何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

御嶽神社 (秦野)

2019年06月28日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・秦野市】安土桃山時代の天正十三年(1585)に創立したとの古老の口伝があるとされる(昭和五十六年(1981)発行の「神奈川県神社誌」に記載)。 また、江戸時代天保十二年(1841)に編纂された相模国の地誌「新編相模国風土記稿」には、大日堂の境内に熊野明神を合祀した蔵王社が記されているようで、蔵王権現を祀るこの蔵王社が明治時代に御嶽神社に改称されたとみられる。
神道において、蔵王権現は倭健命等と習合し、同一視された。 明治六年(1873)に村社に列せられ、大正四年(1915)に指定村社に。 祭神は倭健命(日本武尊)、大日孁命(天照大神)、宇迦之御魂命(稲荷神社の祭神)、天児屋根命。

大日堂の右奥に急峻な石段があり、見上げると緑樹が茂る中に鳥居と社殿の屋根が少しだけ見える。
石段を上りつめると、銅板巻きの大きな神明鳥居が立ち、鳥居の間から樹林を背にして社殿が鎮座している。 鳥居の右手に、上部が激しく破損した江戸後期造立の石燈籠が佇んでいるが、左側にはないので壊れて消失したとみられる。
妻入の拝殿は簡素な造りで、中央間に舞良戸風の腰高格子戸、両脇間に蔀戸風の格子戸(と思う)が設けられている。 向拝の屋根がなく、中央間の梁に注連縄が張られ、扁額を乗せている突起に鈴が下がっている。 格子戸のガラス部を通して内部を覗くと、幣殿の奥に本殿の正面の一部が見える。 拝殿の脇に回って本殿を拝観しようとしたが、幣殿と本殿いずれも覆屋で保護されていて叶わなかった。

大日堂の右奥の左の石段上に御嶽神社が鎮座(右は不動堂への階)
 
数十段の急峻な石段の上の木立の中に鳥居と社殿屋根の一部が見える/神明鳥居傍の左手に手水舎、右手に石燈籠が立つ(左側に石燈籠なし)

銅板巻き神明鳥居は昭和六十一年(1986)の造立....昭和天皇御在位六十年記念で建立

樹林を背に鎮座する御嶽神社の社殿....祭神は倭健命、大日孁命、宇迦之御魂命そして天児屋根命
 
切妻造銅板葺(と見られる)手水舎....手水鉢の正面に右三つ巴の紋がある/火袋から上の破損が激しい文化五年(1808)造立の石燈籠

入母屋造銅板葺で妻入の拝殿
 
昭和四十七年(1972)造立の阿形・吽形の獅子の狛犬

正面三間は中央間に舞良戸風の腰高格子戸、脇間に蔀戸風の格子戸(と思う)....小壁は全て羽目板
 
中央扉の上に注連縄が張られ、「御嶽神社」の扁額が掲げられている/軒廻りは一軒繁垂木、柱上に長い束があるだけで組物や中備なし

向拝屋根がない拝殿の前と横一部に切目縁を設けている

拝殿の内部....拝殿と幣殿の間に大きな注連縄が張られている...奥に本殿正面の一部が見える

幣殿と本殿は覆屋の中に鎮座していて拝観できず

拝殿前の左手に建つ寄棟造銅板葺の神楽殿
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大日堂-(2) (秦野)

2019年06月24日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・秦野市】江戸時代の寛文九年(1669)、信仰厚い揖斐氏が宝蓮寺に巨額を寄進し、諸堂が改修された。 現在の大日堂は享保十四年(1729)に再建されたが、宝蓮寺地蔵堂の庵主であった木食光西上人が、全国行脚をして浄財を集め、荒れた大日堂や仏像を修理、また新堂宇を造営した。
享保二十年(1735)、木食光西上人は地下に設けた石室に入り、座して経を唱えながら入寂した。 光西上人の遺言により200年後の昭和十年(1935)に発掘が行われ、遺骨や副葬品などが確認された後、それらは石室に埋め戻された。
現在、大日堂の諸堂宇は、道を挟んだ向かい側に鎮座する臨済宗建長寺派の宝蓮寺により管理されている。

大日堂の右手奥に2つの石の階があり、左は秦野総鎮守の御嶽神社への、右は山内最古の建物である不動堂への石段だ。
不動堂への石段を上りつめ、不動堂を見て驚いた。 向拝の階段がなんと煉瓦造りで、入口の扉がガラス戸なのだ。 また軒下に垂木がないことなどから近年の改造によって大きく変わったようだ。 手のひらで日陰をつくってガラス戸を通して堂内を拝観....直ぐ前に竹杭と注連縄で結界をつくった護摩壇があり、奥には猛煙を背負って憤怒の形相で鎮座する不動明王が、鋭い眼光でこちらを睨でいる。 一つ気になったのが光背の火焔光で、まるで海藻の干し物のようにみえるが、材質は何かな。
不動堂から地蔵堂に向かうと、木立の中の大きな自然石の基壇上に、二重塔式で笠に隅飾突起がない宝篋印塔が鎮座している。 下の塔身の正面に宝篋印陀羅尼経の赤い種子が刻まれ、上の塔身の正面の月輪には阿弥陀如来の種子が刻まれている。
大山への登山道に面して建つ茶湯殿とも呼ばれる地蔵堂は、近年の改造によって変わったようだが、正面から眺めると格子と格狭間を入れた桟唐戸と脇間の白壁に花頭窓がある簡素な造りだが、歴史を感じさせる佇まいだ。 格狭間から堂内を覗くが暗くて諸仏がよく見えずで、格狭間にレンズを当てて撮った写真で鎮座する地蔵菩薩坐像とその左右に居並ぶ冥界の十王像を拝観した。
地蔵堂の右手に「木食光西上人入寂の地」がある。 覆屋に鎮座する六字名号塔の地下の石室に、大日堂や仏像の修復、新たな御堂の造営に尽力した木食光西上人が静かに眠っている....合掌。

大日堂の右手奥に不動堂(右)と御嶽神社への石段がある(御嶽神社は別途投稿)

不動堂への石段....石段下に石柱、右手木立の中に石碑と句碑が佇む
  
宝永三年(1706)造立とみられる石柱....「従是 不動石尊 道」と刻まれているが「道」とあるので道標か/刻字が摩滅していて読めない石碑/「古池....」....句碑と思うが読めず

句碑越しに眺めた緑樹の中に建つ不動堂

石段途中から見上げた不動堂は17世紀後半の創建で境内最古の建物だが、近年の改造で大きく変わったようだ

入母屋造銅板葺で妻入りの不動堂....向拝の階段は煉瓦造り、正面入口は硝子戸、両脇間に硝子入りの花頭風の窓を配す
  
向拝柱に連三斗、水引虹梁の中央に板蟇股が乗る/大棟端に不思議な文様を入れた鬼板、拝はハートが一つの猪目懸魚、妻飾は狐格子/堂内手前に護摩壇、奥に不動明王像が鎮座....護摩壇は護摩炉の四隅に竹杭を立て、その頭部を注連縄でつないで結界としている....中央の梁上に「不動尊」の額が掛る

右手に宝剣、左手に羂索を持つ憤怒の形相の不動明王像....挙身光の火焔光の材質は何かな?

軒廻りは垂木がなく、組物は刳り形を施した舟肘木で中備は蓑束

宝暦十二年(1762)造立の二重塔式の宝篋印塔....下の塔身の正面に宝篋印陀羅尼経の種子、上の塔身の正面の月輪に阿弥陀如来の種子
 
不動堂境内に佇む宝篋印塔だが、笠には隅飾突起や露盤(六段)がない

不動堂境内から眺めた地蔵堂

地蔵堂境内の入口の左右に供養塔と石柱が立つ
 
合掌する石仏が乗る刻像塔の供養塔....石仏は地蔵尊像に見えるが4臂?/享和元年(1801)造立の石柱....「〇〇〇大日如来 三國〇〇不動」の刻....不動明王は大日如来の教令輪身(変身)

大山への登山道(右)に面して東面で建つ地蔵堂....茶湯殿とも呼ばれる

寄棟造鉄板葺の地蔵堂....正面三間の中央間は格子窓と格狭間を入れた桟唐戸、両脇間の白壁に花頭窓....堂内に本尊地蔵菩薩像と木造十王像を安置
 
軒廻りは一軒疎垂木だが板張りの補強が施されている/堂前だけに切目縁を設けている

地蔵堂の内陣に鎮座する円光を背負った地蔵菩薩坐像....その左右に十王像が並んでいる、向かって右隣りの少し大きい像が閻魔大王か

木食光西上人入寂の地....江戸中期に宝蓮寺地蔵堂の庵主だった木食光西上人が覆屋の地下の石室に眠っている
 
光西上人は全国行脚で集めた浄財で大日堂や修理等を行った後、享保二十年(1735)に地下の石室に入り、座って経を唱えながら入寂した/光西上人が眠る石室の上に立つ六字名号塔
 
丸彫りの地蔵尊坐像石仏が乗る供養塔....下の石柱に「地蔵尊」の刻/「南無地蔵菩薩」と刻まれた三界萬霊塔
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大日堂-(1) (秦野)

2019年06月21日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・秦野市】奈良時代の天平十四年(742)、仏教を保護し、東大寺や諸国に国分寺・国分尼寺を建立した聖武天皇(第45代)が、奈良の大仏を造立するときの勅願所として行基に建立させたとされる。
大日堂は「覚王山 安明院 国分寺」とも言われ、聖武天皇の勅願所として建立されたようだ。
平安時代末期から南北朝時代までは寂れていたとされるが、鎌倉時代の正応二年(1288)に仏国国師・高峰顕日(第88代後嵯峨天皇の皇子)が、近隣のいくつかの寺院を統合して宝蓮寺(当時「薬音寺」と称した)を開山した。 第12代住持が入山する室町時代の正長元年(1428)頃までは無住持の状態が続いていたようだ。 大日堂の宗旨は不詳だが、本尊が平安時代作とされる大日如来像を含む五智如来像なので密教(真言宗)系と思う。

バス停「蓑毛」から脇を流れる金目川に架かる蓑毛橋を渡ると、赤い屋根の仁王門が見えてくる。 門前に百番供養塔が佇む朱塗りの仁王門....さほど筋骨隆々ではないが、大きな鋭い眼光の仁王像に迎えられる。 正面の台輪上の3つの中備の彫刻を見て思わず顔がほころんだ。 まるで白い鼻の豚の顔が並んでいるように見えるからだ。
仁王門をくぐると、正面に緑樹に包まれて大日堂が建ち、まさに古い山岳寺院らしい雰囲気が漂っている。 290年前に木食光西上人が修復して以降も何度か修復が行われていると思うが、建物はかなり傷んでいるようで気掛りだ。
とはいえ、向拝と軒下に施された彫刻群が実に素晴らしく、目を見張った。 向拝の彩色された彫刻は、木鼻の獅子と像、水引虹梁上の龍、そして手挟の牡丹、また、軒下では台輪上の蟇股、そして四方の通肘木の上の小壁前面に施された鏝絵のような彫刻が見事だ。 正面の桟唐戸に空いた格狭間から本尊(五智如来像)を拝観.....中央には宝冠をいただき智拳印を結んだ金色の大日如来坐像が鎮座している.....合掌。
大日堂の左手に「金剛水」の案内板が立ち、大山詣の際に清澄な金剛水で身を祓い清めたとある。 しかし、奥の山裾にある不動明王石仏が護る石組で囲まれた源泉を覗いたが、僅かな水も湧き出ていない....枯れたのかな?

道路に面して建つ仁王門....道路脇に銀杏の切株が残っている

入母屋造本瓦葺風鉄板葺で八脚門の仁王門....江戸後期の建立のようで、大棟に葵の紋が配されている
 
門前に置かれた飾手水鉢/門前に佇む文政十二年(1829)造立の「百番供養塔」....西国・坂東・秩父の百観音札所を巡礼した巡拝塔

三間一戸で、中央出入口に扉が無く、左右脇間の金剛柵の中に仁王像が鎮座....台輪上の組物間に豚顔のような彫刻がある
 
鋭い眼光で仏敵の侵入を防いでいる阿形吽形の仁王像....寄木造りで彫眼
 
中央通路の入口の組物間の台輪上に配された彫刻....まるで豚の顔を連想させる形が面白い/本柱間の台輪上に配された彩色装飾を施した牡丹のような花文様彫刻、後方の台輪上には入口と同じ彫刻
 
軒廻りは一軒繁垂木、組物は台輪の上に出三斗で中備は正面と後方のみで側面に無し/大棟端に桔梗紋入りの鬼板、拝に変形の懸魚、妻飾りは虹梁大瓶束

横羽目板の側面の柱間に取り付けた木に沢山の御神札が釘付けされている

仁王門を通して眺めた大日堂

仁王門から眺めた緑樹に覆われた境内は山岳寺院の雰囲気だ

寄棟造桟瓦葺で妻入の大日堂....享保十四年(1729)に光西上人により修復された

正面は中央間に桟唐戸、両脇間に腰高格子戸....入口に「金剛王殿」の扁額が掲げられている

向拝は二軒繁垂木、向拝柱上に連三斗、母屋とは海老虹梁で繋がる....水引虹梁の上に見事な龍の彫刻を配す
 
水引虹梁の上の全体に彩色されて精緻な龍の彫刻/彩色された精緻な獅子と像の木鼻

向拝柱の内側の手挟は見事な牡丹彫刻

軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手目が尾垂木の二手先で中備は脚間に動物彫刻を配した蟇股....通肘木の上の小壁の全てに施されている彫刻は「鏝絵」のようだ
  
角柱の向拝柱を支える木製の礎盤がかなり傷んでいる/周囲の切目縁の床板や床束等がかなり傷んでいる

小棟造りの屋根で正面三間、側面四間、周囲に切目縁を巡らす....御堂はかなり傷んでいるようで、堂前に瓦落下の注意喚起の立札が置かれている

大日堂には本尊の五智如来坐像を安置....五体全て平安時代後期作とみられ、いずれも一木造りで彫眼

大日堂内陣中央に鎮座する大日如来坐像....ヒノキ造りで他の四体より大きく像高175cm(宝髻欠)、宝冠をいただき智拳印を結んでいる

五知如来坐像 (案内板「大日堂の仏像」の写真を拝借)

大日堂の左手に「金剛水」の案内板が立ち、蓑毛は大山詣の西玄関口で金剛水で身を清めたとある....奥の山裾に不動明王石仏が護る石組の源泉があるが、清澄な湧き水はまったく見当たらずだ

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観音崎砲台跡-(3) (横須賀)

2019年06月18日 | 史跡探訪-日本編

【神奈川・横須賀市】腰越堡塁から樹林の中の曲がりくねった園道を暫く進むと三軒家園地に着く。 三軒家園地のトイレの後方の草木が生い茂る中に残るコンクリート製のカギ形の遺構を見学....三軒家砲台跡の案内板から見張所のようでもあるが、位置や形から違うようで、昭和時代の観測所跡という見方もあるそうだ。
三軒家園地から園道を下っていくと、門扉の固定金具が付いた門柱が立ち、その少し先にコンクリート製の2つの掩蔽壕の弾薬庫の入口があり、その一つの内部を見学した。 さらに園道を下っていくと、唯一2種のカノン砲が配備されていた三軒家砲台跡に着く。 観音崎砲台群の中では新しい砲台跡で、観測所、見張所、井戸、トイレ等が整備されていて昭和初期まで使われていたようだ。
27cmカノン砲を1門ずつ配備した大きな砲台跡が4つの並ぶが、砲台の広さから27cmカノン砲がいかに巨大なのかが想像できる。 ここにも墻壁の弾室の隅に伝声管があり、数人の方が糸電話のように声を張り上げて隣の砲台にいる人と言葉を交わしていた。 各砲台跡の間に壁にイギリス積焼煉瓦を張った地下弾薬庫への階段があるが、いずれも良く保存されていて見ごたえがある。
27cmカノン砲と12cmカノン砲の砲台跡の間に外壁にイギリス積煉瓦を張った掩蔽壕の観測所付属室があり、付属室の上に観測所施設の遺構があり見学した。 観測所施設は円形の壁で囲まれ、中央に観測機器の円形の台座があるが、雑草が生い茂っていてよく分からずだった。
観測所付属室の左手に12cmカノン砲の砲台跡があるが、荒廃しているうえ雑草に覆われているのでとても砲台跡には見えない。 草を分け入り墻壁があるとみられる所に近づくと、僅かに残る石積みがみられ、その前の砲座跡に錆びたアンカーボルトが円状に並んで地面から飛び出ている。
砲台跡前の園道を挟んだ向かい側に、石造り擁壁を設けた掘割があり、その入口に石造りの貯水鉢が置かれ脇に見張所跡への狭い石段がある。 掘割を入っていくと、一番奥にコンクリート製の掩蔽壕弾薬庫が2つある。 案内板から、この地下弾薬庫は、三軒家園地から三軒家砲台跡に向かう途中にある2つの弾薬庫と繋がっていた。
貯水鉢から園道を少し下がった脇に、三軒家砲台の砲兵が利用した井戸跡とトイレ跡とがあるが、いまはいずれも休憩所になっている。 最後の三軒家砲台跡を見学した後、横須賀美術館を通り抜け、湾に突き出た埠頭の弾薬庫係船場と海水浴場の中に残る物資補給船桟橋の遺構を遠望しながらパークセンターに戻った。
開国後、他国の侵略に危機感を抱いた明治政府が、帝都と国防最重要拠点の横須賀軍港を護るために築いた貴重な歴史的国防遺跡(「戦争遺跡」ではない!)....もっと遺構の整備が進み、文化遺産として長く保存されることを願いながら、帰路のバスに乗った。

■三軒家園地~三軒家砲台跡の間
*三軒家砲台に関連する施設とみられる遺跡群

三軒家園地の入口にある「旧砲台跡」と刻まれた「三軒家園地」標石
 
標石傍のトイレの後方の石段を上ると木立の中にコンクリート製のカギ形の遺構がある....三軒家砲台跡の案内板から見張り台か?(昭和時代の観測所とも言われている)/案内板からカギ形遺構の位置に見張り台があったとみられる....カギ形遺構の右奥に旧砲台跡があるらしいが不明

三軒家園地から三軒家砲台跡に向かう園道(旧軍道)....門扉の固定金具が残る門柱が残り、右手の土手に2つの掩蔽壕の弾薬庫の入口がある
 
パークセンター職員の方が、土手にある旧砲台の弾薬庫の入口を開けてくれている/弾薬庫の内部....壁は煉瓦ではなくコンクリート

■三軒家砲台跡
*明治二十七年(1894)起工/明治二十九年(1896)竣工
*27cm平射砲(カノン砲)4門/24cm平射砲(カノン砲)2門
*関東大震災で被害を受けたが復旧/観測所、監視所、井戸、トイレ等があったが昭和九年(1934)に廃
 止 (他の砲台は大正時代に廃棄)

三軒家砲台跡....明治二十九年(1896)竣工で、27cmカノン砲4門と12cm速射カノン砲2門を配備

墻壁にずらりと弾室(砲弾置場)が並び区切っている控壁の部分に伝声管がある
  
墻壁に設けられた伝声管....管内を覗くと奥に隣の砲台の景色が僅かに見える/石積みの石に刻印があり、切り出した地域によって刻印が異なるようだ
 
三軒家砲台は昭和初期まで利用されていたので、多くの遺構が良く残り、砲台群の中で最も見所がある/一番大きな27cmカノン砲1門が配備されたので砲台跡が広い

27cmカノン砲4門の砲台間3か所に設けられた地下弾薬庫の遺構(全て閉鎖)が当時の姿で残っている
  
地下弾薬庫の壁にイギリス積焼過煉瓦が張られている....入口の上に架かる渡り部は庇の役目か?/こちらの地下弾薬庫の入口の上には渡り部がない

27cmカノン砲と12cmカノン砲の砲座跡の間に設けられた掩蔽壕の観測所付属室....外壁下部や入口周りにイギリス積焼過煉瓦が張られている

観測所付属室の上に観測所施設の遺構がある....この状況から他砲台の弾薬庫は、入口上部のアーチ形煉瓦まで土に埋まっていることが分かる

分厚いコンクリー壁で囲まれた観測所施設の遺構....横壁の溝は?真ん中に観測機器の台座があるが雑草が生い茂っていてよく分からず

荒廃が進んでいる三軒家砲台跡の12cm速射カノン砲2門の砲台跡

僅かな石積みが残り砲台跡であることが分かる
 
砲座(床)跡に残っている速射カノン砲を固定するアンカーボルト/錆びたアンカーボルトが円状に並んでいたことが分かる

左手の石造擁壁の掘割は弾薬庫への入口....石造り貯水鉢脇に見張所跡への狭い石段がある

掘割の奥に設けられたコンクリート製の掩蔽壕弾薬庫....位置的に三軒家砲台の弾薬庫とみられる....三軒家砲台跡の案内板から先ほど見学した三軒家園地から下った園道脇の弾薬庫と繋がっていたようだ
 
三軒家砲台跡の案内板から、石積みの擁壁の所は井戸跡(と思う)/同じく三軒家砲台のトイレ跡(と思う)

左奥の湾に突き出た埠頭が明治二十年(1887)竣工の弾薬庫係船場(別の日に撮影)

海水浴場に残る遺構は昭和初期造営の物資補給船用桟橋の跡らしい....レールを敷設した跡がある(別の日に撮影)
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観音崎砲台跡-(2) (横須賀)

2019年06月15日 | 史跡探訪-日本編

【神奈川・横須賀市】太平洋戦争後、観音崎は自然を残した公園として整備された。 砲台を結ぶ軍道はそのまま園道として利用され、園内には9つの砲台跡の遺構が残っている。 観音埼の砲台群は、<1>日本最初の西洋式砲台、<2>フランドル積煉瓦造砲台は東京湾要塞のみ、<3>数多くの遺構が良好な状態で残存....などが認められ、平成二十八年(2016)に「日本遺産」に認定された。
我が国初の西洋式砲台である第一砲台と第二砲台が着工されたのが明治十三年(1880)なので、来年2020年は東京湾要塞生誕140年を迎えるが、デビット佐藤さん作成の「砲台ガイドツアー」に、この機会に「観音崎の砲台という貴重な歴史的遺産を多く知ってほしい」、また「砲台跡の遺構を巡って理解を深め、歴史的意義と国土防衛に尽力した明治の日本人の厚い心を感じてほしい」と記されている。

トンネルをくぐると左手に閉鎖された掩蔽壕の弾薬庫があり、その先に第三砲台跡が見えるので第三砲台の弾薬庫だと思う。 第三砲台跡は真ん中の砲弾を格納する揚弾井を挟んで左右に砲台があったが、左側の砲台跡は消滅している。 また、第三砲台に配備された砲門は唯一榴弾砲なので、砲台はすり鉢状に造られ周りに墻壁を設けている。 揚弾井はフランドル積(フランス積)煉瓦で造営されているが、入口の石などが崩れかけていて気になった。
第三砲台跡からトンネルを戻って大浦堡塁の砲台跡に向かうと、間も無く、白い慰霊碑が聳える「戦没船員の碑」に着く。 ここが大浦堡塁の砲台跡だが、その面影は殆どなく、僅かに砲台への石段の頂部や周囲に巡らされたイギリス積焼煉瓦の墻壁の一部が残っているだけだ。
大浦堡塁から腰越堡塁の砲台跡に向かう....視界が急に開け、「うみの子とりで」のアスレチック遊具の広場に出る。 遊具傍の窪地が堡塁で、壁にイギリス積焼煉瓦が張られた2つの掩蔽壕の弾薬庫(と思う)があるが、いずれも埋もれていて完全に閉鎖状態。 堡塁の上にイギリス積焼煉瓦の墻壁で護られた砲座跡があるが、荒れた地面の急坂になっていて滑るので少々危険。 急坂脇の壁に階段の痕跡がくっきりと残っていて、ここに階段があったことが分かる。

■第三砲台跡
*明治十四年(1881)起工/明治十七年(1884)竣工
*28cm榴弾砲4門 (少し離れて2つの地下弾薬庫(閉鎖)、砲台傍に崩れかけた揚弾井(砲弾格納庫))
*観音埼砲台で唯一、敵艦の甲板を破壊する榴弾砲を配備/すり鉢型の砲台
 
第三砲台跡へのトンネル....イギリス積煉瓦が張られている(トンネル入口部ににはイギリス積焼過煉瓦)/トンネルを抜けた直ぐ左側にある第三砲台の掩蔽壕の弾薬庫(と思う)

閉鎖された2つの入口の真ん中と左右にはイギリス積焼過煉瓦が張られている

観音崎第三砲台跡....旧第三砲台(閉鎖)から榴弾砲2門を移設

榴弾砲のため砲台はすり鉢型の造り....揚弾井の右側の砲台跡

右側砲台の墻壁(右手)に設けられた弾室

右側砲台の墻壁(左手)に設けられた弾室
  
墻を仕切る控え壁の中央に加工部があるが、砲弾転倒防止の鎖等を引掛けるものがあったと推/墻壁の上に残る観測所への石段....榴弾砲なので敵が目視できす、敵までの距離を測る観測所があった/砲台前の基台壁面にクレーンを固定したと思われる加工部がある

砲弾を格納する揚弾井の両側に各2砲床の砲台があったが、左側の砲台は消滅した

左右の砲台跡の中央に設けられた揚弾井....基台部にフランドル積(フランス積)煉瓦が張られている
 
フランドル積(フランス積)煉瓦で造営された砲弾格納庫の揚弾井....崩れかけていて崩壊が懸念

■大浦堡塁の砲台跡
*明治二十八年(1895)起工/明治二十九年(1896)竣工
*車両式9cm平射砲(カノン砲)2門
*堡塁とは、上陸した敵が砲台の背後に回った時、砲台を護るための陸戦用の砲台
*砲台跡は「戦没船員の碑」造営の際に殆ど消滅

大浦堡塁の砲台跡....埋められたため面影は僅かしかない
 
砲台への石段の頂部(手前)や周囲に巡らされたイギリス積焼過煉瓦の壁が残っている

大浦堡塁に建てられた慰霊碑の「戦没船員の碑」

大浦堡塁から腰越堡塁に向かう園道の途中にある「めがね橋」から眺めた三軒家切通....切通は明治十六年(1883)に軍の資材運搬用道路として切り開かれた
 
明治十七年(1884)、切三軒家切通に煉瓦造りのめがね橋が架けられた....現在のめがね橋は2代目で、昭和四十年(1965)建築の鋼材製の桁構造

■腰越堡塁の砲台跡
*明治二十八年(1895)起工/明治二十九年(1896)竣工
*車両式9cm平射砲(カノン砲)2門 (2つの地下弾薬庫(と思う))
*砲台跡は「うみの子とりで」の遊具広場として利用/堡塁を形成する土塁、煉瓦壁、砲座、地下弾薬庫(閉鎖)などが残存

土塁と煉瓦の墻壁で囲まれた腰越堡塁の砲台跡
 
イギリス積焼過煉瓦が張られた墻壁/焼過煉瓦墻壁の下部のアーチ型に張られた部分は、埋もれた掩蔽壕弾薬庫の入口の上部だと思う

堡塁上の砲座跡への急坂....左の壁下に階段跡がある
 
.階段跡はこの急坂に石段があったことを物語る/車両式平射砲(カノン砲)があった砲座跡....イギリス式焼過煉瓦の墻壁で護られている

急坂を下った直ぐ右手の壁に先ほどと同じイギリス積焼過煉瓦が張られた掩蔽壕の弾薬庫....アーチ形煉瓦部分は弾薬庫入口の上部


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観音崎砲台跡-(1) (横須賀)

2019年06月12日 | 史跡探訪-日本編

【神奈川・横須賀市】先月、令和元年最初の「県立観音崎公園砲台ガイドツアー」(県立観音崎公園パークセンター主催)に参加した。 東京湾要塞研究家・デビット佐藤さんによるミニレクチャーを受けた後、約3時間にわたって緑豊かな園内に点在する砲台跡を見学した。 東京湾要塞の砲台跡を見学するのは初めてだ。
明治維新以降、帝都である東京と旧日本海軍の鎮守府が置かれた国防の最重要拠点である横須賀軍港を護るため、明治政府(旧陸軍)が東京湾要塞の構築を計画(最初の防衛線は観音崎と富津岬を結ぶ線)、明治九年(1876)に観音崎砲台用地を買収して建築工事が始まり、我が国最初の西洋式砲台群が観音崎に築かれた。 明治二十七年(1894)勃発の日清戦争や明治三十七年(1904)勃発の日露戦争のときには戦闘配備についたが、実戦で砲門が開かれたことは一度もなく、兵器の進歩や国防方針の変更など時代の変遷により大正時代に廃止された。 我が国最初に建設された観音崎の第一砲台と第二砲台には、明治天皇が行幸されたとのこと。
砲台跡の見学ルートは、パークセンターになっている弾薬庫(第二火薬庫)・火具庫⇒第一砲台跡⇒第二砲台跡⇒第三砲台跡⇒大浦堡塁の砲台跡⇒腰越堡塁の砲台跡⇒三軒家砲台跡で、海上自衛隊の敷地内にある第四砲台跡は今回許可が下りずとのことだった。

煉瓦造りのパークセンターは元火薬庫で、床下に湿気を防ぐアーチ形の通気口が8か所設けられている。 パークセンターから第一砲台跡に向かうトンネルを抜けると、そこはどの砲台にも行ける砲台群の中心地とのことで、いまの元火薬庫がある位置に納得した。
中心地から少し急坂になっている園道を上がっていくと、右手に第一砲台跡が見えてくる。 第一砲台跡は、扇形に配置された2つの砲台の間に煉瓦造りの連絡トンネルがあり、その下に地下弾薬室がある。 砲台は半円形状の石積みで囲まれていて、カノン砲の砲身を向ける正面は胸墻、その左右は横墻と称するそうで、胸墻は播州産の御影石で造られているとのこと。 また、横墻は番号を付したで弾室で、砲弾を立てて置いたものとみられる。 連絡トンネルの土台部の側壁に、地下室弾薬庫の入口が少しだけ顔を出しているが、地下弾薬室への階段と入口がほぼ地中に埋もれている。
第一砲台跡から曲がりくねった狭い園道を進んで第二砲台跡に向かう。 東京湾海上交通センターの管制塔を過ぎると、左手に第二砲台跡があり、4つの砲台跡と3つの掩蔽壕の弾薬庫が並んでいる。 砲台は第一砲台と同じ造りだが、胸墻の上部の端に「伝声管」と称する土管が埋められている。 「伝声管」は隣の砲台と繋がっていて、土管を通して大声で情報交換する砲兵の姿が浮かぶようだ。 第二砲台跡では閉鎖していない掩蔽壕の弾薬庫の内部が見学できた。 内壁はイギリス積煉瓦で造られていて、奥の砲弾を運ぶ狭い地下通路の突き当りに陽 が射し込んでいる砲台への開口部があり、ここで砲弾をクレーンで吊り上げる構造だ。 第二砲台跡から、立ち入り禁止になっている旧第三砲台跡への入り口を通り過ぎ、第三砲台跡に向かう。

■元弾薬庫(第二火薬庫の1号館)
*明治三十一年(1898)建設
*なお、日本最初の弾薬庫は洞窟式で、明治十八年(1885)の建設

日清戦争後に建設された木骨煉瓦造の弾薬庫(第二火薬庫の1号館)....改修時に煉瓦壁を白塗りしたが、剥がして元の煉瓦壁に復元された
 
火薬庫1号館は現在、県立観音崎公園パークセンターとして利用....基礎の焼過煉瓦部の床下アーチは火薬の湿気を抑えるための通気口/写真中央の薄いオレンジ色の部分が当時のイギリス積煉瓦...案内をして頂いた東京湾要塞研究家・デビット佐藤さん

弾薬庫後方の建物は第二火薬庫の2号館で火具庫....イギリス積煉瓦で、当時は煉瓦表面にモルタルを塗っていた

少し離れた所に建つ第一火薬庫....煉瓦壁は白塗りされたままの姿(火薬庫は第五まであった)

■第一砲台跡(北門第一砲台)
*明治十三年(1880)起工/明治十七年(1884)竣工
*24cm平射砲(カノン砲)2門 (地下弾薬庫と倉庫があるがいずれも閉鎖)
*第二砲台とともに日本最古の西洋式砲台

観音崎第一砲台跡(北門第一砲台跡)....第二砲台跡とともに日本最古の砲台跡

半円形の2つの砲台が扇状に配置され、砲台間に煉瓦造りのトンネル(連絡壕)がある

煉瓦造りのトンネル(連絡壕)....外壁面に煉瓦造りの控壁を設けている....トンネルの地下に弾薬庫と兵員室があった
 
フランス積煉瓦で造営された連絡壕の壁面に、閉鎖された揚弾井の入口がある
 
連絡トンネルの下の側壁の下に埋もれている地下室(弾薬庫)への入口/側壁に地下室への階段があった痕跡がある

右側の砲台の石積み....中央(正面)は胸墻で左右は横墻、横墻は番号が記された弾室(砲弾置場)
  
平射砲(カノン砲)を撃つ方向の胸墻は播州産御影石で造営....暗い円形溝は?/砲台基壇の側壁にある砲弾を吊り上げたクレーンの設置跡らしい/右側の横墻の上に観測所への石段が残っている

連絡トンネルの左側にも右側と同じ造りの砲台跡がある

砲台の左側にある掩蔽壕は倉庫で、入口はコンクリートで塞がれている
  
砲台を結ぶ元軍道の園道の脇に立つ「観音﨑燈臺所轄地」の標石....観音崎灯台は日本初の洋式灯台/生い茂る木々の間から眺めた浦賀水道/東京湾海上交通センターの管制塔

■第二砲台跡(北門第二砲台)
*明治十三年(1880)起工/明治十七年(1884)竣工
*24cm平射砲(カノン砲)6門 (現存は3基の砲台と3つの地下弾薬庫、地下弾薬庫は1つだけ見学可)
*第一砲台とともに日本最古の西洋式砲台/伝声管がある

観音崎第二砲台跡(北門第二砲台跡)

第一砲台跡と同じカノン砲の砲台跡で、中央は胸墻、左右は横墻
  
胸墻と横墻間上の左右に指令を伝える伝声管がある/土管が埋められた伝声管/地下弾薬庫から砲台に砲弾を吊り上げた開口部
 
横墻の弾室(砲弾置場)の壁に番号が記されていていまも残っている/「二・四」の刻

第二砲台に現在3つある掩蔽壕の弾薬庫(1つが閉鎖されている)

パークセンター事務員の方が開けてくれている第二砲台の弾薬庫の入口
 
開いた鋼板製扉から弾薬庫の中へ/入口から眺めた弾薬庫の内部....フランス積煉瓦で造られている
 
フランス積煉瓦が張られた点燈室と棲息壕/砲台へ砲弾を運ぶ通路で一番奥に地上口があり、ここで砲弾をクレーンで吊り上げる....地上口から光が差し込んでいる

旧第三砲台跡への園道(旧軍道)....海上自衛隊の施設に空砲を撃つ現役の礼砲台があるため立ち入り禁止(旧第三砲台には288cm榴弾砲2門があったが第三砲台に移設)



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普賢院 (岡山)

2019年06月09日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・岡山市】創建年は不明だが、奈良時代の天平勝宝年間(749~757)に奈良の僧・行基により金剛寺として建立されたと伝わる。
江戸初期の寛永年間(1624~1644)、曼荼羅寺住持・舜誉が、少し南にあった金剛寺を曼荼羅寺と合併して現在地に移転した。 この時に寺号を普賢院にしたと思われる。 神仏習合の時代、普賢院は古代吉備国の総氏神・吉備津神社のもと別当寺(神宮寺)で、山内に塔頭5ヶ寺、末寺15ヶ寺を擁したようだが、明治維新の神仏分離令によって吉備津神社と分かれた。
普賢院の末寺の一つだった青蓮寺は、備中西国三十三所観音霊場の結願寺(33番札所)であったが衰退、明治初期に吉備津宮内の幾つかの末寺とともに普賢院に併合された。 宗旨は真言宗で、本尊は普賢延命菩薩。 青蓮寺併合により備中西国三十三所観音霊場第33番札所。

宇賀神社参拝後、神池に架かる小さな石橋を渡って普賢院の境内に入る。
本堂の脇を進み、まずは門前に向かう。 町家のような建物が並ぶ門前町のような道に面して定規筋が入った褐色の短い築地塀があり、築地塀の間から仁王門が見える。
築地塀と仁王門の間の参道の両側にそれぞれ、大きな隅飾突起が大きく反りかえりひらいた宝篋印塔と2体の地蔵菩薩坐像が鎮座し、参詣者を迎えている。 とはいえ、仁王門の周りに柵が設けられているので参道から仁王門へは進めず、左側の塀の外を回って仁王門へ....。 重厚な屋根を乗せた仁王門だが簡素な造りで、壁の羽目板などに傷みがみられる。 金剛柵の中に少し細身の仁王像が鎮座しているが、頭部と胴体の大きさが少しアンバランスに感じるのは自分だけか....。
正面奥に本堂、左手に唐破風玄関の客殿と薬師堂が連なり、右手の塀際には5体の地蔵石仏、宝篋印塔、五重石塔そして3基の五輪卒塔婆が並んでいる。 縁石が設けられた本堂への参道の途中に八角形のエリアがあり、その真ん中に飾手水鉢のような石造物が置かれている。
本堂は質素な造りで、中央間に腰高格子戸、脇間には舞良戸、頭貫と丸桁の間は全て白い小壁だけだ。 本堂の右脇を進むと、本堂の後方に神池に面して袴腰鐘楼と十三重石塔があり、その奥に「大聖歓喜天」の扁額が掲げられた歓喜天堂が南面で建っている。 鐘楼は、石造りの袴腰の中に入ることができ、格天井から吊り下げられている梵鐘を真下から眺めた。 珍しい光景だ。 歓喜天堂右脇の狭い切石敷の参道の先に、鎮守社である試天満宮がひっそりと鎮座している。

門前に設けられた5本の定規筋が入った築地塀

築地塀と仁王門の間の参道両側それぞれに宝鏡印塔と2体の地蔵石仏が鎮座して参詣者を迎えている(仁王門は通行止めだ)
 
享保年間(1716~1735)造立の二重塔式の宝篋印塔越....江戸期作の特徴が大で、大きな隅飾突起がほぼ水平に大きく反りかえりひらいている、相輪も大きい/宝篋印塔越しに眺めた江戸初期建立とみられる仁王門

入母屋造本瓦葺の仁王門....文化年間(1804~1818)、総社市から移築された

正面三軒側面二間....側面の羽目板がかなり傷んでいるようだ
 
軒廻りは二軒繁垂木、組物は出三斗で中備なし/大棟端に鯱が乗る鬼板、拝は蕪懸魚、妻飾は虹梁大瓶束

「青竜山」の扁額が掲げられて仁王門の脇間の金剛柵の中に阿形吽形の仁王像が鎮座
 
憤怒の形相の仁王像はいずれも細身だが、頭部と胴体の大きさが少しアンバランスに感じる

五輪卒塔婆(供養塔?)と石造物越しに眺めた本堂
 
境内の右の塀際に鎮座する5体の地蔵菩薩石仏、その先に3基の五輪卒塔婆、二重塔式の宝篋印塔(塔身正面に宝筐印陀羅尼経の種子)、五重石塔(塔身に霊とみられるの刻)がある/一番大きな地蔵石仏は延享五年(1748)の造立

本堂に向かって左側に唐破風の玄関を設けた客殿が建つ....左に薬師堂で右奥が庫裏

玄関の唐破風には獅子口が乗り、兎毛通は鳳凰彫刻

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の本堂....寛永年間(1624~1644)の建立

正面の中央間に腰高格子戸、両脇間に舞良戸
 
水引虹梁に本蟇股と刳形の木鼻、周囲に切目縁を巡らす/軒廻りは一軒疎垂木、組物は長い束の上に舟肘木、中備はなく、頭貫と丸桁の間は全て小壁

.本堂の後ろに建つ袴腰鐘楼と十三重石塔....奥に歓喜天堂が南面で建つ
 
入母屋造桟瓦葺の袴腰鐘楼....大棟に獅子口、妻飾は狐格子/袴腰の中から見上げた梵鐘、天井は格天井になっている

入母屋造桟瓦葺の歓喜天堂....鬼板を乗せた唐破風の向拝、母屋の正面は全面腰高格子戸で貫上は全て小壁

格天井を設けた唐破風の向拝....兎毛通がなく、水引虹梁上に脚間に大根のような彫刻を配した本蟇股、上の梁の中央に笈形付大瓶束....「大聖観喜天」の扁額が掲げられている

軒廻り一軒繁垂木の歓喜天堂は周りに擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす、側面も腰高格子戸と小壁....右奥に試天満宮が鎮座

歓喜天堂に連なって後方に宝形屋根で花頭窓があるの御堂が建つ....右隣は鎮守社の試天満宮
 
入母屋造銅板葺の試天満宮....学業成就のご利益が/一間四方で、正面は飾金具を打った桟唐戸

宇賀神社の野社前から眺めた普賢院の本堂と袴腰鐘楼....小さな石橋で繋がっている
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宇賀神社 (岡山)

2019年06月05日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・岡山市】創建時期は不詳。 吉備津神社の末社で、飛び地境内の神池の中の島に鎮座し、吉備の国最古の稲荷神を祀っている。
古くは弁財天を祀っていたようで、その後、弁財天と同一視されることが多い宇賀神(食物神、農業神ともされる)を祀り、明治以降、稲荷神を祀るようになったようだ。 祭神は倉稲魂(宇迦御魂)神。

吉備津神社の西入口前の道路を挟んだ向かい側に神池があり、池の中の島に鮮やかな朱塗りの社が見える。 池に架かる朱塗りの反橋を渡り、転びの大きな石造り明神鳥居をくぐって中の島に....正面に鮮やかな朱塗りで重量感のある本瓦葺の宇賀神社が南面で鎮座している。
社殿前の右手に、まるで地中から這い出てきたような姿の松の大木があり、池の上を這うように大きく枝を張り出している。 老木の松は、幹周りが約2.4メートルと太く、樹高約2メートルで水平に生育していて、迫力のある黒い幹と大きく広げた枝ぶりが実に見事だ。

吉備津神社の西側の道を隔てた向い側にある神池と中の島に鎮座する宇賀神社

神池に架かる擬宝珠高欄付き反橋、中の島に石造り明神鳥居と朱塗りの社が鎮座
 
宇賀神社の後方に見える寺院は普賢院

比較的転びが大きい石造り明神鳥居
  
近年の造立とみられる阿形吽形の狛犬....ネットで調べると、前の狛犬は天保十二年(1841)造立で吽形の前足が欠損していたようだ/天保十一年(1840)造立の手水鉢越しに眺めた宇賀神社の社

切妻造本瓦葺の宇賀神社の社....大棟に向き合う2匹の鯉が浮き彫りされている
 
軒廻りは二軒繁垂木、水引虹梁の中備に彩色された精緻な龍の彫刻、木鼻は彩色された像の彫刻/大棟に獅子口、拝に蕪懸魚、妻飾は虹梁大瓶束、妻面台輪上の中備に彩色された梅の彫刻

壁は白塗りの羽目板、擬宝珠高欄付き縁、側部に脇障子....屋根は獅子の留蓋瓦がのる瓦葺なので比較的新しい建物と推

中央の島に生育する推定樹齢200年とされる松の老木....幹周は約2.4メートルで、樹髙は約2メートル

松の巨木は神池を覆うように枝を張っている

後方から眺めた宇賀神社....神池に通行止めの反橋が架かり、左奥に吉備津神社の回廊の屋根が見える
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吉備津神社-(3) (岡山)

2019年06月01日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・岡山市】中世には武家から崇敬を受け、社殿の修復や社領の寄進などを受けた。 南北朝時代の正平六年(観応二年)(1351)、火災で本殿・拝殿を焼失したが、元中七年(明徳元年)(1390)、後光源天皇(北朝第4代)の勅命により室町幕府三代将軍・足利義満が再建に着手、応永十二年(1405)に完成し、さらに応永三十二年(1425)に現在の社殿が落成した。
本殿は入母屋造を前後に二つ並べた建築様式で、「吉備津造」とも呼ばれる我が国唯一の「比翼入母屋造」。 吉備津神社は、中世以降、江戸時代中期まで神仏習合の歴史を過ごしてきたが、明治維新の神仏分離を待たずに江戸中期に分離し、現在に至る。

南端に鎮座する本宮社から、約440年前の安土桃山時代、自然の地形そのままに一直線に建てられた長さ約360メートルの回廊を進む。 途中、左側に「結びの広場」と呼ばれる石組護岸の池と水車小屋がある石庭のような庭園があり、そこから御釜殿につながる回廊が延びている。
御釜殿内の右手(北側)に湯釜があり、そこで巫女による「鳴釜の神事」が行われているが、殿内撮影禁止なので残念ながら湯釜の写真は....。
御釜殿の近くに西側の入口があり、社号標石、石造り明神鳥居、手水舎などがたっている。 そこから道を隔てた向かい側に大きな神池があり、池に浮かぶように中島に鎮座する宇賀神社が見える。
回廊に戻り、本殿に向かうと、右側に岩山宮参道の入口、そして先祖神を祀る祖霊社、水子慰霊社、えびす宮などが鎮座....間も無く、約660年前の南北朝時代に建てられた境内最古とされる南随身門に着く。 南随身門の脇に立ち、南にまっすぐ延びる真屋造りの回廊を暫し眺める。 弓なりに大きく反り、先が見えないほどに延びている回廊....実に雄大で素晴らしい。

南随身門へ向かう回廊の左側に造営されている「結びの広場」にある石庭のような庭園....そこから御釜殿に連絡する回廊(左)が西に延びる

庭園には水車小屋があり、石組護岸の細長い池が設けられている
  
簡素で入母屋造板葺りとみられる水車小屋....水車に水が落とされ池に流れ込んでいる/御釜殿境内に佇むユニークな石燈籠/回廊脇に佇む懐かしい郵便ポスト....この場所に似合わないものだが....!

御竈殿境内の建つ四阿....切妻造桟瓦葺で2面に草が生えた茅葺とみられる庇を設けている
 
御釜殿に連なる回廊....回廊脇にある切妻造桟瓦葺の簡素な井戸

入母屋造本瓦葺の御釜殿(重文)....慶長十七年(1612)の再建で、神社の台所(釜屋)と伝えられる社殿....内部に湯釜があり、阿曽女によって「鳴釜の神事」(釜占い)が行われている
 
御釜殿の入口は格子を入れた桟唐戸/軒廻りは隅扇の一軒扇垂木、組物は出三斗(と思う)で中備は間斗束...頭貫と2本の内法貫の間の全面に連子窓を設けている

御釜殿前の境内に置かれた寛永三年(11626)造立の手水鉢....側面に「清浄水」の刻

「官幣中社吉備津神社」の社号標石が立つ御釜殿境内にある西側の入口

御竈殿境内の入口に立つ石造り明神鳥居

御竈殿境内の入口に建つ切妻造本瓦葺の手水舎

境内西側に広がる神池の中島に鎮座する稲荷社の宇賀神神社
 
回廊からの岩山宮への参道に石造り明神鳥居が建つ....石段の上の木立の間に岩山宮の社殿が見える

岩山宮参道の右手に鎮座する先祖神を祀る祖霊社と水子慰霊社

切妻造本瓦葺の祖霊社

廊脇に建つ建物(舞殿?)....北側に建つ「えびす宮」側が正面

切妻造銅板葺の「えびす宮」....中央に鬼板を乗せ拝が猪目懸魚の千鳥破風....正面は扉を含め全てガラス入り格子窓

「えびす宮」は一軒繁垂木で組物は柱上に舟肘木、拝に猪目懸魚、妻飾は豕杈首

「えびす宮」の右手の切妻造銅板葺の建物は舞殿か?....向拝の破風は鬼瓦が乗り、拝は猪目縣魚、妻飾は狐格子

北側の回廊の途中に建つ南随身門....回廊は安土桃山時代天正七年(1579)の再建で、全長は398メートル

入母屋造本瓦葺の南随身門(重文)....南北朝時代の正平十二年(延文二年)(1357)の再建で、諸殿宇中最古の建造物

軒廻りは二軒繁垂木、組物は出三斗で中備は双斗

本殿側から南随身門を通して眺めた回廊....破風の拝に蕪懸魚、妻飾は文様彫刻を付した虹梁大瓶束、虹梁にも彫刻が施されている

南随身門から眺めた真屋造で本瓦葺の回廊....自然の地形そのままに本殿、本宮社、御釜殿などを繋いでいる
 
南随身門から本堂拝殿までの回廊....片側(西側)が羽目板でガラス窓風になっている/授与所の建物の西端に鎮座する神馬
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