参詣者がこの遥拝所で参拝を済ませてしまうためだろう….と。

△本殿左右の回縁下に雛壇のように並ぶ奉納された沢山の青い土鳩....鳩は八幡様の神使で、子供の健やかな成長を祈る土鳩信仰による

△本殿向かって右側に鎮座する二社の境内社

△右側二社の左が若宮八幡宮、右は丹後宮....いずれも流造銅板葺

△本殿向かって左側に鎮座する二社の境内社

△左側二社の左が蛭子社、右が高良社(稲荷社)....いずれも流造銅板葺

△蛭子社と高良社の前に立つ寛政四年(1792)造立の石燈籠....丸と三日月のある火袋が木製格子で覆われている(と思う)/蛭子社(左)と高良社(右)

△寛政九年(1797)造立の石燈籠....火袋の窓に格子を入れている/昭和五十四年(1979)造立の木製の家形据燈籠

△境内の隅に置かれている礎石....平安時代治暦元年(1065)に源頼義が宇佐八幡宮を創設した当時の柱石の一部で、明治期に中門付近の地中から出土/礎石表面が焼け爛れている....山頂に築かれた宇佐山城が戦火に遭った際、八幡宮も焼失したことを裏付ける遺構(伝)

△入母屋造銅板葺の宇佐八幡宮の遥拝所....住宅地の参道脇に建つ

△遥拝所の大棟端に獅子口、拝に蕪懸魚、妻飾は狐格子

△遥拝所の境内に鎮座する切妻造桟瓦葺の祠と左に流造銅板葺の祠....右は奉燈と刻まれているので石燈籠の異形のようだ

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宇佐八幡宮-(1) (大津)

2022年04月01日 | 寺社巡り-滋賀

【滋賀・大津市】平安時代中期の治暦元年(1065)、「前九年の役」で安倍氏を討って平定した鎮守府将軍源頼義(頼朝の五代前)が、豊前国(現在の大分県宇佐市)宇佐神宮を鳩の群れが導き示した此の地(錦織荘)に祠宇を建て、勧請して創建した。 頼義は前九年の役の功績により康平六年(1063)に正四位下伊予守に任じられ、治暦元年(1065)に出家し信海入道と号した。
「前九年の役」とは、永承六年(1051)~康平五年(1062)にかけて、陸奥の豪族安倍頼時とその子らが起こした反乱。 境内には天智天皇の病気を治したとされる「金殿井」と呼ばれる霊泉がある。 ご祭神は八幡大神(応神天皇)。

●近江神宮から直線で約700メートルの距離に鎮座する宇佐八幡宮に向かう。 川沿いの道を進むと山麓の参道入口の傍に、青紫の花が満開のジャカランダの大樹が聳え、鬱蒼とした枝葉を大きく広げて参道を覆い、薄暗い大樹の下に隠れるように社号標石が立つ。
坂道の参道を上っていくと石造りの明神鳥居が立ち、そこから右脇に石燈籠が整然と立ち並ぶ参道が鬱蒼とした樹林の中に吸い込まれるように続いている。 樹林の中の参道を暫らく上っていくと、参道脇に朱塗りの瑞垣に囲まれて「御足形」が鎮座するが、岩面に沓形があって御神示の跡だそうだ。
さらに上ると参道の右脇に小さな棟門が建ち、棟門の少し先に天智天皇の病気を治したという霊泉である「金殿井」がある。 棟門をくぐり、覆屋で護られた「金殿井」に。 中を覗くと、格子の中に周りが石で固められた湧泉がある。 棟門と「金殿井」から砂利を敷いた狭い参道が奥に続いているが、この参道が本来の表参道なのだろうと思う。

△参道入口に立つ社号標石と傾斜地に聳える青紫の花が咲き乱れるジャカランダ

△参道途中に建つ石造り明神鳥居....額束に「宇佐八幡神社」の額

△参道脇に朱塗りの瑞垣に囲まれて鎮座する「御足形」....岩面の沓形は御神示の跡と伝えられる....鹿島鳥居風の鳥居を構えている

△参道脇に一定の間隔で立ち並ぶ石燈籠....奥に霊泉「金殿井」への門が見える

△天智天皇の病気を治した霊泉「金殿井」への参道に建つ瑞垣の袖塀を備えた切妻造銅板葺の棟門(だったと思う)

△乱積の石垣の上に建つ覆屋....「金殿井」の額が掲げられている/切妻造桟瓦葺の覆屋に護られている霊泉の「金殿井」

△格子の中が霊泉の「金殿井」         周りが石で固められた霊泉

●砂利の参道を進むと、木立に囲まれて朱塗りの二基の明神鳥居と四基の木製家型据燈籠を構えた豊平稲荷社が鎮座。 ごつごつとした十数段の石段を上ると、乱積基壇の上に建つ瑞垣に囲まれた覆屋があり、その中に二重に積み重ねた巨石の上に社殿が建つ。
参道の奥に着き社殿境内への石階を見上げると、木々の間に神楽殿が見える。 石階を上りつめると、深い樹林に囲まれた静謐な境内が広がり、手入れが行き届いていて気持ちがいい。 目前に建つ神楽殿を通して中門と呼ばれる神門と両側の菱狭間窓を入れた回廊が見える。 唐破風を設けた神門に「宇佐八幡宮」の扁額が掲げられ、門柱の左右に「宇佐八幡宮」の文字を入れた提灯が下がっている。 提灯の正面から見えない位置に、彩色された向かい合う2羽の鳩が描かれている。 鳩は八幡神(八幡宮)の神使で、調べたら「対い鳩紋」といい、向かい合う2羽の鳩が「八幡神の”八”」を表すそうで、鎌倉鶴岡八幡宮の扁額「八幡宮」の”八”の絵文字を思い出した。

△参道脇に鎮座する豊平稲荷社....社殿前の石階のに二基の朱塗りの明神鳥居と四基の木製家型据燈籠を構える

△乱積の基壇の上に鎮座する豊平稲荷社

△切妻造桟瓦葺の覆屋に,二段重ねの巨石の台座上に鎮座する豊平稲荷の社殿/流造板葺の社殿

△参道から眺めた石段上の神楽殿

△両側に笠の形が微妙に異なる4基の石燈籠が立つ石段....社殿境内の入り口に建つ神楽殿

△神楽殿奥の鬱蒼とした樹林から、社殿が深い山中に建っていることが分かる

△入母屋造銅板葺の神楽殿....大棟端に獅子口が乗る....境内は手入れが行き届いている

△神楽殿の軒廻りは二軒疎垂木、拝は蕪懸魚、妻飾は狐格子

△神楽殿左手に建つ手水舎と左奥に切妻造桟瓦葺の社務所

△切妻造桟瓦葺の手水舎            口は口から清水を吐き出す3本爪の龍

△神楽殿の天井は格天井....神楽殿を通して眺めた神門と左右に延びる回廊

△社務所前から神楽殿越しに眺めた神門

△切妻造銅板葺の神門(中門)と壁に菱狭間窓を入れた銅板葺の回廊

△門柱の両側に下がる「宇佐八幡宮」を入れた提灯....正面から見えない位置に向かい合う2羽鳩が描かれている....鳩は八幡神(八幡宮)の神使/彩色された「対い鳩紋」....2羽の鳩は「八幡神の”八”」を表す.....御神紋は「三ツ巴水紋」

△唐破風を設けた神門...「宇佐八幡宮」の扁額、入り口に左三つ巴の紋を入れた暖簾が張られている


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