何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

楽法寺-(2) (桜川)

2022年10月26日 | 寺社巡り-茨城

【茨城・桜川市】奈良時代の天平二年(730)、第45代聖武天皇と光明皇后が法華経を書写・奉納して安産を祈念したところ効験があったので、安産祈願の根本道場と定めて勅願寺とし、三重塔を建立した。 その後、弘法大師空海によって真言宗の道場となった。 楽法寺は坂東三十三カ所観音霊場第24番札所及び東国花の寺百ヶ寺茨城6番札所で、雨引観音とも称される。

●仁王門の後方の裏参道と交わる処に手水舎が建つ。 そこから更に石垣上の堂宇境内への石段があり、上り口に太い竿の重厚な石燈籠が立つ。 石段を上りつめると直ぐ前に本堂の観音堂が建ち、賽銭箱が置かれている向拝の垂木に3つの鰐口と2つの鈴が吊り下げられている。
観音堂の外観を見ると、鮮やかに彩色され彫刻があちこちに配されている。 堂内の彫刻を含め全て江戸中期の仏師・人無関堂円哲が刻んだものとのことで、特に全ての垂木の先端に施された龍頭そして中備の蟇股の脚間に配された彫刻が目を引いた。

.△仁王門の後方に建つ手水舎....右手奥は裏参道

△切妻造銅板葺の手水舎....手水鉢は宝暦十二年(1762)の造立

△手水舎の手水鉢の水口は3つ爪の龍像/仁王門から石垣の上の堂塔境内への石段....上り口の両脇に立つ重厚な石燈籠は享保十八年(1733)の造立

石段から眺めた観音堂(本堂)

△入母屋造行基瓦葺の観音堂(本堂)....天和二年(1682)第十七世文昭による再建(現存)....創建や当初の本堂については不詳で、本尊・延命観音を安置

△常香炉越しに眺めた観音堂....五間四方で正面二軒が中央間、両脇間は格子窓と彫刻

△垂木から吊り下がる3つの鰐口と2つの鈴....水引虹梁を支える持送りは花の装飾彫刻、水引虹梁の上の彫刻は失念

△中央間に両折両開の桟唐戸、二間の脇間には蔀戸(と思う)と装飾彫刻....向拝桁端に猪ノ目懸魚

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は三手目が彩色龍頭を施した尾垂木の三手先、中備は脚間に故事に因んだ彩色彫刻を配した蟇股....軒天井と蛇腹支輪がある

△大棟端に獅子口、拝に蕪懸魚、妻飾は混成複合式....破風に金色の飾り金具を配している

△彩色された牡丹彫刻を施した手挟、彩色された木鼻は獅子(と思う)/全ての尾垂木の先端に彩色された龍頭を施している

△観音堂左右...左側には仏陀、右側には閻魔大王が彫られている(極楽と地獄を描いたレリーフ風)....観音堂の中にも彫刻が配され、堂内外の彫刻はいずれも江戸中期の仏師・人無関堂円哲の手によるもの

△側面には彫刻と舞良戸風の引き戸を設けている

●観音堂の左隣に宝形造りの御堂、その左隣に多宝塔が燦燦と陽を浴びで建ち並んでいる。 宝形造りの御堂は、境内図に描かれているものの何故か堂名の表記がない。 祈祷を受ける方々がさかんに出入りしていたので控えの建物と思うのだが....なお、Googleの地図には「阿弥陀堂」と記されている。
多宝塔は堂々たる佇まいで優雅さを感じさせる。 現在の多宝塔は江戸後期の再建だが、元々ここには鎌倉時代建立の三重塔が建っていたとのこと。 三重塔を再建する予定だったものが何故多宝塔に変わったのか調べたが....。

△観音堂から眺めた高さ22メートルの多宝塔

△観音堂と多宝塔との間に建つ宝形造りの御堂(子授観音を祀っているようだが)....境内図に描かれているが堂名の表記がない

△祈祷を受けると思われる人たちが出入りしていたので控えのための建物か....Google地図では阿弥陀堂と記されている

△多宝塔前に鎮座する聖徳明福知観世音菩薩像....昭和四十七年(1968)の造立

△印起を記した石碑には、50余年に亘って警防&消防に尽力された方の造建で「明治百年の佳き日」と刻まれている

△燦燦と陽を浴びる南面で建つ堂宇....観音堂(本堂)、客殿(と思う)、擬宝珠高欄付き回縁を設けた多宝塔

△銅板瓦葺の多宝塔....創建時は三重塔だったが、江戸時代嘉永六年(1853)に24世元盛が多宝塔として再建....塔内に四天柱・来迎壁があり、弥壇に金剛界五仏・大師像等を安置

△軒廻りは上層が二軒扇垂木、下層(裳腰)は二軒繁垂木....下層屋根上に白漆喰の亀腹

△上層の組物は三手目が尾垂木の三手先....回縁を支える腰組は出組

△下層の組物は上層と同じで、三手目が尾垂木の三手先....軒に小組格天井を張り、支輪位置に支輪ではなく彫刻が施されている

△下層中央間の貫上の中備は蟇股風彫刻....中央間は格狭間を入れた桟唐戸、脇間は連子子幅が広い腰高連子窓

△多宝塔は鎌倉時代の建長六年(1254)に将軍宗尊親王により建立された三重塔に始まる/その後大破し、第14世堯長による再建が始まったが住職の逝去や災などで二重の塔までしか完成せず、第15世堯宗が江戸時代の天和三年(1683)に落慶させた






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楽法寺-(1) (桜川)

2022年10月20日 | 寺社巡り-茨城

【茨城・桜川市】寺伝によると、聖徳太子の父の用明天皇(記紀で第31代)の御代の用明天皇二年(587)、中国(梁)から帰化した法輪独守居士によって雨引山に開創されたとされる古刹。 以後、推古天皇(第33代)、聖武天皇(第45代)、嵯峨天皇(第52代)の三天皇の尊崇を受けた。 推古天皇は、本尊仏の観世音菩薩に自身の病気平癒を祈願して治癒したことから、楽法寺を勅願寺と定めた。
宗旨は真言宗(豊山派)で、本尊は観音菩薩((寺伝)延命観世音菩薩)。 厄除延命安産子育の霊験あらたかな秘仏の観世音菩薩は一木造りで、平安時代弘仁期(810~824)作とされる。

●旧城門だった黒塗りの黒門をくぐり、「磴道」と呼ばれる145段の大石段を上って行くと、右手に華麗な袴腰の鐘楼堂が現れる。 三手先の組物や腰組、下見板張の羽目など趣のある鐘楼だ。 仁王門手前の石段の左手の木立の中に地蔵堂がひっそりと建つが、荘厳な仁王門に目を奪われて素通りする参詣者が多いようだ。 後で知ったのだが、大石段は「厄除けの階段」と呼ばれていて、一段一段「南無観世音菩薩」を唱えながら上りつめた時に厄が落ちるのだそうだ…が失念した。

△山道に面して表参道の入り口に建つ黒門

△門前に立つ「雨引山楽法寺」と彫られた寺号標石/門前の山道脇に佇む石燈籠

△切妻造本瓦葺の黒門....安土桃山時代の建立で、平安末期にここから南6kmの位置に築城された旧真壁城の大手門(関ヶ原の戦(1600)以前の真壁城の城門)を移築(伝)

△拝の蕪懸魚、梁上の蟇股、木鼻などに胡粉を塗っている

△石段側から眺めた薬医門の黒門/薬医門から仁王門まで続く石段は「磴道」といい145段ある....文政四年(1821)から1年2か月の歳月を費やして造営....「厄除けの石段」といわれる

△磴道から眺めた右手の袴腰を設けた鐘楼堂

△入母屋造桟瓦葺の袴腰鐘楼堂....鎌倉時代建長六年(1254)の創建で、江戸時代の天和二年(1682)の再建....現在の鐘楼は文政十三年(1830)第24世元盛による再建

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手先、軒天井があり支輪の位置に波のような彫刻を施している

△基壇上に建つ鐘楼堂の袴腰は下見板張の羽目板/袴腰上の回縁は組高欄を設けた切目縁、腰組は出組(と思う)

△鐘楼堂越しに眺めた仁王門....仁王門は磴道を上りつめた所に建つ

△磴道を上りつめる少し手間から眺めた堂宇....左手の石柱が建ち並ぶ敷地に地蔵堂が鎮座

●地蔵堂の中央間と脇障子とに、故事に因むとみられる透かし彫りの彫刻が施されていて興味を引いた。 左側の脇障子には鹿を従えた寿老人とみられる老人、右側には寿老人と同体とされる福禄寿らしき老人が彫られている。
大石段を上りつめると朱塗りの仁王門が建つ。 両側に仏敵の侵入を防ぐ仁王像が鋭い眼光で鎮座し、力強い筋肉美を見せつけがら参詣者を迎えている。 仁王門は組物や斗きょうなど全てに彩色が施され、また周囲の頭貫の上には鮮やかに彩色された鳥や花などの彫刻が配されていて壮麗だ。

△宝形造桟瓦葺の地蔵堂....鎌倉時代の建長六年(1254)、鎌倉幕府第6代将軍宗尊親王による創建....現在の御堂は文政十三年(1830)の再々建....本尊地蔵菩薩(子安地蔵)は江戸時代正徳五年(1715)、仏師無関堂円哲の作

△三間四方で、正面三間の中央間は小さな覗き窓を設けた腰高格子戸、脇間は板張りの小脇羽目....中央間の梁の上に浮彫りの彫刻がある

△中央間の唐草文様を入れた梁上の浮彫彫刻は故事に由来するものと思う

△軒廻りは一軒繁垂木、丸桁を支える組物は虹梁鼻がある平三斗....正面中央に1つ、側面に2つの詰組を配す

△側縁の奥にある脇障子....左側の透かし彫りの彫刻は長寿と自然との調和のシンボルである鹿を従えている中国神仙の寿老人(と思う)/右側は堂内を覗く姿の福禄寿(と思う)....福禄寿は寿老人と同体とされる

△側面に引き戸式の板扉....正面と側面に切目縁

△磴道を上りつめた参道に建つ上層に高欄を巡らした楼門形式の仁王門

△入母屋造本瓦葺の仁王門....創建は鎌倉時代建長六年(1254)宗尊親王による創建で、江戸初期の寛永五年(1628)に14世堯長による再建

△軒廻りは二軒繁垂木、組物は三手目を尾垂木とした三手先....蛇腹支輪と軒天井がある

△上層は中央間に格狭間を入れた桟唐戸と左右に連子窓....下層の頭貫の上の彩色された鳥類の彫刻装飾は宝永元年(1704)作

△上層に「雨引山」の扁額....中央通路に天井画、極彩色に装飾された梁、そして柱に白象の木鼻/上層の組高欄付き回縁は切目縁で、支える腰組は三手先....礎盤の上に立つ柱は全て丸柱で、柱脚部に粽を施している

△仁王門の左右に鎮座する金剛力士像(仁王像)....鎌倉時代の仏師康慶の作、平成三十年度から修理が行われた/像内から見つかった修理銘札から、約500年前の永正年間(1510年代頃)に修理が行われた

.△中央通路の鏡天井に画かれた「竜と天女の絵」(徳善書の署名あり)

△仁王門の脇には城壁を思わせる乱積の巨大な石垣がそびえ、上に堂宇が建つ....石垣は高さ13m、横幅約70m
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万里の長城(八達嶺) (中国)

2022年10月14日 | 史跡探訪-中国編

【中国・北京市】現在の「万里の長城」は中国統一を果たした秦の始皇帝による建造で、匈奴(モンゴルを中心に活躍した遊牧騎馬民族)の侵略から領土を守るため、紀元前214年から建造を始めた。 現存する万里の長城の総延長は約7,300キロメートルで、西は嘉峪関の砂漠から東は渤海まで続いている。 「万里の長城」の中で、八達嶺長城は、北京市から約75km離れた北西部延慶区にある関所・「居庸関」の北に位置し、現在の遺構は明代に建設(改修)された。 八達嶺長城の全長は約3,700メ-トルで、高さは平均で7.8メートル、上面の幅は約5.8メートル、底面・側面(壁面)・上面は煉瓦造りで、内部は突き固めた土とのこと。 また、土台部分は重さ500kgの巨大な花崗岩で築かれているようだ。                            長城の頂面の両側に煉瓦積みの欄干が設けられているが、外側の欄干は匈奴からの防護のため内側よりも高くなっていて、さらに一定間隔で射撃や監視のための切込みが入っている。 北京に近い八達嶺長城は、首都防衛と同時に王朝の威厳を示す目的もあって特に堅牢に造られているらしい。

●八達嶺長城の登城口の入り口に、「国家重点風景名勝区」と大きな自然石に「八達嶺」と刻まれた標石がある。 登城口前からは稜線を這う龍の背のようにみえる長城が遠望でき、長城途中に設けられた幾つかの望楼が見える。                              登城口から南側の稜線に延びる長城を「男坂」、北側の稜線に延びる長城は「女坂」と呼ばれ、比較的緩やかな勾配の「女坂」を散策(南側の「男坂」は勾配が急らしい)。 長城の途中には「敵台」と呼ばれる望楼があり、登城口から「女坂」には北一楼、北二楼....と続く。

△バスの車窓から眺めた八達嶺の北側の万里の長城

△八達嶺長城の登城口前に設けられた「国家重点風景名勝区」と大きな自然石に「八達嶺」と刻まれた標石

△城楼の「居庸関」は古代の関所で、明代の弘治十八年(1505)の建造

△登城口前から眺めた女坂

△登城口の前の広場から眺めた女坂と呼ばれる長城

△登城口の上から望む八達嶺長城の女坂の楼閣....手前から北一楼~北四楼の楼(敵台)が続く

△手前から北一楼から北四楼....その奥にさらに幾つかの楼がみえる

●旅行社ツアーの参加で滞在時間に余裕がなく、北五楼付近まで行って戻ってきた。 最初は穏やかな上り坂の通路が続き、意外に幅があって馬5頭が並んで進める広さだそうだが、北四楼の近くからは狭くて急峻な石段になっていて馬ではとても無理だ。 北四楼は比較的高い位置に建つので見晴らしがよく、女坂のかなり先まで眺められる。 また南に目を向けると、眼下に登城口、その先の山々の稜線に延びる男坂が眺望できる。                         「万里の長城」は、宇宙から肉眼で見える唯一の人工物とされるが、長大さだけが強調されての言説だろう。 とはいえ、山々の稜線を這う龍のように造られた堅牢な長城は、素晴らしい遺構だ。

△北二楼から北三楼への通路....右側(内側)の壁は柵の役割だけだが、左側の一定間隔で切込み(銃眼?)を設けた壁は右側よりも高くして外敵の侵入を防ぐ防護壁の役割を担っている

△北一楼から眺めた北二楼、北三楼そして北四楼

△北三楼....まさに堅牢な砦を思わせる造り

△北三楼の敵台から眺めた北四楼/北二楼と北三楼の間から撮影した北四楼

△北三楼から眺めた北四楼

△北三楼から延びる北四楼への通路

△北四楼手前の通路は急峻な石段になっている

△北四楼直前の石段は狭く更に急峻で、真ん中に手摺りが設けられている

△北四楼直前の石段は更に狭く、かなり急峻な造り

△北四楼から眺めた登場口と南の稜線(左上)に延びる南坂

△北四楼から眺めた北五楼以降の楼(敵台)

△北四楼から北五楼への通路

△北五楼と左奥の山頂に建つ敵台は北九楼(と思う)

△北五楼~北七楼....右奥の高い位置に建つ楼は北九楼(と思う)

△北五楼から眺めた北六楼と北七楼

△北四楼から眺めた男坂(八達嶺の南側の万里の長城)

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手塚八幡社 (上田)

2022年10月07日 | 寺社巡り-長野

【長野・上田市】平安時代の貞観八年(866)に山城国八幡宮より分霊を勧請して建立されたようだが、創建や由緒の詳細については不詳。 鎌倉末期の元徳二年(1330)に野火により社殿を焼失したが、安土桃山時代天正八年(1580)に現在地に再建されたようだ。 祭神は、八幡宮の祭紳である誉田別命(記紀で第15代天皇の応神天皇)とみられる。

●塩田平の南部の溜め池が点在する田園地帯を走る道の脇に、銅板を巻いた外宮鳥居風の鳥居が建つ。 鳥居は道に並行して延びる参道を跨いでいて、その先に小さな社号標石が立ち、そこから緩やかな石段が木立ちの中に続いている。 木立ちの中に「八幡宮」の額が掲げられた丹塗りの鳥居が立つが、神仏習合の神社によくみられる両部鳥居だ。                                       両部鳥居を通して木々に挟まれたような社殿が見える。 城壁のような石垣の上に社殿が鎮座しているが、まるで堅牢な山城のようだ。 石垣の間の石段を上ると直ぐ前に拝殿が建つが、正面全てが腰高格子戸の簡素な造りだ。 拝殿後方の石造りの瑞垣の中に2つの切妻屋根の覆屋が建ち、それぞれに杮葺の本殿と摂社とが鎮座している。 本殿は三間社流造、右隣の摂社は千鳥破風を乗せ正面に軒唐破風を設けた一間社流造だが、本殿は覆屋の柱や梁などに隠れるように鎮座しておりしかも少し暗いので、外観がよく見えずだ。

△参道入口に立つ銅板を巻いた外宮鳥居風の屋根を乗せた鳥居....木鼻や額束が無く、台石と根巻(藁座)がある

△参道入口の石段左右に「手塚八幡社」の社号標石と石燈籠が佇む

△明治二十七年(1894)造立の石燈籠/樹林の中の石段の参道に立つ朱塗りの鳥居は、神仏習合の神社にみられる両部鳥居

△額束に「八幡宮」の額が掲げられた両部鳥居....笠木の上に屋根を被せ、柱頭に台輪を乗せ、本柱の前後に控柱(稚児柱)を設け、本柱と両控柱とを二本の控貫で繋いでいる

△城壁のような高い石垣の上に鎮座する社殿....石垣の下に手水鉢が置かれ石燈籠が佇む

△安永四年(1775)造立の手水鉢と石燈籠

△石垣の間の石段の下から見上げた南面の拝殿

△寄棟造銅瓦葺の拝殿....正面三間は全て腰高格子戸((引戸)、小壁は全て白壁....屋根の形から茅葺屋根を銅板で覆ったものでは?

△拝殿側面は二間で、白壁の小壁と縦羽目板....中央間の正面に小さな切目縁を設けている

△拝殿後方の石造り瑞垣に囲まれて、切妻造桟瓦葺の覆屋に本殿と摂社(と思う)が鎮座

△覆屋に鎮座する杮葺の三間社流造の本殿....側面二間は横羽目板、正面と側面に組高欄付き切目縁

△本殿脇の覆屋に鎮座する屋根に千鳥破風を乗せている一間社流造の摂社(と思う)

.△本殿正面の三間はいずれも観音開きの板扉、前縁に御幣が置かれている/杮葺の摂社....二軒繁垂木、扉は桟唐戸、組高欄付き切目縁で側面奥の縁に透かし彫り彫刻を配した脇障子、軒唐破風を設け兎毛通しは蕪懸魚、台座上に浜床

●本殿左手の覆屋に小さな社が鎮座し、向拝の虹梁の上に透かし彫りの彫刻がびっしりと配されている。 彫刻は老人が何かを引っ張っている構図にみえるが、多分、故事に由来するものだろう。                                          境内東側の裏参道脇の傾斜地に、転びのある柱の覆屋の中に珍しい鹿島鳥居風の鳥居を構えた丹塗りの稲荷社が鎮座している。 稲荷社近くに石祠と石燈籠が立ち、石燈籠の球状の火袋にハ-ト型の火口窓が彫られている。 さらに少し下った参道脇に手造り感いっぱいの石燈籠が立ち、倒れかけている木造の社が鎮座する。 見ると社は周囲に茣蓙を張った粗末な造り…祀られている神様が少し気の毒に思えた。

△西側から眺めた社殿....瑞垣の中の2本の杉の根元に境内社が建つ

△切妻造桟瓦葺の覆屋に鎮座する社/柿葺の一間社流造りの社....向拝の水引虹梁の上に多分故事に因んだ彫刻を配している....向拝の水引虹梁の上いっぱいに多分故事に因んだ透かし彫りの彫刻を配している

△社殿に向かって左手の愛宕社への参道入口に立つ鳥居....黒木鳥居風で柱に転びのある鳥居、「愛宕社参道」の木札が立つ

△境内の東側から眺めた社殿....左奥に愛宕社への丹塗りの鳥居が見える

△境内東側の傾斜地に鎮座する鹿島鳥居風鳥居を構えた稲荷社

 △転びのある柱の切妻造板葺の覆屋に鎮座する稲荷社/流造板葺の社殿....正面の縁に白狐像が置かれている/側縁に脇障子がある

△境内東側の傾斜地に鎮座する流造屋根の石祠と簡素な石燈籠/ハ-ト型の火口窓が彫られた球状の火袋....火袋以外は自然石を用いている

△裏参道の脇に佇む石燈籠と粗末な社

△立方体に石が組まれた火袋、中台は四角状で、竿は自然石をそのまま用いたように見える/崩れかけて傾いた切妻造りの社....周囲に茣蓙を巻いている

 

 

 

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小っちゃな訪問者!

2022年10月01日 | ひとり言

8月の雨上がりの晴れた日、砂利を敷いた玄関先で休んでいた小っちゃなトカゲを捕まえた。 我が家には日当たりがあまりよくない猫の額よりも小さい庭があり、以前からトカゲが棲みついていて時々姿を見せる。 とはいえ、姿を何度目にしても、トカゲの種類を気にしたことはなかった。 初めて捕まえたトカゲは幼体で、胴頭部は20mmほどだが尾っぽが非常に長く、全長の約2/3はある。 写真で容姿が分かったのでNETで種類を調べてみたら、このトカゲは日本中に広く分布している「ニホンカナヘビ」という名前のようだ。 かなり俊敏に動くのが特徴で逃げ足が速いようだが、簡単に捕まえられたのは、体温調節のために陽の当たる石の上で日向ぼっこでもしていたからだろうか。 それにしても、トカゲなのに何故「ヘビ」という名がついたのか気になって調べてみた…が、幾つかの説があるようでハッキリしない。

△特徴から「二ホンカナヘビ」というトカゲ....胴頭部は親指の爪の約1.5倍、長い尾っぽは全長の3分の2ほどある

△全身がガサガサした褐色の皮膚で、背部と体側にクリーム色の条線がはいっている

 

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